パーリ仏典・経蔵のうちに"ārogyaparamā lābhā, nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ"という偈が見られた。
中部75経では、マーガンディヤ(鬚閑提・摩因提・摩犍提とも)という修行者に対し、釈尊がこの偈を説かれ、マーガンディヤが「師や歴史的な師である修行者たちがその偈を説いた」と反応する。
その偈の漢訳は中阿含経に「(等正覺の説きたまわく)無病第一利、涅槃第一樂。」とある。
偈が説かれるまでの経緯は仏教的に大事であるが、当記事で割愛する。
道心ある方は、高度な検索スキルを以て知られたし。
この偈について、類似する教説が三ヴェーダや古ウパニシャッド(パーリ三明経に派閥名として載るチャーンドーギヤやタイッティリーヤなど)にあるか、確認してみた。
nibbānaもといサンスクリットのnirvāna (nirvāṇa)という語句を頼りに、"Sanskrit Documents"というサイトのヴェーダとウパニシャッドの当該文献を探したが、nirvā...の語が見当たるのみで、類似する教説を発見できなかった。
そこで、パーリ語の偈のārogyaparamāという部分について検索すると、"ārogyaparamā lābhā, nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ"偈の別バージョンともいえる偈が見当たった。
パーリ語ダンマパダ"Dhammapada" 204偈である。
Sukhavagga - Pasenadikosalavatthu (コーサラ国パセーナディ王に説かれたもの?)
Ārogyaparamā lābhā,
Santuṭṭhiparamaṃ dhanaṃ;
Vissāsaparamā ñāti,
Nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ.
これをサンスクリットへ翻訳するか、すでにある文章を探すか、と考えたが、ここでは、すでにある文章を探した成果を示す。
表題にいう「ガンダーラ文献」ガーンダーリー・ダルマパダ"Gāndhārī Dharmapada"においては、以下が発見された。
掲載サイト全文のうち、162番目の偈に当たる。
suha vagga (suha = sukha 楽に関する内容の章の第一偈となろう。以下の翻字は原典のカローシュティー文字に長母音に相当する表記が無いので長音記号が無い)
arogaparama labha,
saduṭhiparama dhaṇa,
viśpaśaparama mitra,
nivaṇa paramo suha.
同じく表題にいう「プラークリット文献」パトナ・ダルマパダ"Patna Dharmapada" (正量部による本がパトナもといパータリプトラ近辺で出土した?)においては、以下が発見された。
掲載サイト全文のうち、76番目の偈に当たる。
Atthavarggaḥ (atthaはパーリ語のattha = skt: arthaと同義か?パーリ語に無いヴィサルガ"ḥ"がある)
āroggaparamā lābhā,
sāṁtoṣṭīparamaṁ dhanaṁ,
viśśāsaparamā ñātī,
nibbāṇaparamaṁ sukhaṁ. (長音やニッガヒータもといアヌスヴァーラ"ṃ"もある)
これらの両者が判明してからも、特に当該文献=釈尊在世の婆羅門(バラモン、ブラーフマナ)の教書類の教説や後世ヒンドゥー教の文献を見つけられる気配は無かった。
結論として、この偈がそれら文献に伝承される必要は無いと思われる。
釈尊在世や、それ以前、ひいては無量劫の過去世から、覚者が唱えていたと思われる。
それは、覚者もとい等覚者"sambuddha, saṃbuddha"に共通するウダーナ(無問自説、現代でいう感興のことば)として、生き生きとした詩であったろう。
私の「萌えの典籍」においても、過去萌尊は彼らに共通する萌えの悟り(主に三萌義のような縁起観に基づく両萌相応など)とその教説が有るとし、作中において「萌え和讃」として披露されているものがあるが、そこでは「涅槃が最上の安楽である」といった意義が説かれていない。
ただし、涅槃"nirvāṇa"に通じる概念(寂滅・シャーンティ"śānti"とも)の説示はある。
和讃の例
「諍ひありて応ふるは いかにぞ同じくならんずる 若芽の独り尊きに 萌えてまします斯ヽるべし」
「群れてまします芽なりとも 互ひの根と葉きらひなし 我の萌ゆるは先になく 誰かほかにも萌えをらむ」
短歌・辞世の句の例
「たふとくて たふときもなし くさのめの おふもかるるも まことなりけり」
作中の人物が少し解説している(中観や大乗の視点で)。
「萌尊は自ら萌えと成ったので、尊いとする萌えを尊くない立場で尊げに見るのみで、萌えは尊くあって尊くなく、尊くなくもないと明言する。実際の萌えは、言語道断心行処滅の真如である。仏家の涅槃、生死即涅槃ということに通じており、萌尊最期のお姿は是の如し。如是如是。善哉善哉。穴賢穴賢。」
起草日: 20171013
当記事の目的は、文献調査の手段の明示であるが、文献調査という行為自体は、もともと「その偈にまつわる伝承が仏教の外にも見られるか?釈尊在世に沙門界隈で涅槃への憧憬があったか?」という疑問を解消する目的の手段である。
文献調査にしても、思想的な研究にしても、仏道修行と乖離した知的好奇心によるかもしれないが、「世間的な意味で若者」の私(20)は、まだ遊び盛りなので、可能な限り、これらの調査や学術研究を続ける方針である(仏道修行・芸術活動なども並行する)。
なお、当該の偈につき、漢語文献では法句経・第三十六「泥洹品(ないおんぼん)」にある。
1. 無病最利 知足最富 厚爲最友 泥洹最快
無病は最も利なり 知足は最も富なり 厚は為れ最も友なり 泥洹は最も快し
2. 飢爲大病 行爲最苦 已諦知此 泥洹最樂
飢は為れ大病なり 行は為れ最苦なり 已に諦かに此を知る 泥洹は最も楽なり
※法句譬喩経・第二十三「安寧品」では偈の外に「泥洹此為最樂」がある
このように、2つの偈を引いておいた。
共に涅槃の「楽」という徳目を讃えている(後の大乗・大般涅槃経の常楽我浄のよう)。
前の偈がパーリ204とガンダーラ162とプラークリット76に相当するが、後の偈がパーリ203とガンダーラ163とプラークリット75に相当する。
前後両偈の順が異なる。
整理して言えば、漢語とガンダーラ本とが順を同じくし、パーリ文とプラークリット本とが順を同じくしている。
色々と対訳を示したが、サンスクリットのウダーナヴァルガ(いわゆる出曜経)にも両偈が見られた。
26章のNirvāṇavargaであり、漢訳法句経「泥洹品」と名が同じである。
こちらの両偈は、漢語とガンダーラ本のペアと順を同じくしている。
ārogyaparamā lābhā
saṃtuṣṭiparamaṃ dhanam |
viśvāsaparamaṃ mitraṃ
nirvāṇaparamaṃ sukham || 6
kṣudhā parama rogāṇāṃ
saṃskārā duḥkham eva tu |
etaj jñātvā yathābhūtaṃ
nirvāṇaparamo bhavet || 7
なお、冒頭で話題にして当記事でテーマとなっていたマーガンディヤ経のウダーナ偈については、バガヴァッド・ギーター"Bhagavad Gītā"6章15詩に"nibbānaṃ paramaṃ"と似た表現が見られた。
भगवद्गीता/आत्मसंयमयोगः
युञ्जन्नेवं सदात्मानं
योगी नियतमानसः ।
शान्तिं निर्वाणपरमां
मत्संस्थामधिगच्छति ॥६-१५॥
Śrīmadbhagavadgītā (IASTシュリーマド・バガヴァド・ギーター)
yuñjannevaṃ sadātmānaṃ
yogī niyatamānasaḥ ।
śāntiṃ nirvāṇaparamāṃ
matsaṃsthāmadhigacchati ॥ 6-15॥
The Bhagavad Gita (Arnold translation)
Musing on Me, lost in the thought of Me.
That Yogin, so devoted, so controlled,
Comes to the peace beyond, — My peace, the peace
Of high Nirvana!
バガヴァッド・ギーターもといバガヴァドギーターについては、この種の文献によく言われる「紀元前ウン世紀ころ~」という書誌学的・文献学的見解を一旦置いて考えられたい。
バガヴァドギーターのクリシュナやアルジュナといった人物名はパーリ仏典に確認されないが(クリシュナkr̥ṣṇa→カンハkaṇha 形容詞「黒い」、アルジュナarjuna→アッジュナajjuna 形容詞「白い」・樹の名前や仏弟子の名前)、釈尊在世や、経典結集などのころにも、世間に多くの伝承があったろうから、このバガヴァドギーターの詩と似たようなものや似たような表現が、実際にインド地域で広く聞かれたかもしれない。
もう少し精を出して他の文献も調べると、マハーバーラタ"mahābhārata"12章に、話題の偈"nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ"と同様のフレーズ2つが見られた。
327節5詩(३२७ ५) मोक्षश्चोक्तस्त्वया ब्रह्मन् निर्वाणं परमं सुखम् (独自でヴィラーマ区切りを施した)
mokṣaś coktas tvayā brahman nirvāṇaṃ paramaṃ sukham
英訳(この版では341節): Janamejaya said, "The whole world of Beings, with Brahma, the deities, the Asuras and human beings, are seen to be deeply attached to actions which have been said to be productive of prosperity. Emancipation has, O regenerate one, been said by thee to be the highest felicity and to consist of the cessation of existence. They who, being divested of both merit and demerit, become emancipate, succeed, we hear, in entering the great God of a thousand rays.
330節16詩(३३० १६) निर्वाणं परमं सौख्यं धर्मोऽसौ पर उच्यते
nirvāṇaṃ paramaṃ saukhyaṃ dharmo 'sau para ucyate |
英訳(この版では343節): (The highly and holy one = śrībhagavān = クリシュナがアルジュナに語る) The cessation of separate conscious existence by identification with Supreme Brahman is the highest attribute or condition for a living agent to attain. And since I have never swerved from that attribute or condition, I am, therefore, called by the name of Achyuta.
※IAST: Mahābhārata, Śāntiparvan (entered by Muneo Tokunaga) 英訳: The Mahabharata Book 12: Santi Parva (Kisari Mohan Ganguli's translation)
ただし、バガヴァドギーターなどが言うところの「涅槃"nirvāṇa"」という事柄は、仏教に一致していると考えづらい。
当記事の冒頭で「割愛」した話題は、そのことでもある。
仏典マーガンディヤ経も、そういった認識の相違に関してマーガンディヤに釈尊が教示せられている。
Pubbakehesā, māgaṇḍiya, arahantehi sammāsambuddhehi gāthā bhāsitā:
"Ārogyaparamā lābhā, nibbānaṃ paramaṃ sukhaṃ; Aṭṭhaṅgiko ca maggānaṃ, khemaṃ amatagāminan" ti.
Sā etarahi anupubbena puthujjanagāthā.
要約: 「無病第一利、涅槃第一楽…」という偈は古の阿羅漢"arahant"・正等覚者"sammāsambuddha"によって説かれたもの"bhāsitā"である。それが現在までに俗人"puthujjana"の偈となった。
※ここでの偈は「八正道が涅槃への道であること」を示唆する二句"Aṭṭhaṅgiko ca maggānaṃ, khemaṃ amatagāminan"が後半として加わる。それにより、偈を説いた人である「等覚者"sambuddha"」の範囲が、過去七仏など釈尊が明確に認めた諸仏に限定されていると取れる。他の見解はアッタカターやティーカーあたりを読解すべきか。
バガヴァドギーターなどにある「涅槃」とは、果たして、釈尊が明示せられる等覚者"sambuddha"たちと同じ悟りに基づくものであろうか?
信仰する者の心、神のみぞ知る。
ネット上に公開されている"An Outline of the Metres in the Pāḷi Canon"より。 長音節は重音節"guru, garu"、短音節は軽音節"laghu, lahu"と呼ぶ方がインド伝統的にも近代音韻論的にも適切 |
※当記事でパーリ・ガーンダーリー・プラークリタ・サンスクリタの同詩と、外典の表現と示してきたが、みな8音節の詩である。この形態の詩をアヌシュトゥブ(シュローカ"śloka"は後世にもっと制約が強められたものか)と呼ぶそうである。私によって音節を数えてみなきっちりと8音節に収まっていることが分かるが、息継ぎは詩の終わりに気ままに行うか?これら詩の諷誦では、音楽的な4分の4拍子リズムを保つ必要が無かろうか?私は韻律などの事項を未だ詳しく把握できていない。少なくとも、漢訳仏典における五言・七言の偈は漢詩の平仄や脚韻を気にしないよう、パーリ・サンスクリットの偈"gāthā"も長い音節・短い音節といった韻律の規定を気にすべきでない。偈は詩の快楽でなく法義のためである。無論、新たに自作する場合は、少し配慮してもよかろう。
2017年10月25日、私はサンスクリットの偈(8音節・4句)を1つ作った。
仮のページ(http://testing-design.techblog.jp/archives/29133059.html)に公開してある。
Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||
(ストーリの終盤における偈) 「一切は量る可から不るなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く」
以下は、そのページに付記されている「備考」である。
これは8音節の句が4つあるサンスクリット詩である。区分としては、シュローカの韻律に似せたアヌシュトゥブか。韻律について考えると、enwp. Vedic meter記事中にガーヤトリー(8音節3句)の例が載っていてDUMで重音節(長音節)、daで軽音節(短音節)を示してある。例えば、ḥ(ヴィサルガ)で終わる音節は前の母音が長音でないと軽音節として扱う。このガーヤトリー詩 इन्द्रमिद्गाथिनो बृहदिन्द्रमर्केभिरर्किणः इन्द्रं वाणीरनूषत は1句目bṛhadで終わって2句目indramで始まるが、そのdとiは一音として2句目の頭に発せられることが看取できる。同様にindram (前の韻尾による連声でdindram)に続くarkebhirもmと連声してmarkebhir(後arkiṇaḥも連声)として扱われていることが看取できる。尊者の詩ではtasmād anuttaraが同様に仮定スペースを除いてd+a連声となる。ほか参考までに「スッタニパータ5章・韻律」。
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