2019年1月8日火曜日

究極の主観性・客観性と、入れ子構造の共通主観性(限定的客観性) ~言語・美術・音楽・宗教から

共通主観性(common subjectivity, consubjectivity)を知ることは、人間の認知プロセスと大きく関わる言語・美術・音楽・宗教の分野の学問に大きく寄与する。
あるいは、それら分野の学問に対する考察を深めた者が、共通主観性を知る。
多様性と画一性とが究極に拡張された、その中間には無数の階層による入れ子構造が見られる(e.g. 数字1~nの中間に無数の自然数や小数のような数字が有ると見られる)。
そのように、究極の主観性・客観性と、入れ子構造の「共通主観性」を見る。

まず、当記事で「客観性"objectivity"」があまり扱われないことは、その前提(先行定義)が「客観的存在=認識の客体"objects"は本質的に無・空"empty"であり、共通主観性と分離しておく」というためである。
要するに、論理学でいう「真"truth, true"」や自然科学の知見もこの定義での客観的な判断に基づく「最大限の共通主観性"maximum consubjectivity"」の範疇であることとなり、一般世間の常識は、それに劣った通俗的なものであることになると留意されたい。
客観的に正しい事物とその認識を有する者は誰もいない・客観性は存在しないという前提で読みながら、「共通主観性」について色々と考えられればよい。



言語における例
例えば、言語音声に関して考えられることがある。
以下、 [ ] や / /によるIPA(国際音声記号)の使用に注意されたい。

日本語の「さ行」は過去の日本語(古代・現代の方言)における異音"allophone"として [sa] [ɕa] [ʃa] [t͡sa] [t͡ʃa]  [t͡ɕa] が有り得ることが、当ブログの過去記事(12)に示されている。
現代日本語で「さ /sa/・しゃ /sha/」は音素"phoneme"として弁別的であるが、「し」は母音イの「前舌の狭母音」という特徴のために硬口蓋化を起こして(あるいは古代に硬口蓋音だったものが化石的に残ったという見方もある)「さ」とは異なる音/shi/となっているが、基本的に日本語の標準的な語彙では/shi/を「すぃ/si/」と発音しても問題が無い。
「さ・しゃ」の音の矛盾は、ある意味で現代的に便利な「相補分布」をなしていると言える。
「しゃ」の音価"phone"は日本人が自発的に発する場合に [ɕa] (無声歯茎硬口蓋摩擦音)である(「し」も同じ子音 ɕ)。
他言語から転写された結果の場合、原語の音価(原音)は [ɕa] に加えて [ʃa] (無声後部歯茎摩擦音),  [ʂa] (無声反舌摩擦音)が有り得る(母音aは厳密に中央母音 [ä] だがここでは簡略化)。
「さ」の音価も他言語から転写された場合、その原音は一般的な [sa] (無声歯茎摩擦音) のみならず、[θa] (無声歯摩擦音)が有り得る。

[s] 以外の「しゃ・さ」について、日本語カタカナに転写された外来語の語彙を例示しよう。
※これら子音に母音「あ」以外が付いた形式を、基本的に省いておいた。

[ɕ] …「シャマタ=サンスクリット: शमथ (IAST: śamatha 漢訳仏典:舍摩他 パーリ語の同根語: マタ"samatha") (同言語からの例はシャーンティ शान्ति śānti, シャーストラ शास्त्र śāstra)」 (他言語では中国語ピンイン Pinyin: x によるものが有る)
[ʃ] …「シャツ=英語: shirt, shirts (単数形の場合 IPA /ʃɝt/) (同言語からの例はシャープ sharp)」 (他言語ではヨーロッパの一部や中東やイランなどに見られる)
[ʂ] …「シャンハイ=中国語普通話(官話): 上海 (IPA /ʂɑŋ xaɪ̯/ Pinyin: shànghǎi, English: Shanghai)」 (サンスクリットにこのシャが語頭の語は数詞6 ṣaṣ- シャシュ系のみがある。二重子音や語中のものではクシャナ क्षण kṣaṇa 刹那・クシャトリヤ 刹帝利・ラークシャサ 羅刹、シャ文字列にこだわらない場合はクリシュナ कृष्ण kṛṣṇaのシュが有る)
[θ] …「ード=英語: third (IPA: /θɝd/)」 (他言語ではヨーロッパのごく一部やアラビア語などに見られる)

日本語話者にとって、音声学における異なる3つの子音 [ɕ] [ʃ] [ʂ] は、共通主観性によって「しゃ行(シャ音素) /sha/」となる。
外国語知識に乏しい時は、共通主観性による「しゃ行」の概念が、そのまま当該外国語に通用すると思うことになる(つまり同一言語の話者集団の共通主観性=限定的客観性はもっと広い領域に通じづらくもある)。
現代中国語とサンスクリットでは [ɕ] [ʂ] が区別される(IAST: ś, ṣ Pinyin: x, sh)が、[ʃ] は基本的に発せられない音と、言語学・音声学でみなされる(発せられても ś श Pinyin: x 音素の異音として認識できるもの)。
同じように、多くの自然言語・人工言語では、基本的に [ɕ] [ʃ] 間の区別をしない。

その両者の一方の音が、何らかの言語で用いられない音価であれば、妥協してその類似音を持つ音素に同化(または中性化)させて借用することとなる。
既成事実化した状態で、外国語知識に乏しい話者がその言語(母語)の特徴に同化させられた借用語を知ると、原語の音価との相違点に疑問を持たないことになる。
それであっても、その言語の内では何の問題も無いし、世界的にも多くの自然言語・人工言語で [ɕ] [ʃ] 間の区別をしない以上、人類の言語の広範における共通主観性=限定的客観性が、その範疇で通じることは観測できる。

言語音声において以上のような例は枚挙にいとまが無い。
そのため、言語学(音韻論・文字論)において字素"grapheme"・音素"phoneme"・音価(音声)"phone"などの仮定・分別の概念が用いられている。
例えば、"ch"綴りの字の単語も、英語では次のように認識された語源に基づく音が用いられる。
古代ギリシャ語由来の場合…軟口蓋破裂音 [k] (as in chaos, charisma and character)、
現代フランス語由来の場合…後部歯茎摩擦音 [ʃ] (as in charlotte 人名のみならず一般名詞でもある。ちなみに日本語だとショコラ"chocolat"やラングドシャ-chatが定着)、
他の多くの場合…後部歯茎破擦音 [t͡ʃ] (as in chant and chakra 前者はラテン語canto系で古フランス語経由であるが後世のフランス語と区別された方がよい。同系のフランス語にシャンソン"chanson"が有って音楽ジャンルとして日本語や英語に借用される)

日本語に入った古い中国語の語彙も、漢字の音読みの「呉音(主に仏教系由来)・漢音(主に漢籍や明治訳語由来。当然作者や普及者のリテラシーや慣用性の差でそれらに呉音や慣用音が混ざりもする例はある)・連濁の有無」といった区別で意味を区別することは多い。
ましてや現代中国語においては、なおさら、その音をカタカナ発音にして借用することが有ろう。
英語も日本語も所詮は自然言語であり、近代以前には庶民レベルで慣用的な意味の変化や歴史的な音変化や語源の混同などが多く起こっていたため、必ずしも一定でない。



語彙、概念の名称たる言葉(ことば)についての例は、私=筆者が過去の投稿・執筆のうちに多く記してきた。
現代において「萌え(可愛い存在・可愛さを覚える精神作用など)」はその極みにあるため、「萌えの典籍」では和語としての原義(芽が出ること)を含めた多くの意味を「摂取」しつつ、真実・真理を示す譬喩に用いた(当記事後述の「三萌義」も参照)。
一つの萌え、多くの萌え、無の萌え、それについての総説であり、「萌尊、広く万物諸法を摂るが故に、生類の美女・醜男・童子・獼猴・禽獣みな萌えにして萌えならず、而も萌えならざるは無しと説く。萌尊、汎き萌えを観じて一萌・多萌・無萌と知り、方広の義より萌えの三身を説く(萌集記・イデオフォノトピア遊行の事・三会)」とある。
実に結論なき結論たる「而萌不萌(萌而不萌)=萌にして萌ならず(觀萌私記・讃萌語脚注)」とも説く。
萌えの真実が分からないと、萌えは善か?悪か?そもそも萌えとは何か?植物か?二次元美少女か?三次元美女か?欲望の心か?綺麗な童心か?という「一語とその事物に関する多義性・曖昧さ」による論争が起こることになる(=人間は善か悪か?そもそも人間は価値判断できない赤ちゃんから賢明な為政者まで色々いて云々、といった世間のあらゆる論争に等しい。あるいは言葉を用いる人間の中に無自覚的な善悪意識が潜在している上で種々の言葉が発せられる傾向も多いため世間の言葉は慎重に吟味されるべきか、そもそも多くの場合は意に介すべきでない)。
何であれ世間の言葉=語彙・単語について、「この言葉は自由に用いられる」とか「この言葉は辞書に載る客観的な定義(正しい意味)に従わねばならない」とかという、相反する主張ができる。

要するに、言葉の意味には辞書的な定義と、それに相似するか相違する多くの実際の用法とが有り、枚挙にいとまが無い(当記事後述の「量性と定性~その場限り"ad hoc"」も参照)。
文法(語順・語形変化に関する規則性)や発音なども「通時のもの(恒常的)」と「暫時のもの(便宜的)」とを使い分けることは、口語のみならず音楽の歌詞・古代の韻文(詩)にも多い。
そのため、言語学者のうちの高名なソシュールという人物は、「ラング"langue"・ランガージュ"langage (It's not English term language)"・パロール"parole"(この3つの単語の訳語は小林英夫1928で言語・言語活動・言とする。インターネットでは言語規範・言語運用といった別の系統が主要。英語ではBaskin, 1959でlanguage, human speech, speakingが見られた)」という仮定・分別の概念を提唱したとかと、近代言語学でよく知られている。
これは先述の言語音声に関する見解に、「字素"grapheme"・音素"phoneme"・音価(音声)"phone"」などの仮定・分別の概念が用いられていることと同様である。
それらは、「理論と事実(理と事…過去記事を参照)」、「演繹と帰納」、「条文と判例」のような二項概念に極めて多く類例を見る。

また、ソシュールさんのいう「記号の恣意性(arbitrariness of the sign; フランス語 arbitraire du signe, 意味は能記signifiant 所記signifié の間に絶対的な関係が無いこと cf. Cours de linguistique générale)」も、当記事にいう共通主観性=限定的客観性のようである。
当記事冒頭に「無・空」ということについて言及したが、「自作"Dominus Immensus"歌詞注釈文」にも同じような話がされているので、当該記事(2018年6月9日)より引用する。

2番Aメロには"quod apud mensorem erat, illud verbum omnia metitur, immensa causa ad principium"とあり、中日訳は「語言は量りて有るも、亦た是れ一切を量る、乃往の縁無量なり」とする。
前半のフレーズは「人によって用いられた言葉はその人の事実認識と推量行為とに依存する」と説いている。
何らかの言葉を初めて用いた人の意思によっても、後世の人の用法によっても、辞書の記載によっても、決して本質的な言葉の単一意義は無いという空の教義にも基づく(過去記事)。
そのような言葉の原初・往古における実質的語源は不可得・不可量であり (後略)



言語に関する他の例として、言葉と同じように用いられる「数・数字」がある。
以下に過去記事(2017年7月10日投稿)より、その話を要略して引用する。
科学も数学も、物事を数字に換算するが、それは、どこまでも「言葉と言葉に定義された物事とを知る者自身や、理解が共通する他者」が意思疎通をすることのために行う。
例えば、1つと想定されたコップがあり、それと同じ形・絵柄のコップもう1つを隣に置けば、2つと想定でき、これが"1 + 1 = 2"という数式となり、道理として肯定できる。
しかし、そのコップがどうして「同じだ」と言えようか?
部分的に傷が付いていると気付けば同一性を見失う人がいる。 例えば、キズやシミが付いていると認識された商品を販売しない店がある(つまり商品価値としてキズやシミが付いている商品は他の商品と「見栄えや安全性が等価でない」という点で販売者にとっての同一性が失われたことになる。無論単に販売しないことには別の感情に基づく要因など種々に想定できるが与えられた命題と関係ない話)。
しかも、工業的に大量生産されたコップでも、分子レベルで分析すれば多くの微細な差異が有ろう。
実生活での計算とは、「おおよそ・テキトー」な感覚で、「これは同じだ」と「仮想」しているに過ぎないが、このように仮想した範疇では、どう傷が付いていても、サイズや絵柄が異なっていても「同じコップだ」と想定することができる(基準が曖昧な子供などは同一性と相違性が混沌としているし見た目の話をすると視覚障害者に不親切でもある)。

次に、コップの中に水が入っているとしよう、世間では80mlとか80ccとか80gとかと単位を付けて数値化するが、普通のリットル換算では80mlも80ccも80gも"0.08L"である。
単位が変わっても数値が同じままのこと(80ml = 80cc)があるし、単位が変わったことで数値も変わること(80ml = 0.08L)があるし、単位を置き換えることが通じないこと(ml ≠ 電力Wなど)もある。
その水の体積や質量や重量やをどのように表現しても、コップの中の水は無数のH2O(天然水・水道水などに混ざる不純物を考慮しない)が集まっており、体積は温度によって変化しやすいし、常温に置けば瞬間ごとに気体・水蒸気として遊離する。
真理においてコップごとに同一性は無いが、もし同一性を言いたいならばコップと名付けるものはみな同一のコップであるし、コップの中の水をどう数値化して複数個用意したところで同一性は無いが、数値化した範疇=想定の範疇で同一性が認められる。
定義をして名称を付ける行為は、水の入ったコップに「80mlの水」とか「2017年1月1日0時に汲んだ水道水」とか「この水、飲まないで!」と多種多様にラベルが付けられるよう、人の都合・人の目的・人の便宜のために行われるのみであり、真実は空虚である。
このように「想定・概念・名称・数値」の世界に生きている分野が科学や数学であり、その世界では計算や実験を成功させるための厳密な定義が重要となる。

※注釈範囲: 酸素は人の生存に必要だが、多いと過呼吸になって死なせ、燃焼すれば人を殺す。物事は、置かれた状況や価値判断など挙げきれない多くの因縁の結果にのみ、必ず善悪が分かれる。酸素や水は、善か?悪か?どちらでもあり、どちらでもない。水の認識すら、物質H2O(水素と酸素の化合物)という人や、無味無臭無色透明の液体という人や、泥まじりのものしか見ないという人(一部のアフリカなど)もいる。水の用い方は千差万別になる。水中で呼吸できない生物に対する拷問にも使える。つまり、水は万・億の善と万・億の悪を有するものが、それは無い。 →この※注釈範囲には中論という仏教論文の23:8-9偈24:18偈23:15偈が順に提示される。

他に、自然科学の知見によって「100%というものの誤謬」を言及する。
以下に過去記事(2017年3月8日投稿)より、その話を要略して引用する。
科学ではエントロピー増大則があり、自然現象としては刻々と変化してゆくという法則を免れられないから、人間が手を加えることで修正ができることを説明する。
無論、分子レベルで100%同一のものに戻すことなどは不可能であろう。
数字・理論で構成されたコンピューターの世界であれば、情報を擬似的に変化させつつ、擬似的に戻すことができ、理論上は100%同一のものに戻せる。
例えば、ある人がモニタ画面・ディスプレイにR = 255, G = 255, B = 255の真っ白画面を表示させ、それをR =0, G = 0, B = 0の真っ黒画面に変化させ、再びR = 255, G = 255, B = 255に戻すことは、それで理論上、100%白の画面を100%黒の画面に変えて戻すことが成立している。
しかし、モニタ画面・ディスプレイに出力されたものとしては、液晶・ブラウン管の構成物質や発された光などの条件が微細に異なっているため、この観点で100%同一のものでない。
ましてや、そのようなものを人間の目を通して捉えたものとしては100%になることはない。

物事に「100%」を言う場合、ある一面についてを指すものでしかないと思ったほうがよい(アルコール度数0%ビールとか果汁100%ジュースという製品の表示も"許可表示"であって実質的数値とは言いづらい)。
100%云々については「理と事」について語った記事の通りである。
90%や、99%や、99.999...%の再現ができても、物質の分子レベルの在り方や時間上の同一性を問うた時、どうしても100%になることはないという。
基本的に「100%」という表現は、そういった厳密な定義や微細な条件を排除した便宜上のものであるが、大概の場合は、そういった観点での100%か否かを気にしないであろう。
物事の予知(予測)において「確率は0%だ、100%だ」といった断定も、ある特異な条件(人の死・地球崩壊など)を排除した場合に言われる推量・推断の域を出ないと留意すべきである。



美術における例
例えば、ある絵画に描かれた人物は、男性なのか、女性なのか?
そもそも人物ではなく、天使や悪魔や妖精(精霊)や妖怪や幽霊や獣人などの人外系かもしれない。
ある部分に用いられた色は、それが赤であるとも、茶であるとも、黄であるとも、他の色々な同名異色・異名同色らしい名であるように言える。

そして、そう認識し得る色や描写された客体(オブジェクト a object; objects)について、それが「美しい」とか「醜い」とかと価値判断されたことが、どのような他人たちに共通するか?
例えば、ブグローさんの描くヴィーナスやキューピッド(男の娘)が美しい(ヴィジュアルがかなり官能的だが)、そして背景も綺麗で優れた作品だという評価が有るとし、諸君はどう感じるか?
肉体的性別でいう男性同士ではどうか、女性同士ではどうか?
民族的に日本人の内ではどうか、他の東アジアの人々ではどうか、西洋の人々ではどうか?
日本人の内での未成年ではどうか、若年層ではどうか、高年層ではどうか?

何らかの主観性によれば、ムンクの「叫び (Skrik)」や、ピカソの絵画作品(i.e. cubism および類例として20世紀の西洋絵画の多くの例)を好むことがあり得る。
一部の人は、世間の眼における優れた美術作品よりも、「子供の落書き」や「学習途上の児童が一生懸命に描いた絵」を好んだり、それらに執着して他のものを嫌うこともある。
または、ある人が元々好みでない絵柄を、当人が同調したい性別・年代ないし一個人に合わせ(無意識・潜在的にそうなることが特に重要な現象)、そのような絵柄を好むようなことも有り得る。
※なお、単にある人が誰か好きな他人から注目を受けたいとか親交を深めたいとかといった美術の目的を離れただけの条件は、当記事の主観性に関する主題から離れるので除く。

萌えの典籍では、それらの事物・視覚表現の特徴の同一・別異の性質を解明して説明する。
どのようにして最高の美術作品が出来上がるかといえば、最高だということの基準(=最低だということの基準)自体が把握された心に本来出来上がっているか、今直ちに出来上がるものである。
過去の芸術家(画家・彫刻家)たちが言及した「芸術"Art"・自然"Nature"」とは、各々定義の異なりも有ろうが、萌えの典籍の説によれば、以下のように究極の主観性と共通主観性とに適用できる。

・心に本来ある"natural, original"最高の美術作品=究極の主観性についての譬喩
・世俗的な(五感・五官で知ることのできる)に認知し得る優れた特徴を持つ美術作品=共通主観性についての譬喩
これらを知る者が「萌尊」であり、心に本来ある"natural, original"最高の美術作品を「心」自ら照らし出す・顕現させる能力も持つ。



この心は、萌鏡真言にあるような"Paramaratna"を得た心である。
ॐ परमरत्न गुणप्रभात  स्वाहा | (IAST: Oṃ parama-ratna guṇa-prabhāta svāhā)
それで「真の自己満足」もできるが、他者から尊敬されるような者である以上は、客観的もとい共通主観性にならった世俗的な善・他者への顕示もできる。
世間の人格者とかということも、彼の内にある高尚さ(本当は他人に知り得ないこと)に加え、世間・世俗に讃えられる何らかの共通主観性が認められる前提に、その尊敬や称賛が有ろう。

萌尊は、「萌え(i.e. あらゆる動詞由来の名詞全般)」の多義性のうち、骨組みとして示された「三萌義」の理解(事物の存在・その認識・執着ある心による全てに対する価値判断)を必ず得る。
それは仏教教義の十二因縁(十二支縁起)などともよく通じたものであることが、「注三萌義」などに説明されている。
物事の自然を見て芸術にするという芸術家は、多かれ少なかれ、これに近い精神性が有ろう。

この「萌えの法門」において必ずしも適用されない芸術理論に「二次元・三次元の相貌の相対的な互換性に関する理論(および相対的なデカ目度の測定)」がある。
これは、後述の音楽にも通用するような「人間の多少の先天性で定義された共通主観性」に関連しつつ、後世の主観的な認知の普遍性を明らかにしようとするものである。
果たして現代日本の美少女や美少年のイラストは、その特徴が、どれほどに実在人物の美人や、19世紀以前の西洋絵画・彫刻の人物の表現と相通じるものか?
「美しいとされるもの」を絶対性によって写実的に再現することに対し、相対的な範疇において擬似的に再現することがどれほど有効であるか、考えることとなる。

眼色 浄不浄 快不快

以下に、「晴天と草原」の色彩が「快楽・不快感」のどちらを催す因縁(原因・条件)となるかを論じた萌えの典籍の説(萌集記・イデオフォノトピア遊行の事・二会・拾主と尊者の問答)を引用する。
 尊者が「なでなで三昧」より出でて言葉を聴く心に変えたことを拾主は知ろしめし、法の解説(げせつ)を始められます。「晴天の色は澄み渡って心地がよい。その蒼茫たるさまに、我が心も澄むようである。草原の色に生命の息吹を覚え、環境の恵みを心身に受ける。晴天と草原と、そのハーモニーは人間としての煩いを離れさせると私は感じる。ここでそれ以外の事象を介在させないでほしい。例としては、視界の外に汚物が堆積しているとか焚火がされているとかで害悪のある臭いが漂っている、などである。晴天と草原の風景は、青と緑が彩る。その色彩について『生々しくて気持ちが悪い・青空や植物に悪い記憶がある』と感じる人もいる。人の感性とはそのようなものである。私がどのような美辞麗句を以て光景を讃嘆すとも、決して心に容れない者がいる事実は排除できない。それでは障礙の者よ、そなたに問おう。目に見える色そのものに『快・不快(浄・不浄)』が有るのか?」

 「いいえ、拾主さま。そうとは思いません!」 - 拾主問曰「障礙(尊者之名)、於汝意云何?眼色是淨耶不淨耶(or 眼色有垢淨不)?」。尊者答曰「不也拾主!」。

 「善く答えた、その通りである。色そのものに『快・不快』は具わっていない。この『色』とは、いわゆる五色(ごしき、青・黄・赤・白・黒)に代表された、単純に認識されている色である。しかも、目に見える色の和合(関係性)にもまた『快・不快』は有るということが無い。この『色の和合』とは、青と緑のハーモニーであり、その状態は青と緑の光景の場合に『生き生きとして気持ち良い(快)・生々しくて気持ち悪い(不快)』という二面性を有している。加之(しかのみならず)、いわゆる声・香・味・触・法(しょう・こう・み・そく・ほう)もまた『快・不快』という固有の性質"svabhāva"を有していない。色と声・香・味・触・法の六境の中に和合があっても、同じく『快・不快』は有るということが無い。それでは障礙の者よ、復たそなたに問おう。なぜ、色そのものや色の和合ないし六境といった諸法(ありとあらゆる物事)に『快・不快』は有るということが無いと考えられるか?」

 「はい、拾主さま。諸法は、存在と認識とに代表される五陰(五蘊、色・受想行識)など、表現しきれない衆縁(しゅえん・諸々の因縁)により、『存在するもの・存在している・存在していた・後に存在するかも』と認識されています。色に『快・不快』を覚えることも、その色の概念と名称とが記憶された状態においてその人の感情がどうであったか、その人がどのような物事と結びつけたかにより、いつでも『快適さ』か『不快さ』を得ることになります。別の情報・記憶・経験を通している(思惟憶想をする)ので、如実に物事を見られなくなる顛倒がございます。元々知らないことでさえも、新たに知った際に『知らなかったから感動した・知らなかったから悔しい』といった『快・不快』の感情を起こします。このような衆縁が煩雑にして夥しく確認でき、どれほど分析しても言葉にしきれません!」

「観萌行広要」関連文章には、絵画を見る心に加え、画家(画師・絵師)の心についても哲学的に言及されている。
http://masashi.doorblog.jp/archives/50230561.html

他、主観性の視覚表現(主観性による視覚表現・主観的に認知されたものを視覚的に表現したこと)は美術作品において種々に見られる。
・風景(自然や市街のみならず一個体の客体である植物や建築など)や人物に見られる部分的な誇張(いわゆるデフォルメ。それは主観的に誇張されたものであるために文化や時代によって手法が異なったり見る者の美醜の価値判断も分かれる。しかしなぜ良いと感じられるかについては良いと感じられる主観的理由・精神面の統計学的研究や観測機器利用実験のみならず、客観性の側面においても作品の幾何学的な特徴・傾向を考察する必要もある。 cf. 二次三次相対互換)
・尊い人物・聖人の肖像における光のようなもの(光背などと言われる。仏像でも頭頂から光を発するなどとある。三十二相の眉間白毫相は別の話。イスラム教ムハンマドの偶像でも密教の明王のような焔が描写される。後世のフィクション作品・漫画類では尊い人物・聖人以外に肉体的に強い人物の気功とか波動とか気の流れとかオーラとかとして表現されるようになる)
・人間は顔ないし頭部で人間ごとの区別をする傾向にある点で、その辺の特徴を抽象的にするか、非現実的なもの(髪色・肌色として存在しない色を用いたり極彩色にするなど)にすることで生々しい人間らしさを低減しつつも人間として認識し得る特徴を残すことができる。単純にデフォルメの類ならば動植物でも同様にできるが、人間に対して行うと、やはり好き嫌いが分かれよう。現代(早くて20世紀初頭から現在まで)の芸術関係では写実的な美貌を備えた人間視覚表現が減ったようである。
・人物の外見に対する美醜の価値判断は、先天性と後天性とによる。先天性によっては、本能的に雌雄の目的性(生存・繁殖の適性)に沿ったものが美しい・性的に望ましいと見られる。虫や鳥のオスにおいて、外見が華やかであること・鳴き声が美しいことが好例である。人間においては「男の肉体美・女性の豊満さ(masculinity, femininity)」などが挙げられる。性的"sexual"であり、性差別"sexuality, sexism"である。それはある種の客観性でもある。しかし、人間は後天性による主観性が強い一面もあり、それは物質的に裕福で精神的に自由な傾向にある時代・文明に顕著である。その場合、「男の肉体美・女性の豊満さ」が必ずしも人物の外見におけるアドバンテージ(利点)とはならない。五感を有する人間各自の主観性には相違点が許されるが、多かれ少なかれ、同じ時代・文明に共生する者としての共通主観性による類似点も有ろう。



音楽における例
音楽の良し悪しは、極めて主観に左右される。
先天的資質も考えられるが、ここではあまり言及しない。
特定の不自然な音には危険を察知する反射が有る、と人間や一部の動物から確認できるであろうが、特に人間が音楽においてそういったイレギュラーな要素・意外性を効果的に用いることは可能である(それは前衛的だとか実験音楽だとかと言われる)。
それであっても頻繁にされると、そのリスナーは学習能力によって慢性化(ウンザリ)するので、「効果的」ということも人間の主観性に基づくこととなる(まずは個人レベル・自己の心を自覚・意識し続けることが大事)。

おおよそ、後天的経験に音楽の良し悪しの感覚(梵語でいえばsukha, duḥkha 古代ギリシャ語由来の英語でいえばeuphoria, dysphoria)は分かれる。
男声が良いとも、女声が良いとも、そもそも音楽に人の声や歌詞は無い方が良いとも聴かれるし、その逆にアカペラなど声のみの音楽が良いとも聴かれる。
楽器構成については、シンプルで音色が自然なものが良いとも、シンセサイザーを主に用いた系統が良いとも、一般的な(古典的ともいう)音楽と特徴を異にするアンビエント(環境音楽)のような系統が良いとも聴かれる。
あるいは、特定の目的性(e.g. ダンサーがダンスに合わせるため or 詩を読む・歌うため or 手軽に音楽を聴ける現代において「作業用BGM」とするため)で音楽の良し悪しを分別している者(それは同時に、特定の目的性を除いて別に良い音楽が有ると思わない者でもある)もいようか。

物質的に豊かになった時代においては、多くの音楽表現が可能となっている。
それで、既成のジャンルに対する反骨精神によってアンチテーゼを突き付けて新しいものに止揚することも有り得る。
それらは音楽史を多く参照されたい。
私=筆者の過去ブログ記事には、以下の例がある。
2015年4月17日: 「依法不依人」に音楽の好みを惟う
https://lesbophilia.blogspot.com/2015/04/blog-post_17.html

2016年5月13日: 音楽と宗教の概論 ※メタルのジャンル分岐とセクト主義に関する話がある
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/05/musica-et-religio.html

音楽理論のうちの客観性の例として、科学的・数学的な精緻さが有る。
古典的な音階・コード理論が先にあり、近代の音波周波数のような知識で裏付けしたようなものが、今日の音楽演奏と制作のツール(実際の楽器やソフト音源やVSTiはもちろん、MIDIシーケンサーやDAWソフトでノートを打ち込むシステム)に浸透している。
例えば、鍵盤が88ある標準的なピアノの中央付近のラの音の周波数が440 Hzである場合、1オクターブ下の音の周波数はちょうど半分の220 Hzであるように、1オクターブの前後はその音の等倍・等分であるように調律・チューニングがされねばならない。
その近代以後に音楽へ与えられた科学的・数学的な知識が無い者でも、聴覚的な良し悪しに従って音楽演奏と制作が可能であるため、いわゆるブラックボックスの技術であろう。
そういった客観性の前提で、いくばくかの作者の主観性をまじえて「最高の音楽」といえるものをいくつも開発することもできる。
しかし、それだってリスナーの主観性の強さを重んじて考えれば、最初は良いと思われたものも、同じものや似た別物をいくつも聴くならば、学習能力によって慢性化(ウンザリ)することが想像に難くない。
また、何か悟りレベルで感性の優れた者が音楽(周波数の高い・低い音で構成されたもの)について「今聴こえる音楽も所詮は空気の振動の類だ。何であれ音という事物に好悪は無い」と観ずること(感じること)も有り得る。
客体は一つであっても、主観性によって「最高の音楽」と感じられるし、主観性によって好悪の別れもあるが、認知における客観性を強めれば、客体に関する好悪は無くなってゆく。

何を聴いてどう思うか・・・、それはまさしく主観性である。
何らかの理由・音楽理論で好悪や優劣を求めることもできるが、共通主観性の範疇であり、本質的には=客観的には、全て等しく価値が無いものとなる。
ただし、もし誰かが「この音楽はよい・好みだ」と感じて作曲するにもかかわらず、その人が10年かけても音楽理論で言える類似性が少ない(多い・少ないの価値判断も主観性だが)曲のみを作るならば、やはり「模倣さえできない・作曲者として劣っている者(しまいには人間的にもアレ)」と価値判断されることとなる。
音楽で快楽を得るどころか、最終的な快楽に至らない苦しみだけの過程と結果とに留まることとなる。
だから、音楽を志す人は、それで金儲けすることを志さない場合には、主観性の自覚・意識が肝心であろう。
しかしまた、金儲けをしたい者であっても、自己の主観性と他者の主観性とにおける普遍性を利用した意欲的な作曲が、時として「世間での極端な成功」のきっかけとなりえる。
やはり、世間の道は、何であれ、茨の道である。
「生と死」というテーマにまで拡げないにせよ、真の客観性の前ではいかなる認識行為による苦楽・善悪も空虚であることは知られたい。

音楽を作る者は、ひとまず共通主観性に則って音楽理論による「心地よい音楽・ハマる音楽」の特徴を知ることになる。
歌詞を書く者は、詩的な特徴…フレーズごとの拍数・音節数や韻(rhymes, 頭韻や脚韻)、音階の上下に伴う母音の広さ・狭さ(e.g. 次に来る音が相対的に低いと相対的に狭い母音を使う)など、様々に考察する。
何であれ、そのような努力をするならば、他人の音楽作品を聴く際に音楽理論や詩の韻律論や言語発音などについて意識をするために他人の音楽作品を、作曲や作詞をする以前の頃(e.g. 幼少期)と比べて「心地よさ・ハマり」を得なくなるし、苦しい気持ちすら強めかねない。
しかし、そうして作曲や作詞の努力をする者が、「作曲や作詞をする者としての主観的な快感(快楽・喜悦)」を得ることもあろう。
過去の高名な音楽家に、そういう者がどれほどいたか分からないが、時に、その主観的な快感を得ることは、数年でも作曲や作詞の努力をする者が誰であれ、得たこともあろう。
音楽理論や詩の韻律論や言語発音などを知らないリスナーには、その者にとっての音楽に対する快感があるように、「作曲や作詞をする者としての主観的な快感」が有る。
これも「生と死」というテーマにまで拡げないにせよ、真の客観性の前ではいかなる認識行為による苦楽・善悪も空虚であることは知られたい。



宗教における例
信仰を持つ人々は、何らかの理由で自身の奉じる神を他方の神と「別異」であるとみなしたり、「同一」であるとみなす。
モーセやダビデの感じ取った唯一神と、イエス・キリストの感じ取った唯一神と、ムハンマドの感じ取った唯一神とは、相互にどう異なり、どう同じであるか?
なぜ唯一神の名は、多神教の神々と同じような名称であるか?(アラビア語のアラー=アッラー=アッラーフ الله 定冠詞の有無や英語"God"大文字による固有名詞化などの区別によって別の語句・別の概念だとも言われるが、それ自体なぜ? cf. イスラム教のシャハーダでは"lā ʾilāha ʾillā llāh"として英語でいうgodやdeityは無くGod = Allahのみがいるという)
なぜ唯一神を示すために、時として無数の名や言葉を用いる必要があるか?
※例えば「イスラエルの神」や「万軍の主(1サムエル記1:3 צְבָא֖וֹת)・我が主」や「我が父・我らの父(マタイ6:9 Πάτερ ἡμῶν)」や「慈悲深きかた(クルアーン55スーラ الرحمان)」などという。イスラム教にはより多く・明確に、唯一神の異名が称えられる。仏教の仏についても現世に現れた釈迦牟尼仏や過去世の仏には「十号(10~11の称号・名号=如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御大夫・天人師・仏・世尊 サンスクリット: tathāgata, arhat, samyak-saṃbuddha, vidyā-carana-saṃpanna, sugata, lokavid, anuttarā, puruṣadamyasārathi, śāstā-devamanusyānām, buddha, bhagavān パーリ語は如来を除いた9~10種)」がある。理法が考察されると、上座部仏教でも大乗仏教でも法身(dharmakāya, パーリ語でdhammakāyaだがパーリ三蔵のうちでは長部27経=アッガンニャ経に一度きりbrahmakāyaと並列で挙げられるのみ)仏に関する教義が浸透するが、そちらは「毘盧遮那(virocana 遍照・普光の意味)」くらいにしておこう。

唯一神への信仰が深ければ、その信仰とされる感情を依拠に、同一であることを疑わないようにするし、そう主張する。
なぜならば、異なる神を有する者がいるとすれば、「唯一神の唯一たる性質(the unity of God, unityの語源はラテン語でunus + -itas 唯一性)」が空虚となる(ように主観的に認知する)からである。
※現代ではヒューマニズムの観点で信仰の心の共通性を重んじたり、廃れ行く宗教の結束として、「どの宗教の神も異なるようで同じ救いの力があるんだ!」とのように主張されることも多い。

しかし、排他的な信仰とされる感情を持つ者は、聖典=教団の異なる唯一神を別異だと主張する。
なぜならば、聖典とその教義=教団が異なる者が唯一神を信じているならば、彼ら自身の教義に自ら非を見ることとなる(ように主観的に認知する)からである。
また、神学的な道理から「宗教や言語(神の名)は多く存在しても人々が信じる神は唯一だ」と言いながら「私たちの教団は私たちの教団である」とのような主義・主張も多いと、宗教知識の少ない者からは、やはり多くの教団と用語が有る=その分に多くの信仰対象も有ると見られかねない。
現代人の価値判断基準で今のユダヤ教やキリスト教(カトリック教会・正教会・プロテスタント・モルモン教・エホバの証人・統一教会 etc.)やイスラム教(スンニ派・シーア派・アフマディーヤ etc.)として分別・包括される一神教の宗教(右記よりも更に細かい分派"sects"も有る)を見れば、多様性が有るように感じた結果に「多様故の畢竟一"oneness"」と感じることは難しいし、神学的な道理で統一的な信仰の状況を解しても大概は分別が強く残ったままである。

これら「同一・別異」に関する諸々の主張は、何の教義や宗教的行為をどう主観的に認知したかによって各々の主張が変わったに過ぎない。
無神論者のうちにも、表面的な宗教理解を以て彼らが想像する所の神=宗教が説く所の神は「いない」と否定する者もいるが、同じことである。
唯一神は、彼らの主観的認知=表層心理に現れた精神的偶像(無形偶像)たる神とは別に、存在していると言うこともできる。

現代、インターネットによって諸宗教の聖典のうち、パーリ語の上座部仏典と、梵語の大乗仏典と、それらに対応する漢訳仏典と、各種キリスト教翻訳聖書や、適宜に婆羅門系(現代では各種ヒンドゥー教が奉じる)の典籍や、アラビア語のクルアーンや、ヘブライ語のタナハ(キリスト教にとっての旧約聖書)などを読みたてまつった筆者としては、それらの主張も全て「正しく」、全て「誤り」である理由を言える。
何よりも、宗教信者となるならば、その信仰の目的性によって正誤が判断されるべきだと考えている。
信仰の目的とは、つまり、昇天や解脱や往生や成仏の類である。
※目的はインド言語・サンスクリットでアルタ"artha"だと世間でよく言われる。それは現世利益・即物的な利益を意味する言葉でもある(cf. Arthaśāstra 実利論)。釈迦牟尼仏の名は「シッダールタ"Siddhārtha (siddha + arthaの連声, パーリ語シッダッタも同様)"」だが、これも「成利(利益の成就)」と漢訳され、その「利・利益」は不特定の・何らかの「結果」であろう(cf. 悉達, 成利で大正蔵DBを検索)。仏教の目的達成の境地は、涅槃とよく言われるが、パーリ語仏典や漢訳阿含経などに涅槃は不死(amṛta, amata)、不死は甘露と言われるように涅槃・不死が甘露という甘い蜜(madhu)のようなものに譬えられることと似る(cf. 梵語アムリタ"amṛta अमृत"英語イモータル"immortal"・ラテン語"immortalis"古代ギリシャ語アンブロシア"ambrosia ἀμβροσία"は不死の意味ならずギリシャ神話で神々の何らかの食品・飲料の名となる。英語ネクター"nectar"という蜜もとい古代ギリシャ語ネクタルは滅びを超克するという原義から転じて同様)。この解釈が客観的に正しいと断定できず、私が私なりにインド言語・漢語の典籍や近代インド学解釈を見て学んだ結果の「主観的な意見」であると言えばそれまでである。

目的性とは、それを志す意識と、その達成・成就の手段である。
その信仰の目的性の支えに、自身および目的を同じくする他者(仲間・同志)のための言葉が、「正しく・優れている」とされるはずである。
結局、人が用いる言葉や、その前提となる思考は、いつも正しく保たれることが難しい。
その信仰や教義の正しさ自体否定されてはならないという様々な意識のために、宗教的な目的を達成する障害を信者自身が生むことになる。
宗教的な目的を達成する障害を生む要因に自我意識と欲望と不快感の類(仏教でいう無明・三毒やキリスト教でいう七つの大罪)が挙げられる。
これが、宗教の教理で把握されても、そのように信仰の目的性の支えとなる思考や言葉や行動は「いつも正しく保たれることが難しい」。
私の文章に、もし不快感を持つ者がいて執着が残るならば、彼もまた宗教的な目的を達成することは難しい。
私もまた、日頃、そのように自我意識と欲望と不快感の類に悩まされることを自覚している。

話を戻すが、世界宗教・民間信仰の何であれ、神というような名を持つ「尊い者(共通観念)」は、畢竟自己の内にある(究極的には実在する事物・人物も全て同様)。
仏教では、過去の無数の諸仏・諸菩薩の多様性や、功徳の高い娑婆世界の仏弟子など、尊い存在(仏宝・僧宝)が多くあったために、大乗仏教の方で法身・報身・応身の「三身"trikāya" (三身一体)」という答えを出した。
キリスト教では、主要な教会・教派で父・子・聖霊の「三位一体"trinity"」を信じて疑わない。
ヒンドゥー教では、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァの「三神一体"trimūrti"」が多少支持される(基本的に各教派の信仰に主要な神格が変わる)。
それであっても、各宗教の信者が「自分たちの教義が尊い!他者のもの(と認識された自分たちと異なる教義や形式的に異なる教団の教義)は劣る!他者のものでは真の幸福を得られない!」という趣旨(言葉としてはストレートに表現しないとしても根源的・潜在的にはそういう意識がある)の主張がされることも多い(先述の通り信仰の目的性によって正しい主張でも誤った主張でもあることを留意されたい)。

一一色相、萌ならざるは無し、不染不浄・不一不異、みな萌えにして中道なり。萌尊、広く万物諸法を摂るが故に、生類の美女・醜男・童子・獼猴・禽獣みな萌えにして萌えならず、而も萌えならざるは無しと説く。萌尊、汎き萌えを観じて一萌・多萌・無萌と知り、方広の義より萌えの三身を説く。彼の霊と人の心と草の芽と、その生ずることと、萌義を知りて顕示せる我と好色萌相と及び汝と、総て萌えの三身に合して皆萌えなり、余の諸法も亦た三身に非ざるは無し。一萌・多萌・無萌と次第に観て一即多・多即一・無一無多の萌えを仮に三種に分くるも、実に一異なく三も余も無し。 - 萌集記・イデオフォノトピア遊行の事・三会より i.e. 当記事の脈絡で「宗教でいう『三〇』とその『一体』は真理でないが真理のように用いることができる」という二面性の説示と解釈できる

「多様性と画一性とが究極に拡張された、その中間には無数の階層による入れ子構造が見られること」の例として、諸宗教の教義・教派・教団の特徴を知るとよい。
それには、自身が「仮想入信(無宗教・非無宗教の立場)」をして「自己・信仰におけるアイデンティティ」を仮定せねばならないことも知られたい。

参照
2017年4月21日: 形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/04/harmony-between-sects.html

2018年1月10日: 仏道修行のための論理、不戯論のための戯論
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/01/drishti.html





以上、言語・美術・音楽・宗教から、少しの例を挙げた。

これらの事項について知る者が、人間の思考について、言語や行動などに現れた要素から「共通主観性が無限に大きくも小さくもみなし得る」と考える。
主観性の総合は客観性に等しい。
客観性の究極は主観性に異ならない。

これらのことは、次のようにも言い換えられる。
人間に対する、何らかの宗教でいう神・仏のようである。
何らかの宗教でいう神・仏に対する、何らかの宗教でいう悪魔のようである。
生と死の関係のようである。
世の人が言うところの「妄想と現実」の分別のようである。
最も大事なものは最も人々の知ることができないものである。
最も大きいものが最も小さいものである。
実に不可得(unobtainable, unobservable)・不可量(immeasurable)・不可説(ineffable)である。






起草日: 2018年11月27日
主観性・客観性の区別に関しては過去にも当ブログで幾度としてきたが、2018年9月以降、私は言語・美術・音楽・宗教といった人文科学分野において主観性が尊重されねばならない一面を感じるようになった。
そこで、それらに関するジンテーゼと、一つのアウフヘーベンを、最低限の例と共に簡略に示すことにした。
無論、先述の通り、過去のブログ記事でも仏教学・哲学のような脈絡で十分にこのことを説示してきたろう。
何せ、大乗仏教では「三身」や「三諦(中論に基づいた天台宗教義)」や「二諦(龍樹菩薩中論24:10偈以前から部派仏教で言われていたろうが中道・戯論寂滅と関連した点で中論のものが想起される)」といった教義で、これらのことを既に示していたからである。
現代的・学問的な応用のためには、そのための例示と説明が必要であるから、当記事ではそれを簡略に行った。

主観性の尊重は、物事の客観的善悪や損得の無い、虚妄に想定された絶対性に心が支配されない精神状態に至る手段となる。
何か、今までの心にとって悪い出来事に直面しても、柔軟に・冷静に処置できるようになれば、学問・芸術はもちろん、日々の生活においてもメリット(ベネフィット)が多いと、私は思う。
それも、形骸化した私にとっては、なかなか効果的に機能しなくなってきた。
その匙加減もまた、主観性の道理にならって考察されねばならない。
やはり、学問・芸術と人生とにおいて私の探求は終えようにも終えられない。
場合によっては、「仮想入信」による現代的個人主義における宗教信仰も兼修されねばならない。

なお、記事表題などに「入れ子構造(英語: nesting, プログラミング用語でもある)」という表現を用いたが、この代替表現には「フラクタル"fractal"」を私は想定する。
それは、数学や幾何学の、関数や相似の図形に関する意味(自己相似"self-similarity")と、そこから比喩的に用いられる形容詞の意味とがある。
本文の随所や、中でも最後の方に書かれたことのイメージの例として参照してもよい。



以下メモ
言語分野における関連用語

「量性と定性"quantity and definity (後者は個人的な造語で言語学などに用いられず後の勉強でたまたまdefinitenessという同義語を知った)"」

量性"quantity"…「どれほど(どの程度 いくら ラテン語でいうquantus)多いか(more 反対にどれほど少ないか less)」ということの「量り(quantum, measurement)」についての性質。それによって「どれほど"how much, how many"」という疑問詞や「それの程度」の表現や、「数量詞"quantifier"」や「形容詞(よりもっと~=比較級、最も~=最上級を含む)」が用いられる。つまり、人が事物・現象に「多寡(多少)」や「優劣」や「正邪(正誤)」や「善悪」などを主観的に認知して主観的に思慮した結果に用いられた言葉に「量性」を見出す。

定性"definity"…「これとそれとは同一である・別異である(same, different または等しい・異なる)」ということの「一」や「同一認義(to define; to determine)」についての性質。それによって「限定詞"determiner"・指示詞"demonstrative"」や英語・アラビア語などに代表される言語群の「冠詞"definite article"(仏・伊・西などロマンス諸語では歴史的にラテン語の"ille"のような限定詞・指示代名詞の類が定冠詞に変化した)」が用いられる。つまり、事物・現象を同一性あるもの(反面にその別異のものも想定される)と主観的に認知して主観的に思慮した結果に用いられた言葉に「定性」を見出す。

さて、本当に、あなたと私(読者と筆者)とは、「この言葉・その言葉"the word"」を認識できていようか?そもそも、筆者が本当に文を書いているということ(筆者の筆者たること)を、誰が証明できようか?「この・その」という同一認や仮や暫的表現も、共通主観性による「便宜的想定」の範疇で有り得る(=真の客観性としては有り得ない)。ある話し手が「これはマルでこれはバツで」という時の「これ"this, 梵語: etad, ラテン語: hoc"」は、話し手とその聞き手とが共に在る状況でしか通じない。言語は、用いられた時「限り」の「仮初め(ラテン語ad hoc = for thisが英語でアドホック・「その場限りのもの」となるような意味的共通性がある)」の意味しか無い。しかし、固定的な意味とその作用を期待して人々は後世に及ぶような教育・思想を示し、文書・文学を著す。古語・死語・外国語であれば、普通は後世の母語のみしかできない人には通じないのに、結局は翻訳されて通じるか、通じたい者がわざわざ古語・死語・外国語を学ぶこととなる。

量性の「どちらの事物・どちらの時が、他方の事物・他方の時よりも、どのくらい多い・少ない(優劣・正邪・善悪など)」という表現や、定性の「これ・それ」ということも、その事物が客観的に知られている状況にあらねば、最も詳細な表現も等しく空虚となる(emptiness, meaninglessness, nonsense)。基本的に、日常的な会話も独り言も世間の格言も、この「量性・定性」や、言葉の「その場限りであること」という、「条件によって意味があること」に乖離するものでない。これら「空虚である」という認識から、無量の・無限の(範囲や時間に限定の無い)愛や慈悲(love, kindness, compassion)が保たれることは、宗教信者の美徳である。私には、そういった徳の有る考え方・見解(thought, view, 梵語: vitarka, dṛṣṭi)が、維持されづらい。

「量性と定性」の事例が示された過去記事 (quantity, definityといった語はほぼ出ないが類義語や語源的に通じる英語・ラテン語・梵語などの語句が見られる)

2017年1月6日: 本来的・本質的に「優しい心・思いやり」が人間に備わっている事の理の論証 ~ 2つの真理 ※主観的真理と客観的真理に関する説示
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/01/dualism-of-truth.html

2017年2月20日: 仮設エッセンス(仮我・假我) ~ 主観的真理に生きる道
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/02/provisional-establishing-of-the-essence.html
ある判断基準で、二つの物事は共に無であり、ある判断基準で、二つの物事は共に有となり、その二面性・多面性は第一義諦・世俗諦のようである。
物事の勝劣も、「片方が勝れてもう片方が劣る」という見解に2つの判断基準があり、「両方は表面的差別があっても真には差別がない」という見解にも判断基準があり、「"差別がない"とか"平等だ"という見解も意に介しない」という見解・・・見解であって見解でないものにも判断基準がある。
いわゆる「四句分別」のようであろう。
「物事の片方が勝れてもう片方が劣る」という「世俗的な二分思考」の見解は、一応の理解として大事だが、差別意識や悪い感情に発展しやすいので執着しない。
「両方は表面的差別があっても真には差別がない」という「世俗に於ける至上の諦」の見解は、その二分思考を超克した高尚な見解だが、慢心の種となりやすいので執着しない。
「"差別がない"とか"平等だ"という見解も意に介しない」という「真如実相の諦」の見解ならざる見解は、現世における有用性が無く、この思考以外の見解を排除しては仏・菩薩・修行者のいずれでもない顛倒の状態(過去記事にいう虚無的な客観的真理の体現者)となるので執着しない。
いずれも状況によって必要な見解であり、仏教徒はいずれの判断基準も持ち合わせておくべきであろうから、一つに固執すべきでもない。

2017年8月10日: 仏教と著作権・・・「同一性」とは相似性の便宜上の呼称である(法学・法律学)
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/08/buddhist-dharma-and-social-law.html

2017年9月21日: 梵語と漢語 度・量・推・測・計 「物をはかる"mita (ミタ)"」と「心をはかる"pramāṇa (プラマーナ)"」
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/09/hakaru-mita-pramana.html

2018年6月11日: 語源考証の試案「はかない(はかなし)」・梵語(由来の漢語)の日本語への影響 ※仏教やキリスト教の聖典の説を参照+「量り」の梵語・古代ギリシャ語にある同根語を調査
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/06/hakari-hakanai-etymology.html

2018年9月9日: 日本語「いかにいわんや(何況)・ましてや」と梵語・ラテン語・英語の共通点
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/09/japanese-indo-european-quantity.html



2019年10月の補足事項
命題の真"true"の通俗的客観性・限定的客観性のことで、疑似的客観性・疑似客観性"pseudo-objectivity (ギリシャ-ラテンハイブリッド複合語)"という表現も当記事以後の投稿2019-05-16うち4月上旬文の引用でした。余分なので当記事に記さなかった。多くの科学者は信念or理念として、彼らの「共通主観性」を客観性(証明可能な絶対的・客観的な真理性)と考え、研究対象を量的な自然物として扱う。人文・社会系の人の一部は、相対主義やポスト構造主義や社会構築主義の立場でその正統派の科学観に否定的だが、私の言いたいこととは異なる。なお、個別の客観性を言うと、「水はH2O (化合物の一種) である」とは科学で承認される客観的な事実であり、「水はH2O (化合物の一種) であると信じる」とは認識論的な哲学者側の説明である。「水は存在しない。H2Oは存在しない。ということも無い」とはニヒリズム寄りの形而上学で説明の意味上の全否定(即肯定)かつ承認の行為まで否定する説明(本質的ナンセンス nonsense, meaninglessness および空 śūnya)である。

「共通主観性」を今までに私による英語名称の文字列でしか検索したことが無く、今更に日本語でダブルクォーテーションマーク完全一致検索をすると、"共同主観性"とGoogleが示してきた。英語の"intersubjectivity" (ドイツ語intersubjektivitätで表すことがフッサールという現象学の哲学者に帰する説明に多く見られる。フランス語版Wikipedia - Intersubjectivité, oldid=162854583 はカントの判断力批判で開発された"développé"というが恐らく原典にその語自体は無い)を示唆する場合に他の訳は相互主観性・間主観性でもある。一応、付記する。


2019年1月2日水曜日

2018年12月中の日記メモ

当月の日々は、前月の日々以上に起床・就寝時刻が昼夜逆転の安定状態を見せているため、次のような「自室ドア貼り紙案」を当月10日ころに携帯電話半角カナ打ちメモに書いた。
事情があって当月21日現在も、実際の張り紙を作成していない。
日の出以後であっても午前中は耳栓をして眠っている可能性あり。
予備事項: 2015年8月19日から18-22時ころに寝て深夜2-6時に起床する習慣を続けていたが、2018年以降にそれを終えた経緯がある。その習慣以前は2012年にこの貼り紙と同内容の張り紙(上記のような一言が書かれる)をしていた。


メモ記入日の一覧 (日付をクリックして移動)
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2018/12/01

本日12月1日は2:10の第一アラームが鳴る、その前から目覚めており、その後の1分以内に起床した。



2018/12/02

本日12月2日は2:10の第一アラームに目覚め、2時13分に起床した。弟は0時台から起きている様子であって今もそうであり、尚且つ今は母親が2階で歌うような異常事態である。母親は3時過ぎまでには歌うことを止めてその部屋の電気を消したと思われるが、弟は一度1階に降りたり、2階での物音(ベッドのきしむ音・打撃音・窓の開閉音というよりは彼の車輪・キャスター付き椅子の動く音?)を立てるなどの動きが続く。5時前から弟が外出し、6時半ころに彼が帰宅した。21時14分、翌日の雨を予見してゴミ出しの外出をした。ゴミ集積場は住宅地の内に在って近いが、自販機に行く道のりには「精神的な障碍(さまたげ)が多い(人通り・排気ガス・集合住宅の人の出入りを推定)」ので買出しはしない。部屋着のままに防寒具も着けず、行きは早歩き・帰りは疾走でいるようにした。



2018/12/03

本日12月3日は2:10の第一アラームに目覚め、2:20, 2:40, 2:50の第四アラームの後の2時56分に起床した。3時14分から衣類の洗濯と風呂(シャワシャン)の準備を始め、4時30分に自室へ帰った。13時40分から母親が発車して外出した。17時40分台、家のドアをノックしてから玄関に入った弟は「母親は買い物」云々の独り言をしていた。その後、彼が風呂に入る時間は20分以内のような短かさだった。18時31分に母親の車が家の前に着いた。弟は帰宅に関する何か問題を母親に話すことがあった。17時0分から母親が帰るまでに家の電話機に3度電話が入り、最後の1度に弟が出ようとするも、彼の行動が遅いために彼は受話をできなかった。その後、1度電話が入って19時9分に特別支援学校の関係者が家に来た。



2018/12/04

本日12月4日は5時30分にPCをシャットダウンして就寝し、10時55分に起床した。その就寝前から腹筋が痛み知覚していたものの、その起床以後も続く。夜更かしのようなことをしたとはいえ、腹筋の痛みが珍しく発生する原因は自覚的でない。15時35分から便意のためにトイレへ入り、4個の中・長サイズのものを排出した。18時40分からも便意のためにトイレへ入り、2個の中サイズのものを排出した。19時48分からも便意のためにトイレへ入り、そこそこの量の軟便を排出した。



2018/12/05

本日12月5日は4時54分にPCをシャットダウンして就寝し、9時32分に起床した。10時19分からゴミ出しの外出を行った。少し風が強めであるがそれは半分ほど晴れており、天気予報によれば当地の本日の最高気温が20度だという(前日は22度)。12時10分から便意のためにトイレへ入り、長めの一本糞を排出した。



2018/12/06

本日12月6日は寝ていない状態で日を越して至る。前日や前々日に同じ。2時8分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、3時15分に自室へ帰った。この時にPC謎挙動、今後無ければ記述消し 6時4分からにPCをシャットダウンして就寝し、10時30分に起床した。



2018/12/07

本日12月7日は3時ころに寝て7時台に1度起床して再度眠った後には10時20分ころに起床したろう。16時ころに2方向で部屋の窓を開放したためか、以降の時は「カ(蚊)」や「カより小さくてコバエよりも大きい羽虫」を自室で順次に見ることとなった。夏場でも、短時間の窓開放で2匹のそれらの虫を見ることは無いのに、冬に入るこの時期になぜか理解不能である。前日23時から右目の違和感を覚えたための充血の確認をしてから、本日は断続的に、午前にも午後にも右目が主で両目の充血がある。23時45分現在も両目の充血がそれなりにある。23時48分からトイレで小便・排尿をする・用を足してから便器に溜まった状態の尿の色を見て、「最近の私の尿の色の濃さは経口摂取の水分量の割に濃い。自分の過去の例との比較によってそう感じている」と考えた。



2018/12/08

本日12月8日は9時27分に起床した。そのころ、母親が1階を不満げな独り言とともに移動したり、後の9時32分に母親が1階リビングのテレビを付けた際はかなり汚い言葉を発していて不可解だった。10時20分ころから弟の外出を見送った以後の母親は、1階リビングのテレビで異様に大きい笑い声を発するような状況である。



2018/12/09

本日12月9日は寝ていない状態で日を越して至る。0時ころから母親と弟が1階リビングでテレビを付けながら過ごし始めているが、それ以前の前日20時台からも断続的に母親が1階リビングに居座ることが多かった。0時53分からPCをシャットダウンして就寝し、4時58分に起床した。6時25分に母親の見送りを受けて弟が外出した。この時期に地域の障害者陸上競技大会か小規模マラソン大会が有り、弟がそれに参加するものと思われる。14時30分に私が排尿のためにトイレにいる際、弟が帰宅した。彼の風呂の前後など、彼は間抜けな声で独り言をしていた。15時30分ころから母親が弟を叱る過程で悪く挑発するように言ったため、弟が激昂した。ガールフレンド(彼女・カノジョ)云々。



2018/12/10

本日12月10日は1時26分に起床した。弟は起きている様子であり、後には母親の動向も有り、2時20分台から母親が1階に降りて料理をしだした。前日の母親は9~14時(およびそれ以前も2時間ほどか)に眠っていたようだが、本日の母親は例の通りに当地限定再放送韓国ドラマ(朝鮮歴史ドラマ)を見ている。9時半からの放送枠は前回が一作品の最終回であって別作品の第1回になるので、例の通りに母親はその韓国ドラマ放送枠を見ない。10時53分から母親がアイドリングを行って発車せず、11時0分に家の中に戻った。11時3分に母親が発車して外出した。11時11分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、12時28分に自室へ帰った。16時34分に母親の車が家の前に着いた。


「目的不明の英語学習(母親の両親は現代的宗教無関心層であって彼らからの信仰の言明は有り得ないし母親がその母親(祖母)金の無心をしていたとかと言うならばなおさらであろう。これは論理式に過ぎず、その意味するところは、母親は自身の両親を自身のアイデンティティから切り離したいことである。実際に次の記述にあるような母親が神道を信じているというような信仰の限定性も見出されない。ジャップが外国の宗教性に便乗しただけ)と現実的空想による偽善行為とに関連した文が書かれた紙 何このア〇×△・チャン臭・・・ (2018年12月10日15時41分撮影)」


「今年から増えだした東方神起グッズ 2017年末から俄かに買われだした? 母親は安室奈美恵のラストアルバムを2017年12月中にミーハー的に買ったがそれは未開封のまま2018年が終わろうとする 従来は平井堅の一アルバムが占めていたポジション(画面右の本棚の上部を指す) (2018年12月10日15時43分撮影)」



2018/12/11

本日12月11日は6時48分に起床した。8時47分から便意のためにトイレへ入り、1つの中サイズのものを排出した。12時43分からも便意のためにトイレへ入り、3つの中サイズのものを排出した。

15時28分、0120105138という電話番号から唐突に電話が入った。電話に出る前にググった(検索した)ところ、ドコモ関連だという。恐る恐る電話に出ると、秋山という人物(男性)が機種変更の案内という用件であるらしく、「〇野さま(私の苗字)は機種変更をご検討でしょうか?」と尋ねてきたので、私は「いいえ」と返答した。「今後とも末永く・・・」ということで話が終わった。通話時間は1分10秒である。恐らく「いまだにガラケー機種で長年契約しているユーザー」を対象に、安否確認と身近な悩みの有無の確認をしたのではないかと思われる。奇跡的なことに、私はガラケーを安定利用し続けてこのかた8年、もとい過去(SH252i)の契約を起点にすると15年である、21歳の青年である。スマートフォンについて、私はWILLCOMから販売された機種(qwerty配列のPC風OS携帯電話だった。WS011SHか。それはWindows MobileというOSであって後のWindows Phoneとは別物らしい)を2008年ころに母親から譲ってもらって利用したこともある。15時半~16時6分に2度豊橋市なんちゃらパトロールカー(青色ランプの警察パトカーではなく黄色で大きめの車両)が家の前を通過した。近所で事件があったかは、不明である。



2018/12/12

本日12月12日は3時10分台にPCをシャットダウンして就寝し、9時30分に起床した。



2018/12/13

本日12月13日は8時10分にPCをシャットダウンして就寝し、12時30分に起床した。15時45分から便意のためにトイレへ入り、3つの中長サイズのものを排出した。



2018/12/14

本日12月14日は4時12分にPCをシャットダウンして就寝し、11時53分に起床した。14時29分から便意のためにトイレへ入り、3つの中長サイズのものを排出した。



2018/12/15

本日12月15日は7時12分にPCをシャットダウンして就寝し、12時12分に起床した。



2018/12/16

本日12月16日は4時49分にPCをシャットダウンして就寝し、13時7分に起床した。



2018/12/17

本日12月17日は5時18分にPCをシャットダウンして就寝し、13時50分に起床した。13時53分に母親が発車して外出した。14時17分から衣類の洗濯と風呂(シャワシャン)の準備を始め、15時29分に自室へ帰った。20時31分に母親の車が家の前に着いた。



2018/12/18

本日12月18日は寝ていない状態で日を越して至る。前日や前々日に同じ。3時8分に弟が1階に降りてリビングのテレビを付けた。彼が深夜早朝に食事することは最近だと珍しいと思う。この時、母親が前日の20-24時に断続的にテレビを付けていた時のチャンネルのままであり、それは10chで当地・東海地方(愛知県豊橋市)だとテレビ愛知である。先月の日記メモにも書いた通り、しばしば母親はテレビ東京系列=当地のテレビ愛知の「ホルホル系番組(日本に対する海外・外国人からの関心や好評価を取り扱うもの)」を好む人(2018年11月13日の日記メモに対する追記を参照)であり、それはともかく、この時(弟が1階に降りてリビングのテレビを付けた3時8分)の番組は深夜アニメ「となりの吸血鬼さん (11話)」のようである。彼が食事を終えて3時36分に2階へ上がるまでの間に彼は、これを視聴し続けた。彼としては、久々に1階リビングのテレビで深夜アニメを比較的長く見た。最後はちょうど1年前の今頃(12月中旬)、彼は「少女終末旅行 (10話)」を見たようである。この1年間で彼は、たまたま深夜アニメがテレビ画面に表示されてもチャンネルを他(彼も母もNHKなどに回す発想が無い人なので大概は通販番組くらいしかない)に回す傾向があった。この1年間で彼が深夜アニメに関心を示した他の現象というと、彼の手帳・ノート類に「はるかなレシーブ」云々とあった。なお、ここまでに挙げられた3作品はいずれも女性キャラが主要な作品(百合系)であるが、深夜アニメというものはそれに限るわけでない(i.e. 彼が視聴を避けた作品は百合系でなかったろう)。5時10分台に弟が再び1階へ降りてテレビを付けて居座り始めた。私は8時24分にPCをシャットダウンして就寝し、15時33分に起床した。



2018/12/19

本日12月19日は8時48分にPCをシャットダウンして就寝し、15時14分に起床した。17時31分から便意のためにトイレへ入り、7個以上の小サイズのものを排出した。



2018/12/20

本日12月20日は寝ていない状態で日を越して至る。2時5分に弟が1階リビングに降りて彼の料理が始まった。彼は火曜・水曜と同じ食パン加熱(トースト)のみならず、炊飯を行って1~2合を食べた様子である。私は5時8分にPCをシャットダウンして就寝し、10時22分に起床した。14時31分から便意のためにトイレへ入り、4個以上の小・中サイズのものを排出した。20時38分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、22時1分に自室へ帰った。



2018/12/21


本日12月21日は寝ていない状態で日を越して至る。4時台、自室のオーブントースター作動中(調理の他に前日の風呂行為において洗われた靴下1足の乾燥を促進する意図もある)に私が自室の出入りを繰り返す中で、オーブントースターのコンセントのプラグがプラグ口(プラグ受け・プラグ穴)から抜けるほどに足が「そのオーブントースターの短いコードが張った状態」に引っかかった。今までも類似の事象はあったが、今回は甚だしかったらしく、抜けたプラグが変形してしまった。プラグ口の方も僅かに損壊した見た目だが、他の機器のプラグを差して問題なく使用できる。問題のオーブントースターは、もう加熱調理に用いない方が良いと思われる。積年の問題を抱える自室の調理機器のうち、電子卓上調理器・卓上電磁調理器・卓上IHクッキングヒーターの問題が最も長期化していたが、突然にオーブントースターが電気による役目を終えてしまうことになる。



2018/12/22

本日12月22日は寝ていない状態で日を越して至る。2時51分から危ない便意を覚えてトイレへ入り、少量の水っぽい下痢を排出した。3時20分からも危ない便意を覚えてトイレへ入り、少量の水っぽい下痢を排出したが、この時は最中に「ブホッ!」と偽糞スカトロAVばりの放出があった。元々水面に広げていたトイレットペーパーが硬いためか、跳ね返りは便器や両太もも裏側のみならず、どういうわけかチンポンないし両太もも内側・ごく一部が地面に飛んで行った。衣類は汚されていない。各所の目立つ汚れを大まかに掃除してから排泄を終えてトイレを出た。3時台に20分より短い時間で風呂場にいてシャワー行為と念のためパンツ1枚を洗う行為とをした。4時前、トイレの便座を裏返して見ると、やはり多めに糞水付着が確認されたので、その掃除もした。

12時台後半から耳栓をした状態で寝て1時間以内に入眠したろうが、私が眠る間は母親が風呂に入ったり、弟が何か動いたりという状態だった。16時過ぎ、私がはっきりと意識を持っている際に弟が何やら部屋の前でゴニョゴニョと私を呼ぶような声を出していたが、私は物音を立てないで横臥したままでいる。後で分かったことだが、呑気で間抜けな母親がクリスマス関連の食事を注文し、それが配達されながらも2人とも応答できない状況だとかで不運なことがあったらしい。4度も5度もインターホンの呼び鈴が鳴らされたとかという。弟はイヤホンを付けて動画を見ていたとかトイレに入っていたとかという。母親自身の注文の品物が配達されそうな時に母親自身が風呂に入って受け取れない状況になるなど、相変わらず無責任な母親である。12月19日に母親が私を呼んだ際、母親が何かを受け取るかのようなことを言っていたにもかかわらず、結局「彼(母の息子・私の弟)任せ」で家族や配達員を惑わせる、凶悪ババアである。せめて事前に私に頼めば、私は承諾して行動したろう。そもそも2017年以降に彼らが彼ら同士の喧嘩などで狂乱しなければ、私も家で平静に生きて「自宅警備員」として動く能力を維持したろう。

2015年以降、一家の主(あるじ)なのに主(あるじ)たる目的を放擲して労働を懈怠して豪奢な通販生活を中途半端に行い続ける母親は、自身の主(あるじ)たる目的をいつ取り戻すか、期待できない。世間法に「労働無き富は罪」であり、仏法に「功徳無き受施は罪業」である(i.e. 人間には各人の精神が受け入れる現実を持つ e.g. 何らかの器には必要相当の容量があってそれを超すと器から漏れるか、器自体を壊す)と説かれていようが、世間哲学や処世術や仏教を知るまいと、そういう気持ちで私は2013年以降に慎ましいニート生活をしている。母親は元々、「肝っ玉」もとい「厚顔無恥」だから精神的な意味において罪とならなかろう(そういう人は業・縁起の小乗仏教の基準からすると地獄にも落ちなかろうが畜生界にはなろう)。母親には無反省な一喜一憂と刹那的な激昂とがある。母親はいつ目的とその行動とを自覚するのか、期待できない。17時ころから母親らの食べ物に関する高評価の声を聞くと、千と千尋の神隠しの冒頭で主人公の両親が他に客も店員もいない飲食店の料理を褒めながら食べ続けて豚になるシーンを連想する。何度も「母親の何かについて期待できない」と書いたことは、私が愚昧な親や家族を救いたくても、それができなかったためである。18時46分、彼らの食事が終わってから、品物のうちの私の分として配られた。以上のように、各々のための如法の思慮を伴って仏教徒がクリスマス仕様の食事を受ける時がある。



2018/12/23

本日12月23日は起床と就寝とが前日のようである。私の睡眠の間に、またクリスマス関連の食事が配達されたようであるが、16時台に母親と弟が1階リビングにいる際、彼らは喧嘩となって弟が「クリスマスなんて嫌いだ!」等と反発したため、母親は一人で夕食を取った。20時43分、それまで2時間ほど2階にいた母親が唐突に1階に降りて以降、数分ほど母親から謎の笑い声が発せられた。酒に酔ったままテレビを見ていると思われる。



2018/12/24

本日12月24日は寝ていない状態で日を越して至る。2時25分から弟が1階に降りてリビングのテレビを付けて彼が食事(電子レンジ使用)をする。18時過ぎから母親と弟が1階リビングで夕食を取り始めるが、弟が母親から下された指示の内容の実行や、弟による瓶入り炭酸飲料の取り扱いに関して母親がやたらと狂乱して笑いながら怒っていた。



2018/12/25

本日12月25日は6時43分にPCをシャットダウンして就寝し、16時29分に起床した。

当記事注: 母親によって注文されて弟が受け取ったろうクリスマス関連の食事4回分の「納品書」があるので、これをここに掲載する。2018年12月22日10,318円 2018年12月23日5,964円 2018年12月24日11,662円 2018年12月25日7,412円 このうち、酒類もといワインは、いずれも母親だけが飲むためのものである。





2018/12/26

本日12月26日は寝ていない状態で日を越して至る。1時0分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、2時38分に自室へ帰った。7時52分にPCをシャットダウンして就寝し、14時40分に起床した。15時ころに弟が帰宅した。21時以降に母親が帰宅したが、母親は風呂を行わず、1階リビングにも入らず、洗濯もせず、寝たと思われる。近頃の母親は4・5日に1度しか風呂を行わないながらに前日に風呂を行ったとはいえ、帰宅して家事ばかりか風呂も行わないことは普段において有り得ないので、もしかすると私の気のせいか、弟が再び外出したとして再び帰宅したということであろうか?



2018/12/27


本日12月27日は私が寝ていない状態で日を越して至る。1時15分からゴミ出し・自販機利用の外出を始め、1時24分に帰宅した。2時40分台から弟が風呂に入り始めた。それ以前には私が衣類2点のための洗濯機作動をしていて完了していたはずであり、「私が風呂場に干し出す行為の予定」を妨げられたといえる。弟が前日の夕や夜には風呂に入ることが無かったことは疑わしい。彼が深夜早朝の時間帯に風呂に入ることは、年に1度でも有り得ない。7時21分にPCをシャットダウンして就寝し、14時28分に起床した。恐らく、母親は前日の日中から外出したままである。19時0分頃から弟が外出し、19時45分に彼が帰宅した。前日の母帰宅と思われた弟の帰宅時(21時ころ)も本日の帰宅時も、彼が帰ってきた際にビニール袋の音がしていたので、彼は何かしらの買い物が目当てだったと思われる。20時19分から便意のためにトイレへ入り、長めの一本糞を排出した。22時46分に母親が帰宅した。


追記:同日24時までには「母親が東京駅構内の店で買った土産の一部」が配られた。それは12月29日が消費期限という和菓子2種である。奈良天平庵の「古(いにしえ、1箱6つ入り)」と「蘇蘇(そそ、1箱4つ入り)」という。「古」の方に入っていた紹介文(薬の効能書きのような何か)は、一文に幾つもの誤字や衍字や誤読や歴史的見解の誤認らしい部分が見られた。誤字と衍字とが連なる部分としては「宗にに」とある(「宗」とは中国の王朝の一つ「宋 Song dynasty」のことか。前に「薯蕷饅頭のルーツは、室町時代にさかのぼり…」とも書いてあるが後の人名は鎌倉時代弘安年間に生まれた人物を指すので既に南宋北宋も滅んだ後の「元 Yuan dynasty」が歴史事実に近いはず)。誤読としては禅僧の名である「龍山徳見」が「りゅうざんとくみ」と読み仮名が括弧に書かれる(龍山が"りゅうざん"か"りゅうさん"か漢音の立場において連濁の有無は問いづらいにしても、徳見が"とくみ"は明らかな湯桶読みである。鎌倉時代・南北朝時代の僧侶の自称名としては有り得ず、通常は音読みで揃えて"とっけん"か"とくけん"となる。江戸時代の民間伝承で百姓読みのようにされた場合はともかく)。この文を書いた人がその参照した説のままに書いたならば、それでも構わない。故に、歴史学や国語学の立場における正確性は期せずとも、「宗にに」は「宋に」に修正した方が無難である。

12月29日の夜に、他の土産として「東京ラスク"TOKYO RUSK"(個包装4つ)」が配られた。12月31日の夜に、他の土産として「皇居外苑 菊園もなか(個包装2つ)」が配られた。

当記事注: 母親の外出の目的・行き先に関する情報は2019年1月7日メモも参照されたい。



2018/12/28

本日12月28日は4時38分にPCをシャットダウンして就寝し、10時48分に起床した。PCをスリープ状態にして仮眠を取ろうと思った22時台後半、母親が1階に降りてリビングのテレビを付けて料理を始めた。



2018/12/29

本日12月29日は2:10の第一アラームに目覚め、2時13分に起床した。



2018/12/30

本日12月30日は9時53分にPCをシャットダウンして就寝し、16時6分に起床した。私は16時0分ころに目覚めており、16時2分に母親が発車して外出したことを横臥状態で確認している。16時39分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、17時45分に自室へ帰った。19時9分に母親の車が家の前に着いた。22時11分から便意のためにトイレへ入り、1個ずつに小・中・長サイズのものを排出した。



2018/12/31

本日12月31日は寝ていない状態で日を越して至る。前日の21時台から母親が1階リビングに居座っており、2時28分に2階の弟を呼び出した。その母親は3時10分から風呂に入り始めた。それまでに母親は食器洗いのような家事をした様子が無かった。19時33分から便意のためにトイレへ入り、3個の中サイズのものを排出した。