2015年2月27日金曜日

都市部(都会)の外来種と郊外の在来種の目撃談

誇張 胡蝶


私が埼玉県内の都市部に住んでいたころは、数々の外来種に遭遇した。
まず2005年頃に、当時小3の私の両手の平に収まるのかも定かでないほど大きな青いウシガエル(?)の死骸を見つけた。
発見時(早朝)は北浦和公園の人口の川の石の上に座しており、片目を損傷していたが、損傷部を除いてはとても綺麗で死んで間もないものと見られた。
この状態から、元々誰かにペットとして飼われていたものが死後に公園内に捨てられた・・・発見した者達へ見せしめたい意図でもあったのだろうか。
園内に赴いた際は上の弟と一緒であったし、時間の経った頃に犬の散歩の人も増えたため、犬の散歩をしている中年女性2人組みに、この死骸を見せびらかした反応は、少し嫌そうな顔で「汚いから触らないほうがいいよ」との返答であった。
その後、家に帰りたくなった頃合に、近くの切り株の上に置きなおして公園を去った。

続いてこれも2005年頃のこと、家族で新都心のコクーンに行った後、すぐ近くの児童公園(新都心東広場)の横を歩いていたとき、少し距離を置いた場所で巨大な白い蝶(蛾)を見た。
これまた当時の私の両手の平ほどの大きな翅をはためかせて舞っていた。
この蝶を目撃した瞬間に思ったこと、小3ほどの男子なら昆虫などが好きな者も多いはずである、というわけで、この蝶は図鑑等で見た外来種の巨大な蛾の類ではないかと考えた。
その日は帰宅後すぐに、持っていた図鑑とその他参考になりそうな書籍を繙いたが、特別その名を判明させるような情報は見当たらず(後の胡蝶の夢である)。



埼玉県内都市部・・・ことに上記の地域は高収入の世帯が多い(所得水準が高い)ため、外来種のマニアックな生物を買う輩も多くいるのだろう、と2012年頃に推測した。
これが高じて毒蛇などの脱走があれば、何ともはた迷惑な話になる。
脱「走」ではないが、我が家で当時買っていた青いセキセイインコが逃げたこともある。

2005年頃、母親が肩に当該インコを乗せたまま玄関のドアを開けてしまい、直前に私は諫言を与えていて、未然に強い懸念を露にしていたのだが、やはりとも言うべきか、母親がアパートの部屋の玄関の敷地を跨いだ瞬間にインコは一目散に飛んでいった。
これを目の当たりにした私は、すぐにインコの捜索に赴いた。
そのアパートは西側に階段やエレベーターがあり、インコは階段踊り場の大きな穴(穴ではない)を抜け西南西に飛んでいったため(こういう方角は当時の地図を見て大体わかる)、アパートを出て私も西に走った(後の東奔西走である)。
そのまま西に走ればすぐにT字路に差し掛かるが、およそこの時までインコが休みなく飛び続けていれば、もう取り返しのつかない場所まで逃げたのではないか。
当然、この後の捜索もインコなど見つかるわけもなく徒労に終わる。

邪推だが、あの母親は自分で買ったくせに、世話が面倒で逃がしたくて自然を装ってあんな酷な真似をしたのではないか、悪魔が宿ったのではないかと今、思い返す。
ひたむきで無垢な子供心を踏みにじり嘲笑う所業だろう。
我が家で飼われた数々のペットが、2年と持ったことは一度もなかった。
そして、あのインコが今生きてる可能性はとても薄い、誰かに拾われて生き延びていても10歳を超しているからだ。
死ぬまでに誰か人目に晒したならば、目撃者もまた、私が巨大カエルと巨大白蛾を見たときのような感覚を持ったのだろうか。
2006年7月に県都より郊外へ引っ越した暁には、その地で邂逅することも望んだが、そんな奇跡的な話など尚更起きるはずもなかった。



というわけで続いて、その郊外の○川市辺境(通称: 前の家)に舞台を移す。
固有種を主軸に書いていこうと思う。
虫の出来事は無視したい、過去にも書いたからである。
最初の夏は夜に家の光にウジャウジャと多くの虫が集った(クワガタから、トカゲやカエルという珍客もアリ)とか、2年経ってもデカイ蜘蛛が家の内外に巣を・・・毎夏ゴキブリとの戦闘・・・バッタまで家に迷い込んだ・・・
ちょっとした田舎ならよくあるのかもしれないが、家も学校も俺には別の意味で地獄だったのか。

虫のことを無視したところで、話したいことに移ろう。
住んで1年か2年も経った頃、春によく聞こえる耳慣れない鳴き声が気になった。
そこらでカッコーカッコー言ってる鳥の鳴き声のように、気にしても詮無いことだとは思ったが、それでも近くに遠くに、頻りに鳴るそれは、カッコーカッコーよりも耳慣れないので、どうしても実体を知りたかった。
そしてその時が来た、鳴き声と共に盛大な羽音が鳴り響く。
家の北の方でよく鳴る声だったが、その羽音も同じ方角で、該当する部屋の窓から目を凝らして風景を眺めると、なんとも色の鮮やかな鳥が佇んでいた。
それが「キジ」である。

小学生の当時には桃太郎のお供のイメージと、岡山県の県鳥というイメージがついており、まさか埼玉県内にいると思っていなかったため、驚きも一入。
実際にキジは日本ひいてはアジアの普遍的な鳥であるから、日本でも少し田舎ならおよそ全国広域に分布している。
そうと知るのはずっと後の話だが、それでもこの時に何となくその片鱗は覚れたようだった。
キジではなくもしクジャクだったらば、上述の「外来種脱走・開放」にあたるだろう。

このキジは春、求愛の時期に多くお目にかかれた。
よって、その時期には雌雄ペア(メスの方が文字通り地味な色の体)で見かける時もある。
されども、それ以外の時は鳴き声は勿論、お姿の拝見さえ一度だって叶わない。
多くの時期は、どこに奴らが潜んでいるのだろうかという疑問が大きかった。
ここで一句(一首)。
「つまごひの きじのすがたは しげけれど ふけにけるとき いづくにかおはす」
その時期であれば、家から離れ背丈ほどの雑草ばかりの地(湿地帯?)にて鳴き声がよく聞こえる。
その時期でなければ、そのような地に息を潜めて密かに営んでいることだろう。



キジの話終わり、野鳥の類いはカモくらいなら前の北浦和公園や都市部の河川にもおり、○川市では田んぼにシラサギやアオサギなどもいるが、どこかから放されたであろうウサギを二羽、中1の頃に家の近所の神社の林、車道のすぐ近くの場所に群れているのを見た。
林の奥なら安全だろうに、ここは疎らではあるが車が傍を通る場所、だがその故に私はこうしてウサギ二羽に相見えたのか。
家が近いということですぐ人参を探しに行ったが、生憎人参がないため長ネギの青い部分を切って与えてみたが食べてくれなかった。
ウサギの外見は片や真白だが所々汚れており、片や白に黒であった。
捕獲を試みたが、私が素手で捕まえることなど不可能であった。
なので潔く諦め、翌日には当然その場所にウサギなどなく。

朝露と共に消え行く夢幻なのか。
否、夜半の刻に月へと召し出されたのか。

他に、十数羽のニワトリの群れを小6の頃に見て、最初は下校中に通学路のどこか駐車場に群れていたが、日を追う毎に羽数が減っていった。
はじめが数えたときに14羽ほどで、最後には数羽の群れに減った。
家畜化された種が自然で1ヶ月でも生き延びるのは少し難しい。
品種については当時の知識でシャモとかチャボとか思い浮かべたけど、どちらでもない。
どのニワトリも全身は白で所々黒に近い斑点があったと思う。
出所については、目的が不明なニワトリを雑に飼っているキチガイ現場があったが、あそこなのかもしれないし、他にも飼ってる場所があるか、或いは遠方より不法投棄か。



結局、少し郊外で自然が豊かなくらいでは、都市部で滅多に見られないものの同じ田舎なら全国どこにでもいるというものばかりっぽい。
よほどの山奥や離島でもないと、珍しい種や野生動物というものはいる感じではない。
舞台をこのやや田舎に移しても、「人の手で離された動物の話」になってしまった。
嘗て聞いた話ではタヌキだかイタチだかを見かけた者がいたが、俄かには信じ難い。
逆に都会だとハクビシンが有名で、多摩の方の山を追われて23区と近隣に蔓延った種であるが、稀に私が住んでたさいたま市近郊にもイノシシが下るそうだ。
埼玉県内ならアザラシの時もあったと思うが、それは玉じゃなくて多摩川か?
同アザラシは一応、荒川にも出たそうで、他にも荒川には2011年に・・・。

ちなみに、今住んでいる豊橋市内はというと、あまり外に出ないから経験が殆どない。
以前夜中に河川敷へ散歩した際、川に白鳥のような大きな鳥が一匹鳴き声を上げて飛んでいたという、曖昧なものならあるけどね。
2014年4月の散歩ルート上のお寺の墓地に、傍の林から蜂がわんさか横行していて、あわや刺されそうになったのも、さながら「墓に踏み入るな」という警告のようだった。
墓参りの客でもない私を追い払うかのような光景だったのでそそくさと退散した。
危険な蜂なら豊橋にしろ前の埼玉県内にしろ、都内の住宅街にしろいると思うけど。

まさに蛇足→水ない田んぼに大ヘビ、通学路には轢かれた子ヘビの死骸。



追記:2月28日16時
本日14時、この記事トップに白い蝶の参考イラスト画像を掲載した。

新都心の話をしたが、本日は2020年東京オリンピックのバスケ会場がさいたまスーパーアリーナに変更されたと、IOCより声明が出された。
予てそのような議論がされていたが、私にとり、この度またも埼玉が勝ち取った栄光の便りに歓喜が込み上げ、この豊橋より心からの祝福を申し上げる。
当該競技の世界選手権の開催実績があり、大人数を収容できるスタジアムは、SSAを除いては国内に断じてあるはずがない故に、新設の是非が今まで取り沙汰されていた。

埼玉県内は既に川越・朝霞・緑区に2020五輪会場があり、4つ目になるが、東京以外だと札幌・仙台・横浜にサッカー会場しか決定してない中でこれは突出した保有数となる。
故郷・埼玉の輝かしい躍進には、埼玉を厭って離れた輩も指を咥えることになりそうだ。
後の願わくは、巨大災害の被害が現地に禍根を残さぬよう・・・

素直に喜ぶべき吉報に違いないが、このような対外的評価が近年強まって転入超過数が全国2位の好調を見せているのに、行政の開発手腕があまりにも鈍いことが重い足枷で、ただ単にベッドタウン・首都圏一極集中のおこぼれみたいな現状は手放しに喜べない。
難航していた大宮区大門町の複合ビル計画からNHKさいたま放送局の移転撤回など、聞くに堪えないニュースも、つい今月の話であったからだ。



2015年2月21日土曜日

母を鑑みて「薬剤師」は一番就職しやすい資格ではないか。

母親は2013年末にガン治療を理由に仕事をやめてもすぐ再就職したり、2014年7月には牛久の祖母の介護を理由にその職場もやめたが、仕事を探し始めるたびにすぐ新しい職場を見つけて再就職している。
今では、豊橋市内この郊外の住宅街にあって、車で1キロ半ほどのドラッグストアで働いているが、14年7月まで勤めていたところでさえ5kmの道のりがあり、家のすぐ近くに仕事が見つかることが、この時代にして恵まれてるように思う。

若い頃に数年薬学を勉強すれば、その後死ぬまで"この社会では"職に困らないということだと思える。
特に私の母は短期間で職場を転々としている(2008年まで北海道紋別市、2009年まで兵庫県姫路市、2011年まで豊橋市内東部に住んでいて、今の住居でも先述のように最低2度転職)ため、職歴などから「この人は長続きしない」と相手に思われて断られる可能性もありながら、事実今ではごく近所に勤めていることから明々白々だ。

やはり「としこおばさん」様のご指導の下に進んだ賜物。
正しい慈母、師匠にありつけてよいことではないか。
このことは正に「一生の宝物」という奴だろう。

なお、母親自身が「としこおばさんが育ててくれて、あんたに育てられた覚えなんか一度もない」とはあの牛久祖母(14年3月22日転居8月施設入所)へ主張し、「仕事なんて探せばすぐ見つかる」とは私に10月頃、得意げに力説したこともある。
後者については改まって言われずとも承知しているのだけど。



就職や職業云々の話題はあまりしたくなかったが、メモ帳記事の更新が一週間以上疎かになっていたので、とりあえずこのような記事を投稿するはこびとなった。
本日2月21日、土曜日であるが、いつの職場の時だかと同じく、土曜日は仕事がある。
逆に平日は月曜日だか水曜日だか定まらない休日があるが、内実を私は存ぜず。

私の研鑽には医療の専門知識(ことに難解な横文字系)は抵抗があり、今のところ視野に入れていないし、就職とかなんだで資格とろうとかという気も毛頭ない。
ただ、近頃下痢に関連して某所では医療方向の投稿頻度が多い。
今、学ぶべきことは相変わらず、言語・宗教・歴史などの文系三すくみ。

「世俗の名利」に直結する就職等の世渡り方面の選択肢など、最初から断っているし、学びたいように学ぶだけだね。
父宅の弟が一人で遊蕩三昧なことより、慎ましく独学する私のなんと清廉なること。
誰人の謗りも嗤いも意に介さず没頭する意志こそ薄弱なれども、次第にか強まらん。
侍りて教う師に欠きたるは一抹の憂き哉。


ついでに職業観について一つ。
上記の「安定性・待遇」に憧れ薬剤師にならんと志す、これはいけない。
こういう野心の者が蔓延ればいわゆる「職業の形骸化」の一要因足り得る。
職業にはもっと清廉な意欲と使命感が不可欠だろう。

「子供が純粋に好きで、教えたいから教師になりたい」等が「清廉な意欲と使命感」である。
この気持ちがなければ「職業教師」・・・「職業○○」という皮肉の言葉がある。
この気持ちを誤るか、そもそも下心ばかりで望み、担当の児童や他所の未成年に欲情して卑猥な行為に及ぶ不逞の輩が多い状態は周知の通りである。

薬剤師の場合、どういうものが清廉な動機なのか判然としないけどね。
うちの母親は、恐らく「としこおばさん」に諭されて薬剤師や医者など目指したのであって、己が望んだ道筋ではないと思われる。
私と以前口論になったいつの日かに、そのようなことを話してきた記憶がある。
幼い頃いじめに遭って不登校にもなったなどとも自白したため、としこおばさんがいなければ、私や上の弟のように高校にさえ進学することもなかったのではないか。


どこで書くか迷ったので最後に蛇足。
薬剤師の母は、しばしば職場の健康食品などの試供品をくすねている。
まあその店舗から試供品を仕入れる資金を支出して、尚且つ以前は店長を務めていたこともあり、当時なら自分の売り上げを仕入れに賄っただけだと思えば特段ドロでもないけど。
他、薬剤師の待遇は、製薬会社等から社名・薬品名が入った筆記用具(ペン・メモ帳・クリアファイル)などが無料で配布されている。
私がよく絵の記事を本家で投稿しているが、描かれた紙も実はこれらのA4メモ帳(名称不明だが、多くの会社が出している。Writing Padなどと呼ぶ会社あり)。



追記: 2016年12月19日
とある話題に関連して過去投稿の一部をまとめることにした。
某サイト仕様の狂いで本日の数日前に某サイトコンテンツ上から消えたと思われる、2015年7月27日の投稿を引用する。
コピーサイトが辛うじて見つかり、どうにか確保できて一段落だが、なお理不尽に思った。

半・薬剤師の母親が服する薬は、同じ種類であっても買い換えるたびに違うものを選んでおりますが、これは確たる知識に基づいた選択でしょうか?
例えば母(49)はこの数ヶ月ほど、中高年をターゲットにした漢方薬のようなものを飲み続けていますが、主に防風通聖散の類、ナイシトールの3種類を順次飲みきっては買い換えていき、次に今週からコッコアポLという防已黄耆湯の類に手を付けています。
母親の人間性としては、大学卒業以来の定職にも似た薬剤師の仕事は転々とする傾向がありますが、夫婦別居の2007年以降、ことに愛知県内に移住した2009年以降は入退職を続け、今は2015年3月より再就職の意向を薄くしながら過ごしています。
健康食品(青汁は例外)の類も、上記漢方・生薬系統の市販薬と同様に一貫性無くコロコロ変えておりますが、薬剤師の職業にさしたる望みなく単なる商売道具としか思っていない人でも、確たる知識に依拠してこのようにコロコロ変えているのでしょうか?
他の薬剤師や薬効の知識のある方々も、自分が栄養補助製品だとかを試すばかりか、本格的に服用し続けるにも、同じ製品を飲み続けないようにしているものでしょうか?
もしそのような場合、その「確たる知識」の正体もお教えください。

当記事注: 一応、この当時から、同じ成分だとか同じ成分の組み合わせの継続摂取が効能を漸次弱めるという「老化現象(仮名)」を認識していたが、母の飲用する医薬品・サプリメントについてはその限りでないことを念頭に置いて執筆した。

上に見る状態が2015年中にあったようであるが、2016年6月は脳神経外科の通院で処方薬(漢方・ツムラ製の加味逍遥散と芍薬甘草湯)も得ている(6月2日・7日のメモに画像付きで記録)。
また、本日2016年12月19日の動機に至った話題とは、母親の知的障害の弟に対する抗精神病薬の投薬行為と、世間一般の在り方についてである。
2016年12月中に興味深い統計とニュース記事が出ている。
ニュースソースから引用すると、『(調査の)対象は知的障害がある3歳から17歳までのおよそ2000人で、調査の結果、全体のおよそ13%に抗精神病薬が処方され、15歳から17歳では27%に上る』というものである。
私の母親が知的障害の弟に対して抗精神病薬の処方を認めている様子を最初に記録した2016年9月2日の日記メモに長文の追記をした(ニュースソースを複数提示してある)。
母親の薬剤師という肩書を軽蔑・嘲笑するかの如き内容ではあるが、何よりは自他不二の慈悲を根幹としている。


2015年2月12日木曜日

逆五芒星がどうしても左上が先頭に見えるので修正


昨日、逆五芒星"Inverted Pentagram"の意匠を楽曲のアートに用いた


左上の先端から発してるように見える雰囲気で、残念。
真下に向けた方が見栄えがよいかとも思うし、それも不満なら他に任意の方向でも試す。
昨日は活動関連など忙しく、早く済ませたい気持ちから逸ったため、違和感を覚えたところでこの問題を解決する気にならなかったわけだが、今日はゆとりを持って臨んでみる。

円形(360度)の中に五芒星。
360の上に均等に配置された5つの点の1箇所より、隣の点を飛ばした2箇所に線が伸びる。
この構造を理解すればすぐ数式が組まれた。
360/5=72, 72*2=144度左に、72*3=216度右に回転させればいい。

AviUtlで編集してるが、初期値0はゲージの中心点。
両端にかけ360の数値が振られ、通過する数字は実に360*2*100(小数点第二位まで刻まれてるため)=72000もある。
左端が-360なので、仮に左回転をしたい場合は"-144"と入力し、エンターキーを押す。
上のアートで用いる場合、左に私の影を立たせているので、放射は真下より右端からの方がより見栄えがよいのかもしれないが、これ以上の再現検証に気力はない。


實數講、小学校の算数の応用でしかなさそうだが、実用性は秀でる。
前回のじっすうこう記事はMIDIファイルの扱いで、今回は画像作成・動画編集ソフトの扱いまで説明しているのだが、本当にアマチュアクリエイター諸兄に実用的な記事が増えるね。
實數講の名称、毎度旧字体に変換する労力は無駄っぽいし、辞書登録も億劫。
次から普通の字体「実数講」でいいと思う俺であった。

並びに、当メモ帳では近頃の記事において画像を付する割合が急上昇してる。
本家ブログと違い、気兼ねない投稿を売りにしてるのに、毎度画像を付けねばならない責任感が増えてしまうとこのポリシーが崩れてしまう。
画像付き記事の投稿もほどほどにしたい。


2015年2月11日水曜日

八百年(やおとせ)の時を経て、今に至れり。「五濁悪世」

http://masashi.doorblog.jp/archives/42623613.htmlの内容と並行しているので参照。



約800年前の時代、あるお方は12歳から30歳ほどまで研鑽を続け、30代半ばで中心的な悟りを得た。
その恩恵を日本中に遍満させるよう生涯、身魂を尽くして努めた。
それから比べると、未だ18歳の我が身では結論を出すに時期尚早である。
故に、もっと長い時間の研鑽が肝要なことで、並びにその研鑽が支えられる必要もある。

そのお方だって、数多の迫害に遭いながらも食料など支援を受けていた。
艱難辛苦の境遇の中でも、最低限延命の道を保障されていたとうことだ。
今の時代なら、譬え愚物たりと雖も人間の生活は保障が政令に敷かれている。



また、戦前などに新興宗教が続々と勃興したわけだが、その内の一つのとある教団は、元々教育者が集結して設立され、今では裏社会を牛耳るカルト扱い。
その教団の設立の背景としては、明治・大正時代に多数の文人を輩出した別の教団への羨望があり、共にこの約800年前の時代の人物の教えを基盤とした教団だ。
私にしてみても、私の教えから優れた人材を創出したいと思う。
現代の「五濁悪世」で、活力に満ちた時代の気概が成し得た業を真似できるのかね。

更に、とある教団のように規模が膨張すれば、その分に教祖の意に反した破廉恥を仕出かす輩も蔓延り、教団そのものと教祖含む全ての構成員のイメージが卑下される元凶を生む。
指導者たる者、それを防止する采配なども問われるのだろう。
実際に、その戦前某教団は「3代目会長の代から方向性が狂った、違う教団になった」と古参の者達が嘆いたようで、人により悲惨な顛末だともとれる。
・・・2代目会長の時から過激な勧誘活動(他宗の仏壇や神棚など破壊)してた時点で、前後の相違点なんて客観的には感じられないと思うけど。



約800年前の時代の人物は今でこそ聖人扱いだが、人為的な迫害にも晒された。
私もただ修行と研鑽だけに没頭できるかといえば、豊橋の災害だとか親族の死別だとか人生で同じ家に5年住んだことがないとかの色々な問題を抱えているし。
言葉通りにことが運ばれるかというと、ノーの方が強い。
かの聖人であれば、荒唐無稽な逸話で「深夜に斬首処刑されようとした時、空が強く光って執行人の目が眩み、全ての兵が怖じ恐れた為、殺されずに放された」というものがあるが、このことから「聖人なれば非業の死に歿せず」とされている。
「無碍(害が無いの意)の仏道修行や弘法が天に保障されてる」とも言う。




2015年2月6日金曜日

飽くなき探求心と弛まぬ研鑽「しょうゆ」

スーパーの弁当についてる醤油の小袋に「しょうゆ」と書いてあるだけで知的興味が沸く。
近頃は古典などを学んでおり、しょうゆの仮名遣いは「せうゆ」か「しやうゆ(しゃうゆ)」かと即座に疑問を持ち仮説で「しやうゆ」が語感としては正しいと仮説を立てた。
そして調べたところ、「しやうゆ」こそ正しく、「調味料のさしすせそ」の「せ」に列せられる「せうゆ」は何故か浸透した誤用だそうだ。
(「せ」に該当するものが他になく、考案者が便宜的に改変して混ぜたとも言える)

どちらが正しいかは答えが出たが、ここで私の探究心は止まらない。
語感で「しやうゆ」が正しいと思ったのは経験則からの推定だ。
合理的な理由があって然るべきところ、どうも私が求めた答えと異なり、「醤」の字の成り立ちから「せう」よりも「しやう」が正しいというものだ。
(呉音の"you"と漢音の"ei"について2月27日、例えば「小」や「少」は「せう」で、「嬢」や「情」は「じやう」になるなど色々調べて法則を見出したかったが、まだ理解に及べず、例えば浄の呉音"ジョウ"に対し漢音は音符「争」から"ソウ"と推理するもなぜか"セイ"であり、醤は呉音"ソウ"で状は漢音"ソウ"とあべこべだったり、法則などない、が暫定的な結論)



結局、確固たる判断力は、一朝一夕、少し調べたくらいで身に付くものではない。
それで得られるほどに生温く生易しいものでないのだろう。
故に弛まぬ研鑽の姿勢を固持せねばならないことが信義ではないか。
崩さず継続したから、今まででは浮かばなかった疑問も浮かんだのだろう。

調味料云々は一般人でも知ってて小学生でも表面的に理解できるだろうが、前提知識がないから「そういうもの」と深層の理解には遠いものでしかない。
私は今、新しい段階の疑問を持てたが解決に至らぬという流れの通り、階段式で高度にステップアップし続けている。
並びに研鑽を継続すれば解決に至る日も来るのだろう、階段を踏み上がる如くに。



この件をはじめ、古典等の研鑽では生存するリアルタイムの世代に学ぶことは尊い経験になるが、現代を生きる者だと例え人脈広かれども困難だろう。
歴史にしても、結局実際に現場にて肉眼で捉えた者でない後世の者が軽々しく語るのも、なかなか恥ずかしいことだと思うこの頃。

言語も歴史も、当事者の文言に誤謬や虚構があるならば、お終いだと思うが。
特に歴史は、当事者を詐称して情報操作(歪曲)を恣に操らんと目論む不逞の輩さえ多い。
不明な一個人を情報源にすること、ネット等で客観的な情報収集をすること、是非は如何に?



当記事を以て「言語カテ」から「国語カテ」を分立させた。
「国語カテ」は文字通り日本語、「言語カテ」はその他、日本語と外国語を並列に扱う記事は両カテ兼任ということになる。
今後、もしも漢文についての記事を書くことになった際、中国の古典が主軸であっても一応は「国語カテ」にするのではなかろうか。

やはり膨大になると細分化で整理したいとは思う。
当然、同カテ傘下の既存の記事にも改正変更を施行した。
なお、新カテ名の案で「日本語カテじゃいけないの?」という気にもなるだろうが、カテゴリ(ラベル)一覧は、当ブログでは漢字二文字で統一しているため、それに準拠させた。



追記: 2015年8月15日

当記事の「醤油(せうゆ・しやうゆ)」について記事執筆時に見たWikipedia記事「許容仮名遣(oldid=42354315)」の記述は、当時深く理解するに足らないものであったが、ここの記述の要点は「日本で初めて仮名遣いに表記されたのがそうであるから、そういうものなんだ」ということであり、「それではなぜ当時"せう"より"しやう"としたか」という点が、音韻の上から明かされはしない。
また、実際に当時の日本人が聴いた音をそう表記した、というならそういうものだと、私も受け止めることにして、それ以上の理解は必要ないこととなる。
呉音・漢音というのは、日本人が古い時代に当時の漢字の発音を聴いてどう捉えたかの点が大きいわけで、伝えてきた人や国家による差もそれなりにある(漢音のような発音の地域と呉音のような発音の地域が同時代に混在することもあった)。
それを更に、当時における発音の表記で表したものが「歴史的仮名遣い」と称される。

その上から「醤油(しやうゆ)」の「醤(醬)」という字はなぜ旧仮名が"しやう"であるかといえば、現代中国語や韓国・朝鮮語で「ジャン(チャン)」という発音がされることから推定ができる。
この「ジャン」は中華"jiang"、朝鮮"jang"という綴りであるが、現代日本でも単に「ジャン」、あるいは「コチュジャン」などといった調味料の名でその読み方が知られる。
"jiang"か"jang"に類する発音を、上代・古代の日本人が聞き取って表音文字に転写すれば、先の字音仮名遣い・歴史的仮名遣いの"しやう"となる。
"jia"や"ja"は「ジャ=しや」として、「"ng"=軟口蓋鼻音」はその字音仮名の特性上、"う"とされるため、歴史的仮名遣いなどでは"しやう"となる。
まったく、ウィキペディアンほか多くのサイトの人間は、「歴史的・伝統的」ということ固くて融通の利かなそうなことばかりに念を押さず、私のように音韻学上の理論から噛み砕いて説明すべきものと憤懣やるかたなく思う。

歴史的にも中国の韻書などを閲覧した日本の国学者(本居ら)が、その音韻学上の理論から字音仮名遣いを定めたのではなかろうか?
その時、「しやう(相・正の呉音など)」と「せう(小など)」は峻別されて記されたと考える。
そして、「せうゆ」が誤用であるよりは当時の発音と表記の一般性に準拠した便宜的な仮名表記(「調味料のさしすせそ」も同種)とも理解できる。



ここ1ヶ月ほど、「中古音・上古音」に目を向けている。
初めは、海外の専門的な書籍にしかしっかりとした情報が載っていないものと諦め気味であったが、その「海外」というところから、普段見るWiktionaryを中国語版・英語版などに変えて閲覧すると、普通に中古音・上古音が載っていたりする。
その中では「信楽(しんぎょう)・愛楽(あいぎょう)」という「楽"ギョウ"」という仏教流の読み方の答えも見つかる・・・と思ったが、知恵袋の方のお答えになった中古音の内、「」Wikt中華を見ても"lak"のみの一致という点から、Wikt中華の情報は中華音韻研究者Bカールグレン氏の書籍以外を典拠にしているのだろうか?

有名な「蝶"てふ"」が表される元が子音が"p"で終わる、某知恵袋ユーザー流に言うと/tep/という発音の仮説を元に英wiktを見ても、中古音・上古音は載っておらず、かわりに広東語"dip"や朝鮮"cep"・ベトナム"diep"等のロマナゼにあるよう、-pの子音で結ばれていることが分かる(英wikt「蝴蝶」の記事では中古音として"dep"と記され、実際の発音が清音に寄れば"てふ(teph=teφ)"として昔の日本人が聴けなくもない)。
この-pが、歴史的字音仮名遣いにおける"○ふ"を構成する多くの元となっている。



それはよいが、中古音・上古音といった古い時代の音を求めるにあたって、この二つの名を知らない頃は、日本版Wiktionaryの漢字記事で中国各方言や朝鮮・ベトナム語の発音などを参考に想像していた。
それらには、幾分、日本の漢音・呉音と通じたり、古い音の形が残る例も多いからだ。
日本に慣用音という音読みがあるように、現代のポピュラーな中国語は、発音をあらぬ方向へ変えてしまうこともあるらしい。

例えば「癌"yán→ái"」という字がそれに当たるが、全容はリンク先を参照されたい→http://id.fnshr.info/2013/03/17/yanorai/
ところでこの「癌"yán"」は、先述の「楽・樂」と発音に共通点がある。
元々上古音ではどちらも"ŋ=ng"が頭文字の子音であり、日本語でもガンとかガク(ラク)などと読んでいるが、それが現代の中国語では「楽"yue"」や「癌"yán"」といった調子だ。
"ŋ=ng"が"y"に置き換わっていることがわかる。
どういった理由・経緯でこうなったかはっきりしないため、学者の見解を求む。

ギリシャ文字の小文字ガンマ"γ"は、どことなくY字に似ており、発音は英語のGに相当するのだが、YとGは何か音に類似点があるのだろうか。
日本語・英語でYa・Yu・Yoと発音されるものは古くはドイツ語・ラテン語などにあるよう"J(後にIとも)"で表記されていた(イエス・ユダヤ・エルサレム・ヤーパンなどの表記を見れば分かる)。
音のカテゴリ分類表を見たのだが、その"γ(有声軟口蓋摩擦音ɣ)"と"J(硬口蓋接近音j)"のカテゴリは近いようで遠いのか、判断が付かなかった。

2015年2月3日火曜日

臭くないのに、気になる・不快に思える臭いの原理

私が部屋に置いているトイレットペーパーの芯から、数ヶ月食べずに残してるガムと同じような臭いがした。
ガムを残してる理由がわかる過去記事→http://lesbophilia.blogspot.jp/2014/11/blog-post_99.html
この芯は元々香りつきの紙に巻かれていたため、甘い臭いが芯の内側についていたはずなのに、今ではガムの臭いが移ったというのか。
それほど近距離に置いてたり、芯の内側にそのガムを入れたわけでもない。
特別、そのガムの臭い自体は生理的嫌悪感を催す類ではないが、不快に思った。

このようになぜその臭いが不快に感じるかは、第一に原因が不明だから。
その臭いがするはずもないところからその臭いが出るというのは疑問を覚えるもので、良からぬ事態も想起させる。
実際にこの感情に合致する著名な事例がある。
カップ麺類の異臭・健康被害騒動では、現在も日清の製品をはじめとする麺類の注意書き、保存方法の記述に「移り香」への注意喚起が付加されている。
異臭どころか臭いを移した元凶の防虫剤成分による健康被害がある点はズレた例かもしれないが、民衆の心理においてこのような大事に顕著化することもあると補足したい。



原因が特定されないものとは、得てして不快感を催す。
発生源の不明な異臭を知覚すれば、いつも嫌悪感を催す。
甘い臭いは、果物の時もあれば洗剤・芳香剤等の香料の時もある。
状況にそぐわない臭いは、一様に「異臭」である。

そこに有るべからざる「異質」の存在に警戒を覚え、果てに排除することが本能に刻まれる。
排除する必要がない場合は寛恕すると思うけど。。。
人間の文明から動物の群れまで、「異質への警戒」というものは多くの知的生命体の社会でこのような例が多数ある。

個体の免疫機能だって、異物の侵入には顕著な反応を示すが、これが自我をも脅かす副作用・・・というと下痢や咳などが理解に易い。
こういった症状も自己防衛の結果である。
この異物が細菌やウイルスなどの病原体であれば、自己犠牲の対価足り得る効能だが、時として食物などにこのような反応がある場合アレルギー等、実に忌まわしい病気とされる。

件の異臭と、この免疫機能には特別結びつきがない。
率直に言えば、後者は引き合いに出した例で、ただの余談である。
余談としてもう一つ書かせてもらうと、某ラップは生のシイタケみたいな臭いがするが、ラップからそのような臭いがするのは極めて不可解なため、「異臭」である。

原因不明の異臭、ひいては異物というものに警戒を懐く本能とは如何なるものか説いた。
この異臭を嗅ぐに伴う嫌悪感と、その原理については今まで幾度と同じ結論に至ったのだが、今回は折角だから記事にすることとした。



またも関係ないことになるが、この記事原文は1月31日に書いた。
ここまで書いた今、そばを作ってる。
最後にそばを食したのはいつのことか。
それを思えば、丁度1ヶ月時期が遅いと思う、1ヶ月遡れば大晦日・・・
2014年末は年越しそばを食べなかったが、2013年もである。
2012年についてはカップ麺のそばでも食べたのだろうか。
1月のつごもりにもなって食べるとはまさしく「月越しそば」である。
月を冠する上では、月見うどんのように卵も添えてもいいだろう。

月越しそば

材料は水以外全てトップバリュのものであるが、家計の背景等は過去記事参照。
http://lesbophilia.blogspot.com/2014/10/pv.html

2015年2月1日日曜日

「心理学」について私的に分析する

心理学とは、世間で肯定的にとると、大概は女性が恋愛云々で弄している印象だ。
一方、専門的な側面で多くは否定的にとられ、風当たりが強い。
例えば、精神病理は曖昧模糊であるとされ、また精神病と看做された者の一部は「精神科医は悪、藪医者だ」、「統合失調症などは存在しない病気だ」と反駁する。


措置入院

※上掲画像は教育目的の引用です→後年Googleの機械的な検出・検閲の実害が及ぶようなので非表示にしました※

病名への懐疑は、1970年の漫画「光る風(作: 山上たつひこ)」でも扱われる。
これは以前も度々取り上げた漫画で、小6の頃に初めて読んで万事衝撃を受けた漫画だ。
「ちくま文庫版, 下巻, p. 10」で、主人公が精神病棟という名の刑務所へ収監される。
その時に、女医が主人公を即決で「妄想型分裂症」と診断するわけだが、主人公は不服に思い激昂する。

この漫画の作品全体は非現実的プロパガンダとの罵声も強いが、作者は実に見識が高く、裏社会の事情にも精通した慧眼の持ち主と、不肖の身たる私は謹んで判ずる。
造詣の深さには終始感服するが、作品背景も今から四十余年前に下ろされたものだということも加味すれば、その感嘆は一層強まるのだ。
初めて読んだ遠い日の私は「キチガイ、グロ、鬱ストーリー」の新鮮さに驚嘆したが、今自身の知識が増えたままに読み返すと、全く異なる方向で新鮮さを覚えるものだ。
なんとも感慨深い・・・、この作品に小6にして出会えた私は、父親への数少ない感謝の念が増えることになるが、当然実物は前の家に置き去りで手元にない。

作品の感想や私情の類も早々に終える。



精神病理学とは"Psychopathology"で、心理学とは"Psychology"である。
"Path"が病気に関するギリシャ語根である。
どちらも接頭辞"psycho-"がある。
言語学的見地では疎通する要素があるということだ。
両者の英単語は、"Path"があるかないかの違いとなる。

諸君でもよく聞く「サイコパス"Psychopath"」という言葉はこれが由来だと思ってくれればよい。
"Psych"というギリシャ語根もまた、サイキックとかサイコキネシスなどと聞くだろう。
何かの作品で、魔法の能力などは精神や知性が高いことと因果関係が強く結びつくように描写されるだろう。
概して魔法や超能力等は、この息=精神"Psyche (プシュケーかサイケかサイキか)"が超越的という必要がある。



精神科をはじめとする医療機関とその従事者についても、学ぶことや行うことは、調剤でもない限り通常の医療関係と比べて医学の性質はあまり高くはない。
心理学が社会系の学問であるように、精神病理というのはその社会系に医学の毛が生えたくらいのもので、心理学から派生したものだと捉えた方が近い。
よって、冒頭のように藪医者と評されることも多いが、これについては彼らが精神病の診断で社会的な損害を被ったこととも関連する場合がある。
彼らの主張では、医者がぼろ儲けをしていること、向精神薬は覚醒剤などのように法で禁止された危険薬物と同種の代物であることを挙げており、更にこの藪医者の診断で、身柄の拘束=精神病棟への不当な措置入院まであり、「巨大な陰謀の思う壺」であるとも唱える。
実際に上部の引用画像の漫画1ページで、それを如実に物語っているだろう。

精神病理についての話が過ぎては、表題の「心理学」から逸れてしまう。
心理学のカテゴライズは上述の「社会系」でもあれば、哲学の方向にも通じるのではないか。
そして心理学というのは学問的なものより、日常で重用されるものだろうと感じた。
精神病理への興味は小学生の時から→http://masashi.doorblog.jp/archives/37633882.html#toshitsu

この学問が学術性よりも、権勢を強めていけば、病名という名のレッテル貼りで以て相手の尊厳を貶め、高じては上記身柄の拘束等、自由の束縛にも持ち越せる。
その人物がショックの余り自殺を選ぶならば、バレない殺人の完遂、と彼らは言う。
悪巧みする上で世渡りの武器として用いられる可能性も増えるかもね、と結論付ける。

心理学も、俗に流布されれば、邪推等に悪しく濫用されるのではないか。
俗用の範疇であってもなくても疑似科学の側面は、まだ強く残っている。