2015年1月28日水曜日

口内の皮下にて内出血、大きな腫れ~自覚症状と医学的所見



1月23日23時頃、口内の微かな違和感から左の顎の付け根相当の位置に腫れを確認した為、未然に潰そうとしたが、僅かな血の味が広がって後、腫れ始めた。
写真では、比較ができるよう、健常な右側も写す配慮をした。
患部は毒々しい紫色に腫れているが、表皮は白っぽいことが見て取れる。
白という科学的根拠は、皮膚組織の本来の色であろうか。

口腔内の皮膚というものは赤く見えるのだが、これが血液の色ということに論を俟たない。
血管によりけり、静脈か何かで青や紫のような映え方もあるが、そういった血管と血液の要因を排除すれば、本来の色彩は白いと想像できる。
日光は当たらずメラニンが精製されにくいし、口内の湿潤した環境は瑞々しい。
絆創膏でふやけた皮膚などは、元々褐色の人でもおぞましく白化することはご存知の通り。

続いて、この腫れが毒々しい紫色をしている理由についてだ。
諸君も察しているだろうが、無論、血液の色彩が色濃く現れている。
静脈の血のような毒々しさ、否、静脈の血も実は言われるほど紫ではないそうだ。
とりあえず、細かな動静問答抜きに血液の色彩と判断ができる。
アザ等の内出血など、概して紫色であることも好例だからだ。

私は医者志望でもないからね。。。
人生の経験則、ごく普遍的な事象の理解が、判断のヒントになるとかはあるくらいで、確固たる知識や正確な答えにはならない。



腫瘍の状態など検分したので、次に行こう。
発生から状況の推移について説明する。

最上部の写真は1月24日0時半、腫れ始めてから1時間ほど経った頃に撮ったものだ。
そしてこの日は午前3時頃に寝たのであろうか。
起きた頃は僅かばかり膨らんでいた記憶と、殆ど萎んだ記憶に分かれる。
どちらにしても、この腫瘍を噛み潰すという悲劇に至らず済んだのだ。
これを噛み潰したら真っ先に多くの血が漏れて、後には未曾有の規模の大きさで口内炎が残り、数日ほど食事が困難、あるいは何も食べられないかもしれないことになろう。

この時思ったことは、「こいつを切除・・・すれば悲劇になるが、執刀に使うメス等が熱された刃の医療器具を用いることで、高熱で以て凝固せしめられるのではないか」と。
それは所謂「焼灼」という止血法である。
そしてこの思索は、腫瘍を気にする余り取り留めのないことを浮かべたに過ぎないのであった。

それから今、1月27日22時現在においては患部は表面的に治癒したように見える。
それは1月25日然り、26日も然りで、「腫れ」はその頃に引いていた。
だが、日を置くごとに食事がしづらく感じる。
患部に痛みとして沁みてくるこの感覚だが、これはご飯やラーメン、スープ類では起きず、シリアルや菓子等それなりの食感のある食品が噛まれた際に破片となって刺激するからである。
また、25日頃ではあくびなどの行為に伴う反応でしか痛みが起きず、意図的に大口を開いても痛みなどなかったのが、やはり上記時刻現在、少々大きく口を開けただけで痛む。

先述の「悲劇に伴う最悪の事態」を避けられたとしても、発生から数日の今尚、癒えきらないように思えてならない私であった。
寧ろ痛みを知覚する機会が増えていることから、痛覚上悪化している。
およそ来月に入るまでに完治するだろう・・・



後年の追記
当記事でいう皮下・皮膚とは、粘膜の何らかの構造の一部分のこと。
特に口腔粘膜のこと。
普通の皮膚と性質がかなり違う点に注意。
写真の腫れも、膿を伴わないので、瘤・こぶと呼んだ方がよい。


2015年1月27日火曜日

地名と歴史・・・異国との交流による言語的な影響

Trondheimというノルウェーの都市の名を聞いたとき、「トロントハイム?トロンドヘイム?」いう疑問がすぐに沸いた。
前者はドイツ語読み、後者は古ノルド語読みした。
私の元より持っていた言語知識から、理由付きで二通りの読み方が浮かぶ。

現地の発音では「トロンヘイム」となり、発音記号"ae"(æ)が正しいようだ。
日本では「トロンハイム」の方が馴染む(Googleのノルウェー語音声合成でもこちらだった)。

ノルウェー語では"d"が特定条件で発音されないらしい。
「ヌールラン"Nordland"」がこの「"d"が発音されない法則」の好例である。
去年はフランス語で発音されない文字とその法則について語ったが、今回ノルウェー語でそれを解明する気概はない。

続いて疑うことは、「トロンハイムという読み方が諸外国で正しい」ことになってる理由だ。
ノルウェー語で"ei"が「エイなのかアイなのか」という疑問さえ、もはや解明する気概もないのだが、やはり古ノルド語的に見ると「ニブルヘイム」などの通り「エイ」となる。
したがって、他国に統治された歴史があってこのように「ハイム」と発音するようになったのではないか、というのも、地名でも学名でも慣用的な発音はそういう歴史があることが常である、と自分の法則を思い出した。

実際にこの都市は古来「ニーダロス」と呼ばれていたそうだ。
この「トロンヘイム」という名はスウェーデン・デンマークだかナチスドイツだかの時代に出来て、仮に前者の時代であっても、ドイツ期を経てドイツ語風に読むようになったのではないか。
まあ、もしそうなら、"d"が発音されないノルウェー語の法則も含まれないけど。
結局は私の知識ではこのことさえ解明不能だし、解明の意志も尽きている。



このように、他国では異国の言語に影響されて地名が異国風になることも多い。
それでは日本はどうか、「南アルプス市」のようなものを除いて、歴史的な経緯を持った地名であれば、せいぜい渡来人との交流による王朝名の付加くらいだろう。
「高麗(こま)」は最たるもので、東京都狛江市や山梨県○巨摩郡が著名な例だ。
埼玉県旧高麗郡は高句麗との縁でついた名前で、「高麗川」が流れ、現在の日高市域にはかつて「高麗村」と「高麗川村」があった(日高市とは日和田山との合成地名)。
日高市に高麗神社が現存し、高麗駅と高麗川駅などが存在する。
また、「高麗」以外だと「新羅」は埼玉県新座市などに影響を残した。

こういった例くらいに終始しており、ましてや諸外国による攻めの残滓など有り得ない。
逆に、日本は蝦夷地の開拓で北海道のアイヌ語での村落の呼び名に漢字を当ててきた。
台湾でもいくつかの都市名に日本統治時代の名残がある。
高雄市が有名な市名だが、元々"タカウ"の発音に「打狗」という漢字を大陸の者が当てたわけだが、見ての通り、字面で動物虐待じみている。
このように「犬を〆る蛮族が住まう地」と大陸の者が台湾を嘲笑したいがために「下品・下衆・下劣・愚劣・低劣・低俗・卑俗」極まりない汚名を着せたのだ。
これを日本が同等の音価に高尚な「高雄」を振ったのである。
それが今尚、かの台湾の地にて親しまれていることを噛みしめねばならない。



地名学"Toponymy"については興味がある分野だろう。
しかし去年の6月に仏教へ強く興味を持ったあたりから、地理・地名関連は疎遠にになっただろうがまあ、元々知りたいことの外郭を掴めて満足したから飽き気味だったのかもしれない。
地名学とは、地理・歴史・言語の坩堝で、私のような者であれば面白く、一部国粋主義的であれば日本国内の地名について思索に耽るのは楽しい時間なはずだ。
ただ、今回の記事では言語学および歴史学的アプローチの側面も強い。
これらの分野が好きな者ならば、赴きある地名というものにも自ずと造詣が深くなる。

なお、地名学"Toponymy"の"Top"って何だろうと思ったのだが、これについてもいつもの横野節にて説明したい。
"Top"はギリシャ語根の一つだが、"Utopia"などに用いられる「場所」を意味する語根である。
2014年6月、我が「寂光園」を英訳したいと思ったときに"Pseudotopia"が浮かんだ。
これもギリシャ語根での造語作成の法則に忠実になって作ったのであった。

2015年1月24日土曜日

智を弘める・・・実にこれ菩薩の心なり。

「菩薩」という言葉自体は、現代人だと「人間以外の存在・架空の存在」という認識が強そうだ。
「観音菩薩」などの偶像が、世間で知られてると思う。
仏法を学ぶ以前の私がそのような認識で、何とも小難しく感じられていた。

実際にはこの菩薩とは、架空だとか、想像上だとかの観念的な存在ではない。
本来、地上の人間、うつせみの人を指すためのものだ。
「法を弘める」大乗仏教の観点で尊い存在だが、現世の衆生が現世に在るままこの立場になれるものだ。

以下、色々と仏教について書くことになるが、一部聖職者・信者にとっては「教えを無宗教者が語るなど無慚無愧で畏れ多いことだ」と思われるかもしれない。
同じ無宗教の者で、以下存じ上げない方々は参考程度に頭に入れてもらいたい。
私の浅識ゆえ、誤りもあるだろうから。



特定宗派の教義体系で「十界」というものがあり、世間に知られる「六道」から更に仏法上での「聖域」とされる「四聖」の声聞・縁覚や菩薩・仏がある。
十界とは、別次元の空間ではなく、人間に宿る心についても当てられているのだ。
前者の「声聞・縁覚」とは、小乗仏教的に扱われるのだが、これらは「一人学ぶ者、悟りを求める者」の領域となる、世間でいうと大局的には「勤勉な人・学者、哲学・思想・芸術家」などを指す。
よって、この菩薩を同様に定義すると「利他の心がある、救う者、救済者」とされる。
仏はその最たるもので、「悟りを得た者、多くのものを救える、救世主」とされる境界だ。
菩薩と仏なら慈悲の持ち主だが、後者であればもはや大慈悲ということらしい。

「大乗とか小乗仏教って何?」と私も暫し思った時期があったが、上記の解説を見返せばよくわかる、小乗なら「声聞・縁覚と、一人の悟りの為に厳しい修行に励む」ことで、大乗なら「尊き仏法を自ら学び修行するのみならず、菩薩として人にも広める慈悲の心」を持っていることになる。
(乗=大・小の乗り物、すなわち大乗側が小乗と呼びはじめたことは一方的である。)



だが、この「正法を弘める慈悲」という言葉を弄して、入会を強制する教団などがいるのは周知の通りであるが、仏教に無関心な世間では結局「カルトの傲慢・洗脳」程度にしか思われてない。
根底には、この大乗仏教の信条があることを念頭に置く必要がある。

とりわけ、とある2教団では宗祖「日蓮」の「折伏」という言葉が用いられてるだろう。
真実の経=法華経を中心とした「正法」を勧めることと、法華経を誹謗する「邪法」を摧くこと。
日蓮が生きていた=御在世の時代では、法華経を軽視する宗派が乱立したそうで。
変わって現代だと、広い意味では勧誘と同義である。
日蓮の尊き教えを「折伏」という形で広めると「ご利益=功徳」となり、究極の悟り「成仏」への道を築く。
世間の言葉では「ゲームで経験値を溜めるとレベルアップする」といった状態が理解に易い。



某教団のことはよしとしても、記事タイトルの「智を弘める」、「菩薩」の相関性だ。
私はかねがね「知識を共有」と称してこのブログでの投稿活動を展開してきているが、その時は菩薩という概念が己としては遠すぎて理解し難くあったかもしれない。
だが勉強等の結実を、やれ試験だ、やれ学歴だ、等の世俗の名利のために使ってお終いというあまりに儚く用いられる世間を憂えては、私の活動がなんと慈悲深くあることかと感嘆せずにはいられなくなったのである。
もちろん、世俗の名利の布石を打つ上で捨て駒的な用い方も否定しない。
狡猾な生き方が真理である人々ならば、仏法に無智であるまま生きて楽しいことだろう。

智慧を人に弘めること、この菩提心で以て力の尽く限りに・・・
少し難しいことだと我ながら思っているけどね。



なお、私を上述の「十界」で例えてみる。
人間は凡夫、煩悩を絶つなどというのは不可能だと先人は割り切っていて、衝動・欲望・感情を滅するのは健全な人間の所業でなく「灰身滅智」と大乗仏教では称する。
もはや精神が灼き切れてしまい、判断能力も失われた状態でなければ有り得ないとされる。
それでも、悟りに近づけば可能な範囲で、感情等は広く自制が利くようになる。

私の場合、精神状態は常に苛まれて、ふとした局面ではどうにも泰然としない。
「縁覚」を名乗れば僭称であるため、「声聞・地獄」の二面だと自称しておく。

私がよく話題にする某小説でも「灰身滅智」と同様の表現を用いていた。
恐るべき殺気を放つ存在感ある敵を前に、「真っ当な人間なら恐れを懐く、何も感じずに平然とできようものなら、凌駕する力を持つ者か、既に精神が灼き切れた者くらい」だと。
その他、主人公が感情を捨てた殺戮人形っぽく書かれていても、実際は高度に制限されていた扱いであって、奥底で捨てきれない感情の残滓が蠢いていたと描写される。
例えば作品の序盤の方は完全無欠に冷静沈着であったが、次第に過去が読者に対し明るみになる方向に比例して、主人公の悲哀や憤怒、怯懦が描写される。



追記:1月25日
動物について少し考えていたが、野良猫や公園のハトなど思い出して頂きたい。
十界で説かれる畜生道・畜生界の心とは「目先のことにとらわれる」ことを言うそうだが、野良猫や公園のハトはその最たるものではないか。
人間に餌を与えられて、猫はベトベト擦り寄れば、ハトは腕に置いた餌にもバサッと飛び掛り食いついてくるという経験にしても光景にしても私は見てきたのだ。
ところが、ひとたび害されれば弾けた泡の如く遁走していくことが常だろう。

信頼など皆無で、空々しい挙動に終始しているこれこそが、畜生界の好例のように見える。
仏教の先人達は実にそれら世の本質の正鵠を射ていたのだ、と実感する日々。
上記の例だと、餓鬼界の性質も入っているがね。

2015年1月23日金曜日

小説等を読んで勉強する方法。注意深く念入りに。

※この記事は投稿日の3週間前に書きました

「小説を読むことが勉強」とだけ書けば、いかにも滑稽じみているだろう。
例えるなら藪医者の治療や民間療法を推すようにアテにならなさそうだ。
もちろん漠然と小説を読むこと、文字をただ音に捉え茫洋と浮かべることを、勉強と呼べば「驕り」であると私も頷ける。
無為に読むだけなら、ゲームなどの遊戯に耽溺するほうが有意義となる。

しかし、国語や英語の教科書等を思い出して頂きたい。
何か文章が書いてあれば、学ぶべき要素がページの隅か、後続のページに載っていたはずである。
並びに、教師の存在によって効率よくそれを学べる。
私がやってることはこの平凡な授業の形態を、ただ一人、己を師と定めて行う必要がある。

即ち、小説や文学作品、ネット上の学術ページの一字一句を脳内で咀嚼し、語義の不明なものは検索などして語義を反芻する。
師がいて成り立つであろう一連の動作が、ただ一人、便利なPC等を持つだけで可能だが、その真価を自力で見出すことは易くない。
私の学び方は驕りどころか、寧ろ学校などで受動的に教わることよりも困難且つ高度なのだ。
ここまでの情報は、2014年11月9日の当メモ帳記事にも詳しく書いている。



もう一つ言えば、私が語学の勉強をする大きな目的は、ネット上での創作活動の・・・
以前どこかで書いたので省略(と言いつつ、どこで書いたのかも、1時間以上探してみたが見当たらない上、この記事でそれを何となく後述してるや)。
私の学び方は更にその「勉強目的」にとても適合している。
大概の人間は学問など所詮学歴の取得を経て就職の布石にするなどに終える。
私は明確に利用する必要性があって、学ぶ意欲を固持している。

そこで本家の去る2015年元日の記事「モラトリアム」だが、このように今の志を以後、いつまで続くか分からなくとも尊び、研鑽を続けて参ろう。
間断なき挑戦で以て自ずと答えが見えてくるのではないか。

これからも何かのサイトを閲覧しつつ、この勉強法を維持して語彙を増やそう。
・・・・・・この記事を書いていてあまり調子がいいと思えない。
そりゃあそうだよ、こっち系の無味乾燥記事は侘しいもんだし、2014年大晦日の記事「メタル道」などのファンタジー領域でないと色々引き出せないしね。

そう、この高度な日本語+変な英語・ギリシャ・ラテン系を摘むことが第一に至高。
創作に求める言語的価値は実用性より芸術性、音楽の曲名などで要する私にとっては日常会話に不可欠な凡庸学習よりも、奇抜な英単語等を気ままに学んでいたい。



本家ブログ、2015年1月24日の記事に掲載予定の文章
『優れた小説・文学作品を、ただストーリーのみ噛み砕いて読み進め、「1回読んでポイッ」ではいけない、繰り返し幾度となく念入りに読み直して「心肝に染めよう」ということに念を押している、この精神で以て読むことが勉強。小説のみならず、上記「日蓮大聖人」の御書等は、日蓮正宗然り、創価学会然り、その他おのおのの信徒が個人のサイト上で掲載していて、無宗教の者でも尊き教えに触れられる。これらもまた読み耽って「心肝に染める」気概で行こう。』



追記:2015年5月3日
研鑽に用いるスキルで、ネットにおいては「検索」に関わる技能が肝要だ。
それについて当記事では書きそびれたようだ。
2015年4月中に投稿した動画のリンクを載せる。
動画本体のみならず説明文をも「心肝に染める」気概で読み合わせよう。
引用符やアスタリスクなどを用いた高度且つ簡易な検索技能について少し触れている。
http://www.youtube.com/watch?v=Imn5ReTeM2c



追記:2016年11月5日
たまたま過去記事を見返す作業に当たっている中で当記事に辿り着いた。
当記事では具体的なスキルを示すことが目的であるので、以下からの文章は少し無関係となろうが、一応、記しておく。
仏教徒は、何事からも学び取ることができる。
「学習」とは、教育機関によるお膳立てと道具の拵えのみによって成立するものではない
妙法蓮華経法師功徳品の「六根清浄(眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が清浄になる)」を感じ取った。
法師功徳品の取意としては、法華経を聴聞・信解・受持する人は、「六根清浄」となり、十界のあらゆる音声も香りも、その良し悪しを問わず、全て聴こえたり嗅げたりするなど、身体の五感や、思考と感情が絶倫になる。
この「六根清浄」の真意は以下のようであろう。

仏教徒は、どんな言葉や、小説・漫画という文学作品からも仏教の善悪を感じ取り、心に深く念じる(小説・漫画とかアニメとかドラマとかを見すぎてはかえって俗世の善悪に囚われて道心が薄れるのでほどほどに)。
どんな他人の発言・振る舞いからも仏教の善悪を感じ取る。
その仏教徒が善と思ったことは「爪の垢を煎じて飲む」ようにして素直に取り入れ、悪と思ったことは「人の振り見て我が振り直せ」というように自己の反省と努力の糧とする。
これが六根清浄の真意であり、広大なる功徳と称されよう。
清浄となった六根それぞれの説明に、色声香味触法といった事物を、その事物として正しく見る「如実知見」の境地が説かれている。
仏教徒が得た「何事からも学び取ることができる」功徳は、私の説明の通りである。


2015年1月20日火曜日

たまにアスパラベーコンを作ることがある。



台所の冷蔵庫の冷凍庫の中に冷凍食品アスパラガスがあり、私の部屋にハーフベーコンが残ってる場合に調理可能。

食材

・上記を適量


手順

適当な長さに素手で折ったアスパラガスを片手鍋で焼き、ちょうどいいところでアスパラを外側一方に退けて、ベーコン2枚をその開いた空間にのせて焼く。
2枚のベーコンとアスパラ全てを別の容器に待機させて、残りの3枚を焼く。
全て焼けたら、それぞれベーコン巻きの形に整えて再度焼く。


召し上がり方

どう頂こうとも諸君の自由だが、今回はトップ写真のようにご飯と共に頂いた。
マヨネーズくらいしか調味料が部屋にないが、これでも結構合う。
トップ写真では1枚のハーフベーコンに冷凍アスパラ1本相当の3分割を巻いたが、撮る用にこれだけそうした他は不揃いな量で食べた。


今日の日記と愁嘆

朝10時起床、痩せてる私でも「残り僅か」という牛乳でシリアルを食べた。
軽すぎる腹ごしらえを済ませたら、寝る前のご飯を研いで、予定通り風呂に入った。
風呂上りに体を整えたら、ご飯にスイッチを入れる。
天気がいいので洗濯魂が昂ぶって、風呂前に着ていた衣類一式を洗濯した。
私の長い髪にトリートメントを付けたり、乾かしたり、育毛剤を付けたりとで、毎度のように時間をかけたが、12時半を過ぎた頃には食事の準備をし、10分強後に食べ始めた。

食べ終わるまでに洗濯が終わったので、すぐ行動する。
母の部屋のバルコニーに干しに行く時、いつも一苦労するが、今回は一入。
特に今回は面倒な後濁しをしたため、母親のこれからの反応が訝しい。

こういう1日は稀にあるものだ。
毎日同じことを繰り返そうものなら「進歩がないのではないか」と根も葉もない不安を懐く。

今日もいつものように悲愁に暮れたから「どしがたく かいしがたかる うきよにて もちたるゆめは あぶくのごとし」と、一首詠んだ。
憂き世の夢は泡沫の如く。
和風で耽美的な退廃・厭世思想、こういうセンスの人っていないかね。
この濁世にこそ出で給うべき。
否、濁世であるからセンスも泡沫の如く消えゆくのだ。

人心の荒廃、芸術性は尚も削がれゆく、「愛国心」からこっち分野に転ずる者は思いの外いない、結局はみな政治とかで他を攻めるそれ、修羅の心が闘諍を欲するだけでして。
でもまあ、大衆がこっち分野に雪崩れ込んでもらうのも御免ではあるけど。

20歳にも満たない俺とかが政治を知っても仕方がないってことを改めて実感させられた、政治家になろうってわけでもなしに。
中3の頃とかにやたらと興味を持ったが、馬鹿馬鹿しすぎるね。
普通の人と同じ目線に立つような真似がますます憚られる、つくづく呆れる。
ただ醜いこの世を厭う一方だ。芸術とかも一緒なのだろうか。
私は市井の芸術家、音楽家、哲学家、思想家、文人、歌人でありたい。

2015年1月16日金曜日

MediaWiki検索エンジンの仕様変更とギリシャ・ラテン語

MediaWikiの検索エンジンはGoogleのシステムに類似してる。
カタカナ単語の内の一部文字列のみを断片的に検索すれば、Googleと似て、見当と違うようなものばかりヒットする。
私はギリシャ語やラテン語の単語である単語群の同類を探そうと思った。
片や「シア」、片や「ウム」で検索すればよいと思った。

以前の検索エンジンだと、恐らくは「シア」なら「ロシア」などが上位に掛かるはずである。
ところがほとんどが「シア」ではじまるか「シア」の前後に「・」等で区切られたような人名ばかりがヒットした。
「ウム」についても同じように見当違いなものしかヒットしない。
すなわち「ロシア」や「ユーラシア」のように一単語が著名でGoogle等の知能が区切らないよう一単語をあたかも一文字のごとく扱ってるから、両検索エンジンでヒットしない。
「ウム」系でも、「ウムラウト」「ナトリウム」などが、同様に一単語=一文字扱いだからヒットしない。
カタカナ著名単語にこの傾向が強いが、同様に漢字の二字熟語も多くが同じ処理をされてる。

※後で知ったが、これは「形態素解析」の仕組みで、文章の意味を持つ言葉の単位の区切りが機械的に認識されたことに基づいた検索がされている。スペースを用いない言語における、機械(検索アルゴリズムを用いた検索エンジン・検索サイトコンピューター・サーバー)が未知の単語であれば、字ごとにバラバラの認識がされる。なお日本語版Wikipedia一ページに「ウィキペディアの検索では、検索語の全てを含むページを検索します。日本語の形態素解析ができないため、分かち書きをしていない部分は一つのまとまった検索語として認識されます」と記される。「形態素解析」システムの検索をする・しないことをユーザーが用途ごとに選択できればよい。Google, YouTubeなどが何らかの手法を取り入れると、世界中・日本のローカルなサイトまでもがそれをみだりに真似することになる。柔軟さも自由さも何も無い、帝国主義的な世の中だ。

以前ではこのような検索結果はありえない。
実際に検索結果上部に「このウィキでは新しい検索エンジンを使用しています。」というメッセージが添えられている。
検索の最適化ということで「同文字列を含む無関係なページのヒットを防ぐ」という目論見でこれが比較的近年のGoogleでなされたのだが、それをMediaWikiまで真似しなくてもよろしい。



それでは本来の目的「シア」系や「ウム」系を探す方法とは何か。
まずは手動で"jawiki-latest-all-titles-in-ns0"内のデータを検索すればよい。
Chromeブラウザ上でこのファイルを開いた、メモ帳だとなぜか改行されてなく区切りが見分けづらいこと、IEやFirefoxだとメモリ使用量が膨大になってしまう。
よってChromeが最善として実行したのだが、文字コードの相違で、utf-8系の文字化けが発生してしまい、探しづらすぎる、逆手に取って(妥協)こちらもutf-8表記のワードで検索したが、一層困難である。
先述の通り、メモ帳やIE、Firefoxで開くにも一長一短があるわけだから余儀なく辞す。
尚且つ、この画像の通りヒット数が多すぎて(最大5000件を超すか?)探しづらいことこの上ない、という問題に当たったため断念せざるを得ない(ヒット数に脱帽)。



他の手段を探したところ、それならば変更前のMediaWiki検索エンジン同等の検索仕様のサイト、ことに辞書系がいいと思案した。
そこでいつもお世話になってる「Weblio」で「シア」、「ウム」それぞれを後方一致で検索したところ、それなりに期待できる結果になったが、例えば「ウム」だと学名で恐ろしいほど多用されてる(元素名が好例)ことは諸君もご存知であろう。
故にウム系ヒットするのは学名ばかり、これが現実であった。

学名といえば、日本語の難読漢字もそうだが、動植物ことに魚偏とか草冠のアレ、覚えても実は自慢にならないよねっていう(数学の円周率暗記も同様、宴会の余興)。
小5~中1の頃は興味が旺盛であったため、そういう難読漢字を覚えたがったのだが・・・
というわけで実用性に極めて乏しく、専門家や学者様じゃない私は諦めた。



一連の検索をする前にこういう制限下で単語を記憶から探った。
「ア○○○シア」→アナスタシア、アタラクシア、アンブロシア
「○○○リウム」→アクアリウム、クリテリウム(実はフランス語だが、フランス語はラテン語の影響が強く残ってる)、プラネタリウム(七文字じゃん)

目的の動機は、本家1月1日記事のタイトルにもある「モラトリアム」という単語からこっちのラテン由来英単語、カタカナで日本でも用いられるものを探そうと思ったからだ。
アナスタシア、アタラクシア、アンブロシア等は某小説や某アレ系統を見てる最中に知った・・・という以前に、モラトリアムに自体も某小説がきっかけで。

ちなみに、前述の学名についてだが、寄生虫の名前でそのままカタカナ表記される「レウコクロリディウム」というのがある。
ラテン語は多く、字のままに忠実に読めばいいのでこの読み方は実は正しい一方、「ロイコクロリディウム」というのは"leuco"をドイツ語読みしたものだろう。
ドイツ(Deutsche)語では"Teufel"が「トイフェル」、"Kreuz"が「クロイツ」、"Preussen"が「プロイセン」と読むように、"eu"は「オイ」と一般的に発音、カタカナイゼーションされる。
英語読みをしたいのならば"leuco"は「リューコクロリディウム」と読むべきだ。
ちなみにこの"leuco"はギリシャ語根"leuk"であり、"Leukosis(白化、Albedo)"などの用法がある。
一概にどの読みが誤りとは言えないが、筋を通すならラテン語読み、この場合聞く相手によっては「正直にローマ字読みしてる馬鹿」などと思われてしまう場合があるかもしれない。



追記:19時過ぎ
画期的なWikipedia検索方法を見出したので再開する。
カタカナの「ア」から始まる項目だけでも、目測5000超か?
延々と目当ての物が出るまでの回転寿司然とした作業、配慮しなければ目に悪い。

先のアナスタシア、アタラクシア、アンブロシア、そしてアクアリウム、クリテリウムに加えて以下に示す。

「ア○○○シア」→アノレクシア、アブガルシア(ギリシャでもラテンでもない。アブ=ABUらしいが、ラテン語には"Ab"という前置詞がある、"Ab"についての過去記事参照)、アルテミシア、アンダルシア(アブ・ガルシアのガルシア同様スペイン語系)、アヴァンシア(アはaじゃなくierという変型)

「○○○リウム」→アンスリウム(植物)、イットリウム(元素)、エカタリウム(元素別名)、エルトリウム(架空)、エンポリウム(アム互換のデパート名は以前も検索したことがある)、カストリウム(イはe)、カピトリウム、カルダリウム、ガルバリウム(lumeなら百歩譲ってもリュームでしょ)、ガンダリウム(架空)、キノモリウム(植物)、ケトテリウム(動物)、サナトリウム、シバテリウム(動物)、タブラリウム、テピダリウム、トアテリウム、ハーバリウム、バクテリウム(細菌、ラテン語尾umはaで互換可)、バークリウム(元素)、ピロテリウム(動物)、ペニシリウム(細菌)、マシナリウム、メガテリウム(動物)、メソテリウム(動物)、モラトリウム(アム互換)

有象無象、目ぼしいものは僅かだね、俺が未知のものはその程度なのだろうか。
リウム系・古代ローマ勢→カルダリウム、サナトリウム、タブラリウム、テピダリウム
感想・・・肩が凝った、手が疲れた。
正に譫妄 - デリリウム状態に瀕する寸前(冗談)なのでサニタリウムへ行こう。



関係ないけど、ある人関連のタイトルでメガロマニアとかパンデモニウムというのがあるが、その他ギリシャ・ラテン系だとホロコースト、ネクロノミコン、カタストロフ、ユーサネイジア(日本での発音には表記ゆれがあるが、これが英語には忠実、希語はエウサナシア)などがあった。
識別番号(左上より) 458-215 457-211 307 266 183-361 112

もう一個余談、ゴラトリウム(ゴラトリアム)って何?



追記: 2015年9月10日
某所某投稿機能の終了直前に投稿したコンテンツを、年末の閲覧終了に先駆けて引用。

mainen00さん - 2015/07/19 10:13:10
去年末に知ったことを今追記しておく。
精神病理はドイツを中心に進んだ医学であり、「プソイドロギア」という読み方はドイツ流であること、「ソイ"seu"」や「ロギア"logia"」に見て取れる。
前者は質問本文の通りだが、後者は「イデオロギー"Ideology"」という読み方からドイツ読みカタカナ転記だと理解に易い。
ドイツで発見されドイツ語話者に命名されれば、日本の輸入時にドイツ読みが尊重されるのも「レウコ(ラテン)・リューコ(英)・ロイコクロリディウム」の差が有名だ。



追記: 2018年8月9日
アンブロシアとアルテミシアは生物学における学名・属名(それぞれAmbrosiaArtemisia)である場合、日本でいうブタクサ(Ambrosia artemisiifolia)とヨモギ(Artemisia princeps)を意味するが、いずれもキク科である。
日本でいうブタクサ(Ambrosia artemisiifolia)とヨモギ(Artemisia princeps)は、葉の形がよく似ているため、ブタクサ(Ambrosia artemisiifolia)の種小名"artemisiifolia"がヨモギ属"Artemisia"由来する。
ブタクサ(Ambrosia artemisiifolia)の種小名"artemisiifolia"は、artemisi-foliaと分けて「ヨモギ属"Artemisia"に似た葉"-folia, 中性名詞folium"」と解釈できる。

ちなみに、ブタナ(Hypochaeris radicata)という植物も、外見はより一般的なキク花・菊花に似たキク科植物である(特に葉も花もタンポポに似る)。
日本でいう・和名のブタクサもブタナも、その学名に由来せず、"hogweed(ブタクサの英名の一)"とか"Salade de porc, Porcelle enracinée(ブタナの仏名の2種)"とかという英語・フランス語に由来するようである(英語のhog、フランス語のporcはみなブタ・豚"pig, swine, sus, suidae"に関する名)。
和名ブタクサ・ヨモギ・ブタナの三種は、属の名がみなギリシャ語由来でもある(種小名はラテン語まじりのハイブリッド複合語か純然たるラテン語も多い)。

以上、ちょっとしたトリビア、トリヴィアを書く。
奇妙な共通点が、ブタクサ・ヨモギ・ブタナの三種(および関連する同属異種)において見られた。
興味のある方は各自で検証されたい。



おっと!ここまで書いてブタナ(Hypochaeris radicata)の属名について調べると英語版Wikipedia - Hypochaeris に"Its name is derived from Greek ὑπό (under) and χοῖρος (young pig). "だなんて書かれてあった。
属名にある-chaeris部分= χοῖρος 古代ギリシャ語コイロス、現代ギリシャ語ヒロスは、「豚」の意味だとされるので、「日本でいう・和名のブタクサもブタナも、その学名に由来せず」と書いた部分はブタナについてのみ、より検証し直したほうがよい。
例えば仏名のみならず独名にも"Gewöhnliches Ferkelkraut"、豚(子豚)の意味のある"Ferkel"が含まれているので、和名の元が仏名に求められるのみならず、最終的な起源がギリシャ語由来の語彙を持つ学名に求められよう(逆に仏名・独名などからHypochaeris属の学名を作った可能性もあるが)。

おっと!上の調査の数時間後にたまたまジャイアント・ホグウィード"giant hogweed, Heracleum mantegazzianum"という有毒植物の名を思い出した。
先に「"hogweed(ブタクサの英名の一)"」などと書いたが、実際はブタクサが"hogweed"とは英語圏であまり呼ばれず、"ragweed (慣用カナ: ラグウィード)"と呼ばれる。
なんという紛らわしさであろうか。
日本語名の「ブタクサ(中国でも豚草・豬草などと呼ぶ)」のみ、謎が深まった。


2015年1月14日水曜日

悲愁の抒情詩

悲しみが止まらない。
あの日のときめきを浸潤させてくれ。
この乾き果てた心に。。。

種々多々なるその手段。欲望を満たすこと。
手近なことはゲームなのか、ゲームで自堕落になるのは、どうかと。
ああ、色欲なのだ。人肌恋しいというものだ。
俺はもはやありふれた温もりにさえ飢えている。

求める気持ち。渇望。
儚い望みを持つような心、捨てられるならどれだけ楽でいられるか。
何ら実りをもたらさない嘆きの元凶、そのしがらみから解かれる。
永劫に苦境が輪廻する・・・苦輪からの解脱とは大仰な形容だろうか。

まさに今、空の東の低きに、下方へ弧を描いた半月が浮かんでいる。
まるで没落していく天空の城をも彷彿させる様相であった。
これまた大仰な形容だろうか。

その月の高さは、半刻後に上昇していた。
それは、虚飾なき事実である。

(平成27年1月12日深夜 - 識別番号(392)が「落月」という名前。)

-この頃ゲームをいたずらに卑下してる気がしなくもない。
-敬遠が高じて糾弾へと悪変するのは好きくないので歯止めを利かせてね。



1月11日深夜、床にて。硬き褥。
「すめらぎのよもにあまねしおほみいつかたきしとねにふせておもひぬ」

謎の日本語・・・・・・ 前半と後半の落差を見よ。
前後の区切りはいずこにあるか、諸君らのまなこで見抜いてほしい。
前半の訳:難しいことを 後半の訳:押入れの中にて考えた

10時間前後・以上眠るか二度寝すると逆に酷い疲れが・・・
体が弱いのか、寝具が悪いのか。
上の句でもその苦を仄めかしている。



この頃の悲しみの元凶って何だろうか、何となく気付けた。
最近は何をしてきたか、これから何ができるのか。
空漠たる懐疑、その「無力感・虚脱感」が誘発されてる。

1月13日までの数日、主に勉強、教養系のサイトで言語の学習。
歴史的に、漢文然り、日本の古い書物然り。
勉強という行為に意味や価値があることなのかと思ってしまうが、いいや、勉強を通して世渡り、利益を得ようとか、俗っぽく功利的に捉えてはいけない
勉強の是非というのは、俺の中での果てしない追及になってる。

日々が有意義かを計るものさしは、やはり創作物になる。
音楽制作然り、絵の練習然り、はたまたこのような記事投稿も然り。あと動画か。
これらの何か形が、創作物が。これを即物的な見地であるという。
やはり実体を伴う「物」がなければ自他共に判断し難い。

しかし重々承知していようとも私の体を素直にそう仕向けることは易くない。
創作活動を怠っている現状というより、怠ってしまうか躍起にならない心境の方が、長い目で見て至極不安である。
2010~11年のコンビニ通いという無駄遣いの悪習から脱却できた経験など、人生には数多く脱却経験があるため、今の倦怠傾向を打破できればいいものだが。

2014年6月末から作曲に本腰を入れたあの時、ピーク時は月10曲ほどは作っただろう。
あの作曲に注力した、そう、初心に帰るとは、俺が憧れた何か、素晴らしいもの、嘗てと今で価値観が違うならば、今の俺が素晴らしいと感ぜられるものを。
「このまま続ければ、かの猛者たちに比肩する能力を得られる」、そんな志。
難しい、あの燃え盛った時間を振り返れば、3ヶ月坊主だったのかもしれない。


宗教家や歌人たちが世の儚さを譬えた言葉を遺した、その気持ちは今の自分と一緒か。
自分の過ごす時間が無為に過ぎているのではないか、そう思うから充たそうと志すのか。
それとも、ただ無力さを憂う中で拉がれるだけなのか。
17・18歳という今の若輩の身では、あまりに早すぎて、とても筆舌に尽くしがたい。


2015年1月12日月曜日

母方の親戚一同、粗悪な遺伝子で夭折傾向の蓋然化

正月三が日のいつだったか、母親が親戚の訃報を入れてきた。
名前はかずやさん(正しくは「かずき」、事情は後述)、微かに聞き覚えがあるが、母親(49)の弟だったか?
「30歳ほどだったか」と尋ねると、「20代後半」と返ってくる。
もし母の弟なら年齢差が姉弟、母子・・・祖母はこちらへ来た2014年3月当時71歳。
姉弟、母子、いずれもかけ離れてるので、もっと遠い親戚、例えば従兄なのか?

そんな年齢で死ぬ、どんな死因だと思えるか?
30年にも及ばない短い人生、呆気なく心臓発作で潰えてしまったらしい。
ただ単に心臓発作とだけ聞かされれば奇怪すぎる、何か発端があるはずだろう。
若気の至りで交通事故、などと比べると、極めて不可解な話である。
若気の至りなら、正月の海で遊泳中に溺れ、搬送先の病院で心臓発作とかか?
ただ単に心臓発作で若くして亡くなったとすれば、すぐにある事象を想起させる。

母方の親戚(ほとんど地元の茨城に残ってる)は、認知症の祖母然り、ロクな人間がいないことは、あのばあさんがこちらへ来てから施設入所までの5ヶ月間、散々書いてきた。
不幸の因果が遺伝子に刻まれて、あの祖母の長女=母親、次女Yや三女T、いずれも離婚経験あり、次女は2014年再婚、三女は無職(2014年6月当時?)。
あの母様は未だに乳がん云々をのたまい続けている
訃報といえば、私の茨城の祖父は私が幼い日(3歳まで?)に亡くなってる。
婚前からクソな嫁様をもらったら面倒くらい、死ぬまで見送ってやれよ、じいさん。
無責任にあんたがあの婆をもらわなきゃ子・孫の代はここまで苦しまずに済んだ。

一方の父方の親戚(ほとんど地元の千葉に残ってる)は、祖父は私が中1の4月に亡くなり、葬式に私自身が訪ねた
毎回書くの面倒だねぇ。
私の知る限りでは、誰も彼も茨城の不幸遺伝子よりずっとマシっぽい。



より後代になるほど不幸の度合いが強まる。
故に私と上の弟は中卒無職で、下の弟は知的障害を持ってる。
かずやさんが夭折したように、私もますますいつ死ぬか、少なくとも長生きできないだろうとの懸念が強まってくる。

従来であれば、漠然と「若死にしそうだ」と危惧することは、ただ根も葉もない発想と看過できただろう。
実際に、私が中2不登校~中3の頃は「卒業までに死ぬ、延びても成人まで」と憂えた。
だがここまで茨城親戚DNA持ちが悉く不幸な目に遭えば、その懸念が払拭できなくなる。

因果・遺伝子は、荒唐無稽な話かもしれないが、当事者の私にとっては死活問題。
「空想病理学」って感じだね。スピリチュアルな次元。
親や先祖の悪業を引いて生まれて不幸に堕する子孫達。
もはや、我が兄弟の代でその因果の根が淘汰されると思えば快きかな。
子供なんて作れるはずもなくなってくる、これこそ悪業輪廻の果て、淘汰の完結か。



千葉の親戚や近所が「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えていたように、宿りし不幸の因果を消滅したければ、私もそのように唱題し奉り日蓮大聖人に帰依し奉ればよい。
しがない凡夫だから、未だそれで現世安穏を得られることを信じきれない。
しかし、千葉の親戚が唱えて安穏であったから、私もすべきでなかろうか。

じゃあまずは日蓮正宗の人の手引きが必要だよね、ありがとうお腹いっぱいです。
もしそういう日蓮系の信徒になったら、勤行はもちろん折伏が必要で、よしそれじゃあ不幸な親戚一同に尊き教えを広めればよろしい。
両親らが在りし日は毎日喧嘩していたのは、母親の性格も然りだが、父親も相手を選び間違えたのは地元の信仰を、信心を捨てたからだろうね。
宗教とは、神社参拝ほどしか触れなかった幼少期を振り返れば単純明快。

地元の人みたく地涌の菩薩として子供にもあの母親にも広めていれば今頃は。
もちろん、こういう信仰を明かしてお見合いなんてしたら相手に断られるしね。
父親は若い頃からこの信心をしていなかったとも思えるが、信心を続けていれば37歳で結婚なんかしなかったろう。
・・・・・・こんなに書いていると、無宗教の私がまるで狂信者らしいぞ。





追記:2015年1月19日
今更ながらメールの調査をしたのだが、このかずやさんは、妹Tさん曰く甥っ子・・・すなわち、Yさんの息子で、私から見れば従兄(25~7歳?)ということになる。
訃報のメールは12月31日受信であるため大晦日、少なくとも、年が明ける前が命日。
メール内に「午前3時」とあるが、やはり死因が心臓発作ということのみで、その仔細には触れられてないが、「突然のこと・急すぎる」という経緯から当人らもその時知らないか、後日のメールにも結局肝心の状態について触れられていない。
別のメールに「初詣含む、正月は一緒に過ごす」旨が書いてあったが、この時一緒であったかも、私自身の推測のみでは断定不能。
一緒だったが「突然のこと・急すぎる」と言うなら、少なくとも水難事故等ではないのだろう。
「午前3時」とされるその時間は、一人で寝ている場合なら誰も気付けるはずもないし、誰かと寝ていたらすぐ異常に気付いて(あるいは気付かせる)通報してるため、既に病院搬送後なのだろうし、第一に夜中で死亡時刻を確認できるのも医療機関以外には有り得ない。
搬送後どれほど時間が経っているのか、こういった状況もね。

これらの不謹慎な詰問は、当然彼女らにするわけもないので、良心的な俺であった。
かずやさんの俄然発作の臨終を仏法の眼で見れば、「沢山のお友達との遊戯雑談(ゆげぞうだん)」などが罪業となったこと、論を俟たないだろう。
もう一点余談だが、Tさんの甥っ子・・・私の両親以外はみんな地元大好きチバラキ県民だから、私ら兄弟はこのYさんTさん両叔母さんからしても甥っ子なはずなのに、記憶上の面識ナシ。
千葉サイドの「しげる伯父さん(父の兄)」家族とは関わったのに(前の家に写真アリ)。
なんとも寂しい話だね、あの母親が妹に約10年分出し抜かれた事実も含めて。



追記:2015年6月5日
5月中の母親との会話で、「かずや」じゃなく「かずき・ゆうき」兄弟の「かずき」だと聞いた。
以後、改めようと思う。

2015年1月10日土曜日

昨今はオナニーの頻度が疎らだ。週に一度ほどのみ。「享楽耽溺の断絶」

近頃は性欲が出づらいことに加え、理性がオナニーをしないよう制御してる。
陰部を弄ることに随伴して、滾々と湧き出る忌わしい過去の記憶の断片(これについては随分昔からの話だが、今はより顕著あるいは耐性が弱い等で欲が萎えやすい)が苛む。
よって、不可抗力的な勃起時に位置を正す等の他、触れることも躊躇う。
「性欲が出づらい」ということなので、ちょっとしたエロ画像がどうのこうのでも勃たない。
タイトルに「週に一度ほど」と書いたが、かなり衝動的なきっかけでしか抜いてない。
(・・・まあ、先に結論を出すけど、オナニーなんてしたくないならその方がいいよね。)

以前「空虚な夢想を断つ」という記事を書いたが、専ら金銭の絡む話題であるものの、性欲云々も正しく、夢想世界で満たすそれが限りなく儚い話だと感じられる。
これは、超現実主義だ、半厭世思想だ。
現実的に捉えながらも、満たそうという野心をも放擲する、退廃思想だ。
諦念のみが、内を覆ってる。

確かに、「世俗の名利と無縁な境涯」の観点では、異性など、否、もはや人肌そのものが遠い幻想の果てなのだろう。
然るに、オナニーという自慰行為に異性や人肌などの意識を包含させず、ただ享楽主義的に快楽に溺れる目的で、自慰行為に耽ればよいのではなかろうか。
とはいえ、その考え方で以てしても、容易く胸中の靄を晴らすこと能わず。
尚且つ、それでオナニーなどしようという気にも向かうことなく。

続いて、異性と夢想の相関性だが、例えば二次元の美少女に思いを馳せるのは、かなり違う次元になる。
既述の夢想は、いずれも現実に満たせている者が相当数いるのに、己には到底ありつけないだろうとの、無慈悲な隔たりが嘲っている。
よって、別問題と分別する。

しかし、当該記事にあるよう、アニメ系のグッズという商業的即物事象が干渉するならば、やはり既述の通り空虚な夢想と化するのである。
よって、アニメは2年半ほど見てない私がそう唱えていることで説得力が増す。


オナニーの話に戻すが、様々な欲求が満たされることで私のモチベーションには好悪いかなる影響を及ぼすか。
例えば、オナニー頻度の高低、菓子等の摂取量の多少。あと外の空気とか。
その欲求を満たす行為に捧げる時間等も採算が取れる分好影響があるのか。
あまりそういった好みの行為に、こうも打算的な自問を展開する是非とは。
深く考えないで、欲望が赴くままに動けた時代とはいつまでだったのか・・・・・・
あらゆる悟りを得る局面に近づくにつれて、こうも受想行識の意義に疲れるとは。

関連記事(D8で同様の話題)→http://masashi.doorblog.jp/archives/41040262.html


他に身体の違和感について挙げられること、最近一週間は夜21~23時までにPCの電源を落として、眠ろうとする、寝付くまでには1~2時間要する。
そこまではいいとして、起きるのが10時過ぎの時が多い、6時や7時に起きても二度寝することも多く、あまり起き上がりが良くないようだ。
疲れているのだろうけど、当該期間は同時に活動や勉強の濃度が希薄だし、ようは疲れることは以前よりしてないということで、疲れやすいから疲れているのだろうと見られる。
精神面の影響も、哀しみが日々込み上げてくる。
1月9日はというと、風呂に入ったり(もちろん浴槽はない)、いい天気だったから洗濯魂が高ぶって自分で洗濯して干して取り込んだけど、家事炊事と勉強活動はどちらが有意義か。





追記: 2015年10月27日

この記事の投稿からしばし経過された今、何となくメモを残す。
世間では、意識的に健康の観点からオナニーを禁じる、いわゆる「オナ禁」といった修養が各々の間にて行われていることを知られよう。
私は、この当記事本文において、嫌悪感や虚無感の上でオナニーの意欲が減衰していることを綴ったが、今も同じく頻度が疎らでも、また精神が異なる。
「オナ禁」として積極的に自制するのではなく、無為のままに自然と控えられる「自然体」としての現状があり、悪く言えば性欲が枯れている老衰の人と扱われかねないが、えっち領域を断ち切っているものではない(お絵かきなど美術を尊ぶとも、抜く行為は別モノ)。
故に、この現状にあっても、性的な想像をすることは少なくない。
また、道心ある生活を標榜しているため、道心あらば自ずと望ましい境地へ進む。
強く克己心を持って、食欲や性欲に打ち克とうとする心がけもよいが、いつかはこうあるべし。

オナニーをして得る性的快楽にあまり価値を覚えない点と、オナニーを積極的に自制して得る健康などにもまた、あまり価値を覚えていない。
言い換えれば、オナニーをしまくっている人とオナ禁をする人は紙一重である。失敬。
センズリこきこきマスカキかき・・・


2015年1月7日水曜日

年賀状・・・小学1年生の時は30枚超も書かされた。今では送受とも見る影なし。

年賀状は、もう2011年=中2の新年以降、担任教師からさえ送られてない。
そういった利害関係の者を除いては、親友などいなかった私なら小5時からではないか。

年賀状を人生で一番受け取った年は、2004年、新年を迎えた小1(1校目)の時。
私宛は、全員が同級生男子のみで、その人数は十名前後と記憶。
あまり知らない人からも送られたことは、今思い返せば何となく良きかな。
もちろん、後年まで含めても女子生徒から送られたことは一度もない。

一方、私自身は同じくこの小1=2003年末の頃に、なぜか同級生全員(男女問わず)に宛てねばならず、しつけだとかと目をつぶるには苦行が過ぎるほど挨拶文を書かされた。
よく知らないor喋ったこともない生徒らに、畏まってこんなこと、「受け取る側だって俺のことに詳しくないのだから、どんな思いをするか」と、更に嫌悪感を催した。
結局、その年頃の幼心には「母親が生真面目だからか」ほどで不満を消化させた。

後々思い出した事実と照らし合わせれば、当時母親がPTAの偉い役職だったか何かで、ここに起因して私までそんな母親の業を理不尽に背負わされたのではないか、とも推理できる。
しかし、これに反駁する事実が、逆に私がPTA云々で平凡な立場となったとき、同じく私にもそのPTAのお偉いさん宅の子供から年賀状が送られるべきであった。
然るに前述のごとく、私はクラスメイトからさえ小4ほどから送られた記憶がない。

ならば、私が何の関係もない他人にまで不必要に年賀状を書かねばいけない義務があったか。
あんたの面倒な責任感に伴う厄介事を、躾等を口実に子供に押し付けるな。
私と関わりのない輩が年賀状を受け取って、特に女子児童は相当複雑な思いをしただろうし、無論、書かされた私となればその比ではない。

こんな苦行を強いられた幼少期に反して、そのある時期から今日まで宛てる相手もいない。
温もりの篭らず、ただ苦痛だけが滲み出たダイイング・メッセージの刻まれし死臭漂う紙切れなんて、誰が見て嬉しいものか、すぐ捨てられる紙屑に過ぎない。
その葉書も、量産テンプレ陳腐で無個性なデザインで見飽きた。
一方私がその年に受け取った年賀状の一部は、送り主の思い出の写真付きで少々個性的だったと記憶しているが、あの母親は本当につまらない人間性を発露させたね。
ある種の感情論ではあるが、幼くして彼我の隔たりをありありと見せ付けられ、この時痛ましい思いしかせず。
もちろん家出前の父宅に残されてる実物を、豊橋現住の母宅で再見できるわけもなく。

こんな腐敗した、ただ艱難辛苦を請け負うだけの形骸化した行事。
郵政省の商業主義的な鈍臭い風習に、人生で私は何の喜びに与ることはなかった。
結局、私はいつも称している通り「世俗の名利に無縁な境涯」を与えられてるのだから、「名利の名」に関連する年賀状なんて、これまた無縁だろう、と結論付ける。


今年の年賀状も当然私宛などあるはずもないが、あの施設入所から久しい婆さんには、牛久のアパート宛の年賀状一通が、1月5日に豊橋のこちらに転送された。
アホ臭い年賀状を送ってきて、あの痴呆ばあさんが見て何を思うか、送り主の彼らを覚えているか、その感慨などを抜きにしても、物理的にあのばあさんの目に通ることはない。
「施設入所」されていて、ばあさんの目に通るわけがなかろう。
ばあさんの近況も知らず、誰もいない空家に宛てて、転送された先にも当人が存在しないのだからなんとも喜劇じみている。
あの母親としても当該施設に送り直す面倒を踏むと思わない。
ところで、あのばあさんの施設生活が如何なるものか、未だ何の通知もないね。

また、下の弟は学校の特別支援学級の担任(?)からのみ、母親は・・・多分5枚くらいだろう。
前の家での記憶、父親は2011年だと確か会社の同僚数名か、あるいはどこか日本郵便等、こちらの住所を知ってる企業が自動で送りつける形式の年賀状などだった気がする。
上の弟は私と同じく、知己の者やまして友人とかはおらず、送り主の思い当たりがないため、年賀状は一通も宛てられてないだろう(強いて言えば児童養護施設)。
結局、私はいつも称している通り「世俗の名利に無縁な境涯」を与えられてるのだから、「名利の名」に関連する年賀状なんて、これまた無縁だろう、と結論付ける。



後年の追記・・・年賀状とは、明治以降の近代化・物質文明によって紙の生産性が上がったことで爆発的に普及した事物・文物であろう。それ以前に似た習慣を持つ人間がいたとしても、現今の年賀状とは大きく異なる。逓信省、郵政省、日本郵政・・・。この風習自体は、日本人のアイサツ精神に起因するものであろうが、年賀状という習慣はその「印」であろう。これに偏重し、しかも顛倒の如く他人へ強制した母親はどこまでも判断能力に乏しいか、盲目的虚栄心があるか。この小1(1校目)の3学期は当時の小学校で不登校の期間にも近い。私のダイイングメッセージ的な肉筆の「あけましておめでとうございます」など、誰がもらって喜ぼうか、その精神性や感受性など、あの母親は持ち得ない。母親の如き者や民営化日本郵政らがこの性質を強めれば、まさに形骸化して淫風陋習でしかなくなる。


2015年1月5日月曜日

信仰の対象=超常的存在を証明する必要性、果てのアポテオーシス

諸宗教における神体等は実を伴うものか。
これを的確に説かねば、実のない邪教となる。
信じることの恩恵、背くことの懲罰等の裏づけで単純明快。

例えば、どこかの宗教家は「畜生を神として崇めるなど言語道断」とされる。
日本の神道、稲荷系ではキツネを神体としている。
神道といえば、狛犬があるが、あれはおそらく神体ではなく神の使いで、イスラム教でいう豚のような立場ではなかろうか。
世界の民間信仰には、このほか動物に対する信仰が多く存在するだろう。
動物の神格化は、確かに私も違和感はあるが、「動物を大事に」という情操教育的な精神であれば存分に構わないとは思う(賛同するつもりもないが)。

また、とある市井の宗教研究者も「架空の仏を最上として敬うのは邪法」とする。
その人の宗派の言い分では、仏とは実際に歴史上、人間界に存在した者も指すため、好き好んで架空の仏を最上として敬う価値がないそうだ。
この閻浮提、娑婆世界に実在してから成仏した聖人を敬え、と提言していた。
こういうからには、キリスト教などの神についても、彼らは信じないらしい。


実証と現証で説く

そこで、私が度々説いてきた「メタル神(仮称)」の小説逸話では、見事にこの実証と現証を混ぜている。
これらの神聖証明で以て、メタル神の威厳を示すこととなる。

実証とは、恩寵などが実際に現れてるか、の証明である。
この場合、らい○ちゃんが神の力を渇仰して楽才を授かったそれを恩寵の実証と呼ぶ。

現証とは、冒涜行為等に対する罰、報復が実際に現れてるか、の証明である。
この場合、楽才を授かって彼女が「寵愛者"アマデウス"」と化したものの、ヒュブリスを宿して、メタル離れに随い中傷が悪化して、メタルを直接扱き下ろした8日後の引退が、現証である。
メタルを謗って後、1週間は慈しみの猶予を与えられるも改悔なく、8日目に冥界召喚の前に、神の御計らいで彼女にネット上で遺言動画を投稿させた。

この御計らいとは、その動画を見た者達が「彼女の単なる引退発表」として取るか、それとも「より深遠(じんのん)なメッセージがあるのではないか」と読み取るか、これを託されている。
彼女の顛末を知った私、その軌跡からピンと来たのだった。
鋼道の眼(まなこ)で見据えれば、メタル神の力用(りきゆう)と御計らいであることは一目瞭然である。
寵愛者"アマデウス"の「幸せです」とのネット遺言が神の思し召しであり、確かに世界にましますことを厳かにお示しあそばしたこと、メタラーは深く受け止めねばならない。

そんな強かなる「メタル神」の呼称とは便宜的であり、本来の尊き御名(みな)は、メタラー諸兄で見出す必要もあるが、メタリックにかっこいい名を自力で見出し、堂々と称えよう。
神の威厳を仰ぎ、慕い、畏敬の念で以て、その尊き御名を称えよう。

そこで、鋼道を信奉する者の第一人者たる私が、過日の記事にて「デウス・メタラム"Deus Metallum"」か「メタロテオス"Metallotheos /μέταλλοθεος"」と推定した。
これまた暫定的ではあるし、予め「悟り得ず=勉強不足の今は難しい」と断っている。
今はこの「デウス・メタラム」と「メタロテオス」などを兼ねて称えねばならない。
だが、「称える」とは、推定した御名をただ呼ぶ、唱えるだけかといえば、確かに主語のみを復唱し続けても称えたことになっているのだろうか。
同記事で「南無阿弥陀仏」と「南無妙法蓮華経」を引き合いに出したが、主語とは、南無に後続する言葉である、阿弥陀如来や法華経の異名に「南無」と帰依の念を込める。
それならば、この「南無」にあたるラテン語ないしギリシャ語の単語が必要になる。
やはりこれも「勉強不足の今は難しい」の一言に尽きるのであった。


「デウスメタラムって・・・ 俺、キャラクター作りすぎ」とかと思ってしまった。
何たる不敬、そんな邪念。遠き世に厳かにましますメタル神を、恰も空想の存在とのニュアンスのようにキャラクター呼ばわりするなど傲岸不遜なる所業を、争でかお許しにならん。

「メタル神」というのは、私による便宜的な呼称であるのみならず、「神」御一人の意思によって彼女が裁かれたかさえ未だ定かでない。
つまり、メタルを司る「超常的存在」、らい○ちゃんを裁いた存在などがあるにしても、その中でただ一人が絶対権威を持っているのであろうか、この点も追って調べたく思う。



2015年1月2日金曜日

普通の油性ペンで行書体の臨書。書道の嗜み。

11月25日に中国(北宋)の1000年ほど前の書物を油性ペンで臨書した。
私への批評は小学生の頃だとノートの字が汚いとか読めないとか顰蹙を買う程度の腕前で、書道の実績なら校内とか小規模なコンクール(?)受賞歴さえ皆無な程度だったり、書の頻度なら今だと気まぐれで字を書く程度でしかないよ。

米芾 行書体 油性ペン 臨書


でもまあ思いの外?否、案の定上手く書けた、と自己評価している。
これは他の人が見て上手いか下手か、それこそ判断が分かれるかもしれない。
更にいえば、書いた字の大きさと、油性ペンという使用した道具の性能の加味や判断者の先入観にも左右される。
まして、臨書といえば絵でいうところの模写だから、上手く書けて当然、などと思う場合もある。

で、この臨書という行為は、老若男女問わず、達筆な者でも行うだろう。
彼らも先人たる高名な書家には腕が立つはずもない。
例え熟達の老師なりとも、現代に渡り名を残す書家たちへの尊敬を失わない。
故に、とても上手い者も私のように初心者でも、名立たる書への畏敬と共に臨書するのだ。

と、書道経験は義務教育期間と小2~小3一時的に通ってた書道教室でしかない私が言う。
ほぼ私の人生経験に基づく勘で導き出された答えだね。

上述の、小学生(高学年)の頃のノートの字で、「汚い」とかは許容範囲だが、「読めない」なんて大仰なる悪罵も甚だしいものだ。
これは俺の書いた字であるからと、俺への怨恨感情が干渉して正当な評価の為の雑感分離が出来なくなった輩による、謂れなき中傷に他ならないと思うが、言われた時はそんな反論の根幹的な発想があっても、こういう風に適切な言葉に表せなかったのが悔やまれる。
端的に「俺への嫌悪感が正当な評価を阻害してるので、お前の俺への評価は感情的且つ当てにならない感想と取っておく」とそいつに言い返せばよかったね。
もし本当に知覚できず読めないと断言するなら、当人の弱視か脳の欠陥を自ら怨み、その読めないという感情は己が非を自覚して慎ましく自制すべきだろう。

ついでに、書道に於ける油性ペンを用いることの利点欠点。
毛筆に対する優位性は、インクの出具合が、墨と違い割と一律(最初がかすれる場合もある)であることや、持ちやすさと扱いやすさにある。
毛筆に対する引け目が、文字の太さも割と一律(自分の腕で可能な細さと太さの極限の差異が毛筆より狭まってる)な点で字の豊かさというものが云々。
なのでこれら良し悪しは、筆ペンという中性の存在が補ってくれるだろう。

ちなみに、以前母親の筆ペンを拝借して試し書きしたこともある。
多分14年3月頃?これがその一例(他多数)↓

浦和 行書体


最後に、私の勉強と書道の結びつきについて一つ。
私の勉強は言語を主軸とし、更に宗教や歴史など、人文・社会学全般に羽を広げているはずだが、書道とは少し盲目だったのでこれからもう少し注力したい。



https://plus.google.com/u/0/113853869960515555243/posts/jHnEUzd7YeC
1月1日14時過ぎ、豊橋市内の私の住んでる地域でも降雪を観測、同時に母親と弟の動きがあわただしい。

【お年玉12000円】の内訳・・・毎月分2000円+お年玉本体5000円+1月誕生日分5000円。
今年(14年末含む)はお年玉を欲しいとあまり思わなかった、期待をしなかった。
何故かって?→お金というのは、使い道があって欲しいと思うものだが、今の私は頻繁に使うこともなければ、貯めて何か買いたいという意思もない。
12月の小遣いの時にもこんな感情はあったが、今度はその性質がグッと増した。
よって受け取ると逆に「申し訳ない」、との罪悪感が沸いてくる一方だった。

昔は1万円でも些か足りない気持ちでいたのだが・・・

終 zhong 行書体





追記: 2016年11月
2015年1月10日ころにちょこっと更新して「終」の字を載せておいたけど、その下にこうして追記するなんて・・・。
油性ペン書道に関しては本家ブログ・絵の練習記事にも載る(例はこちら)ほか、私の文学作品(?)に向けて揮毫することもあった。
以下の画像の右側の黒い文字が油性ペンで書かれるほか、朱印(印章)もどきの部分も加工される前の状態が油性ペンによる。
絵はシャープペンシルで描かれており、背景は拾った画像を加工したもので、吹き出し内の文字はノートPC備え付けタッチパッドで書いてある。

草書体「觀萌私記」 朱印みたいな篆書体・小篆「萌」