2015年4月17日金曜日

「依法不依人」に音楽の好みを惟う

「依法不依人」とは「法に依って人に依らざれ」と読み下す。
貴い身分の人間を敬うのではなく、優れた法こそ信ずるべきだということを意味する。
人の貴賎より法の優劣を重視しよう、という涅槃経(曇無讖訳)の一句だ。
※この語義が一人歩きしてしまっていて、本来の意味は結構違っている、後述。

音楽でいえば、楽曲自体よりも作曲者の人間自体が好きだから、楽曲も聴いてるだとかの状態のリスナーもいると思うが、これが「依法不依人」の精神に反しているのだ。
最たるものはJ-popにおけるアイドルの類だが、これは最初から眼中に無い。
今回問題視したいのは、最近私の本家チャンネルを登録した人にいる。

そのユーザーは動画投稿もして、尚且つ作曲もしているため、YouTubeでコメントだけをしたがる輩よりクリエイティブだろう。
彼の作曲ジャンルが「不気味な音楽」と称されたもので、「そういうことか」とすぐに察した。
どういうジャンルのリスナーであっても、巧い曲を作れないと、自分でも何がしたいかわからない方向の闇に堕ち(顛倒し)て自ら卑下することもある。
この人もそういう経緯があると勝手ながらおかしな勘繰りをした。
つらつらチャンネルを眺めるに、下部へスクロールしたところ、そのユーザーのお気に入り動画が見えたのだが、「ボ○ロ」で「女子中学生(?)」が作っただとかとタイトルに堂々と書いてある動画であり、寒気を覚えた。

彼の聴いているジャンルと作っているジャンルが、全く相反している。
「聴いている」と「作っている」のどちらが好きなジャンルかわからない。
彼の好きなジャンルが前者であれば、作るためのセンスや技術が不足していて、やむなく自ら「不気味」との烙印を押した音楽を量産する。
後者であれば、所詮「女子中学生(?)」の人間が好きで、音楽が二の次ということになる。

「人に依って曲に依らざる」状態となっていよう。
音楽を聴く上で、作曲者の人間に固執するのはよくないことを過去記事でも書いた。
ただし、作曲者が作曲する際の学習目的で作曲者と作曲背景・環境に関する認知や系統分類などは必要な行為だと考える。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/03/blog-post12.html



私は「ボ○ロ」のリスナーをかなり軽蔑しているが、半ば感情的な側面もあると自認。
音楽の信念を持っていて、それに符合するならば「ボ○ロ」リスナーでも良いと思う。
作曲に用いるならば、さらに良い。
ただし、私が「ボ○ロ」の楽曲を進んで聴く日はこれからも無いと思うが。
音楽面でもいろいろ理由はあるが、一点に限って言えば、人間の普通の歌声すら苦手だというのに、これを進んで聴く道があるだろうかと。

「ボ○ロ」を批判するつもりは毛頭ないのだが、ここまで見ただけでも私が「流行(まあピークは過ぎたが)を批判する人」と思われかねないだろう。
純粋に我が理念にそぐわない上に視界でチラチラされることが多いので、記事にあげつらっているのみである。
2011年までの私は、受け入れよう克服しようという心境もあったが、それこそ流行だからといって、害毒のアレルゲンを敢えて取り入れる必要はないと思わないだろうか。
これは空論ではなく、過去の学校生活経験則として確然と生きている。
要するに、一見私が偏狭に見えて、実は私のこの記事に明確な敵愾心を持つことがより偏狭であり、風潮に加担する点は真逆で無節操となる。

ちなみに「ボ○ロ」は流行というよりも、老若男女を問わない日本の作曲者に於ける定番アイテムとなった側面もあることは2012年から認識している。
音楽に特化した音声合成ソフトという優位点が破られざる時期に、ブランドの特質を早々にヤマハ(クリプトン)は確立し、堅固ならしめたと評価したい。
さりとて、私が音楽で用いるかどうかは当分別の話である。



「ボ○ロ」は、晩年(2010年末~)のらい○ちゃんが作り始めていただろう。
この頃までに当初のメタル系を離れたことは私にとり傷心の念だ。
彼女の顛末、メタル離反と誹謗の全容は、過去記事の通り。
ちなみにらい○ちゃんには、人間としてではなく音楽として今でも尊敬している。

また、最近音楽館に投稿した記事で話題の現在38歳の人物も、晩年(2012年8月まで)の作品に「ボ○ロ」要素は微塵も無いメタル系であり、「ボ○ロ」には遠い人間に見えただろう。
彼も2012年末あたりのブログ記事で「ボ○ロ・初○ミ○」仕様のスマートフォンを購入したことを自慢していたが、それを見たときは「ああ、汝もか」と膝から崩れる思いとなった。
彼については某サイト引退以降、音楽活動を辞退したことを置いても、人間的に好ましいところが失われたため、人間として尊敬できるところはないが、音楽は過去の巨大な遺産として今尚私の中に風化せず座している。

この2人は、凋落の前後で「ボ○ロ」に公然と絡み始めている。
そのことを、2人が堕落した原因だとは断定したくない。

私が主張したいことは、「ボ○ロ」のファン層の状態である。
やはりボ○ロファンの彼らでは、音楽は二の次というように帰結してしまうのであった。
得てして、本来の制作ジャンルを離れたり忘れる時に邂逅する。
「ボ○ロ」を敬遠してそうだった当時35歳の彼にも「ああ、汝もか」なのである。
メタル系(彼ならブルデス系)などとかなり合わない「ボ○ロ」にどうしても寄ってしまう者が後を絶たないのはなぜなのか、私には感覚が掴めない。

この他に、聴いているジャンルと作っているジャンルがかけ離れている人というのも稀に見かけるのだが、どういった心境の下であるか興味深い。
「本当はそういう曲が好きだけど、あなたにとって難しいから作らないの?」と訊きたい。
もちろん私が音楽として尊敬している元某サイトの2人は、技術的に優れているため、この問いをかける範疇ではない。



冒頭の「※この語義が一人歩きしてしまっていて、本来の意味は結構違っている」について詳しく述べておく。
ここでいう「依法不依人」本来の意味とは「仏の真実の教え(原文: 法性)に依り、後世の人間の恣意的な見解に依るな」ということである。
そして、「依法不依人」という文字列で本来と異なる意味が生まれた。
用例としては「某法主などの貴い坊主ではなく、尊いことを仰る先生を敬え」といったもので、某価の人らのサイトで見る。
この軽い誤用の場合、「依法不依人」を「依義不依語」の逆を冒したとも言える。

私自身も本来の語義から離れた用い方は好きではない上に、仏法では「我見」という言葉があるが、当記事自体が仏語を悪用した我見であるかもしれない。
それを顧みるとまことに畏れ多いのではないか。
事実、過去に我見の愚論を弄した者を見て気分を悪くしたのだから、私自身もこのような記事は控えるべきだと思う。

その人物と当記事は程度が違うところも多々あるが、何よりその人物は大聖人サマに「天魔」と呼ばれた禅の信徒だしね。
道○を敬っているが、禅宗は経文よりも我見派(不立文字・教外別伝)だから、信徒もその気質を継いでいる。
よって、恥ずかしげもなく顛倒した自説を無慚無愧のままに見せられる。
噂をすれば、その人物も「ボ○ロ」ファンであった。

上リンク記事ではもっと色々書いているが、当時(2014年10月)とはまた見方も変わった。
禅云々だとかも知らず、出任せで「第六天の魔王」と綴ったことも、強ち誤りではなかった。

日蓮大聖人曰く、「諸悪比丘或有修禅不依経論。自逐己見以非為是。不能分別是邪是正。遍向道俗作如是言。我能知是我能見是。当知此人速滅我法」
大聖人がひいていたこの経文、一文字変わっているような・・・?



追記:4月21日7時
この記事を書く上であげつらった「ボ○ロ」ファンの人相・私の感覚は、およそ今までに見てきた思い出しきれない人々を見たことによって築き上げられたものと思う。
追記日、思い出せた中の一例を強いて挙げるとすれば、私の本家チャンネルの顔出し動画を見た初○ミ○アイコンの人が、当該チャンネル複数動画に中傷コメントを残したことがある。
変に根に持ったようで、本家に飽き足らず音楽チャンネルの当時の最新動画(顔等を映してない)にも「ロン毛きも」とコメントしてきた。
初○ミ○も性質は違えど髪長いだろう、それに音楽のことを差し置き、髪さえ映っていない音楽動画に「ロン毛きも」とは、やはり当時、短絡ながら「ボ○ロ」ファンは音楽の関心が薄いなと思えた。
「キャラに依って曲に依らざる不届き者」である。
その者の音楽の根を、その者自身が絶やすこととなろう。笑止。



追記:2017年以降
「依法不依人」は、その涅槃経(曇無讖訳、大乗の大般涅槃経)に出るのみならず、維摩経にも「依於法不依人(鳩摩羅什訳)、依趣法性終不依於補特伽羅見有所得(玄奘訳)」と出る。
その涅槃経の説では、まず迦葉菩薩が「仏の所説の如く、是の諸比丘、当に四法に依るべし」と語って示されて釈尊が「依るべき四法(依法不依人・依義不依語・依智不依識・依了義経不依不了義経)」の解説を行っていた。
その語義が釈尊によって解説されるときに「如来、法性」という言葉が用いられる。
「法性」は梵語で"Dharmatā (法であること・性質)"であり、維摩経の梵語版「依法不依人」にも "dharmatāpratiśaraṇatā na pudgaladṛṣṭyupalambho na grāhyābhiniviṣṭatā" と出る。
つまり、維摩経など、過去の大乗仏説にあることを再び涅槃経で説き直していると考えられる。
もし原典に忠実に学びたい人は、これらの情報を出発点として各自学ぶとよい。

記事本文に「『依法不依人』本来の意味とは『仏の真実の教え(原文: 法性)に依り、後世の人間の恣意的な見解に依るな』ということである」と記された後半部分について少し説明する。
その涅槃経では「依法不依人」よりも先に「依るべき四人(釈尊滅後に帰依すべき4種類の人=1. 出世具煩悩性 2. 須陀洹人・斯陀含人 3. 阿那含人 4. 阿羅漢人)」が説かれているが、それを前提として「依るべき四人」さえも「依らざれ」とされているようである。
仏法の布教は、必ず釈尊滅後の時に釈尊よりも劣る人が行ってゆくので、特に「依るべき四人」を挙げるが、次いで自身の修行や解脱のためには真実の法・法性を見ねばならない。
「見るという行為"to see"」は、真理において成立しないものの、そのことが「見るという行為と等しい」という話であるので、「法に依るとは、即ちこれ如来の大般涅槃なり。一切仏法即ちこれ法性、この法性は即ちこれ如来なり。この故に如来は常住不変なり。若しまた如来は無常なりと言うこと有らば、この人法性を知らず見ず。若し法性を知見せずんばまさに依止すべからず(依法者。即是如來大般涅槃。一切佛法即是法性。是法性者即是如來。是故如來常住不變。若復有言如來無常。是人不知不見法性。若不知見是法性者不應依止。)」と説かれる。
もし原典に忠実に学びたい人は、これらの情報を出発点として各自学ぶとよい(大事なことなので2度言う)。


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あしからず。

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