2018年6月11日月曜日

語源考証の試案「はかない(はかなし)」・梵語(由来の漢語)の日本語への影響

和語「はかない・儚い"hakanai, OJ: *pakanachi"」の語源を考察する
はかない=はかりが無い…これに2つの語義を想定して成立の順序を仮定する
語義①「おろかな(浅はかな?)」 語義②「無常な」



まずは、「はかる」という意味を持つ漢語や、漢訳仏典の元の梵語(サンスクリットなど古代~中期のインド系言語)を確認したい。
漢語・梵語、特に法華経(妙法蓮華経)や維摩経などの漢訳仏典が上代日本語・文化の成長に大きく寄与したという前提(聖徳太子述とされる7世紀前半の法華義疏など)に基づく。
筆者による過去記事を要約する。
度・量・推・測・計(および図・画・劃・謀・慮)  「物をはかる、心をはかる」
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/09/hakaru-mita-pramana.html

現代日本で「」は「ド "do"」の字音で「はかる・はかり」という意味に用いられているが、「忖(そんたく sontaku)」という語が政治の話題などでしばしば聞かれるよう、「はかる・はかり」という意味は本来「タク"taku"」と読む。
同じ読み方の語句「度量(たくりょう)」とは、妙法蓮華経方便品に「尽思共度量 不能仏智」と出ており、梵語原典では"yathāprameyaṃ mama buddhajñānam"とある。
yathāprameyaṃ (ヤタープラメーヤン)の中に"pramā प्रमा = pra- (前に・前方へ) + √ (動詞語根・はかる=推量・予測などの意味合い)"がある。
「度量」の異なる原語→"praṇaṃ, √grah, sumāpita, parigaveṣyamāna"
現代の日本語で「度量」は「どりょう」と読み、「心の大きさ・懐の広さ」みたいな「心のはかり(タク)」という意味で用いているが、本来は「たくりょう」と読むべきことであろう。
先述の通り「度(ド)」という字音は「わたる・わたす」という意味で用いるためである。

※孫子の兵法にも「一に曰く(たく)、二に曰く、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝 (軍形第四)」とあり、もちろん「度(たく)・量(りょう)」とも、何かを「はかる」意味となる。度と量との意味の違いは何か?「度」は先の※注釈や後の※注釈にあるよう「尺度」の意味が強く、「尺(ものさし)」による視覚的な大きさなどを「はかる」という意味か。ここでの「量」は数に通じるものか。世の解釈では、そのように「場(戦場・国土?)の広さ・距離を度る」、「物(武器や兵糧?)の多さを量る」とするらしい。戦闘前の計算・計画段階で、優れている人は初めから勝利が決定していると。この軍形篇の前は「謀攻」という名であり、それも「謀(む・ぼう)、謀る・はかる」という日本語になる。

※「度」の「尺度(測量するもの)」としての漢語使用が維摩経に出ている。支謙・鳩摩羅什の二訳に「非(度の測る所に非ざるなり)」と。梵語では"tulayituṃ"とある部分に「尺度」の意味を持つ動詞語根√tulや名詞tulāが含まれている。なお、以下の話題に関連しそうな「非意所(意の図る所に非ず)」という一節が、「非度所測」の前にある。こちらは"acintya (不可思議)"のような"cintayituṃ"として梵語にある。梵語を引き合いに出すとキリがない。漢語でも、表題に「図(圖・はかる)」の字を加えなかったが、今はこのように雑多な注釈を以て語ってしまう。

先ほどの"pramāna"もとい"pramā = pra-  + √mā"の√māという動詞語根は、主に「」と訳されており、漢訳仏典の漢詩・韻文・偈の便宜上「度量(たくりょう)」などとも訳することが上記の例(尽思共度量 不能仏智)である。
√māを含む梵語・サンスクリット語句ならび漢訳語句を挙げると「anumāṇa・比量」、「apramāṇa・非量・無量」などがある。
いわゆる「四無心」という語句も"apraṇa-citta"と表現され、「4種類の『はかりきれない心』」を意味する(4種類とは慈・悲・喜・捨のことだが無量について解釈を変えると慈・悲・喜・捨の心が瞑想などの修行によって無量といえるほど大きい状態・平等・普遍であることを意味する)。
「無光」という漢語は"amitâbhā (阿弥陀仏amitābhaに用いる)"と"Apraṇâbha (第二禅の光音天に準ずる光天apramāṇābhaに用いる)"とに分かれる。

妙法蓮華経・如来寿量品に「校(ぎょうけ)」という言葉がある
「校」とは会意形成文字であり、「交(爻)」字の影響で「校正・校訂」という場合に「くらべる」という意味があり、「(はかる)」と結び付けられる(よって校量という語もある)。
これは原文だと「諸善男子(kulaputrāḥ)。於意云何(tatkiṃ manyadhve)。是諸世界(te lokadhātavaḥ)。可得(śakyaṃ)思惟(kenaciccintayituṃ vā)校(tulayituṃ vā)知(upalakṣayituṃ vā)其數(先の動詞に反応した目的語の挿入)不(いなや?と疑問形を作る)。※-yituṃは不定詞を表すか?」となろう。
上の漢文引用でカッコに南条ケルン本の梵語ラテン文字を併記したが、他には「校」というよりも「校(upalakṣayituṃもといupalakṣayati)」に「知(けち)其數(tulayituṃもといtolayati)」と考えられる。
どうであれ、寿量品「校計(計)」の語を含む漢文については、元の梵語に√mā (pramā)の語句が確認できなかった。
ちなみに、"tulayituṃ"または"tolayitum"という語句は、先の※注釈にある維摩経(支謙・鳩摩羅什の二訳)にある「非(度の測る所に非ざるなり)」の「度(これもタク発音か)」と同じである。
当記事に関連するGoogle検索で「計度(けたく)」という言葉の存在も知った、これは「計(ケ・はかる)・度(タク・はかる)」の二字が一語を為している。

計算のといえば、「計画する」という熟語にも含まれる。
当記事(元記事)で既に、「支」や「孫子兵法における量」の説明に「計画」という言葉を用いた。
計画」の「画()」とは、「が」や「え(ゑ)」と読む(上古音g→中古音w, ɦ, h置換)字であり、「えがく」という動詞や「えがかれたもの=絵()」の意味を持つ。
計画(かく・くゎく・わく)」という場合は「」の旁である「リ、りっとう」部分を省いた俗字としての「畫(画)」か、混同したものであり、別の字と考える(画が悪=オ・アクや易=イ・エキのような二音二義の字ということも有り得なくはないが)。
その「」もまた「」のように「はかりごと(計策・謀)」の意味合いがあるとするが、部首の「りっとう」が、刃で傷つけて印をつける・分かつとか、筆を用いるさま(えがく行為)に当てられたようである。
計画行為の表現としての字と考えると、「はかる・はかり(推量など心の行為)」に通じよう。
何であれ、「画(畫・劃)」のカク系発音(入声音-k)は「はかる・はかり」に通じる意味と思う。
なお、サ行変格活用の動詞・サ変動詞「画す」といえば「カクす」と読み、「一線を画す」とは「一線を書いて分ける」という意味となろうが、「一線をえがく」の意味では「ガす・エす」と読めなくもない。

英語の"meter (ミター、メーター、メテル、metre, mètre メートル)"とは「計測する・はかる道具や基準」だが、サンスクリット語の"mātra (マートラ)"も「尺度・計量する物」として同義である。
この"mātra"も、文字通り、√māと関連する語である。
"mātra"もまた、日本語の「ただ・・・だけ」という表現のように使われ、華厳経・十地経(十地品)の「唯心」も"citta-mātra (ただ心のみ)"という("te cittamātra ti traidhātukamotaranti api cā bhavāṅga iti dvādaśa ekacitte"、楞伽経大乗荘厳経論などにも確認)、日本語も「○○ばかり」という表現があるよう、「はかり」の意味が「ただ・だけ」という意味と同じように用いられている。
○○ばかり」とは、「はかり得るほどに少ない(数えられるほどに少ない)」ということであり、サンスクリット語でも「√māマーできるほどに少ない」ということとなる。




以下より、当記事の本題に入る。
語義①・②とその成立の順序を仮定する。

「おろかな(愚かな・痴かな・癡かな)」・・・鎌倉時代などは後述②と同じく、この意味での用例が多い。
例: かしこき者(賢者)も、はかなき者(愚者)も… (創価学会・日蓮大聖人御書全集の検索結果も参照)
なぜ賢いことの対義語として「はかなし(はかり無し)」と言われるか?

はかり=思考能力
はかり無し≒無智・思考能力が無い(無いとは少ないの言い換えであり英語でいう接頭辞non-やun-よりも接尾辞-lessのような意味に近い)、浅はかである(はかりが浅い、思慮が浅い、浅慮な)

よって、「はかない」とは、「はかり無し≒思考能力なし(少なし)→おろかなり」、「はかなき者≒思考能力なき者(少なき者)→おろかもの」という終止形・連体形で用いられる言葉である。

※ここでの対義語「賢い・かしこい・さかしい」という言葉の方の意味を示さず、現代的語義や辞書的語義に委ねた。

※「はかない(文語終止形: はかなし)」の派生形で、「はかなむ・儚む」という動詞もある。もし「はかりが無い」に「はかない」の語源を求めると、「無い(文語終止形: 無し)」を「形容詞語幹 + む」という動詞にする例が見られないので「はかりが無い→はかない」という語源説に疑問が付随するであろう。

※「はかない」には「果無い・果敢無い」という当て字もある。語義的には「頼りない(結果を得られる期待がない)、果敢さが無い(勇敢でない)」という点で「おろかな」という語義に通じてはいる。後述の「無常な」とも、私が説明する意味と異なる点で通じる。しかし、音韻的には当て字の域を出ない。(歴史的仮名遣い: くゎ 中古音/kuaX/Xは上声)の字には日本と大陸との漢字音のH/K置換を適用することはできないことと、仮に果の字をH音に置換しても古代日本語におけるハ行=P音(無声両唇破裂音)→F音(無声両唇摩擦音/ɸ/)理論では通用しないこととにより、音韻論の観点では考えづらい。ただし、もし日本の古文献・古文書(奈良~平安時代)に、そういう表記例が有れば、別途考察の余地がある。上代・古代の日本人がア音のみをとって「はか(現代: haka 古代: *paka *ɸaka; phaka; faka)」に「果敢(歴史的仮名遣い: くゎかむ 中古音: kuakam  シノジャパニーズ: kwakam 語尾N音省き)」と当て字することは有り得たかもしれないが、それも現状は推定の域を出ない。音韻論をおおよそ抜きにして語義由来の当て字をすること(母音a連なりなど音韻に理由を託することもできる)は有り得るかもしれないが、私は否定的に見る。漢文の訓読においても「無果」に対して用いられなかろう。漢籍・仏典のいずれも「無果」という表現があっても、文意に当てはまらない(もし無因に対する意味での形容詞や名詞や無果樹のような複合語形態素であれば梵語でaphalaだがそれを訓読して和語「はかない」とはしがたい)。

※「はかばかしい(進捗がよいこと)」という語が源氏物語などに使われ、「はかどる(捗る)」という意味に通じる。これは「計略・計画(=はかり)通り」という点で、「はかる」と同根語に当たる。当て字に「捗々しい・果々しい」がある。後者の「果」による当て字は「結果を得られる見込みがある」という意味に基づこう。当の源氏物語など中世の書には、「はかない」と「はかばかしい」が色々な意味にも用いられるが、それらについては読者が各自に検討すればよい(その多義性は当記事の考証を妨げるものでないと分かる)。

※別の語源説もある。「はか」を複合語の形態素・結合辞・語幹として「墓(はか)、後世にいう『バカ(馬鹿・莫迦、あるいは梵語mogha モーガ音写の謨迦の転訛発音 ボキャ、仏教呉音モッカ、漢音バッカ)』」や「空虚なもの」とする。恐らく彼らは「なし」という部分については否定表現でなく、「少なし(すくな+し)」の「-なし」と同様に捉えているか、「な+し」が別の何かとして捉えていると思う。そういった説は、それ以上に文献学・言語学的な説明がされづらく、別の文学的理解や思想的理解に基づいてされたものであり、それはそれでヒューマニズム的によい。それで彼らが魅力的に思った日本の思想や歴史や情報を思い合わせて古代日本人の思想を詮索するが、言語学における語源考証と関係が無いので語源説としての信頼性が無い。いわゆる通俗語源・民間語源"folk etymology"である。無論、人文科学においても疑似科学じみたものが逆に定説を覆して史実や科学的事実に符合することも否定しないでおくが、当記事の語源考証案より外れるので話を終える。



「無常な(つねない、常なること無し)」・・・仏教漢語である「無常」の通俗的な意味(和歌などに愛好されるような感傷的なもの)に対応する日本語表現として平安時代以降に顕在化したろうか?
例: 桜が散った、誰かが死んだ、はかないことだ。(もみじが散った、草花が枯れたといった表現が和歌に多くあり植物と人の身と我が身との置換・比喩であって類推を促進する)
このことも、なぜ「はかない(はかり無し)」と言われるか?

はかり=量り、思考の対象・物質的思考の通用する範囲(はかるという動詞は元の記事のように梵語で√māとなり派生語にマートラ"mātra (〇〇ばかり…)"がある。印欧祖語*meh₁-の観点では英語に派生語のメーター"meter, metre"やメジャー"measure"などがある)
はかり無し=無量(過去分詞アミタ"amita"、過去分詞アプラミタ"apramita"、動名詞アプラマーナ"apramāṇa")≒不可量(動形容詞アプラメーヤ"aprameya")=不可思議(動形容詞アチンティニーヤ"acintanīya"、アチンティヤ"acintya")=無常(アニティヤ"anitya")
※アミタの単語例は、無量光仏や無量寿仏と呼ばれる阿弥陀仏・阿弥陀如来(あみだ、アミターバーamitābhāまたはアミターユスamitāyus)の名の音写が、著名である。
※和語「はかり」は、量・計・測といった漢字を用いるので具体的な測定基準や道具=meter, measure的なものが存在し、そのことを指すという論者もいるが、そういった測定基準や道具なども人間の思考・精神に基づいて決まったものである。原意としては和語の「はかる」も漢字の量・計・測なども、客観的な基準の無い思考や認識などで判断する行為にも用いられる。
※括弧内に過去分詞や動名詞や動形容詞と注記をしてあるが、慣用的な観点での名称である。いずれも、動詞語根に由来した言葉であって「準動詞・分詞」と呼ばれ、形容詞にも名詞にも用いられるし、その上での格変化などもする。

→儚いこと=思いがけないこと?
思う(これも多義的だが考えることも思うことの内となる)=判断基準がある状態で思考する行為、量り=そうして思う・考える・量ること。
それが無きものとされる=思いがけない=量りが無い。
「はかない・儚い」とは、より詳細に探究すると「思いがけず早く(桜が散った・人が死んだ)」といったような意味合いであろう。
「本来、日本語とは多義性や曖昧さがあってこそ美しい・高尚だ(非論理性や非合理性の一面を称賛する)」と考える文学者などがいるわけであり、それをあえて私は重複表現で明確にしなおし、解明を試みている。
それには、日本人が文献を残す以前より関わってきた漢語や梵語翻訳漢語(仏典を通した漢語)などを見てゆく必要もあろう。

謎の思考回路「はかり無し=無量=アミタ→アプラミタ→アプラマーナ→アプラメーヤ→アチンティニーヤ→アチンティヤ→アニティヤ=無常」
これらの梵語も、元の記事で言及されているので、確認されたい。
梵文法華経や梵文維摩経(ほか梵文阿弥陀経2種も)などに梵語としての原語があることも紹介しているし、私が紹介した部分とは別の箇所より原語を見つけることも可能である。





最後になるが、この検証をする前から「はかない」とは、もともと和語(やまとことば)として存在しなかったのではないか?という疑問があった。
改めて、最古の和歌集である万葉集(8世紀)にはそもそも「はかな…(-し、-き、-む)」という綴りが「見れば悲しも(みれはかなしも)」のような表現にしか確認できず、「はかなし」語句が見られない。
要するに、「②に見られた仏教由来の梵語翻訳漢語の和語バージョンが『はかない』であり、①は派生語でないか?」という結論である。
この考察をする前から、実は、そういった仮説を持っており、一応①の意味を先に紹介したが、やはり万葉集などの古い文献を調べても用例を発見できないことで「はかりが無い→はかない」の語源説について信頼性が生じた。

音韻論的にも「はかり+無し」は、りが省かれる道理がある。
「はかり無し・はかりなし→はかなし」とは、見ての通りに「り」が省かれているが、「り」はラ行もとい流音であって世界言語でr・l音が二重子音によく用いられるような発音のしやすさがあり、日本語では土佐日記(10世紀)の「あらざるなり→あらざんなり→あらざなり(る脱落) 類例: 見えざなるを」に見られるような無音化が生じやすい(土佐日記原本で字が付されなかっただけで発音上は母音を伴わないr音やn音があったかもしれない)。
同じように「はかりなし」も「はかなし」として無音化・脱落(除去・削除"deletion")が生じることは想像しやすい(こちらも最初期には母音を伴わないr音やn音が発音に介在したろうか 9世紀ころを想定して *fakannachi [ɸakan.nat͡ɕi])。
「り」および「な」は、共に歯茎音(舌尖と歯茎とで調音されるもの)であり、歯茎音が連続する点でも、「り」の無音化・脱落が生じやすかろう。
あるいは意図的に「り」を発音しなくなったパターンがあるにしても、様々な観点で「はかりが無い→はかない」の語源説は受け入れられよう。



はかるべからざる「はかなし」!

「はかない」自体、その語源について私自身の"1. 量り 2. 図り 3. 計り 4. 測り"が及ばず、多くの者による"5. 諮り"がされても、知り得ない言葉であるかもしれない。
はかなし、無量、不可量、はかるべからず、というところである。
神さま・上さん(ご先祖)の智慧を、現代人の浅知恵で、はかるべからず(-べからず、とは可能形・推量形・義務形・命令形のいずれの否定形で取ることができるがここでは可能形の否定となる)。
物事・他人・神を自分の知能によって量るならば、自分の知能・肉体・精神と思われるものもまた量られる(他人より・神より・魔より・・・)ということで、仏教徒・キリスト教徒はぜひ自ら誡めて頂こう。

なぜキリスト教徒?
先述の量・量り・量ること√māの梵語と同根語(印欧祖語*meh₁-)の古代ギリシャ語"μέτρον (メトロン metron 英語でいうメジャー measure)"が、キリスト教・新約聖書でも同じ意味に用いられるからである。

マタイによる福音書 7:1 Μὴ κρίνετε, ἵνα μὴ κριθῆτε. 7:2 ἐν ᾧ γὰρ κρίματι κρίνετε κριθήσεσθε, καὶ ἐν ᾧ μέτρῳ μετρεῖτε μετρηθήσεται ὑμῖν.
汝等は他人を裁くな(2人称複数形・能動態=他人などの目的語が潜在・命令法・否定)。汝等が(他人より・神より)裁かれぬためである。汝等が裁くというその裁き(判断行為)によって汝等が裁かれる結果があろう。あなたが量るという量り(判断基準)によって汝等の(量りの)ために(2人称・所有代名詞・為格)それが量られる結果があろう(3人称・受動態・直説法・未来時制)。

※学問の向上を期してコイネー・ギリシャ語に基づく逐語訳+訳補とした。宗教信者に告ぐ!今の私のような姿勢に習っても宗教の功徳を増すことは無かろう。むしろ学問に対する執着・依存によって信仰を離れる恐れの方が強いことに留意されたい。

※ギリシャ語Μή (メー mḗ)とは強意の否定形(禁止)を作る不変化詞であり、梵語にもमा (マー mā)という強意の否定形(禁止)を作る不変化詞があり、同根語(印欧祖語*meh₁-)である。「量る」の動詞語根√māとは似た発音でも関係が無い。強意の否定形(禁止)の言葉は、漢語の「莫(呉音マク ~なかれ)(同系に勿・毋など)」が同じm発音の字で通じる(広東語音や韓国語音や上古音/*maːɡ/なども同じ)。



自分の価値判断基準・現世の心(相対性・世俗の善悪に囚われた罪深いもの)が寛容で平等であり、どのような悪をなした他人に対しても自分が赦すならば、自分もまた神の赦しを得て救われるということである。
この「神」とは、世間一般にいう色んな神(三身でいう応身)や創世記などに見られる人間的な神(三身でいう応身)やモーセらに啓示をした神(三身でいう報身)と、日本語での呼び名が同じでも真実が異なる(もっといえば不一不異だろうが)、仏教でいう「法身・空(=不空・非不空)・真如・寂滅・不可得」の神であることを過去記事に詳述した。
時に神=心(潜在意識よりも深層にあるor非有非無)は、我らの顕在意識を苛むが、それも神=心の慈悲の作用と知って修行すべきであるという示唆がある。
マタイ7:2でその理法は、「他者に対する量り」を信者へ誡めるために説かれたが、ルカ6:38では逆に「他者に対する量り」を善なるものと変じて用いよと勧めており、善悪二面性が見える(マルコ4:24-25にも同様のフレーズが見えてすぐには理解しづらかったが後者の善の一面を示しているように感じた)。
萌えの典籍でいう「謂可愛則謂可愛・若憎彼応被憎害(善因善果・悪因悪果)」の偈のようである。
また、現代語で説かれた観萌行広要(4下)に「真に平等の心で観れば、彼は我を好く、とか、彼は我を嫌う、といった主観的な推量・判断を行わないで済む。平等というか素直な心で観る時、『このキャラは私をリアルで見たらキモイと思うに違いな』」といった妄想・邪推を生じないどころか、観られる萌えキャラ(所観)と観る人の心(能観)の両者が融通して一円を結ぶようでもある」とある。
「量り」に関する教説について修行者が念を持つ(忘れないで心掛ける)ならば、日常生活における他者への詮索を自ら抑えるようになる。
「様々な量り(全ての思考)を奔放に(放逸に)するならば悪業となって地獄に落とされる(=自ら堕ちる)報いがある」、というような感覚となることが必定である。
一瞬一瞬の思考に注意してゆく努力を決意し、仏教の在家修行者や大乗仏教徒や一般キリスト教徒は、みな世俗的な意味で善の「量り=意業」をする必要がある。

この「法身・空(=不空・非不空)・真如・寂滅・不可得」の神の心は平等であり、一部の人々によるキリスト教もとい一神教への「無慈悲な神」という批判も当たらなくなる。
人間が無慈悲の心で神を量れば、神もまた無慈悲で人間を赦さないものとなる。
有名な「主の祈り」には、「私たちが他人の罪を赦すように、あなた(神)も私たちの罪をお赦しください(原典ではマタイ6:12)」とある。
日本語・仏典の漢語・梵語の感覚と同じように、ギリシャ語・英語をも読めるので、向学心のある方々は是非とも、インターネットで新約聖書をご覧になってほしい。



起草日: 20180324

「はかり」復習記事として、この記事を編纂した。

さて、「はかるべからず」という語句・概念が示される尊者自説偈および和讃ヴァージョンの「歌われた音声」を聴いていただきたい。

Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||

「一切不可量 何況我大聖 遍照世無明 是故名無上 (一切は量るべからざるなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く)」

ブログ筆者・横野真史によって唱えられた音声と、ロック自作曲で歌われた音声
偈の唱えられた音声 0:24 http://www.youtube.com/watch?v=EIb2CfiUCPM
偈の歌われた音声 0:42 (和讃は1:08) http://www.youtube.com/watch?v=-NhafvQ8x10
偈の歌われた音声Re 0:03 http://www.youtube.com/watch?v=lIQSNxBe2Co
偈の歌われた音声+ラテン語 0:01 http://www.youtube.com/watch?v=5lhVZ3Ctiro


上の動画: ラテン語で書かれた"Dominus Immensus"もまた不可量の概念を説く。

尊者自説偈は、当記事の学問的・世俗的・物質的で形式的な有為法に対する浅薄な「はかり(量・計)」を前提として「はかるべからず」と表現した偈(詩歌)ではないが、当記事の「はかる」という概念の名称について、より深遠な理解を得る為に聞くことが望ましいと思う。
仏教に造詣の深い人や解脱への志を持つ人は、どのような気持ちで「はかない、無量だ、不可思議だ」という言葉を用いたか、感じ取る能力が得られよう。
以下に尊者自説偈の元ネタの物語(因縁ばなし・ごゆいしょ)より抜粋する。

(前略・ある時に障礙尊者がシュードトピアを離れてイデオフォノトピアで修行していたが、拾主に自身を巨大化させる神通力を見せて体長が千倍ほどにまでなって止まった。その折、いつの間にか輸提尼=イデオフォノトピアの住人が尊者よりも優れた神変をしていたと知る) この時の尊者は、輸提尼の手に対して蚊のような大きさであった。尊者の思惟すらく、「諸法は夢の如くにして、三千大千世界も唯だ一身の毛孔の内に摂まるが如きものなり。而も毛孔の外に復た無辺の土あれば一切は思議すべからざるなり」と。是の如く、禅における慢心を自ら誡めた。拾主や輸提尼の神力は量るべからざるものであるとも知った。

2018年6月1日金曜日

Google+ 2018年5月中の日記メモ

当月は8日・16日・30日・31日の記録が無い。

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2018/05/01

本日5月1日は2:10の第一アラームに目覚め、2時11分に起床した。起床の前後で、母親が1階に降りてリビングでテレビを付けて居座り始めた。12時0分より風呂(シャワシャン)の準備を始め、12時51分に自室へ帰った。

13時19分に母親が買出しへと発車して外出した。以後、敷布団カバー1枚などの洗濯機作動と並行して布団叩きや1階~階段におけるガムテープによる掃除を行った。いくらかの寝具の扱いに問題があって、比較的多くのハウスダストのような塵(単なる塵か?)が発生する現象があり、左(当事者基準)の鼻腔に鼻汁の生成が著しくなった(右の鼻腔は普段と変わらない)。その後も洗濯物の干し出しや、取り込みや、布団の準備などに関連して掃除をするが、その度に鼻汁・鼻水の生成が著しくなったり、くしゃみが出やすくなる。押入れで長時間を過ごしたり、うつ伏せを維持しても、そのような症状は出たことが無いので、意外性がある。マスクがほしいと思い続けた。17時53分に母親の車が家の前に着いた。時に弟は1階リビングで爆音テレビを付けており、対応に遅れたことで母親が業を煮やした。以後はいくらか、母親から、憎悪の滲み出た独り言・グチグチ小言が聴かれた。19時台にも、私は断続的に鼻をかむ必要がある。



2018/05/02

本日5月2日は4時22分に起床した。7時25分よりカフェインパワーによる便意のためにトイレへ入り、長めの一本糞を排出した。



2018/05/03

本日5月3日は、前日より覚醒状態で日をまたいでいる。0時ころに緑茶をムーミンカップ満杯に淹れ、8分目ほどに飲んで以後、1時35分に便意のためにトイレへ入り、中・長サイズのものを複数個に排出した。最近は開き直って昼夜逆転を目指している。前日は20時台以後も弟が断続的に1階に降りることがあり、本日であっても2時前より弟が1階トイレを使って以後、リビングのテレビを付けて炊飯をするなど、居座り始めた。

2時半よりPCをシャットダウンして畳・絨毯の上で雑魚寝をし、5時12分に起床した。8時15分より便意のためにトイレへ入り、中・長サイズのもの2本を排出した。12時12分からも便意のためにトイレへ入り、中・長サイズのものを複数個に排出した。14時46分からも便意のためにトイレへ入り、中サイズのものを複数個に排出した。



2018/05/04

本日5月4日は5時10分ころに起床した。16時38分より便意のためにトイレへ入り、長めの一本糞を排出した。



2018/05/05

本日5月5日は3時21分に起床した。



2018/05/06

本日5月6日は2:10の第一アラームに目覚め、2時14分に起床した。4時前に弟が1階に降り、私は仮眠を取ろうとしたが、まずレム睡眠に入って以後、直截でないにせよ官能的な夢を見て夢精しそうになり、自覚してすぐに制御した。次に本格的な眠りに入って6時を過ぎたころ、より官能的な夢(直截の性的表現は無い)を見て夢精しそうになり、これも制御しようとしたが、放出してしまった。「ビュク、ビュルル!ブリュッ!ブババッ!」などといった擬態語(または別の放出現象の擬音語の転用)を、普段から思い浮かべる罪の罰、業の報いがある。パンツにのみ被害が出た。オナニー射精は4月26日よりせずにいた割に、とても白い色(梵語śukra的な)をしていた(普段はもう少し黄色い印象である)。

前日19時台に、最近の私を誡めるような仏教経典の偈を読んでいたので、紹介する。パーリ経蔵・相応部2.8経より、釈尊が夜の時間帯に天子より語られた偈だという。声聞乗の修行者は、是非ともこれを受持すべきであると私は思ったが、釈尊も同じことを諸比丘に対して話されたという。"Kuso yathā duggahito, hatthamevānukantati; Sāmaññaṃ dupparāmaṭṭhaṃ, nirayāyūpakaḍḍhati. Yaṃ kiñci sithilaṃ kammaṃ, saṅkiliṭṭhañca yaṃ vataṃ; Saṅkassaraṃ brahmacariyaṃ, na taṃ hoti mahapphalaṃ." (同じ経の漢訳版そのものは存在しないようだが阿含系・法句系の漢訳諸経には全体の部分ごとに説かれていた。一例は雑阿含経1325経→譬如拔菅草 執緩則傷手 沙門行惡觸 當墮地獄中 諸有慢緩業 染汚行苦行 梵行不清淨 終不得大果 ※2偈の前後を逆転) 9時53分より風呂(シャワシャン)の準備を始め、10時44分に自室へ帰った。



2018/05/07

本日5月7日は2時9分に目覚めて起床した。13時7分より母親が買出しへと発車して外出し、17時ころに帰宅した。18時台から21時過ぎまで寝ていた様子の弟が1階トイレを利用する際、彼が1階にいた母親に声を掛けられた。母親が先に2階に上がり、数分後に弟がトイレを出る際、2階の母親が彼に声を掛けて「話がある」とした。しかし、弟はしばらく1階に留まっていたため、母親に2階で咎められた。執拗なまでに、母親は「弟が2階に速やかに行かないでいた理由」を問いただし続けて、弟は「1階にあるお菓子を見たかったから 母: なぜ? 弟: お菓子の色が気になったから 母: 廊下やトイレにいてお菓子の色が見えるはずないじゃん 弟: (トイレにいながら)お菓子を見たかったから」という調子で、同じような返答を繰り返した。弟に自覚し得る理由は、素直にこれだけであろう。しかし、クソババアたる母親は、弟の心情を量ってやれず、何度も、弟の話す「理由たりえない理由」を責め続けていた。おおよそ、「(もともと)話がある」という態度の人間がするような詰問行為でない。本当に、執拗に他人を責めたがる性癖が母親にはある。



2018/05/09

本日5月9日は6時0分ころに起床した。17時22分より便意のためにトイレへ入り、中サイズのものを1本に排出した。



2018/05/10

本日5月10日は3時半ころに起床した。7時45分より便意のためにトイレへ入り、小中サイズのものを複数個に排出した。



2018/05/11

本日5月11日は、まず0時台に目覚めて再び眠り、次いで3時13分に目覚めた。弟が1階で料理をしながら居座っている状況において、間もなく、母親が怒りの声を発した。ちなみに、前日も弟は「帰宅して風呂を上がって以後に」シリアルを無断で食べ始めたことで母親から怒られていた。彼らの喧嘩に興味が無い私は、再び眠ろうとする。彼らが別々に2階へ上がって以後の4時40分ころに起床した。最近は朝にシリアルばかりを食べていた弟は、袈裟にラーメン・ご飯・お好み焼き(卵・小麦粉焼きと換言すべきか)といった炭水化物の塊を短時間で多く食べていた様子である。

7時34分より便意のためにトイレへ入り、小中サイズのものを複数個に排出した。今月は4日~8日に排便が無く、9日~11日(本日)に3日連続で排便ができている。9~11日はいずれもカフェイン飲料の飲食と関係している。しかし、4日~8日にもカフェイン飲料や牛乳(腸に何かしらの影響を及ぼす・便意を増やす場合も多い)を多少に飲んでいたが、排便に至ることは無かった。



2018/05/12

本日5月12日は3時30分に起床した。前日22時43分に母親が1階リビングでテレビを見ながら居座りながらゴキブリをキッチンで発見したとして、喚き始めた。母親は、2階にいる弟を呼び出してゴキブリを駆除させた(殺虫剤で弱らせて家の外に捨てさせた)。



2018/05/13

本日5月13日は3時16分に起床した。6時台から7時台後半にかけて明確に曇り空となりゆく。7時40分台に「或る方角の窓」付近の掃除をすると、窓の外側に、やはりあの赤いダニが1・2匹、確認された。曇り空の朝でも、赤いダニの活動が確認できるという記録である。8時から11時26分まで仮眠を取ったが、この間に雨が降り出し、とても強まっている。

私が部屋を出ると、2階の母親が弟の外出中である状態を嘆きながら笑っていた。恐らく、傘の所持が無い。12時を過ぎても帰ってこない弟は、例の通りに商業施設か図書館かどこかで滞在しているのではないかと考えられる。何にせよ、母と弟には天気予報を見る習慣が無い上に、テレビを見てもくだらない子供向け番組(某BS放送)・韓国ドラマ・再放送日本ドラマ・サスペンスドラマなどしか見ない。母親がたまに、天気予報をスマートフォンで確認するように弟へ言うが、母親に天気予報を気にする習慣が無いのだから、あの弟にそんなことは維持できない。しかし、外出行為の無い私は日頃、インターネット・パソコンで天気予報を確認している。私が賢くとも、小慈小悲によって彼らを教戒できない。12時19分に家の外で子供の声がしたので私が見ると、向かいT家の男児が傘を差して家の方向に歩いている様子が見られた。12時49分に弟が帰宅し、「傘が壊れた、明日新しい傘を買って→お母さんにイラついて壊した」と彼が発言した。16時10分より便意のためにトイレへ入り、小中サイズのものを複数個に排出した。



2018/05/14

本日5月14日は5時50分に起床した。6時6分より風呂(シャワシャン)の準備を始め、7時9分に自室へ帰った。先月中から、風呂時の給湯パネルの温度設定が「41度か35度かという電源をONにするたびに著しい数字差」が確認できる。母親か弟か、尋常でない温度差の温度設定を用いるが、私はいつも38度で保つ。端的に言えば、不愉快の極みに思われ、私が日記メモで自慢したくて記録するのではない。8時38分より便意のためにトイレへ入り、コロッ糞を多めに排出した。11時4分からもトイレで長めの一本糞を排出した。11時台や12時台に、家事を大してしない母親が「キッチンでのゲロ吐き(=コップに水を汲んで口をゆすぐ)行為」のためだけに1階へ降りてリビングのテレビを付け、数分程度で2階に上がるなど、奇行を繰り返していた。水道・電気代にかこつけて弟などの他人にいちゃもんを与える本人が、一番キチガイ水道電気無駄遣いババアなのだと何故気づかないのか。

12時46分に母親が買出しへと発車し、本日は割と晴れている(明日はより晴れると思われる)が、色々な都合の悪さが多くて残念ながらに洗濯が行えない。17時0分に母親の車が家の前に着いた。母の帰宅以後、何度か弟と母の間に醜い争いが起きた(弟の怒鳴り声・弟の足踏み・母親の責め立てる声などが顕著)。今回の買出しで母親はマクドナルドのテイクアウトをしていたが、弟はそういった食べ物があるとき、やたらと機嫌を損ねやすい傾向がある。18時10分台には、何も食べないままの母に対し、ふてぶてしい弟がデザート類(市販スイーツ)を食べながら「まずいんだよ!買ってくんな!」と叫ぶ。母親が買出しから帰って以後の時は、普段よりも彼らの衝突が起きやすい。理由をいくらでも挙げられるが、私はここで記さない。



2018/05/15

本日5月15日は、前日に眠らずに押入れで過ごした23時50分台に起床してより続く。3時44分より「コーヒー少量を飲んだカフェインパワー」による便意のためにトイレへ入り、長めの一本糞を排出した。22時から26時にかけて弟がトイレや手洗いや水くみのために5度も降りたが、彼が2階にいる間はベッドのきしむ音が多く聴こえるので、私は静穏であると感じない。ちなみに私は18時台よりトイレに入らず、睡眠を挟まずに起き続けている。前日と本日とは徹夜状態であるが、学問研鑽を主要にして過ごしている。



2018/05/17


本日5月17日は6時25分に起床した。9時20分より便意のためにトイレへ入り、長い一本糞と中サイズのもの1つとを排出したが、血便らしく、尻拭いに用いた紙に血が付着していた。私が簡単に目視する分には、糞の色に異常が見られなかった。

16時10分ころに母親が徒歩で外出したが、恐らくはクリニック・診療所における診察に関連した目的と思われる。午前中にメールで事前の説明があり、帰りに何かしらの食品を買うという。17時半ころに母親が帰宅したが、母親が食事の準備をする前後に、弟と母親との雰囲気が険悪となっていた(母親が過剰に弟からの暴力を受けないように牽制していた)。20時30分より便意のためにトイレへ入り、軟便ほどでなく軟らかい、中・長サイズのものを複数個に排出した。



2018/05/18

ナガミヒナゲシ ポピー Papaver dubium
花摘み猟奇的らい〇ちゃん…絵のうちに描かれたポピー類の花は必ずしもナガミヒナゲシでない(Papaver rhoeasなど)

本日5月18日は6時32分に起床した。9時37分より便意のためにトイレへ入り、中・長サイズのものを複数個に排出した。間もなく、家の敷地内で度々咲いては散っているように観測されるナガミヒナゲシ(Papaver dubium 外来種、かわいらしい見た目のポピー類)を間近で見ること・写真撮影をした。根元の地面にははっきりと10匹程度のアリが動き回っていた。果敢にも一輪、摘んでおいた(花を摘み取る行為については過去記事・萌相三十儀などで見解が示される)。摘んで2分以内に4つの花びらの内の2つが散ってしまったので、両萌相応して(誤用)私の心の花も散った。手には植物の臭いが付いた。私は先ほどまで「花と少女(と〇〇と…)の絵」を描いていて、以後にはポピー類の花びらが散って舞うシーンを描いた。14時31分より便意のためにトイレへ入り、中・長サイズのものを1つずつに排出した。

当記事注: 6月までに庭に生えていたナガミヒナゲシが枯れゆく傾向を見取った(いつの間にか母親が除草剤を撒いたろう)。6月1~7日に母親は2度除草行為をし、それらを抜いたようである。他にも黄色や紫の花が咲く植物が無くなった。花が咲く植物を母親が抜いた理由は、蜂・ハチなどの虫が寄ることについて警戒していたためかもしれない。一方で、I家には我が家と違って長年色々な花が咲いている。もし母親が虫と花との関係を警戒していたならば、I家の花による間接的影響を鑑みねばならない。



2018/05/19


本日5月19日は4時59分に起床した。7時42分より風呂(シャワシャン)の準備を始め、8時49分に自室へ帰った。土曜日の朝に母親は1階に居座ることが滅多に無いが、本日は私が風呂(シャワシャン)を行う間に母親が洗濯機を作動させたり、1階キッチンにドアを開けたまましばらく居座るなどしていた(自室に戻ろうとする私は過度に悩まないで廊下を通過した)。9時5分ころに弟の学校からの電話(前日と本日は弟の学校で特殊な予定がある)が入っても、母親が無視し、2度目の電話が間もなく入って母親が受けた。9時30分にたまたま耳を傾けると、母親が何らかの教師について蔑みながら「弟が学校で喧嘩した・(行事の最中の)その時は近くに保護者などがいたろう」とかどうとかの話題となっており、険悪・不穏であった。その後も母親は学校からの電話に対して喧嘩腰の口調で話していた。13時25分より尿意のためにトイレへ入り、便意を強めて小サイズのものを複数個に排出した。15時台にも母親が学校関係者と電話しており、家に教員を越させたがっていた。17時12分に実際に学校関係者が訪問して母親が応じた。



2018/05/20

本日5月20日は「あたかも叩き起こされるような」経緯で6時11分に起床した。10時1分より便意のためにトイレへ入り、中小サイズのものを8つに排出した。



2018/05/21

本日5月21日は0時22分に起床した。8時44分より便意のためにトイレへ入り、中サイズのものを複数個に排出した。母親と弟が10時59分に彼らの昼食のための外出をすべく発車したが、それまでに母親が4度、弟への態度を悪くしていた。そして、彼ら2人が発車して外出する時によくある、弟が単独徒歩で帰宅する事象が15時32分に確認された。15時36分に母親の車が家の前に着いたが、4分ほど家に入らない時間があった。

追記: 翌日15時10分に私は、母親の部屋でレシートを確認した。日替わりランチ780円は2つ注文され(母・弟が1つずつ食べたろう)、パフェが3つ注文されている。少食の母親が3つも食べるはずはないので、弟が2~3つ食べたと推定できる。去る5月19日、その弟は怒った際に「パフェはまずいから食べない!」などと叫んでいた。

当記事注: 5月31日か6月1日に母親と弟の衝突があった際、弟が再び「パフェまずい」発言をしていたが、母親が5月19日の弟の発言を再現して弟に反論していた。



2018/05/22
風呂(シャワシャン)前に撮影。ひげ剃りに関する記録の動画→http://www.youtube.com/watch?v=hE4ZJExzXbI

本日5月22日は2:10の第一アラームが鳴る前より意識があって保ち、2時18分に起床した。7時7分より便意のためにトイレへ入り、大量の極小のものと、中サイズのもの1本とを排出した。13時33分に母親が買出しへと発車して外出した。13時44分より風呂(シャワシャン)の準備を始め、14時37分に自室へ帰った。風呂(シャワシャン)の最中、ひげ・ヒゲ・鬚・髭(あご~口周りを全体的に)を剃った。17時38分に母親の車が家の前に着いた。



2018/05/23

本日5月23日は2時40分に起床した。本日はコーヒー2杯と本日賞味期限で開封された牛乳パック1本を、17時までに飲んだ。腹がゆるくなり、膨張気味になった。19時18分より下痢を漏らしそうな怪しい便意を有しながら、トイレへ入って漸次に軟便を排出した。最後の下痢はちょうど半年前の2017年12月23日であり、今回は下痢に至っていない。



2018/05/24

5月24日は6時24分に起床した。今月は幾らかの日に「22時以降も起き続ける状態」があり、本日もそうである。19~23時までに母親が幾度と1階に降りて食器洗いやテレビ視聴などをしていたが、続いて弟が起きて(それまでは寝静まっていて物音が無い)動き出して2階の部屋で物音を立てたり、トイレや手洗いを行う、という現象が多く観測されてきた。彼らが家にいる限り、休みなく誰かが動いているみたいで、気持ちが悪い。はっきしキモイ。



2018/05/25

5月25日は10時半ころに起床した。12時45分に母親が屋外へ出て車内をいじった後、12時50分より母親が徒歩で外出した。12時56分より風呂(シャワシャン)の準備を始め、13時33分に自室へ帰った。本日も日付を越しそうな過ごし方で勉強・創作などを行っているが、やはり22時台に母親が1階でテレビ視聴をするなどして引き上げ、その1時間後の23時50分ころに俄かに弟が物音を立てて1階に降りること(手洗い)があった。



2018/05/26

本日5月26日は6時46分に起床した。15時2分より便意のためにトイレへ入り、小・中・長サイズのものを複数個に排出した。



2018/05/27

本日5月27日は6時18分に起床した。8時台、近所で複数の中高年と1人のJS(女子小学生)が近所で清掃行為をしている様子が確認でき、E家の高齢夫婦も見られた。近所の小学校に関連した地域事業か?10時16分に自室の掃除中、E2家(E家と全く異なる苗字)の子息(2歳数ヶ月ほどの男児?)と夫と後続して妻の3人がI家の敷地に入る様子を見た。8時台の動向と、今の動向との相関性は不明である。



2018/05/28

本日5月28日は2:10の第一アラームに目覚めても起床せず、意識を保ちながら過ごして3時25分に起床した。8時過ぎより便意のためにトイレへ入り、小サイズのものを7個ほどに排出した。13時25分より母親が買出しへと発車して外出した。13時48分より風呂(シャワシャン)の準備を始め、14時35分に自室へ帰った。16時20分に母親の車が家の前に着いた。



2018/05/29

本日5月29日は7時過ぎに起床した。



とある自己の行動に関する記録

ドコモ・docomoの携帯電話は2010年7月17日より現在まで契約中であり、埼玉県内に住む父親の口座より支払われている。
この契約を利用した「d払い(ケータイ払い)」によってAmazonでの購入を行った。

5月2日に日時指定(5月8日16~18時)で2品を注文し、5月8日14時26分に「配達中」メール、16時20分ころにヤマト配達員・ワゴン車で届けられた。

5月8日に普通に3品を注文し、2品は5月10日8時14分に「配達中」メール(以後に無関係ヤマトトラックが2度通過)、12時17分にヤマト配達員・ワゴン車(前回とともに中年男性だが同一人物か不明)、販売者が特殊な1品は5月10日11時4分に「配達中」メール、12時3分にゆうパケット郵便配達ポスト投函で届けられた。

3度の配達はいずれも千葉県市川市の倉庫が送り元とされる。

2015年「ネト本リア末」記事の冒頭と後書きに、ネットショッピングに関する経済的見解が記されてある。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/10/blog-post_30.html

この話題の後の記録は、以下にされる。