2014年8月27日水曜日

母親と下の弟は26・27日も旅行へ行った。またも自宅警備

前回は19・20・21日だったが、関東方面(東京都内観光、土浦市内で墓参り)のようだ。
今回彼らは長野県阿智村へと向かった。
星を見に行く旅行らしいが、当日夜の現地は曇りか雨じゃないかと予想した俺。
26日の豊橋は、晴れていたり突然雨が降り出し3分で止むなどご乱心
母親に「星は見られましたか?(嘲笑の絵文字9個)美味いもんは食べてきましたか?(嘲笑の絵文字9個、流れ星2個)」と皮肉をこめたメールを送ったところ、「星は見られませんでした。怪我をしました。メールが打ちづらいです。」と返ってきた。
温泉旅行だと思えばそれでもいいかもね、後で話してきたことは、チェックアウトの関係で寝過ごすのが嫌だったから一睡も出来ずに山の岩場で転げたらしい。
貼付された写真(モザイク加工、リサイズ済み)↓


遊びに行った彼らと裏腹に、一人豊橋のおうちで過ごす。
この2日間何があったか色々綴っていく。

26日9時以降彼らは旅行に、徒歩で駅まで移動?
俺はいつもどおり過ごした。水遣りの仕事を夕方行い、23時以降就寝。

27日朝5時起床。人目を憚り水遣りを済ませたが、そのあたりで向かいの一家が旅行用バッグを引きながら当家母親らと同じく駅方面へと徒歩で向かっていた。
向かいの家も旅行?
同時に、郵便受けを見ると隣のお家宛の郵便物が誤って届いていたので、メモ付きでその隣の家のポストに直に投函した。
宛名が最近まで我が家においていた牛久の祖母と似た名前(共に松○×子)なので、郵便局員にとって類似した住所と共に混同する要因たりえたのだろう。

その後9時頃に家の前を駅と逆の方向へ歩く10代ほどと見られる女子4人組を発見!
というのも、俺の部屋に外から彼女達の声がしたのである。
視覚的記録を押さえたかったが、断念した、彼女達が帰りに再び門前過ぎ行く時を待つ。
そしてPCが失神したので11時押し入れ内で作曲を始めたのだが、1時間ほどして疲れたので昼寝に入った。
目覚めると15時をまわっていた。彼女達は寝てる間に帰ったのか?

18時過ぎると今度は3人組同年代の女子集団が駅のほうに向かうのを発見!
なぜ3人だ!先ほどの4人組と関わりはあるのか!?
今度は角隠れ尾行をして、ある程度近距離で携帯カメラ最大ズームにして撮影。


ああ、高画質なカメラに憧れる。風景はモザイクを掛けておいたけれども。。。
まあ今日ほど家の前を女の子達が通る日はないかもね、2回も。
他に男女かわからないけどもう一回同年代の女の子が19時頃に通ったよ。

う~ん、どうせ俺には縁がない!ああ、叶わない少女の幻想に囚われてしまうこと愚か。
煩悩に苛まれし者共よ、全てを断ち切り己の全てを鍛錬に費やせ!全身全霊を捧げろ!
己を昂ぶらせるは色欲などではなく、飽くなき探究心だ!
う~ん、口は大きいぜ、俺。大言壮語の有言実行。

1回目に通った4人組は、2人2列で歩いていたが、奥の1列にいた2人がすき。
2回目の3人組は上の写真だと一番左が好き。
いずれの集団も都合良く僕の好みがいてよかった~
チカンに注意!変態が見ています


2014年8月26日火曜日

知的障害の弟がインターネットで眺める情報



知的障害の弟(以下、下の弟)はネット利用可能時に於いては昼夜を問わずアダルトな画像を眺めている様子だ。
DSi(ゲームソフト未所持)のアクセス履歴乃至保存された画像はエロ画像ばかりだ。

知的障害の影響で性欲に支配されているのか、制御が困難なのかと思ってしまうところだが、それは普通の小学生も同じ現象に陥るのではないかと思った。
性欲のコントロールはオナニーによる発散が効果的だ。
すなわち、下の弟はオナニーを体得しておらず、性欲が残り続けてしまうため、ずっとエロ画像ばかり見ていると考えられる。

しかしあの弟がいくら知的障害たれどもオナニーのやり方くらいは心得ているはずだが。
オナニーできると仮定した場合にもこのような状況が続いている場合、下の弟は知的障害で脳が性欲を鎮められない構造になってしまっているということか。
ゴミ袋に目をやった際、夏場にもかかわらず使用済みティッシュが多かったのはいかがわしき所作に端を発するものなのか?


なお、下の弟のPCの扱いだが、小6冬休みには母親から借りたPCをおよそ一週間で破壊してしまったのに対し、中1・6月(?)に買い与えられたものは中2・8月今も健在である。
肝心のPCの腕前だが、中1・4月にPCの部活に入ったが、相変わらずネットサーフィンしかできない程度だし、タイピングも小学生の時に基本が出来てたわけだから入部の恩恵なんて何一つもなく、概ね部活内では「どうせ知的障害だから」と好き勝手ネットさせてるんだろう。
中1最後の部活にUSBメモリをもらったようだが、使い方がわかるはずもないだろうし、中身は初期状態のままであった。
ちなみにそのUSBはSONYのUSM4GU緑色=4GB。
一応保存状態は良好だ。知的障害とてむやみに簡単に壊すことはしない。


これらの情報はいずれも本人の実際の様子を見たものではなく、本人が不在時など本人が気付かない範囲で収集した。
ちなみに、入部の恩恵は本人に何一つもないだろうが、俺にとってはある。
下の弟が学校にいる時間が長いと、家の中での俺の拡張された行動範囲(言い換えると、親や弟が家に長居すると俺の出来ることが減る)の持続時間が1時間ばかり増える。

そして、仮に下の弟がPCの技術を多くつけると俺に不都合が生じる。
弟の不在時に俺が弟のPC使用した形跡を不覚にも残してしまった場合バレる可能性が飛躍的に上昇するからだ。
知的障害であることの好悪影響は俺や周囲の人間にも当人にもあるものだが、凄まじい性欲に支配されきった弟が強姦や強制わいせつなど仕出かさなければよいが・・・


気になる下の弟が好きな傾向のあるエロ画像について載せよう。
殆ど古臭い画像やAV、変なゲーム(部屋紹介動画Kindle画面参照)などである。
下の弟自体、知的障害者によくある昔の特撮が好きな人間だが、エロ系にも現れるようだ。
まあ本人時間では6年ほど会ってない父親(現在54歳?)の影響なんだけどね。
そんな弟にはお仕置き、次回起動時に「脱糞くそババアダンス」のAVパッケージが表示されるように仕組んでおいた。
ほれ、エロ画像見ておけよ。お前の大好物な。
でも弟がトイレ以外で脱糞しそうだからやめておいた。


2014年8月25日月曜日

ブログ執筆者とブログ読者のレベルに大きな差異が生じる

今回提起する事象は過去に本家ブログに於いても度々取り沙汰したことだ。
本家ブログの記事内にリンクを貼付するが、結果的にそのリンク先へのアクセス数乃至リンク先動画の再生回数が記事から影響をまるで受けないことに疑問を呈す。

単にリンク先のアクセス数や再生回数を稼ぎたいなどという虚栄心からの意図ではなく、これらの数字は記事の内容を理解できたか指数であるとして、数字が増えないならそれ相応に記事もまともに理解されていないということを表してるとみている。
読者が理解できたかの可視化、理解から伴う副産物の数字。
だから、記事自体のアクセス数は伸びるのに、記事のリンク先のアクセス数等が変わらない状態が続くと私を苛立たせるのだ。
私がとても真面目に文章を書いたところで、読者が理解するレベルに達してない場合、どんな素晴らしい内容でも読まれないのだろうと。

私は、学歴などの薄っぺらな肩書きで全てが決まるのでなく、実質を伴う人材を増やしたい、私が誰かから知識を授かったように私からも知識を共有したい
そんな思いからこのように衒学的なブログを続けるのだが、読者にそんな意欲もなく、ただキチガイの私がキチガイの活動をして壊れる様を見たい、それだけだからこんな豊かな語彙を用いた文言を投稿してもパッと見で済ませるだろう。
まあ知識の共有のみならず、脳が高尚な語句を忘却しないようにここに書き出し、記憶に留めておきたいという利己的側面もあるがね。

とりあえず小難しい文章を書いて、私は読者をふるいにかけるのだが、容易く全てか殆どは落とされている現状を見ると悲しい。
私のレベルに敵う相手とは、軽く本気を出すといないということ。別に戦意はないけど。
私が記事内にリンクを貼るのは見てもらう必要があるから貼っている。
読者はその意思に応えはしない。

ここにリンクを貼る。リンク先には私の投稿動画がある。
YouTubeなので当然、客観視できる再生回数が表示されている。
https://www.youtube.com/user/SundarknessMusics/videos

2014年8月23日土曜日

環境が自分の思う範囲で必要程度に達しない場合、例えその分野の能力はあっても不向きなのか?

私はいつも、絵にしても音楽にしても環境のことで嘆いている。
もう少しでも充実した環境が欲しいと。
同じ素人の立場でも私より適した環境が整っている人は多くいるが、私の才能がその中で抜きん出ているが結局環境が劣るためいまいち進歩がしづらいと。

私はネット上の素人・アマチュア・同人系の人々を見ていて、私よりずっとマシな道具を使い作品を作っていると見ている。
だからこそ、立場は近いはずなのに自分と違う、より高度な道具を用いてることが羨ましい。
俺はそんな少しの投資で得られる道具を、環境を揃えられないなら不適合なのかもしれない。

この期に及んで"何たらかんたらBlames his tools"という諺を見て、「それは詭弁だ」と内心で強く反発したわけだが、やはり環境が整っていない時点で能力あっても不向きなんだ。
そういう人はもっと他のことをすればいいんだ。
それが不適合ということの筋になっている。

俺はいつだってそんな他人より劣る環境の中で努力してきた。
そんな逆境の中でそれなりに適応乃至昇華するための構想を練ってきた。
今直面している絵や音楽の問題も、不適合な環境で如何に上を目指せるか、我慢しながら、臥薪嘗胆の思いで試行錯誤を繰り返している証であるのに。
私の精神や執念を根本から否定することばかりネットに散見される。
関係ないときにそれが目に入る。
親などの家族もその懊悩の時間を知らないし、知る由もない。
邪魔ばかりされて自信を失いかける。それでも続ける。闘い続ける。

俺はいつも環境が悪くて挫折してきた。学校生活など。
そこでの環境とは周囲の人間との相性である。
生まれつきの軽い障害は、健常者にも障害者にも同類がいない状態を作った。
普通の道も外れた道も、前途多難を極めるもので人生ハードすぎる。
ハードより上の難易度の呼称って、ゲームによって分かれるよね。余談。

以前の記事の冒頭にも綴ったが、普通を志して上手くいかなかったから今の流れに向いたはずだが、これも難儀するっぽい。
自分の道を見つけられる日は来るのだろうか。


中1の俺にこう諭すことが出来るなら、当時の俺が志す道を上手く辿っていたかもしれん。
「軽い障害があることを割り切って、どうせ幼い頃と違って友達なんか出来るわけがない。だから世俗に囚われず、冷静さを貫いて、鍛錬と勉学に励むのが好ましい。何も他のアホみたいに成り下がってまで凡人の振る舞いをしなくていい。今のお前には味方を作る必要は一切ない。」
俺の今の姿を映せば大きな説得力になる。
当時の俺は想像だにしなかっただろう、4・5年ばかり未来の俺はこんな姿であること。

どうであっても思い描く成功に全く結びつかない俺は、過去の俺にそう戒めたところで、異なる不条理に妨げられてまた挫折してるんだろうね。
多くの人間が大した悩みもなく俺より上手くいってることが羨ましいよ。
親などの遺伝子が成功させない作りなんだろうね、弟達も俺みたくツイてない人生だし。

俺を不快にさせるネット上の文章は全て詭弁の塊だよ。
人を困らせてそんなに楽しいかい。
もちろん俺に宛ててるわけじゃないのはわかってるが、だから不快なんだよ。
17歳のか弱い人間を困らせるのが楽しいかい。
そんな人間の存在自体詭弁だよ。


私が絵と音楽、高度な言語を得ようとした大きな動機は、いつも見下されていた俺、明らかに自分に劣る人間にさえ見下され続けていたところから、相手に俺は優れていることを伝える簡単な手段をそれらに見出したこと。
もともと勉強は出来る方だったが、友達作りの為にアホなキャラを演じたのが奴ら真性のバカに余裕を生ませた上、それで友達になられれば目標達成だが、それどころか壁を生む結果にしかならなかった。
俺は自己研鑽を続けた。しかし一向によくなる気配はない。
只管逆行し続けた俺への扱い。

5度目の不登校になる以前からネット上の某所で私は学校生活と重なるような処遇を受け続けていて、俺の覆したい欲求が一層強まる。
今は当時の人格と違う状態であっても、その欲求は変わってない。
この活動の原動力も、一種の承認欲求であり、能力の高さを万人に認めてもらうことだろう。
しかし変なアンチを作ってしまうなど、当然うまくいってる感覚はない。
ネット上の某所時代とさして変わらず。学校生活とさして換わらず。
俺を見る人間の俺への対応がさして変わらずその裏で、俺は日々実力を付けている。
それでも他人はさして変わらず。

運が悪いからか黒幕が仕組んでるからか俺に付きまとう結果はいつも同じ。
俺が何度変わっても回帰する結果は変わってくれない。
未来永劫苦境輪廻の渦から逃れ渦に飲まれ揉まれ


2014年8月19日火曜日

普通と違う能力を手にするには、普通と違う生活をすること

私は普通を求めて小4の時に慢性的不登校からの脱却を決意して、事実、中2の2学期まではいじめ・疎外等に遭っても不登校にならなかった。
慢性的というのも、幼稚園の年中さんの頃から卒業(した扱いがあるかも疑わしい)にかけて不登園であったことに起因しており、以降しばしば不登校になったからだ(過去記事参照)。
結局は普通の生活を求めて、親を不安にさせたくなくて、自分なりの精一杯を尽くす思いで今までとは明白に違って頑張ったが父親だって理解はしなかったし、母親のところに家出もして普通になるなんて到底ムリだった。

そんな俺は今、普通の人と違う生活で普通と違う様々な能力を身に付けてきた。
常人に真似できない髪の長さこそ最たるものだ。
髪が私の人生をも表し、ネット活動の上で大きな意味を持つ。
普通の生活をしていれば当然この長さの髪など邪魔でしかなく不要だろう。
普通じゃない私には必要不可欠だし、あの憧れのキャラクターのような長さに及ばない現状に満足いってさえいない。
今月で、最後に髪を切った2010年8月から4年になり、当時でも長くて10cmほどだっただろうが、未だ長くて70cmのまま。
目標はこの約2倍なので次の3年じゃまだ足りないだろう。
今の倍やり過ごせと言いたいのだ。
髪が長くなるに伴って抜け毛が多くなることが一番不安だがね。
強制断髪とかも怖い(複数の漫画で黒髪ロングから極度に異なる髪型にされるシーンを見た)。

私には永い先の目標があるが、生きていて大事なければ自ずと至る地点であろう。
思えば4年前はかろうじて学校へ通えていたものだ。
これからの4年間は、年齢的な意味で子供の素振りはしていられない。
私は「10代の日本人男性では一番髪が長い」と自負しているが、3年の猶予は長いか短いか。
上のような自慢もできなくなる。
女の子でもいいから年下で私より髪の長い子はいないもんかね。


この記事のタイトルに類する有名な言葉を、哲学の巨匠たるサルトルはこう述べた。
「神々と肩を並べるには神々のように残酷になること」
似たような言葉→「毒をもって~」「虎穴に入らずんば~」
前者・・・アレにはアレを用いる手段で挑め 後者・・・アレを為すにはアレをする必要がある

私の場合普通じゃない生活をしてきたけど、その結果どうなるというのは案外個人差ありで、定まらないと思った。


2014年8月18日月曜日

私が絵と音楽を手放す瞬間 儚き夢の幻想



私は昔、友達が欲しくてみんなの話題といえばまずテレビ、ということで当時バラエティ番組やドラマなど視聴し続け、クラスの中じゃおそらく私が一番というほどの知識をつけた。
ところが、そんなものは喋らせてもらえる機会がない私が覚えたところで、無用の長物であった。

今からすれば、当時の自分が幻想に囚われ、踊らされていたことは馬鹿げてるとしか思えないし、芸能関係に2012年以降も未だに釘付けになっている人間はより馬鹿馬鹿しく見える。
ということで今の私は2011年の家出以降バラエティ番組は大嫌いだし、ドラマ等も見ておらず、ネットで流行の深夜アニメも同一視しているから無論アニメの話題も滅多にしなければ、2012年いつかからアニメ自体自発的に見ることはない。
このような世俗は本来もう少し高尚な業界だったかもしれないが、今じゃ友達ごっこの繋ぎでしかないと思うと下卑た分野に落ちぶれたものだなと感心。


私は今、絵と音楽を嗜む芸術家的な趣味を持ち、近頃は毎日のようにお絵かきや作曲を続けている。
しかし、これももしかしたら何かに囚われている渦中ではないかと思える。
絵と音楽は趣味で、秘密裏に行い自己満足に終始させ、他人に見せびらかすものでもないかもしれないが、私はネットに臆せず載せている。

これはある種、変化を求めての行動だろう。
ネットに載せることで、この趣味を自己満足に終らせず、上の階層を目指す。

残念ながら、過去には変革を求めて努力しても自分が気付く範囲で違いが現れるのみで、理想が叶うことはなかった。
常々書いてる、猛特訓の末に体力テストで飛躍的に記録を伸ばしたが、いじめの効力は生まなかったというのも好例である。

尚且つネットに載せることに功罪があるが非を挙げるならば、それを火種に中傷が起きること。
そしてその時に「絵も音楽も下らん、やめてしまえ」と投げ捨てるのだ。

幸い、今の私はその状態にないが、過去の例からすれば、いずれその面に堕ちるかもしれない。
そんな悪しき例の集合体が私ではなかろうか。
いつも同じ手法で己の知る範囲では卓越するのだが、それを発揮する場所がないならその才能は死んでしまうということだね。
まあ、現行の"幻想"である絵と音楽は未だその領域を得ていないけど。
というかこれからも花開くことはなさそうだね、鍛錬の時代と同じように飛躍的に伸びるが、凄く優れたというほどでもないところで止まるだろう。

2014年8月15日金曜日

小4の時に弟2人が児童養護施設に送られなかったら私は5度目の不登校にならずに済んだのか?

養護施設シリーズ3記事目。


私の人生には大きな分岐点が15歳までにいくつもあった。
普通の人はみんな同じように学校通って卒業して、就職という何の変哲もない人生を送るに違いないし、進学や卒業や就職なんてみんな同時期に決まって与えられるため分岐点でも何でもない。
いわば大きい道(一般的な国道N号線など・重複区間云々はさておく)を歩き続けて小さい脇道を気にすることが無いことと同じである。
ところが私は人生で多くの引越しを重ね、親が小5で離婚して父親と二人暮らしになったりタイトルのように弟と引き離されたり、父親の家から遠い母親の家へ家出したりと、他人にはありえない分岐点を持った。
いわば中ほどの広さの道に同等の広さの道のT字路が続くようである。

一時、弟と生き別れたこと(後に再開)は、ある種の武勇伝にも類するものだが(他人にない悲劇を抱えたみたいな)、やはり正常な人生を過ごす上で私には損失を被った一大危機だったのだろう。
まあ生まれから正常じゃない私が正常な人生を求めるのは困難か。

私が中2の時にいじめ等で不登校になってしまったのも、弟が父と私と共に住んでいればもう少しは防げたに違いないだろう。
そして、不登校になる前から父親と家庭内別居にあった私も、家庭での孤立を防げたであろう。

なんだかんだ小4離別前は仲良くした弟たちだから、些細な兄弟喧嘩くらいあっても無問題だろうし、ましてや互いに励ましあって通学の継続もできただろう。
みんなで仲良く小学校に通い、私だけ中学校に進学してからも同調の意識で、弟が通ってるなら自分だってという発想から不登校にならずに済んだだろう。
そして、私が中2になれば上の弟も中学に上がる。
下の弟(知的障害児)は私が高1の場合、最寄の中学校に特別支援学級がないため、少し離れた他校への進学を余儀なくされるがね。


まあ親の誤った判断のせいで、現在は私(父宅→母宅へ家出)と上の弟(母宅→父宅へ追放)共々中卒無職で、知的障害の弟が頑張って中学に通えてるのが救いか。

2014年8月13日水曜日

私の部屋の内装の変遷

部屋の状況を視覚的に明示する一般的手段としては写真である。
携帯カメラにて収めた様子は2011年3月11日から始まる。


これは上記の撮影日時から諸君の推測の通り、東日本大震災を告げた東北地方太平洋沖地震発生直後の自室である。
15時10分撮影だが、見ての通り教科書・ノート類はイスや机上に床など散乱し、他には溜め込んだ硬貨も散らばった。
地震発生前はTOKYO MXの株価の番組を見ていた。
揺れてる最中は写真中の机(本来弟のもの)に隠れていた。
このとき、私の当時在学してた中学校はどう反応したのか。

過去記事で述べたように、これは当然埼玉県内の前の家の自室であり、実は私の本来の自室はこの部屋でなく、上述の弟の部屋である。
元々はこの隣室が私の部屋であったが、土地柄この家の以前は林と小さい家が建っており近くには現在も残る林もあるが、私たちの越す前から伐採と解体がはじまり、拓かれた土地は前の家建設用地とヤクザ企業の資材置場になった。
ヤクザ企業資材置場の詳細は過去記事にある。

ということで、虫がわきまくりで無論でかいゴキブリなども当たり前の為、弟施設送致から落ち着いた2007年8月、常識を超える大きい黒光りゴキが壁を這っていた。
舌の弟が消えた部屋への移動を余儀なくされた。
その後その部屋でもゴキがドアのあたりにいて今度は駆除してやろうと勇んだが、見失って上の弟の部屋へも移動を余儀なくされた。
この成り行きの通り、私はその弟の部屋に住まっていた。
それからその弟の部屋でゴキ沸くたび退治に成功していた。

今父親と帰還の弟はゴキブリ地獄に阿鼻叫喚しているのだろうか。
夏ほどゴキが沸きやすいし、毎夏私はゴキブリに警戒を張っていた。



こちらは2011年10月11日13:59撮影のようだ。
こちらは本家ブログに載せたことがあるようだ。
ペットボトルや缶が部屋に80個くらい転がっていた当時、事情聴取にきた警察が片付けるよう諭してきたので、まあ強制ではないが袋にまとめておいた様子。
できれば片付ける前の惨状を見せたかったが、残念ながらそれは撮ってなかった。
片付ける前も写せ、過去の俺。ビフォーアフター的に変化を比較したかった。

右に布団が敷かれてることから見て取れるのは、当時は今のように押入れで寝ていなかったこと。
観察眼・洞察力が光る人?
私は2012年1月1日、横になってる最中に母親が「新年だから正月だから元日だから」と襖を唐突に開けてきて気を悪くしたため、押入れで寝ることを決心して以来押入れ睡眠が始まった。



上の動画は2013年7月の様子。
しゃべりながら部屋を紹介しているもの。



上の動画は2014年4月の様子。
部屋の大まかな図も自作したものを掲載しているが、これは本家ブログの記事でも載せているのでこちらを参照→http://masashi.doorblog.jp/archives/37944743.html

2014年8月8日金曜日

知的障害の弟の児童養護施設時代におけるいじめ経験


養護施設シリーズ2記事目。


知的障害の弟は、上里町内の児童養護施設に上の弟と共に入所してた時代、「よしき」という子にいじめられていた(共犯者アリ?)
その話を最初に聞いたのが私が当時小5で、そのよしきも小5~6くらいと聞いた。

弟が認知症の祖母をどうしても痣を負わせたり出血させるほどいじめてしまうのは、このよしきにいじめられたことが忘れられず、憂さ晴らしの好機をあの祖母に見出したのだろう。
8月7日にも祖母を虐待して、母親にばれ、今までにも幾度となく忠告を受けたが、この日もばあさんに血を流させたという話し声が聴こえた。
会話の中でよしきのことを話していた弟。
今尚、7年ほど前の嫌な思いが消えないという弟の一面を垣間見た。

祖母も、「お母さんにまた怒られるよ」とやめるよう促すか、抵抗すればいいが、そこまで頭が回らない痴呆だし無理か。
受身であり続け、母親の発覚・救いを待つのみ。
いや、発覚を待つっていう発想も、祖母の頭には無いでしょ。


2014年8月7日木曜日

私の上の弟(父宅居住)の通学記録

中学に上がってからは慢性的な不登校と化して、現在は私のように中卒無職と成れ果てたであろう弟が如何にして現在に至ったか、軌跡を辿るもとい通知表を見て確認する。


さいたま市立常盤小学校
小1・・・通知表発見できず。記憶では2学期か3学期から不登校?その頃に、万引き自慢を私にしてきたことがあった。私でも万引きは当時したことがなかったが、弟に影響されて、以来数度万引き経験がある。
小2・・・不登校、7月に同県○×市内に引越し、私は9月から現地の小学校に通い始めたが、彼は知的障害の弟と共に8月に中央児童相談所→児童養護施設上里学園へ。

上里町立七本木小学校
小2・・・通知表発見。9月転校から3月まで10月に欠席1、9月に遅刻1だけと飛躍的な改善。親元から離される無慈悲な運命に晒されるも、かえって功を奏した。
小3・・・なぜか通知表発見できず。おそらくは、欠席1ほどで済んだのでは。
小4・・・通知表発見。冬休みに母が当時住んでいた姫路に私や下の弟と共に遊びに行った際、私は予定通り埼玉県内に帰る(父親思いの俺)と言っても、弟達は施設帰りを厭い、母の姫路に移住する腹を決める。そのため、4月から12月までの間、7月に欠席1のみだったが3学期から記録なし。

豊橋市立飯村小学校(姫路から1~3月中に引っ越した?)
小5・・・通知表発見。4月欠席5遅刻3、5月欠席2遅刻1、以降は年度末の修了まで全部欠席。いわゆる不登校が、再発してしまった。
小6・・・通知表発見。4月は全欠席も、5月から復帰を目指し、交流学級(保健室登校の色違いか)等で年間要出席日数193日の内、欠席76早退109遅刻2だそうだ。数字が合わない理由は、推測だが要出席193日というのは普通児童のものさしというだけで、弟は弟個人向けの数字が必要なのに用意されず普通児童と同じ表示にされたのだろう。あるいはただ単に残りが通常出席か?出来の悪い通知表で、普通の出席日数の記録がないのでわかりづらい。

豊橋市立○○中学校(ここで市内引越しをしたため、飯村より遥か遠く)
中1・・・通知表発見。入学式に出席したかはまだ一緒に住んでないため不明。4月16日の俺が豊橋旅行という名の家出で同居開始した。4月から10月途中まで記録があるも、以降記録なしということは弟が学校に見放されたということだ。
中2・・・通知表発見。4月だけ遅刻込み早退5の出席。一緒に住んでた俺は当時その動向に気付けなかった。8月に埼玉県内の父宅へと追放に遭う。
中3・・・父宅学区の○○中学校への転校もないまま豊橋の中学校を通わずして卒業後、現在中卒無職。


このように私の上の弟は私とはかなり違う境涯を経て私と同じ先へ行き着いた。
あのばあさんなどが負のDNAをバラ撒いて、クソ親が育てればどんな発育環境の相違があっても、一様に中卒無職になるからね。
じゃなくても下の弟のように知的障害として生まれる。

俺が優れてるところは、このように徹底的に調べて客観的証拠を交え裏づけることや、自ずから学ぶ意欲が強いところ。
あの弟はゲームして過ごすことしかなかったし。
母親だって以前、学校に弟を通わせようと努力したとか感情論唱えてるけど、客観的なデータが全てを語ってるよ、通わせようとして中学3年間で遅刻早退5以外の出席0か。へぇそう。
百歩譲って努力したことを認めても、3年間で遅刻早退5以外の出席0じゃ誰にも信じてもらえないし、信じても大した結果の得られない無駄な悪あがきだね。

2014年8月5日火曜日

私の過去に纏わる物品の回収

今の私が欲しいものとは、安定した生活や金銭などだが、一方で再び得られないものが、過ぎ去った過去を示す物品である。
2011年4月に家出してからは、手元にその類の品が殆ど残っていない。
今までに複数の記事で「前の家にある・前の家に置き去り」といった表現で、かの物品への未練を表してきた。

ことに、昨今強く欲している状況にあるわけだが、とりわけ欲しいものが小学校卒業アルバム、中学校ウン周年記念冊子、ノート類、通知表など学校関連の書類や冊子等だ。
これらの回収を試みるのは、単純に不確かな真相を得たいという探究心に端を発するのみならず、ネット等に客観的資料として掲載したいという意図も含めている。


この家には、私が2009年かいつかに、弟が遊ぶゲーム機を送ってもらいたいと母親から要請があったついでに自分で選定した写真を収めるアルバムを前の家から一緒に送って今も、そのアルバムがある。
そのアルバムに収められた写真には幼少期の私も写っているが、これは当時の私の良心であり、その真髄とは、「施設脱獄後の弟達に思い出を失わせたくないからせめてもの慈悲として」である。
施設脱獄とは、以前書いた通り児童養護施設であり、2008年暮れに当時の母親の住まい・姫路へ遊びに行った際、施設帰りを弟二人は拒んだことである。
幼少期の写真はこういった些細なものほどしかない。

だからこそ今にも記憶から失いかけているかつての姿を明確に見られる写真をね。
それで、具体的にどうやって取り戻すか、前の家の父親に直接連絡を取ることは物理的に可能、しかし、当然父親の元から逃げて豊橋に来た私がどのツラ下げて連絡できる?
怖くてできるはずがないので、遠まわしな手段を見出せた。


それは、前の家の自治体が管轄下にある行政機関等の職員に取り合って、そこが仲介で豊橋に送りつけてもらうこと。
具体例は児童相談所、前の家は埼玉県の中央児童相談所管轄下。
なのでそこに連絡を取り、職員を通して「○○さんの愛知県内に別居してるご子息様がこれらをお求めのようなので、用意して中央児童相談所まで送付ください」とすればよい。
そのまま相談所を介して豊橋に送ってもらえればよい。
一応、私の親権は父親のままだし、なんだかんだ私は法的に児童の年齢に収まる17歳だから、話は付くと思う。
まあだからこそ、年齢のリミットは刻一刻と迫ってるし、当該物品も腐食や廃棄に晒されるまでに実行せねばならんけど。

児童相談所という発想の根源が、今年母親が件の相談所に取り合って父宅に住まう弟が健在か様子見させて健在であることの報告を受けたそうだ。
当然母談を完璧に信じてるわけではない、嘘かもしれないし嘘でなくても写真等もなければ児童相談所との連絡の記録もこちらで取得していない。
だから本当かの断定は困難だが、本当と仮定すればなんとか話は付くかもね。


卒業アルバムなどを本人が所持してないのっておかしいからね。
母親も、今年6月にばあさん宅に残されていた自分関連の物品がばあさんの家具類などのオマケで自分のもとに舞い戻されたわけで。
あのばあさんは、案外母の思い出を何十年にも渡り棄ててなかったということだ。
たかが数年くらいで私の遺品が葬り去られることはとても信じたくない。

この計画が軌道に乗って進めばいいものだがね。
一番の決め手が私の行動力だろう、向こうから能動的に送ってくると思わない。
家に遺された私の思い出を、父親は眼前にして何を思う?




でまあ、連絡にあたって要旨を事前にメモして8月5日14時50分に中央児童相談所に電話してみたわけだが、担当の女性カノウさんは「児童相談所では行ってない」とのことで諦めた。
ものの数分で撃沈。押しが弱い俺。

メモした内容
17歳なので法的には児童の年齢 愛知県内在住だが、そちらの児童相談所の管轄下の自治体に親権者が住んでいる なおかつ、同居人である私の実母は、私の弟が親権者の家で健在かそちらの児童相談所員に現地訪問させた経験があるため、遠隔に住んでいる者でも接点があれば干渉が出来る

去り際にこう話せばよかった
「お前のような堅物の大人が恵まれない子供を殖やすんだ 幸福を破壊するんだ」
大袈裟な物言いだけどね。誇張表現。仰々しく嘆く。
せっかく他人と喋っても毎度の如くネガティブな結果じゃないかね。
人間不信が進行するよ。あーあ。やっぱ仰々しくないって。

執拗に詰問したら威力業務妨害か公務執行妨害(児童相談所って公的な機関だしどっちかわからん)になっちゃうかな。
カノウちゃんが「加えて納める」字のカノウちゃんかとか問い詰めたい。
イライラしてくるからもう一回かけちゃおうかなぁ☆
でも違う人が出たら、カノウさんに代われなんて言えないしね。俺にはムリだよ。


2014年8月1日金曜日

小6~中1期に医学へ関心をもったことの概要

幼児期から当時にかけて度々、通園や通学を拒むようになることは多かったが、小4二学期から真面目に教育機関へ通いだしたということは今まで幾度となく書いた。
そしてそんな自分が、前の家でのある日、母親が去った母親の部屋を漁っていた。
その時に分厚い医学書(家庭医学の事典)を見つけて自室に持ち帰り、暇なとき読んだりしていた。

そんな自分が当時、特に興味を示した分野が精神病と小児疾患と先天的障害である。
なぜ当時の自分がそれらに強く惹かれ、熟考に浸ったのか。

それは、幼き時の自分自身が、薄々当事者の性質を自ずと察していて、その為か無意識にその情報を求めていったという風に見られる。
何かと不条理を発する経験が己への不信感を募らせてゆき、過去の経験が精神病と先天的障害などに結びついたことが潜在意識の奥底に在っている。



関連記事(2014年4月22日)引用
http://masashi.doorblog.jp/archives/37633882.html

ちなみに「監視されてる」と述べると「統合失調症」と処理されるパターンも多い。
そうさ、私は統合失調症、精神分裂病、これらも小6のあたり、家を物色すると薬剤師の母が北海道に移住した際、家にその遺物として残された多くの医療書医学本から病気に関する分厚い大辞典のような本が見つかり、読み漁っている中で当時精神病など興味があり、そこで色々な病名・症状などを知った。
殊(こと)精神病に於いては、心理状態・生活習慣など克明に記されており、重症時と症状緩和後や完治後に書かれた絵の比較(ドロドロ理解不能な絵)や精神病棟における患者の一日(起きてるときは立ったり座ったりなどしかしない)など当時自分の世界観や常識になかったキチガイさにはまっていた。
他に腸内など寄生虫や、写真の多い小児(口蓋裂・奇形)の項目も好きだった。



昔から、障害者に関わる機会(リアル池沼である下の弟が好例)も多く、例えば小3の頃に北浦和公園で4歳くらいのショタっ子の後姿で興奮して、回り込んで顔を見るとメガネをかけていて、「これはダウン症じゃないか」と疑ったりしていた。
パッと見では詳しい顔貌の確認もできない上、4歳ほどの年の顔貌を繁々と見つめる方法では専門医であっても病気の判断など困難だろう。
ただメガネを確認しただけで、「約4歳児の体型でメガネをかけるほど生まれつき弱視なのは他の障害も併せ持ってるから」と当時小3ほどの私は推測した。
このように幼くして一定の知識(事実や正誤はともかく、独自の憶測を持てるほどはあったのは確実)を保持していたわけだ。

それから時は過ぎて小6中1期の私が母の去った部屋から医学書を手にし、過去の疑問を解明する鍵としての可能性を見出し、書の記述に吸い込まれていった。
ついでに、あの時代は法律、なかでも著作権について興味が深かったので用語や判例などを学ぶことがあった。
父親と一緒に図書館に行くことが多かった時期に、図書館で探したり、借りられるものを借りていた。
母の去った部屋に、司法書士や行政書士に関連した参考書があったので、それも読んでいた。



私ファンはご存知の通り、母親は薬剤師が天職なものでね。
国家資格。薬事系の仕事が今までメイン。
前記事の関係で、再就職に向けた動きが始まりそう。
介護の束縛から解き放たれる。


近い内に認知症の祖母は介護老人保健施設に入所予定。

介護老人保健施設、略して老健。老人ホームとは似て非なるもの。

ドニプロペトロ牛久に帰りたいヨ~
茨城の叔母さんたちよ、あんたらで茨城県内の施設を取り合えなかったんかね。


入所先の施設名は聞かされてないので独自で調べておこう。


母親は、祖母の入所完了次第、再就職活動を始めるだろう。