2015年1月24日土曜日

智を弘める・・・実にこれ菩薩の心なり。

「菩薩」という言葉自体は、現代人だと「人間以外の存在・架空の存在」という認識が強そうだ。
「観音菩薩」などの偶像が、世間で知られてると思う。
仏法を学ぶ以前の私がそのような認識で、何とも小難しく感じられていた。

実際にはこの菩薩とは、架空だとか、想像上だとかの観念的な存在ではない。
本来、地上の人間、うつせみの人を指すためのものだ。
「法を弘める」大乗仏教の観点で尊い存在だが、現世の衆生が現世に在るままこの立場になれるものだ。

以下、色々と仏教について書くことになるが、一部聖職者・信者にとっては「教えを無宗教者が語るなど無慚無愧で畏れ多いことだ」と思われるかもしれない。
同じ無宗教の者で、以下存じ上げない方々は参考程度に頭に入れてもらいたい。
私の浅識ゆえ、誤りもあるだろうから。



特定宗派の教義体系で「十界」というものがあり、世間に知られる「六道」から更に仏法上での「聖域」とされる「四聖」の声聞・縁覚や菩薩・仏がある。
十界とは、別次元の空間ではなく、人間に宿る心についても当てられているのだ。
前者の「声聞・縁覚」とは、小乗仏教的に扱われるのだが、これらは「一人学ぶ者、悟りを求める者」の領域となる、世間でいうと大局的には「勤勉な人・学者、哲学・思想・芸術家」などを指す。
よって、この菩薩を同様に定義すると「利他の心がある、救う者、救済者」とされる。
仏はその最たるもので、「悟りを得た者、多くのものを救える、救世主」とされる境界だ。
菩薩と仏なら慈悲の持ち主だが、後者であればもはや大慈悲ということらしい。

「大乗とか小乗仏教って何?」と私も暫し思った時期があったが、上記の解説を見返せばよくわかる、小乗なら「声聞・縁覚と、一人の悟りの為に厳しい修行に励む」ことで、大乗なら「尊き仏法を自ら学び修行するのみならず、菩薩として人にも広める慈悲の心」を持っていることになる。
(乗=大・小の乗り物、すなわち大乗側が小乗と呼びはじめたことは一方的である。)



だが、この「正法を弘める慈悲」という言葉を弄して、入会を強制する教団などがいるのは周知の通りであるが、仏教に無関心な世間では結局「カルトの傲慢・洗脳」程度にしか思われてない。
根底には、この大乗仏教の信条があることを念頭に置く必要がある。

とりわけ、とある2教団では宗祖「日蓮」の「折伏」という言葉が用いられてるだろう。
真実の経=法華経を中心とした「正法」を勧めることと、法華経を誹謗する「邪法」を摧くこと。
日蓮が生きていた=御在世の時代では、法華経を軽視する宗派が乱立したそうで。
変わって現代だと、広い意味では勧誘と同義である。
日蓮の尊き教えを「折伏」という形で広めると「ご利益=功徳」となり、究極の悟り「成仏」への道を築く。
世間の言葉では「ゲームで経験値を溜めるとレベルアップする」といった状態が理解に易い。



某教団のことはよしとしても、記事タイトルの「智を弘める」、「菩薩」の相関性だ。
私はかねがね「知識を共有」と称してこのブログでの投稿活動を展開してきているが、その時は菩薩という概念が己としては遠すぎて理解し難くあったかもしれない。
だが勉強等の結実を、やれ試験だ、やれ学歴だ、等の世俗の名利のために使ってお終いというあまりに儚く用いられる世間を憂えては、私の活動がなんと慈悲深くあることかと感嘆せずにはいられなくなったのである。
もちろん、世俗の名利の布石を打つ上で捨て駒的な用い方も否定しない。
狡猾な生き方が真理である人々ならば、仏法に無智であるまま生きて楽しいことだろう。

智慧を人に弘めること、この菩提心で以て力の尽く限りに・・・
少し難しいことだと我ながら思っているけどね。



なお、私を上述の「十界」で例えてみる。
人間は凡夫、煩悩を絶つなどというのは不可能だと先人は割り切っていて、衝動・欲望・感情を滅するのは健全な人間の所業でなく「灰身滅智」と大乗仏教では称する。
もはや精神が灼き切れてしまい、判断能力も失われた状態でなければ有り得ないとされる。
それでも、悟りに近づけば可能な範囲で、感情等は広く自制が利くようになる。

私の場合、精神状態は常に苛まれて、ふとした局面ではどうにも泰然としない。
「縁覚」を名乗れば僭称であるため、「声聞・地獄」の二面だと自称しておく。

私がよく話題にする某小説でも「灰身滅智」と同様の表現を用いていた。
恐るべき殺気を放つ存在感ある敵を前に、「真っ当な人間なら恐れを懐く、何も感じずに平然とできようものなら、凌駕する力を持つ者か、既に精神が灼き切れた者くらい」だと。
その他、主人公が感情を捨てた殺戮人形っぽく書かれていても、実際は高度に制限されていた扱いであって、奥底で捨てきれない感情の残滓が蠢いていたと描写される。
例えば作品の序盤の方は完全無欠に冷静沈着であったが、次第に過去が読者に対し明るみになる方向に比例して、主人公の悲哀や憤怒、怯懦が描写される。



追記:1月25日
動物について少し考えていたが、野良猫や公園のハトなど思い出して頂きたい。
十界で説かれる畜生道・畜生界の心とは「目先のことにとらわれる」ことを言うそうだが、野良猫や公園のハトはその最たるものではないか。
人間に餌を与えられて、猫はベトベト擦り寄れば、ハトは腕に置いた餌にもバサッと飛び掛り食いついてくるという経験にしても光景にしても私は見てきたのだ。
ところが、ひとたび害されれば弾けた泡の如く遁走していくことが常だろう。

信頼など皆無で、空々しい挙動に終始しているこれこそが、畜生界の好例のように見える。
仏教の先人達は実にそれら世の本質の正鵠を射ていたのだ、と実感する日々。
上記の例だと、餓鬼界の性質も入っているがね。

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