2018年7月8日日曜日

萌えの典籍 2017年に起草された作品およびその関連作品

萌えの典籍より、2017年に起草された作品およびその関連作品を載せる。
当記事に載る作品は、みな「萌えの典籍」に総括されるものの、各々の内容は現代語と古語(文語・擬古文)とで別れがある。
このうち、古語のものであっても、文字表記には現代仮名・新字体と、歴史的仮名・旧字体(正字・康煕字典系)との相違点がある。
そういった点に注意しながら、当記事に載る作品を読むと、語学的にも習得できるものがあろう。
もちろん、語学的知識は、語学的な疑問や志(志向・心の向き)を前提としてこそ多く習得できる。
宗教的知識にしても、文学的知識にしても、その他の知識にしても、それを萌えの典籍より学びたい者は、当然、その疑問姿勢による通読と解釈とを行ってこそ多く習得できる。
志のある者が日常生活や日々の研鑽において思索・ひらめきなどがあることも大切であるが、短期間で多く習得する目的があれば、その分・相応の志を持ったほうがよいことを付言しておく。

加えて、仏教には「宝の山に入るならば宝(=四果や正覚)を取るための手(=信心)が必要だ」というたとえ話・譬喩がある(筆者が参照する典拠は大智度論・巻第一だが他に諸説あり)。
こちらは学問知識に対して宗教功徳を育む上で大事な譬えであるので、併せて知られたい。



萌え話・萌誦 "The Moetries" 緒言

觀萌私記」に由来する「萌え(智慧で考察されたもの)」を題材として綴った「萌え話」を集めた。
後略(過去の「萌え話」記事に同じ)

当記事でも和歌に【歌】を、和讃に【讃】を、漢詩に【詩】を、梵語(サンスクリット語・サンスクリット)の詩歌に【偈】を付す。
また、当記事の内容は2018年6・7月中に仮設地より移植され・補強されたものである。



目録 (英数字はdiv id属性によるアンカー名)

注三萌義 (csmg csmg-12i csmg-3j csmg-3t csmg-10n csmg-3z)
尊者名義談 (smg)
 ┗萌鏡真言 (mgsg)
萌相條勘注 (msjkc)
 ┗観萌行広要(独立記事に載る)
萌相三十儀 (30gi 30gi-qa)
雜萌喩(内容が新字体、雑萌喩) (zmy zmy1 zmy2 zmy3 zmy4 zmy5 zmy6)

萌集記 (mjk)
諸萌篇(輸提尼など) (mjk-sm)…輸提尼祕密闍多伽の事 現世で輸提尼が応現するの事 (mjk-sm-shj mjk-sm-gso)
念音処篇 (mjk-nmj)…不思議住處の事 障礙尊者と拾主と輸提尼とが神通力を作すの事 (mjk-nmj-fj mjk-nmj-jr)

※残りの2016年作品は別記事に掲載される。



注三萌義 (ちゅうさんみょうぎ) ~ 端的に説かれた萌えの真実
2017年1月下旬に書き始めたろう、観萌行広要を起草し始めた少し後である。注釈は主に2017年中にされるも、2018年新規掲載記事向けに増やされた部分もある。

讃萌語脚注に云く「萌相と云ふは萌にして萌ならず(萌不萌)。何を以ての故に。萌えと云ふはめでたき名なれども、凡夫にておはしし先賢の名づけたまはんか。是の故に假名の義を離れず」
【讃】 讃じて曰く「萌えと名づくる物事は、いづくに在りてもそこに無し、心のそこにあればこそ、萌える物事みな立てれ」

「真実」とは何か?私が語らずとも真実は真実である。
人というもの"living human beings"はみな顛倒しており、物事を分別したところに真実が求められると思いがちであるので、「分別しないこと」を仮に分別して語る必要がある。
その上で「萌え」を比喩的に用いて詳しく語ってゆこうと試みるが、「三萌義」自体は物事の捉え方の骨格を端的に示すのみである。
そうして語られた言葉から真実・真如実相を見つめてゆく姿勢が肝要であり、私が真実そのものを説こうとしていると思わないでほしい。
真実を知った人にのみ、真実の教説が決定されるからである。
私は、いわゆる真俗二諦のうち、言語道断の真諦を悟らすべくして言語至極の俗諦を説く。
考え抜いた末に思慮を離れる、という段階を踏襲することが悟りの階梯である。
ひとまずはゆっくりと熟読されたい。
俗諦としての明言を今に明かせば「而萌不萌(萌而不萌)=萌にして萌ならず(讃萌語脚注)」である。

三萌義とは、觀萌私記・萌義條に説かれた「萌え」の多義性の総括である。
一般的な萌えの語義を説明すると同時に、根本には物事の存在と認識(一)・精神の作用(二)・名称の敷衍(三)が説明される。
一の義・・・何らかの相があってこれを認識して知ること。萌義條では植物の発芽現象を萌えと称して取り上げる。
二の義・・・その認識と知識によって心が作用すること。萌義條では喜びと愛情を萌えと称して取り上げる。
三の義・・・再びその認識と知識と精神作用を持つ心で物事を捉えること。萌義條では人の心に愛される対象を萌えと称して取り上げる。

萌えについて愛情や軽蔑の心を無くして如実に見ると、真理*1に通じる。
およそ、悟った人にとって一切の物事は「真理の現れ(空・諸行無常・非有非無・言語道断のものの仮の現象)」と言えるから、萌えに限らず、何を見ても真理に通じる。
つまり、鰯の頭に信心を持っても、リンゴが樹から落ちる様子を見ても、真理を覚ることはできようが、その可能性は極めて少ない。
凡庸な物事を見ただけで俄かに真理を覚る超人は「未曽有(未だ曽て有らず)」と考えてよい。
釈尊の成道ですら、前途に多くの苦難と魔障とが起こったと伝えられる*2
もし有り得るならば、多くの人間は簡素な修行で仏・菩薩・阿羅漢に成り得る。
それは仮定であるから、今までに仏教を知らず・修行無くして凡庸な物事を見ただけで俄かに真理を覚る超人も、「未曽有(未だ曽て有らず)」と考えてよい。
私が三萌義をまとめて真理に通じる見解*3を持てたことも、世間で言われる萌えの語義と仏教理解との要因(要縁)なくしては成立しなかった。
世間の人はその場その場で語義を吟味せずに語句を用いると思うが、私は吟味したうえで一つの語義に限定させようとせず、「萌え」についてはその全てを包括して「萌え」と名付けることを示した*4

萌義條において、一・二・三いずれの義も「萌えとは"A"なり」、「"B"を萌えと名づく」、「"C"も萌えの類なり」というように全て「萌え」という名称を付けて可であるとしていると同時に、いずれも萌えの名称があるから区別する必要を求める。
また、一と三とは「一即多」の如く無限に往来して認識対象が無限に増える。
一の萌えがあって二・三・千・万の萌えが分かろう。
これを極めると、多数無数となり、平等無分別無差別の萌えを知ることを説く。

讃萌語に「逆観三萌義」といって三萌義を逆に観ずることで、外界の分別や内心の執着を解きほぐし、平等に萌えを知って慈悲を得る道理を説いている。
竜樹菩薩・中論の観法品の偈には「自知不隨他 寂滅無戲論 無異無分別 是則名實相(18:9偈)」とあり、「悟りによって言葉を離れて戯論が寂滅した『無分別』によって『実相(真実)』が現れる」ということを説いている。
萌えの真実とは、まさにこの偈の指している「実相(無分別)」である。
巷間、人口に膾炙する「ありのまま・あるがまま」とか、東洋思想の神髄に通じる「自然・非想非非想・無念無想」などといった言葉は、このように理解し得る。
私は仏教を学ぶ傍らに好色萌相を見ることで、その道理に気付く結果となった。
以下から、名数の仏教用語と三萌義との類似性や共通性を語るが、やはり「逆観」や「寂滅」による無分別・真実ということは、まず「十二因縁」が好例となろう。

*1…この真理とは、合理的・客観的・科学的・論理学的な真実"truth"でない。すぐ後に述べる「空・諸行無常、そして非有非無、そして言語道断心行処滅」といった類である。また、不肖の筆者は後述の「真理に通じる見解」を持つが、「言語道断心行処滅」の真理を持っているかどうかは、読者の推定に任す。
*2…その話は多くの仏伝に見られる。個人的に梵語(断片)・漢語・チベット語(漢蔵とも完訳)などが揃っていて現代語訳・英語訳も見やすい文献として、「仏所行讃(その話について第13品=破魔品が詳しい)」を推している。パーリ経蔵でも断片的に見られる(例として相応部・悪魔相応2425経の内容は仏所行讃13品や大智度論巻14にパラレルだが、そのパーリ経では成道後の話)。さて、我々が釈尊の成道プロセスを見聞きして、形だけでも再現できればよいように思ってしまう。形に対して心ではどうかといえば、当然、心・精神・人の内なる出来事は、再現したくて再現できるというものでない。釈尊が成道したという結果と、その過程の何らかの行為が重要視され、なおかつ釈尊が種々に説いた修行法が補助して「行と果」という因果関係を想定するが、結局のところ、理想的な結果・果報は各々の行為や自覚に依る。中論青目釈の観因縁品観因果品観行品(この行はsaṃskāraであって修行の行caryaではない)などに、「泥(土とも)が瓶(びょう、壺)に成る(作る)か成らないか」と例示して語られることが、良いアイデアとなるので学ぶべし。
*3…言語表現可能な・一応の客観性ある「真理に通じる見解」であり、大菩提の悟りでなく無上正等覚"Anuttara-samyak-saṃbodhi"でない。無論、不肖の筆者が無上正等覚とはいかなるものかを云々して正解を示すことはできない。大品般若経とその注釈書である大智度論は、般若波羅蜜や空の立場で、無上正等覚=阿耨多羅三藐三菩提について「得る(覚る)主体・その客体は無・空であって…」とも説くが、それは空観の立場の教えであることを留意されたい。空の教えは、理解できれば非常に愉快であるが、禅定の徳の浅いままでは間もなく普段の凡夫の境界に帰して煩悩の苦に逼められるという反面も、同じく大智度論の随所に説かれている。龍樹菩薩ご述作のうち、大智度論巻第十八・塩のたとえや、中論24:11偈・蛇のたとえ(教義の用い方に関する教説であって元ネタは中阿含経の阿梨吒経パーリ経蔵・中部22経に見られる)を参照されたい。
*4…その結果にこそ唯一最勝の意義"paramārtha"が顕れる。



三萌義を仏教用語に配当

十二因縁・・・(前提が無明・行・識)一の義が名色・六処(六入)・触、二の義が受・愛・取(再び無明・行・識・名色がここで意味を現す)、三の義が愛・取・有
十二因縁(十二支縁起)というと小乗仏教以来、仏教の基礎教理となっているが、漢字の並びに難しさを感じてしまう人が多かろう。
私が萌義條を考案して萌えの定義を構築した2016年8月ころでも中論をかじる程度にしか因縁・縁起のことが理解されていないながら、自然と仏教の縁起観に随っていたようである。
概念の名称と、それに括られる事物(名・色)*1-1に関する仏教の理解は、物事に対する思考を整然としてくれる。
三萌義には外形的事物を第一の定義として説いているが、萌義條脚注に「相と心との因果先後は假に説く」とある通り、言外には三萌義が成立する前提として事物の存在や人間の知能と認識能力(無明・行・識)がある。
三萌義は、例えば、①子供が保護者に「私は人間だよ、あなたも人間だよ(名色・六処*1-2)」と教えられて(触)②「人間という姿・概念(名色)」を知能(識)で学習・記憶する(受・愛・取)と③より多くの他人(道行く人・ベンチに座る人・電車を待つ人など)を見て教えられなくとも「人間」であることが認識(愛・取・有)できるようになることと似ている*2

この十二因縁を順に観ると流転・輪廻の道であるが、仏道では「逆観」による還滅・解脱の道が説かれる。
三萌義を領解して三の義の萌えから遡って観想すること(逆観三萌義)で、平等に萌えの色・相を観られるようになることが観萌の行・萌道の目的の一つである(なお十二因縁の順観・逆観とは「順=これが有るからあれが有る・逆=これが無いならあれが無い」というもので特に逆観は無明から老死へと順に滅びるという縁起理・還滅を示すのであって文字通りに逆に観ずという修行法でない)。
それは平等の慈悲を得ることでもある、とする。
その手段が、明確に狭義の萌えを設けて対象となる好色萌相を喜び、萌相と萌心とを観ずる行(萌観)によって再び萌えの定義の対象を無限に拡げることである。
讃萌語脚注に「萌相と云ふは萌にして萌ならず(萌不萌)。何を以ての故に。萌えと云ふはめでたき名なれども、凡夫にておはしし先賢の名づけたまはんか。是の故に假名の義を離れず」と説く、萌えを以て仮名の義が理解されたならば、無分別智の方向に進歩してゆく。
萌え及び不萌といった分別を真に無くするには、仏道に入る必要がある。

巷間、「愛は地球を救う」といった美辞麗句が囁かれるが、その真意を明かす者はいない。
ややもすれば、気味の悪い博愛ごっこや、ドロドロたる恋愛遊戯に興じてしまう現代人である。
「萌え」は、「愛(精神作用)」と「可愛(作用する対象の事物)」とが一如の言葉である。
この愛は、人間的な愛であり、十二因縁・「無明」が根源である。
人間的な愛("Love, kāma"や"Disire, tṛṣṇā")は、カーリタース"cāritās"にもオディウム"odium"にもなるので、淫欲や嫉妬などの煩悩を生み出す(ちなみに梵語カーマラテン語カーリタース印欧語根で共に*keh₂-へ遡る)。
三萌義と観萌の行により、「無明の愛*3」を「平等の慈悲」に転換する。
仏教に基づいた「萌え」が、「愛は地球を救う」を論理的に明示した。

三萌義の根源を仏教に求めると十二因縁の第一たる「無明」に他ならない。
無明の果が我々の捉える万事万象(虚妄・虚仮)であり、 萌え(萌色)もその内に在るが、三萌義を領解することで万事万象の非有非無を観じて実相の萌えに達し、無明を滅する大智慧の下準備が成る。
つまり、小乗仏教の義において「萌えは無明の所生」であるが、大乗仏教の義において「萌えは真理の現れ・応身・化身」となる。
また、万物即萌・萌即万物となり、不二一体真如実相を示す。
かの中国の萌朋が謳う「万物皆可萌」は、理に於いて証せられた。
そして、変毒為薬の妙理により、萌えは仏教の妙薬に加わる(萌仏習合?)。
次に説明する「萌えの三身(萌三身)」は、その妙薬の成分である。 

*1-1…この「名色"nāma-rūpa"」の定義は一般的でも伝統的でもない。近代以後の仏教学では「名称と形態"Name-and-Form"」という訳語が用いられて「精神と肉体"mentality and corporeality"」を指す。例えばパーリ仏典のうち、相応部・十二因縁を説く因縁相応の第2経に、釈尊が受・想など5つ"Vedanā, saññā, cetanā, phasso, manasikāra"を名"nāma"として説き(漢訳2種は共に受想行識を挙げる)、四大種所造色"catunnañca mahābhūtānaṃ upādāyarūpaṃ"を色"rūpa"として説く。阿毘達磨・アビダンマ・論蔵においては倶舎論などに見るよう、母胎で漸次具わるもの(五蘊・五陰)とされる。名色に先駆けるものが識であって識・名色は現世のものに分類し、無明(無智)・行(業)は過去世のものに分類する。
*1-2…「六処(六入)」については、名色の意義に含まれる「眼耳鼻舌身意(六根・五感と心)」のみならず対象の物事の「色声香味触法(六境)」も包括していると考えてよい(処・入"āyatana"の意義がそのようで阿含経・阿毘達磨で六六法とも十二処とも言い換えられる)。でなければ後続の「触」が発生せず、煩悩・業・苦は無い。六内処・六外処という内外ともに六処であって十二処ともいう。または、そもそも名色自体が五蘊・五陰であると説明されており、名色に既に「内処・眼耳鼻舌身意」が含まれるので、別に六処を設ける場合は「外処・色声香味触法」を指すしかない。そのような六外処(六境)と、名色に包括された六内処とが関係しあう段階を「触」と呼ぶ。なお、先のパーリ経典には、六内処たる「眼耳鼻舌身意」のみを六処に挙げている。六処に関するパーリ経典の説示は、六処相応を参照するとよい。ここに内処・外処の双方に関する言及がある。
*2…2018年にキリスト教聖書を参照した際に、創世記1章に根差す神学の基本理解「創1:1-26 神は言を以て天地・万物ないし人類を創る=ヨハネ1:1-2 神と言(ことば)とは倶に在り、1:27 神は自己の容(すがた)にして人を創る」ということを知った。この行の①・②・③と似たプロセス(子供の初期の認識能力に於いて必ずしも言語・ことば学習を伴う必要も無いが)であり、縁起観にも通じている。よって2018年に仏教の縁起説とキリスト教の創造説とを比較する記事を作った。
*3…「無明の愛」とは、単に修辞的にするならば後続「平等の慈悲」に字数を合わせて「無明の渇愛」とした方が良い。また、多種ある「愛」の意義のうちの一つを特定するためにも良い。しかし、実際には維摩経・漢訳3種のうちの「維摩詰所説経(鳩摩羅什訳)」にある「無明有愛(原語: avidyā-bhavatṛṣṇā 話としては如来の種が何であるかを文殊師利菩薩が問い維摩居士が複数挙げる過程でそれを挙げる)」を念頭に置いていたため、日本語表現は一般的な「愛」と書くに留めた。



三身・・・一の義が法身、二の義が報身、三の義が応身
三身とは仏の姿を細分化した言葉であり、法身・報身・応身の3つがある。
端的に言えば、仏が得た悟りは法身であり、悟った仏の智慧が報身であり、衆生済度の慈悲のために人間や経文などに現れて人間に認識できる状態が応身である。
觀萌私記の讃萌語では、自然たる萌心が法身であり、萌心を覚って萌色と共に萌えであると観て萌相を作る智慧が報身であり、萌心ある智慧が作った好色萌相や萌心に認められた万物萌相が応身であると説明される。
「三即一 (三身即一身)」で法身も応身も報身に帰し、「三身具足」という一体性を示す。
いわく「我が身は自然の萌心と養殖の萌相とを觀じて萌相を顯す。所謂、佛家の法報應(ほっぱうおう)三身(さんじん)あり。自然萌心は法身(ほっしん)、能觀能顯の我が身は報身(はうしん)、養殖萌色及び萬物は應身(おうじん)にして、皆な萌えの一體なり。善く三身を知りて萌道を修め、自ら萌えの體と成るべし

三萌義も三身も、いわゆる「仏法僧の三宝」も、一の義・二の義の価値を高める三の義や、法身・報身を伝える応身や、仏宝・法宝を伝える僧宝と、三番目の存在意義も末端でありながら副次的な作用を請け負っており、重要視されている。
本末は相互に補完して一体となっている意義は、三萌義も三身も三宝も同じことである。
萌え絵(応身)なく、萌え絵を描く人に理解(報身)なく、萌えの原義と現象と知能・精神(法身)なかったらば、一般的な「萌え」が成立せず、萌えという言葉を用いる必要がなくなってしまうという「相互依存」の道理がある。
3つあるいずれの要素も不可欠であると知り、円満な理解が必要である。
「萌え」においてはいずれも萌えであると同時に、うち一つだけが「真の萌え」ということとならない。
萌え・仏は、作用・在り方を観察すれば3種類に分別できるわけであり(古くは部派毘曇や大智度論などに二身が説かれるなど三身が明示されるまで変遷がある)、それを合体させて一つの萌え・仏となるとも言うべきでなく、元々三身に分けられるまでもなく一体とも想定すべきでないので、不一不異・円満とする。

仏といえば釈尊・お釈迦様であるが、私は過去記事で法華経理解から「釈尊の妙法蓮華経の悟りが法身、釈尊が妙法蓮華経を知った・説いた智慧が報身、説く時の姿がある釈尊と説く釈尊のために出現した分身諸仏が応身」と三身を説明した。
更に、妙法蓮華経の法・悟りは境(所観)、妙法蓮華経の法を知ること・説くことは智(能観・能説)として、境智冥合が示され、この世で現に智慧を発揮して生きている存在ならば慈悲の応身(分身諸仏は法華経の正義を証明する因縁で会座に出現したという点も慈悲の顕れ)であり、説かれた法(所説)も応身であると説明できる。
経文上で名のある存在として多宝如来・釈迦牟尼仏・分身諸仏が出ることも、みな法・報・応として三身の意義を表したものであると天台大師が法華文句・巻八下に説いている(引用: 多寶表法佛・釋尊表報佛・分身表應佛)。
多宝如来・釈迦牟尼仏・分身諸仏のいずれも、経文上の存在とすればみな「応身」である。
清浄萌土抄の萌報身もあえて報身と呼ぶのであるが、視点を変えて文字上の存在とすれば諸萌・萌類と同じ「応身」である。
しかし、理として見れば釈尊でも萌報身でも、文字が示す所の意義は報身という存在であり、三身を具足しているともいえる。
こういった区別の末に、今を生きる我々が萌えに成り、ついには仏に成れる可能性があることを示唆していると読解せねばならない。
萌心の種を自覚し、観萌の縁で萌心の芽を出だし、萌心の念を保ちながら萌心の慈悲・好色萌相・萌え絵を顕してゆくならば、具足三身・即身成萌とでもいえよう(讃萌語脚注の偈)。

ほか、讃萌語の最後に出る偈は「頂礼大萌尊」の一句より始まるが、この「大萌尊(ネタ梵語: mahā-moya-bhagavān・男性名詞)」とは三身のいずれをも指す。
つまり、三身のうち、萌え絵・好色萌相や、一般的な絵師らを「萌えの現れ」として崇拝・尊敬してもよいが、萌えの根源は「具足三身の萌尊」であると念頭に置くべきである。
萌え絵・好色萌相や、一般的な絵師らは、応身の萌えの一端であり、「偏萌」であろう。
大萌尊とは萌えの三身を具足しているから、萌えの内証は釈尊および諸仏の所有でもあると拝すべきである。
我ら凡夫もまた、仏と萌えとを仰いで凡身に同じ徳が得られる法理を念頭に置かねば、世俗の諸々のコンテンツを仰いでいる一般人と変わりが無くなる点を留意されたい。



三諦・・・一の義が空諦、二の義が中諦、三の義が仮諦
「実体・自性が無い=空ろ・空っぽで諸行無常である」という一面の真実を示す空諦と、「生きている世界では仮に物事が存在して認識できる」という一面の真実を示す仮諦があり、その空諦と仮諦という両面の真実を共に否定しつつ共に認めるという偏執・分別の無い真実を示す中諦という。
この「三諦」が中国・日本の諸宗で認められた*1
先に述べた三身と三諦とは通じやすいが、三萌義と三諦との間には些か通じづらいため、三身に関連させて三諦について説明し、三萌義と関連させる。

この空・仮・中の三諦を、先ほどの三身に配当する。
空諦は法身(三萌義では一)であり、物事の自然な法則である縁起について説いている諦・真理である点と、その諦・真理そのものを身にたとえている点とが共通する。
仮諦は応身(三萌義では三)であり、縁起で仮に存在する物事について説いている諦・真理である点と、その諦・真理を象徴する物事(色相を具えた諸仏・経文の存在など)を身にたとえている点とが共通する。
中諦は報身(三萌義では二)であり、空諦・仮諦を共に理解しつつ、一応説くことのできる空の諦・真理が絶対的であると捉えた偏見(取見)や、一応世界に物事が存在して認識できていると理解した故の執着(愛著)を否定する中道の中諦が、浮雲の如き真理と可愛の色相という両極を中和する智慧の報身に通じる。
更に、これら三諦は天台宗および日蓮系諸宗で三諦が一諦として「円融」するという中道の理が、三身が一身に具足して人間の色心そのものが三身であるという教義とも共通している。

「円融三諦」によって三諦の一諦が更に三諦を互具しているということで、空にせよ仮にせよ中道にせよ、どの真理も「真理ならざる真理」という理解となり、延々と偏見や執着を消滅することになるが、大乗仏教らしい展開である。
三諦の語句の典拠は中論(鳩摩羅什訳)であるが、典拠における「空(無)・仮名・中道」とは語句の意味が異なっていても、「三諦の隔歴→円融」のように真理を仮に設定しつつ否定もして執着を無くする姿勢は、中論の作者である竜樹菩薩の教説に一致し、その悟り・真意・内証と通じることになる(竜樹は小乗部派を念頭に置いたので中論の所説は"無"を強調した否定的姿勢であり中国高僧は現世を肯定する立場で天台大師などが一念三千を説いたが対機説法の故であり真には竜樹・天台とも否定でも肯定でも無でも有でもない中道・平等である)。
言葉で説明するにあたっては「言葉の無限ループ・戯論」に陥らぬよう、あえて「円融」の名を以て最上の真理とするが、真には推して知るべし、生きている間は飽くなき追求がある。
真理を説明する言葉を仮に「真理」といっていくつも提唱できるが、「言葉にされない真理」を指すための「言葉としての真理」があることを常に念頭において仏教を学ぶべきである。
その「真理(satya*2)」の二面性は、同じく中論の真俗二諦であり、過去記事で幾度と語った通りである。
その例としては、觀萌私記・内蔵萌心説を「主観的真理」とみなして「客観的真理」が言葉・思考の範疇とは別に有る(有るが無いともいう)ことを説いた過去記事を挙げる。

三萌義と三諦の関連性を改めて述べる。
まず空諦と一の義は、三身や萌三身だと法身や萌心にあたるが、法身は智慧所得・所証の悟りであってその悟りに「自然」とか「常住」という表現がされることは度々あり、取りようには空(因縁生・縁起)という「不変の法則」を指すこともできる。
しかし、「不変の法則」呼ばわりでは、いわゆる「法有我」という見解に陥りやすいので、空諦も先述の通り三諦を互具して空諦や中諦によって破られ、空諦もまた仮に名付けた概念・空であると捉える必要があり、法身も仮に身にたとえた表現であって実際の物事は有であり無であり非有非無(非有非空も)と捉える必要がある。
無論、一の義とは、「若芽」などと言うよう、もともと存在して生滅がはっきりと認知できるのに無感情である「植物」を示しており、寂滅の象徴でもある。
寂滅のものに対し、人間が「寂滅」とか「芽・萌え」とか「空」とか、「萌義」とか「空義」とかと、仮名を付している。

空諦と法身と一の義とは、多少通じやすいと分かったろうが、空諦と一の義のみでは共通点を明かしづらい。
かえって順観した時の一の義は「事物・現象」を意味しており、仮諦に似る一面もある。
逆観の時の一の義は「万事万物万象の平等」となる点が空諦の意義に似る。
空と仮とは相反するが故に「表裏一体」でもあろうが、ここでは空諦を一の義に合わす。
それでは中諦と残る二つの萌義を、どう関連させるか?

中諦は円融三諦に導くものであり、三萌義の一の義だけでも即空・即仮・即中と見られるので、ましてや二の義・三の義も同様となる。
しかし、それは戯論を滅ぼす真諦の観であり、三諦に三萌義の配当を検討する意味が消える。
仏道においては戯論を無くする良い方向だが、教学においては好ましくない。

*1…三諦の典拠と理解を龍樹菩薩の中論に求めるとややこしい話になろうし過去記事で説明が済んでいる。中国高僧が中論の24:18偈を深読みして修行によって得た(=不可得の)理解を説明したものがこの三諦と思ってほしい。その説明方法や、三諦を用いた一心三観といった修行法が、一見して「新しい」印象を与えるために、近代的な見解では好まれなかったろうか。
*2…サトヤ・サトゥヤ・サティヤ・サティア・サテヤ・サテャ・サツヤ・サツャ・サチヤ・サチャ、としてカタカナ表記できる。日本語の拗音=硬口蓋寄りの発音は、サンスクリット関連の音声学で"ty-, ky-, ny-"のような二重子音と区別されることが多いので、それについて注意すれば、この種の語句の発音がどういうものか分かるかと思う。カタカナ表記やひらがな表記について、私はごく慣用的に用いる姿勢でいる。"satya"は、当然サティヤ・サティアが一般的なものに近いが、サンスクリットの音声学・音韻論・考察に基づいた文字表記(ブラーフミー系文字→デーヴァナーガリー ラテン文字→IAST)を参考にすると、"ña (硬口蓋鼻音), nya (歯茎鼻音+硬口蓋接近音)"といった表記がみな「ニャ」になってしまう。そういった問題を排除するためには、サンスクリットのために便宜上「ツ」を"t (無母音)"相当に用いて「サツャ・サツヤ」とするか、アイヌ文字用の小書きカナ「ㇳ」を用いて「サㇳヤ」とするような表記をする。これらは現代日本人の感性になじまないため、せいぜい妥協してサトヤかサティヤかサティアとなる。



十如是(始めの三如是)・・・「所謂諸法=夫れ萌えと云ふは・萌えと名づく・皆な萌えの類」、一の義が如是相、二の義が如是性、三の義が如是体(または一の義が如是相~体、二の義が如是力~報、三の義が如是本末究竟等)
日蓮大聖人の御書でも、御真蹟のない「十如是事」や高弟への口伝とする「御義口伝(巻上)」などに「三如是」という用語が用いられる。
うち「十如是事」は既述の三身や三諦に関連付けてあり、「如是相=応身・仮諦」で「如是性=報身・空諦」で「如是体=法身・中諦」であり(引用: 如是体とは我が此の身体なり是を法身如来とも又は中道とも法性とも寂滅とも云うなり)、私による報身と中諦の結びつけとは異なっている。
主に両書に詳細を預けるが、補足する形で少々述べる。
私が觀萌私記で萌えの定義を説明したことは、やはり仏教研鑽の功であろうし、十如是に該当する方便品の文の影響は大きかったものと振り返る。
「所謂(いわゆる)諸法(しょほう)」という部分は、萌義條の出だし「夫れ萌えと云ふは」に共通するし、「法」という字を「萌」に置き換えてみても面白い。
いくつもある萌えの定義の全てに渡って「萌えと名づく・皆な萌えの類」と強調したことも、十如是みな「諸法(の実相)」のうちにあるという方便品の説明と同様である。

ところで、方便品にある十如是とは、法華経に詳しい方はご存知の通り、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(および添品妙法蓮華経)にしか登場せず、梵語の本や、竺法護訳の正法華経や、世親作の二漢訳ある法華論は異なる形式となっている。
法華論の五何法→「唯仏如来知一切法"sarvadharmānapi tathāgata eva jānāti"。①何等法"ye ca te dharmāḥ" ②云何法"yathā ca te dharmāḥ" ③何似法"yādṛśāśca te dharmāḥ" ④何相法"yallakṣaṇāśca te dharmāḥ" ⑤何体法"yatsvabhāvāśca te dharmāḥ"。何等 云何 何似 何相 何体"ye, yathā, yādṛśā, yallakṣaṇā, yatsvabhāvā"。如是等一切法、如来現見。非不現見。」
梵語英訳→"what they are, how they are, like what they are, of what characteristics (特徴・ラクシャナ"lakṣaṇa") and of what nature (自然な性質・自性・スヴァバーヴァ"svabhāva") they are."
正法華経善権品の説→「如来皆了諸法所由。①従何所来 ②諸法自然。分別③法貌 ④衆相根本 知⑤法自然。」

十如是とその他との双方には、共通点と差異が見られるものの、十如是のうちの始めの三如是といくらか通じているようである。
これらの教説も「牽強付会」気味に三萌義と対応できるが、力不足と怠慢のために放棄しよう。
この十如是の説明は、2017年2月3日に初めて起草することになってここまでの約800文字を書いてきたわけだが、その近頃はスランプ状態を自覚しており、どうにもしがたい歯痒さが屈辱である。

それはそうとして、十如是や五何法はいずれも、仏・如来の間でのみ知られる真実(唯仏与仏・唯仏如来知一切法)であるから、本来我ら衆生であれば不可得・言語道断心行処滅の空法(空・無、非空・非無…)であろう。
例えば"nature; essence, svabhāva, 自然・自性"ということを竜樹菩薩が中論で否定している。
三萌義は「萌えの仮の相"lakṣaṇa"(一の義)」や「自性"svabhāva"にも似た心(二の義)」などを明かし、「肯定的な平等(三の義が究竟となったもの)」を見出す目的がある(外的事物と内的作用の関係性=法身と報身の境智冥合は四諦の観点で捉えれば十二因縁にもいえる。結果として一切の事物の因縁生という応身の性質も見出される。衆生因縁所生の応身は如来平等慈悲所生でもあるので十如是・本末究竟等となる)。
対立概念は相対的であり、物事に善悪の両面を見出せることは常に私が説いている。
中論で展開する竜樹菩薩の説法は否定的立場であり、大乗仏教諸宗や萌えの法門は肯定的立場を取ることが多いが、唯一の悟りそのものは否定でも肯定でも無でも有でもない中道・平等である。
いずれにも「でもない」と書けば「全否定」となる語弊があろうが、読み手は「全否定即肯定(負の数と負の数の掛け算が正の数になる)≒否定と肯定の相殺でそれぞれが無に帰するも有に対比した無に非ず」と柔軟に理解すべきであり、「中道・平等」の表現も仮名(けみょう)と見て私の言葉への執着を解かねばならない。



三世・・・一の義が過去世、二の義が現在世、三の義が未来世
十二因縁の話とも似るが、まず私たちが知能や精神を使えるようになるまでに物事の色相・形状というものがあるとする観点で三萌義が順に開かれる。
芽が萌える相を過去世としてよかろう。
それを認識できる知能・精神を有した状態が現在世とする。
その知能・精神は未知なる物事を萌えであると認識するから、未来世とみなせる。
過去の深みは無量であり、未来の広がりは無辺であろう。
現在を生きる我々の心が平等の萌えを確立することで、無量無辺の三世を円満に包括する。
三身も三諦も「三即一」であるのみならず、三世も現在世・現世を中心として(三のうち一つが中心や主体だというと語弊がある)「三即一」となる。

三萌義"Trimoyartha"が三即一であるならば、三つ葉の草・クローバー"Trifolium"を象徴として用いて可であろう。
もし三つ葉の草=一つの萌類を見たならば、三萌義を考え直すようにしたい。
萌義條・脚注にいわく「萌えの義を三つと示したり。一に原義の相、二に原義の相に緣りて起こる心、三に緣起の心の愛するものにして、是れ皆な萌えと云ふ」と。

最後に、讃萌語・脚注の頌を載せる。
「三萌義を領解(りゃうげ)し、實相中の萌えを識る。應に萌三身を具すべし。萌尊の法(ほふ)是の如し」
【偈】 (作2017年12月)
Trimoyarthaṃ prajānāti, moyabhūtaṃ vijānāti |
Moyakāyo'palabhyate, etan moyāryasya dharmaḥ ||





2016年10月9日に人物の全身の線画を紙に描いた。上掲は2017年1月2日より漸次に加工された結果
在虚空中住曼荼羅

尊者名義談(そんじゃみょうぎだん) "śoga-nāmaka vyākaraṇa"
※障碍・障礙(しょうげ)の梵語音写名詞はśoga(ショーガ)ほか中国字音からcaṅga(チャンガ)がある・・・普通に梵語の"Antarāya, Pratibandha"の方がよいかもしれない。起草は2017年1月上旬ころ

rahul rahu raahu ラーフ ラーフラ
2016年11月16日に描いた…画像内の文字: rāhuḥ राहुः

問、彼の尊者に何の因縁ありてか障礙(しょうげ)と名づけたまう?
答、尊者にては障礙の名に二三の義あり。一に拾主の定心と道心とを礙(さまた)ぐる禍(わざわい)あるの故なり。抑も障礙と云うは梵語にて阿修羅王の羅睺(らご、ラーフ राहु)、仏弟子の羅睺羅(らごら、ラーフラ राहुल)等を見るところなり。
二に拾主に大なる力作あるの故なり。羅睺と名づくる阿修羅王は日蝕を起こすと天竺にて恐れらる。日蝕の起こりて後に衆生は再見の日天を仰ぎ、恩徳の有り難きを知る。彼の尊者は拾主に侍るを以て尚お拾主の威徳を倍増せん。
三に彼の尊者は拾主の滅びたまいて後に拾主の威光を遍く照り返すの故なり。釈尊、瞿曇悉達多(くどん・しつだつた、ガウタマ・シッダールタ)太子と名のりたまえるに世の快楽の至りを得(う・終止形)。妃(きさき)の耶輸陀羅は一子を孕む。時に悉達多太子は世の楽即ち苦と知ろしめして厭離の念を生ず。住処迦毘羅衛城を出でんとするに耶輸陀羅が子ありと聞こゆ。慈心を過ぎて愛著に責めらるるが故に羅睺羅(これ障礙)と名づく。是れ可愛の子にして道念を乱すと。太子成道の釈尊の城に還りて法を説くに、此の子羅睺羅は諸の釈氏と倶に出家して仏弟子の道を得て尊き羅漢と成れり。摩訶迦葉・阿難陀等の大声聞衆に交わりて経経を伝うる如し。彼の尊者亦た復た拾主の教を究尽(くじん)して遊行して宣説せん。

問、尊者は障礙と称すと雖も、これ善なりや、悪なりや?
答、拾主凡身の修行に於いて悪魔の用(ゆう)あり。魔と仏とは人の思惟分別に依る。又た五蘊に由るべし。人に非ざるようなれども畢竟人のことなり。悪魔の用も正等覚を開きて凡身を離るれば悪魔に非ず、仏の如くにして仏に非ず、善の如くにして善に非ず。善悪なきこと萌類の如し。種種の力用あって能く萌道を荘厳せり。

問、尊者、宣布の願を発(おこ)しぬと聞くも、自ら障礙をか得ん?
答、或る世に於いて拾主、「有所言説・人不信受」の妙文を自覚して悔悟せるに、日浅くして尊者に値う。時に尊者、拾主所伝の法を聞き、善く信解す。即ち願を発して云く「拾主の徳は普く万人に知らるるに足るべけれども、敢えて一人の信者も無し。苟も万人が知るとても、一人の善き理解者も得ざらん。然るに我、拾主の梵音を諦聴して須臾に信を得。所説の法、誰か余の行者なるべき。我、此の教を一生聴聞に徹して後の生に於いて広く宣べて流布せんと発願す」と。かかる誓願を拾主は賛めて寵愛す。二年を経て期せずして、拾主この生を終え、尊者現身に奉行す。慈悲方便が内は自ら障礙をも得べきか。而して慈悲の尽きざらんにはこの願、満ずべし。時はいかに、若しは十年、若しは三十年、若しは百年、若しは数世、長短を計らず。実には久遠のいにしえより発せる願なるか。

問、尊者はこれ男なりや?女なりや?
答、尊者亦た復た諸の萌類と同じう萌尊の智慧に因りて仮生する所の萌類なり。因縁起の故に尊者の名あり、好色の相あり。然れども、法を示現するの故に男女の性を推求すべからず。名色ないし種々の差別ありと雖も、男女相の分別を捨つべし。時に男子の如く時に女子の如くならんか。我らが思惟分別の正しからざる不可思議境なり。萌報身の優陀那に云く「女相に似ると雖も女に非ず非女に非ず、男相も亦た爾なり。これ中道と名づく。亦たこれ不可思議・真如と為す。男女・美醜、これ可愛相にして可憎相なり。是の故に可愛に非ず・可憎に非ず。萌尊、方便を以ての故に可愛相と謂う。当に推して真理と真如相とを知るべし(雖似女相。非女非非女。男相亦爾。是名中道。亦為是不可思議真如。男女・美醜、是可愛相・可憎相也。是故、非可愛・非可憎。萌尊、以方便故、謂可愛相。当推知真理与真如相)」と。

問、拾主は衆萌(しゅみょう)を寵愛したまう。尊者にては嫉妬の情や起こるらん?
答、尊者亦た復た諸の萌類と同じう萌尊の慈悲に因りて応現する所の萌類なり。内証を問えば正に平等の慈悲を具せり。然れども拾主と倶なる時にては方便して嫉妬の色を作すべし。是れ萌報身に通じたる内証慈悲なればなり。所詮、慈悲智慧具足萌尊が所生なれば鏡の如くに内証を映じ柔軟に方便を現ずるなり。名は障礙と申せども実には無礙なるが如し。

注釈(現代語): 障礙尊者の力用を現実世界・実生活に置き換えてみよう。力用の有無は信仰の心・道念に依る。例えば、不殺生戒を持とうとする人が、部屋にいて、蚊が彼の周囲を飛びまわっては離れることを繰り返すとする。この蚊は「ウザイ」存在か?見ただけで憎悪が滾り、掌握して抹殺せんとするか?この蚊、豈に異人ならんや!まさしく障礙尊者と思わねばならない。蚊に刺されれば修行を妨げる症状が皮膚に発生し、伝染病の懸念すらあるが、彼は蚊を殺してはならない。刺されても「仏道・人生には有り得ることだ」と泰然としていれば、障礙尊者を調伏したことになる。もし虫を殺して良心の呵責があれば、これも障礙尊者の力用である。手を打って足に踏んで殺したらば、手足が汚れたり痛むので、これも障礙尊者の力用である。殺虫剤を噴射したらばその場で目を開いても呼吸をしてもいられないので、これも障礙尊者の力用である。・・・と正念を以て思わねばならない!我が身に自ら受ける苦楽の思いも障礙尊者の力用であるとすれば、自他・有相・無相の一切が障礙尊者のようであり、障礙尊者にも一切にも「我(アートマン)」が無いと知ることにもなる。

いつでも、蚊を始めとした虫類は自身を逼迫するが、それは障礙尊者の力用と考えるべきであり、煩悩即菩提を実証する機会でもある。その場の蚊が何匹でもコバエが何匹でも、みな障礙尊者の化身ともいえる。信仰のある者は、一切がそのまま障礙尊者の力用であり、仏道に障礙が有るからこそ無障礙の境地を尊ぶものと知るべきである。極端に言えば、不生不滅の理によって生死を厭わず、蜂の大群に刺されることをも恐れない(障礙は道を行く折の妨げと認知されるものだから自ら蜂に刺されようとする必要は無い)。されば、その信仰者は有障礙を即座に無障礙と転換し、障礙非有非無と知り、阿修羅王ラーフを調伏して仏弟子ラーフラのように成ろう。ラーフを調伏するといっても、パーリ経蔵・相応部91・92経(天子相応9・10)のように頭破作七分"Sattadhā me (彼の=tassa) phale muddhā"させないように。

なお、障礙"obstruction"という単語は一般的に"pratibandha (梵語経典など)"や"sambādha (パーリ語仏典など)"という。語根の梵√bandhや巴√bādhとして、connectionの意味もある。"connection"とは仏教用語だと「繋縛」である。原語が"梵: saṃyoga 巴: saṃyojana"のときもある。自分の六根(眼など)や体外の六境(色など)は、それのみが顛倒の根源でなく、両者の関係性によって「煩悩や煩悩に基づく苦」が起こる。両者の関係性を繋縛と称す。雑阿含経パーリ相応部にも「黒牛と白牛のたとえ(黒牛は白牛を繋ぐ主体でなく白牛は黒牛を繋ぐ主体でなく両者を繋ぎ合わせる縄・紐(軛・鞅)が主体であること)」で説かれる。これが触・六識・縁起・中道である。障礙尊者の力用は、その縁起を知る者が実感できる。それはsambādhaでもsaṃyojanaでもある。端的に言えば、能観の我が心身は悪でなく、所観の蚊などの虫も悪でないということである。中道慧眼能見障礙。中道を追究するは、その繋ぎ合わせる縄もまた、その機能を発揮していない状態では「ただの縄(換言して糸や繊維の集まり)」でしかなく(ただの縄という表現も外見に基づく仮名)、善悪が存在しない(非善非悪の中道)。
語源解釈記事→http://lesbophilia.blogspot.com/2017/09/wall-obstruction-antaraya-pratibandha.html

注釈(現代語): 「障礙が有って無いようなこと」とはどのようなことか?ある小説の主人公は、ほとんどの物事に無感情であり、彼が本能的に「敵」とみなす怪物のみをターゲットに入れて殺戮を行う。「障害・障礙というもの」は、それが「邪魔になる」という価値判断から、「障害・障礙のようだ」と認識され、「障害・障礙のような名称」が生まれ、名称による概念の定着がある。つまり、個々人の善悪の価値判断に因って「障害・障礙」が有る。外界に「障礙という事物」そのもの"bhāva"は無い。実体として壁は存在しない。彼には、善悪や快不快といった価値判断がほぼ存在しないので、その認識による感情の動きも最小限であり、他者からは「無感情な人」と見られる。その彼の発言は「善悪?くだらない」や「敵(と本能的に彼がみなす怪物)は殺す。それだけだ」である。およそ、彼は縁起の理法を覚っていると考えられる。そのような場合、どのように過酷な物理的な障害・障礙があっても、そのように「邪魔になる」という価値判断がなく、ただ冷静に感情を介入せず「現実・ゲンジツ」を見て状況に対処する。たとえ「物理的な壁」が四面楚歌のように自分を空高く囲っても、解脱の人にとって「壁」たりえず、「単にそこに有るモノ」とも判断されない「存在ならざる存在(非有非無・非非有非非無…)」である。つまり、「自分に立ちはだかる壁・障害物」という名の「不快な存在」と感じないようである。客観的世界の物質的存在は壁のようでも、心に壁の文字と定義とが無いので、主観的世界の精神的存在は壁でなく壁でないとも称すべきでない(非壁・非非壁)。彼の辞書には「欲望が求めるところの快楽」も「感情が嫌うところの障害」も存在しないようであるが、実際に仏教の悟りを得ているわけでない。よって、時折、怒りの感情が強く発現することもあり、その時は「邪魔だ!」と取り乱したりする。煩悩・感情がある時、「存在ならざる存在(非有非無)」が善悪の価値判断を介した「邪魔なもの・欲しいもの」などへと認識が変化する縁起である。山の向こうに新天地があると知って行きたいと思う人は、山が単なる山でなく「行く手を阻む障礙(障害物)・邪魔なもの」と認識する。

私たちはPCなど道具の扱いや他者との交流で時折、不快感を得て怒りを起こし、手を上げる場合もあろう。どのように制御するか、と悩む者は、必ず縁起の理法を知らねばならない。十二因縁など縁起の説は、難しいものであろうか?十二支の全てが「実感しづらい我が心の出来事」であり、仏様が理路整然とお示しになったのみである。感情・思考の強い人間は、誰でも例外なく「縁起の主役」である。「実感しづらい我が心の出来事」を、教えられることで実感できるようになり、その出来事の結果にある煩悩(欲望や怒り)をも自覚して防げるようになる。その利益を成就するには、教えを念じて(肝に銘じて)忘れない努力が肝要である。縁起の理法と合わせて、因果応報(善悪業報・自業自得)や慈悲のことについても、信仰を持って学んでおいて頂きたい。

注釈(現代語): 信心の中に障礙尊者の力用が種々に現れて障礙即助道(犬も歩けば棒に当たる→棒を拾って杖と為す)となる理法を説く。しかし、実際の世界でも障礙尊者のような「脇侍("upasthāyaka"随侍・常随給仕とも)」というべき大弟子が現れることを予期してもいる。仏弟子では、本文中にもあるよう、阿難尊者のような方である(釈尊在世のうちに入寂せられた舎利弗・目連尊者はまた別に)。過去記事に謂う「教えの主を知る者がたとえ万人を超そうとも、その教えの聖水を漏らさず受け容れ、濁さず留めることが適う器は一つとして有難く御座いましょう」と。諸仏も過去萌尊も、素晴らしい弟子を抱えたり、あるいは三乗に分けて唾棄したりするか。路上の草は、薬草ともなり、害あるもの(地面を荒すとか虫の温床になるとか土を汚染するとか栄養を奪うとか)ともなる。無差別に於いて真実の一乗(二三皆一萌)ともなる。障礙尊者の力用は、変化身の点で法華経に説かれた観音菩薩や妙音菩薩などとなり、過去の萌尊はみな、一ならざる色相の障礙尊者を感得していたろう。当世の拾主に侍る尊者は、上の図(イラスト)のような人間であり、様々な意義から「障礙」と名が付くが、過去萌尊の感得せられた力用(釈尊の諸菩薩)と実際の脇侍(仏弟子の阿難尊者など)と当体は同じである。



過去萌尊の感得せられた力用について・・・当世の拾主が梵語『波藍剌那(はらんらな"paramaratna"・勝宝)』として尊者に明かしている(hmd-i3にて)。過去萌尊の時代・国土における言語でも同じ意味を持つ語句で、過去萌尊がその名を得たと考えてよい。少し優陀那のメモをしよう。「閻魔が水精(すいしょう・浄頗梨、玻璃鏡)の如く、宝珠明徹(みょうでつ)に功徳を映す。夜摩"yama"も梵摩"brahmā"も能く人の心の如くに三業を知れり。化身もて一切に応じて人に法を説く。是れ天使"devadūta"・是れ如来使"tathāgatadūta"と謂うべし。天衆と心と仏とは皆な萌えに異ならず。 萌鏡真言Oṃ parama-ratna guṇa-prabhāta svāhā」

: 2018年5月3日に萌鏡真言が複数の唱え方で発声された動画を投稿した。http://www.youtube.com/watch?v=Sdf78177QMY このうち1:21からの五遍は普通の唱え方を異なるテンポで行っている。発音は一音一音を僅かに区切るようにしてあるので、実際に唱えるならばもっと自然に行う。





萌相條勘注 2017年1月4日起草・観萌行大要(後: 観萌行広要)と併せて同日に4,000文字程度を記す(既存の記述の再利用を数えず)。2017年4月3日に動画にした→http://www.youtube.com/watch?v=O4DLkQQOkik

奉読「夫れ顔相(かほばせ)は、圓(まど)かなるを要とすべし。此の義を踏まば、名づけて萌えと爲す。角(かど)と云ひ朿(とげ)と云ふを嫌ふ。但し、骨拔きの蛸の如きに非ず。其の相、柔和なり。此の義、和に通じて中道の德あり。」

觀萌私記は、萌義と萌相という2つのカテゴリーを主題とする。萌義の現れが萌相であり、この萌相條は「萌相・萌え絵」の基本理念を示した項目である。萌義條に説かれる萌えの3つの意義のうち3番目に当たる、愛(愛著)の心が分別して「萌えである」とみなす物事(所愛)の、象徴である「好(よ)き萌相・好色萌相」を詳細に示す。およそ愛の心が「可愛」の物事(所愛)を決めるのだから、私が他人に対して「これぞ萌えだ!」と主観的に限定する必要が無いと思われるが、觀萌私記の展開においては基本的なスタンスが必要である。ここでの萌相=萌え絵は、萌義條に「若芽」や「稚き様」とある通り、主観視覚的に小さいものであると望ましい。例えば、道端の小さな若葉を見つけたとき、しゃがんで目を見張って覗き込みたくなる気持ちを想像されたい。萌え絵から「覗き込むな!キ○イ!」と思われたりはしない。もしあなたがそう感じるならば、それは心に潜在するあなたの愛憎の妄念が萌え絵に反射したということであり、観萌行大要において詳説する。

 萌相條の出だしは「夫れ顏相は圓かなるを要とすべし」である。この一文で萌え絵のエッセンスを直に語ろうとしている。まず顔つきが「圓かな」もの、つまり円(まる)さを意識して描く必要を訴えるが、同じく描き手の心も「圓かな」状態でありたい。円(まろ)やかな心で円やかな絵が描かれる、というと、実際に描かれた絵には美醜の価値判断を人は下しがちであるが、その絵に対して更に見る者もまた円やかな心であるとみな円満である。現代人にとっては意味不明な話に思われるし、仮に文面の理解ができても「当たり前の理論だが実現性が無い」と思われてしまおう。ここで一応の理想を述べておいた。

 「角・朿を嫌う」とは、例として瞼の端を尖らせたり睫毛をトゲのように伸ばすような描き方を嫌う、という意味を持つ。その描き方は女児向けアニメにも深夜アニメにも多いが、萌えを心得た漫画・イラストには無い場合が多い(ネット上で見かけた画像が主な参照元)。およそ萌え系の瞼は、デフォルメされた中に睫毛の濃さを含んでおり、その瞼に睫毛を描き加えると厚化粧のようになって過剰である(本当に厚化粧・メイク済みの状態を想定している場合は別の話)。清浄萌土抄において、清浄萌土の萌類には男女の相つまり性器などがなく、その概念もない、とした真意は、萌えを極めた者が「女性的な要素」に縛られずに可愛らしい絵の真髄を追求したことを表す。睫毛であるとか唇であるとか胸の大きさであるとか、それらの女性という既成概念に囚われて可愛相が顕せるものかと気付いた。可愛らしさに男女の別・性別の囚われはないどころか、囚われてはかえって描かれるべき可愛相を失うこととなる。敢えて男女・雌雄の概念と実際の姿という「名色(nāma-rūpa)」を、萌報身の報土たる萌土の世界(仮想空間)から無くしたと表現される。子供の顔の可愛らしさは男女不問であることに、おおよその者がうなずくであろうが、そのような典型的可愛相を例に取って考えれば、萌えや可愛らしさということは万物に広げられるものである。萌相こそ、その仏教的真理の一端・真理の実相の鏡となるべきである。十二因縁に「愛」が説かれるが、愛が平等な時は可愛と不可愛との差別も消え、愛が「非有非無」となり、可愛たる萌えも平等の非有非無となる。仏教の真理を重んじる場合はこのように観ずべきだが、単純に可愛い人物の絵を描く場合には性別の誇張も適宜必要であろう、という一面も留意されたい。

 「骨拔きの蛸の如きに非ず」とは、こだわり・理解という骨格や根本を欠かして手抜き・乱雑な描き方をするものではない、という意味を持つ(萌えには萌えの良し悪しがある)。こういった理解は「和に通じ」、「中道の徳」がある。こうして描かれた萌相は、多くの人を円のように包み込む魅力を持ち、多くの人の心を円のようにさせる。ただし、絵が見えない視覚障害者や、絵の特徴に個人的なコンプレックスを感じたり、過去に悪い思い出を抱えている人など、特殊な例外もあろう。どのような事物であれ、何かが100%の万人大衆に受けいれられるとは言えない。ただし、健全な肉体と精神というか、視覚能力と美的センスの条件が最低限足りていて(なおかつ)素直な心を持つ人には、何ら嫌われはしない。現に一般ウケしている萌え系の画風がこれに近いものとみなし得る。

 世俗の一般的な漫画・アニメ作品を例に取ろう。注記するが、私は觀萌私記の起草時、漫画本を5年半も買わず、1話分のOP・EDを一貫したアニメ視聴を4年数ヶ月もしていない状態であり、現在も記録更新が継続している。こんな「一般的二次元コンテンツオタク」とはかけ離れた私の管見では、いわゆる美少女系といっても、様々な種類がある(萌地廣大・萌類繁多)中、2000年代後半から深夜アニメを中心とした男性向け(女性ファンや作者も増えるが)美少女コンテンツの大衆化に連れて、ヒット作品の顔の特徴の共通項が窺える。特定の人名や作品名を挙げたがらない私の性癖は今も健在だが、あえて言えばアニメ化したきらら系原作マンガや2014年ころまでの京アニ系アニメあたりかと思う。大概は萌相條の意義にある「過剰な睫毛」がなく、目が大きめであり、数ある作者・ブランドなどのジャンルの中でも良い傾向があろう。そう、一目を置いてはいるが、絶対的に準ずるつもりはない。良い傾向があって好例の作品が比較的多く見られる、という点のみを踏まえればよい。

関連→「『念』による端正(たんじょう)な顔の利益 ~ 色心の相応」http://lesbophilia.blogspot.com/2017/03/rupa-citta-sati.html



萌相三十儀 ミャウサウ-サムジフ-ギ(みょうそうさんじゅうぎ)

好色萌相こそめでたけれめでたけれ、と申せしが、萌地は廣大にして萌類の群生すること繁(しげ)し。
一人(いちにん)の行者より、万人(まんにん)までも度(わた)らんに、何の萌相ありて無漏の大船と爲さんや。
我ら好色萌相を圖顯する事と萌相を判ずる事とに於いては萌相の三十儀を立つるなり。
佛および轉輪聖王の三十二相と異なりて、皆な定めて具すべからざれども、何を以てか自他の心を圓かにせんと思さば、應に三十儀に隨ふべし。
多く具すれば則ち觀萌の妙香を得。
萌朋(みゃうばう)よ、願わくは微細(みさい)に念じて菩薩行の資糧と爲されんことを。

茲に方便儀を明かす。世閒萌相は奇略(英: ヂフォーム、佛: デフォルメ déformer)を旨とす。奇略は奇にして奇ならず略にして略ならず(奇而不奇・略而不略)と中道を念ずるなり。
: 此云二次三次相對互換也。簡明其義者如毘曇。於機・時・國、有人所好不同、可生難信。故念中道。

顏相(かほばせ)圓かなるの儀・・・第一の要義にして必ず有るべし。これ端正なり。
角無き儀・・・目蓋と輪郭とは角を張らず。これ圓滿なり。
朿無き儀・・・目つ毛なんどは尖利ならず。これ柔和なり。
眼(まなこ)圓(つぶ)らなるの儀・・・縦長にして麁に細きもの・小さき點のものは童(わらし)が爲とて姥も畫きぬべし。圓らなる瞳これ圓滿なり。
眼大にして下に在(お)く儀・・・人相の面長(をもなが)・細眼(ほそめ)なるには比して五萌類の如き樣(やう)なり。是れ則ち大きく低きなり、能く眼の色・好淨(かうじゃう śubha)なるを明らめん。阿嚩路枳多娑摩二合羅(アヴァローキタスマラ、濕ś字ならず)と名づく。一切普觀(いっさいぶくゎん)の德を示現す。これ慧眼(ゑげん)なり。
眉架橋(けげう)の如き儀・・・眉は廣く眼の上を覆ふこと橋の兩岸に及びて架ゝるが如し。幅はこれ晴れたる夜空に初生月(しょしゃうがつ、開始の月)を見るが如くに明瞭なり。
鼻孔(びく)を現さゞる儀・・・身の諸の孔は道法に不淨の咎あり、況や鼻孔をや。外面に鼻孔を見ざれども孔無きに非ず。鼻無きに非ず。鼻の見ゆることは點の如き許り有り。これ方便なり。
口唇廣からざる儀・・・口の大なるは可愛の中に於いて咎を生ず。何ぞ萌色脹(ほゝば)りて物を食ぶる。萌色は黙然として而も深旨(じむし)を説く。これ端肅(たんじゅく)なり。
微笑(みせう)の儀・・・能觀の人をして心を踊らしむ。而も和顏(わげん)を壞(やぶ)らず。これ微妙(みめう)なり。
諸根具足せる儀・・・諸根と云ふは人に於いて五體・五根なんどを欠ゝさざるなり。但し宜しきに隨って處處の隱るゝことは之を赦す。これ圓滿なり。
股閒(こけん)廣からざる儀・・・或るは下身の量り肩に等しく、或るは猶ほ狭し。世閒にては女體をば果實多き樹に譬ふ。萌えを草木(さうもく)に譬へども實りを多く求むるは義ならず。又た男女相を離れて離れず。これ中道なり。
皮相肥えざる儀・・・柔和円満なりと雖も皮脂の多きに非ず。身に肉の餘りたるは人の豬猪(い、ぶた)の肥ゆるに似て好ましからず。胸なんどの身の莊嚴(しゃうごむ)を壓すことは恐るべし。萌土の萌色は萌尊の如く梵行に住して宜しく皮相に果を現ずべきなり。
皮膚細やかなる儀・・・實に身の触感無きにも是の觀あるべし。肌皮(きひ)の細やけく塵垢(じんぐ)を留めざること蓮華の水に在りて水と淤泥(おない)とに染まざるが如くなり。これ淸淨なり。
髮形(ほつぎゃう)を損ぜざる儀・・・髮の形を得たる者、固く保たるゝこと有り。風吹くとも速く本の形と作(な)る。これ物の彈力ならず。亦た水と淤泥と塵垢と彼に著することあれども之を易く離れしむ。而も是れ塑材(英: プラスチック、古希: プラスチコス プラスティコス πλαστικός)ならず、毛髮(まうほつ)一一に柔軟(にゅうなん)なり。
身を莊嚴する儀・・・著衣(ぢゃくえ)と寶飾(はうしき)とは少なきを旨として而も色肌を露(あらは)にせず。譬へば比丘の如し。これ中道なり。
獨り尊にして居(を)る儀・・・絵の相貌に人形萌類の群集せば怪異(くゑい)の如し。萌相曼荼羅にては一人萌のみを立つべし。萌一而多なり獨而非獨なりと觀ずべきなり。
動かず寂然たる儀・・・動漫(英: アニメイション、羅: アニマーチオー アニマーティオー animātiō)なんどは我が耳目(にもく)を驚かすこと多くして心安からず。豈に怪異に非ずや。閑かなるもまた尊し。又た動かざれども萌えの音聲は善く響けり。不動の勇躍(ゆやく)これ不可思議なり。
依と正と二ならざるの儀・・・芽は土を憑みとす。若し然らずんば空華(くうぐゑ ākāśa-puṣpa)と云ふらむ。萌類と萌土と能く融通して瑞應(ずいおう)の相なり。
華を以て莊嚴する儀・・・原義の萌類も亦た招かるべし。人形萌類と原義の萌類とは一ならず異ならず。二種の萌色あって瑞應の相なり。
幽玄妙色の儀・・・種種彩色(しゅじゅさいしき)と墨染色(もくねむじき)との二つの方(かた)あり。兩は幽かにすべし。これ微妙なり。
型橫に廣き儀・・・PCにて映さんの儀なり。方形より當世にワイドと稱せらるゝ幅まで之を用ゐる。方廣の故なり。



仏の徳に擬する失ありや
問、方便とはいうが、仏の顔に泥を塗るように思わないか。摧尊入卑ではないか。
答、「自分と似て非なるものと認識した事物」に有漏の我々凡夫は、尊さを感じるものである(反面、憎いと思う者もいる)。その尊さとは、世俗心理として神秘的・スピリチュアルともいう。仏はそのことをご存知であるが故に、三十二の妙相を悉く具したまいて衆生を引導せられた。大智度論・巻第二十九にいわく「世諦の故に三十二相を説き、第一義諦の故に無相を説く」と。世間の人は仏像などを通して仏の色相方便を、僅かばかりもすでに知っているかと思う。※余談だが仏の旧字・正字である「佛(ぶつ・ふつ)」の字はヒト辺と「(ほつ・ふつ・ぶつ中古音などでput, but)=なし・なかれ」という旁の構成であり通俗的に「佛は人であって人でない」または「弗人(真俗二諦の顕れ)」と解釈される。 萌えの法門では、やはり「いわゆる三次元の人間=霊長類ヒト科ヒト属ヒト"Homo Sapiens"」に似て非なる萌相を第一の方便とする。萌相もとい萌え絵は当世における「愛樂すべきもの(可愛)」であり、特に私がそう感じるので、私が率先して説く。三十二相(および八十種好)も好色萌相も、漏尽の阿羅漢・無漏の菩薩からすれば山川草木瓦石風雷に等しいし、等しいとも言われない寂滅相となる。有相にして無相、非無相と見ることは先の大智度論にある第一義の如し。中論の示す諸法実相ともいう。そのような正見(しょうけん)を次なる目的とすべく、まず三十二相でも好色萌相でも、ご覧いただきたい。

「微笑の儀」に失ありや
問、微笑んでいる表情の絵ばかりでよいのか。人間的でなく不自然にすら思うがどうか。
答、世間の絵・漫画では、絵の人物の怒りや悲しみなどが種々に表現される。深い悲しみに暮れる絵などは、芸術的情緒をくすぐるかもしれないが、萌観に用いる萌相は仏道に通じたものでなければならない。怒りの絵を見ると我が心は、憂いや、絵と同じ怒りをかきたてられよう。「両萌相応」というから、絵を認識した我が心をがどのように反応するか・感応するか、よくよく観察すべきである。その結果、ただ微笑みのみを容れる。深い悲しみを起こすような心は、強い怒りに転じる性質もある。いかなる感情表現であっても、極端なものは仏道に適していない。我が心を楽しませる、好色萌相の尊さに気付くことであろう。この和顔の相から、人間の「内蔵萌心(良心・善意が潜在すること)」を感じ取るように観ぜられたい。もし、その甘美な印象のために「魔の微笑みだ!」と思われたらば、仏道の機が強いので速やかに仏法の研鑽・仏道の実践へ進んでいただこう。

「依と正と二ならざるの儀」に失(とが)ありや
問、あなたは日蓮系御本尊の信仰をしているようであるが、曼荼羅本尊の相貌・意義とどのように通じているか。また、萌相にどのような意義を添加しても、世間一般の宗教的な美術作品の類型となっていないか。
答、中央の「南無妙法蓮華経(日蓮)」の首題と多方に十界諸尊の名が書かれる様式となっている曼荼羅の御本尊と萌えの法門における萌相曼荼羅の会通を求めていようか。萌相曼荼羅は、中央か、やや脇にそれてもにただ一萌類(一萌色)が現前する。人の形を為す萌類が一つあるほかには同種のものが描かれない(獨り尊にして居る儀・華を以て莊嚴する儀)。大聖人の御本尊には十界諸尊(二仏・四菩薩・仏弟子や天人など)も一応勧請せられてはいるが、大聖人が初めて顕されたと伝わる「楊枝本尊(以後にも楊枝御本尊がある)」や弘安以前の諸々の本尊のように、大事な仏菩薩の名が書かれない場合もある。ほか、十界諸尊は萌相の大地・草花・虚空に広がる浮雲に現れていると観ずればよい。それぞれ、首題と一萌類とが眼目(げんもく)であると同時に、他の諸尊や諸萌に多寡こそあれ、眼目を荘厳して「依正不二」を示しているように捉えられたい。また、萌相曼荼羅で依正不二の意義を示すならば、しっかりと萌類(人物)とその背景とは調和して描くべきである。

備考:「萌相にどのような意義を添加しても、世間一般の宗教的な美術作品の類型となっていないか。」という点については、前述のみでも解決されそうな疑問だが、直截に特記することもできる。人は何を目的として物を用いるかで、結果が大きく変わる。例えば、世間の金と権力が好例である。水ですら、水瓶にも魚の水槽にも拷問道具にも、多様に用いることができる。仏道修行者は、大概の世俗の事物に頼らないと同時に、世俗の事物を用いる場合は必ず仏法の理や仏道の目的・念に従う。好色萌相は萌尊の慈悲によって顕され、道心ある人々に開示せられたものであり、観る者が道心に由るならば、当然、相応すべしといえる。道行く者が杖を欲する時、路傍の好ましい枝条を杖として用いるようなことである。この枝条を以て他者を傷つけたり、あるいは裂いて爪楊枝に用いることもできるが、道行く彼の目的でないので、そう用いない。ただし、人が常に同じ行為を継続することはほぼ不可能であるという事実の一面を考慮すると、彼がいつかは枝条を異なる目的に用いることも有り得る。だからこそ、修行者は仏法の理や仏道の目的を念じて忘れないようにすべきである。そういったことも、好色萌相を観じながら思惟がなされるとよい。

「華を以て莊嚴する儀」に失(とが)ありや
問、花の咲く場所に踏み入ったり、花を摘んだり、花を髪飾りにする行為は「残酷だ」と道徳的に不快感を覚える人がいるので不穏ではないか。また、仏教だと農耕を禁じた比丘の律の意義にも悖るのではないか。
答、仏国土の荘厳には天の華を雨らすとあり、このような所説から案ずるに、萌相の花は方便として仮生したものであり、摘まれる因縁の故に描かれたろう。仏国土の天の華も同じような因縁である。諸々の大乗経典、法華経・般若経などで、普通に釈尊が蓮華座・蓮台(はちすのうてな)に座しておられ、その仮生した蓮華座は、金剛不壊であると思われる(あるいは蓮華を壊さない慈悲の神通力を示す意図があると大論巻八に説く)。また、世間の宗教画でも花をかたどった飾りなどを人物が身につけている。花の髪飾り・華鬘ということも出家修行者は着けないが、仏教美術はそうでなくなる。維摩経では、天女が華を雨(ふ)らせて菩薩たちの身体にくっつかずに舎利弗尊者ら比丘たちの身体にくっついたという話(梵語と3漢訳)がある。比丘らが華を取り去ろうとするがくっついて離れず、天女が彼らに問うと舎利弗尊者が「華が不如法(戒律に順じないもの)だからそれを取り去りたい」と言うので、天女が「あなたは華"puṣpāni (複数形)"が不如法"akalpikāni"だと分別する"kalpayati"が、華は無分別"na kalpayanti (動詞3人称複数形)"・如法"kalpikāni"である。善説法律に"svākhyāte dharmavinaye (処格)"は『諸出家者。若有分別有異分別則不如法。若無分別無異分別是則如法』とある(趣意)」と話した。道徳的に不快感を覚える人が仮にいても、こう話しておくことで納得して頂けようかと思う。また、実世界においては地面の虫を踏みつぶしているであろう人間は、その罪を自覚しないが、過度に気にする必要性もない。絵の世界に生える植物の健康状態を気にしては、めでたき萌相も悪の権化の如く見えかねない。当に汝が妄念を尽きしむべし。萌報身の力用(みはたらき)により、善悪を離れた無記の応身の萌類が、無邪気にも花で身を荘厳するのみである。花々もまた応身の萌えとして無記の存在である。清浄萌土抄に「群萌は萌報身の等しく愛すべき所なれば群萌の間にも差別の心無し、柔和円満なりと云うべし」とある通りである。花々もまたそこに描かれるだけで尊かろう。また、仏教の律儀という点は、すでに教義上は別問題となっているし、修行の意義からしても、我ら末世在家の者において律を受けていないので問題は無い。萌相の萌類も当然、律の不具である。※現に律の条目などを知っている私が語ると、出家への道心を自ら失うという妄語罪の報いを受けるので化他の方便であっても「妄りに語ること」を恐れてはいる。





雜萌喩 ザフミヤウユ(ぞうみょうゆ)

(一)
 萌えの教えは、人の内なる萌えを育み、能観・所観の両の萌えを融通する。萌え自体は確かに菩提の彼岸に渡すものであろう。また、過去から厳然と存在して未来にも存在し続けよう。萌えを物質的領域の原義萌類に託し、このことを喩えてみよう。最近(2017年1月以後)の科学の学界では、地球上の酸素が月面に微量ながら到達しているという日本の月面探査機による調査の成果が発表されている(ソースの例)。その酸素の特性が植物の光合成で発生したものと同じらしい。地球の磁場の関係で、植物が光合成で発生した酸素が月まで運ばれているようである。往古の植物の営みは今までに絶え間なく酸素を生み出して空の彼方、月天子の所在まで届いている。※植物も植物由来の酸素も共に萌えである※
 さて、萌えの真如(空・無始の因縁)から言葉としての教えが発生し、その教えは、我々の内なる萌えと一体であり、遠いと思われた菩提の彼岸にも到る。また、永く此処に在って絶えることはない。また、空間に遍く満ちて萌えを得られない人もいない。しかも本来、生きていることが萌えですらある。私が説かずとも、萌えは萌え、自然(じねん)である。真実は真実として確かに存在する(存在しないので存在するようなこと「如"tathā"」)。しかし、改めて私が説く必要とは何であろうか?二萌性を回顧せられたい。

(二)
 クローバー(白詰草)は、およそ多くの土地で見られる「雑草」の一種である。しかし、葉の数が通常の3つではなく4つに分かれたクローバーの個体は稀に見かける。その希少性ゆえに「四つ葉のクローバー」は幸運の象徴として現代文明の中で崇拝を受けている。なお、クローバーが四つ葉の状態となった個体が群生している場所もある。それでは、四つ葉のクローバーがいかにして出来上がるか?科学的な理論では、突然変異など劣性遺伝による要因(先天性)と、生存環境に伴う要因(後天性)とが説明される。どちらも有り得るが、この先天性と後天性の対立は二萌性の意義に任す。ここでは後天性の方を取り上げる。クローバーの種の状態や発芽から間もない段階で、葉が3つに開くことを記憶する情報(原基)に問題が生じ、四つ葉とか5つ以上の葉の数に変わることがある。その問題の原因とは、世間で主に「踏まれる」ことが挙げられている。踏まれるなどして傷つけられると、問題が生じて四つ葉となる確率が高まる。既に三つ葉となっているものを改まって踏んでも、個体の生命力を落としてしまうのみで四つ葉に変化しない。

 過去の萌尊は方便でこう説いた。「私は過去世の童子の身にて汎く萌えを求めた。或る場所で生い茂る草の多くが、花なき白詰草であった。他の場所で見かける白詰草は三つ葉の形であるが、この場所は四つ葉のものが多い。その因縁を尋ねると、これらが四つ葉を開く以前は人に踏みつけられる姿が想起された。因とは当時の白詰草、縁とは踏みつけられた経緯である。縁を受けた因が応じて果に報いる。今の結果は四つ葉であって稀有の存在でも、元の因子は三つ葉の白詰草と同じであった。踏みつけられることが四つ葉を形成する縁となっている。これらが力強く生きて四つ葉を開いたように、あなたがたも内外に跋扈せる悪魔に屈せず、道念を堅固にして精進し、悟りを開きなさい。四つ葉が群生していたように、衆人を教化して悟りの道に入れなさい」※苦を苦と知って出離を望み、修行に精進するという小乗仏教の道を説いているから、ここでの悟りはまだ小乗の段階である※ 弟子問うていわく「四つ葉の利益は大きいものでしょうか?」、萌尊答えていわく「これ日天の福を受くること漏れ無し。また、四つ葉は人から尊ばれるが、好奇に思われて苦難が多い一面もある。この苦難とは、悟っている者の立場で言うのではなく、悟っていない者が悟っている者の状況を見てそう称す。例えば、仏世尊は名声を得ると世に怨嫉と種々の難とが起きたと伝えられるが、正等覚であって苦楽の別が無いために哀しい難ではない。苦楽の心があって怨嫉の心を持つ者こそが、かえって仏世尊によって哀れまれている。草木には苦楽の別が無いために彼らにおける難も無いし、正等覚の悟りも慈悲も無いが、稀有の四つ葉は世人が世尊に対するように世人から見て難がある」

(三)
 おおよそ、人の住むところには必ず植物もある。人が生存できる環境だからこそ植物も生存できる。しかし、人間が意図的に植物を枯らし、発芽を抑制する環境を作れば、当然、植物は生えない。いわゆるコンクリートジャングルにして都市緑化をせねば、そうなる。作為性によって植物の生殺与奪ができる。狂乱の故に地球を破壊すれば、新たに植物も人も生じない。心の萌えもまた、現世の植物のようである。自然萌心・清浄萌土の教説をよく念ずべきである。

 続いて言おう、コンクリートジャングルのような場所や、植物がごくわずかにまで減らされた場所も、チェルノブイリや福島の避難区域(プリピャチや双葉町など)のように、再び植物が人間の構造物を突き破って生えてくる。かつはアスファルトの路面、かつは家屋など(譬萌聚)、時間の長短はあれ、植物が場を覆ってゆく。あたかも釈尊の成道後の心のようである。衆魔(煩悩の権化)が去った心の大地に、大梵天王"sahampati"を首長とした諸天(慈悲の権化)が降り立ったことを思い合わすべきである。梵天・ブラフマー"brahmā ब्रह्मा"をサンスクリット語根√bṛh बृह्で見れば“to increase, grow, expand”であり、印欧祖語の印欧語根*bʰerǵʰ-, *bʰérǵʰ-mn̥で見れば"grow, to rise, become high, to swell"であり、植物の生長(成長)と関連する(攝萌敎脚注)。梵天の性とは、まさしく荒涼の大地に自ずと生じる植物の尊さである。僅かにでも心(大地)があれば、必ず梵天あるいは悪魔など、衆生(衆萌)が住まう。大乗の人は心の大地を浄めてゆこう。衆生済度の要点である。

(四)
 仏様は人のようで人でない。人のようでなくもない。一切は仏の現れであるけど、多くの人はそうでないように見る。 どちらでもよい。私たちの立場では、「悟ったお方」とも「智慧の象徴」とも「慈悲の象徴」とも見るし、「真如そのもの」とも見る。だから、仏様を一度「尊い」と思い、教えを信じたらば、感情によって捨てるべきでない。感情によって信仰を捨てると、真如を見ることはなくなる。仏性を失うともいう。つまり、法華経の「若人不信・毀謗此経・則断一切・世間仏種(譬喩品)」とはこのことである。私たちは感情によって仏様を好いたり嫌ったりしても、仏様が人・衆生を好いたり嫌うことはない。ただお救いくださると信じることができる。萌えも然り。植物をどう見ても感情があるはずはなく、仏教でも非情と区別する。だが植物を育てる人は、種や芽や苗などに音楽を聴かせることがある。振動の作用かリズム感の作用か、それで植物が、早く育つとか、味が良く育つと、彼らは信じている。科学的・心理学的には論じないでおく。どのように植物を寵愛し、また、その愛情に植物が応じて人間が理想とする成長をするとみなしてもよかろう。植物に話しかける人もおり、そうして植物を鏡として自己を見られれば、観心の修行にもなろうし、「くだらないこと」という認識を破って慈悲の心を育もう(癒し系云々とも)。

 植物は我々の期待に対し、能動的に応えることがないので、能動的に裏切ることもない。応える・裏切るとは、人間の思い込みである。仏様も、我々の信仰の中に衆生を救うという作用が確認できる。山で遭難して救助隊に救われても、無信仰の人は神様仏様菩薩様イエス様などへの感謝が無かろうが、観音経を唱える人であれば「愚かな私は遭難しちゃったけどその時に観音様を念じたので救いの御手(みて)が降りたんだ」として仏・菩薩の力用を実感する。私は仮に「両萌相応」を説いた。その正体は「応ぜざるに而も応ず(不應而應)」という。両萌相応は、教えの理解がある人・信仰のある人の精神において成立する。ここに説いた植物・仏様のようである。ゆめゆめ、萌えと仏様といった「尊い(とあなたが思った)もの」への信仰を、感情によって捨てずに念ずべきである。心に偶像化した萌え・仏様を、あなたの悪い感情が自ら穢すと、疎ましい心が起こる。もし、萌えや仏様を疎ましく思う心が起きたらば、そのまま自覚して直ちに浄めねばならない。あなたが嫌う萌えと仏様とは、あなたの醜い心が移った結果である。萌えと仏様とは、真如・無記であることを繰り返し憶念すべきであるし、実は我が心も本来清浄(不染不浄の別名)であると知らねばならない。是三無差別である。他人の心も本来清浄であり、自分の期待に応えたり裏切ったりしない。何となれば、自分も他人も仏も萌えも、みな無我である。みな無我が一緒のようであるが、一体であると言わない。無我のもの同士が一体であると考えるならば、「我空法有」のように一体のものとしては我が有るという過誤が付随する。一緒のようで一体でないし、別々の存在のようで異なるとも言えない。そのような「不一不異」を「一即多・多即一」とも「無量義者従一法生」とも表現することはあるが。

 三萌義の二・三といえば、愛の心・作用と、その対象となろう物事である。世の人々は、まず愛の心・作用の自覚が無い。自覚してもしなくても、対象である物事への愛もとい執着が薄れると、すぐ、それを見捨てる。愛情をもって植物を養い、育ったらば食べる。食べることが目的ならば、構わない。悲しいかな、大きく育ったペットを扱いづらい・醜いと判断して外に逃がす(捨てる)輩も多い。世俗の萌えキャラであっても、俺の嫁として所有欲を示したり、別のキャラに乗り換える。これらはみな、愛の心・作用を観察していない。愛の心あらば如実に見、作用あらば如実に見、飽きを思えばまた如実に見、萌心を顧みよ。もし愛の心・作用の発生と減衰とを観察し、自覚したらば、何か一つ、とことん愛せよ。仏道の人は永く仏を忘れじ。萌道の人、宜しく萌えを忘るな。不忘の徳行を「念」と名づける。世間の万物はなお無常である。みな枯れる・朽ちる・腐る運命にある。異性の愛人とか実子だとかも、等しく無常の相を呈しているではないか。人が対象ならば健常で、架空のキャラが対象ならば倒錯であるということは、男女倫理の範疇でのみ正当である。もし可愛・愛の対象が「常(永遠)であってほしい」と願うならば、心の相をよく観ぜよ。然らば、その相は植物でも動物でも人間でも画像でも、みな萌えであり仏であり、不生不滅・不染不浄もとい常楽我浄・涅槃の相である。

しかし、単一の色相(可愛相・萌相)に執着せよ、との意味ではない。何となれば、凡夫がその色相を取ることで飽きる・厭きる心に変わる。ああ、清涼(しょうりょう)たる若芽の心象も、鬱蒼たる荊棘の如き煩わしさを覚えてしまうかな。つまり、初心者は色相の根源たる萌えの心法を留意すべきである。私記末・古萌傳に「譬へば、葎(むぐら)の一年と多年と生の差別ありとも、其の土にて必ず枯るゝ時あれば、新たに生(お)ひ出づるが如し」と綴る。どんな植物であれ、枯れないものは無いが、おおよそ瑞々しく生え変わる。取るべき色相は、適宜変えてもよい。最初に出会った色相は、心の旗印として奉戴して掲げてもよい。大事なことは、色相を取って心の相や愛の心・作用の発生と減衰とを観察することである。

(五)
 萌道即仏道ともいうが、これは不二の義である。萌道と仏道とに而二の義を立てるならば、萌えが植物、仏が太陽であると譬えることができる(仏日萌草・能化所化)。つまり、太陽は一切を利益する。植物は太陽が無くては成長しないし、様々な種類への進化もしなかった。萌えの法門もまた、仏法が無いならば説かれないし、八万四千の法門が無かったらば好色萌相も萌観門も内蔵萌心義も清浄萌土義も萌不萌義も発生しなかった。この植物は、人々の食物となって利益する。人々は太陽の温かさを喜び、暑苦しさを厭うが、植物は二次的に太陽の価値を高める。萌えの法門もまた、人々の心を利益しながら、仏法に疎い人々に仏道の存在を知らしめる利益がある。ああ、而二を伝えたいのに不二の意味が現れてきた。畢竟、二而不二・不二而二ということである。もう一度、而二の義を示そう。植物が育ち、人々が地上から見上げるほどに(ジャックの豆の木よりも高く)成長しても、決して太陽には届かない。萌えの法門は、八万四千の法門を広く摂取しても、太陽たる仏法に如くものでない。

(六) 華果名義抄?
 過去の萌尊は、「なす"nasu"(いわゆる茄子)」と「なのはな"nanohana"(なばな"nabana"・いわゆる菜の花)」の名の意味を修行者の立場で明示せられた。歌にいわく「【歌】 汝(なれ)為さで たれか為すべき 汝(な)が花は 汝が為すところ 汝(なれ)の在りたれば」と。「あなたの花・汝(な)の花」をあなた自身が「なす」ということである。他の種族や、同じ種族で他の個体には咲かせられない花である。萌えの法門に値遇したので、すでに修行者の種は形作られた。種が持つ花への力は、その個体として完成されねばならない。植物と違って人に自我意識があるならば、自身の行為の意志を持ち合わせて実現してゆくべきことを、力強く説明せられた折の一首である。疲倦(ひけん)が多い私は、この歌を受持し、還って自ら問うべきである。この歌は言葉遊びと思われようか?更に言えば、「梨"nashi"」の実はりんごと違って酸味が薄く、その理想的な甘い果実を目指して甘い実(好色萌相)をも為して(作して)ゆかねばならない。

 「なし"nashi"・なす"nasu"・なのはな"nanohana"」の意味を、先賢・聖人が推したものである。名に客観的なものは一つも無い。絶対的な名は全く存在しない。現代人には戸籍に氏名が決められているが、それも、文明・社会の中でのみ通用する「コミュニケーションツール」でしかない。人々の心には、芸名・ニックネーム・あだ名こそ浸透してすらいる。萌尊の心には、理を観ずるが故に新設・再定義の名や意味がある。命名自由・得意自在であって世俗を超越している。主観的世界では、慈悲の心で物に名付けなさい。なにせ世の人は、怒りの心や嘲りの心で「バカ〇〇」とか「クソ〇〇」という名を他人や物に付けてしまうのだから。萌尊の慈悲による「仮名(けみょう)」は徳行にほかならない。その命名法も「両萌融通」を実現する。慈心・智慧の萌えと、万物の萌えという境智冥合である。日本の古人は、蓮華"padma" (一般に学名Nelumbo nuciferaのもの)について雌しべ・花托(蓮コラのアレ)の状態から「蜂の巣に似ている」とみなして「はちす"phatisu"→はす"hasu"」と名付けた。一方、日蓮大聖人は蓮華の真理と譬喩とを富士派当体義抄に語られる。日本の古人は蜂の巣ありきで蓮華に「はちす」と名付けたが、天台・日蓮教学(富士派)では、劫初(久遠元初)に聖人が真理ありきで植物の蓮"padma"に「妙法蓮華(ミョーホーレンゲ)"saddharmapuṇḍarīka"」と名付けたとする。

 植物の蓮"padma"の開花において実を結ぶ雌しべ・花托が見られること(花と実=因と果)が、「因(種または花、十界のうち九界)果(果実、十界のうち仏界)倶時」の法理「妙法蓮華"saddharmapundarika"」と似ているとする。蓮華の譬喩としては、卑湿淤泥乃生蓮華(維摩経)・如蓮華在水(法華経)も有名である。蓮華の真理の側面(当体蓮華)につき、当体義抄に法華玄義・巻第七「蓮華は譬えに非ず、当体に名を得(う)。類せば劫初に万物名無し、聖人理を観じて準則して名を作るが如し」などの文をお引きになり、語りたまわく「此の釈の意は、至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之れ有り。之を名けて妙法蓮華"saddharmapuNDarIka"と為す」と。蓮華の譬喩の側面(譬喩蓮華)につき、当体義抄に守護国界章「一心の妙法蓮華とは因華・果台・倶時に増長す。(以後原文未確認)三周各各、当体譬喩有り。総じて一経に皆な当体譬喩有り、別して七譬・三平等・十無上の法門有りて皆な当体蓮華有るなり、此の理を詮ずる教を名けて妙法蓮華経と為す」などの文をお引きになり、語りたまわく「又た劫初に華草有り。聖人理を見て号して蓮華と名く。此の華草・因果倶時なること妙法蓮華"saddharmapundariika"に似たり。故に此の華草同じく蓮華と名づくるなり。水中に生ずる赤蓮華・白蓮華等の蓮華是なり。譬喩の蓮華とは此の華草の蓮華なり」と。あらゆる物事はみな、種から芽が出て実が成ることを観察するように因果異時であり、種に実の可能性を内在することを知悉するように因果倶時でもある(亦倶亦異)。植物の種が育って実を結ぶまでの過程を知っていても、因果異時と見たり、因果倶時と見たりする(非倶非異→不一不異)。植物の蓮"padma"は、因果倶時(難解の蓮華=真理の法)を分かりやすく示すもの(易解の蓮華=植物の蓮)だから、「妙法蓮華"saddharmapuṇḍarīka"」に通じる名がついたと説明なさっている。

 要するに、天台・日蓮教学(冨士派)・日蓮大聖人は、真理の法も、植物の蓮(サンスクリットにpadma, puṇḍarīka, kumuda, utpala, kamalaなど多種あり)も、同じ名前「蓮華・妙法蓮華"saddharmapuṇḍarīka"」が付くという。ただただ仮名の上に蓮華の尊さもあろう。蓮華さながらで真理の如き「仏"buddha"」すらなお、その名は「但だ仮の名字を以て 衆生を引導したもう 仏の智慧を説かんが故に 諸仏世に出でたもう(方便品)」であるから。「萌え」の芳名もまた聖人の仮名にある。萌えに縁起と真実一法とが包含されていること(三萌義)は、一切過去萌尊に共通する悟りである。往古に、芽の萌え出でること(原義萌)は、聖人が知ろしめす心なる萌え(第二萌)の後に名付けられたとも言えよう。真理の法に「妙法蓮華"saddharmapuṇḍarīka"」と名が付くことが先ならば、聖人が知ろしめす縁起の理法も後の仏典で、「植物の種・土・水・光による発芽・生長」や「植物の根を断って全てが滅ぶ」など様々な縁起説の譬喩になっているよう、縁起の理法に「萌え」と聖人が名付けても不思議ではない。現代日本国に生きる我々は、草花の芽"SProut = SaddharmaPuṇḍarīka, Bud = Buddha"より、真理"Satya, en: Sprout"・悟り"Bodhi, en: Bud"を再認識するであろう。(参照: 讃萌語・脚注) 
 【讃】「花の名たれか言ひ初(そ)むる 物に名づくる心とは いつにもほとけ居りぬらし 名をもちゐるは人のわざ」




萌集記 ミヤウジフキ (みょうじっき moya-saṃgraha)
過去記事「萌え話」において未集・未収録の話を、当記事で載せる。これに際して新しく絵が載る。以下からの「諸萌篇・念音処篇」話は、2017年以降に起草されたものであるが、長らく篇名を持っていなかった。2016年10月1日に起草された「長篇>イデオフォノトピア遊行の事(過去記事「萌え話」所収)」も2018年7月まで同様であった。様々な萌え話は、徐々に整理・区分されてゆくことになる。



諸萌篇 (しょみょう・へん nānāmoya-saṃyukta)

輸提尼祕密闍多伽の事
多い過去世"anekajāti"、輸提尼の輸提尼たる転生は「イデオフォノトピア遊行の事・初会の後席」における鸚鵡が始まりであり、このネタは、そこから最後身輸提尼までの過程を語ったという想定
@過去世の絵がある、イデオフォノトピアの輸提尼とは髪型や肌の色などが異なる

 まず、示される輸提尼の過去世は、絵師女人の一としての生か?殊勝に梵行と芸道とを修す。女人の性・有ること無し、心身は端正にして広く可愛相を施す。羸痩に似るとも慈愛の眼差しは豊かである。自行・化他行の中に、同性の一部の嫉妬や異性の一部の婬欲による危害を被りそうになる。ある者が輸提尼を捕らえて凌辱を企てる。捉えられる際、事態を察しながら説得の機会があろうことを願って反発をしない。彼は輸提尼の自行・化他行を見て婬欲ばかりを起こして正しい尊敬を持たず、しかも微かな嫉妬すら覚えていたようである。彼の害意や悪意の強いことを輸提尼はしっかりと認知しながらも、無畏心で「ただ道を行くだけだ」と峻厳な言葉を発する。輸提尼が彼から姦淫凌辱・殺害を被る展開となる。略説。

 ほかの生では、五濁悪世の中で刹利種(クシャトリヤ)の女子であった。幼くして道心を起こして学問に専念し、二十歳過ぎに「心の清らかさ」について菩薩として説法教化す。この生における輸提尼の説法はどうか?一例を挙げる。屠殺の家(シュードラ・チャンダーラ)の人々が家畜を嘲笑ったり罵りながら殺していること*1を婆羅門(ブラーフマナ)などの階級(ヴァルナ)の人や沙門(シュラマナ)が「愚かだ、行為も心も生命も穢れている、ミティヤージーヴァ"mithyājīva"(邪命)・アシュバ"aśubha"(浄からざる者)だ」と軽蔑した。そこで輸提尼は「人はみな生来不浄ですが、仏さまにおかれては心が本来清浄*2と観られます。屠殺の人と婆羅門と私とにどのような差別がございましょうか?*3それに、屠殺の人も本当は・最初のうちは、動物を殺したいと思わなかったはずです。『クソ!暴れんな!ド畜生!ざまぁみろ!』このような言葉によって心を封じ、または心を牽引することで、彼らの行為を支えているのです。これも現実社会の一端でして、どうにもしがたいことです。あなたたちから彼らを隔てる言葉を放てば、彼らもあなたたちに対するを設けるだけです。少しずつでよいので、彼らに法を説いて和らげましょう。みんなが心の解脱を平等に得られますように*4」と(絵面としてはナノデス、ナノデス、と)。これが輸提尼の誠の言葉であることは次の話に現れる。
 ある時、輸提尼は美しい女人なので拉致された。そこでも相手の人物に対して徹底的に「本来清浄」の理(拉致して強姦などを企てる彼もまた本来清浄)を語ったが、相手の人物は自分への侮蔑のように曲解して怒る。この輸提尼の言葉に「きれいごと」のレッテルが貼られた。しかし、輸提尼は、現世の生死無常ということを熟知していて無畏心の上で説法するから、生温い「きれいごと(甘言綺語)」でなく、どのような状況でも「へつらいごと(讒諂面諛)」を言わない。相手に反発するという感情(憎悪・瞋恚)や、対立する立場として言うわけでもない。ただ、平等に「本来清浄」の理を語る。結果的に姦淫凌辱・殺害を被るが、菩薩の心を退転せず、真諦無為に住して業の染著も無かったので、再び人間界か天に生じたと考えられる。かの生の輸提尼が説いていた「本来清浄」とは、そのように煩悩に汚染される心も無く、汚染する事物も無いという真理の一端である。かの時の輸提尼の生がそれを体現した。故に姦淫凌辱・殺害をする人物も、姦淫凌辱・殺害を受ける人物も存在しない。ただし、世俗の理として、輸提尼は菩薩の輪廻に至り*5、強姦と殺人を犯した相手の人物は三悪道に堕ちることが必至となる。仏教徒は「五逆罪」に準ずる重罪と見て、彼は阿鼻地獄に堕ちたとさえ考えるであろう。かの世における輸提尼の亡き後、時の人々は「(輸提尼となるべき)女人」の勇猛な雄姿を渇仰し、妙齢にして息絶えたことを惜しみ、さも生きているかのように「女人」の言葉を受持・読誦した。言葉として世に生き永らえたようであったが、肉体の命の灯火と同じく、人々に偏在した認識的存在の灯火も500年程度で絶えた。その世界での法灯は、肉体の死後にも相続しながらに、永遠とならなかった。かの時の輸提尼や歴世の聖人の威力は、このようである。さて、今の娑婆世界に、歴史上存在して暫く地域的に伝承が続いても、現代の宗教学・民俗学・歴史学では伝わらない人物がいるかもしれない。闇の英雄もいたろうか。実在の有名人も実在を想定される闇の英雄も、架空の人物も、等しく非存在である教理を解すれば、我々はまさに勇猛精進の仏・菩薩・阿羅漢を渇仰すべきである。

*1…いわゆる現実世界・現代文明においても見られる行為である。リンク先に動画の例。その実行者がどういう社会的な身分かは不問である。
*2…「心が本来清浄」とは、パーリ仏典の場合、増支部1-6 (1.51-60)・弾指品"accharāsaṅghātavagga"にある"Pabhassaramidaṃ, bhikkhave, cittaṃ.. (近代日本の訳・南伝大蔵経: この心は極光浄なり… 類似の漢語経典・増一阿含経: 心性極清浄…)"との説を比較する。その説の"pabhassara citta"の語の大乗における呼称はサンスクリットで"prakṛti prabhāsvara citta"、自性清浄とも言い換えられる。小乗の現実的に分析された物質・精神の関係性と、その関係性によって生ぜられた煩悩の克服ということに対する止揚としては良い説であるし、理解もできる。ただし、私は全て理論の範疇で理解したというのみであり、そうである時は私の修行に何の説も資することが無いかもしれない。清浄に関する話は観萌行広要のブログ記事版に種々の仏典引用を兼ねて説明する。
*3…四姓・四種姓・4ヴァルナ(いわゆるカースト)の平等について語る「金剛針論」の説「一切皆従穢処根生、有何差別」に類似する。また、梵語版42偈にはsarve vai yonijā martyāḥ, sarve mūtrapurīṣiṇaḥ |  (一切=人類はみな胎生であり、死ぬべき命と尿・糞とを持つ…)といった文言が見られる。そういった不浄を前提にした人類平等(無差別)に関する説は、パーリ仏典にも見られ(後述の長部27経"Aggañña Sutta"など、ほか大量殺人をした者・アングリマーラが出家して彼の罪が国王から赦される話がある中部86経"Aṅgulimāla Sutta"も参照)、いずれも持戒などによってシュードラ・チャンダーラの人でも誰でも、ドヴィジャ(再生族、前者のみ)またはブラーフマナ(婆羅門)になるといった話をする(古ウパニシャッド文献BrhUp 3.5.1にも類似の説があって同様の説が釈尊出世以前から修行者のうちに伝えられていたろう)。生まれによる差別と、被差別者の精神にその烙印が押されることでは、精神においても自由が抑制される=被差別者が自ら抑制する(差別者であってもその心のままでは解脱できない)。人類平等(無差別)の理由を知る人は、その抑制を懐柔する。しかし、輸提尼はその前提(不浄)を超えた理由(前注*2の如し)で人類平等(無差別)を説いている点に注意されたい。
*4…前注*3に続く。パーリ仏典によれば、何らかのブラーフマナたちが「ブラーフマナのみが清浄となり、他の者はそうでない」という見解を持っているとする。彼らが差別的に清浄や解脱の可能性を狭めていることについて、釈尊は「行為によって清浄になることや人から尊敬されること・ブラーフマナと呼ばれること」を詳細に説明している(例は長部27経"Aggañña Sutta"、同じ経には現世の起源と人類の発展に伴う四姓の発生を示す)。輸提尼は、誰でも解脱が得られるようにと願うことで、可能な限りに他人の精神の抑制や束縛を懐柔しようとする。もし差別を目の前にしながら、そう願えないならば、それは差別を目の前にする当人が未だ欲を捨てていない時に自己の束縛を解けない結果となる。思考だけでも、そうなればよい。行動については後の話(輸提尼が拉致された件)の通りである。四姓注釈が少し込み入ったが、もう1点注記しよう。釈尊であれ輸提尼であれ、既成事実化している四姓を社会運動で無くすることを説いていない。人の世が人の世たるもの人のうちに差別は消えないし、苟も消えても発生しようし、身分の違いだけならば人の世に有って然り。名称による区分を過度の差別に用いる者を問題視しているのみであり、できる限りに差別者・被差別者の迷妄を解こうとする慈悲による発言である。仏や菩薩が何を目的に教化したり行動したりするか、その意義を見失うべきでない。布教の結果に四姓が無くなることはあっても、目的のための手段とされていることは無い。誰であれ、解脱すれば本来に四姓も他人も何も存在しない(本不生)と言えるからである。
*5…輸提尼は、その生における自身の説法が相手の人物の三毒を増したという自責の念を捨てきれないため、般涅槃に入ることができない。



現世で輸提尼が応現するの事(合理主義的な小乗の徒に問いかける話)
画像コンテンツの案→2017年12月12日絵のリメイク@

 悪い心の人や邪見の強い人*1には見えないはずの輸提尼(報身)だが、多くの人の前に応身"nirmāṇakāya"として現出するという*2。ある時、拾主の弘める萌えの法門を、小乗の徒が知った。小乗の徒のグループは、大乗を誹謗し、「広く仏・菩薩の像・遺跡に礼拝する在家の信男信女(民間信仰的な仏教徒)」を愚弄していた。何らかの経緯で拾主らとその小乗の徒のグループが接触する。拾主が輸提尼の絵を提示して「当に萌心を出だすべし!人心もとより清浄なり!」と叫び続ける。かの小乗の徒は「そんなのブッダの教えじゃない!」と反発し、僧団の威儀に反して高慢な態度で場を辞せんとする時、その場に倒れ込んだ。しばらく気絶するようだが、心の中では・・・。
 「あなたも仏の慈悲を聞いているのだから、もう大乗への誹謗はやめようね。論争に業を煮やすこと・戯論・諍論はやめようね。お花の蜜を取る蜂さんはお花を傷つけないんだよ(元ネタはダンマパダ・遺教経)。みんな仏様を信じているのに、みんなの心を壊さないでね。倶伽離"kokālikaまたはkokāliya"さんのように地獄に自ら堕ちちゃうの*3、いやだよ。もしあなたが全てを知っているなら、その道を進んでいれば、いいんだよ。自分の道、道じゃない道、どの道、大慧大乗"mahājñāna-mahāyāna"。一諦一乗"Ekasatya-Ekayāna"*4。」→畢竟、これもその小乗の徒が大乗仏教と萌えの法門とを一分でも見聞していたので、彼の心の中に自ら生じた相であり、心の化"nirmāṇa"である。一分の慈心だに有らば、則ち相応じて須臾も(一時でも)萌えを見よう。人の善心を壊さずに悪を呵すべし。「どこにでもいてどこにもいない輸提尼・諸萌(如来如去)」の力用、是の如し。是の如く、拾主によって蒔かれた輸提尼の種(因子)が小乗の徒の地に着いて発芽したが、どこまで生長するかは未知数である。

 小乗の徒は小乗の徒のままでよい。大小の別なき一乗は真に大乗であり、小乗とは何らかの理由に依存した仮設概念に過ぎない。二乗(声聞・縁覚)も三乗(菩薩)も、一乗と別に存在するものでない。みな不一不異の仏道から後に分かれた仮設概念である。仮設概念としての小乗の道も釈尊が一乗道のうちにお引きであるから、正しい仏道である。彼の心が慚愧を懐くならば、彼は正しい仏道に入るであろう。釈尊は言い争いの道を小乗・阿含時に説いていない。小乗の徒もとい上座部仏教の人は、阿羅漢の道・二乗を行くべきである。大乗の般若経・維摩経などにあるような、非道(三毒)を行じても無漏の故に三毒の煩悩が無い「菩薩」や、論争の業に染まらずに説法ができる「菩薩」でなかろう。阿羅漢の道にあるべき彼は、原始仏教を標榜しながら現代性に便乗し(古代即現代の教理も無いのに)、世俗に媚びながら売文活動をして名利を受ける菩薩の真似事をしていた。 拾主は弟子たちへ、「彼が(彼にとっての)正しい仏道に入るか、三悪道に堕ちるかどうかを、あなたたち自身の立場で考えてみなさい」と語った。

*1…「悪い心の人や邪見の強い人」とは、即ち一切衆生・凡夫であると、仏教における定義をご存じの方にとって明解である。要するに、本作で登場する小乗の徒とされる人を差別する意図ではない。ただし、現に拾主や尊者は輸提尼(報身)を見て、他の人には見られないということを意図しているので、差別的でもある。言葉とは、発言者の志向や目的性によって如何様にも使用できる・聴者の志向や目的性によって如何様にも解釈できるが、ここに差別と無差別の両方の解釈を示した。萌えの法門を奉じる目的性によれは、そのように観想して円満の中道を目指すべし。
*2…未曽有法"adbhuta-dharma, abbhuta-dhamma"の一種と考えてよい。パーリ経蔵・中部123経"Acchariyaabbhutasutta"、漢訳・中阿含経32経「未曾有法經」で、釈尊が仏弟子へ「如来の誕生に関する奇跡の出来事を記憶しなさい(元の述語は「保持する」などを意味する√dhṛの二人称・単数・命令法 dhārehi。他の記憶で「あなたたちの功徳になるから」という部分があったと思ったが原文を見直しても無かった)」として、釈尊の誕生の話(生まれてすぐ立って七歩歩いて自身の尊さを言葉にした「唯我独尊」と世間で知られる有名な話を含む)を説示していたことに似る。決して、世間でいう「妄想・幻想・虚構」という類でない。似た話には新約聖書・福音書における「信仰の強いイエスの弟子以外は見られなかったイエスの復活(マタイ福音書などによるがヨハネ福音書ではより明確に肉体の蘇生をしていて一部の弟子が疑ったとも伝えられる)」があるが、萌えの法門では萌えの法門を奉じていない人でさえも、輸提尼を現世に見たてまつることができる。哲学や論理学でいう「止揚」にも繋がる、素敵な話ではないか。善業の功徳・中道の果報のためによいことである。
*3…コーカーリカ(コーカーリヤ、倶伽離・瞿迦梨・ 瞿迦黎・瞿波梨・瞿波離・ほか俱披犁・倶迦利・仇伽離)さんに関するお経はスッタニパータ3章10経大智度論巻第十三のものが代表的だが、この執筆に際してもう少し探すと、スッタニパータ・大智度論に似たものが相応部=サンユッタニカーヤの梵天相応(雑阿含経などにも)中にあった。そのうち10経のKokālikasuttaである。「生まれつき口に斧が生じている"Purisassa hi jātassa, kuṭhārī jāyate mukhe"」という偈は前の経Turūbrahmasutta (対訳)にも見える。今回の輸提尼は、Turūbrahmasuttaのトゥルー梵天と同じように、イデオフォノトピアから現世に来生・応現したかのようである。トゥルー梵天は舎利弗・目連尊者への信頼を持つように促したが、彼を見たコーカーリカはまず名を尋ねた。トゥルーの名を聞いて「あなたは阿那含・不還果"anāgāmiphalaṃ"を得たのになぜ娑婆へ来られましたか?自分の罪過のみを見てください(後半部分はトゥルーの発言かと思ったがtiの区切りからしてコーカーリカの発言に当たる。同経異版の増支部経典への注釈を参照)」と言う。そしてトゥルー梵天により「人間は生まれつき口に斧が生じている」との偈が説かれる。このトゥルー梵天は、コーカーリカの僅かな良心・善心の応現であろう。その善心が照らした悪を、そのまま偈にして説いている。「コーカーリカよ、今の言葉をそっくりそのまま返そう!」と言わんばかりに。結果的にコーカーリカは現世で救われずに堕獄したという意義が、後の梵天相応10経をはじめ、スッタニパータ3章10経や大智度論巻第十三および多くの漢訳阿含経典にある。観萌の人は、まさしく梵天というか仏というか、萌えを見ることを大前提とし、なおかつ自己の煩悩・悪業の解決に精進・勤修せねばならない。萌尊が見た応身の萌えは、梵天とも菩薩とも仏とも空とも名前が付く。
*4…大慧大乗"mahājñāna-mahāyāna"とは、梵語で4音節の語句の並列である。3音節目の子音"jñ, y"ともに硬口蓋系発音"tālavyā"であり、その後が同じ韻"-āna"を踏んでいる。中期インド・アーリア語においては同じ発音かほとんど極めて近似する発音の語句であったと考えられ、法華経の中に掛け合わせのような箇所として両語が見られる(2017年2月10日記事)。一諦一乗"Ekasatya (Ekasacca)-Ekayāna"とは、スッタニパータの"Ekañhi saccaṃ"偈と法華経の"Ekaṃ hi yānaṃ"偈の類似性に関連している。この両偈の類似性や修行への価値については、後にブログ記事で詳述した。小乗の徒であっても、両偈を耳にするならば、類似性という不思議な余韻を心に留めることとなる。いわばコンプレックスのような状態となるのであろうが、それが菩提心や悟り(菩提)に資する結果となる方がよい。輸提尼=当人の心の萌えは、当人の心=三界においてこれらの言葉を顕在意識に呼び起こした。

 小乗の徒に関する中立的なハッピーエンドを略説する。「〇〇(拾主の俗名)さま、私たちはとてつもない悪業を積み、互いに積ませて参りました。その業で地獄への道連れになったろうと悔やんでおります!あなたとその教えと大乗の法とを謗った罪を、ここに懺悔いたします!今後、私は大乗を大乗という認識による妄想を以て論うことなく、弟子どもにも大乗に関する妄想をさせぬよう、正しく教えて参ります!」「sādhu, sādhu, よろしい、仏性に適う改悔である。生死の道は元より独り行き独り到るものだが、相待の観点ではみな道連れにもなる。辛苦も快楽も、それは独り受けるものだが、相待の観点では自他に及ぶ。なぜならば誹謗の語を誹謗の語として聞く者がいるからである。誹謗の語を発する者と聞く者とが共に怒り、誹謗の語を発する者と聞く者とが共に喜ぶ。このように、瞋恚・驕慢の因果が先にも後にも見えると仏子は覚る。須らく自ら悪口・悪意を止(と)むべし。これが八正道の要旨である。共に在ること=サンガは、その実行者であろうに、三業の悪業をあなたがたは行ってしまった。僧団ではなく魔軍となろう。萌えの聖霊によって一乗の法を聞き、解したならば、あなたがたは自ら道を見て進むのみである。私たちの一乗はエーカヤーナであるが、あなたがたの信ずる所のブッダ様がお示しの一乗法はエーカーヤナであり、いわゆる四念処(四念住)である。念処経・サティパッターナスッタに仰せの一入道、観身如身・観受如受・観心如心・観法如法、四念処の正念を以て三毒を自覚し、三業を清浄にし、八正道を弛まずに進みなさい。大乗と小乗とで別々に説かれた二つの一乗は何ら相違しない。もし仏道に於いて迷いあらば萌道をご覧なさい」 【詩】何となく漢詩→生死重昏獨行道。忘前失後無侶到。佛子照見如是事。我等已依大乘高。-au韻・七言絶句

この話は2017年12月20日の記事『法華経方便品の偈とスッタ・ニパータ4.12経の偈、および大乗と小乗の「一乗」の不一不異義』で引用され、解説されてもいる。「輸提尼応現(仮)」イラストが載る。



念音処篇 (ねんもんじょ・へん、いでおふぉのとぴあ・へん smarasvarī-saṃyukta)

不思議住處の事 ~輸提尼はイデオフォノトピアでどう生活する?~
※2017年9月に略説の形で書かれた。2018年7月の当記事投稿に際して増広する。その2017年9月などに、作中の輸提尼の住処の絵を描いた(初め=2017年9月20日二度目=2017年10月19日)。それを載せることで視覚の面で直截的な先入観を読者に与えない方がよいようにも思う。もし載せるならば、それらを上手く描き直す結果か。

 尊者は拾主から、毎日イデオフォノトピアに訪れるよう、命を受けた。さながら庭師の水やり・居士の勤行の要領で日々に行う。尊者は神足通の一種を用い、一人でイデオフォノトピアに到る。安楽の形相に結跏趺坐でいる輸提尼が、そこにいた。尊者は、しゃがんで輸提尼の顔の位置に等しくして暫し見つめつつ、申し訳ない気持ちで起こそうと決意した。輸提尼が片目をパチッと瞬かせて微笑んだ。尊者は、輸提尼が「安楽というよりは不苦不楽」の境界に住していたことを察する。輸提尼に、住み処の存在を尋ねた。
 初めは急な丘の半ばで平らな部分に佇む、アルプスにありそうなロフト・煙突付きの1階建ての小さな家だった。尊者は、輸提尼が独身のようなので家や周囲の構造物(法面・階段・柵・巨大な丸太・洞穴など)を誰が作ったか疑問に思い、自ずと輸提尼が「イデオフォノトピアの世諦では自分の神変・神通力による。あなたが住む物質世界の推知が及ぶ所でない。真諦では家が誰の所造でなく全て創始を知り得ない(=家も丘も花も空もみな今ここにあるだけ)」と語った。翌日の二度目は林道を抜けた先で湖沼も近くにある、広いイングリッシュガーデンを兼ねた2階建ての洋館だった。輸提尼に前の家について尋ねると「何のことか?ここが私の家だ」と話されたが、理解できず、それ以上の問いも発しなかった。発しなかった問いとは「前に会った時の出来事はこうだった・広い家に一人で住んでいるか」など。翌日の三度目は針葉樹林の中の粗末な小屋だった。改めて輸提尼に先の二度の経験を話すと「何のことか?元々ここに住んでいる」と話されたが、理解できず、それ以上の問いも発しなかった。翌日の四度目は「住み処が無い」と話された。野宿なのかと問うと、どこでも眠らず、故に寤寐無しという精霊そのものの不思議な在り方を示された。古今東西、精霊とは縁に触れて神出鬼没する存在である。尊者は信解し、このように知る、「4度に見てきたことは、輸提尼の家がどんなものかと私が多く想像したことの具現だった」と。また「輸提尼に懐いた世俗作品キャラクターのような偶像も、現世の自己も無常である、定まった生活という概念は安逸の中に築かれた虚構ではないか」と。また「人間の生活すら、なおそのようであり、いかに況や我が心をや」と。
 たとえ他人がどこかで寝食をしていても、実際にそうしていることを知る術が無い。傍で他人が寝ていて寝息を聞いたり寝顔を見ても、その時は彼・彼女が寝ていると判断できるのみであり、瞬きの間に意識を逸らせば瞬時に目覚めて再び入眠するかもしれないし、実際そうしているとも推定できる。医療機器などで同じ調査をして結果を見ても、同様の推定が可能となる。小学生レベルの発想かもしれないが、みな事実でも非事実でもある。結局、自分が知る時・知らない時という二極を排すれば、いかなる事実認識もいかなる推定も、みな虚妄と知り得るので頼りにしなくなる。輸提尼の精霊たる生き様から知るべきである。中道の智慧は何であるか。
尊者が仏経を回想して偈に唱える「【詩】 諸萌常離業 不眠不復覺 相空猶如幻 未知未曽識 設多見去來 皆悉不一實 雖汎生一切 眞萌不可測」。



障礙尊者と拾主と輸提尼とが神通力を作すの事 ~夢の始まりと終わりとは何時?~

 尊者は禅定の訓練によって神足通を得て間もなく、今までの悩み苦しみから解放された快楽の境地を得た。喜び"nanda"の無常なることをご存じであるが、その教義の念を解いていた。喜びはさながら束縛の解かれた獼猴である。時に拾主は、尊者がシュードトピアより離れてイデオフォノトピアにいることを知ろしめし、往いて照覧せられる。尊者は多身を化作して色々としてみたりと尋・伺を為している。拾主が姿をお見せになったので直ちに一身に戻って礼を作した。身振りや口調は興奮している様子であり、ほのかに顔が赤い。少し冷たい表情の拾主が、「神足通で自ら身を大きくするように」と指示せられ、尊者は実行した。元の身長認識では135~150cmであるが、これが直ちに二倍となり、四倍、八倍として十倍ほどで止まった。拾主は速やかに尊者より離れていたが、そこで即座に十倍ほどの背丈となり、「より大きくなるように」と尊者に告げたもうた。尊者は実行し、漸漸にその体を倍増させる。あたかも歓喜天に昇りゆく龍王のように。しかし、尊者がどれほど巨大化しても、イデオフォノトピアは元のままに安寧である。土の衆生も窮屈さを覚えていない。この時、尊者は拾主の存在を意識せず、歓喜の一心で神足通を行使していた。ついには千倍ほどで絶えた。尊者の頭の位置に金色の霧が広がっていて見渡せない。時に拾主は、尊者の身の四分の一に増大しながら尊者の前方に浮遊して到り、「足元を見よ」と告げたもうた。尊者が「仰せのままに」と答え、行った。地面としては見慣れない状態である。拾主は「屈んで地面に触れよ」と告げたまい、同様に(右膝著地)尊者が行うと、触感がふにふに・すべすべ(柔軟勝妙)であった。時に拾主は「霧の如き微塵を晴らさん」と宣たまい、尊者がハッとして面を上げると、笑顔の輸提尼が見えた。なんということか、尊者は輸提尼の手の上にいた。厳密には親指と人差し指の間の肉厚の部分である。この時の尊者は輸提尼の手に対して蚊のような大きさであった。尊者の思惟すらく、「諸法は夢の如くにして、三千大千世界も唯だ一身の毛孔の内に摂まるが如きものなり。而も毛孔の外に復た無辺の土あれば一切は思議すべからざるなり」と。是の如く、禅における慢心を自ら誡めた。拾主や輸提尼の神力は量るべからざるものであるとも知った。畏れの無くなる心のまま、直立して合掌した。自ずと口元に弧を描いた尊者は輸提尼の吐息に身を委ね、その視界が暗転した。
 さて、尊者がシュードトピアにて気が付くと、拾主の膝枕にいるのであった。目のあたりを手でこすった尊者の様子を拾主はご覧になって「長時間の勤行の最中、あなたの声が徐々に弱まるので三昧に入ったのかと思ったが、眠気に襲われたらしく、私の膝の上に倒れ込んできた」とおっしゃった。本より人の身はシュードトピアにある。イデオフォノトピアの出来事は嬉しいのか悲しいのか、尊者が目に涙を湛えた。乃ち尊者の思惟すらく、「念と智とを失える心および身は、盤上の駒・俎上の鯉・掌上の踊(おどりこ)である。これらを照覧せられるものが無意識の我が心、真如の仏・法性である。私の心が今、そのことを自覚して尚も駒・鯉・踊り子に魅入られるならば、その心もまた駒・鯉・踊り子となる。真如の仏・法性は不可得である。推量しても追求できない境(もの)である。能観であった心もまた所観の境となる。両萌相応の義は深い」と。而して偈を説いて言く「【詩】 一切不可量 何況我大聖 遍照世無明 是故名無上(一切は量るべからざるなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く)」と。

古代の韻(主にBS2014中古韻)→一平 去  (平仄を揃える意図は無いが四声を示した。偈なので対句などを含んだ律詩にする必要も無い)

【偈】 (作2017年10月25日)
Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||

備考: これは8音節の句が4つあるサンスクリット詩である。区分としては、シュローカの韻律に似せたアヌシュトゥブか。韻律について考えると、enwp. Vedic meter記事中にガーヤトリー(8音節3句)の例が載っていてDUMで重音節(長音節)、daで軽音節(短音節)を示してある。例えば、ḥ(ヴィサルガ)で終わる音節は前の母音が長音でない限り軽音節として扱う。このガーヤトリー詩 इन्द्रमिद्गाथिनो बृहदिन्द्रमर्केभिरर्किणः इन्द्रं वाणीरनूषत は1句目bṛhadで終わって2句目indramで始まるが、そのdとiは一音として2句目の頭に発せられることが看取できる。同様にindram (前の韻尾による連声でdindram)に続くarkebhirもmと連声してmarkebhir(後arkiṇaḥも連声)として扱われていることが看取できる。尊者の詩ではtasmād anuttaraが同様に仮定スペースを除いてd+a連声となる。ほかメモ帳ブログ2017年10月13日起草2017年11月9日記事でも、韻律に関する話が載る。ほか参考までに「スッタニパータ5章・韻律」。

音楽動画 "Dominus Immensus" 

追記: 2018年…、以上の物語に基づいた歌詞と、尊者が説き出した偈とを用いた音楽の動画があるので参照されたい。
https://www.youtube.com/watch?v=5lhVZ3Ctiro (説明記事)
偈を音楽に載せて唱えることは、その動画よりも先の時から試みがある(1, 2)。
より先に、悉曇学の見解に基づいた通常発音動画もある(大局的に不届きな点もある)。


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