2019年4月6日土曜日

母音の広狭と音高の上下に関する実験の意図で作詞した ~ 楽語共調理論 入門

表題のようなテーマから、言語音声と音楽メロディの調和を考えることが、2017年以降の私の個人的な課題となっている。
2019年以降、2017年に私が投稿した音楽動画の数々は、続々と2周年になっている。
それら音楽動画のうちの楽曲には、表題のようなテーマに基づいて付けられた日本語歌詞があるので、説明とともに公開しようと思う。

当記事は、表題のようなテーマにならった一つの理論・仮説を説明する。
「楽語共調(がくごきょうちょう、シンフォネディ 英語 symphonedy, ラテン語 symphonoedia, συμφωνῳδία 造語 of σῠν- + φωνή + ἀοιδή cf. symphoniacomoedia)理論 theory (または仮説 hypothesis)」と呼ぼう。
私は今まで、漠然と「母音 (vowel) の広狭 (?) と音階(後に呼称変更→音高 pitch) の上下 (?) は規則的な関りが強いほど主観的に良い聴こえとなって調和し (harmonize)、歌の魅力を損じないようになる」と仮定してきたが、2019年3月以降、理論化することにした。
そうして、新たに母音の特徴や、音声の道理を学ぶ必要が出てきたので、それを詳細にまとめた。



●日本語の基本的な5母音の特徴

その導入として、日本語の基本的な5母音 (5 vowels) から説明する。
参考までに、「5母音でない言語」であるフランス語やイタリア語は「え(エ)」に相当する音を /e/ (é 非円唇前舌半狭母音) と /ɛ/ (ê, è 非円唇前舌半広母音)として微細に区別(弁別)するが、そういった外国語発音の事情は当記事で基本的に紹介しないこととする。
それと別に、学問用語(術語)の英語における名称は頻繁に併記する。
また、発音の厳密な区別を示す場合に、国際音声記号 = IPAによる音素 (phoneme / /括り) や音価 (phone [ ]括り) を併記する(初心者の方はこれを知らなくても理論の趣意が分かる)。

日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音(以下、五音)のために、言語発音全般の母音の特徴による二分(にぶん dichotomy)か三分(さんぶん trichotomy)をする必要がある。
日本語のための「二分ないし三分」であり、外国語の事情を介すると、当然、より詳細になるが、当記事の問題でない。


言語発音全般の母音の特徴で
日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音を示す図
右図は日本語における「あ・い・う・え・お」の5母音を言語発音全般の母音の特徴で示している。見ようにはX-Y-Z 3 dimensions, 三次元である。立体図形で再現できる。以下に値 (value) を書いておくが、あくまでも日本語の国語学的な最小限 (minimum) のスケールにした。外国語などと比較して科学的絶対性を求めるならば、数値はもっとプラス・マイナス両方向に大きくとられてもよい。

横軸X = 舌の前後の程度を二分(稀に三分)す 値-1, (0,) +1
縦軸Y = 口の広狭の程度を三分す 値-1, 0, +1
色相Z = 唇の円さを二分(稀に三分)す 値-1, (0,) +1



まずは、発音時の口の広狭の程度(口唇や口腔の舌などで摩擦音・阻害もとい阻碍系の子音 obstruent が生じない範疇)=広さ(英語圏では舌の高低による観点で高さ heightという)によって、三分をしよう。
「あ」が広い音 (open vowel)、「い・う」が狭い音 (close vowels)、「え・お」が広い音と狭い音の中間の音 (mid, open/close-mid vowels)である。
このように、広い音、狭い音、中間の音の三分がある。
熟語にすると、広母音(こうぼいん ひろぼいん)・狭母音(きょうぼいん せまぼいん)・中央母音(ちゅうおうぼいん)である。
位置の高低によって低母音(ていぼいん low vowel 広母音)、高母音(こうぼいん high vowel 狭母音のこと)ということもある。



続いて、舌の位置の前後の程度 (backness) がある。
「舌の位置」とは、あくまでも舌尖や舌端といった「子音をなす(作る)部分」以外の最高部である。
前側に舌の最高部が位置して発せられる音=前舌母音(ぜんぜつ- front vowels)には「い・え」が挙げられる。
後側に舌の最高部が位置して発せられる音=後舌母音(こうぜつ- back vowels)には「う・お」が挙げられる。
「あ(広い母音)」については前舌と後舌の中間 (central) の位置で発するということ(IPAで ä 非円唇中舌広母音)が音声学の一般的な見解であるが、前舌と後舌のどちらで発することもよい。
念のために注記しよう、もし「う」の音を前舌の位置で発すると、フランス語の"u"やドイツ語の"ü"や古代ギリシャ語のΥ υ(ウプシロン、ユプシロン。現代ギリシャ語ではイプシロンでイの音に変化ずみ)の発音に似た、「日本語話者がどのような状況でも発することの無い母音」 [y] となる。



続いて、唇の円さ (roundedness) がある。
円い唇で発せられる音=円唇母音(えんしん-)には「い・え」が挙げられる。
円くない唇で発せられる音=非円唇母音(ひえんしん-)には「う・お」が挙げられる(他の呼称では平唇母音 へいしん-)。
「あ(広い母音)」については円唇と非円唇のどちらで発することもよいが、後舌の時に円唇にすると、イギリス英語(特にRP発音)における"hot /hɒt/"の"o [ɒ]"、いわゆるホットのホにある母音オ [ɒ] と同じ発音になり、日本人の耳でもオ(お)の音に聴こえるので、基本的に非円唇で発するとよい。



う段音価の母音「う」は唇の円さや舌の前後位置が中間的とされ、その程度も話者や状況によって多様であるように分析されている。
状況による「う」の音の差異は、代表的に言われる例が語中で ɨᵝ 、語頭と語末で ɯ̟ᵝ が現れるということであり、前者 (補助記号ぬき: ɨ)は舌の位置から言えば「中舌母音(ちゅうぜつ-)」である。

(過去記事引用・前略) 現代日本のウ音は音素として/ɯ/と表記されるが、実際の現代人発音は/ɯ/平たい唇・/u/円い唇よりも中間的であり、極端な唇の動きとならない。
この場合、IPAで音価として[u̜] (uの下にC字記号で円唇が弱まったもの"less rounded")や[ɯ̟] (ɯの下に十字で後舌がやや前になったもの"advanced")や[ɯ̈] (ɯの上にウムラウト記号で後舌が中央寄りになったもの"centralized")や[ɯᵝ] (ɯに上付きβで平たい唇・非円唇の程度を抑えたもの"compressed") (他に [ɨᵝ] と [ÿ] と [ɯ̟ᵝ])として現代日本のウ音の代用表記がされる。
 - https://lesbophilia.blogspot.com/2018/03/fricativization.html#artifoot

(過去動画説明文引用・前略) 語中ウと語末ウは ɨᵝ と ɯ̟ᵝ で区別されることがある
 - https://www.youtube.com/watch?v=fC70wNfVZn4


いわゆる日本語の「五十音」は「あ段・い段・う段・え段・お段・ん」で構成されており、「ん」以外は「あ・い・う・え・お」五音を伴って発せられる。
五十音のうちの音は、音声学的に「モーラ (mora 拍) による発音 (moraic)」とみなされ、私も2014年以降、そう呼んでいる。
このモーラが、日本語のうちの音の、言語的な意味を得る最小単位である。
「か(カ ka)」や「ゐ(ヰ うぃ・ウィ wi 井戸の井も昔はこの発音)」などは1つのCV音節(CV = consonantとvowelの頭字語。音節 syllable)であり、1モーラでもある。
モーラの観点では、「ん」や「っ (促音・長子音 gemination、小さいツ)」や「ー (長音、長音符)」も1モーラとして数える(e.g. カッターは4モーラ、キャットは3モーラ。英語の cutter は2音節、 cat は1音節)。
「ん (撥音 moraic N, 成節鼻音 syllabic N/nasal)」については、状況によって音節主音=1音節となりえるし、日本の音楽では「ん~♪(例えば"永遠"という中国語からすると2音節 yǒng yuǎn になる語句を"えーい、えーんー"のように4音節相当でされるような発音)」として長く伸ばす発音も多い。
ここまで、日本語の伝統に基づく立場で「あ・い・う・え・お」の母音順を用いたが、「広狭・前後・円非円」という音韻論・音声学による分析で「あ・え・い・お・う (a, e, i, o, u)」の母音順に変えて話す。





●母音の科学的な意味で本質的・客観的な特徴は如何

あ・え・い・お・う五音は、音響学的に・聴覚的にどのような特徴があり、人間に認知されるか、科学的絶対性に近い立場でも考証したい場合は、以下のように実験する。
まず、あ・え・い・お・う五音を発するとき、それ自体は個別言語イントネーションや日本語のピッチアクセントが反映されないよう(いわゆる平板の状態で頭高・中高・尾高を制御)にし、録音する。
その音声を視覚的に表示する手段が有る。

音声波形 (waveform) は、音声信号に対応した2D波形である。
X軸に時間、Y軸に音の大きさもとい音の信号の振れ幅を示す。
それのみでは、当記事の目的による実験に適していなかろう。
今回に、私はこれを用いない。

スペクトラムアナライザ (spectrum analyzer) は、音声信号に対応した2D音声視覚化の形式の一つである。
一般に何通りか系統の違いはあるが、私の使用できるものは同系統の2つである(過去動画に紹介済み、ちなみにAviUtlの"音声波形表示"にはスペクトラムアナライザ相当のType3, 4, 5がある)。
X軸に周波数、Y軸に音の大きさもとい音の信号の振れ幅を示す。
時間の次元に対応すべく前の時間の折れ線グラフを薄い色で重ねるものもある。
この実験に用いるべきかどうかは使用者の目的性や感性による。
今回に、私はこれを用いない。

スペクトログラム (spectrogram) は、音声信号に対応した3D音声視覚化の形式の一つである。
X軸に時間 (time 単位は秒 sec.)、Y軸に周波数 (frequency 単位はヘルツ Hz)、色の濃淡(Z軸でも可)に周波数の振れ幅 (amplitude 単位はデシベル dB) を示す。
これを実験に用いてみよう。

以下、スペクトログラムを表示できるソフトの一つ Praat のスクリーンショットが2点ある。
サンプルの音声としては、2019年3月16日に私が自ら録音した「あ・え・い・お・う」A, Bである。
音声を聴きたい場合は、2019年4月6日YouTube動画も参照。

Praat より 一。
スペクトログラムは下部
(上部は音声波形)。
次に解説画像
「あ・え・い・お・う」を発した音声のうち、A = 現代日本語のピッチアクセントがついたものと、B = 平坦に発したものとを比較してみると、ピッチアクセントの有無という差がA・B範囲内の各母音間にあることが表示されていないと判断できる。
スペクトログラムの画面において、「い」の音には「い」の音たる特徴がどのようにあるかといえば、同じく狭母音である「う」の音の発音時間内の周波数帯域と振れ幅とを見比べることで分かる。
振れ幅が強い部分(色が濃い部分)のうち最も周波数の低い領域に注目しよう。
「い」は上下に開いて振れ幅の強い帯域があり、「う」は詰まって振れ幅の強い帯域がある。
また、「い」は、広母音たる「あ」の音(日本語でのそれ)と比べて下側=低い周波数の帯域に振れ幅の強さが見られる。
どの子音(/k/や /t/や /n/など)を発しても、その後に「い」や「う」や「あ」の母音発音が0.3秒間であれ1秒間であれ伴うならば、それらの母音発音の特徴が確実に看取できるであろう。

Praat より 二。
「振れ幅の強い帯域」の見た目は、時間のY軸上に見られる「ピーク (peak 頂点)」であり、言語音声において発音を特徴づけているものを「フォルマント (formant)」と呼ぶ。
自然界の様々な音声には同じ時間(Y軸)上のピークが複合的に見られる (e.g. 倍音 overtone) が、音声学としてはX軸の下=周波数の帯域の低い方から2つのフォルマント = F1, F2 に注目する。
母音音声は、F1, F2の値 (value) の差が、先述の「口の広狭・舌の前後・唇の円さ」という調音方法によって明確であるものとして扱うことができる。

英語版Wikipedia - Formantに載る"Catford, J. C. (1988)"の情報から近似する音を示そう。
日本語の「い」近似音 [i] はF1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz)
日本語の「う」近似音 [ɯ] はF1 = 300 Hz, F2 = 1390 Hz (差異 1090 Hz)
日本語の「あ」近似音 [a] はF1 = 850 Hz, F2 = 1610 Hz (差異 760 Hz)
これは平均値"average vowel formants"として載せられているものであり、個々の話者や状況による変異はあるとしても、先述のようにF1とF2の値の差が特徴的であるとして信頼できる。

参考までに日本語の「う」の唇の円さを高めた西洋言語にあるような円唇後舌狭母音 [u] は F1 = 250 Hz, F2 = 595 Hz (差異 345 Hz)であって、 [i] F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) とは、狭母音共通の特徴として「低い周波数の帯域 F1 の強い振れ幅」が見られる。一方でその上隣の帯域に強い振れ幅を持つ F2 は、いわゆる極北、最右翼とでもいえるくらい乖離する。これは、「え・お」のような中央母音や中舌母音などを介すれば、数値が反比例していると感じられる。ほか、参考までにイギリス英語RP発音"hot /hɒt/"の"o" 円唇後舌広母音 [ɒ] は F1 = 700 Hz, F2 = 760 Hz (差異 60 Hz)であってF1, F2の差異が自然言語の音声として最小クラスであり、音名として対義語尽くしの非円唇前舌狭母音 [i] とは正反対である。

他にいろいろと示したいことはあるが、それは学習者各位の自由でよいとし、そろそろ音楽の話題に入ろう。





●音高の上下あるボーカルフレーズ、その対応する歌詞

ボーカルフレーズを構成する「音(小さい単位)」とは、元の楽譜やMIDIデータだと音符もといノート (note) と呼ばれるべきであるので、そう呼ぶ。
先述の「モーラ (mora)」の発音が、日本語の楽曲において最低でもノート1つ分を持つ。
イメージしやすく言えば、楽譜に歌詞が書いてあること(小学校の音楽の教科書で五線譜にのる音符ごとに対応した歌詞の字が書かれている状態)を思い返せばいい。
これは、仮に言語音声が1モーラ相当で声(母音など音節主音)を長く発して音高の上下があるとき、もう1つノートをその音高にも配置することで、2つ以上のノートを持つことになる。

音高・ピッチ (pitch) の上下とは、端的に言えば、一般的な「音階・スケール (scale) =異なる音高を持つキー (key, keys) の並び」の範疇においてノート (notes) が高いところ・低いところに移動してゆくことであり、「上下 (up-and-down)」とは周波数やMIDIのピアノロールに見られるような、数値や視覚表現での上下である。
視覚表現としてMIDIのピアノロールを私は多用するので、私がそう表現することについて留意されたい。
それについてもどのようなものか私の投稿作品(先の記述に挿入されたリンク他YouTubeのSundarknessチャンネル投稿動画など)から知るとよい。

以下から理論や実例を示すが、『あくまでも「メロディの美醜(好悪・好き嫌い good-and-bad)」の客観的な基準は存在しないものの多くの人が「共通主観性」で好むであろうと思われる特徴を合理性や数学的・科学的な考え方で求めたもの』、と理解していただきたい。
当記事で言うような主観性とは「人生における音楽的経験」などに依存して各々が持ち合わせている音楽的感性(楽器・調律・ジャンル・声色などに対する好悪)とその自意識とである。
良いか悪いかは、各々の主観性で判断するとよろしい。



原則的な事項がある。
母音の広狭ないし中間(中央)は、そこに絶対的な「こういう印象」が求められるかといえば、スペクトログラムや科学的技術の手段で特徴を明かしてから「広母音は明るい (bright)、狭母音は暗い (dark)」と判断できそうである。
しかし、必ずしもそうでない可能性を知るべきである。
「明るい・あかるい"akarui"、高い・たかい"takai"」の「あか"aka"、たか"taka"」は、「あ・か・た」という広母音モーラの語幹による形容詞であるからといって、本質的に「広母音とそれによるモーラ発音は印象が明るくてピッチが高い」と、確定できるものでない。
日本語話者の間では、彼らの共通主観性のうちに、広母音や狭母音についての認識の傾向を見いだせるかもしれないが、それさえも不確実に思う。
広母音も狭母音も、一者のみを用いる言葉は必ずしも多くない(2モーラ語に限って/a/, /i/ や動詞終止形や動詞連用形由来など以外にも鈴"suzu", 冬"fuyu", 己・斧"ono", 事・琴"koto"など同じ母音で揃うものが多いが、/e/ え段は動詞連用形由来や複合語や畳語以外で語源的に揃わない)。
もし広母音か狭母音か中央母音といった何かしらの母音のモーラのみで1曲の歌詞(最低50モーラ以上)を構成するならば、発音と歌詞の意味とに違和感があろう。

いずれにせよ、私はそれらの相対性について、感じ取ってもらいたい。
一に、狭母音モーラから広母音モーラになる動きや、広母音モーラから狭母音モーラになる動きといった、異なる母音同士の移動。
二に、広母音モーラの連なりや、狭母音モーラの連なりといった、同じ母音同士の連続。
これら相対性の効果を把握すべきである。
曲の中で用いられる歌詞の発音に、曲調(イメージ・雰囲気)と一致があるか不一致があるか、しぶとく観測する必要がある;面倒に思っても。
そうして得た知見に基づき、改めて巧く歌詞の中で反映することが表題のようなテーマである。

表題のようなテーマにおいて想定する作詞行為は、先にメロディアスな(キャッチーな)ボーカルフレーズが作られている場合に「後から歌詞を付与すること」である。
もし作詞が先にあってボーカルフレーズが後に作られるならば、メロディのノートの音高の上下が作詞者の思うような言語発音に近くされるだろうし、現代日本語のピッチアクセントやイントネーションが反映されやすい。
英語の洋楽では多めにそういう系統の楽曲 (cf. 英語歌詞自作曲"Eradicated") があるし、日本語であってもラップ (rap, hip hop) のようなものであればこの傾向があるので、これは注意しておく。
ただし、仮に作詞が先にあっても、そのボーカルフレーズにおけるノートは、母音の広狭に合わせた音高の上下に配置することもよい。



「母音の広狭と音高の上下」の基本を簡潔に言えば、広母音モーラが相対的に音高・ピッチとして高いノートであり、狭母音モーラが相対的に音高・ピッチとして低いノートである。
曲調(イメージ・雰囲気)によっては、適宜に反することもよいと思うが、基本的にこれを意識しておく。

・・・、という仮説の概要がこのように2017年以降に考えられてきたが、当記事を執筆している2019年3月になってから、その「フォルマント (formant)」 F1, F2 から母音の特徴を見出す術を知り、その裏付けが取れた。
母音の広狭はあくまでもF1に関連するものであり、F2の存在を加味するならば舌の前後についても考慮できる。
「い」の音(近似 [i])は既に示されるように、F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz) であり、実は高い音に当てることもできる。
これは後述の「2017年3月10日>交差点」における「つかり↑、ぱたり↓」という歌詞の「り"ri"」同士の異なりや、「2017年4月24日>曲名未定」の「はれとき↑どき、あめのひ↑には…」という歌詞の「とき"toki", のひ"nohi"」の両者が「お o」モーラから連なる「い i」モーラが突きあがるような音高で発せられることなど、私が「良い印象(少なくとも聴いた感じの違和感が少ない印象)」として捉える部分から例示できる。
「い」の音の二面性は当該楽曲を説明する項で再考しよう。



まず、主に長調楽曲に多いような、明るい(明朗な)印象の楽曲に合う例を示す。
世間の音楽界にも見出しやすい傾向だと私は捉えている。

出だしが弱起 (Auftakt; anacrusis) の場合で音高が著しく上下しない範囲では、ノートが単数であれ複数であれ、狭母音(close系)か中央母音(mid系)が良い。
また、複数であるとき、音高が著しく上下しない範囲では、たとえ広母音(open系... 日本語では「あ段」のみ)であってもそれのみを使う場合は母音の広狭の相対性を生じないので、用いて可である。
弱起から小節の頭の音に繋がる場合に、その単数のノートに当たる歌詞の母音は広母音が良い。
これは相対性により、雰囲気の開きや明るさ(明朗さ)を出す意図である。

出だしが小節の頭か中腹よりも前の場合には、その単数のノートに当たる歌詞の母音は広母音か中央母音が良い。
たとえ狭母音で始めても、時間的に0.6秒以内(4分の4拍子にテンポ BPM 100以上で4分音符より短いような状態)の場合に次の音が広母音であれば、明るさや上昇のムードがある。

・・・、このように説明する形式も良いが、以下から表題に言うような「実験の意図で作詞された楽曲」を示してそれに随って説明するほうが良いと思う。



手始めに、簡単な音感のテストをしてみよう。
下記リンク先の動画の0:39~から流れるマリンバ(木琴の一種)によるフレーズで、当記事の理論にいうような母音の広狭に関して、読者各自が試すとよい。
https://www.youtube.com/watch?v=qhrGuEFp8ok
このフレーズ(BPM 204のテンポで4分の3拍子で4小節に収まる)を構成する音楽は、音符・ノートにして4分音符と8分音符のみである。
4分音符を「〇ん」、8分音符を「〇」と表記するが、この〇には、た行の各1モーラのみを用いる。
途中にフレーズの休止があるが、タンバリンが背後で鳴っているので、それも4分音符「ちっ」で併記する。

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 とんたんたんてんとんたんとん。(ちっちっ。)
 とん・(8分休符・)とんとんてんたんてん・(8分休符・)てんてん。 (後略、最後の小節に残り4分音符2つで次のフレーズの弱起に相当する)
上記フレーズのカナ表記におけるモーラの母音の広狭・前後 (roundness and backness) と、ノートの音高の上下とに、どれほど違和感を覚えるであろうか?
全体的に違和感を覚える人にとっては、この理論によって付けられる歌詞が好まれないかもしれない。
音高の上下にきっちりと対応した母音の広狭・前後の歌詞は、3種の母音のみの場合にこのように表現されるので、私であっても些細な違和感を覚えながら、記した。

もう少し私の感性や記憶が定着させた印象に近づけて記したものも、載せてみる。
 とんたんてんたんとんたんとん。(ちっちっ。)
 たん・(8分休符)・たんとんてんたんてん・(8分休符・)てんてん



2017年3月10日に、私は「『街の子』をイメージした楽曲2つ」という動画を投稿した。
http://www.youtube.com/watch?v=A_93d_RwunQ
「交差点」という名の楽曲は、そこでの2曲目として公開された。
「交差点」はAメロ・Bメロ・サビでワンコーラス分を構成し、それで終わる、短めの楽曲である。
その楽曲のための作詞を、2018年12月2日に行った。

「交差点」のための歌詞は、韻 (rhymes) の踏み方・押韻 (rhyming) を何通りか持っている。

当該楽曲が"街女人・つじさゆり"のテーマでもあるので、その人物キャラクターに由来する特徴づけがあることよる押韻がある。
いわばキャラソンの役割が兼ねられており、「う」や「い」のような狭母音の頻度が高いことによる"街女人・つじさゆり"の身の上に感じられる「不自由・抑圧」のような印象を与える。
「その昼 sonohiru、下がり sagari、わたし watashi」
「傾く katamuku、日差し hizashi、見たり mitari」
「道行く michiyuku、つかり tsukari、ぱたり patari」

「う(円唇)・い(非円唇)」は、共に狭母音であるとしても、西洋言語発音にならえば円唇・非円唇の相違性=唇の円さの動きが典型的に現れる音であるため、個性的である。
ただし、日本語の言語の音声としては、先述の通り、「う」の音の唇の円さが中性的である。
声楽の人は、はっきりと西洋流に円唇発音にすると思われる。
そのような「う」と「い」との違いは、唇の円さを意識しながら発音をして自ら確認するとよい。
「交差点」歌詞で、「う」と「い」との押韻が多いことも、私がその意識から作詞しているためである。
この日本語が合うポップス楽曲に西洋言語発音が望ましいか、好みが分かれそうだが、それについても各々の主観性で判断するとよい。

また、人名"さゆり"に関連づけて歌詞のフレーズの語末モーラが「-り -ri」に占められる場合が多い(e.g. 見たり mitari、つかりぱたり tsukari-patari、ぴたり止まり pitari-tomari、そうゆらり souyurari; so'oyurari)。

サビは、いくらか長いノート(音符)や休みのある部分(楽譜で休符が伴う部分)が「-お -o」のモーラで終えられる。
言語上の韻ばかりを示しても本題とかみ合わないので、その脚韻あるモーラ相当の音楽のノートが、前のノートと比べてピッチ・音高もとい半音 (semitone, key) がいくつ上がったか・下がったかを併記する。
「今日も kyo'omo (moは符点2分音符・上2半音)」
次のフレーズまでに「また mata」、「行く yuku」があるが、広母音や狭母音モーラでそれぞれ揃えられている。
「ひごろ higoro (roは符点2分音符・上1半音)」
「何がどこで起きても nanigadokode'okitemo (moは4分音符・上2半音、次に8分休符。途中のdoは符点4分音符で少し長い)」
「私は私だけずっと watashiwawatashidakezutto (早口。toは符点8分音符・上2半音、次に8分休符)」

以下は、尾母音が先にある (-ino, -eno) 2モーラ分の押韻となる。
「道の michino (noは符点4分音符・上2半音)」
「すみの sumino (noは全音符・下4半音、次に2分休符)」
「誰の dareno (noは2分音符・上1半音、次に4分休符)
「求めの motomeno (noは4分音符・上9半音、次に8分音符)」



2017年4月24日に、私は「心が弾むハードコア・パンク系の自作曲・オリジナル曲 (3曲)」という動画を投稿した。
http://www.youtube.com/watch?v=nDxFB6IWhUw
名称が付けられていない一楽曲(後に「ハレマジェット」)は、そこでの2曲目として公開された。
それはAメロ・Bメロ・サビでワンコーラス分を構成し、アウトロのギターソロの後で終わる、短めの楽曲である。
その楽曲のための作詞は、2017年4月中、部分的であれ、既に行われていたろう(cf. 2017年4月23日にその楽曲が先行公開された動画の内容に歌詞の一部分が表示される)。

頭韻などを試した。
1番Aメロの各句の頭がi-a-i 「日差し hizashi」、「ひかり hikari」である。
その歌詞のモーラの母音が狭い→広い→狭い (i-a-i) という動きが、音階のうちのノートの低い→高い→低い(下げ→上げ→下げ)に対応している。

閲するに、当該楽曲はほとんどC5 (楽器チューニング基準音を440 Hz = C4 AまたはA4とすればそれよりも高い) の音域で発せられており、「ソプラノ soprano」級である。
最も高いところでは、C6 G (G6, 88鍵ピアノで2番目に高いソの音)に達している(歌詞では「吹き消すの」の「け ke」)。
C4, C5, C6という時のCとは、国際的な基準の代表的な一種による。88鍵ピアノで1番目のC = ド、和名ハによってC1を呼び、そのオクターブ相当のCは"C1 C"である。4番目のCが有る領域のCは"C4 C"であっていわゆる中央ハ (Middle C) である。私が主に用いるMIDIシーケンサーのソフトでこの音程・音高・キーの呼称が用いられているので2012年以降の私も認識を同じくする。この方式ではC-1 Cが0番目と数えられ、中央ハ = C4 Cは60番目、チューニング基準音の440 Hz = C4 Aは69番目となる。MIDIでの最高部が127番目でC9 Gである。cf. wp:Scientific pitch notaton
これをその音域のままに言語発音で歌うことは、成年の人々のうちでも女性歌手、特にプロのソプラノ歌手でないと困難であろう。成年男性である私は、1オクターブ下げないと(オク下でないと)歌えない(DAWソフトなどでピッチ調整をすれば別の話。それではUTAUのような音声合成ソフトの音源も作れる)。
そもそも男女問わず人間の言語音声をPraatで色々と見直すと、そのピッチは普通の状況で70 ~ 300 Hzのみが現れている。女声の楽曲でさえそのフレーズは、高音を意図しないで作曲された場合に400 Hz (C4 A = 440 Hzの場合にC4 G相当の高さ) を超すことがあまり無いことも、個人的な調査で分かった(オペラとかのシーンは専門外なので調べないが一応C6領域は有り得るそう)。もう少し手持ちの音声ファイルを調べると、某百合系ボイスドラマ作品のアテレコと思しき音声リストのうちで女児を想定したキャラクターの言語音声から、600 Hz以上が頻繁に観測された。想像上の女児(作中での年齢設定はともかく口リ系)でもあれ実在の女児でもあれ、500 Hz以上 (cf. C5 C = 約523.25 Hz) の言語発音は有り得ることも付記する。この後、喘ぎ声(嬌声)を調べたが、言語音声と関係が無いのでさしおく。
vowel vowels identify identifying identified cognition 母音 識別 認知

そこで言いたいことがあるが、このような(C6以上)高い音域になると、人間の耳では母音ごとの区別が不明確になるであろう。
当記事の理論の例外事項として、このことが考慮されるべきである。
当該楽曲の歌詞に話題を戻そう。

サビの歌いだしはBメロの末から弱起として始まり、「晴れ時々雨の日には」という歌詞である。
「はれと(弱起)き↑(小節の頭)どき、あめの(弱起)ひ↑(小節の頭)には…」と書き直す。
「とき"toki", のひ"nohi"」の両者が「お o」モーラから連なる「い i」モーラが突きあがるような音高で発せられている。
音高が高いのに「い」の音=狭い音・狭母音が用いられているが、聴いた感じでは違和感が無い。
なぜであろうか?
それは、「い」の音が狭母音であると同時に前舌母音 (front vowel) であってフォルマントの見方におけるF2が高い周波数で発せられており、ボーカルフレーズのノートが前のノートよりも高いとしても共鳴するようであると言える。
cf. 先の表"average vowel formants" F1 = 240 Hz, F2 = 2400 Hz (差異 2160 Hz)
「い」のみならず、同じ前舌母音の「え e」の音についても高低を選ばず使える側面があると思われる。
しかしまた、同じ前舌母音だからといっても、口の広狭が広いほどF2の周波数の値は下がっている(F1との差異が中和されている e.g. [e] 差1910Hz, [i] 差2160Hz)という、別の側面もある。



種々に検討すると、たとえ日本語では微細な区別なき「あ a」の音(外来語のためのア段カナの原語は多用な異なる発音。アメリカ英語のGA発音だけでもア段カナに対応する4種類の音素 /æ, ʌ, ɑ, ə/ の区別がある)であっても、歌詞発音のためには舌の前後・唇の円さといった区別を駆使する必要があるかもしれない。
すなわち、一般的に非円唇中舌広母音 [ä] である「あ」も、前後のノート音高の相対性により、低音としての「あ」を非円唇後舌広母音 [ɑ] にしたり、高音としての「あ」を非円唇前舌広母音 [a] にするといった、音高に「あ」を相似させるための弁別と発音訓練とである。

当記事の理論の高度な実現のためには、日本語歌詞の歌い手(歌手)にも高度な発音の知識と技術とが要求されよう。
ただし、基本的には「あ・い・う・え・お」の5母音の音素 (phoneme) と識別される現代日本語発音で検証されるべきである。



●外国語へ楽語共調理論を応用することの是非

外国語へ楽語共調理論を応用することは、それも日本語との差異を考慮しつつ、おおよそ同じように説明が可能であろう。
この理論に関連する日本語との差異とは、既述の通り、音素 (phoneme) として弁別される母音の数が日本語の「あ・い・う・え・お」という5母音よりも明確に多い言語や、4母音(4種類の母音)よりも少ない言語(e.g. 古典標準アラビア語 3母音 /a/, /i/, /u/ および長母音)がある。
当記事では、主な要素を詳述しないでおくが、今までの話題と関連する事柄から一つだけ説明しよう。

当記事ではしばしば「弱起 (Auftakt; anacrusis)」という音楽用語を用いてきた。
過去記事で説明済みなので、2種類の語義をそこで参照するとよい。
2種類の語義とは、音楽用語としての弱起と、それよりも古い時代からある韻律論としての弱起とである。
「強勢 (ストレス stress) としてのアクセント (accent)」を持つ言語のうち、教会ラテン語(Ecclesiastical Latin 俗ラテン語 Vulgar Latin)・イタリア語・スペイン語といった語中でアクセントが出やすい言語において、韻律論における語義を発揮し得るように感じる。
3音節語の1音節目はほぼ必ず「強勢としてのアクセント」が伴わない。
1音節目が母音のみである場合は、イタリア語"opera"がオペラやオペーラではなくオーペラとなるように1音節目に強勢としてのアクセント(+長母音化)がある。古典ラテン語でも"opera (女性単数の名詞。opusという男性名詞の複数形の方ではない)"は1音節目にアクセントがあるとしてWiktionary英語版に載っている。古典ラテン語アクセントについてしばしば「3音節以上の単語は1音節目が長母音(韻律論の観点では長音節"long syllable"・重い音節"heavy syllable; 梵語 guru"でもある)で2音節目が短母音(韻律論の観点では短音節"short syllable"・重い音節"light syllable; 梵語 laghu"でもある)であればそこにアクセントが付与される」といった説明がされるが、これは短母音のみで構成されているにもかかわらず、1音節目にアクセントがあるというか?

私が作詞した"Dominus Immensus"は古典ラテン語だが、そのサビの歌い出しを例示しよう(ラテン語歌詞サビは音声として2019年3月現在は未発表なので動画の改訂版を待つこと)。
それは"Immensa phaenomena sunt"であり、"Im-"は音楽用語としての弱起部分となり、"-me-"は1小節目についた主音 (tonic) となる。
the anacrusis notes "I-" = F (ファ), "-m-" = G# (ソのシャープ),
the tonic note "-me-" = A# (ラのシャープ、なおAメロ歌い出しの"dominus..."も同じ音のオクターブ違い)
インメ~エンサ~、パエノメナ、スント。
しかしまた、これが韻律論としての弱起でもある。
言語学的に、古典ラテン語でも教会ラテン語でも、"immensa (男性形: immensus)"の語は、"-me-"という2音節目にアクセント(古典ラテン語のアクセントはストレス強勢かピッチ高低か学問的に未決だがどちらでもよい)があるという。
"Im-"は閉音節1つであるが、それを構成する2つのノートは、次の"-me-"主音ノートのピッチよりも低いので、音高の上下としては下から上へ(低から高へ)と推移している。
また、狭母音と鼻音(日本語学で言う撥音)の構成から、中央母音(中母音 mid vowel)へと推移している。
"Dominus Immensus"は、そのボーカルフレーズにおいて原典の障礙尊者自説偈の梵語であれ、後の古典ラテン語歌詞であれ、"-me- (-mē-)"の長母音(韻律論の観点では長音節"long syllable"・重い音節"heavy syllable; 梵語 guru"でもある)発音が、心地よいものと、私は感じている。

このような具合で小節の主音であるノートを発音する音節主音・母音は、弱起の時のよりも広めの母音が良く、強勢としてのアクセントを有する言語であれば、そこにアクセントが置かれるようであると、心地よいようなことが有り得る。
改めてこの理論について注意すると、先にメロディアスな(キャッチーな)ボーカルフレーズが作られている場合に後から歌詞を付与することが、理論の適用対象として望ましい。
それに加えて、この理論の科学的合理性で論じられた「主観的な美醜・善悪」を逆利用して「意外性・滑稽さ」というものを表現することも構わない。






起草日: 2019年3月16日

関連する投稿
2018年11月29日: モーラ発音の日本語の高低アクセントと音節発音の英語の抑揚を比較する
https://www.youtube.com/watch?v=fC70wNfVZn4

2018年12月5日: MIDIピッチベンドで音楽の周波数を調整するための数式 (440 → 432 Hzでの例)
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/12/MIDI-pitch-bend-frequency-calculation.html



主観性ということを私は主張したが、この自覚には、社会科学の統計のような手法以外にも心理学のような発想で認知プロセスが自覚される必要がある。
また、認知プロセスの自覚のためには、先に物質的な存在について解明される必要がある。
そうでなければ「この曲or絵は人(私or他人or民衆)が良いと思うから(by myself; itself, themself; themselves)良いんだ」という簡単な循環論法を了承できる。
そして、世間の人が各々の価値観によって美醜 (good-and-bad) や善悪 (good-and-evil) などを分別して他の見解を排除するようなことは、この限りであると、私は懐疑的に捉えている。

音楽や美術の作品は、現に聴いたり見たりできるものである。
よって、認知プロセスや主観性を人間が自覚するために、物質的な存在についての深い理解が必要だ、という前提がある。
ちょうど、過去に私が宗教学で得た知見と同じであろう。
宗教の教義は、特に仏教やキリスト教で、多くの譬喩(比喩)・たとえ話・メタファーが用いられる。
ここでは、アヴァダーナといわれる人物同士の物語(ストーリー)による譬喩ではなく、自然界の事物・物質的な存在の道理を用いた譬喩を指す。

私がすぐに思い浮かべる例は、仏教にある「琴(vīṇā 弦楽器の一種)の弦を張るとき、固すぎても緩すぎても良い音色が出るようにならない。ちょうどよい張り方(不急不緩)で良い音色が鳴る」という譬喩である。
パーリ語仏典では経蔵・増支部6.55経"Soṇasutta"にあり、漢訳仏典では中阿含経123経「沙門二十億経(CBETAから引用)」などにある。
これは琴を奏でることのできる人物「二十億 (パーリ名はソーナ soṇa) という名の沙門」のために釈尊(仏さま・ブッダ)が説かれた譬喩であり、琴の音色の良し悪しはいくらか客観性に準じている。
いわゆる調律、チューニング (tuning)には、音の周波数 ** Hzとして数学的に解明できる音階の道理を知っても知らなくても、音階のバランスのための適切な弦の張り方をせねばならない。音色の良し悪しは主観性によるとしても、数学的に音の周波数の関係性(ピアノならば中央のラ音が440 Hzの時に1オクターブ高低は880 Hz, 220 Hzという等倍・等分である)は言えるので、「科学的な意味で客観的(共通主観性の範疇)」である。

これが「琴の弦と同じく、修行者はその人の相対性における厳しすぎる修行(原語では精進 vīriya)を始めても易しすぎる修行を始めても良い結果が得られない。あなたはあなたの相対性でちょうどよい修行を…」という、人の精神の主観性のための譬喩に用いられている。
これは当然、仏道修行の心得を説いたものであって、私が芸術理論のモットーのように用いることはおこがましい。
琴の譬喩(琴のたとえ)の漢訳仏典には、やはり仏道の目的性とその果報が示されている。その人物「二十億(ソーナ)という名の沙門」は悟りの後に「色聲香味 身觸亦然 愛不愛法 不能動心 (見た目・音声・香り・味・手触りなどで欲望や憤怒などを起こす事物は私の心を動かすことができない)」という頌(じゅ、うた)を唱えている。額面的に、美術や音楽といった芸術の目的性とは正反対である。逆説的に、「戦争と平和」のごとく表裏一体であろう。

“Taṃ kiṃ maññasi, soṇa, kusalo tvaṃ pubbe agāriyabhūto vīṇāya tantissare”ti?
“Evaṃ, bhante”.
世尊告曰:「沙門!我今問汝,隨所解答。於意云何?汝在家時,善調彈琴,琴隨歌音,歌隨琴音耶?」
尊者沙門二十億白曰:「如是。世尊!」

“Taṃ kiṃ maññasi, soṇa, yadā te vīṇāya tantiyo accāyatā honti, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti kammaññā vā”ti?
“No hetaṃ, bhante”.
世尊復問:「於意云何?若彈琴絃急,為有和音可愛樂耶?」
沙門答曰:「不也。世尊!」

“Taṃ kiṃ maññasi, soṇa, yadā te vīṇāya tantiyo atisithilā honti, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti kammaññā vā”ti?
“No hetaṃ, bhante”.
世尊復問:「於意云何?若彈琴絃緩,為有和音可愛樂耶?」
沙門答曰:「不也。世尊!」

“Yadā pana te, soṇa, vīṇāya tantiyo na accāyatā honti nātisithilā same guṇe patiṭṭhitā, api nu te vīṇā tasmiṃ samaye saravatī vā hoti kammaññā vā”ti?
Evaṃ, bhante”.
世尊復問:「於意云何?若彈琴調絃不急不緩,適得其中,為有和音可愛樂耶?」
沙門答曰:「如是。世尊!」

“Evamevaṃ kho, soṇa, accāraddhavīriyaṃ uddhaccāya saṃvattati, atisithilavīriyaṃ kosajjāya saṃvattati. Tasmātiha tvaṃ, soṇa, vīriyasamathaṃ adhiṭṭhaha, indriyānañca samataṃ paṭivijjha, tattha ca nimittaṃ gaṇhāhī”ti.
世尊告曰:「如是。沙門!極大精進,令心調亂;不極精進,令心懈怠。是故汝當分別此時,觀察此相,莫得放逸。」

一応、私にとって発想の原点が宗教学にあることを知られたい。
たとえ自然科学分野であっても、精神性からのインスピレーションが偉大な発見や発明に繋がるという事例(逸話)が科学史に種々求められることも、比較参照するとよい。

私が美術や音楽の「主観的な美醜」を解明するならば、先に客観性を考究したほうが良いことは、宗教教義や教説から得た一つの学問前提である。
今後も、この方面で多角的な研究が進められるとよい。
美術関係では「二次三次相対互換の理論」の客観性の側面による考察(当該記事追記欄を参照)を望んでいる。

これら、「主観的な美醜」に先立つ客観性を認知して、クリエイターたちが作品を作るならば、現時点の人類の共通主観性に広く適合した作品になる。
しかし、いつかは定式化する、マンネリ化する、慢性化する、形骸化する事態がある。
柔軟な者たちは、事前に察知して予防し、新しい可能性の開拓にも繋げてゆく。

少し芸術(音楽・美術)の歴史を振り返ってみよう。
19世紀後半から第二次世界大戦の開戦前まで、西洋美術においては写実性から遠ざかる流行 (impressionism?) や、感情表現の濃い画風 (expressionism?) が強まった。
第二次世界大戦の後、一部の西洋人は「楽器と聴衆を目の前にしながら演奏しない音楽」や「作品の掲示されない展覧会」といった「空虚さ・虚無の美」についての実験的な (experimental) 芸術を行った。
または、観る者と作る者とが一緒にいて実演されてこそ作品であるとする思想(パフォーマンス系 performance)の音楽や美術が構想されていた。

私は、それらも認知したうえで、現時における通念上の理想的な音楽や美術を追及している。
簡明な例は、キャッチーなメロディーに心を弾ませるリズムの楽曲や、美麗な風景に美少女のような人物がいる絵画である。
これは私個人の童心にも関わることであるから、当然、世代や人種や経済層(貧富)などの違いでいくらでも好き嫌いを分かつ結果がある。
世間のうちでは、「流行とそれに対する便乗」のような精神性による美醜・善悪の価値判断さえ有り得て、それも主観性のうちではあろう。
しかし、そういう社会的状況の一例を除き、人間史である程度普遍性のある「共通主観性」を説明することができる。
「私が良い(美い・善い)と感じるもの(何ものたりえる可能性のある事物、それだけではゼロ・空虚な存在 object)」に、どれほど人類で普遍的に良いと感じ得る特徴を見出せるか、追求してゆこう。

認知プロセスと認知客体に関しては、他にも五何法(十如是)の説などが私にとって印象深くあった。
萌えの典籍「注三萌義(段・十如是)」も参照されたい。
唯仏如来知一切法"sarvadharmānapi tathāgata eva jānāti"。①何等法"ye ca te dharmāḥ" ②云何法"yathā ca te dharmāḥ" ③何似法"yādṛśāśca te dharmāḥ" ④何相法"yallakṣaṇāśca te dharmāḥ" ⑤何体法"yatsvabhāvāśca te dharmāḥ"。
①~⑤→何等 云何 何似 何相 何体"ye, yathā, yādṛśā, yallakṣaṇā, yatsvabhāvā"。



追記
2020年3月11日に『楽語共調理論の拡大, 反対の仮想–反例, 自己反証』という続編の記事を投稿した。


2019年4月1日月曜日

2019年3月中の日記メモ


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2019/03/01

2019年3月1日8時41分撮影、弟の部屋の机の様子

2019年3月1日8時43分撮影、弟の部屋にあったASUS 新品のパソコン(裏面を撮影)
本日3月1日は寝ていない状態で日を越して至る。0時以降、「本日に特別支援学校高等部の卒業式に出席する予定である弟」が幾度と1階に降りて「洗面所の洗面台に至って静止の後に水を流すことだけをして2階に戻る奇怪な行動」がされていた。2時台に彼がそれをした際、母親が弟に声を掛けたり、母親が1階に降りて来るなどもあった。3時2分にも弟がその「...奇怪な行動」をした。3時57分にPCをシャットダウンして就寝し、7時49分に起床した。8時18分に母親が発車して外出した。10時17分から衣類の洗濯と風呂(シャワシャン)の準備を始め、12時19分に自室へ帰った。以後にもタオル類や座布団に用いる枕のカバーの洗濯などをした。13時41分から便意のためにトイレへ入り、2つの長めのものを排出した。

14時40分に母親の車が弟を伴って家の前に着いた。15時9分に再び母親が発車して外出した。弟は風呂場にいる時も、そこを15時10分台に出て以後も、意味不明な独り言を発し続けていた。「ジョーシキ」とか「彼女(カノジョ cf. 2018/12/09日記メモ)は嫌いですが女の子と仲良くすることは好きです」とかと、彼は言っていた。17時1分からも便意のためにトイレへ入り、2つの中サイズのものを排出した。18時41分からも便意のためにトイレへ入り、1つずつに小・長サイズのものを排出した。前月(2月)中は9日以上の便秘が2度(1度目は1月中から数えて12日間、2度目は10日間)あったが、一転して2月27日から連日排便がされているどころか、本日は異様に回数が多い。けだしカフェインパワーの為す所(所為)である。

19時0分に母親の車が家の前に着いた。しばらく私が母親の指示で荷物を運んだ後、母親が弟に続きをさせた。弟の荷物の取り扱いのために母親が苛立って彼らに一悶着があった。弟は今年の中でも特に無駄口が多く、それによって彼自身の行為の問題性を粉飾しようとするので、母親からすぐに反撃を食らっていた。一応、この後に母親が弟に「薬飲んだ?(弟が飲んでいる抗精神病薬リスパダールのこと)」ときいて彼が肯定していたので、服薬は継続されているようである。20時38分からも便意のためにトイレへ入り、5個の中・長サイズのものを排出した。



2019/03/02

本日3月2日は3時13分にPCをシャットダウンして就寝し、14時39分に起床した。本日は15時台や17時台に母親が弟を叱るような出来事があった。卒業した後の衣類や靴の、洗濯・掃除に関することである。1度目は簡単な注意だけだったが、別件である2度目はとても長引いていた(17時33分現在で30分以上)。



2019/03/03

本日3月3日は寝ていない状態で日を越して至る。1時20分台に自室で下痢チョビ漏らしが発生した。0時台後半に私が生肉を加熱して食べた10分以内に大腸の違和感を覚えていたが、その関連であろう。この下痢チョビ漏らしの被害範囲は、その水っぽさにより姿勢がパンツとズボンとに緩みの空間があってもパンツのみならずズボンに少し及んでいた(ズボン布地・生地の見た目で確認できず強めの臭いから判断される)。4時9分から便意のためにトイレへ入り、まず中サイズのもの1つを排出した。これを排出する際に硬さを感じていたが、見た目はクリーム状のものをほどほどに固めたようであってU字状に曲がっているし、臭いが下痢の時のものと同じである。その後も軟便などを排出した。10時49分からも便意のためにトイレへ入り、2つの小・中サイズのものを排出した。15時13分からPCをシャットダウンして就寝し、21時27分に起床した。



2019/03/04


本日3月4日は寝ていない状態で日を越して至る。前日の4時台後半に弟が1階に降りて1階リビングのテレビを付けて炊飯をしていたが、本日は3時28分に弟が1階に降りて1階リビングのテレビを付けて炊飯をした。5時20分過ぎから風呂の行為を始めた彼は、給湯パネルの温度を44度(参考:筆者は冬期に39度か40度)にしていた。特別支援学校卒業後の余暇とはいえ、彼があまり放逸になる(羽目を外しすぎる)と、私にとって懸念が増える。そもそも夜は早めに寝る(19・20時ころ?)彼の習慣は今や無意味なので、彼の就寝時刻が3時間遅くシフトした方がよい。

13時40分に母親からのメールを受信した。「風呂場と洗濯機置き場の窓はそれぞれ10cmだけ開けてください。窓が20cmほど開いていたので、私の足ふきマットが雨で濡れてしまいました。(全角英数字など原文ママで引用。この種の話題は先月=2019年2月中にも口頭でされていた)」と書いてある。直後に、私は母親に口頭で「それは本日5時台に風呂に入っていた弟が行ったことだ」という説明をした。もし弟が母の忠告を受けて注意するようにならなければ、今後も同じ事態が繰り返されるであろうし、弟が家で別の色々な問題を起こし得る。母親はすぐに、洗濯物の状況(ウルトラマンのパンツ云々)を回想して私の説明に納得した。次に母親が、私が洗濯物を出さないでいるのではないかという別の話題を切り出してきたが、当然、2018年10月の一件(同月20日・23日メモを参照)からほとんど私は洗濯物を出していないし、当時に私から宣言のメールを送信していたのにそれを忘れたか要領を得なかったか?子供を精神的自立ある人間として見ることのできない、そういう教育も自発的にできなかった・精神的に子供じみた「ニセ親(偽親)」には難しいことである。10時台に外出していた弟が14時38分に帰宅し、母親から色々と詰問され・叱られた彼である。



2019/03/05

本日3月5日は6時30分にPCをシャットダウンして就寝し、14時30分台に起床した。17時29分、外出中の母親が弟の携帯電話から私に通話してきた。2階バルコニー(ベランダ)の洗濯物を取り込む指示だったが、例の通り、通話環境という接続状態(彼らの格安スマホが原因)が酷いように感じる。母親が「電車の中にいる」ということが、その原因の原因というわけではない。17時39分に母親が再び同じように通話してきた。指示内容を実行したことを私は伝えた。母親の自室にあるメモを見ると、母親と弟はどうも、犬山駅で下車して犬山市役所(障害者福祉関係のYouTube動画投稿者として影の有名人である某敏伸さんが2015年以前に務めていたが関係は無いか)に行ったり、東岡崎駅で下車する予定であった。20時45分に彼らが帰宅した。



2019/03/06

本日3月6日は6時3分にPCをシャットダウンして就寝し、10時40分に一度起床したが再び就寝し、16時28分に起床した。



2019/03/07

本日3月7日は寝ていない状態で日を越して至る。1時21分から弟が1階に降りてリビングに入り、テレビを付けて居座り始めたが、彼は1時32分に2階に戻った。2時15分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、3時57分に自室へ帰った。6時27分からPCをシャットダウンして就寝し、14時台に一度起床したが再び就寝した。母親の不興を蒙り、母親がグチグチ小言*をしていたことに関して詳述しない(どうしてとかいう疑問形の言葉もただ情緒的に用いられたものであって答えるだけ火に油を注ぐことになる)。17時台に一度起床したが再び就寝して考え事をしたが、その際に母親が部屋のふすまをノックして私を呼んでも私は反応を見せず、1時間以内に入眠し、21時51分に起床した。



2019/03/08

2019年3月8日12時18分に撮影された「2019年3月1日8時41分に撮影された写真に写る同一ノート同一ページ」

本日3月8日は6時24分にPCをシャットダウンして就寝し、11時40分に起床した。11時45分に母親が発車して外出した。18時29分から便意のためにトイレへ入り、長い一本糞を排出した。18時57分に母親の車が家の前に着いた。



2019/03/10

本日3月10日は寝ていない状態で日を越して至る。1時台、2階で母親と弟のやり取りが有った。弟は夜は早く寝る人物であって今は夜中に目覚めている状態であろうが、そのまま2時28分から猫の呻き声が聴こえ始めた。今年で初めてである。春・求愛の時期などは多くの動物が似た傾向(cf. 前の家でのキジの鳴き声)を持つ。今回は「うぅ~(喉を鳴らすような声。人間ならば口蓋垂・咽頭系の音"uvular, pharyngeal"のようなもの)」と発せられるように怒りの系統である。大概、怒りの系統の猫の呻き声は一匹のみでいる時にされず、その喧嘩相手(対立・対峙する者)らしい他の猫(ネコ・ねこ)がいる。そう思うと、やはり、もっと高い声色(ピッチ・トーン)の猫の声が聴こえてきた。両者の音声は重なったりもする。8時34分からPCをシャットダウンして就寝し、16時38分に起床した。



2019/03/11

本日3月11日は寝ていない状態で日を越して至る。4時1分から便意のためにトイレへ入り、2つの中サイズのものを排出した。11時44分から弟を連れて母親が発車して外出した。私は直後に「ゴミ集積場の様子見(ゴミ無き現場にスズメ3羽とカラス1羽がいた)」をして屋内に戻り、11時49分から衣類の洗濯と風呂(シャワシャン)の準備を始め、13時29分に自室へ帰った。15時30分台に弟が母親に関して「オコリンボ」云々と狂気まじりに不満げに言いながら帰宅した。


16時5分ころからWin10機ノートPCのファンの回転音が強まることに異常さを感じたのでタスクマネージャーを開こうとすると、それは開かれない。SpeedFan (speedfan.exe)も同様である。5分以内にPC上で種々操作をしてみたが、反応するプロセスとそうでないものとが色々あるので詳述しない。サインアウトなどの操作をしようにもスタートメニューの関連項目が開かれない。Ctrl + Alt + Delによって表示される画面は正常だが、その画面からもタスクマネージャーは開かれないし、その画面からPCのサインアウトを行おうとすると、黒い画面「戻って作業を保存するには、[キャンセル] をクリックして、必要な操作を行います。」に「強制サインアウト」のためのボタンが機能しない空欄状態となっていて、[キャンセル] の方でさえもクリックに反応が無い。物理キーでのスリープと、そこからの立ち上げをしても、この画面に変化が無い。物理キーでの強制シャットダウンをした後、10分ほど待ってから起動すると、時間はかかっても普通に起動された。なお、当該PCは先の風呂(シャワシャン)時間を跨ぐ間のスリープ以外の24時間近くに起動されたままでいる。

17時19分からPCをシャットダウンし、就寝するようなしないような状態の後、17時41分に母親の車が家の前に着いた。私が24時間以上、覚醒状態にあることは今年で2度目かと思う(緩急自在型に切り替えた2018年以降の特徴。その側面として今年は10時間以上眠る日も多い)。18時までに就寝し、23時1分に起床した。16時台の件により、このPCのIMEの予測変換データはリセットされているので、「に起床した。」という日記メモにおける定型フレーズが出ない。



2019/03/12

本日3月12日は11時19分にPCをシャットダウンして就寝し、20時12分に起床した。



2019/03/13

本日3月13日は13時54分にPCをシャットダウンして就寝し、23時7分に起床した。ちなみに、私は前日も本日も、就寝~起床の間の睡眠が、2度以上の覚醒で分断されることがあった。本日の一例としては19時10分台であり、その時は一度、顔を洗うなどした(排尿のトイレはしなかったと覚えている)。



2019/03/14

本日3月14日は寝ていない状態で日を越して至る。1時台から母親が1階に降りてリビングに入り、そのテレビを付けて居座り始めた。2時台後半、母親としては珍しく深夜アニメを見ている様子(cf. 2018年12月・弟の例)が、自室へ流入する音声から確認された(母親の場合は個人的に初確認)。3時6分に母親が2階へ戻った。3時59分から私はゴミ出しの外出をした。前々日・前日・本日の弟は「その前日の20時から当日の7時ころまで動向が無い」という珍しい状態である。12時24分にPCをシャットダウンして就寝し、19時44分に起床した。母親と弟は徒歩で外出中のようである。22時44分に彼らが帰宅した。その際は彼ら2人も機嫌を損ねて喧嘩気味である(母: 薬飲まないとだめだわ←ゼロ化した主語は「弟たる彼、あなた」)。



2019/03/15

本日3月15日は寝ていない状態で日を越して至る。8時過ぎから弟が外出した際、彼を呼び止めようとした母親の声は彼に届かなかった。



2019/03/16

本日3月16日は前日14時11分にPCをシャットダウンして就寝し、それから0時44分に起床した。2時54分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、4時56分に自室へ帰った。6時34分から便意のためにトイレへ入り、長めの一本糞を排出した。7時53分に弟が1階リビングのテレビを付けて1分以内に2階へ戻った。8時13分から弟が玄関ドアからの出入りを1度してから外出した。8時19分から私は腹痛を伴った便意のためにトイレへ入り、多めの軟便を排出した。11時42分からも便意のためにトイレへ入り、多めの中・長サイズのものを排出した。弟は15時台後半に帰宅した。18時0分ころ、1階リビングで母親と弟がいるときに、「言っておきたいことメール(cf. 過去メモ・言っておくこと)」を弟が母親に送っているという彼らの会話を私は聞いた。慄然とする思いである。



2019/03/17

本日3月17日は前日18時42分にPCをシャットダウンして就寝し、1時41分に起床した。起床時、母親は既に寝ていたが、弟はずっと彼の自室で物音を立て続けており、2時43分になって彼が1階へ降りた。母親は10時台から1階に降りてリビングに居座り、12時42分に「庭掃除(草むしり・草刈り)」を13時台から始めるというメールを私に送信した。



2019/03/18

本日3月18日は前日18時32分にPCをシャットダウンして就寝し、1:20のアラームが鳴る前から目覚めており、アラームが鳴った際はその1分以内に起床した。前日の私は、「そろそろ夜昼逆転とその維持状態をしてもよかろう」とも考えていたので、本日はこのように、最近に稀な起床の仕方となっている。6時20分台から母親が弟に話しかけるなど動き出し、本日に彼らが何か外に用事を持っているようであった。無論、母親がそういう様子であっても弟だけが行うことも有り得る。母親が2日連続で屋外の活動をすることはここ1年以内で1度ほどである。7時57分から弟だけが徒歩で外出したが、その10分以内の母親の言葉によれば電車に乗る道のりである。弟の特別支援学校卒業後における彼らの動向からして、母親が弟をどこかへ通わせるように思えていたが、すでにそういう状態にあるかもしれない。この2週間以内に「定期券」という言葉が聞かれたことも、卒業に伴うものではなく新しい動向に関連するものであると考えることはできるが、現状は情報不足である。14時半ころに弟が帰宅し、再び母親と弟の会話(弟への指示)が聞かれてから15時1分に彼が外出した。16時16分に彼が帰宅し、再び母親と弟の会話(弟への指示)が聞かれてから16時21分に彼が外出した。16時37分に彼は薬局からの帰宅をした。

追記: 同月29日に私は、弟が社会福祉施設で就労継続支援B型を受けているという情報を得た。


2019/03/19

本日3月19日は前日17時21分にPCをシャットダウンして就寝し、1時10分に起床した。7時57分から前日と同じく弟が徒歩で外出した。



2019/03/20

本日3月20日は前日15時46分にPCをシャットダウンして就寝し、2時46分に起床した。前日23時台に自然に目覚めたことや、本日1時20分にアラームで目覚めたこともあるが、結果的に10時間以上の睡眠(就寝~起床の間に入眠と覚醒があるので今回に11時間を超したことは有り得ない)となった。12時6分から母親が発車して外出した。12時40分からタオルケット1枚のために洗濯機を作動し、12時44分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、14時10分に自室へ帰った。15時49分に母親の車が家の前に着いた。14時50分台に帰宅していた弟は風呂に入ることが無かったが、おそらく事前に母親と約束があって母親の帰宅を待っていたようである。母親が大まかな荷物の整理・片づけをし終えて(その間は2人が弟の通う場所での弟の人間関係についての話をしていた)16時10分ころから、2人が徒歩で外出した。19時52分に弟が先に帰宅した。



2019/03/21

本日3月21日は前日20時0分頃にPCをシャットダウンして就寝し、1時44分に起床した。起床時には2階で母親がドライヤーを作動させ、弟が物音を立てていた。2時台・3時台に弟が3度、1階に降りた。それらの次は3時25分であり、彼が1階リビングに入ってテレビを付けて居座り始めた。



2019/03/22

本日3月22日は前日19時27分にPCをシャットダウンして就寝し、1:20のアラームに目覚めて1分以内に起床した。私は部屋を出て普段通りに水での顔洗いなどをしようとし、2階の母親の部屋は消灯されている(その照明は消えている)様子を見た。その後に2階の弟の部屋で荒い物音が立ち、その1分以内に弟が1階に降りてこようとした。私はいったん部屋に戻ると、彼は1階に降りて洗面所の水を使い、それで2階に戻らず、1階リビングのテレビを付けて居座り始めた。弟は10分ほどで2階に戻ったが(リビングのテーブルにおかれた茶碗と箸の意味は有るか無いか)、2時過ぎからは母親が2階で長トイレをする状態となった。6時38分から、それまで4時間ほど物音を立てていなかった弟が1階に降り、彼は5kg米袋を開封してから炊飯を始めた。



2019/03/23

本日3月23日は前日18時8分にPCをシャットダウンして就寝し、1:20のアラームに目覚めて1時44分に起床した。2時以降、弟の物音や独り言や1階での動きが甚だしくあり、3時台か4時台から彼が外出して5時台前半に帰る様子があった。6時46分から便意のためにトイレへ入り、中サイズのものを3つ排出した。本日も恐らく弟が8時前後から外出したろう、彼は15時前後に帰宅した。母親は11時~15時に1階リビングで過ごすことが2・3度あったものの、弟の帰宅から1時間以上が過ぎたころから、起きていていて動く様子を感じることができない。19時までに母親も弟も、彼らが取るべき夕食に関する動向を見せていない。



2019/03/24

本日3月24日は前日20時23分にPCをシャットダウンして就寝し、2時53分に起床した。19時台後半からPCをシャットダウンして押し入れに入らずに横臥し、仮眠を取って22時58分に起きた。それによっては眠気があまり除かれず、それ以前からの左脚(ふくらはぎ)の筋肉痛は悪化した印象である。



2019/03/25

本日3月25日は寝ていない状態で日を越して至る。11時40分ころから母親が車のための玄関出入りをしたり、玄関などの掃除をしたり、11時48分から車への水撒きをした。11時52分から母親が発車して外出した。12時33分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、14時3分に自室へ帰った。18時17分に母親の車が家の前に着いた。



2019/03/26

本日3月26日は前日18時26分にPCをシャットダウンして就寝し、1:20のアラームに目覚めて1時28分に起床した。



2019/03/27

本日3月27日は前日19時1分にPCをシャットダウンして就寝し、0時28分に起床した。



2019/03/28

本日3月28日は1時5分にPCをシャットダウンして就寝し、7時12分に起床した。



2019/03/29

本日3月29日は寝ていない状態で日を越して至る。1時38分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、3時14分に自室へ帰った。4時31分からPCをシャットダウンして就寝し、8時47分に起床した。13時41分から母親が数度に階段の上り下りや玄関の出入りをし、14時10分前から母親が徒歩で外出した。弟の部屋のドアノブに「16時30分にバルコニーの洗濯物を取り込むこと」の指示が書かれた紙が貼られている。14時29分、家の付近の様子が怪しいので確認すると、母親が車のドアを開閉していたらしく、車の中にいる。14時32分、まだ母親が車の中で何かをしている際、向かいT家の主人・娘・息子の3名が主人の車に乗ってすぐに出て行った。14時34分に母親が発車して外出した。14時57分、家の前にI家へ宅食の配達の車が来たタイミングで弟が家の前に着き、なぜか彼は郵便受け・ポストの開閉を3回ほど行った。16時39分から弟が1階に降りて何かした直後に2階で掃除機を作動し始めた。19時40分台に母親の車が家の前に着いた。



2019/03/30

本日3月30日は6時28分にPCをシャットダウンして就寝し、12時1分に起床した。14時前、母親が「〇ちゃんってコーヒー飲む?まえ渡したやつ残ってない?最近コーヒー買ってなくて切らしてるから、余ってるの欲しいんだけど」という段階を踏んだ質問をしてきた。母親が去年に私へ買い与えたコーヒーの小瓶1つは、既に空である。ちなみに、母親は前日の買い出し・買出しでイオンのトップバリュのティーバッグにして8袋のダージリン(茶葉産地か加工工場を示唆する原産国名表記はインド)2点を買っていた。その前の買出し=2018年3月20日には片岡物産のトワイニングスの非ティーバッグにして多めのレディグレイ(果皮も含まれる茶葉産地か加工工場を示唆する原産国名表記は中国。更に前も同様のアールグレイを買っていたがそれも中国)1点を買っていた(同時に緑茶である静岡県産茶葉も)。

15時54分に弟が帰宅した際、最近の彼に一度見られたように、彼は近所の公園に寄り道して留まっていたようであり、直後の母親との会話で「すまない、反省しているよ」というフレーズを反復していた。彼らの事情の仔細は不明だが取り合えず、このことを記録しておく。弟は特別支援学校に通っていた時、そういうことをしていなかったが、当時よりも帰宅が早くなっている現況で、今日は桜・さくら・サクラの花見でもしていたろうか?16時過ぎから、彼らの会話に怒気が加わったが、明確な喧嘩状態にならないでいる昨今、母親はきっと恐怖交じりでいるからこそ俄かに態度を荒げるのではないかと感じる。そう思うと、やはり母親は取り乱して大声で「黙れ!黙れ!」と、減らず口っぽい弟に向かって発した。16時40分台、弟が風呂を出て以後にも母親は2階で弟を叱ったりした。18時40分台に彼らが2階から降りて1階リビングに入ってからも、「トイレor洗面所の窓を開けておく(開放する)範囲の程度」などで母親が弟を叱ったり、弟が「こっちの話をきかない、なんて不幸な親なんだ」云々と悪態をついたりした。彼らは顕著に怒るわけでもなく(cf. 2018年8月26日の類聚8th)、夕食を経て弟が22時1分に2階へ行った。ここで母親がテレビを付けた。



2019/03/31

本日3月31日は寝ていない状態で日を越して至る。4時54分から便意のためにトイレへ入り、長い一本糞を排出した。6時53分からも便意のためにトイレへ入り、複数の中サイズのものを排出した。8時37分からも便意のためにトイレへ入り、3つの長めのものを排出した。10時38分からPCをシャットダウンして就寝し、13時41分に起床した。16時13分からも便意のためにトイレへ入り、長い一本糞を排出した。