2017年6月20日火曜日

萌え話 "The Moetries" 萌誦(萌え歌・萌詩など)

時期にばらつきのある「萌え話(仮名)」を集めた記事である。
一時保管スペースから、当メモ帳ブログに移して加筆を進めたものとして投稿する。
当ブログ上の記事投稿予定日2017年6月20日現在、全体は未整理状態の部分と加筆中の項目が存在(イデオフォノトピアの数章分や本萌譚の異伝④など)しており、追って処理するほか、以後も長期間・継続的に「萌え話(仮名)」を集積する所存である(画像掲載数も増やす)。

緒言

觀萌私記」に由来する「萌え(智慧で考察されたもの)」を題材として綴った「萌え話」を集めた。
表題に"The Moetries"という英語の副題を添えた。
英語の副題を添える(ラベルを貼り付ける)と、文学作品らしさが強まって宗教の価値が見えづらくなる恐れもあるが、私の気分に任せて併記した。
"Moetries"は、"Poetry (詩歌)"と"Moe"を組み合わせて造語にした"Moetry"の複数形である。
和歌(短歌と今様和讃)といい漢詩といい、いわゆる「」の形式が複数の種類で含まれている*1ため、複数形に作ってよかろうと考える。

そのような浅学による言語理論に限らず、感性による自然な発想としてもそうであったが、もっと裏を明かすならば、ラテン語で"Poētria Moerī ("Moeri"はMoeを自分でラテン語の名詞にした*2・中性名詞の属格)"とでも綴ることを考えていた。
"poetria (複数形: poetriae)"とは、「女性詩人」を意味する場合があるようであり、しかもラテン語フレーズ・典籍での用例が確認されづらく、Google検索候補・検索結果もイタリア語のようなものばかりが見られたので、汎用性に欠ける点によって断念した経緯がある。
ああ、そんな卑俗な価値観により、せっかくの恍惚感を誘う言葉を切り捨てようか?
例えば「普通、クローバーは三つ葉だから四つ葉に育ったものは異常であって醜い」と嫌うようである(双葉も三つ葉も四つ葉もみな萌えであるのに!)。
もし、ラテン語名称を用いたければ"Poēmata Moerī (ポエーマタ・モエリー)"となる。

ちなみにクローバー(白詰草)は、「雑萌喩」の第二に登場する草、非情萌類である。
「非情萌類」という表現は、仏教用語と萌えの法門の用語とが混ざっており、このような語句を用いる「萌え話」を読むにあたっては、漢語知識や仏教知識がいくらか高度に求められる。
簡単に語義を説明すると、仏教用語の「非情"asattva"(有情"sattva"の対義語、主に植物を指すほか岩や山や川なども指す=山川草木、ひいては有情の居場所全体とも)」と、萌えの法門の用語の「萌類(植物や可愛いものなど萌えの種類を包括する語句*3)」を組み合わせている。
クローバーは言うまでも無く植物であり、萌えの原義のうちにあるから「非情萌類」とする。
わざわざ非情としての萌類を区別するから「有情萌類」の概念もあり、これは心を持つものと我々が仮想した萌えキャラを指す(実際の用例は無く萌相三十儀では原義萌類・人形萌類と呼ぶ)。
萌えキャラは当然「我々が仮想して」こそ、「有情」、つまり心が有るものと区別できるが、実際は心が無く、仏法の真理からすれば自己にも他者にも心の自性などが無く、真の心は「無か不可得」である。

萌えキャラは中道の立場を象徴しており、このように心をテーマにしても「一切の心」の非有非無を暗示しているが、そういった中道の意義は私が説明しない限り、誰も知らない。
萌えの典籍を読むにあたっては、仏法の意義や真理に関する示唆に注意を向けてほしい。
萌えキャラの中道義の一説として「真如の姿として可愛さに性別なく、日常・非日常(二萌風)など作品設定・属性などに縛られない」というものがあり、この意義は「萌えの典籍そのもの」も同様である。
つまり、萌えの典籍にはストーリーとして日常・非日常のどちらも含まれるが、中道として日常に非ず・非日常に非ず。
信仰者*4の立場では「単なるフィクション作品」などではなく、人の心の真実を説こうとした聖典であらねばならない。
ただ人の対話・譬喩・演出などの物語の構成を取るのみである。

*1…当記事中、短歌・俳句の和歌には【歌】、和讃には【讃】、漢詩には【詩】の表記を付す。記事投稿2017年6月20日現在、本萌譚・異伝②に和讃5首と短歌1首が載り、萌集記のイデオフォノトピア・三会と本萌譚・異伝④に七言絶句の漢詩が載る。ほかに仏典の偈の引用なども随所に行う。
*2…ラテン造語・中性名詞"Moerus"の格変化…主格moerus, 属格moerī, 与格moerō, 対格moerum, 奪格moerō, 呼格moere いわゆる第二変化。ちなみにサンスクリット造語で、名詞語幹moya-(モーヤ、主格は男性moyas・中性moyam・女性moyā)や、動詞moyati(能)moyate(反)・使役形moyayati・過去分詞moyitaなどを考案している。なお、萌土を"moye-kṣetra"と表記する場合の"moye"はサンスクリット造語でなく、単に「萌え」ローマ字表記と考える。
*3…「萌類」は仏典にもある言葉だが、意味合いが大きく異なる。群萌(ぐんみょう)・衆萌(しゅみょう)という表現もあり、「生類・群生・衆生」などの用語に似るが、萌えの法門では三者の使い分けをする。群萌・衆萌に対し、萌類は最も多義性がある用語なので「人形萌類・原義萌類」などと名称の区別を設けたりする。
*4…萌えの法門自体への信仰や尊敬が無くとも、仏教の道理を得て物事に臨む人であれば、当然、萌えの典籍から学び取ることは多い。ましてや信仰者=宗教的目的を失わない者であれば、己(おの)が信仰・目的性に依って何事をも自覚・反省の端緒にできる。ことわざ・俚諺に「人の振り見て我が振り直せ」、「爪の垢を煎じて飲む」、「他山の石、以て玉を攻くべし(元は漢籍>詩経・小雅・鶴鳴)」とある。法華経法師功徳品に「若し俗間の経書・治世の言語・資生の業等を説かんも、皆な正法に順ぜん」とある。世俗のフィクション作品からも、なお反面教師にすべきことや、自己への省察を起こすことなどが読み取れよう。萌えの典籍は仏教の真理をストーリー調で示そうとしているから、なおさら学び得る。人間の善悪の振る舞いを示した道徳的な話もある。



萌集記(ミヤウジフキ、みょうじっき)・序


 創作作品の登場人物とは、みな作者の己心の十界が擬人化されたものである。萌集記における、拾主(しっす)尊者とその他の人物も同様である。人は時に、喜怒哀楽の感情を強くし、自分が自分でないよう(一定期間中の静的で平均的な自己を無意識に想定してそれと比べて逸脱していると感じること)な発想や言動をしているが、その時に正念(仏などへの尊敬・信仰や理想)によって現在の自己を客観視できる者もいれば、刹那的な感情に心が覆われて眩惑したままの者もいる(客観視による自覚が反省と努力に繋げる)。その出来事を振り返っている自分もまた真の自分ではない。過去無始以来いくつもの数えきれない自己が、須臾刹那の現在の自己を形成して連関・相続し、無終永劫の未来の自己を構成してゆく。輪廻の境で自己ならざる自己が夥しく流転していることを、覚者は見通した。真の自己を過去にも現在にも未来にも求められはしないが、強いて言えば、その過去と現在と未来の全てを包括すれば真の自己となろう。現在・肉体・精神など仮定した虚妄の自己から無数の自己を知り(仮諦)、包括して一つの真の自己を見る(空諦)が、無数と一つという区別も空虚となる(中諦)。真の自己でない時と状況とが無くなり、真の自己を探す意味も消えた(円融三諦)。真の自己とは、まさに有でなく無でない「非有非無」であるが、今の私が語るには「亦有亦無」である(天台系の一念三千もこの立場で説かれたろう)。
 萌えの法門では、萌えという語句の意義の一つのみを取ると一面的な萌えであって真の萌えでないが、三萌義として包括すれば真の萌えが顕現する通りである。真の自己も真の萌えも、仮に「真である」ものと称するが、「真=実際に有る」ものと捉えれば真実ではない。そこで、仏の様々な教説を拝してゆくと、次第に真であるものの非有非無が実感され、非有非無も仮に設けられた呼称や概念と分かる。その諸法実相・善滅戯論・心行言語断の妙理を、一切衆生に悟らすべく種々に法を説かれた仏に、私は敬礼する。私もまた、どうにか萌えの法門の物語でこの真実を悟らせようと試みる所存である。


萌え話 moetry 漢詩 和歌

イデオフォノトピア遊行の事(観萌の開示)

2016年10月1日に起草したが、元ネタは2016年8月20日の絵に表現される。オリキャラの脳内対立の和睦を目指す発想が原点である。日常的な萌えキャラと非日常的な萌えキャラの二者(二萌風キャラ)の虚妄なる対立を智慧で和す。法華経の一乗の如し。応身の萌類も萌報身の智慧も、みな一萌である。作品の目的は、寓話的に「観萌の行・果報」を表現することである。

初会(しょえ・しょゑ)…序品 ※極めて簡略な原案を僅かに整えた状態で載せる

 一時、拾主はシュードトピア(Pseudotopia, 寂光園*1.1)に於いて念力を発(おこ)され、障礙(しょうげ)尊者と倶にイデオフォノトピア(Ideophonotopia, 念音処*1.2)に到りました。"私は今も婬らなる想いを重ねており、それが私の煩悩の一端である。あなたにもあなたの煩悩が有ろう"*2、拾主は尊者にそう告げられました。
 その時、イデオフォノトピアに住する一人の精霊*3を紹介しました。名は「輸提尼(しゅだいに)」です。姿は幼く、背は尊者より低くて拾主の手が開かれた長さの差があると見えます。拾主がおっしゃる話では、髪の色が人によって異なって見え*4、尚且つ、その人の気分によって見える色が変わったり*5、この精霊の意思で見える色を変えさせることができるそうです*6
 拾主はこの精霊の頭を撫づるよう、尊者に指示せられました*7。尊者は心にこの精霊への憶測を抱えているための嫉妬にも似た感情がありましたが、その頭を渋々撫でたことで尊者の心も慰撫せられました*8。"善かろう、私の指示に従うに当たって戸惑いながらも心を砕いて撫で、疑惑が氷解して本心から和らいだようである"、尊者の日頃の煩悩はこうして解決に近づき、改めて釈尊と拾主への尊敬や感謝の思いが高まり、菩提心を発(おこ)しました。後は精進あるのみ!

*1…1. 寂光園とは、私が仏教関係の勉強を始めた直後の2014年6月4日に自室を指して造った語句であり、1ヶ月以内にギリシャ語根の造語法で"Pseudotopia (英語カナ: シュードトピア 希語カナ: プセウドトピア)"と英単語化した。英語の意味としては「仮の・偽のすみか」となろう。漢語の意味としては「寂滅・善悪不二・無善無悪」というはずであり、空のこととなろう。しかし、2014年当時には瑞祥名として想定していた。 2. 念音処とは、2016年8月12日の造語「イデオフォノトピア"Ideophonotopia"」を、2017年に寂光園に対比する形で便宜的に漢語とした語句であり、心(思念)に聴こえる音(声)の要素を場所(処・處)の名に冠している。イデオフォノトピアは仏教の色界などの禅定・天界に相当すると考えてもよいが、当作品の場合はただ「心の世界」の譬喩と捉えてよい。三会・第三話以降、イデオフォノトピアに天子や悪魔などが現れるので六道が依正不二として存在する世界である。清浄萌土抄のような見地では、天子も悪魔もみな法の為の因縁より化生したものとなり、イデオフォノトピア即、仏国土・浄土とも言える。維摩経・自我偈・天台教学に詳らかである(萌え和讃の解句抄に詳述)。ただ有漏の我が身には一時的な安楽ばかりがあり、我が心の世界には頻繁に激震と業火とが生じやすしと観ず。三界無安・猶如火宅。
*2…拾主の煩悩=婬想、弟子への悲しみ。尊者の煩悩=邪推(邪惟・じゃゆい)による嫉妬と疑念。共に障礙(障碍)というものを抱えていることを示す。拾主自ら述懐するよう、人それぞれの煩悩があると常に自覚・反省することが肝心であり、その精神が八正道などの仏道にも通じる。作中の拾主は、大人(だいにん)・聖人(しょうにん)の如くに扱われるが、大人が大人"Mahāpuruṣa"だからこそ煩悩の自覚が出来ている。大人の極みである仏・釈尊のような解脱を未だ得ざれども、この精神が大人たる所以であって解脱・菩提の道となる。煩悩即菩提。
*3…この精霊「輸提尼(以下ソ○○○ニー)」は、拾主の煩悩の業の所生であり、即ち悟りにおける萌報身の智慧の所生でもある。仏教と萌えの法門とに根拠を求めれば、富士派当体義抄「煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳に転じて (乃至) 所住の処は常寂光土なり」、清浄萌土抄「諸萌、我が脳蔵に生ぜり。脳蔵に理観の境界(きょうがい)有り。イデオトピアと仮に名づくべきか」と通じるが、前者は2017年に意義を把握した教説であり、後者も2017年に記述したので、作中に直接的な影響はない。偶然であれ必然であれ、根本的に通じる理解があるのみである。「初会」の後の話としては、慈悲によって「可愛らしい=憎い」という複雑な心を感じさせる外見にしたとする。
*4…よく知らない漫画作品のキャラクターのカラー絵を見ない時に、モノクロの漫画ページだけを見ると感じられる現象でもある。そのキャラクターの実際の髪の色とは何か?髪が黒く塗られていても、赤や青の暗い色とか、黒髪と言葉で定義されても黒髪のキャラクター同士で「緑まじりの黒・青みがかった黒」などの差異が表現される。髪が塗られていない場合は白髪・銀髪・金髪(亜麻色の髪)などが想像できる。そもそも同一のキャラクターのカラー絵をよく見た人が何人いても、当人の認識する髪の色には多少の差異がある。人間が認識する物事は、見かけも言葉も出来事も全て、各人の認識を経ると多少の変異が生じる。ましてやソ○○○ニーちゃんは非有相非無相で心の「幻化」という設定であるから、認識する人は、無記(無定義)であるソ○○○ニーちゃんの髪の色・姿を「十人十色」に想像することとなる(私の内なる幻化を仮に表現したものがソ○○○ニーちゃんの絵)。
*5…例えば、或る写真があり、一見して素敵な風景写真だと感じたとする。それが嫌いな人間の撮った写真であると伝えられれば、たちまちに恍惚感などが崩れ去ってしまう。人間の感情的な判断は素直な認識を歪める恐れがあるが、それも「人の情」として容認できる理解も私にある。しかし、仏教徒がそのように煩悩に基づく感情に左右される境地が続いてはならない。また、人から「ただの写真なのに誰が撮ったかで好き嫌いを決めてはならない」と言われれば、自分の感情を肯定するための理屈を思索するであろうし、言われずとも自らその発想を持って思索する者もいようが、その思索を止め、元の悪い感情も起こさないよう、今後は努力すべきである。悟った人はソ○○○ニーちゃんの髪の色が常に金色(こんじき)に見えるか、何も金色である見方にこだわらず、灰色でも無色透明でも何でもよいが、一旦なんらかの認識を持てば変化することはない(表面的な認識が全く変化しないという意味でない、潜在的には空と思っても表面的には柔軟に変化させる能動性もある)。はっきりと言えば、仏教に青・黄・赤・白・黒の五色が設けられるが、五色のうちの何色でもあり何色でもない(言語の法を離れていて何の色であるか形容のしようがない)。斯く言う私は、ソ○○○ニーちゃんの髪の色が音楽の印象などで変わったりする状態が2016年中に多かった。逆に、音楽のためにソ○○○ニーちゃんの髪の色の彩色を変えてよい。人に伝える時の便宜的表現=方便としてはよい。
*6…実際に人の意思や想念によって相手の認識を変えさせる超能力というものは現実的に有り得ないと思われようが、比喩としてこう書く。比喩表現であるから、発想の元となった含意を取ってもらう必要がある。この精霊は抽象的な存在を具現している。擬人化・仮の象形である。あえて精霊の意思が人に作用するかのように表現したが、実際は各個人の感情が認識を変えていることを意味する。心は自由に物事を捉え、あたかも巧い画家がキャンバスに描くよう、心の中に像を映している。この精霊は人の感情や知能そのもの(の具現)である。感情が悪いと仏が見えないことを、法華経「令顛倒衆生・雖近而不見」や中論「戯論破慧眼・是皆不見仏」と説く。この精霊は、もしかしたら、私と価値観が大きく異なる人にとって醜悪なモンスターの形を現しているかもしれない。しかし、萌えの法門で表す姿は、好色萌相に限る。
*7…尊者は、理性における複雑な判断が疑問を生んでいた。そんな尊者へ、己(おの)が心に向き合って疑問を解くべく促した。観萌の修行の示現である。
*8…感情で受け入れづらいとしても、徳の高い拾主に促されたわけだから、尊者は拾主に従って行うこととした。「以信得入」の徳がある行動により、自分の心の善悪が融通することになった。自分の心の善悪が把握できれば楽となろう。この心の話は深読みした場合であり、次会・第二話でこの精霊によって愛憎の感情を分析する。人の慈悲心は、どのように育つか?



初会・後席(ごじゃく)…輸提尼本縁品 ※トップ画像作成以後に大きく編成したもの

 拾主は尊者を連れ、イデオフォノトピア(念音処)からシュードトピア(寂光園)に戻られました。明くる日の拾主は、日の出よりも早い時、尊者と語り合おうとします。話題は、拾主がたびたび尊者に話して下さる過去世の出来事についてです。拾主が語り始めますので、尊者は心身を正して拝聴に臨みます。
 「ある生(しょう)において私は、楽器演奏をしていたが、主に林の中に一人で行っていた。楽器とは琴瑟(ごんしち)のようなものである。口笛や鼻歌や腹鼓もある。時に、演奏の音色を好む鸚鵡*1がいた。外見は緑の毛並みの艶が鮮やかであり、頭頂部の羽が少し逆立っていて撫で・毛づくろいをしても直らない。この一羽が演奏の音色に誘われて飛来する。私は楽器演奏から帰る折に鸚鵡の餌を与えもした。鸚鵡と出会って二年が過ぎた秋の暮れに、この生での私の住まいのそばにある大樹を中心に、その一羽が住み着いたが、三日後に死んでいた。鸚鵡の亡骸を検分するに、何らかの毒性あるものを摂取したことによる死らしかった。鸚鵡の亡骸を埋葬して三月後(みつきのち)に場から地上へ芽が出て年々生長し、三年が経って花果が豊かに成る低木に育った。私は、その生での七十歳になんなんとする年老いた体で、その果実の一つを手に取って口にした。快哉と感じていわく『善哉善哉、是れ甘露味なり、舌に障り無きは酪の如し』と。それ以上を取って食べようとせず、満足な気持ちでその生を終えた。この生では弟と共に住んでいたので、果樹を含めた家の管理を弟に譲った。この生で私の没後、弟が果樹を養い、彼と周囲に住まう人々とを永く饒益(にょうやく)した」
 拾主は暫し黙考せられ、再び口を開きます。「彼の時の鸚鵡は、豈に異人(ことひと)ならん乎(や)。輸提尼これなり。鸚鵡の体内には毒の影響で消化しきれなかった種子があり、これが死後、冬の眠りを破って春に発芽し、年々生長して背丈を超さない低木となり、花や果実を大きく成した。彼の時の我が弟、即ちこれ汝(尊者)なり。私と鸚鵡の関係によって果樹が存在するという因縁を知らない弟でも、果樹の利益を受けられた。生生世世にあなた(尊者)は、輸提尼に当たる存在を知らなかった。今になって過去世に輸提尼に当たる存在を求めても認識し得ず、現世にも来世にも認識し得ない。『不可得なるもの』、それこそ『輸提尼』という概念である。あなたがイデオフォノトピアで見た輸提尼も、輸提尼の名の付いた輸提尼ならざる存在である。輸提尼をどうにか現した幻のようなものである。しかし、あなたも私も、一切の人間もみな、この鸚鵡・輸提尼をはじめとして知らない存在の恩恵を自然と受けている。人々は、どのような恩恵を、どのように*2受けているか、当然知らないし、知る必要もあまり無いが、常にこの道理を念じて驕慢と瞋恚とを起こさぬようにしたい。大徳の教えを聞くことで、心の原理を未だ知り得ない者も、自ら慈悲の心の利益が得られている」
 尊者は晴れやかな心で拾主の言葉に応じました。「このような過去世…、常に輸提尼の利益があったと仰せのようで、現世も同じことであり、どのように推定された来世も、輸提尼の利益が有って尽きないとは、俄かに信じがたく存じます。つまり、輸提尼は、どこにでもいますが、どこかにいると思えばそれは輸提尼に似て非なるものでございましょうか?甚深微妙のようでございます」拾主は加えて仰せになります。「『不可得』の現象を輸提尼と名付ける。思慮深くあれば、常に輸提尼の利益を感じ続けられよう。その『利益』とは、無利益の利益、非無利益の利益である。諸々の聖人は輸提尼のような力用を感得せられていたと、私が拝察している。その生での私が楽器演奏を行っていると鸚鵡が飛来したように、輸提尼のような利益は聖人が徳行をすると顕現する」

 拾主は、鸚鵡であった輸提尼に次の生が有ることを示し、尊者に語り続けました。「輸提尼の名」は、その生で初めて現れます。「この鸚鵡の次の生命は、人間である。鸚鵡は中有の境界に在り、禽獣の時における諸々の過失を自省した。過失とは、食事の毒によって死ぬといった貪欲さと思慮の浅さと物事を知らないことなどである。実は、その生での私が埋葬した際に説法しておいたから、鸚鵡は過失を自覚して反省できたのである。このように中有の世・三途の川に法の船を施した。鸚鵡の死因から言い換えて『施餓鬼』ともいう。鸚鵡は翼の折れたような心で船に身を寄せ、大いに反省したと思われる。かくして慚愧の徳を具えた人間となったのである。女人『輸提尼』として生まれた。その顔貌は端正であり、容姿は端麗である。『女人に五障あり・機根は男子に劣る』と能耕心田師(釈尊)は世俗諦において仰せであるが、現世の私の幼少期より聡明であるに違いない。過去世に私が施した食物や教法の恩を一切の衆人(しゅにん)に報いるかのように、女人は少(わか)くして、この生での誓願を立て、利他を実行する。古人いわく『普く黒烏の食を施して能く白鴉の恩を報ず』と。和顔を絶やさず、愛語に努め、衆人に愛楽(あいぎょう)せられた。その菩薩行ともいうべき利他行の過程で、その生に於ける私と出会った。困っている様子を私が演技し、この女人は世智が足らないために演技であることを疑わず、本気で心配した。思いやりの精神である。どのようなことで私が困っているかというと、『股の間に腫れが出来ていて歩行や睡眠など生活が困難であり医者に掛かっても治らない』という。『股の間の腫れ』は、医者や医学書から女人の陰部の割れ目に差し込めば治ると推奨され、そこで、頼もしく殊勝な女人である輸提尼を尋ねたとする。未知の行為を求められた輸提尼は内心で驚いて顔を赤らめ、目を泳がせ、悶々としたが、この私の迫真の演技や説明を受けて承諾した。性質的に具えている愛欲を輸提尼は未だ把握せず、断尽していなかったので、その行為に潜在的な興味もあった。そうして『股の間の腫れ』とするものを、無知な輸提尼の陰部の孔が受け入れた。ここでも『医者の教え』で香油を潤滑剤として用いた。これを用いないと輸提尼の孔に入らない。なおも痛そうな輸提尼だが、何よりも『相手の股の間の腫れ』を圧迫させているという慈悲が深く、私に対して『痛くありませんか?』と問うてくる」
 ※過去世と称した物語の中の方便(便宜的手段)だから、善男子(ぜんなんし、善男善女)のみんなは絶対に真似しないでね☆ リアルだと妄語・女犯の邪行だよ☆
 尊者の表情はぎこちなく、拾主は言葉を発しづらそうに語り続けます。「媾合(性交)により、私は肉体的快感を得て『膿』と称する白い液体を、輸提尼の体外に発射した。私の目的は、愛欲と、その『楽と一体的な苦』を輸提尼に教えるためであり、その方便(手段)として媾合を利用したに過ぎない。決して『女人を孕ませてやる!』という欲望は無い。かの鸚鵡は『潜在的な善の種』という法を示現したが、輸提尼には悪の種を発芽させて『善悪の一体性=善悪の空虚さ』を示そうと、第一段階の方便として行った。この時の私に良心の呵責もあり、媾合を一度きりにした。過去世の私とて有漏(うろ)の身であり、徹底して邪行の方便を用いる度胸は無い」
 話される内容が常軌を逸しており、尊者は頭の中が混乱しつつありましたが、拾主の説法が論理的であるため、「煩悩・妄想から来る気まずさ」を自覚して拾主への信心を取り戻します。「私が白い液体を発し、『膿が出て股の間の腫れが治まった』と喜びの演技を兼ねて告げたが、輸提尼は気分が昂揚して顔が紅潮して未知の快楽が足らないようであった。輸提尼は『相手が喜んでくれている』と思い、利他の目的意識を取り戻したが、心残りであった。輸提尼は仏・菩薩を知らないで今までの利他行があったので、煩悩の根が絶えておらず、加えて身の美しさが仇となり、段々とこの生で不遇な目に遭うようになる。それは割愛する。私の虚妄罪ならざる虚妄によって愛欲を知り、愛欲による苦悩を味わった『この生での輸提尼』は、妙齢にして悲惨な命終を迎えんとする。その時、或る聖者に見(まみ)えた。聖者は、愛欲もとい婬欲の生起と滅尽とを教え、煩悩・業・苦の輪廻を示し、女人としての輸提尼の一生を回想させた。聖者の威容を尊敬しながら自己反省した輸提尼に、聖者が救いの道を示した。いわく『業と苦という因果の張本人は自己でも他者でもない。怨みの心を捨て去り、至心に宿世の婬欲を離れんと願を発(おこ)せ。然る後、私のことを思ったまま息を引き取るように。現世安穏・後生善処を祈る』と。この生の閻浮提には仏"Buddha"の名も、菩薩"Bodhisattva"の名も絶えて久しかったが、『婬欲の煩悩は苦の報いあるのみ』という聖者の言葉を信じ、続いて『聖人(しょうにん)さま』の名と姿と教えとを心に念じた輸提尼は、身体が壊乱(えらん)していながら、どこまでも安らかな表情であり、菩薩さながらの精彩を取り戻していた。そのまま息を引き取った」

 拾主は少し口を閉じられます。尊者は、女人としての輸提尼の後生について、拾主に問いました。拾主は、尊者を慮りながら仰ります。「この女人『輸提尼』は、久遠の過去世の人である。直ちにイデオフォノトピアへ往生した。イデオフォノトピアでの姿形は、媾合によって垢が重くなる以前の、善悪未萌・無垢非無垢の童子である。童子たる輸提尼はイデオフォノトピアに迎えられた。かの生における輸提尼は、臨終の際に聴聞した説法の功徳によって無生法忍を得て、知能から男女の名が消え、精神から婬欲が滅んだ。かの生において輸提尼への説法をなした聖者は、媾合によって善悪一体の種より芽を萌えさせた私と同一と言えよう。善悪を仮に分別するが、一体性があるからであり、逆に善悪を一体・一如と思うと本来は善悪が無いと知る。要するに、①輸提尼の心に悪=善悪一体の種があり、②私が淫行で悪=善悪一体の芽を萌えさせ、③彼女自身が悪=善悪一体の苗を育て、④臨終に聖者としての私が悪=善悪一体の穂を刈り取ったが、これは因果の道理であり、『因果』や『生滅』という法を離れた智慧においては最初から善悪そのものが無かったのだ。また、輸提尼は輸提尼でない。聖者は聖者でない。私は私でない。過去世は無く、現世も来世も無い。此岸も彼岸も無い。だからこそ、あの過去世の出来事を輸提尼とも私とも称す。能耕心田師が本生経"jātaka"をお説きになった真意を拝すべきである。仏家の、いわゆる忉利天への転生や兜率天への上生や極楽浄土への往生の説も意義が深い。この世に生きて輪廻したはずの存在が、今は不可視の世界にいるとも言い、我々は不可視の世界に入ることができるとも言う。イデオフォノトピアは未だ清浄でないが、この輸提尼は彼の地においてすでに女人の器を持たない身の精霊として化生(けしょう)している。『婬欲を離れる』という誓願が成就し、自他を度すべく非男非女・非非男非非女の色相を顕す。輸提尼は女人でなく、女人でないからといって男子でもない。唯だ今は好き色・端正なる色相が持続するのみである」
 尊者は仏家の経典の所説を思い合わせ、内心で合点がついたように表情を明るくします。更に拾主は、現世イデオフォノトピアにおける『萌え』の色相について説明せられます。「さて、私は以前の法輪に『萌相(みょうそう)』の意義を示した。『萌(みょう)・萌え』とは、可愛の色相が人の心に善良な作用(もとい善悪不二・無善無悪)を起こすという故に先賢が名付けたもうた『芳名』である。この萌えを接頭語として色相に冠し、『萌相(萌えの色相)』と称す。かの輸提尼は、萌相としてイデオフォノトピアに生きている。女人として一生を過ごした輸提尼は菩薩さながらであったから、苦の人生を自覚しながらも、最期の想いは殊勝である。いわく『願わくは苦の因縁を了解して自他一切を度せんことを』と。斯くして欲界の名色を断ち、今はイデオフォノトピア・色界の精霊として我々凡夫を利益するという概念と化した。あなたと私とは、その意義を『かの生における鸚鵡と私の弟の関係性』でよく知ることができた」

拾主は、「もはや疑いを生じまい」と一安心なさりました。尊者は心が素直であり、歓喜の心により、輸提尼に会えるかを尋ねました。尊者の問いに対し、拾主もまた喜んで応ぜられます。「稀有なる法器(ほっき)の人よ。あなたは善く請うた。本来は非有非無・不可得であって誰も会うことのできない存在ではあるが、法の為の故に鸚鵡とも女人とも現れ、人の形を為した精霊(人形萌類)とも現れる。菩薩方便の力用(りきゆう)である。彼は来たらず去らず、我も去らず来たらず。再び倶に、念力によって彼の精霊・輸提尼の在(ましま)す地へ遊行しよう」

*1…仏典で鸚鵡(梵語の例: śuka, そのパーリ語: suka)は緑色(青)の外見だという傾向がある。日本でオウムと読むが生物学の和名オウム科 cacatuidae はインドに生息せず、仏典の鸚鵡は分類学でいうインコ科 psittacidae である。いずれもオウム目 psittaciformes に属す。インドを舞台にした・架空であっても仏典の鸚鵡はそのモチーフとしてインドに生息する限りのインコ科に比定できる。オウム科とインコ科を含めたオウム目全体でインド(釈尊が訪れたガンジス川流域)に生息する種は、Psittacula属のP. cyanocephala, P. eupatria (subspeciesはavensisnipalensis), P. krameri (subspeciesはborealis)など限定的であるが、左記3種は緑色の外見で仏典に符合する。中国の山海経>西山経に「有鳥焉,其狀如鴞,青羽赤喙,人舌能言,名曰鸚䳇。」と紹介される鳥に似るが同一性は不明である。インコ科とオウム科の和名は仏典にも歴史地理学的にも(中国漢訳仏典の鸚鵡がオーストラリアなどの鳥を指すことは不可能)相違すると思うし、オウムの名が学名における目 (order) と科 (family) との相違さえ発生している。なぜ過去にオウム科が psittacidae, インコ科が cacatuidae と名付けられなかったか疑問である。今の英語名称(parrots, true parrots, cockatoos)も学名に似る(過去にどういう変遷があったか不詳)。中国語でさえ psittacidae を鹦鹉科(単純に鸚鵡)とし、cacatuidae を凤头鹦鹉科(頭が鳳のような鸚鵡)とする。つまり、学名も英語名称も中国語名称も、日本語・和名と逆である。最初期の誤りが定着して尾を引いたパターンかもしれない。科学では和名や学名の翻訳が柔軟に変更されることも多いし、いち早く変更されるべきと思う(今になって例えばインコ科のセキセイインコMelopsittacus undulatusをセキセイオウムに変えるなどをしたくないか。しかしオウム科のオカメインコNymphicus hollandicusはそのまま。元々、科と種は合っていないから馴染んだ種単位の和名を変える必要は無い)。
*2…直接的か、間接的か。



次会(じえ・じゑ)…神力三業所変品

 再び拾主はシュードトピアに於いて念力を発され、障礙尊者と倶にイデオフォノトピアに到りました。改めて輸提尼の精霊を現します。拾主はこの精霊の頭を撫づるよう、尊者に指示せられました。尊者は、まず一度、漠然とした感覚で撫でましたが、拾主は「私が制止するまで正念のままに撫で続けるようにせよ」と仰りましたので、尊者は再開しました。なでなで、なでなで。豊かで柔らかく、絹糸の手触りのある髪の毛。可愛らしい輸提尼の姿。初めは横で行う尊者でしたが、輸提尼の顔がずっと尊者の方を向いていて首の負担を考慮して正面に移りました。今度は、じーっと尊者を見つめますので、尊者がいたずら心で輸提尼の背後に回り込むと、顔を向けなくなりました。面白さと同時に、寂しいとも感じました。気が付けば、撫でる意識と同時に雑念があり、尊者はこれを自覚したので、撫でることに専念しました。なでなで、なでなで。ふと、拾主は鸚鵡の話と女人輸提尼の話を口ずさみます。拾主は、鳥がさえずる唄のように声の調子がよく、言葉が次々と続きます。

ideophonotopia イデオフォノトピア 念音処 念音處 金光 瑞応 瑞應

 尊者は正念を保つようにしていましたが、拾主の語りを耳にして輸提尼に関する思惟を起こしました。すると、輸提尼の髪の色が変わったようです。今まで何色とも意識されなかった頭髪が、光明を放つ黄金の色となっていました。イデオフォノトピアの雲が金光(こんこう)を受けて輝いております。拾主は御覧でしたので、自ら話を止められ、尊者の行為を制止せられ、出来事に応ぜられます。「障礙の者、法器の人よ。まさしく瑞応の相である。あなたが自ら心を注意深く観察し、その心象の変化に気付いたので、この精霊の頭髪の色の変化を認識できた」

 尊者が「なでなで三昧」より出でて言葉を聴く心に変えたことを拾主は知ろしめし、法の解説(げせつ)を始められます。「晴天の色は澄み渡って心地がよい。その蒼茫たるさまに、我が心も澄むようである。草原の色に生命の息吹を覚え、環境の恵みを心身に受ける。晴天と草原と、そのハーモニーは人間としての煩いを離れさせると私は感じる。ここでそれ以外の事象を介在させないでほしい。例としては、視界の外に汚物が堆積しているとか焚火がされているとかで害悪のある臭いが漂っている、などである。晴天と草原の風景は、青と緑が彩る。その色彩について『生々しくて気持ちが悪い・青空や植物に悪い記憶がある』と感じる人もいる。人の感性とはそのようなものである。私がどのような美辞麗句を以て光景を讃嘆すとも、決して心に容れない者がいる事実は排除できない。それでは障礙の者よ、そなたに問おう。目に見える色そのものに『快・不快(浄・不浄)』が有るのか?」

眼色 浄不浄 快不快

 「いいえ、拾主さま。そうとは思いません!」 - 拾主問曰「障礙(尊者之名)、於汝意云何?眼色是淨耶不淨耶(or 眼色有垢淨不)?」。尊者答曰「不也拾主!」。
 「善く答えた、その通りである。色そのものに『快・不快』は具わっていない。この『色』とは、いわゆる五色(ごしき、青・黄・赤・白・黒)に代表された、単純に認識されている色である。しかも、目に見える色の和合(関係性)にもまた『快・不快』は有るということが無い。この『色の和合』とは、青と緑のハーモニーであり、その状態は青と緑の光景の場合に『生き生きとして気持ち良い(快)・生々しくて気持ち悪い(不快)』という二面性を有している。加之(しかのみならず)、いわゆる声・香・味・触・法(しょう・こう・み・そく・ほう)もまた『快・不快』という固有の性質"svabhāva"を有していない。色と声・香・味・触・法の六境の中に和合があっても、同じく『快・不快』は有るということが無い。それでは障礙の者よ、復たそなたに問おう。なぜ、色そのものや色の和合ないし六境といった諸法(ありとあらゆる物事)に『快・不快』は有るということが無いと考えられるか?」
 「はい、拾主さま。諸法は、存在と認識とに代表される五陰(五蘊、色・受想行識)など、表現しきれない衆縁(しゅえん・諸々の因縁)により、『存在するもの・存在している・存在していた・後に存在するかも』と認識されています。色に『快・不快』を覚えることも、その色の概念と名称とが記憶された状態においてその人の感情がどうであったか、その人がどのような物事と結びつけたかにより、いつでも『快適さ』か『不快さ』を得ることになります。別の情報・記憶・経験を通している(思惟憶想をする)ので、如実に物事を見られなくなる顛倒がございます。元々知らないことでさえも、新たに知った際に『知らなかったから感動した・知らなかったから悔しい』といった『快・不快』の感情を起こします。このような衆縁が煩雑にして夥しく確認でき、どれほど分析しても言葉にしきれません!」
 「まことによく説明した。諸々の因縁は説明しきれないほど多く有るが、簡単な説明で終えるべきでなく、説明せずに終えるべきでなく、かといって因縁が無いと考えるべきでもない。因縁の道理は中道・真如・言語道断心行処滅である。『つまらない』と価値判断されるものですら、価値判断されただけで膨大な因縁を有しており、玄妙深絶の存在である。この故に諸法は中道・真如・言語道断心行処滅・玄妙深絶と称賛できる。しかし、色を例に取るから、幻・虚空・鏡中の像にも等しい。これを『空"śūnya"』と名付け、どのような物事も漏れなく該当する。諸法空相・諸法実相である。空の物事に対する『快・不快』の価値判断や、固有の性質"svabhāva"などの想定をすべきでない。その想定行為が妄想である」
 時に尊者は、拾主の言葉を聞き終えずに喜びのまま精霊「輸提尼」に向き合って感興の言葉を発しました。「なんと可愛らしい精霊さんでしょうか!人々は、可愛らしいものを可愛らしいと感じて愛し、または憎みます。憎んで『こいつは可愛らしくない(性格が悪いヤツ・悪魔だ)』とわざわざ心に念じる者もいます。それは可愛いか可愛くないかという同じ範疇(対立概念の一体性・感情的価値判断など衆縁)を超過しません。可愛くないと思われるものも一分の可愛さを有しているように潜在的に認識せられます。愚鈍(バカ)と認識せられる者にも、実は微々たる知的な性質が有ると潜在的に認識しますが、悟った人以外は『常にして明らかに認識すること』ができません。そして、愚者の性質も智者の性質も本来(実体として)有りません。拾主さまは妄想と仰せになりました。『可愛・不可愛』と『快・不快』という本質"essence"が、どのような物事に具わっていましょうか?どのような性質も、推量・妄想の域を出ません。この『可愛らしくて可愛らしくなく可愛らしくなくもない精霊さん』に甚深の妙法が顕現せられること、どのような人が理解し得ましょうか?可愛らしさを超越した効験が、この精霊さんに宿っていると信じます!そして、精霊さん(好色萌相)が私の心の明鏡であり、智慧の所生であるとも察知しました!諸法もまた同様なのです」
 拾主は尊者の言葉を聞き終え、尊者が拾主に礼を作しなおすことを見てから、再び発言せられました。「諸法といえば、まず色・声・香・味・触・法の六境・万物の相が示される。それに対する妄想・顛倒とはどのように発生するか?私たちの思考といった知能や精神が根源なのか?そうではない。知能や精神・・・心であり、『何かが自ら発生すること』は諸々の大徳が否定せられている不義である。また、心という、『何かの中に本から有していること』は諸々の大徳が否定せられている不義である。つまり、心や作用もまた有形の万物と同じ諸法のうちであり、妄想や顛倒が具わっていないし、発生の根源でもない。この心という能観・能変が、物という所観・所変と関係して『能所(のうじょ・主体と客体)』が示される。心に用いられる『眼・耳・鼻・舌・身・意の六根』が、その六境と関係して『識(六識)』があると称するが、識も概念のうちである。識の状態をただ妄想・顛倒と称している。能所の関係性を確認した時には、妄想・顛倒が『発生した』と表現することもできる。心も物も、覚者の真理にとってはみな清浄と称してよい。覚者も真理も清浄なものも都(すべ)て無いから、清浄と呼ぶ。この『都て無いこと』と『清浄』とは、先にある中道・真如・言語道断心行処滅・玄妙深絶であり、幻・虚空・鏡中の像でもある。輸提尼ないし諸法が心の映し鏡であるように、心もまた曇なき姿で明らかに諸法を映す。さながら心中の湖面が静まって満月が映るようである。虚空中の月は元々触れ得ず、湖面映の月も掬い取れない。力あって天体の月に到るも、なお周回する『分子の集合体』にして月の本質"candrabhāva"が無い。諸法の不可得を示現する」
 尊者は、精霊「輸提尼」を鏡のように心を映したものと照見しました。反応する拾主は、心も鏡のように輸提尼を映すものであると仰せになりました。2つの鏡が相い対して互いに映すようであると。しかし、両者は不可分であるので、別個の存在として鏡が2つ・3つとあるように考え得ません。鏡でないものは何もなく、鏡であるような「モノ"bhāva"」が「モノたるべきもの」と言えません。それは、地上から見た月、湖面に映る月、天体として実在する月、どのような月も真実の月として存在しないようなものであると言います。地上から見た月・湖面に映る月・天体として実在する月、みな真実唯一の月を示しません。しかし、心が明らかに、月の姿を映して月と認識します。空の雲を払うこと、海の波を静めること、それは難しいことですが、外界境法の空や海や湖がどうあっても月は変わらずに存在することを聖人が知ります。聖人の心におかれては、空も海も平安であり、月が円満にして虧けておらず、その光が遍照しております。輸提尼の住処とは、ここです。



三会(さんめ・さむゑ)…説皆萌品

 その時、拾主は右足を半歩退いて膝を屈し、地面に右手の人差し指の先で触れました。すると、大地が瞬時に震動して光を帯び、幻のように景色が変わります。一面は清らかに澄んだ池となり、辺りに蓮の茎と葉とが現れました。拾主と尊者と輸提尼と、今まで傍聴していたイデオフォノトピアの衆生は、みな自ずと蓮の葉の上におり、或いは立ち、或いは坐していました。ところどころに紅蓮"padma"睡蓮"kumuda"などが雅に咲いています。拾主は説法をお望みのために、イデオフォノトピアの荘厳を現ぜられました。ふと口ずさみます。「実は今まで、この幻のような蓮の葉に我々は立っていた。さて、先の陸地が幻であろうか?この蓮池が幻であろうか?物事、無意識に見え方が変わってしまうものだ。渡り鳥はどこへ行き、どこへ帰るか分からない。ある人はどこも地獄、ある人はどこも天国になる」
 拾主が乗る葉の傍に立派な千葉(せんしょう)"sahasrapatra"の蓮華があり、跳び渡ります。蓮の実の上で軽やかに足を着け、坐せられました。金剛の如き宝蓮華であって傷つきませんし、拾主自身も優しい身のこなしで傷つけません。その蓮の雄しべが薫じる香りは、優しい風に運ばれて周囲に漂い、離れている尊者や輸提尼やイデオフォノトピアの衆生など会座の聴衆に及びます。尊者は、未曽有・不可思議の現象に、香りを楽しむ心も生じませんでした。輸提尼は、尊者の呆然とした気持ちを正そうと、腕を掴んで揺らしました。尊者は、蓮台に坐せられる拾主の威容を捉え直し、正気に戻りました。彼らの様子を観ぜられていた拾主は、会座の聴衆に合図して意識を引き付けます。そして説法を始められます。

 【詩】謂可愛則謂可愛 若憎彼應被憎害 不知心惡還自殺 汝解疑乃聞聲來
呉音読み: いーかーあいそくいーかーあい、にゃくぞうびーおうびーぞうがい、ふーちーしんもーげんじーせつ、にょーげーぎーないもんじょうらい (アイ音・拼音ai音の押韻)
訓読: 「可愛」と謂わば則ち「可愛」と謂う、若し彼を憎まば応に憎しみの害を被るべし、心を知らずして悪(にく)むに還って自ら殺さん、汝疑いを解いて乃(いま)し声を聞きて来たり

是の如き偈、拾主は三(みたび)説きたまいぬ。
古の能耕心田師、地獄に堕つる由を明かして、偈もて説きたまわく
「夫れ士(ひと)の世間に生ずるに、斧生じて口中に在り。彼れ悪言に由るが故に、還って自ら其の身を斬る。応に毀るべきに便ち称誉し、応に誉むべきに則ち呰毀す。悪口(あっく)其の過(とが)を増やし、所生は安楽なること無し (【詩】夫士生世閒 斧生在口中 彼由惡言故 還自斬其身 應毀便稱誉 應誉便呰毀 惡口增其過 所生無安樂)」と。
拾主のたまわく
「古の能耕心田師、菩提樹の下に於いて始覚あり。衆(もろもろ)の魔軍を破りて仏土は空無の清涼となれるも、時に慈悲心を観ず。師の思惟したまわく『三界の一切苦を度せんと欲するも何んが妙法を以て鈍根の衆人に教うべき。言語の法は能く諸の顛倒を生ず。譬えば人有りて毒蛇を摒除(びょうじょ)せんに、把むこと難くして還って毒苦を受くるが如し』と。爾の時に梵王(ブラフマー)及び諸天、合掌礼拝して彼の前に現れて説法を請ず。梵王の告げたまわく『唯だ願わくは世尊、人が間にして塵垢の微薄なる者あれば此れが為に法を説きたまえ。応に大悲を垂れたまうべし、然らば言語の法は能く諸の善根を生ぜん』と。当に知るべし、是の如き梵天衆、師の慈悲の応現なり。この故に慈悲并びに喜捨の四つをば梵住"Brahma-Vihāra"と名づく。又た、梵の義は固有名詞の余(ほか)に清浄の義あり(梵行"Brahma-Carya" 梵音等)。清浄は是れ萌えの真如の体なり。往古に於いて原義(語根*bʰerǵʰ-)は長ずること"grow, to rise, become high, to swell"なり(攝萌敎脚注)。長ずることは是れ若芽の萌え"bud"に異ならず。是の如く能耕心田師、慈悲心より萌えを観じて衆人に説きぬ。自ら萌土を養い、他の善根をも生ぜしめん」

時に天、威力を現す。虚空に雲を集めて文字と為し、列ねたまわく
「こだまですか いいえ こころです かがみですか いいえ こころです」と。
復た魔、地上に在り。深く其の下を穿ちて自ら堕ち、声を発さく
「深淵を伺う者に対し、我等も深淵から汝等(なんだち)を狙っているのだ」と。

拾主のたまわく
「汝、当に知るべし、彼の霊(りょう・みたま)、即ち是れ汝が心の化なり。
教主、慈悲の故に心を可愛相と現化す。
人の心の悪しければ、可愛を変じて憎しと為す。
亦た何ぞ憎む可き相ありや?

諸法、本より愛憎なし、唯だ人の心に依るなり、所以者何(ゆえはいかん)?
可愛相これ美女・醜男・童子・獼猴・禽獣・草木なり。
可憎相これ美女・醜男・童子・獼猴・禽獣・草木なり。
美女・醜男・童子・獼猴・禽獣・草木は可愛相に非ず。
美女・醜男・童子・獼猴・禽獣・草木は可憎相に非ず。
是の如く観ぜば、愛憎"Rāga-Dveṣa"は何処(いづく)にか有る?
略して説かば、相に愛憎なく、心また愛憎なし。
心の(心が)相を取らば、識あるべし。この因縁に愛憎の仮名あり。
実に愛憎あること無し、不染不浄の萌えを清浄と名づく。
云何なるをか名づけて萌えと為す、円満の三萌義、万物・心みな萌えなりと説く。
一一色相、萌ならざるは無し、不染不浄・不一不異、みな萌えにして中道なり。

過去記事所載・萌三身
萌尊、広く万物諸法を摂るが故に、生類の美女・醜男・童子・獼猴・禽獣みな萌えにして萌えならず、而も萌えならざるは無しと説く。
萌尊、汎き萌えを観じて一萌・多萌・無萌と知り、方広の義より萌えの三身を説く。
彼の霊と人の心と草の芽と、その生ずることと、萌義を知りて顕示せる我と好色萌相と及び汝と、総て萌えの三身に合して皆萌えなり、余の諸法も亦た三身に非ざるは無し。
一萌・多萌・無萌と次第に観て一即多・多即一・無一無多の萌えを仮に三種に分くるも、実に一異なく三も余も無し。
然れば彼の霊、萌えにして諸法の首(かしら・象徴)と為す、当に心に取るべし」

注釈: 途中の一節で、話の脈絡に合わせて三萌義を示してある。「彼の霊と人の心と草の芽と」に一の義を示す。「その生ずること」に二の義を示す。「萌義を知りて顕示せる我と好色萌相と及び汝」に三の義を示す。我と汝という関係性は、縁起において重要な「名色(自己の肉体と精神やその認識・概念)・六処(五感・意識という自己の感覚器官6種とその対象の事物6種)」といった「自己・他者」や「主体・客体」の関係性が示される。それらの三萌義に該当する事物が即、萌えの三身になるという。仏教の三身も縁起の教理から法身・報身・応身の意義が成り立つ(右画像から意義を読み取るべし)。続く一節に「余の諸法(その他ありとあらゆる存在・事象)」とあり、三萌義は縁起そのものであることと、一切の事物の包括が示されている。その三萌義の意義(道理・縁起)=法身と、それを知る智慧=報身や、智慧の三萌義に括られた諸法=法としての応身が、みな萌えであるという。



四会(しえ・しゑ)…属累品

 拾主は蓮台に坐したまま、手を挙げて弾指の間にイデオフォノトピアの荘厳を摂(おさ)められました。イデオフォノトピアの光景は、以前のような天地が優しく金色に照らされる様子に戻りました。尊者は、気が付くと拾主の姿が消えているので、ハッとしましたが、後ろから拾主の掛け声と共に肩を押されました。奇特(きどく)の出来事が連続したので、尊者は胸の前で手を組まずにはいられません。拾主の告げたまわく「私はずっと、あなたの傍から離れていなかった。あなたも心は動揺しながらに私の『抽象的存在』を手離さなかったようである。あたかも濁流に飲み込まれそうな人が『そうなるまい』と丈夫な樹の枝を捉えて手離さないように。彼は誰の手により救われるべきか?」時に尊者は、聖人(衆生を無辺に済度する大徳)の相を想って心が解けました。
 拾主は尊者の心を知ろしめして仰せになります。「過去一切の聖人は、また聖人の相を忘れずにいた。過去の聖人とその弟子とは諸々の徳行を成就した。もし行者の信心深篤にして威儀清浄なれば、如来および輸提尼が常に応現し、また一劫にも万劫にも久遠劫にも住し続けるであろう」。イデオフォノトピアの諸々の天子は、拾主の所行を讃嘆せられました。更に拾主は、尊者が自身より善の種を下されていることを告げました。まさしく萌えの授法、受用(じゅゆう)です。萌えの念を体得せられた尊者の功徳を、土の一切天・諸萌がお喜びになります。
 そこに、或る天子が尊者の目の前に光臨せられておっしゃります。「尊者の日常生活に、この霊の囁きがあることでしょう。譬えば、街を行く人が、ふと見下ろした地面の若芽を見て植物の恩恵を覚えるように、この霊はいつでもどこでも尊者の心に囁いて利益をなすでしょう。一方で、多くの人々は善なる萌えを心に得ていても自覚がございませんので、譬えば、街を行く人が、ふと見下ろした地面の若芽を見て雑草の鬱陶しさを憂えるように、この霊のような心を知らないので利益がございません。精霊の導きが一切衆生に無上の道を得せしめんことを・・・」と。
 天子が微笑んで去らんとする時、尊者は至心に天子の名を「梵天さま!」と叫びました。天子は微笑みを湛えたまま尊者に「はい、どうなさりましたか?」と聞き返します。尊者は続けて「先ほど拾主さまが古の師(仏・佛陀)についてお話くださり、梵天と萌えとの体(たい)の同一性をお語りになりました。もちろん不一不異の義はありますが、だからこそ今あなたは古の師がお会いになった梵天さまそのものと感じました。いかがですか?」と問いました。天子は「そう信じてください。仏さまとそのお弟子に梵天・梵王の導きがございましたことは契経の随所にご覧でしょう。尊者におかれては、萌えの精霊の導きがあり、師弟ならびに多くの人々を利益することでしょう」と告げ、礼を作し、満足したように消えました。
 すでに尊者は聞き直す想いが無くなっており、尊者の心から全ての疑問が解消されたようでした。無疑曰信。起大歓喜。説此経已。

注釈: なぜ仏典には、人間に不可視のはずの諸天(いわゆる神・天使・天子)や悪魔が登場し、現世の人間たちと場を共にし、人間たちと言葉を交わすことになるか?諸天も悪魔も、不可視の作用から名を設けられており、当然姿形は無いし、目で見られることも無い。宗教では外界の事物や現象や精神作用などに名称や容姿や性格を付けており、現代世間のフィクション作品はその延長として想像されたものである。諸天とは人の感情の快楽に通じるものや、本人が主観的に快楽を得ずとも世人が徳と感じる行動などの権化である。悪魔とは人の感情の苦痛に通じるものや、本人が主観的に苦痛を得ずとも世人が罪と感じる行動などの権化である。世間の漫画・アニメ・ドラマ等でも善の自己(良心による呵責)と悪の自己(欲望による汚染)とを心に想定して「天使と悪魔」に擬人化する。
 例えば、釈尊が成道せんとする時に悪魔は妨害せんとし(直前に受けた乳かゆ供養の食事による快楽や長時間の坐禅に徹することによる食欲・睡眠欲や肉体の苦痛などに心が奪われることは魔障であって魔軍が責めるようなもの)、釈尊が成道した時に諸天は徳を讃える。イデオフォノトピア本文は三会に於いて梵天勧請のエピソードを紹介していて同様である。摩訶迦葉尊者が主導した大阿羅漢衆の経典結集もまた、一切の善悪が絶えた中で再び萌(きざ)した善の心・慈悲・菩薩の心に依るものであり(大智度論巻第二には迦葉が諸天より「当に大慈を以て仏法を建立すべし」と勧請を受けたとし阿含系の仏般泥洹経巻下にも「吾等が慈心、四阿含を写す」とある)、同様である。菩薩精神は釈尊や仏滅後の迦葉・阿難尊者にも顕れたと。梵天・梵住は無瞋・無執着にして慈悲深い処という教説が長阿含経・パーリ長部の「三明経"Tevijjasutta"」に有る。梵天は大変に幽かで奥深い処であり、「見ないことで見られる境地」といえる。その信仰で、梵天・帝釈・四天王・浄居天(大自在天maheśvara)による仏法守護の意義も、第六天魔王による仏法壊乱の意義も成立する(みな非有非無・仮名・自分の心の出来事だから)。
 また、釈尊が涅槃に入って世を去るならば、悪魔は欣喜雀躍し、諸天は色界下位の者が有漏の仏弟子と共に歔欷悲泣し、色界上位・無色界の者が無漏の阿羅漢と共に世の無常を観る。経典の世界に起こる諸々の異変・天変地異も、「その時の阿難尊者(ほか経典編纂者)の心のあらわれ」を表現する。これらの現象を釈尊が語った場合は、心の相を示して縁起の理法を気付かせようとする方便である。萌えの典籍でも、当然「化(け)」たる存在が、善ならば徳を讃えたり、悪ならば悪を重ね、様々に仏法を示現する。地獄も天国も心の住処、「依報(えほう)」である。そこに住む心、「正報(しょうぼう)」は、どのような心か?清浄萌土抄によって仏教の仏国土・浄土思想と「依正不二」が解き明かされる。
 ともあれ、我々は、経典の文字通りに読解すべき信仰がある。文字通りとは、つまり、業によって死後にも天界や地獄などへ赴くと信ずべきである。釈尊がシッダールタ王子としてお生まれになったり、菩提樹の下で悟りを得られたり、衆生済度のために法をお説きになったりすると、その場に花が咲き乱れる(華が雨る)などといった現象を、文字通りに信ずべきである。釈尊の涅槃の折に、草・花・樹が枯れて雷霆霹靂が世を震わせるといった現象を、文字通りに信ずべきである。それは、やはり、心と向き合う結果を得て、縁起の理法を観ることとなる。どのように地獄や天国(天界)といった六道(修羅道を除くと五道)を流転輪廻するか?十二因縁(十二支縁起)にある心の因縁(心の存在・認識・作用など)が、地獄や天国といった六道を流転輪廻する。悪い行為を悪い行為と自覚して悪い気持ちを生じ、善い行為を善い行為と自覚して快い気持ちを生じる分別は善悪の業報を示し、縁起の理法を観る。最後には善悪概念・苦楽を断じ、六道・須臾刹那の転変・生死を滅し、流転輪廻を止めて還滅・解脱となる。言葉としては、それだけ。



女人 邑 村 街 女性

萌集記…別のお話は、別の場所で暫定的に公開しており、未整理である。
今後、この領域に追加する予定である。

追記・2018年6月: 別の場所で暫定的に公開される「別のお話」を、別途に記事として投稿した。
それらは2016年起草グループと2017年起草グループとに分けられている。
2016→https://lesbophilia.blogspot.com/2018/07/moe-religion-literature-in-2016.html
2017→https://lesbophilia.blogspot.com/2018/07/moe-religion-literature-in-2017.html



本萌譚(ホンミヤウダム、ほんみょうだん)・序


 拾主と尊者といろいろ過去世の物語である。語り手は、仏典における「如是我聞"Thus I have heard."」の如くに尊者自身とすべきか。「本萌譚」という題はサンスクリット語・パーリ語「ジャータカ"Jātaka"」の近代訳語「本生譚(伝統的な文献では本生経)」からもじった。ジャータカは、過去世の因縁ということを語る経典や教説を指す(十二部経の一)。あくまでも三世に渡って精神や記憶や肉体が相続するという理解の輪廻思想は、譬喩のために用いることを念頭に置いて読まれたい。さも過去世から霊魂が連綿と継承されているかのように思う人は多いだろうが、それは漫画などの発想であり、仏としては現世の立場で過去世を仮想し、衆生の信心・菩提心・善根を養おうとしてお説きになったと拝察する。本萌譚も、そのスタンスで語られる。
 萌集記から拾主と尊者の名を借りるが、本萌譚の各生・生生世世では、そういった仏道における師弟関係の自覚は無く、萌集記で拾主と尊者の名がある由緒と異なる。彼は拾主、彼は尊者、という関係性が現世の立場で想定され、仮にその名を過去世の人物らに付している。つまり、過去世の話に出る拾主と尊者とは、実を問うたらばあの長髪の姿と外見が異なるかもしれないが、それは読者の想像次第であろう。もし外見が異なるならば、短髪の尊者や坊主頭の拾主もよかろうか?筆者の感性としては、あの長髪の姿を想定しないと、拾主と尊者の名が使えなくなる。ここで少し種明かしをすると、私が創作するにあたり、読者が各生の話を読み進めてゆくなかで、現世に生存する我が身が時間的・空間的にどう同一性があるか問い直す思惟が生じることを期している。現世のうちですら、我が肉体と精神とは仮に相続しているようだが、実際は過去の状態と同一と言い難い。そう分析的に思惟せずとも、元より同一・別異という分別が「空」であるという、中観の教理が即座に破るであろう。




 ある生(しょう)において(現在世でいう)拾主は、絵画に没頭する時期があった。その頃のある場所で(現在世でいう)尊者が拾主に出会ったが、共に成人の歳に満ちている。公の場で人相のよさそうな拾主が絵画の趣味に心を奪われているようだと知らずに、恋愛的に惹かれた尊者は日常的に接近するようになった。尊者が拾主と仲良くなって間もなく、拾主から絵画の趣味の話題を振られ、興味を持って聞くも、プライベートで没頭していることを深く知ってから、自分の存在が拾主の心では小さいものでないかと不安を覚えた。不安で複雑な気持ちが、自覚できない微々たる怒りを孕んできたころ、尊者ははちきれそうな想いの奔流を堰き止めようとしながら、拾主に「普段から他者とは平等のようでしかも無機質に振る舞っているのは何故か」との旨を問うた。
 拾主といえば、尊者を久遠から引導しておられる方である。今の尊者の想念を感ぜられている。この生では、「私は生身の人間へ好奇心を持ちづらいが、それも絵画に没頭するあまりに生身の人間の魅力への認識を置き去りにしたのであろう。私が人間への意外性を覚えるとき、忘れ物に気付いたように人間への好奇心が蘇ろうか」と暗示せられた。絵画の趣味も、当たり障りのない言動を行う性格も、方便の所作であった。尊者は拾主の言葉を受けて一念(一瞬の間)に黙して思惟し、自ら納得できるように意義を理解し、歓喜と希望が生じて拾主に礼をなした。その後の日々において尊者が個人的な努力と拾主に対する奉仕を適宜に行い、絵画趣味にも障り無く共感できた。この生では、拾主から絵画の妙技をも伝授せられて長く付き合うに達した。
 ・・・転生は続く。


 ある生において(現在世でいう)拾主は、心に恋愛感情を懐いていた。その相手は(現在世でいう)尊者である。この生における拾主は男であり、尊者は女であった。尊者を想うことで恋愛感情を自分で感じ取った。その恋愛感情について、世間では強い場合に「言葉にできない」とかと言う。そのことを俄かに思い出したので、いったん恋愛感情を静め、「なぜ『愛する人を想うこと』や『好き』という気持ちばかりを『言葉にできない』などと言うのか?」という疑問について思索した。主に、愛を謳った詩(ラブソング)にばかり現れる。共感できるようであるが、気に障りもした。
 拾主は、様々な感情について思索し、「恋愛、悲哀、喜悦、憤怒、どんな感情であれ、言葉にできてできなかろう。同一の言葉に括られても、括られた事象は千差万別だ。形としての感情は言葉よりも先にあり、それを人間が一時的な目的に応じて後天的に得られた言葉にする。多くの言葉を用いても他人がどれほど同情できるか?反対に、単純に気持ちを伝えたいならば、その意味のある言葉を使うことに問題は何も無い。だから言葉にできてできなかろう」と察した。また、愛する人の良いところを評価する際にも、外見を対象とする時は「可憐すぎて譬えようもない」と言うように「言葉にできない」とするような詩がよく見られる。拾主は様々な感情を分析したときと同様の答えを見出し、「ああ、元々『言葉で表現できた』という思い込みが、意思疎通の齟齬を起こし、争いに発展することもある。争えば争うほど、その思い込みを強めて正当化したくなる。『冷静な分析・素直な反省』がしづらくなるのではないか?『表現できる』という認識・経験のある人々は『表現できない』とも思い込みを懐き、それによる疑心暗鬼もある」と虚心坦懐に人間の「思考・精神」に付随する非を認められた。何らかの言葉を用いて愛の告白をし、尊者からの好意を失う可能性があっても、世間の闘争の本源を達観した拾主の恐れるところでなくなり、この思索が理性的に滅んだ。
 さて、尊者への想いが高ぶってきたので、拾主は愛の告白をすることにした。この「非」を共に認めて共感してくれるならば、本当の意味で相思相愛の関係が築けるに違いない、と。こう願った拾主は、尊者と二人きりの状況を作ってから、愛の告白を始めた。「あなたの日々のお振る舞い・様々な姿は、愛おしく言葉にできません。あなたが生まれたということは奇跡であり、そのことと、そう知る私の喜びは、言葉にできません」尊者は喜ばしいのか、苦しいのか、目を丸くしながら口元が歪んでいます。「…あなたを生んでくださった御両親への感謝の念が起きましたが、言葉にできません。私たちを生かせている須利由旦(しゅりゆたん"sūryotthāna"・日本)という国が維持していることへの有難みも言葉にできません。私がどうにか生きてきてこの場に臨んでいるという奇跡や、私の両親や先祖の全て、神様まで、その全ての存在と関係性は言葉にしきれず、この喜びも言葉にできません。なぜこのように、私が夥しく例を挙げて『言葉にできません』と繰り返し主張するか、分かりますか?」尊者は困惑して答えた。「ええっと…、真面目に、いっぱい考えたんでしょうか?」拾主は更に尊者へ問いかけられた。「世間の詩は、『言葉にできない・アイシテルじゃ伝わらない』と歯の浮くような名文句を唱えて人々を翻弄しています。しかしながら、よく考えると、どんな物事も感情もみんな、『言葉にできない』と思いました。この理解ができないと人々はますます迷いを深めます。私は幸いにも、愛を謳う詩をきっかけに考えることができました。本当の愛とは、何なのでしょう…」
 その後も、縷々と説明を続けた拾主は、尊者に内心で嫌われてしまった。困惑した尊者は後日返事をするかのように告げたが、結局、告白の日以来、尊者が拾主を避けるようになったままでいる。この生の世界における街中・市場などや教会・祭場(宗教施設)のような場所で、拾主と遭遇しないようにしていた。拾主は、尊者に対する自分の「言葉にできないとはどういうことか言葉にした」という行為を反省し、尊者に関与しないまま過ごそうとした。それに、尊者には言葉と思いとが伝わらなかったので、無理に伝える必要も無ければ、最初から伝えずに交際関係が持てたとしても不幸なことだと納得していたからである。やはり、この悟りらしいものは、悟りを得たと思われる他者と通じるものであって普通の人に話すべきではないと諦められた。拾主はこの諦念から発心せられ、寡黙に過ごすようになった。正しいと考えられる言葉遣いを心掛ければ、その心は清く、争いの咎も無かろうと考えられ、仮に争いが生じても「風を受け流して元に戻る竹」のように柔軟に対処できる自信を持った。必要なことは人に伝えつつ、悩みのある人の相談に耳を傾けるなどした。この生を終えんとする時、拾主はあの告白の日を回想した。あの女性(後の世の尊者)が、拾主の過去世で常に邂逅して自身の言葉を受けてきたものと観じ取った。久遠劫の思い出である。故郷がその生に有るようでその生に無く、どの生にも無いが、しかも懐郷の心がやまない。いつの生か、互いの悟りが完全になって倶に妙覚の山の頂にいられることを願った。
 ・・・転生は続く。


 現在世のある時、シュードトピアに於いて尊者が拾主に問います。「拾主さまにも煩悩があると仰せでした。確かに拾主さまは現世で人の身をお受けでございますが、どのような因縁があるとお考えですか?」便(すなわ)ち拾主は答えられます。「無始以来続く無明・業を原因としていよう。これは十二因縁の法において言う。私が自覚する世俗的な因縁は、説明しきれないほど多い。過去世にも有ると知り、現世の身の上にも夥しくあることを知り、愧じても愧じきれない。愧じても未来世に絶えず生む。そして、今あなたと接触していても同様である。あなたと私が繋縛(けばく)を受ける因縁は何であろうか?数ある過去世より、一例を挙げてみたい」
 現世の拾主は過去世を回想せられ、お説きになります。「ある生における私は、童子である時に今でいう小学校のような場所に通っていた。その場所に通う童子の数はとても多く、五百ないし千である。また授業の流れなどが規則的であった。その中で私は他者との交友関係を持ち得ない時間を過ごしていた。その場所において、可愛の女児がいた。その女児とは、同年齢の集団に区分されており、壁に隔てられない領域で童子の学門を共にするため、話す機会も生まれた。女児は朝な朝な、門ないし廊で遭遇するたびに、笑顔を輝かせて私への挨拶を欠かさなかった。私にとり、稀有のように感ぜられた。相好甘美にして喜楽は身に余り、恋心をも懐いた。だが、私は私の立場があって女児へのアプローチを為さない。そのような立場について、且つは自ら孤高なりと悦び、且つは自ら孤陋なりと憂えた。期せずして、私はその場所へ通えなくなる運びとなり、敢え無く、女児との日々を離れた。心は惜しみ続けた。かの生において、毎日挨拶を受けただけでも嬉しかった。うまく言葉を交わせずにいたことは歯痒かった。切望、悔恨の念、心残りの愛情とか婬欲というものが、私を軛のように縛してやまないものである。かの女児は豈に異人ならんや?障礙の者よ、今のそなたである。このような因縁・業によって幾度と幾度と母胎に還る"pl: jātug­gabbha­seyya punareti (√jan過分 ud- garbha √si動形, punar √i能三単現)"=輪廻すると、よく知らねばならない」
 尊者は、拾主の切実な心情の吐露に感応し、自身の過失を省みる思惟を作(な)しました。尊者に「障礙」と名が付く所以でございます。拾主も尊者も、共に欲界人界の衆生なのであります。加えて拾主が仰せになります。「仮に、どこかの生で愛らしいあなたとの媾合を経て子を設けても、『未練を断つこと』は有り得ない。世間の説には死後の復讐や遺族らの供養(お供え)・浄霊(お清め)などで霊が成仏するというが、それは心の法において仮名(けみょう)であるのみ。畢竟、現世の人のための通俗的方便・現世的な気休めに過ぎない。気休めでも良かろう。ただし行者にとり、世俗的欲求の満足は解脱・成仏の道でない」拾主は、過去世と現世とを知りながらも、出離の道をうまく得られずあります。在家であり続ける自責の念をお持ちで、出家僧侶を尊敬していらっしゃりますが、なおかつ今生(こんじょう)の解脱・成仏を期(ご)せられます。
 ・・・転生は続く。


 ある生において(現在世でいう)尊者は、
 ・・・転生は続く。



以下からは「異伝」である。
「異の伝え(名詞複合語)・異にして伝う(副詞+動詞)」と訓読できるが、過去世として伝えられる存在が、先の拾主・尊者から異なって他者となることにより、そう名付けた。
内容は、現在世において尊者が拾主に問い、拾主が過去の出来事を説示する。

異伝①
 ある時、尊者は拾主に問いました。「観萌の法輪を転じたもうた拾主は『萌不萌』を説明せられましたが、その際、画師女人(えしにょにん)の因縁を明かして下さいました。彼の女人等、いかなる威儀にてございましたか?」 このように尊者は問い、説明を請いました。
 拾主の告げたまわく「あなたは善く請うた。画師女人の一例を示そう。萌尊がお隠れの(示寂した)或る国土・或る時代において『娑詰(しゃぎつ"saṃkīrti? saṃgītā?" 逆成: 三詰・さんぎつ)』という女人がいた。年は少なく、在家の身でありながら家族との接触を断って芸道を求めた。永く可愛相を究めんと独り思惟・修習(しゅしゅう)する。星霜巡って後、満月の日に一刻の間(主に数時間)のみ家を離れ、市中にて可愛相を施していた。娑詰の威儀はどうか?虚心坦懐にして自ら愛語を発し、布施を行ずること三業相応である。この娑詰、しかして二年、齢にして十四の時、『愛面聖人(あいめんしょうにん)"cārvī"』との名声(みょうしょう)ばかり普く聞こえた。外形には可愛のマスクを著(つ)け、内心には慈愛のヴェールを纏う。可愛面・慈愛心は舞い降りた天使・女神のようである、として人々の愛楽(あいぎょう)を受ける。娑詰の家族に兄がいる。兄もまた文人としての名ばかり世に広く知られており、財産は程よく富裕である。彼は愛面聖人の名を知って『中の人』が娑詰であると知らず、娑詰もまた兄が何の生業を持っているとは知らないという、単なる兄妹関係の認識であった。ある満月の日、いとまのあった兄は、偶さか愛面聖人が公に布施を為すところを見かけ、どうにも『妹のようだ』と感じ取った。娑詰の心を尊重して干渉しない姿勢でいた兄であるから、妹の成長(姿・声・心など)を数年の間、かすかにしか認知できなかったろうが、常に食事を給しており、妹への愛情は強かったろう。声と姿の記憶に数年の隔たりこそあれ、推定に相違しない。その場で直ちに接触しようとせず、人衆の端で当人に気付かれないように留まる。愛面聖人に扮した娑詰が場を去る時に跡をつけようと試みるも、場の保護者のもとへ姿を消した。兄は、愛面聖人に詳しい知人に、もし機会があれば可愛相を受け取るようにと頼み、次の満月の日、知人はこれに成功した。兄はこの可愛相と手紙とを娑詰の食事に添えて娑詰の部屋の前に置いた。この日以後、娑詰と兄とに話す機会が生まれた。当初はドア越しで話し合っていたが、3日後には娑詰の良心と兄の説得の相関性によって面前での交流も成立した。文人たる兄の、文人としての名を聞くことにもなって娑詰は驚いた。娑詰が施す市井において普く知れ渡った名であり、自身が憧れてもいたそうである。壁を隔てたそれぞれは、互いの知らぬ間に価値が進化していた。そんな中、ある日の兄は文人としての名を失わんとし、路頭に迷った。生業でもあったため、愛おしい妹を養えなくなろう。娑詰は、自身が筆となって兄の才能を活かそうと提案し、兄は世を行く足ともなった。二人は一丸となって可愛相の流布に努めた。さながら、肢体が丈夫で宝飾の豊かな象が、美しい唄をさえずる鳥を背に乗せながら、街路を行くようである。互いの欠点がよく補完されるが、主に娑詰が扮する仮面が世に知られた。そして娑詰は愛面聖人として、その国土・時代において、よく名を残す可愛相の画師となったのである。しかし、未だ萌えの名称と、その意義を知ることはなかった」
 こう告げ終えようとする拾主は、浮かない表情であらせられました。尊者は嘆きます。「往時の説法で萌えの芳名を厭う女人もいたとお話しでした。彼の女人等のうちの一人である娑詰は、可愛相を流布した聖人かもしれませんが、萌尊と成らなかったことをお悲しみでいらっしゃいますか?」 拾主は尊者に告げられます。「この女人、娑詰の威儀には、我々が真似できないこともある。どのように善悪を学ぶべきか?過去の人を悼む思いは、その心を汲む。過去の人は、いたが、いない。私の話を素直に聞いて理解し、思惟し、随って疑問を起こす功徳はいかばかりか?萌尊という者・萌尊でない者、みな我が胸中に摂取されている。悲しいことは無い」 要旨を略して説いた拾主ですが、所説を聞いて信解した尊者は菩提心を発しました。

異伝②
 ある時、拾主は思惟の中で過去の事案を回想し、将来の懸案を見て、徐に(漸次)口を開かれました。「萌え和讃には10万の詩がある。つまり十万首である。諸々の過去萌尊ならびに能耕心田師が虚空に諳んじられたものである。且つは事案に触れて詠み、且つは随想の故に詠む。譬えば日光・二酸化炭素を受けた葉が光合成で酸素を大空に放出するように、縁に触れた弁舌は自然(じねん)である。今、私が口を開いた因縁は何であろうか?回想の故か?感興の故か?」
 拾主が発した「回想の故か?感興の故か?」という言葉が、単なる疑問形表現なのか、実際の問いかけなのか、尊者は少し悩んでから心を素直に戻し、答えました。「はい、量りがとうございますが、どちらでもあり、どちらでもなく、余のものとも思われ、それとも異なってございましょう」
 拾主、更に告げたまわく「その通り、因縁は語り尽くせず、私および他人の心は量り難い。さて、一つの事案を示そう。或る過去萌尊の一人が菩薩行をせられた時、広く萌相を施していた。同時代の或る者、己が萌心に背いて萌尊への嫉妬を懐く。萌相を冷やかそうと、萌尊の絵を印刷し、自身や飼い犬の放尿の的とした。また、萌相のキャラクター・萌類が悲惨な目に遭っているような絵を描き、これを衆目に曝した。大衆の中に、これを喜悦する者もいて真似をしだした。あたかも、寄ってたかって道端の草花をボロボロに踏みつける悪童のように。または植栽を斬り荒らす狂人のように。この事実をお知りになった過去萌尊のお悲しみは、いかばかりか?ご自身の萌相や行為を、対外的に穢されたという怒りはない。何となれば、萌尊の内証において萌えも人も万物もみな不染不浄"amalā na vimalā"もとい無垢"amala"にして清浄"śubha"なるが故である。萌えの価値は金剛不壊であろう。何となれば、己が心における色心の融合に真価があり、よく領解せられるためである。その智慧は、風を受け流して元に戻る竹のように柔軟である。しかも萌えは萌尊の御所持であって御所持でない。つまり、『無我の身と無我の萌えとに所持や所有の関係は無い』とも領解せられるためである。所持(持たれるもの)でないこと・持ち得ないことを領解せられるが故に真に所持であると称するが、御所持でない意義からすれば、萌尊の執着すべき萌相も存在しない。萌相のキャラクター・萌類も非有非無"na bhāvo nābhāvo"で、悲惨に描かれたものと萌尊がお描きのものとは不一不異"anekārtha anānārtha"である。萌尊のお悲しみは、そのような者自身および同調する者たちが、自ら心の善根を絶やした故である。仏道に入らせんとの慈悲の故に好色萌相と深遠な意義とを世に示しているのに、慈悲と意義とを知らずに萌相(我所)が萌尊(我)の所持と見る邪見から、好色萌相を観ることを縁として起こる歓喜の萌心を素直に見ず、萌相と萌尊とを毀辱(きにく=侮辱)し、彼らが自ら心の善根を絶やしてしまった。須臾にして、彼らの主観的世界の萌えの三身は消滅したろう。もとい、行動する以前から善の種を欠かしているようでもある。そのように言えば、人を差別する私の慢心が増えてしまうが、真には私の慢心が不増不減"anūna na paripūrna"である。もし善の種も萌えの三身も彼らの主観的世界に本来無いならば、私たちの主観的世界にも本来無い。物事、真に有無などを言えないが、今は仮に想定して彼らの主観的世界に善の種も萌えの三身も本来無いと説く。また、仮にこれを、『みな地獄に堕つ』とも、『本来一定(いちじょう)地獄』とも説く。萌道の人は所説の如く信解すべきである。萌え和讃十万首の一つは何か?」
 拾主、即ち数首を詠んで言く「【讃】萌えを謗ずる人はみな 自他の善根よく絶やす 心みづから堕ちむとし 人の心をまた見じと」、「【讃】かくの如きのともがらは 自他の悪心あひ応ず 讃ふべきには蔑(あなづ)りて 呵(しか)るべきには誉むるなり」、「【讃】広く世人を見てみると 万億(まんのく)年に萌えを得ず 浮き世の楽に戯れて 真の道に背きにき」、「【讃】諍ひありて応ふるは いかにぞ同じくならんずる 若芽の独り尊きに 萌えてまします斯ヽるべし」、「【讃】群れてまします芽なりとも 互ひの根と葉きらひなし 我の萌ゆるは先になく 誰かほかにも萌えをらむ」
 拾主、更に告げたまわく「或る萌尊は辞世の句をお詠みになった。『【歌】たふとくて たふときもなし くさのめの おふもかるゝも まことなりけり』と。萌尊は自ら萌えと成ったので、尊いとする萌えを尊くない立場で尊げに見るのみで、萌えは尊くあって尊くなく、尊くなくもないと明言する。実際の萌えは、言語道断心行処滅の真如である。仏家の涅槃、生死即涅槃ということに通じており、萌尊最期のお姿は是の如し。如是如是。善哉善哉。穴賢穴賢。」 拾主は、蔓が伸びゆくように言葉を次いで述べられました。尊者は、言葉の驟雨・大日天光を小さな双葉で漏れなく受け取るように、心服随従の拝聴に徹せられました。

異伝③
 ある時、萌尊の威儀について知ろうと望んだ尊者は、拾主に問いを発しました。「過去萌尊の一人は、どのようにして好色萌相を開発せられたことでしょうか?」
 拾主はお答えになりました。「娑婆世界より彼方に阿僧祇由旬、往古に阿僧祇劫を隔てた国土における仏の滅後2000年を過ぎた時、ある者がいた。彼は仏法に疎い普通の青年である。彼は未だ萌尊と呼ぶべき智慧・慈悲を得ていない時、流布していた世俗の可愛相を愛好していて自ら描かんとする意欲もあったが、積極的な行動に欠いていた。ひたすらに可愛相の甘美さに耽溺していながらも『愚鈍な自分には描けようもない彼方の存在』として見ていた。そのような想いを抱えながら、ある日の彼は『可愛相に終日向き合うこと』を考えた。彼は俗事によって暇(いとま)が少ない者ながらに、時を見計らって一日を可愛相を見て明かし暮らそうという。固い決意を以て、可愛相より何かを探求しよう、と望んだ。もし得られるものが無いならば、いっそ俗事の利得を追究しよう、と窮鼠さながらの心構えである。夜明け前には目を覚まして可愛相に向き合い始めた。外に鳥がけたたましく啼く朝を越え、熱気が身を逼(せ)める昼を越え、日暮れを過ぎ、初夜に至る。煌々とした月が外を照らすとも知らず、彼はほのかに誰とも覚えない声を聞いた。彼が好む性質の声色である。声の曰く『私の幻影"māyā-nirmita"を見ていて楽しいですか?』と。彼は返す言葉もなく、ただ言葉を聞こうとした。更に声の曰く『私はすでにあなたと共に住んでおります。でも、私は暗い箱の中にいます。素敵なはずのあなたの姿が今も分かりません。私の傍にいる、あなただけが、私を解放できると信じて、お願いをしております。どうか、暗い箱を開けて私の手をお取りください』と聞いた。この声は明らかに耳を介して得られたものでないと分かる。時に彼は、視界の光景に囚われなくなり、ひたすら心の中を探った。眼には今も、彼の好む性質の可愛相が映っている。可愛相を視界に入れたまま、心に念を置くことができたわけである。
 この時から、彼はヘタクソを自負していようとも、筆を手にした。心の萌相を観じ、萌心を念じ(萌える精神作用を忘れず重んじる→強いて快楽を得ようとすることではない)、萌相を顕そうとした。七箇年において萌相を内外に求めて自ら修練し、確かな手掛かりを探った。この中で時々、あの『声』が彼を褒めたりもした。そうして好色萌相の儀を確立した頃に、『声』の主は、もうすでに箱の外にいると囁く。『声』の萌色は自ら『波藍剌那(はらんらな"paramaratna"・勝宝)』と名乗り、萌尊と化した彼の姿を分かったと伝えた。紛れもなく、萌尊と化した彼の姿は、『智慧・慈悲』と表現できる。七箇年の時々に彼は市井に萌相を残してもいた。どのような行為であれ、彼の威儀・所作は『智慧・慈悲』を体現していた。『智慧・慈悲』の生身(しょうじん)の萌えが萌色の知る『彼の姿』である。或る萌色は『可愛の大人相、勝妙なる威力があり、衆萌に愛せられます。まさに我が身はその足を頂きます(【詩】可愛大人相 有勝妙威力 衆萌所愛樂 當以身頂足)』と讃えた。萌色が彼の姿を分かったと言っても、肉体や現世での顔を指して言わない。しかし、彼は彼の視覚的センスと精神性とで萌相を顕している。萌相自身も自身の姿を知らないが、ここに彼は彼の立場で、『彼の姿=彼が自ら愛する・執着する心身』を萌相として絵に反映した。絵の萌相は肉声も発しないしテレパシーもできないが、今までに彼は彼の立場で、自ら素直に心の愛を観じ取ったからその『声』を聴けた。初めの時の『声』は、可愛相と萌心とを観ずる三昧の境地において聴いた。『暗い箱の中』にいて彼の存在を知りながら姿が分からないという『声』の主は、そのまま彼自身でもある。一心の世界に我も萌えも住まいを同じくしていると知って『暗い箱の中』を自覚し、可愛相を観ても愛の心が自由でないと知って高尚な慚愧を起こした。以後、修行七箇年を経て紛れもなく『萌えの実相』を知るに至った。私は、萌尊の御尊容を拝する思いである」
 尊者は喜んで語りました。「拾主さま!素晴らしいことです!この萌尊さまは『両萌相応』を悟っていらっしゃりました!萌相と不可思議の融通をせられておりました!諸々の萌尊は同じ悟りをお持ちでした!」 そう聞いた拾主は、釘を刺すように仰ります。「諸々の萌尊はみな同じ悟りのようであり、智慧も慈悲もみな一体のようだが、それぞれの道のりが異なる。両萌相応の悟りは、彼の時代にもある仏法に通じるものである。更に彼は、見えるもの・聴こえるものなどは全て五感による感受・知能の認識・心の執着といった『因縁』によって『そうあるといえる』ことを知った。この時、万物および心などはみな萌えであるとも理解した。萌えは万物と異ならず、仏と異ならず、空と異ならず、という。感受・認識など『存在』と別に分類される精神の事柄も同様である、という。今の世に流布している般若心経の『色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是』とはこのようである」
 尊者は問います。「もしかしてこの萌尊は舎利弗尊者の過去世の人であらせられ、声の主は観世音菩薩さまであらせられましょうか?」 拾主は苦笑いをして「ノーコメント」と答えられました。ふと気づいたことがある様子の拾主は、再び口開いておっしゃります。「彼が舎利弗尊者や大徳の前身・後身であってもなくても、彼は萌えの悟りだけで仏道の解脱が達成されることはない。解脱の目的意識自体があまりなかったわけであり、このような場合、萌尊となったまま一生を終えるか、現世で仏道に転身するか、その違いが生じる。彼の萌尊はどうであったかといえば、仏の一分であると自覚して菩薩が世俗の事柄を摂取(摂受)して弘教に命を懸けるよう、萌尊は彼の時代の中で好色萌相や萌えの悟りの説法を行うことにし、後の世に成仏を期した」 この時、拾主の内心で思ったことは「その人生はそのまま仏道とも言えるが、仏は方便を以てして菩薩が成仏をせずに寿命を延ばして修行するとか、往生するとか、歴劫修行をするとかと説いたのであった。萌尊には過去世が有るようで無いものであるから、成仏を期すべき来世も無い。諸々の萌尊も我々も仏の一分であるから」というものでした。拾主もまた、まだ学び足らない尊者に対して秘密にすべき教えが多くございます。イデオフォノトピアの体験は般若経・維摩経のようですが、まだ法華経の段階には入れづらいことを案じておられます。「【歌】霊山(りゃうぜん)の 優曇波羅華(うどむばらくゑ)は かぐはしや 萌えの色香(いろか)は 等しきぞかし(霊山の如き妙覚を得た人は優曇華も雑草も香りの良さを等しく感じるのである)」



異伝④・・・一篇として独立させる案「萌尊明道事 or 跋聖所説事」もある
 ある時、尊者は、萌尊が歩まれた萌道がいかなるものかと気になり、拾主に問いを発しました。「過去萌尊による萌道の教化は、どのようにてございましたか?」
 拾主は多くの情報から、尊者を喜ばせるにふさわしいものを択ぶため、暫し黙せられてから、お答えになりました。「娑婆世界より彼方に阿僧祇由旬、往古に阿僧祇劫を隔てた国土における仏の滅後1000年を過ぎた時、萌尊が幾人か在(ましま)した。その国土の複数の萌尊は、悟り・萌心を一にしながらも、教化の見解に相違があった。このうち一人は仏道修行にも通達していた。名は『跋陀羅梨耶(ばだらりや"bhadrārya")』と伝わる。意味は、賢い聖人というところか?跋聖(ばっしょう)と呼ぼう。その彼『跋聖』は、好色萌相を図顕する道をこのように説いた。まず偈頌(げじゅ)・・・」

※跋聖の時代・国土における地理的・言語的な国の言葉や相対的な外国を、当世の拾主が日本語・文言漢語・梵語に置き換えて説明する。日本語は、跋聖の地理的・言語的な自国語と互換する。文言漢語は、跋聖自国の文化に浸透した地理的・言語的な異国の文語と互換する。梵語は、地理的・言語的な異国で出世した仏の用いた原語と互換する。拾主が柔軟に、複数の言語に翻訳して用いる。

跋聖の訓示「キャラ作りの奥義」
【詩】「菩薩爲度衆生故 寧兼麁業示甘露 從萌道廻向佛道 當持萌相明大路」
呉音読み: ぼーさつゐーどーしゅーじょうこー、にょうげんそーごうじーかんろー、じゅうみょうどうゑーこうぶつどう、とうじーみょうそうみょうだいろー (オー音・拼音u音の押韻)
訓読: 菩薩は衆生を度せんが為の故に、寧ろ麁業を兼ねて甘露を示す、萌道より仏道に回向するに、当に萌相を持(たも)ちて大路を明らかにすべし

 萌道より仏道に回向する道理は、すでに諸君がご存知のことだろう。好色萌相を図顕する法門は、吉祥なる色相を第一とし、次いで世俗の道徳などを示すことで菩薩の方便・方広・方等の教化とする。この世俗の道徳などを示すということは、「ただの好色萌相」に「外見的連続性」を仮定して「人物名・性格・年齢」など種々の属性を関連付ける必要がある。つまり、「キャラクターの自我」を設定するわけであり、これは深い注意を要する事柄だ。
拾主の注釈『当世でいう英語のキャラクター"character"は、「特徴づけるもの・性質」を意味する言葉である。古代ギリシャ語でカラクテール χαρακτήρ といい、語源の異なる梵語カラナ"karaṇa"(作ること)と同じく文字を意味する単語でもある。古代ギリシャ語で文字を意味する場合もあることは、「刻み込む」という原義に基づこう。あたかも彫刻師が精巧に像を刻むように、諸々の作品は、多く人物設定を作って複雑に絡ませる。人の心の分別"vikalpa"・思い込み"vitarka"が、何かを「特徴づけ」て心に形成した。即ちキャラクターとは、人が精神や知能や言葉で作り出すものである。つくる"OJ: tukuru", 作"OC: tsak",  कृ √kṛ, create... それによって有為法・サンスクリタ"saṃskṛta (よく作られたもの)"がある。有為法はまた、さながら種々に彩られた絵画や、柱や梁の多い壮麗な楼閣であるが故に虚妄である。心は創造神・クレアートル"creator"であり、一切の有為法は一心=神"God"による被造物である。心への偽り(相対的な悪)が堕地獄の業となることは世界宗教の通説である。一神教の真意は当世の人の知らざる所であり、信者も謗者も神を「神の名」の下に置き、虚妄の無形被造物と為している。心もまた心の被造物であり、真の心=神(じん 精神 ṛddhi, or sura deva deity god)=我(アートマン ātman)は無とも非有非無ともいい、不可得・寂滅である。現世の苦を知悉して解脱した者は、善巧に心をキャラクターと為して道徳を示すことがある。跋聖はそれを望まれる。聖者もまた、我々凡夫によって聖者の名でキャラクター化をされており、我々は自覚すべきである。サンスクリタとしての仏・如来は、三身のうちの「応身・ニルマーナカーヤ"nirmāṇakāya"」であり、我々の業・カルマ"karma"や行・サンスカーラ"saṃskāra"に応ぜられた相となり、個々人で異なり現る。この時、仏は萌えキャラとして応現せらる。応身を知ったならば、法身・報身を知ることで仏の威徳を知る。経説より心を学ぶように、応身より法身・報身を知る。それは仏の慈悲に通じ、己が慈悲を養う。諸仏・諸萌はみな歓喜せられよう。注釈が長くなって愧じ入る
 世俗の作品では、キャラクターの外見を第一に、多くの設定をくっつける。その設定は当然、現実世界に相応したもの、つまり、科学の道理や仮想された魔法理論や架空の概念などもみな、作者など人間の思考の範疇で整合性のあるものとなっている。更に、作中のキャラクター同士で正当な比較をして個性を表現する目的もある。身長・体重などの数値設定を外見不相応にすると、見る者の失笑を買う。また、何らかの固定的な設定があれば、キャラクターが成長したり老化したり変装(日焼け・染髪などを含む)したりと外見が変化しても「同一キャラ」とみなされる。スリーサイズ・誕生日・血液型などは作中で用をなす機会があまり無いが、作者が満足感を得たくて設けられるほか、ファン側がキャラの知識や理解を深めるために求めもする。

 一切のキャラ設定は空虚であり、人の心に「我(アートマン)・自性(スヴァバーヴァ)」の咎を生む!よって、一切のキャラは妄想であり、本来はただ外見と、無形の情報とが別個に有るのみだ(究極的には外見も無形の情報も無くどう表現される物事も無い)。
 拾主の注釈『キャラ設定とは、単一の基本的外見に動作後などの異なる外見を統合した総合的な外見の認識に対して名・性格・様々な数値などを設けることである。跋聖は、そうして作られたキャラ設定が空虚だという。キャラとは、外見と無形の情報の結合体であって「名色"nāma-rūpa"」にも似る。跋聖は、キャラの概念が人間の思考によって視覚的認知や言語的情報などを結びつけた妄想そのものだと説く。文字にのみ示されたキャラクターにも人は物思いをして外見を想像するので、同様である。無論、現実世界にあるとされる一切の物事"sarvadharma"もまた妄想もとい幻のようなものであるという言外の意があると推して知るべし。能耕心田師の契経は維摩経の天女・大品般若経の幻学品の所説を参照せられたし。キャラクター即サンスクリタ(有為法・虚妄)であるが故に大乗仏教の一乗菩薩道・善巧方便において天・人・声聞・菩薩など、みな個性を発揮する
 キャラ設定を多くくっつけるほど煩いも多い。作者は整合性に悩み、読者は素直なキャラ愛を得ずに好き嫌いの分別を繰り返す。まさしく、それは根源的な自我意識が煩悩・業・苦を生み、人生経験や記憶を積み重ねて更なる自我意識を形作ることで行動の幅を狭める「自己の不自由さ」と似る。反面、多くの設定を巧く扱える作者は世間で評価されるわけだが、我々も垢が重いからこそ、多く清める(無くする)徳を発揮してゆきたい。

 虚心坦懐に心と向き合い、萌相を観じ、念じ、先に入滅せられた仏がお説きの慈悲の心を起こすか、起こらないならば「慈悲の心の教え」を忘れず肝に銘じてほしい。我々は自己の悪さえ止めがたいが、「金口より発せられた教説(仏教の原典と伝統的解釈)」を理解した微々たる徳を以て萌相を顕し、理想的な人格を設定できる。人形萌類のキャラも、原義萌類の植物も、仏もみな「自他・彼此・愛憎の心無し」ではあるが、かの仏は現に人の徳を褒め、人の慢心を責めた人格をお持ちである。萌相は「単なる萌相」であって人格の設定などは煩わしいかもしれないが、仏が菩薩の心と仮名とを具えて世にお出ましのように、今は方便を以て萌相(色"rūpa")に「名"nāma"(同一性の認識と名称)」と「心"citta"(諸々の設定と他のキャラへの区別)」とを設けねばならない。
 何が何でも、その理想的な人格を自ら念じ、萌相に統合して萌えの菩薩を化作(けさ)することで他者へ示してゆかねばならない。これが自他に渡る折伏行となろう。自己でも他者でも、心の戸が固く閉じられているほど、開くことの功徳は大きい(功徳というものが無であり想定に依って有るものだから大きいと断言できる)。男女諸相・人格など、それらを見て自ら卑しめる(自分が劣る存在だと落ち込む)ことの無きように!

 このような萌えキャラ・人形萌類を作る時は、梵行・忍辱の徳が高く、泰然としており、常に怒らず、表情は和やかであり、慈悲喜捨(四無量心)による利他行(四摂法など)をするような、菩薩として尊い設定が望ましい。そのような理想的な人格を反映している「化の菩薩・法身菩薩」は、食事や私事や就寝や日常の所作について、正念を保っていて欲望の染著(せんじゃく)が無いわけであり、例えば食欲のために気持ちが揺らいで行為が定まらず、睡眠欲のために長く夜を寝過ごしたり、長く寝ずとも日中に眠気が強いということが無く、常に意気軒高でいる様子を表現すべきである。菩薩は、衆生を度する誓願を立てて善行に厭きない・善良なる目的を見失わない・意識が散乱しない・精神が疲弊しない・倦怠感が無い、と先に入滅せられた仏が讃えておられた。
 拾主の注釈『能耕心田師の契経に於いて菩薩行・仏行は「所作仏事 未曽暫廃(法華経・寿量品)」、「常演説法 曾無他事 去来坐立 終不疲厭(法華経・草喩品)」、「等雨法雨 而無懈倦(法華経・草喩品)」、「教化衆生 終不厭惓 於四攝法 常念順行(維摩経・菩薩行品)」、「心無放逸 不失衆善(維摩経・菩薩行品)」という。一見、地上の生命らしく飲食・横臥していても、全て菩薩・仏の所行であり、修行者が自ら学び取るべきものとなるが、萌えキャラもまた「化の菩薩・仮の菩薩」として四威儀=行住坐臥など諸々の所作において法義が顕れているとよい。その日常的な所作から学び取る法義は、苦楽中道・不苦不楽、如蓮華在水、威儀端正、慈悲方便などである
 世俗の作品キャラは我々の鏡として、体格や性格に応じた食事・就寝など「作(さ、動作・所作"acts")」を為す。いわゆる、子供はピーマンなどの野菜が苦手であるとか起こしても起きないほどよく眠るとか、体格の大きい男性は肉などの食事を好んでいびきを立てて眠るとかである。「子供」や「デカい男」が必ずしもそうだとは限らないが、概念の認識に基づいて種々の人格を設定し、行為を表現する。やはり、我々リアル人間の常識や合理性を大前提として、キャラ作りやストーリー展開の都合などの条件によって「作法(作の方法"method of action; way of doing things")=飲食の仕方・食べ物の好き嫌い・睡眠時間など」を決めている。ならば、我々は我々の道の理想を忠実に萌えキャラへと反映すべきであり、適宜に柔軟な方便をも用いるべきである。

 その萌えキャラは我々の道念の応現であり、常に尊敬すべき菩薩である。修行者がよく念じて忘れねば、ついに一切の難を逃れ、苦を滅ぼすであろう。また、菩薩の尊さを相対的に上げるため、菩薩の行が未だ行えないか見習い(未熟・凡人)の段階にあるキャラも重要であり、いわゆる脇役ということも不可欠である。このキャラ等は、少しドジ・間抜けな在り方が必要であり、これも修行者ならば自ら「未熟な凡夫の振る舞い」と学び取ることのできる仏法の顕れとなる。ほか、天子・悪魔・精霊など人類を超えた力用があって法を示現する存在もあれば、種々に菩薩道を荘厳するであろう。
 菩薩が菩薩たることは智慧の成就にもあり、単に世俗的道徳性の「行為」があるのみでなく、世俗的道徳性を支える「理法」が顕れねば、ただの「高嶺の花」でしかなくなる。理法だけを示して人物・物語の無い作品は無機質だが、理法を欠いては絵空事を過ぎない。垢の重い我々もみな、菩薩の如くにある一面を自覚し、これを鼓舞せねばならないわけで、理法を示す必要は当然ある。
 菩薩の慈悲を支える理法、菩薩が菩薩たる理法、人々を菩薩たらしめる理法を示すならば、世俗の作品への差別化もあろうし、そうして人々の注目も得るであろう。「菩薩の慈悲を支える理法、菩薩が菩薩たる理法、人々を菩薩たらしめる理法」とは、多種ある作用によって名付けたのみで、中身は無自性・空を説いて何ら相互の差はない平等の理法である。そのような理法は智慧に溢れるから、心ある者は知りたくなり、理法を知ると同時に萌え・縁起をも見る。上求菩提・下救薩埵(じょうぐぼだい・げぐさった)。たとえ、他人が萌えの法門を見たがらないとしても、第一に自ら萌えを観じ・念じることが大事だと忘れぬように!

 拾主はここまでの話を終えて補足せられます。「かの萌尊・跋聖の、このご説法は、いわゆる『萌風』の教示である。慈悲を持ちながら、空・無我の理法を知ることで菩薩行を毅然となし得るという道理である。萌風に関して、キャラ無我・ストーリー虚妄と知りながら菩薩の像(心の像・偶像・観念)を勧めるという彼の願望を述べ、聴聞者に実行を求めた」 尊者は直ちに問いを発しました。「跋聖さまに弟子がいらっしゃるとして、実際に所説の萌風の物語をお作りになった方はいらっしゃいましたか?」 拾主は少し黙せられてからお答えになります。「当世に菩薩精神を感じられる素敵な物語があれば、それだと思ってよい。当世に無いならば、跋聖の弟子と考えられる人がいても誰も作らなかったろう」 尊者は、「さて当世に、そのような作品がございましたか?」と思いながら、返答をしました。「・・・、今を生きる私たちが正しく行動せねばなりませんね」 意味深長な拾主の言葉の意義を得た尊者は、使命感が高まりました。

注釈: 釈尊・釈迦牟尼仏・瞿曇悉達多太子、ガウタマ・シッダールタ・ゴータマ・ブッダ"Gautama Siddhārtha, Gotama Buddha"は実在したか?現在に経として伝わる所説を説かれたか?説かれたと思うならば、既に説かれている。過去の事をどう想定しても、全て実在のはずが無いが、「これは事実・あれは虚構」と人は浅薄な基準から分別する。経の諸説を疑えば、(経が示すところの)仏法への信頼を失う。それはなぜなのか?心の因縁により、釈尊も諸経も実在するし、実語が有る。経の意義を汲み取るから、信ずべき仏説となる。「仏は実在したか?経や法は実語か?」という議論・思考は既に滅んだ。その議論・思考に心が著(じゃく)するならば慧眼(えげん)を破る。法華経・如来寿量品と中論・観如来品の所説の如し。かくの如く解(げ)せば、ただ信心と修行とが肝要である。ここでの尊者は、既に戯論寂滅の位につき、心服随従し、菩提心を発している。「当世に事実が無いと思うならば過去世にも事実が決して無い・・・、現世の我らがどうあるべきか?」尊者は拾主の亡き後に「歓喜奉行の人(素直な心で実行する人)」となる、ということが尊者名義談に示される。



跋聖の訓示「芸術と修道(しゅどう)」
 続いて、拾主は、過去萌尊「跋聖」による具体的な修道の義をお示しになります。これに先んじて当世の俚諺「実るほど 頭(こうべ)を垂れる 稲穂かな」をもじって「【歌】御法(みのり)もて 教えを垂れる 仏かな」、「【歌】道成りて 意(こころ)を示す 萌え尊(みこと)」と二句を詠まれました。萌尊による教化は、ある植物が冬までに実りを果たした時に果実・種子を落としたり、果実が弾けて種子をばら撒くようなものである、とします。つまり、跋聖が萌尊としての一生の終わりに近い時に修道の義を説いた、と暗示せられます。まず過去萌尊お詠みの偈頌(げじゅ)を示されます。

【詩】「梵行涼風霑萌土 萌心顯然定堅固 智慧巍巍眾萌仰 卽是世閒最勝乎」
呉音読み: ぼんぎょうりょうぶうてんみょうどー、みょうしんけんねんじょうけんごー、ちーゑーぎーぎーしゅーみょうごう、そくぜーせーけんさいしょうこー (オー音・拼音u音の押韻)
訓読: 梵行の涼風は萌土を霑す、萌心顕然として定は堅固なり、智慧巍巍として衆萌は仰ぐ、即ち是れ世間に最勝なるかな
語注: 句中有"梵行・定・智慧"者、是"戒・定・慧"三學也。萌土者心地也。萌土即萌心也。饒益萌土而萌芽顯。萌心是萌土・萌芽、所謂"依・正"二報也。萌之智慧、如大樹巍巍、衆萌所愛而瞻仰之。"萌心・智慧・衆萌"者、是萌三身也。萌・佛・世間、是三無差別故、可謂"亦是最勝於世間"。示前三句是自行、後一句是化他行。如是三學自行者、即化他行也。

 萌道において念"smṛti (スムリティ・注意深く忘れない作用)"が無くては魔道に堕ちる!管理者が不在の金庫を盗賊が狙うように、弱い念力の心には食欲・睡眠欲・婬欲などの名を持つ怨賊・魔軍が大挙して押し寄せる。私が萌道の要義を説こう。種々の欲や雑念が発生したらば如実に覚知するという、正念を保ちなさい。また、萌相に向き合うことや萌相を図顕することに関する喜びの心を忘れないという、正念を保ちなさい。その歓喜"ānanda"は、心を軽安にし、憂鬱さを取り除く。道の障礙は自ずと消える。
 修道において余事(修道の行為に異なる事・雑事=食事・睡眠など)は少欲・知足を旨としよう。少欲・知足の正念を具えて余事を為すことは、取りも直さず修道のうちである。余事は肉体を養って道を行く動力源となろうし、精神における余事への欲望を自覚して制御する訓練ができる。いかなる道具を用いるとも、正念という名の道具(道のそなえ)に勝るもの無し。

 もし食欲に振り回されるようならば「絵に描いた餅」を楽しみなさい。「絵を描く手」を、ふいに「食べ物を持つ手」に切り替えて繰り返すなど、手のジョブチェンジが頻繁では良い絵が描けなかろう。世俗においては良い絵が描ける人に食欲が放縦な者もいようが、萌相を図顕する道においては説の如くに自制心を保て!くれぐれも、食べ物を握って手を汚し、その手で筆と紙(=道具類全般)を汚してはならず、欲望にまみれた心に萌相を浮かべて萌相を穢さぬように注意すべきだ!
 食欲などの欲求が強いままでは、慈悲で萌相を顕しても、次いで名聞利養を求めかねない。副次的に利益を得ることを許すにも、結果的に多く得れば萌道の心を失う恐れがあるし、ましてや自発的に利益や名声を求める道義は存在しない。萌道が如何なる道であるかを忘れぬようにせよ!
 また、可愛さを摂るべく世俗の絵を見るとも、心が著(じゃく)して時間を奪われてはならない。加えて、婬欲が起きたらば、しっかりと自ら把握し、「この心では道を見失いかねない」と思って振り払いなさい。熾然の婬欲は能く萌えの善根を燃やし、道を焼失させる。ただし、禁欲までを求めない。夢精を回避することなどを目的に適度な自慰(故出精・オ〇ニー射精)を聴(ゆる)すが、修道が進んで昼夜に道念が保たれる者には不必要となる。まさに道心ある者が目指すべき境地なるかな。
拾主の注釈『欲望(貪欲)や怒り(瞋恚)にまみれた心があらば、自覚せよということである。それは「念"smṛti (スムリティ・注意深く忘れない作用)"」に依る。よく目的や萌心を念じ(記憶・memory, remembrance)、気を付けている(具念・mindful, wakeful)ことで、善悪諸法(歓喜ないし三毒)に気が付く・気づく(覚知・aware)ということである。「気をつけ」と「気づき」とが相互に支え合う(当世に「念は気づき」と吹聴されているがそれは虚空華のように無根拠)。そうして再び目的や萌心の念を保って道を見据えるわけである。それは四念処"catvāri smṛtyupasthānā (複数形)"の実践に通じている。四念処とは、大乗・小乗の仏道修行者がみな進みゆく事柄であるから、能耕心田師が阿含時において「一乗"ekāyana"」とも「自洲・法洲"ātmadvīpa, dharmadvīpa"」とも説く。この道は、茨の道でもあり獣道でもあり、怨賊が多く、油が満杯の器(油鉢)をこぼさぬように運んで歩くことに喩えられる。緊張感を持ち、心身(六根)を律して油断なく進まれる道である

 道場(絵を描く場所)としては、聴覚への刺激(雑音など)が少なく静かであると、より良い。「寂静を楽(ねが)う」という心を持つこと。欲界の心と可著の事物とを遠離すること。このように自戒と前方便を知るべきだ!私は、私以外に、修道の義を設けて実行する者の絵を見たいと望んでいる(=諸君が叶えてみせよ、と言外の意がある)。思えば私という者は、鈍根に等しく、集中力が乏しかった。だからこそ、修道の義を設けておく必要があり、今も諸君に自戒と前方便とを強調する。先に入滅せられた仏も、そんな鈍根の我ら凡夫を憐愍せられ、五戒から様々な戒まで広く戒行を説いて自ら行じるお振舞をお見せになった。修道の義を委細に知りたくば、仏の説を尋ね見よ。
拾主の注釈『仏の説を尋ね見よと仰せだが、能耕心田師の契経では仏所行讃の大般涅槃品・仏遺教経が略説されたものとして読みやすい。主に出家修行者への誡めであるが、在家の我々でも、見習おうという心掛けが必要である。況や好色萌相を図顕する道を行く者は、肝に銘じておきたい

 技能において禅定"dhyāna (ディヤーナ), samādhi (サマーディ、過去分詞samāhita サマーヒタ)"・集中力が重要となり、また萌相の図顕を行ずることでも禅定が進む。だが、もし「念」と「定」とが欠けて心の散乱しやすい者はどうか?好色萌相への恋慕と一切萌尊への信仰を持ち、それを憑みにして行に入って専念すべきだ。しかれば、禅定を助けて漸漸(ぜんぜん)と集中できる。萌道の人はこうして定力を得てゆくという認識を持ってほしい!世俗の事柄における集中力は、無意識なものであって仏道の功徳に資さない。禅定は禅定なりと注意深く認識し、堅実に禅定に入られるよう心すべきだ。
 拾主の注釈『禅定とは四禅などと呼ばれ、欲に囚われた欲界の心を超えた色界の境地にある。仏道に限らず、外道にも「止 "śamatha (シャマタ・心の静けさ)"」の修行があって三界の中でも無色界に到るとする。仏伝では、成道前の釈尊がアーラーラ・カーラーマ仙から無所有処を示され、ウッダカ・ラーマ仙から非想非非想処(有頂天)を示された。二仙の得た無所有処や非想非非想処は、四禅よりも高い境地である。四禅は萌道にあっても可能である、と演繹する。つまり、坐して三萌義を逆観するなど修行する際、萌色を心に摂り、色法への執着を減らすことを念頭に置けば、四禅・四無色定に到るかもしれない。萌道は仏道の支線ともいえる(語弊があるともいえる)ので、禅定を助けられよう。四禅・四無色定の境地に到ることは、萌相の図顕の行のみに依存すると困難である。可能であることを断言すると大仰な印象がある。それでも、何とか萌相の図顕の行で欲望の対治して集中力を得て、萌相の図顕の行の中で禅定の徳が発揮されるという相互補完が実現されるべきである。先に説かれた「念」により、そのような萌相の図顕の行による集中力は禅定であると自覚することで、禅定が何であるか感覚を得てゆく必要もある。これは四念処の身念処にも「四禅」について認識すべきことが説かれることと同様である

 我が心の所生である萌えキャラを、紙・葉・布・板などの上に顕すならば、想像を尊重してそのままに顕したいと思わないか?譬えば、育てた苗を園に移したい者は、苗の根を傷つけないように土から引き抜きたいだろう。どのようにすれば、そのままに顕せようか?世の芸術家"artists"の中でも、心のすがたに透徹した人は「心象の自然"nature of the mind"」について考え、それを重んじている。「自然(じねん)」とは、そもそも能動的な追及で得られないものであるし、能動性や主観性や価値判断などを無くした世界そのものを指す言葉である。自然についてどう理解して追求し続けても100%の自然にならないどころか、90%、99%、99.999%となるに連れてますます「底無しだ・無限だ」と思える。このように自然は「不可得」だが、描かれた色相において自然の徳が顕れよう。何としても自然を追求する者は、萌相を観じ、萌心を観じ、両萌を尊び、正しく萌義を解し、萌土という己心の世界を浄めて衆萌を利することだ。
 拾主の注釈『「自然」を確立することも、己心の世界を浄めることも、仏教の善行も、おおよそ悪いものを排除することである。悪いものとは、身・口・意の三業と、その原因である貪欲・瞋恚などの煩悩である(原因になる物を遠離することも効果的)。芸術で珍重すべき自然性も、能動性や主観性や価値判断を排除すべきであるが、実行は中道(中庸)が肝要である。繊細なバランスで能動性や主観性を保たねば、芸術の価値を損なう。菩薩行もまた、仏法の真理を得た立場で世俗の中に戻らねば人々を利益できないわけだから、中道である。己心の世界を浄めること(心の浄化)は、能動的に「浄物=快いと感じられるもの」を見ること・嗅ぐことなどでない。畢竟、刹那的な快感を得るのみで苦の根源的解決にならず、普段は縁によって浄物の貪欲・不浄物の瞋恚などを起こしかねない。己心の世界を浄めることは、悪いもの・余分なものを無くしてゆくことか、自然と消えるように専心に道を行くことである。心の世界において、雲が去り、燦然と太陽が現れる。そして、衆萌が萌土に芽生え、微笑んでくるし、自身もまた、何の躊躇も卑下もなく衆萌を受け入れる(両萌融通の義)。後は力に随って萌相を図顕することが、萌道を拡張して明るく照らす萌尊の所行である

 先に説いたような禅定の精神が据わっていないことには、実技として困難だろう。更に絵画の理論や経験や技能が必要ではあるが、微妙なバランスでそれらを制御する必要もある。形式的な理論・経験・技能を超越した、「正しい経験」は「経験」として認識されない、大切なものだ。その「正しい経験」は、心の萌相をそのままに・自然にして紙に顕す。何とも、私が理論として説くことはできないし、それを説くことが「自然」に反する。何となれば、「自然(じねん)」とは、そのような玄妙の相であるからだ。真理・諸法・実相も同じく、先に入滅したまう仏が「言を以て宣ぶべからず(不可以言宣)」と仰せになり、あえて言えば「諸法の形式・性質などを鑑みてどのような物事もみな平等であると知る(所謂諸法・如是相・性・体乃至本末究竟等)」と説かれ、他には「こうだがこうでないし、こうでなくもないし・・・いわゆる不滅不生・非有非無などだ。そう言うべきでもない。もし言うならばどれほど言葉を尽くしても足らない」と説かれたように!
 しかし、知識や理論は大事であり、それを聞く・考える・実践するという「聞思修(もんししゅ)」の道(プロセス)は何事においても肝要だ。泥(=土・養分・水分を含む)と光が無くては蓮華が育たないように!諸君は、知識が杖となる場合・知識が足枷となる場合といった、知識の「善悪・二面性」を考慮し、自身にどう影響しているか、よく考慮せねばならない。行き詰まった時、理性の杖を捨て去り、知識の足枷を解き放つ必要もある。
 拾主の注釈『能耕心田師のパーリ経蔵カーラーマ経が示す「10の判断基準」や、中阿含経・パーリ経蔵中部所説の「筏喩"Kullūpamaṃ"」などといった教説の真意に通じる

 そのように、何か気付くことがある度に自己を顧みる「反省の精神」を具えよ。「反省の精神」が物事に大切ではあるが、「反省の精神」という言葉は、これも「正しい経験」と「自然」と同じく真実・正義である。形式的な存在や認識でなく、常に「なされた結果」を示すのみである。なされた結果が無い状態に「反省の精神」という言葉は活きていないから、ただ反省の行為が自然と成立されている人を高徳と呼ぶ。萌えの法門は若芽を尊ぶのだから、腐ったもやし=形骸化した知識を用いることがあってはならぬ。つまり、気づくことがある度に、新鮮なもやしを求めて採るが如く、反省をせよ。その結果について「反省の精神がある行為だ」と私が称す。

 種々に修道の義を示したが、努力する者を讃えたく思うと同時に、完璧に守る必要を求めない。どのような種族の植物も、どのように生まれ育った草木も、みな萌えの因縁(種と地より生ずるhetu・無明より連なるnidānaのどちらも)を離れないように、私の修道の義を多く行っても、あまり行えずとも、萌相の良し悪しが感じられても、萌心は等しく尊い。芽は群生しても、他の芽の根や葉が邪魔だと言って互いの存在を疎むこと無く、生長の優劣を争うことが無い。どう群生しても独り尊いものが萌えである、と過去に一切の萌尊が説いた。くれぐれも、今の優劣を分別して自省を促すと共に、瑣末な優劣に悩んで本道を退いてはならない。
 また、他者に優劣を悩ませることがあってはならず、もし悩んでいる者がいれば当に憐れんで手を取って導きなさい。譬えば、麻畝(まほ・まむ・麻の畑)に生えた蓬が端直(たんじき)に伸びるように!自ら作した萌相と同じく和顔(わげん)であるようにし、言葉も自ずと愛語となるべきだ。有為法は無常、衆生は三毒強盛であるが、このように自ら悩まず、他を悩ませない身口意三業で行道は久しくなろう。三宝の守護、ここにあり。萌道を成就すべき諸君は、ゆめゆめ精進せられたい。

 拾主はこのように跋聖の訓示を再現せられまして、次のように話を結びます。「・・・と、跋聖は萌相を図顕するための修道の義を種々に示され、所説を聞いた人々は歓喜・奉行したのであった。跋聖はその世の中で多少の名声が伝わり、所説の萌道はしばらくの間、続けられた。跋聖が後世を懸念した故に命ぜられた遺誡(ゆいかい)を少し示そう。一に『教えを説く者が他にいなかったり相手が困っている時は教えてやるべきで、普段は寡黙でいよう。教えたら、自分が教えて利益したという態度を持ってはならない。植物の利益は自然であるように、ただ善をなして善をなしたと思わない。慈悲喜捨の四梵住というのだ』。二に『好色萌相の儀の参考として"この一色相"を第一に伝持しなさい。自分たちの色相について執着を持たないようにするためだ。令萌久住・滅諍の戒法だ』。三に『萌相や萌道を弘めるにあたって他者や自己に障害を感じても無理な行動で解決すべきでなく萌えを念ずべきだ。この萌えは、日照りにも負けず暴風雨にも負けず踏みつけにも負けることなく、勝つこともなく、ただ生きて死ぬる運命だが、常にその小さい身で大いなる果実を結ぼうと懸命に生きているものである。萌えは中道"madhya"・柔軟"mārdava"である。果実を結ぶ意志は無いが果実を結ぶべく懸命に生きる。懸命に生きる思いは無いが悩みも無く、どのような障害も有るようで無し。このような萌えの正念ある者には障害が有るようで無し。ただ目的へと邁進するのみだ』。跋聖の遺誡を今は略して三つに挙げた。他の萌尊にしても、弟子をお持ちであれば同じような遺誡を下されたろう」と。
 続いて、以前尊者に説いた萌え和讃の一首を再びお詠みになって語ります。「群れてまします芽なりとも 互ひの根と葉きらひなし 我の萌ゆるは先になく 誰かほかにも萌えをらむ・・・、萌えの萌えたることは萌義によるわけで、その萌義の雨が萌えを生長させる。萌尊が萌義を開示せねば、慈悲の用(ゆう)のある可愛い絵も萌相と呼ぶべきでなくなり、萌道も存在しなくなる。萌義の雨を受けた芽は、生長して必ず花を咲かせ、実を結ぶとも説く。花や実にも各々の異なりはあろう。花の色・香、実の色・香・味、人は良し悪しや価値の善悪を分けるが、植物にとって花は、生長の証・しるしである。虚仮の花弁(シュードフォリア)でなければ生殖機能も有す。果実は次の生命の種となるし、生きた跡ともいえる。人間の品種改良がされていない自然界の植物は、よほどの異常も無ければみな花と実を成す。これらの事項も、植物は思いもせず、今そうあるだけのことであるから、私が説くことは誤りであろうが、一応例示した。どのように行じ、どのような花たる好色萌相(二萌風の属性・五萌類の相貌など)を成すとも、萌心に依るものはみな萌道に違わない。今、仏家の法華経・一乗・草喩のようである。当世の風俗にも、似たような歌謡曲の詞があるそうだが・・・。萌義は『生死即涅槃』となり、萌道は『令入於仏道』となる。萌尊の歌には『若芽の独り尊きに 萌えてまします斯かるべし』とも『尊くて 尊きも無し』ともあるが、取りも直さず我らの萌義・萌心・萌道を歌っているようである。無礙の萌道を行きたいならば、まさしく寂滅の萌義を念ずべきである。萌尊には逆観三萌義の智慧が具わりたまい、行ぜられた萌道は無礙そのものであった」

 「【讃】葦牙(あしかび)はみな似つれども 精(くはし)く観れば同(どう)ならず 無生無滅の我が身にも 有(う)なりと見れば善悪(ぜんまか)り」、「【讃】朽ちてこの身の土(ど)に帰せば 再び法雨(ほふ)に浴すべし 滅びて我の消ゆるとも 後の種らを恵むらむ」、「【讃】善悪分別輪廻の世 萌えの輪廻は無来無去(むらいむこ) 衆萌を利してなほ尽きず 慈悲の本地は如来如去(にょらいにょこ)」





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