2015年1月7日水曜日

年賀状・・・小学1年生の時は30枚超も書かされた。今では送受とも見る影なし。

年賀状は、もう2011年=中2の新年以降、担任教師からさえ送られてない。
そういった利害関係の者を除いては、親友などいなかった私なら小5時からではないか。

年賀状を人生で一番受け取った年は、2004年、新年を迎えた小1(1校目)の時。
私宛は、全員が同級生男子のみで、その人数は十名前後と記憶。
あまり知らない人からも送られたことは、今思い返せば何となく良きかな。
もちろん、後年まで含めても女子生徒から送られたことは一度もない。

一方、私自身は同じくこの小1=2003年末の頃に、なぜか同級生全員(男女問わず)に宛てねばならず、しつけだとかと目をつぶるには苦行が過ぎるほど挨拶文を書かされた。
よく知らないor喋ったこともない生徒らに、畏まってこんなこと、「受け取る側だって俺のことに詳しくないのだから、どんな思いをするか」と、更に嫌悪感を催した。
結局、その年頃の幼心には「母親が生真面目だからか」ほどで不満を消化させた。

後々思い出した事実と照らし合わせれば、当時母親がPTAの偉い役職だったか何かで、ここに起因して私までそんな母親の業を理不尽に背負わされたのではないか、とも推理できる。
しかし、これに反駁する事実が、逆に私がPTA云々で平凡な立場となったとき、同じく私にもそのPTAのお偉いさん宅の子供から年賀状が送られるべきであった。
然るに前述のごとく、私はクラスメイトからさえ小4ほどから送られた記憶がない。

ならば、私が何の関係もない他人にまで不必要に年賀状を書かねばいけない義務があったか。
あんたの面倒な責任感に伴う厄介事を、躾等を口実に子供に押し付けるな。
私と関わりのない輩が年賀状を受け取って、特に女子児童は相当複雑な思いをしただろうし、無論、書かされた私となればその比ではない。

こんな苦行を強いられた幼少期に反して、そのある時期から今日まで宛てる相手もいない。
温もりの篭らず、ただ苦痛だけが滲み出たダイイング・メッセージの刻まれし死臭漂う紙切れなんて、誰が見て嬉しいものか、すぐ捨てられる紙屑に過ぎない。
その葉書も、量産テンプレ陳腐で無個性なデザインで見飽きた。
一方私がその年に受け取った年賀状の一部は、送り主の思い出の写真付きで少々個性的だったと記憶しているが、あの母親は本当につまらない人間性を発露させたね。
ある種の感情論ではあるが、幼くして彼我の隔たりをありありと見せ付けられ、この時痛ましい思いしかせず。
もちろん家出前の父宅に残されてる実物を、豊橋現住の母宅で再見できるわけもなく。

こんな腐敗した、ただ艱難辛苦を請け負うだけの形骸化した行事。
郵政省の商業主義的な鈍臭い風習に、人生で私は何の喜びに与ることはなかった。
結局、私はいつも称している通り「世俗の名利に無縁な境涯」を与えられてるのだから、「名利の名」に関連する年賀状なんて、これまた無縁だろう、と結論付ける。


今年の年賀状も当然私宛などあるはずもないが、あの施設入所から久しい婆さんには、牛久のアパート宛の年賀状一通が、1月5日に豊橋のこちらに転送された。
アホ臭い年賀状を送ってきて、あの痴呆ばあさんが見て何を思うか、送り主の彼らを覚えているか、その感慨などを抜きにしても、物理的にあのばあさんの目に通ることはない。
「施設入所」されていて、ばあさんの目に通るわけがなかろう。
ばあさんの近況も知らず、誰もいない空家に宛てて、転送された先にも当人が存在しないのだからなんとも喜劇じみている。
あの母親としても当該施設に送り直す面倒を踏むと思わない。
ところで、あのばあさんの施設生活が如何なるものか、未だ何の通知もないね。

また、下の弟は学校の特別支援学級の担任(?)からのみ、母親は・・・多分5枚くらいだろう。
前の家での記憶、父親は2011年だと確か会社の同僚数名か、あるいはどこか日本郵便等、こちらの住所を知ってる企業が自動で送りつける形式の年賀状などだった気がする。
上の弟は私と同じく、知己の者やまして友人とかはおらず、送り主の思い当たりがないため、年賀状は一通も宛てられてないだろう(強いて言えば児童養護施設)。
結局、私はいつも称している通り「世俗の名利に無縁な境涯」を与えられてるのだから、「名利の名」に関連する年賀状なんて、これまた無縁だろう、と結論付ける。



後年の追記・・・年賀状とは、明治以降の近代化・物質文明によって紙の生産性が上がったことで爆発的に普及した事物・文物であろう。それ以前に似た習慣を持つ人間がいたとしても、現今の年賀状とは大きく異なる。逓信省、郵政省、日本郵政・・・。この風習自体は、日本人のアイサツ精神に起因するものであろうが、年賀状という習慣はその「印」であろう。これに偏重し、しかも顛倒の如く他人へ強制した母親はどこまでも判断能力に乏しいか、盲目的虚栄心があるか。この小1(1校目)の3学期は当時の小学校で不登校の期間にも近い。私のダイイングメッセージ的な肉筆の「あけましておめでとうございます」など、誰がもらって喜ぼうか、その精神性や感受性など、あの母親は持ち得ない。母親の如き者や民営化日本郵政らがこの性質を強めれば、まさに形骸化して淫風陋習でしかなくなる。


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