2019年12月7日土曜日

民間療法・対症療法としての舞踊・武術の開発のための筋道

表題に言う「筋道」は:
① 問題点を露出させる、
② 解剖学ないしスポーツ科学のような知識で詳細に分析する、
③ ②の手段を兼ねて具体的に舞踊・武術を考案する、
④ エビデンスを得る、
概要・抽出 (abstract) としてこのように考えられる。

「開発 development」では、②~④が無制限の繰り返しになると思う。
定義の起点がどこか曖昧になりそう(循環論法になりそう)だが、あくまでも「舞踊・武術」と私が想定する運動の行為が開発結果である。
科学的な方法論 (scientific method) に則る場合、形式的にこれが妥当であるが、もちろん、形式的な範疇である。

もっとも、ここでは最初に目的や目標を明確に定め、その世俗的な実用性を制約している点で科学史にある偶然性の側面と対をなす位置にある。
何らかの物質や現象の発見について、それはそう実証される限り、相互の善悪や差別は無い。
発明 invention という点でも、ここで限定的な実利を定義していることから、未知の可能性は切除されていて、過去の「偉大な発明・発明品および発明家 inventor」として称えられる事績・事物および人物に及ぶことは有り得ない。



次は、具体例である。

2019年10月22日に、私の生活における身体的な問題点や衰弱・老化現象に関する思考の中で、にわかに思いついた/ひらめいた運動または舞踊・武術の一種がある。
①と②を含むように、2018年から続く右足小指の問題と、デスクワークなどで使われづらい筋肉がある問題などを、問題視した。
③のように、にわかに思いついた/ひらめいた運動または舞踊・武術の一種は:
・股から足首までの脚を開き、上半身はそのうちの一方に向き、その状態での後ろにあるつま先が直角の方を向いているように、立つ(何かしらの有酸素運動というかエアロビクスやエクササイズやダンスなどで基本的な姿勢の一種だが名称不明)。
・両脚の小指に、普段よりもバランスの重点を置いて/力を加えて立つようにする。
・腰を動かしながら手の指先をビロビロと動かす。
という動作が反復されるものである。

④のためであってもなくても自分で試す場合に、短時間でやりすぎないように注意しておきたい。
どれほどの期間に1度行い、1度にどれほどの回数で行うかを研究する過程などは、③と④の相互作用になろう。
1度とは一定の時間のまとまりを表現したものである。
動作は光や音のような波 (wave) ・振動 (oscillation) という周期的なものとして考えるとき、秒間の反復の回数=周波数 (frequency) がいくらかということも数量化することができる。
回数の基準は、その周波数のように + 側のピーク peak から - 側のピークを介してもう一度 + 側のピークに戻ることで1回とする。 
この動作の場合、1秒あたり2回=2/s (秒間2回)が速い部類になる。
もし1秒以上に及ぶ動作の場合は10秒あたりn回=n/Ds (デカ秒間n回) で数量化する。
回数または速度として 2/s (2 Hzとも) でこの動作をする場合、私については10分ほど続けると身体的な害に達すると見込まれる。

参考:最も大きい振れ幅の動作は4秒に1度の反復をしているアニメーション。その間、もっと小さい振れ幅の動作が速く反復する。ここで「大きいものは腰の動き、小さいものは手の指の動き」として当てはめて考える。 from Wikimedia commons (CC0, PD)


固定的な運動または舞踊・武術のワザとするにしても、これはやはり問題点に相対する限りで有効であることが立証されればよいものであり、何か崇高な体術とすることにはならない。
流派の開創を意図するものでもない。
目的に対応した手段、対症療法ということが、表題に書かれるような前提にある。

個々人の自覚的な問題点のための、自発的な解決方法として、筋道①~④が理解されればよい。



考え直すと、仏道修行の基本的な姿勢(e.g. 過去記事に幾度も示されるカーラーマ経の要旨『パーリ経蔵・増支部3にある"Kesamutti Sutta(通称: カーラーマ経)"は、様々な哲学・宗教・学問・社会などの思想"vāda"や常識や見解や理論や教義について、やはり仏道修行者は「三毒によって"具格: lobhena, dosena, mohena"諸々の悪行を為すという苦"dukkha"が無く、自分の心の安楽やそのための修行に資するかどうか」という点に基づいて用捨を判断せよ、と釈尊が教示していた。自分が三毒の無い状態"alobha, adosa, amoha"となりえるならば、いかなる見解や理論や教義でも用いてよい善法"kusala"であると。』や大智度論の四悉檀など)に近いようである。
哲学だと、道具主義とも実用主義とも言われるプラグマティズム (pragmatism, 個々の哲学者でいう誰の思想に近いかは詳しくないので不明) のようでもある。
これは科学的な方法論である以上に、合理的に冷めた印象のある技術開発の理念 (philosophyの一義) を説いたものと思うべきか。


当記事の「舞踊・武術」の実演動画 (2019年11月8日撮影) https://youtu.be/kueKZEj-HJ0



総論と注意点
固定的な運動または舞踊・武術のワザとして開発が完了されても、問題点に対する意識を失わないことが人間的である。
「任意の現象が問題点である」としての自覚と治療と予防も、人間の一心から願われて保持されるものである(自覚・反省・努力に同じ)。
その心があるときに、生活習慣の見直しなどが伴うはずである。
私が「ひきこもり」である立場では、当記事が「ひきこもり科学(引きこもり科学)」の技術開発部門を示していると考える。

④の方法は、私に協力者がいないし協力を募ることもしないので、自分で行い続ける限りの方法のみがあることになる。
一般的な技術開発では複数の被験者・サンプルが必要になる。

ところで、それで単独でも複数人でも、「偽薬、プラセボ、プラシーボ効果 (placebo, placebo effect)」ということは一つの注意点になることも忘れてはならない。
「何かをし続けること」が、幾らか自尊心のある人にとって「自分が行うこと=自分が信じること」というそれ自体の目的性と帰属意識に繋がり、その尊さが形成されるならば、その分に良い効果がありうるものである。
場合によっては、実際の効果を問わずに認知バイアス (cognitive bias) を起こす場合もある。
④については、可能な限りに実験的な調査をすべきであるとしても、調査の経緯や調査結果に対して非常に慎重である必要がある。

仮に④で、①の問題解決という期待された結果・エビデンスを得たとしても、その舞踊・武術のワザが原因の性質を持っていることの証明はされない。
科学的思考には、反証も付きまとう。
任意の運動行為は、先述の通り、やりすぎると悪影響・副作用(adverse effect 先述:身体的な)がありうる。
野球のピッチャーによる投球の多さと肘・肩の損傷の関係(投球数制限が少年野球と高校野球の脈絡で挙げられる)が著名の例として知られ、現代の人権的な観点で「やりすぎないように」すること(関係ないが類例には熱中症の危惧がある炎天下での練習や後遺症の危険を伴う運動会の組体操の大技などもある)は日本国内で進められている。
これは単に、社会的な話(議論が多いために一般人が議論に貢献できないもの)の例示である。
運動による治療法の良し悪しを確定させる際には、その条件や反対の要因の排除が明示されている必要がある。






起草日: 20191022

私に「舞踊(alt. 舞踏)・武術(martial arts, alt. 武芸・武闘・武道 ※道については思想上の意味が付加されやすい)」が関係する要素は、2012年以降、動画投稿活動の一環で出現している。
一人物からの影響であるが、一般的に舞踊・武術が動画の見栄えとしてはよくなりうるので、しばしば動画の題材にしていた。
表向きの投稿において:
2012年の投稿例に『いじめてくる不良を明日から撃退できる武術』(本家チャンネル)がある。
https://www.youtube.com/watch?v=H8NrYe1PEZg
最後である2017年の投稿に『長髪のお兄さんが半裸で動きまくる (資料映像3)』(日記チャンネル)がある。
https://www.youtube.com/watch?v=d39t9EoTMsc


これら投稿物における演出は、記事末尾である場所における個人的な身辺の事情の説明なので、記事本文の論旨と関係ないことが明白である。

2019年11月22日金曜日

母が私に買い与える物の一部について

まず母親に2019年5月26日と2019年9月12日の写真の添付とその簡単な写真の説明を書いたメールを送信する。
次に以下のような(=ネットでの公開と別に修正を加える)長文のメールを送る。

以下、メールの文章の案である。

基本的に母へ物の要望をしない私であるが、過度な場合について問題性を指摘することはある。
「私の我慢の限界の程度」は、時期によって異なるが、2013年から、私がそのようにしている。
2013年6月には2015年時点の未使用品があるという基準で計算して1度で1万円以上の無駄遣いが行われた。
タンスの肥やし(箪笥の肥やし)が蓄積する一方である。

2013年10月19日に当時16歳の私は以下のメールを母親に送った。
抜粋する:(全文は本家2013-10-22記事に載る)
今年6月頃に俺に買い与えた服も、正に夏に着るために買ってきたようなものの上、酷いセンスのデザインだから夏にすら着る気も起きない。
お前の持ってる服はそんなにおかしな服でもないのに、俺には小学生が着るようなものばかり与えるから呆れてるし、俺をダサイ見た目にして笑いの対象にでも仕立てあげる気なのかと疑うほどだ。

前回の衝撃的な一件のその日の内に試算したが、使わない大量の安物に計一万円以上も使っていたと発覚した。
「安物買いの銭失い」という言葉を知っているだろ。
着ずに虫が湧くのが落ちではないか、虫が湧けば家の問題になる。
たとえ量こそ少なかれど、俺が気に入ったものを数点に一万円を使うほうが遥かに有意義だ。

とりあえず、お前のセンスは信用できないから、ネットで一通り買い揃えられるほどの金を用意してもらい、その金で服を購入する。
(中略)
俺がまだイオンに行けた今年6月に俺に相談して金を渡して購入させれば希望はあったのに、お前は勝手に何も言わずにゴミだけ買ってしまった。
ここまで来たらネットで購入するしか術はない。
実際に、去年9月はどうにか一人でイオンに行け、服を買えたのだが。(以前も話した)

こういう文章を書いていると本当に気分が悪いし、善人の俺がまるで悪人に思えてくる。
生活必需品の購入にあてる資金くらいスッと出してくれないと、以前少ししか出資してくれなかった、だから去年9月はユニクロで2点しか購入できなかった。
(中略)
わかったら、これからは簡単な要求くらい素直に飲み込め。俺の気を悪くしないうちに。

以上は2013年10月19日のメールからの抜粋である。
これに対する母親の返信は「あなたが外出しないことが私の困ることにはならない」というメッセージを含めたものであったと記憶するが、母親からの返信については記録を失っている。



当時に持っていた知識とその行動における反映は、後年の記録からうかがうことも可能である。



2015年7月12日
押し入れ下段にはタンス(チェスト)があり、その最上段には小5(小6?)の時から所持している部屋着・寝巻き用の上下セットが収納される。購入時の身長・体重には長袖として適正なサイズであり、"150cm"と思いきや、"M"と書いてあるのみ。バスト79~87cmという表示があるが、何にせよ今でもさほど窮屈な感じはなく着られ、これを着て撮った写真は中3・当地の自室にて全身を写したものと、2012年6月28日に撮った2枚の計3点しかない。

これを着るに問題あらば、時期的な経緯も含めて母親に次回木曜日の買い物で新しい夏物の部屋着を買うように頼む必要が出てくる。高学年から20歳まで同じ服を着続ける人は、なかなか見つからないと思う。それはともかく、他にも買う際に数点添える事項があるだろう。

一に長袖であること。既に「私の相談なく母親の独断で買われた」半袖の衣類がいくつもあり、タンスの肥やしとなっていて、仮に母親や下の弟に渡そうとも、各々が別々の意味で着られる代物ではないが、前者ならせめて「私(母)が着たくないものは○○(息子の私)も着ないだろう」という気持ちから、独断で買うにもしっかり品定めをしてもらいたい。

二に繊維は化学繊維、中でもポリエステルが好ましいこと。部屋で着る際に着やすさ・着心地だとか機動性であるとかは肝要であり、前がボタンで開閉されない服は綿の場合、新品は腕を通しづらいことが多く、このスウェットも最初そうだった。ポリエステルは他にも丈夫・万能であって、件の部屋着もポリエステルが主体で織られる。綿などはファッション、だけど7月10日の日記メモに触れたお気に入りの黒いシャツも、綿とポリエステルが半々なんだよね。三にカラーであるとか、その他の指定。

結局、私が小5から今まで捨てずに留めているこの部屋着自体が長袖であり、長袖を求める気持ちは今でも変わらない。中3となった下の弟が今でも上半身裸で過ごすこととは気持ちが異質なのに、その心を知り難い母親には、言葉で言うしかないが、それでも伝わらないことが多い。メールでの要望は、もちろん当メモのような長文でなく、要点のみの簡潔なものとするが、寧ろこの方が平易で要旨のみは堅実に伝わろう。

最後に、今着ているスウェットと合わせて一点書くが、やはり夏場には件のポリエステル的なものが合うだろう。通気性は言うまでもない。冬物のスウェットを常時着続けて、綿の生地を汗や湿気でくたくたにして、いざ再び冬を迎えるとき、衣が薄くては過ごし難いではないか。よって、夏には夏に合わせた衣類を調える必要性がある。

注釈: この2015年7月12日の記述ではポリエステルを高評価するが、あくまでもそのような織られ方である場合に限られる。2019年8月22日に母が私に渡した「上(トップス)1点ポリエステル100%の半袖ポロシャツ」は手触りザラザラ+胴体の表皮にチクチク感+静電気で夏の部屋着に適していない。他の肌着併用で外出に適するかも不明である。いずれにせよ、私自身で着る物を選ぶ方が家計にも地球環境にも好ましい。




2019年5月26日
16時台、「2013年6月に母親が勝手に私へ買い与えた衣類・カバン類のうちの一つである手提げ・トートバッグ風のカバン・鞄」は、合成皮革素材の部分が風化していた。いわゆるポリウレタンの加水分解の類である。未だに外での使用を経験しないこのカバンは、このような状態となっており、母親が無駄な投資ばかりをする傾向に、改めて呆れる。中学生のころから「目的性による物の良し悪し」の分別ができている、精神的・知能的に自立した子供との相性が悪い、母親である。



2019年8月22日に母が夏の衣類として私に渡した靴下3点・上下短い服1点ずつについての補足事項※
上(トップス)1点はポリエステル100%の半袖ポロシャツであり、ザラザラ感がすさまじく・肌着として着た際の胴体の表皮にチクチク感がある(私は外出しないのだから部屋着として実用性が確保されるべき。用いる当人の目的をわきまえないで母親は買い与える)上に、残暑の9月11日(湿度は少なくとも低くないと思う)に試しに着た際には静電気のバチバチとした音を聴いた。靴下3点は1色の地に2色のドット(水玉模様)が伴う柄物である。柄物の一部は、履く際に指に引っかかるか、耐久性の欠陥を伴うなどで、実用性に欠ける。8月・9月10日以前に一度試しに履いて問題があった。9月12日には水玉の位置に対応した皮膚への陥没が確認できた。母親は、自分が着ない素材・デザインの衣服を息子に与えたがる。2012年から問題視していて、まともな言葉を理解できない人に対しては「黒一色のものを買えばいい」とだけ言うしかない。母親は長い説明に理解を示さないか、空虚な返事だけで守ろうとしないからである。それでさえも比較的長い時間の経過で、破られる。もし2012年から、私が「外出して適宜に自分で衣服を選んで購入する」という話を母親承諾していれば、ポリウレタン部品多き未使用バッグの加水分解現象などで無駄な出費が発生することもない。引きこもり傾向にあった私の外出頻度も多少は高くなったろうが、その旨を私が2013年にメールで主張すると、母親は「あなたが外出しないことが私の困ることにはならない」などと、精神的に親とは思えない最低な反発・非難をしていた。




2019年9月12日12時59分に上掲の写真を撮った。
これは、水玉、ドット柄のステッチ stitch, stitches のある靴下によって足の皮膚に跡がつく現象を示す。
前述「水玉の位置に対応した皮膚への陥没が確認できた」。
母親自身の使用としては買わないであろう代物を、私に対しては買い与える矛盾に憤りを覚えている。



2019年10月28日15時39分の母親へのメール「2019年10月28日14時20分ころの出来事について」には、以下の記述がある。
追伸だが、機会があれば「頼まれずに買い与えて無駄遣い&安物買いの銭失い&タンスの肥やし&で未使用品の経年劣化 (e.g. ポリウレタン加水分解 ファッション大好き中学生の時でさえ私は警戒する頭がある)」に関しても詳細に伝えようと思う。機会が無い場合は、私のために私がする作業がされ、あなたに言う事柄はない。






起草日: 20190912 ?
結局のところ、実生活のうち外出に関するものについても検討するときがあろうから、ここで現状から算出される結論を書く。

他人よりも買い替え頻度の低い=経済活動機会の少ない私は、自然災害・襲撃犯罪などの非常時に困らない道具がよい。
材質のよい・丈夫な作りのものを選ぶとよい。
最低限ポリウレタンは避ける。
ポリウレタンはその合成皮革やフェイクレザー以外にも、衣服のゴム状の部分(リブ)など、様々な利用があり、劣化に緩急の差もあるので、全部避けよと私は言うつもりでない。

カバン・かばん・鞄・バッグを買う時は、用途によって材質を考える。
もし買い物の頻度が高ければ荷物を入れるために用いるバッグは、綿かポリエステルで100%を占めるようなものを選ぶ(荷物の大きさの割に重量のあるものに対する強度などは織り方など他の構造を見て感覚ではかればよい)。
他はショルダーバッグでもトートバッグでも何でもそう。

いわゆるエナメルバッグという「エナメル」は、特定の動物由来の革や植物由来の繊維や化学的な合成素材(合成樹脂、合成ゴム)の名称でない。
土で焼いて作る土器-セラミック-セラミックス–陶磁器(陶器と磁器 pottery and porcelain)の光沢を付ける加工法に用いられるガラス質の部分に由来するもので、詳細には"vitreous enamel", "porcelain enamel" などと英語で呼ぶ。
日本語では琺瑯-ホーローと呼び(日英とも狭義には後述の金属の焼き物に限るそう)、加工法 (overglaze enamelling) では釉薬 (glaze) という珪石などガラス質の物質 (vitreous substance) を含んだ材料(日本語の琺瑯は結果と原因のどちらを指すかWikipediaもコトバンク所収百科事典類も不明瞭な点が悩ましい;英語も実は同じ?辞書サイトでも注釈があるわけでないし)を高温で加熱して融かすプロセスから出来上がる (cf. グレイズ glaze, ガラス glass, 光を放つ-自動詞 glow, 輝き・光沢・ツヤ gloss, 光沢ある・艶やかな glossy)。
七宝焼きという金属の焼き物 (cloisonné) に関しても釉薬によるエナメル部分がある(琺瑯とエナメルは金属に限るという本来の意味では結果にも原因にも同じ言葉が指すことになり、釉薬とグレイズも陶磁器を対象にした結果にも原因にも同じ言葉が指すという紛らわしい語句のようで混沌–カオスである;産業関係者が明瞭に説明せよ)。
それらの工芸分野から、革製品のための光沢加工の用語にも派生した(エナメル革 patent leather, enamelled leather は本革の加工に限って呼ばれる。加工や歴史経緯はここで説明しない)。
革は500度も無い温度で焦げて炭化するように、革の光沢加工に用いる何らかの物質も焦げると思われるが、釉薬の方は500度以上で融けるような実際のガラス–珪素などの物質が用いられるので、これらエナメルは指示対象の物質が大いに異なる。
現代日本ではPVC (polyvinyl chloride ポリ塩化ビニル) やポリウレタンを材料としたバッグの光沢のあるものを指して「エナメルバッグ」と呼んでいる(運動部の学生は他の通学カバンと区別して「エナメル」とも呼ぶ)ことになる。
つまり、その種類も実際の製品について検分して選ぶ方がよい。

靴・シューズ・ブーツなどでもこの考えが適用される。
布類によるスニーカーなどは綿でも麻でもよいがソール部分(sole: アウトソール outsoleなど)でポリウレタンが用いられるものが多いことに注意する。
ソール部分の古風な例としては木製(木底)が浮かぶ。
印象の良いものとして古風な革靴(タイプ不問。実際に靴職人お手製で本革・・・動物の皮革素材となるとドコドコ産のお高いものになる)がある。

ベルト(2点以上の買い替えを希望)でもこの考えが適用される。

服に関しては、髪の長い私にとっての着脱の容易さが求められる。
2012年以降に母親が買い与えてきた半袖Tシャツ風トップス服(無標の複数形)は、後年ほどに首回りの開き具合が狭まっている。
狭まってきた後年の新品が、しかもその問題性を補えるだけの伸縮性を持っていない。
こうなると、髪をタオルでまとめた膨らみのある状態においてその服の系統を不注意に着ると、タオルの状態が崩れるか、髪の根元が引っ張られて抜けるおそれがある。
つまり、風呂上がりで肌着の代わりにそれらを着るが、ものによっては単純にタンクトップのようなノースリーブのトップスやボタンで留めるパジャマなどが1点も無いことも疑問である。
どちらにせよ、父親と二人暮らしの時を含む中学生のころから自分の当面の目的に合致する行動ができる自立的人間に、他者が衣類を選択することがあらゆる面での不都合しか生じないこと(金の浪費を伴ってまで当人の抑圧を実現したいか?)は、当記事本文に引用する2013年のメール文章に明らかである。


2019年11月7日木曜日

学問的な英語動詞のうち他動詞・自動詞がいずれもある単語の翻訳案

日本語的な複合動詞(梵語のnamas-√kṛやmanasi-√kṛのようなもの)を作ることが最も日本語に合うと思う。
以下は翻訳の試案と言うべきものであるから、諸君にしっくりくるか定かでないが、他の代案も用意してあるので「形式的な他動詞・自動詞区分」の考察のきっかけになるとよい。
以下に例示する単語は、たとえ1つの語形に多義的であっても例示する意味を「とある単一の定義"a certain definition"」に限定している。
「形式的な他動詞・自動詞区分」を考察する目的性の通り、他動詞と自動詞 (transitive and intransitive) を、別途、分けている。

「他動詞・自動詞がいずれもある」と表題に記したが、それは私が調査前に思い浮かべた単語のことであり、実際に調べてから辞書に自動詞が定義されないものに関しては打消し線 <strike> を施している。



to bias - 辞書: CALD英英OED英英Wiktionary英, Weblio英和

他動詞
~をバイアスあるものにする
日本語訳案1: ~をバイアスがける(バイアスがけする 漢字: がけ=懸けor掛け)
日本語訳案2: ~をバイアスに かける
日本語訳案3: ~を偏見がける(偏見がけする 漢字: がけ=懸けor掛け)
日本語訳案4: ~をバイアスる(冗談交じりではあるが縮約表現としては妥当)
日本語訳案5: ~を偏らせる

自動詞
日本語訳案1: バイアスがかる(バイアスがかりする 漢字: がかり=懸かりor掛かり)
日本語訳案2: バイアスが ある
日本語訳案3: 偏見がかる(偏見がかりする 漢字: がけ=懸かりor掛かり)
日本語訳案4: バイアスだ(バイアスである)
日本語訳案5: 偏る

例文
He bias it. (bias as transitive)
→Wiktionary英に"Our prejudices bias our views."(偏見は見解を偏らせる/バイアスがける) とある。任意の例文サイトでは"biased the results"(結果を偏らせた) というように数量的/統計的な結果 (quantitative/statistical result) に偏りを生じさせるものについて多く見られた。同じ例文サイトでは受動構文: "heavily biased"(重度にバイアスがけされた/偏らされた) も多く見られた。辞書がそうであったように、実際の文で自動詞の用法は無いかもしれない。
He bias it us. (bias as ditransitive)
He bias on it. (bias as intransitive)
→to biasに自動詞は無いものか?



to contrast - 辞書: CALD英英, OED英英Wiktionary英Weblio英和

他動詞
日本語訳案1: ~をコントラスト置きする
日本語訳案2: ~を対照的に する (日本語で同音異義語の対象・対称でないことに注意 not 対象・対称 homophones in Japanese)
日本語訳案3: ~を対置or対比させる (本質的にサ変動詞は自動詞・他動詞を区別しないがここでは形式的に使役形を選んで他動詞に用いる)

自動詞
日本語訳案1: コントラストに ある
日本語訳案2: 対照的に なるor対照的だ(対照的である)
日本語訳案3: 対置or対比する (本質的にサ変動詞は自動詞・他動詞を区別しないがここでは形式的に自動詞に用いる)

例文
He contrast it. (contrast as transitive)
→任意の例文サイトでは"contrast the approach"などの形で見られた。何か対照的にするとき、"contrast XX's approach with YY's approach"などと with が介する。
He contrast with it. (contrast as intransitive)
→任意の例文サイトでは"contrasting strongly with..."(○○と強く対照的である) などの形で見られた。ここで自動詞の補語は with による前置詞句である。



to relate - 辞書: CALD英英OED英英Wiktionary英Weblio英和

他動詞
日本語訳案1: 関連づける(関連づけする 漢字: づけ=付け)
日本語訳案2: ~を関連させる (本質的にサ変動詞は自動詞・他動詞を区別しないがここでは形式的に使役形を選んで他動詞に用いる)

自動詞
日本語訳案1: 関連づく(関連づきする 漢字: づき=付き)
日本語訳案2: ~に関連する (本質的にサ変動詞は自動詞・他動詞を区別しないがここでは形式的に使役形を選んで他動詞に用いる)

例文
n/a
(他動詞の時のX relates A to B.は受動態be related to = A is related to B.であることも示すか?)



テンプレート↓
to yyyy - 辞書: CALD英英OED英英Wiktionary英Weblio英和

N動詞
日本語訳案1:
日本語訳案2:
日本語訳案3:





起草日: 20191005

編集段階に、例文の欄で、動詞以外の単語について「具体的かつ可能な限り指示語を用いないよう修正」という注記をしていた。
その後、それを撤回して指示語を中心にして例文の基本形を書き(本文にそう用いた指示語は人称代名詞の系統。代数のようなA, B, X, Yなどでもよいと思ったがやめた)、補足事項として具体的な語句を伴う例文を付与した。
また、補足されている例文(retrieved 2019-10-18)を読めるサイトのリンクを貼るつもりでいたが、そのうちの1つはシステム上 不可能であったので、最終的に何も載せないでおいた。

ところで、インターネット上の出典の閲覧に関して"retrieved 2019-10-18"と用いられる"retrieve"(慣用カナ: リトリブ、レトリブ、リトリーブ、レトリーブ) という言葉についても、少しだけ記そう。
これは辞書的に「取り戻す・取り返す」という意味(語源的に接頭辞re- + 英語trouver, 同根語trope, ラテン語tropus, ギリシャ語τρόποςに相当する何らかの言葉で作られる言葉が中期フランス語から中英語に入ったという)が見られ、カタカナ語としては行為者名詞"retriever"が犬種の「○○・レトリバー(レトリーバー)」で知られる。
英語の論文などでは、インターネット上にある出典を閲覧した or 情報を取得した日を目的語にする意味の他動詞 (transitive) であり、過去分詞の語形を用いて出典のリストに用いる。
インターネット上の出典としてURLを書く際はコンマで区切るか、前置詞"from"で間接目的語 or 補語にする(補部を作る)。
普通の他動詞の感覚では、日付が取得されるよりもページまたはページ中の情報が取得されて日付は前置詞"on"などで間接目的語になる (retrieved an-information, on 2019-10-18) ように考えられるため、かなり不思議な語法と私は感じる。

インターネット上の出典の参照の日付を書きたいとき、"retrieved 2019-10-18"以外に"Accessed: 2019-10-18"や、人物 (author) の隣に日付だけを書く(カッコ・括弧でくくる)方法もある。
日付に関しては、識別可能な限り何の表記法(英語圏の場合アメリカ: October 18, 2019. イギリス: 18 October 2019.などで異なる)にしてもよい。
これらにはAPA, MLAなど色々な方式の説明 (1, 2, 3 ..."retrieved"を用いる例はAPA styleのみ) が世間にあるため、興味があれば各自で調べるとよい。

上記括弧内リンク1に関する注意点だが、APA style や MLA style と同列に、"Harvard style"と呼ばれる何か不明の方式が示されている。
関連性は不明だが、括弧を用いて本文で表記する参照方法をハーバード方式 Harvard referencing と呼ぶことについてさえ、ハーバード大学の公式サイト一ページで「公式な機関としての接点がないため、誤った呼び名です The "Harvard System" is something of a misnomer, as there is no official institutional connection.」とする (cf., Chernin氏1988年の文書 The "Harvard System": a mystery dispelled)。
APAやMLAやChicagoなどは公式にスタイルガイド本が出版されていてそれを基盤とするわけであり、この点からもハーバード式–ハーバード方式というものは同様のものとして存在しないし、「参照方法」の名称としても不正確であることになる。
そのリンク先のページなどでいう"Harvard style"の正体が何かについては、特定しない。


2019年10月4日金曜日

自室の模様替えの案

PCと低デスクをゴミ袋の位置に移動して襖側に向ける(前:自室中央で押入れ側に移動する)こと
利点
・「異常事態=ふすまの向こうの人たちが自室のふすまを開けるなどの行為」を察知しやすい
・「異常事態=外から車が衝突するなどの危険」の際に回避する対策
・「異常事態=冷房時水気・水滴の零落・飛散」からPC 電化製品や紙製品を避難させる
・衛生的に疑問の残るエアコンの風を直に受けない

欠点と→解決法
・二方向の障子はいずれも開放時に、外から自室内でPCに向き合う私の姿が見えやすくなる
・折りたたまれ状態の敷布団の置き場所は、現状以外だと用途ごとに問題が伴いやすくなる
・屋内の他人の生活音が私に届きやすくなる(特に声やTV音声)
・私の所持する冷蔵庫とPCは、同じ接続口(コンセント、プラグの差し込み口、プラグソケット plug socket)に挿入されて稼働すると定格電圧・電流を超えるかも・ショートの危険があるかもしれない
→・冷蔵庫を他の接続口のある場所に移動してそこで稼働させればよい

この移動に伴う具体的な案(他の家具などの処置を含む)
・折りたたまれ状態の敷布団は同じ置き場所で90度回転にする・エアコンの直下にゴミ袋など(ただし靴箱は元のまま)を置く・エアコンの直下にカラーボックスを置いてテーブルクロス様の布orビニール製のものを敷く
・絵の練習の紙や段ボール箱は他の場所(保留の案)に置く



冷蔵庫をエアコン側に移動すること
利点
・ふすまやドア側で自身の通行が便利になる

欠点と→解決法
・既に定位置で稼働した範囲の絨毯・畳を汚している (cf. メモ2018-10-01) ので、この他の場所を汚す危険性を生む
・「異常事態=ふすまやドア側で他人の通行」が便利になる

この移動に伴う具体的な案(他の家具などの処置を含む)
n/a






起草日: 20190731

上記の日になってから、その数ヶ月に思われた案をまとめたという経緯になる。
当記事のパーマリンクのうち"abcding"は部屋の模様替え・リフォーム (wasei-eigo: reform, reformation) ・再配置について"room remodel, remodeling, renovation, transformation, makeover"などと不統一な英語が色々と存在したために選びかねたための指定である。
ええ、そうしようと思ったが"remodeling"でよい。

上記の日以後で実行したものを以下に記す。

携帯電話内蔵カメラ写真 (201909191649)
↑の画像に対応するPC内蔵Webカメラでの写真 (WIN_20190919_16_46_33)

2019年9月19日の日記メモから引用:
14時50分前から「自室の模様替えの案」のための整理整頓・清掃を始めた。試験的に、いくつかの物の配置を変更した。(中略)16時30分ころに一段落ついた(一段落がついたor一段落をつけた)。その写真を撮ることが後にされて、写真の枚数がPC内蔵カメラでの1点と携帯電話内蔵カメラでの2点になる。17時50分ころから、少し物の配置を変更する作業をした。「或る方角の窓」の正面右手側に置かれていた大きめの段ボール箱1つ(本年7月30日メモに写真あり)を持ち上げようとする際、糸の細めな蜘蛛・くも・クモの巣に触れる感覚があった。主は、例の通り全長5mm未満の子グモである。彼を捕まえる衝撃で彼が潰れた。巣の方はしばらく放置してみる。

具体的に、「PCと低デスクをゴミ袋の位置に移動して襖側に向けること」の内容が、その日に実現された。
もしかすると、段階的に「冷蔵庫をエアコン側に移動すること」の実現と、従来の案である「PCと低デスクを自室中央で押入れ側に移動すること」の復活とがありえるが、当面、この状態のまま過ごす。
2019年9月30日時点で大した問題を感じない。
当初は料理の際の不手際が生じやすくなるなど「慣れない」ことに起因する現象を懸念し、注意しながら行っていた。
現時点で解決の手段の実現性が無い問題は、実害が軽度であるが、晴れた日の昼間の外の光の強さにPCディスプレイの光の強さが負ける点である。
「①その時に雨戸=シャッターを閉ざす、②その時にPCディスプレイの光の強さ・高度・明度を強める、③その時にPCを用いずに過ごす、④その時までに寝る」のいずれかを行うことは、実現性が無い(i.e. デメリットが付随する点で行いたくない)解決手段である。

2019年9月10日火曜日

言語でノンバイナリー表現を用いる動き(ジェンダーフリー、ジェンダーレス、ジェンダーニュートラル)

表題について、まず私の先行研究を示す。
以下に2019年3月5日投稿記事『英語で混在しつつある西洋式と東洋式の語順 (同格表現に関するもの)』からの引用をするが、それは印での注釈に留まっている。

ヨーロッパ現代語では、ラテン語の格変化"case inflection"と性数格一致"agreement, concord"に相当する文法機能が1000年以上前から失われている場合が多い。
古典ラテン語・古代ギリシャ語(アッティカ方言~コイネー)・梵語(ヴェーダ・サンスクリット・パーリ語を含む)には6~8の格変化があったし、現代語であってもスラヴ語派・一部ゲルマン語派にも5以上(非印欧語のフィンランド語・ハンガリー語・バスク語は10以上)の格変化を持つ言語があるが、英語やロマンス諸語は代名詞にのみ5個以下の格変化があり(例外でロマンス諸語のルーマニア語は名詞にもある)、ドイツ語は代名詞と定冠詞の格変化があるのみである。
その点は注意すべきである。

性"gender (いわゆるジェンダー。梵語・古代インド言語学ではリンガ liṅgaという)"についても現代の英語は中途半端にヨーロッパ古典語の特徴を残している。著名な例として職業名につくような"-man" (梵語manuなどインド・ヨーロッパ言語における同根語はみな男性名詞)という接尾辞は絶対的に男性名詞を作るといい、「女性にもそう呼べば女性差別になる」とか「女性なら"-woman"を使うべきだ」という話が社会的にある。"-man"は漢字文化圏からすれば「人"human being (ラテン語由来のhumanhomo, 地上の生命"earthling"という原義であって英語man ドイツ語Mann 梵語manuと関係が無い語源の言葉であることに注意。とはいえこれらは古典語で男性名詞である。中性は無生物などになりがち)"」ほどの意味でしかなく、「男」とか「女」という性別それ自体に関わる意味で取られようも無い。顔・声などが認知されないながらに文面から実在すると推定された人物についても"he, she, it"のような三人称代名詞は使えないならば、苦肉の策で"that person"のような熟語か、"neutral he"を用いるくらいしかない。これは言語における社会科学の側面で考えられる課題の一つとなる。日本語や中国語はジェンダーレスな言語"genderless languages"である。英語をはじめとしたヨーロッパ現代語には今でもそのような文法の性の男女別異があるため、"gender-neutral language"という立場で表現を中性的にする努力もある。しかし、無生物の単語である「海」を意味するラテン語mareは中性、その子孫イタリア語il mareは男性、フランス語la merは女性であるような特徴が、英語には無い。そもそも英語にはラテン語のような形容詞の男女性変化が無いのだから、職業名のための男女名詞区別はナンセンスである。「"-man"が指すものは男だけだ」という固定観念を捨てて潔くジェンダーレスに切り替わればよいが、日本人の言語感覚では量り難いほどに文法の性の男女別異の根が深いようだ。言語の性差も、日本語や中国語のような必要最低限の程度に、いずれは減らされて東洋式になるかもしれない。

当該記事からの引用は以上である。
繰り返しになるが、印での注釈は原文のうちにある。



表題の通り、ノンバイナリー表現を中心に考察する。
ノンバイナリーとは、英語で"non-binary"(alt. ノンバイナリ) と記し、二極でないこと(梵語advaya, advaita は不二一如系になるがここでは多極を標榜するかもしれない)を意味する。
ジェンダー観・ジェンダー論のうちでも性的少数者に関する分野で用いるので、性別の位置づけとして一般に言われる。
日本では「Xジェンダー」と呼ばれる。
数学やIT関係では「バイナリ binary」という言葉が「0, 1 の二進法」の名詞として知られるが、原義的には「2つから成る or 2つのものを含む binarius」という形容詞であり、「バイ・ビ bi」は2つについての事柄を指す形態 (morph) であり、二極・両極端でもある。
「性別の二極でないこと」を換言すれば、男女の二分法に拘束されない性別である。
人によっては、生物の本能に依存した性別の生理的作用をゼロに帰するような立場であろう。

表題には括弧(カッコ)でジェンダーフリー"gender-free"、ジェンダーレス"genderless"、ジェンダーニュートラル"gender-neutral"と併記されるが、記事注ではノンバイナリーとジェンダーニュートラルの2つを基本的に用いる。
抽象名詞に"gender neutrality (性の中立性)"もある。
言語・現代語において、そのような「動き・運動"movement"」があることについて考察する。

人称代名詞 (personal pronoun) の彼・彼女・それ (英語: he, she, it) は、言語における文法的な性 (grammatical gender 以下"文法性") での男性・女性・中性 (masculine, feminine, neuter) になる。
ノンバイナリーおよび性別不明の生命の個体のための専門的な人称代名詞は、英語に無いとされる。
文法性がある言語で、性別の不明な生命の個体を指したい場合、慣習的には男性の語形を用いる例が多かろう。
自然言語には慣習的な特徴が尊重されるべきであるとすれば、急進的に英語でノンバイナリー表現を普及するには困難さが伴う。
現状は、性の無い複数形の人称代名詞である"they"を単数形で用いることが一般的である。
この用法の"they"は、近代英語初期の英訳聖書であるKJV (King James Version, 欽定訳) にも見られる。

Then shalt thou bring forth that man or that woman, which have committed that wicked thing, unto thy gates, (even) that man or that woman, and shalt stone them with stones, till they die. - Deuteronomy 17:5 (旧約聖書・タナハのうち律法・トーラーにある申命記17:5), KJV

※"they die"はそのまま複数形の方に見える。もし3人称の単数形ならば数の一致で"they dies"になるはず。2人称の代名詞 you が複数形由来であることと同様かもしれない。いちおう単数形 they = singular they は主格・主語である場合に述語の動詞が複数形の語形であることは一般的であると一ページに示されるた例文から判断できる。上記引用について、KJV以前からある中英語ウィクリフ訳 Wycliffe (1384, 1394) では、KJVの"that man or that woman"が"þe man and womman (the man and the womman)"として数量的に複数で取れる名詞句を形成しており、その上で"þei ſhulen be þrowen doun (thei schulen be oppressid with stoonus)"と they にあたる人称代名詞を用いる。あまり関係ないが同じ文のヘブライ語では"and"か"or"かというと、"or (either)"の意味に取れる語句 א֖וֹ が使われる。KJVでの他の例に"If an ox gore a man or a woman, that they die: then the ox shall be surely stoned... - Exodus 21:28 (Wycliffe 1384: If an oxe wiþ þe horn ſmyte a man, or a womman, and þei weren deed... ;die が他動詞「死なす」の意味を含んだ時代に"weren deed"で受動構文にしたか)"がある。

当記事では、人工言語であるエスペラント(エスペラント語)でどうか、見てみよう。
あらゆる個別言語において最も特筆すべき動向・議論があろう。



エスペラントは元々、3人称・単数の人称代名詞の語形のみ、文法的な性によると思しき語形変化=屈折 (inflection, alt. 曲用 declension) を起こす。
すなわち、li (彼 he), ŝi (彼女 she) のみである。
人称代名詞・指示代名詞の語末には、mi, vi, ni, ĝi など規範的に - iが語尾として伴う(cf. 疑問詞・不変化詞 ĉu; 英語やラテン語に同じ用法の無い不変化詞でポーランド語czyから来る, 疑問代名詞=関係代名詞 kiu; 文法的に意味を有する接尾辞-uが付く, ほかwikt. Category: Esperanto pronouns)。
物理的な性別が言語の指示対象にあって名詞が有すると推測される性は、自然の性・自然性 (natural gender) である、との定義もある。

li, ŝi の2つに、その対格 (accusative case) の語形もある。
ラテン語などと違って対格の標識 (marker) である形態は語尾の -n のみである。
単純に実在の事物における性の区別が必要という観点で、鶏のオスとメス(雄鶏・雌鶏)を koko, kokino (接尾辞 -ino で女性の意味を付与) として・父と母を patro, patrino (両親を意味する場合にgepatrojで複数形のみを用いる)として区別するようなことが、この人称代名詞にも反映されたに過ぎないと考えることもできる。

エスペラントの冠詞は定冠詞 (definite article) である la の一つのみである。
英語と違って不定冠詞 (indefinite article) は無い(数詞 unu = 1 を代用する者もいる)。
参考までに、フランス語には冠詞・名詞・形容詞にいずれも文法性や文法数 (grammatical number) があり、それらの一致 (agreement alt. 呼応) があるが、名詞と形容詞には中途半端に思える文法性・数の無い例もある。
性の無い形容詞や名詞を単数形で用いる際には、冠詞が男女区別の話し手の手段・聞き手の判断基準となる。
フランス語のその例に"un enfant espiègle"(「やんちゃな男児」を意味して定冠詞unのみが男性形) と"une enfant espiègle"(「やんちゃな女児」を意味して定冠詞uneのみが女性形) がある。
定冠詞の複数形は文法性で語形が変化しないので、名詞・形容詞に異なった語形がある場合は、それが男女区別の話し手の手段・聞き手の判断基準となる。
フランス語のその例に"les adultes français"(「フランスの成人男性たち」を意味して形容詞françaisのみが男性形) と"les adultes françaises"(「フランスの成人女性たち」を意味して定冠詞françaisesのみが女性形) がある。

要するに、エスペラントには性の一致にあたる文法的な機能が、ラテン語やフランス語と違い、存在しないことになる。
3人称・単数の人称代名詞は適宜に照応 (endophora) で用いられれば、それが日本語にもあるような文法的な機能と少し異なる性の一致になるかもしれない。
それでさえも、性別不明の生命の個体を指す場合・秘匿したい場合・性的少数者(性的マイノリティ)への配慮が必要である場合などのため、ノンバイナリー表現を模索する人々は多い。



ノンバイナリー3人称・単数の人称代名詞のためには、何があるか?
ri が、現状で最も一般的である。
これは新語"neologism"である。
性別不明の生命の個体に用いられることが更に一般的である。
ri の使用は Riism, riismo と呼ばれる。
この一種で、両親を意味する gepatroj という複数形のみの言葉の単数形を設けて gepatro と言ええば、ノンバイナリー(ジェンダーフリー・ジェンダーレス)の立場にある親を意味する。
性別が不明または任意の親である人物を指して"unu gepatro"と言ったりする。

なお、ri を用いるなどを基本としてエスペラントから性差を無くする修正・改革 (reformo) としては La riisma Esperanto があって riismo と別に扱われる。
これには基本の語形に女性の形態が別に用意されるものを、男女別で専用の形態を用いることで語形が基本的にニュートラルであることを示す手段も含まれている。
それは iĉismo と呼ばれ、先の雄鶏・雌鶏は、性別不明の個体が koko であって雄鶏・雌鶏は専用の接尾辞 -iĉo, -ino (表記として -iĉ-, -in- も見られる) を用いて kokiĉo, kokino となる。
ことさらに女か男か(雌雄、メス・オス;畜産の人・酪農家などにとって実用的)を示したい場合の手段が用意された修正案である。

li は男性以外にジェンダーニュートラルの用法が伝統的に有ったともいう。
これは epicinity, male-as-norm のようでもある。
英語版Wiktionary - liでその単語に対する注記"Usage notes"として、「厳密にノンバイナリー(男でも女でもない)である人に排他的すぎる (too exclusive) と批判されることもある」ともいう。
一般的にこの用法は推奨されない。

※ epicinity かどうか不明だが、古典ラテン語には名詞に限って common gender (コモンジェンダー・通性) があるという。冒頭に引用した文に「原則的に生命・生物はインド・ヨーロッパ古典語で男性名詞である。中性では無生物などになるため」と注釈した時の言葉 homo もこの例に当たるとして何らかの辞書に定義がある。何らかの文法書は civis (市民), sacerdos (祭司・巫女), parens (親) などを挙げる。これらが男性・女性の実在人物のいずれにも同じ語形で用いられて形容詞との性一致もあるという。新語としてのエスペラント単語 gepatro を待たずにラテン語でこのような例もあることになる。

li, ŝi を合わせて ŝli (ŝi/li の縮約"contraction"ともいう) とする、ジェンダーニュートラルな表現が作られている。
これは新語"neologism"である。
英語版Wiktionary - ŝliでその単語に対する注記"Usage notes"として、「厳密にノンバイナリー(男でも女でもない)である人に排他的すぎる (too exclusive) と批判されることもある」ともいう。
一般的にこの単語は推奨されない。

tiu (その人・あの人 that person, that one) は本来の用法から拡張してジェンダーニュートラル、ノンバイナリー表現というよりも両性的"epicene"(エピシーン、エピスィーン。抽象名詞は epicinity エピシニティ。両性的 androgynous, androgyny と異なる。男性の欠如) である表現に用いるとされる。
ただし、これは代名詞よりも限定詞 (determiner alt. 指示語・指示詞) や指示代名詞 (demonstrative pronoun) として"tiu homo"(その人・その人物・そいつ)というような用途が主要かもしれない。
これも恐らく、専用の単語でない(代替表現らしい)点で、不満足な層がいる様子である。

ĝi (それ・あれ it)は本来の意味から拡張してジェンダーニュートラル、ノンバイナリー表現というよりも"epicene"である表現に用いるとされる。
それで英語版Wikipedia - Gender reform in Esperanto に「1901年の La Revuo 23号にエスペラントの創始者であるザメンホフが性別の不明な個人のために使うことが可能であるという規定がある(筆者が検証すると1901年にLa Revuoという雑誌が存在していない様子。いくつかのサイトを見て1907年として原文を引用する例を見た)」と記され、L. L. ザメンホフさんが実際に用いた文例が子供を対象とする場合にのみあるとする。
挙げられる文は"La infano ploras, ĉar ĝi volas manĝi"(意味は「子供La infanoが泣いている、その子供ĝiは食べる行為をしたいので」という前方照応) である(典拠はL. L. Zamenhof 1893 "Ekzercaro de la lingvo internacia Esperanto"という)。
"infano"は先のフランス語"enfant"と同じ語源を有する言葉であり、伝統的な文法用語としての"epicene"であると言いたいかもしれない。
英語版Wiktionary - epicene の英単語説明の sense 2 としてその仏単語が例示される。
元のラテン語の infans は辞書の定義に英語の"infant"を挙げ、それがまた辞書の定義に「6か月から2歳程度の子供」とするならば、それほど分詞 fans の元の動詞の意味の「話す」ことが否定辞(欠性辞)-in としてできない年齢の子供であって服装や髪型の外見に性別が特徴づけられない場合、日常生活では性器を直に見ないで実在するその個体の性が判断できない。
なので、古典ラテン語からして分詞 fans が男女で性の形態の無い(これはラテン語文法で男女が共通の語形を有するものと扱う)ために否定辞 -in と合わせて、話すことができない(会話が成り立ちづらい)年齢の子供の一般名詞に用いられたろう。
L. L. ザメンホフさんはこの語源を知っても知らなくても、性別不明の子供"La infano"に対する前方照応 (anaphora) に、"epicene"の代名詞として"ĝi"を用いたという旨が当該Wikipedia記事に記された。
同じく当該Wikipedia記事 (oldid=911895413) に「ĝi が人間に用いられないとする考えは英語ゆずり。他の言語には人称代名詞の中性が人間でも用いられる。 e.g. トルコ語 o, フィンランド語 hän そもそもウラル語族やトゥルク語族は3人称の代名詞に性差が無い」とも記される。

L. L. ザメンホフさんが活動していた時代には、当然、言語とジェンダー観のうちの性的少数者に関する議論がほぼ無い。
ただし、冒頭に過去記事を引用するうちに記されたような近代的なヨーロッパ言語は文法性による語形の区別が古典ラテン語など古語よりも少ない、と多くの言語学者が気づいていたろう。
そこからエスペラント(当初に国際語"Lingvo Internacia"という公称がある)をザメンホフさんは構築した、と私は考える。
既述の通り、3人称・単数の人称代名詞にのみ性の語形変化を起こして li, ŝi の2つ(およびその対格 accusative)のみを得る。
文法性による語形の区別が少ない場合は、表現の能力が低くなるので、少ないくらいならば文法性を無くする方が都合のいい結果も得られると考えられる。
その点でフランス語よりも英語が理想に近いモデルとなる。
エスペラントでは意図的に文法性に関して英語らしくしつつ、職業名につくような"-man, -woman"の対立的な形態は用いないようにしたと私は考える。
件の人称代名詞 li, ŝi の2つ以外に、-ino を付けて女性・メスであることを強調するのみで、エスペラントには文法的な性が皆無と思う。
文法性がある言語で、性別の不明な生命の個体を指したい場合、慣習的には男性の語形を用いる例が多かろう。
フランス語の形容詞に男女の語形が異ならない単語も、多くは男性が原型であったかもしれない。

※当記事の後記を参照。イタリア語・スペイン語の話がある。ロマンス諸語のフランス語もイタリア語もスペイン語も男女の語形が異ならない形容詞が、ラテン語でもそうである場合が多いこと (e.g. 3言語 grande, forte に対するラテン語 grandis, fortis) は、少なくともラテン語がロマンス諸語の3言語と同じ傾向を示していたことになる。梵語(サンスクリットおよびパーリ語 Sanskrit and Pali)では基本的に形容詞・分詞が3つの性別 (m. f. n.) を有する (e.g. sa. nava नव の主格 m. navaḥ, f. navā, n. navam; pa. mahant の主格 m. mahanto, f. mahantī, n. mahantaṃ 用例)。



単語例が多く示されているが、エスペラントでノンバイナリー表現のためには、ri が、現状で最も一般的である。
これが唯一、ノンバイナリー表現たりえる専用の表現・単語であることが大きな理由かと思う。
英語で、そういう新語や造語は、伝統や慣習からして定着しない(する場合は一部のコミュニティにおけるスラング slang の一種)。
どの程度に普及しているかは、特に説明しないでおく。
ノンバイナリー表現の将来性についても、私から意見を述べるものでない。
ただし、自然言語でも、過去から現在までを類推すれば、途中の時代まで自然に弱まってきた事実は既に説明されている。
近代から言語のリテラシーが教育の拡充によって高まっているので、自然に変容することは考えづらいが、変容する場合は、言語・文法における性を認知する人々による運動のような「人為的な力」が加わる結果かもしれない。
社会などのことは現在の未知の事柄はもちろん、1年後・10年後・50年後などそれぞれが未知数だし、これを無理強いに量りたいと私は思わない。
民衆からの変革は急進的な成功が困難であること(特に日本国内規模でそう)のみが考えられる。






起草日: 20190909

社会言語学のうちの語彙など簡単な話題について、詳細に説明を行った。
語彙に関して、現代の言語は大きめの拡張性を持つ。
大概は言語を用いる側が、外的要因に受け身である結果に過ぎないが、当記事では運動にも似た能動的な例を挙げている。
既述の通り、自然言語の各言語やそのうちで最も高い国際的地位を得ている英語よりも、人工言語の一種であるエスペラントは、柔軟かもしれない。
最初の提唱者・創始者というザメンホフさん以来の形式は、ある程度に守られても、エスペランティストのパンク的な精神の側面では、変えたい意思で変えようとすることもあろう。
それが旧時代の否定か、新時代のための要請か、その演出かは不明である。


当記事の起草までの2か月間には、本家ブログにおける絵に関する記事の編集・画像制作などで大いに時間が過ぎた。
今時に行うべき言語関連の話題は無いと思っていたが、9月5日からエスペラントについて少し調査を始め、過去記事に僅かな関連のある話題が見つかったので、このために起草した。
起草日での先の時間に、某所で似たような文の投稿をしていた。
一応それと当記事は、同じ私による投稿である。

ジェンダー関連の話題は本家ブログ2019-08-19記事にも2度記されている。
1度は社会に関する説明(主に男女平等・フェミニズム・LGBT, LGBTQ関連)で、もう1度は言語(近代英語での性一致型の照応)に関する注釈であった。
私の絵と絵画・美術の行為には、大概、社会の話題が直接含まれる余地が無いスタンスであるが、そこではそのように説明するという趣向がある。



古典ラテン語などにおける文法性の区別を、私は割と好むが、情報技術に依存して創作・学習するからこそ、私は煩瑣に思われそうな語形変化の事柄に精神的な余裕を保つ。
古典ラテン語よりはイタリア語がもっとシンプルである。
いずれにも、好ましく感じることは、後舌母音による語形 -o, -us が男性であることを象徴してキャラクタリスティックであることである。
インド系言語のうち、パーリ語も文中で主格の時の一般名詞男性形が -o(長母音かつ音声学的な母音の特徴はheightが低め=広め  かもしれない)であってサンスクリット語の -aḥ からの派生という点で、イタリア語・ラテン語に比較する。
パーリ語で一般名詞女性形は -ā が多く(他の例は割愛)、イタリア語・ラテン語で -a に比較する。

しかし、イタリア語であっても -a が固有名詞 Andrea (アンドレア 由来: Ἀνδρέᾱς Andreas アンドレアス) , Luca (ルカ 由来: Λουκᾶς Lucas ルカス) のように男性形である場合もある。
ラテン語では古代ローマの著者 Seneca(セネカ 位置づけはコグノーメン)も男性名詞で扱われる。
反対に、ラテン語には Venus (女神ビーナス、ヴィーナス、ウェヌス), pinus (松などの樹・植物"pine tree"、生物学ではマツ科"Pinaceae"のマツ属 Pinus) など -us が女性形として扱われる名詞もある。
スペイン語の Venus は惑星を指す場合に男性(ラテン語と比べて他のロマンス語と同じく中性が無い言語なのでノンバイナリー?)であると思う。
例文として"Venus es el segundo planeta del sistema solar en orden de distancia desde el Sol"(スペイン語ウィキペディア - Venusより) を見出すも、どうにも planeta がスペイン語の男性名詞(ラテン語・古代ギリシャ語も同じ)であるから、その前の定冠詞と形容詞(序数 ordinal number)が男性形を取ったに過ぎないようである。
私自身が彼ら言語を近いと思っても、夜空の星々のことではないが、遠い部分があるっぽい。

既存の文例を探す困難さが伴うならば、「Google翻訳」で訳文の例を求める手段もある。
金星と水星と地球を序数の形容詞で求めて平叙文を作ると"Venus es el segundo."(原文:金星は2番目である。), "Mercurio es el primero."(原文:水星は1番目である。), "La tierra es tercera."(原文:地球は3番目である。;定冠詞la含まれず。「太陽系で」と付け加えてLa tierra es la tercera en el sistema solar.という) として男性形の定冠詞や形容詞で訳文が返答された。
参考までに人称代名詞で作ると"El es el segundo.", "Ella es la segunda."として男女性の区別が確認できる。
ただし、Google翻訳は日本語→スペイン語で翻訳するために用いる際、内部で英語を介しているので、女神ビーナス"Venus"まで惑星"Venus"として処理されるから、女神ビーナスについての翻訳では信頼できず、妥協案で"Diosa Venus es la segunda."とするしかない。
そのまま女神ビーナスと金星と水星を形容詞「白い」で求めて平叙文を作ると、今まで男性扱いの金星について"Venus es blanca"(原文:金星は白い。;返答でピリオドが付与されない) と女性として返答された。
つまり、内部の処理で女神ビーナスと金星の混同があるとき、その確率論は不明だが、どっちかの時には男性・女性で異なって処理されるように、"Venus"という語形は意味によって文法性が異なるものと看取される。
自然言語処理 (Natural language processing, NLP) の壁の一つではあるが、この打開には複文で脈絡を演出することが挙げられる。
すると、その発想で女神ビーナスと金星の違いを先に位置付けた複文を作ると"Venus es una diosa y Venus es blanca."(原文:ビーナスは女神であり、ビーナスは白い。;コンマなし), "Venus es un planeta y Venus es blanco."(金星は惑星であり、金星は白い。;コンマなし) として理想的な返答があった。
注記すると、数ある形容詞で「白い (blanco, blanca, blancos, blancas; white)」を選んだことは、「大きい (grande, grandes)・明るい (brillante, brillantes)」などが男女 (masculine and feminine) の区別を有しないためであり、それ以上に筆者の感性を込めたつもりでない。
後で「良い (bueno, buena, buenos, buenas)」が浮かんだので、そちらでもよかったろう。

このように「Google翻訳 (Google Translate)」を使う手段は、語学のための技能であって、当記事本文にあるような言語学研究と峻別されるべきであると思う。
語学でも言語学でも、個別言語を扱う際、例外を掬い取るような優れた辞書や文法書などがあれば、そちらですぐ調べることをおすすめする。

2019年8月10日土曜日

言語における科学性の多面的な説明

「言語における科学性」の話題は本家ブログ2019年5月16日投稿記事などに示された。

筆者は基本的に、言語を人文科学の研究対象とし、言語学を人文科学の範囲に置いている。
しかし、言語の何らかの側面を何らかの方法で研究するかによっては、言語学が社会科学にも自然科学にも形式科学にも認知科学にもなるという柔軟な判断もできる。

人文科学に分類されるべき「言語学 (linguistics)」の歴史を顧みよう。
ヨーロッパでも日本でも広い文明の範囲の古語・古典が、研究の端緒だったと思ってよい。
ヨーロッパにとって、古代ギリシャ語・古典ラテン語はもちろん、ヨーロッパ各地の古語(古フランス語・ゲルマン語派の古ノルド語・古英語など)や当時における近代語・現代語も考えられる。
ヨーロッパでは、彼らの言語とインド系の言語との大きな共通性が見いだされて以降の18~20世紀で、基本的に、古文献・古典から古語の特徴を集めたり(文献学 philology の領域に重なる)、次第に世界各地の現代的な言語(自然言語・口語・方言)をフィールドワークなどで集めるようなこともされ、それらが言語学の「基礎研究 (basic research)」ともいえる行為であったろう。
そこから歴史言語学のように一定の「言語」動詞をグループにした「語派」と、可能な限り巨大なまとまりにした「語族」と、それら大小の言語の「祖語」を想定することが主要な研究であった(代表的にはインド・ヨーロッパ祖語・印欧祖語がある)。

日本にとっての漢語・梵語と上代日本語が、その古代ギリシャ語・古典ラテン語とヨーロッパ各地の古語に類する。
ヨーロッパ各地の民族が彼ら自身のアイデンティティを確立する動向の同時期~その100年前=江戸時代中期・後期に、不干渉ながら日本で国学 (Kokugaku) の発展があった。
漢語・梵語(蘭学系以外では困難だが稀に西洋言語)は可能な限りに学ばれ、日本語の相対的な特徴を認知したり、古文献が万葉仮名で記されている制約下でいわゆる「内的再構」に類する作業が上代日本語のために行われた。
これには哲学的な思索が付随しており、神代の言葉(ことのは)を推し量りもした。
明治時代以降は西洋の人文学・人文科学が日本にも導入されるようになる。
日本についての説明は、当記事で必要な説明をしたが、具体的にどんな学者がいたかなどは2019-05-19記事やインターネット上の他サイトを見ればよい。

現代では、そういった人文科学に分類しうる言語学の歴史的な経緯の結果に様々な「応用分野 (applied…)」ともいえる研究や、その自覚がされている。
ちなみに、欧米では基本的に言語学を社会科学 (social science) と扱っている。



言語学の、人文科学 (human science, humanities) 以外の科学分野と近い点を端的に示そう。

形式科学 (formal science) …理論や規範に適う文法、一応の道理としての言語。数学的・論理学的 (mathematical, mathematics; logical, logic) な特徴の追求。応用として人工言語やプログラミング言語も有りえる。言語学は単なる形式科学でないが、もし形式科学の性質を強めれば、生身の人間の実用に適さない「形式言語。0, 1のような数字の羅列で示される、多義語や同音異義語や文法の混同が存在しない絶対性による言語」ができる。またはユークリッド幾何学の「幅の無い線(長さ無限 ∞ 究極の1または0の直線=一次元 ユークリッド原論 Στοιχεία に云くΓραμμὴ δὲ μῆκος ἀπλατές.)」と同じような「音も文字も概念も無い言語」ができる。それでは極端なのでまだ一般的な言語学になじんだ例を挙げる必要もある。現代言語学で文法を考察する際の構文木 (parse tree 解析木) を用いた分析 (e.g. IC分析 immediate constituent analysis, 生成文法 generative grammar) は、これも形式科学の特徴を持つ。

認知科学 (coginitive science) …人によって使用される言語(自然言語)の文法・語彙・音韻が状況(知覚とそれが脳で処理されること・恣意的な取捨選択や推定や譬喩・比喩の行為など)によって固定的でない前提に基づいた研究。それは主観性と一括りにできるが、使用能力の制約なども加味する場合は主観性に限られない。美術や音楽などの芸術分野は、外界の知覚や他者との認識の共有に基づくとしても主観性が重要である点で、自然言語の刹那的(その場限り)・主観的な側面に適合する(私は「共通主観性」に関連して音楽作詞に方法論を応用して「楽語共調理論」を作った。リンク先記事では美術の表現主義 expressionism や実験音楽 experimental music などに疑問を呈してもいる)。認知言語学に似た神経言語学は神経科学(neuroscience, brain science 日本で脳科学として人気)に関連するが、言語を手段として研究される脳機能の検証・実験・解明は、言語学が研究対象とする事物でない。

社会科学 (social science) …言語の社会的・現代的な使用の分析(流行語やスラングは扱いづらい)。商業や経済(マーケティング)など多分野での応用。民族 (ethnic group) と言語の関係。言語政策 (language policy) に代表される、政治 (politics) と言語の関係。各地の公用語教育(national language, 事実上のもの de facto を含む)・外国語教育のような言語教育での応用。多言語と共生できる文明の可能性の追求。

自然科学 (natural science) …音声学における解剖学・音響学の応用。音韻論における硬さ・軟らかさといった音声的物性。形態論 (morphology) における複合語 (compound) の特徴は、化学 (chemistry) の化学式・化合物のようである(複合語や品詞の形態素 morpheme に関しては原子や分子や素粒子などよりも素数や素因数のように数学に似るように感じる。ただし手 te という日本語は手綱 tazuna, taduna の ta があるように古代日本語での構成 ta + i = te2 て乙類で化学式に似る。形態素も音素 phoneme で構成されることが音声言語には必須)。形態論と同じ英語名称を持つ生物学の形態学 (morphology in biology) とは似ないが、語形に関する知識が言語の特徴をはかる基準になれば生物学の形態学に似る。そうしたプロセスや、民族区分(一般には個人の自負が尊重されるので歴史上の推定のためには地理学 geography 人類学 anthropology 全般の知見も借りられる)に基づいた個別言語の分類は、生物学の分類学 (taxonomy in biology) に似る。死語・消滅言語 (dead, extinct language) の特徴を文献 (inscription, epigraph, folio; writing; cf. 化石 fossil) から把握したり、個々の単語の再建 (reconstruction) に及び、祖語の推定は古生物の復元にも通じる(古生物学 paleontology に似る古文書学 palaeography は即物的であるので基本的に言語学よりも考古学 archaeology の領域)。

現代の言語学は、いくらかの分野で発話における文法・音韻・プロソディ (prosody, 詩学の用語と同じく韻律と翻訳される) の特徴を把握するために実験を行うなどの姿勢が、認知科学・社会科学・自然科学の各分野の方法論に重なる。

※生成文法のノーム・チョムスキーさん Noam Chomsky は言語学を心理学(認知心理学 cognitive psychology のことか不明)の下位と考えたようである。彼の派閥の人 (A. George) は心理学を生物学・自然科学とみなしたうえで言語学を心理学・生物学の下位に入れるように主張する。「人間の生物学」という情報も出たが、英語でいう"human biology"のことか不明である。チョムスキーさんが導入した生成文法を研究する人たちであっても一枚岩でなく、チョムスキーさんが言語の文法について示した見解に批判や議論が生じるようでもある (cf. 西山 1998 で Chomsky派George, A. がKatz, J.を論難しようとした旨)。チョムスキーさんら言語学者たちがどれほど自然科学の概要を把握して何の前提に基づいてそう主張するか、私は知らず・論駁せずにいようと思ったが、ここまで記してチョムスキーさんと信奉者たちが持つ生物学の見解を調べ直そうと思う。チョムスキーさんが他にも示した普遍文法 (universal grammar, UG) という発想を神経科学から証明する酒井邦嘉さんの研究や、チョムスキーさんとも交流したマサチューセッツ工科大学 MIT Linguistics教授・宮川繁さんの統合仮説"integration hypothesis"2015年BBCの特集でも彼の名が載る)を調べてみてもよい。MIT博士号(言語学)を持つ福井直樹さんも「自然科学としての言語学」と題する著作 (4469212652) を出している。要するに言語能力の先天性から人間に普遍的な文法というものが想定され、後天的に日本語や英語など(普遍文法と個別言語の関係にはパラメーター parameters が想定されるという)を幼児が言語獲得(first-language acquisition)に至るということであり、一理ある。しかし、先天性を引き合いに出すならば、日本人は日本人限りの遺伝性で英語の習得には音韻・文法とも遅延があろう(i.e. 民族ごとに遺伝される内容・生得的な言語能力に微妙な差異がある)と私は思う。反対の目線での研究も大事である。無論、私の姿勢が専門家からは雑駁に思われそうでも、私は何の専門家でもないから色々な観点で物事を考えて党派に属さなかろう。

以上、端的に示しておいたことは、言語学が扱う言語関連の事物のどういった側面をどう研究するかにより、言語学の人文科学以外の特徴を示そうとしたものである。
実際に言語学の任意の分野の研究者が、以上で示された他学問の研究者と共同で・協同で研究を行う必要性は無いので、そのことのみ、注意されたい。

言語学の他の科学(=科学分野。加算・複数形)に通じる特徴が示されるならば、人文科学に関わる人々が他の科学に親しみを持てるようになると思うし、一般の民衆も身近な領域から「科学(不可算としてのScience)」を考えることができると思った。
言語学を「いわゆるカガク=リケー(理系・理科系)」として権威付けしたいわけではない。
インターネットで情報技術が普及したのであるから、一般人も言語のことぐらいはメディアリテラシーによって科学的に考察できてもよい。
上記のように科学も多種多様であるし、「基本的な科学の精神」と共に色々な観点で「言語・言葉(ゲンゴ・コトバ)」という客体を測ることができると思ってほしい。
他の科学も「同じ人間が行っている」ということで、パソコンや携帯電話(スマートフォン、情報端末)や身近な家電などを作るための高度な数学や機械工学や、遠くの天体を精密に観測するための天文学は身近に行えない(実際の製造や観測などは金銭がかかるし個人の趣味の範疇でも望ましくない)としても、心での風を止めて抵抗感を無くしてもらおう。



!以下から大々的に下書き (draft) 状態!
(記事投稿日時時点)


数学関連の学習(平方根・方程式など)
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%B4%E3%83%AA:%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6
数学関連の学習(アレ関数など)
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E6%95%B0%E5%AD%A6
物理学と数学の関係
http://physics.thick.jp/index.html
理工系数学
https://risalc.info/index.html
情報処理関連
https://algorithm.joho.info/image-processing/binary-editor-stirling-bmp-file/
化学関連の学習(基礎の全般)
https://pigboat-don-guri131.ssl-lolipop.jp/



言語学に応用数学の技法を取り込む研究の案

筆者が少し中等教育数学を学びなおした上で提案しよう。
以下の案では、統計の手法や、関数・幾何学の知識などを取り込んで研究することになる。

統計的方法 (statistical methods) を言語学に取り込む発想くらいは、私でなくとも既に先行研究が多くあるのではないかと思ったが、2019年5月までに私は一度も見たことが無かった。
せいぜい歴史言語学や語用論のためのコーパス言語学の範疇で、言語の用例を任意の範囲内の文献(小さな研究目的に相応)から探して定量的に提示するようなものが見られる程度であった。
統計的方法を言語学に取り込むことは、学問分野でいうと数理言語学 (mathematical linguistics) の下位・副分野 (sub-descipline) としての「計量言語学 (quantitative linguistics, QL) 」になるかと思う。
亜種には「計量比較言語学 (quantitative comparative linguistics) 」もあるが、当記事で以下から示す「硬口蓋化指数」は比較言語学の歴史言語学的な目的に限らないため、その領域の内外に跨るものかと思う。
他には「計算言語学 (またはコンピュータ言語学 computational linguistics)」もあり、理工系の「自然言語処理 (natural language processing, NLP)」に関わりのあるものとして当記事で便宜的に区別をしたい。

関数や幾何学の知識を言語学に取り込む発想は、私の脳内で「数理言語学 (mathematical linguistics) と呼ばれるに値する」と思っていたが、当記事の執筆に際して色々と調べなおすと、学問分野の区別が一般的には不明瞭であるようであったし、便宜的に数理言語学と呼ぶしかない。
幾何言語学・幾何学的言語学という呼び方もあろう。



硬口蓋化指数 (?)
※そもそも日本で応用的な分野に用いられる「指標」に関する意味の「~指数 (shisū)」とは、英語でいうと何か?「指数関数 exponent function」という時のそれでない。「知能指数 intelligence quotient」の"quotient"は、割り算の解の整数部である「商 quotient (e.g. 20 ÷ 6 = 3 あまり 2 は a / b = q... r と代数にして 3 = qに相当する)」と同じ言葉である。「ボディマス指数 the body mass index, BMI」 "EPI, Environmental Performance Index"などは"index"と称し、計算方法が明らかに知能指数と異なる。他に、"** scale"や"** score"などの名称で社会や医療の考察対象である事象が数値化されることは多いので、どういうものがあるか色々と探して知見を得る必要がある。

「硬口蓋化 (palatalization@ alt. 口蓋化)」は、任意の言語の古形とその後世の形とで相対的に見られる子音の変化現象である。
代表例はティ /ti/ →チ・シ /chi, shi/のような歯擦音化 (assibilation, alt. spirantization, fricativization) であるが、他にも多様な変化がある。
言語ごとに、具体的な子音の起点と終点の音価の異なりがあるし、時代差もある。
硬口蓋系だとされる音自体も多様であり、単純に「硬口蓋化した子音 [ʲ]」とするもの(e.g. スラヴ語学でいう軟音ь 日本語の拗音のうちキャ行・ミャ行・リャ行の音)や、硬口蓋破裂音 [c] や、硬口蓋系の破擦音 [t͡ɕ] [t͡ʃ] など、様々に異なる特徴の子音を一様に硬口蓋系であるとか硬口蓋化であるとかと括ることもできる。

※なお、「音声学でいう硬口蓋化」と、「歴史言語学・音韻論でいう音変化 (sound change) としての硬口蓋化」は、定義が異なり、硬口蓋化指数でいう硬口蓋化が後者であることに注意されたい。前者=音声学でいう硬口蓋化はIPAにある [ʲ] が伴った子音のみを指す。日本語の拗音のうちミャ行の音はマ行に対比でき、スラヴ語学でいう軟音ьも硬音Ъに対比できる。後者=歴史的な音変化の現象に含まれる子音の範囲は必要に応じて広さがある(先述の通り・後に具体例を示す)。

硬口蓋化現象の終点側の歯擦音に限っても、「任意の地理的範囲の東と西」とで異なる音の傾向を持っていたりもする。
例えばチャ発音が歯茎硬口蓋音 [t͡ɕ] である漢字文化圏=日本/チ, ch/・中国/ㄐ, j/・朝鮮/ㅈ, j/とスラヴ語圏のロシア/ч/・ポーランド/ć/などに対し、後部歯茎音 [t͡ʃ] である現代インド=ヒンドゥスターニー・ベンガリと西ヨーロッパがある(主要な言語発音として言語学で承認があるものはそれらの地域で代表的にそうある。方言や他の言語には別の場合もある)。
言語に「東vs.西」という二項概念が適用できてしまう例、と私は考える。
こういった言語の傾向には歴史的な見地での解明が可能であるが、更に単純化する「物差し・メジャー measure」として「硬口蓋化指数」を開発することもできる、と私は思っている。



まず、「硬口蓋化」と想定される言語現象(音変化 sound change)について、私が想定する例を示す。
例の通り、一般的なIPA(国際音声記号)を付与し、音素表記 (phoneme) と音声表記 (phone 単音 音価) とを分ける。
特に断らない限り子音は無声音を示し、有声音の場合に「有声」という接頭語を用いる。
日本語の場合はそれ自体の言語発音を示すものと見るべきだが、西洋言語の場合に付されたカナは参考までに私が一般的な音写例を示したに過ぎないものと注意されたい。

ラテン文字の音素「C シー=スィー (現代語での名称はドイツ語ツェーなど破擦音も多い)」
古典ラテン語 [k] (軟口蓋破裂音)→ 現代イタリア語 [t͡ʃ] (後部歯茎破擦音) (ニワトリ擬声語由来の英語コック・チキン互換のch表記で見られる音変化), 現代フランス語・英語 [ʃ] (後部歯茎摩擦音), [s] (歯茎摩擦音)
単語例: -cia キア/ki.a/→チア/tʃi.a/・チャ/tʃa/(保留。イタリア語の例だとマイナーになりそう)→シア/ʃi.a/・シャ/ʃa/(ガリシア Galicia, オフィシャル official. それぞれラテン語での語源はGallaeci, Gallaecia; officialis, officia, officium 一般的に日本でカナ表記される語彙でないが一応→ガラエキアまたはガッラエキア、オッフィキアリスまたはオッフィキアーリス)
※オフィ office はオッフィキウム officium の類であるため、この例だが、その他に英語やフランス語に見られるス -ceは古典ラテン語-tia系 (e.g. Venetia, Venice; scientia, science) になるので後述。

日本語族の音素「か行い段=き」
音声としては標準的な日本語で [k] および [kʲ] (硬口蓋化軟口蓋破裂音。特に強めの硬口蓋化か。一説に硬口蓋摩擦音が続く [kç] も挙げられるが二重子音か破擦音か摩擦音化かどうか説明が無い)→恐らく琉球語派の一例で [t͡ɕ] (歯茎硬口蓋破擦音)
単語例:標準的な日本語 おなわ okinawa [o̞kʲina̠ɰᵝa̠] 琉球語派の一例 うなー ucinaa (uchinaa) /ʔut͡ɕinaː/ (英語版Wiktionary - 沖縄 に各言語のIPA表記例が載る)
※日本人は元来、前舌母音の音が前後にある際の無母音子音にイの音を付加してきたことがある。漢音「一色 いっしょく isshoku」に対する呉音「一色 いっしき isshiki」や、「節分 setsubun」に対する「お節 osechi」/setubun, oseti/(比較としてという漢字の中古音を参照。節の音素 /t/ は入声・閉音節・無子音)や、Graecia, Greece = グラエキア・グリース/guraekia, gurīsu/にあたる西洋言語の語句の音写「ギリシア・ギリシャ Girishia, Girisha」(イギリス Igirisu はその類例。ただし中国語か任意のアジア言語を介して日本で音写されたパターンであるならばそれらの言語も似た性質があったと考える必要がある)や、「マックス max, makkusu」に対する「マキシ maxi, makishi」などの単語に見られ(類例はtext テキスト・テクスト tekisuto, tekusuto, 反例は 呉音: ニク niku, 漢音: ジク jiku 漢字音は当然、現代の辞書に載るような一般的に継承された例のみを取った場合の話。過去に 中古音で任意の-ng韻が呉音-you, 漢音-ei韻となる場合の漢字音を頻繁にあげたそれも、 tangが当然のトウ=タウ tauではなくタイ taiとして當麻寺 当麻寺 Taima-deraになっていることなど中古日本語以前の例は探しても判断しづらい)、日本人が自覚できないくらい日常的に大量に使われる。これらは、原語で無母音子音の前後にある母音が日本語で前舌母音となるエ段・イ段 /e, i/ の音であるために [kʲ] (キャ kya の子音 /kj/)という硬口蓋化の音として受容したことが、古代から現代までの日本語での個別語句の借用の原初にあったと思う。借用のタイミングのことは歴史的な音変化との関連性が低いので、この例に含めない。「硬口蓋化指数」のためには余分になると判断する。

古代ギリシャ語に対する現代ギリシャ語の音素「Κ カッパ」 /k/
[k] (軟口蓋破裂音) → [c] (硬口蓋破裂音または [c̠] 後部硬口蓋破裂音)
単語例:Μακεδνός [mɐc̠e̞ˈðno̞s̠] (現代ギリシャ語は日本に借用語が少ないので英語版Wikipedia - Voiceless_palatal_stop#Post-palatalから引用した。単語は歴史学でマケドニアと関連付けられる「背が高い」という意味の形容詞だが現代ギリシャ語では一般に用いないと思われる。日本語のケの軟口蓋破裂音と異なる表記だが発音の例を聴くと同じように聴こえる。軟口蓋破裂音との違いを無理に見出すならば調音位置が軟口蓋よりも硬口蓋で発せられたようなチェの要素がわずかに感じられる。現代日本語ではキほどでなくもケが硬口蓋化しているように思えてある意味では現代ギリシャ語のκεと同じような音だと思う。気になるならば自分で発音しながら解剖学的に意識したり、日本語音声 [kʲe] と推定上純粋な軟口蓋音 [ke] とそのギリシャ語音声とをスペクトログラムで解析してフォルマントの特徴などを抽出すればよいがここでは詳述しない)

印欧祖語に近似する音価もあるケントゥム諸語に対するサンスクリット(パーリ語に共通して梵語)の硬口蓋 (tālavya, tālu) 阻害音系音素
[k] (軟口蓋破裂音)または[kʷ] (唇音化した軟口蓋破裂音)→ [t͡ɕ] (歯茎硬口蓋破擦音) [ɕ] (歯茎硬口蓋摩擦音) [d͡ʑ] (有声歯茎硬口蓋破擦音)
単語例:ラテン語クヮットゥオル quattuor(いわゆるクアトロ quatro)⇔梵語チャトゥル catur तुर्、 ラテン語ントゥム centum⇔梵語シャタン śataṃ तं (シャタ śata शत)、 古代ギリシャ語ギグノースコーγιγνώσκω(いわゆるグノーシス gnosis に関連)⇔梵語ジャーナーミ nāmi जानामि (辞書形3人称ジャーナーティ jānāti जानाति; カナ表記の定まらないヨーガ用語 ājñā आज्ञा アージュニャー・アージニャー・アジナ・アジュナ・アジュニャーに関連) 過去記事参照
※これに限らず、サンスクリットで反舌 (mūrdhan, mūrdhā) 摩擦音とされる音素 ṣa ष を持つ単語の一部が、相当するケントゥム諸語の単語によって印欧祖語での音素が *k, *kʷ と推定される。数詞の八・英単語エイト eight の同系であるギリシャ語ラテン語同系オト(オクトー) octo, ὀκτώ に対するアシュタ aṭa अष्ट、英語ドラゴン dragon の語源で動詞「見る」の派生語であるギリシャ語 δράκων (drákōn) に対するサンスクリット語根 dṛś दृश्  (当ブログでは仏教用語の見・ドリシュティ dṛṭi でおなじみ。この語根は硬口蓋系の摩擦音śa श で扱っていて実際の単語ではś + tの転結で反舌音化する現象により副次的ではある)がある。

ラテン文字の音素「T ティー (一部でZ字使用)」
[t](歯茎破裂音) → 何かの言語 [t͡ʃ] (後部歯茎破擦音) フランス語・英語 [ʃ] (後部歯茎摩擦音), [s] (歯茎摩擦音)
単語例:ダルマチア Dalmatia ・英語の犬種ダルメシアン Dalmatian とかを複数言語で調べてみよう@、古典ラテン語ナーティオー nātiō →俗語ナツィオ natio →イタリア語ナツィオーネ nazione, フランス語ナショorナスョ nation, 英語ネーション nation
※ウェネティア Venetia →ヴェネツィア Venezia例はイタリア語で歯茎破擦音 [t͡s] なので硬口蓋化の例でない(i.e. 歯擦音化のみ)。ただし英語のVenice, フランス語のVeniseは [s] (後者は [z]) に該当(過渡期・中英語が借用する元の言語=何らかのロマンス諸語のうち古フランス語などに硬口蓋系歯擦音か摩擦音だったと考えられる)。
他の単語例:多分RP英語で [t] tree (カタカナ英語でツリー) GAとしてのアメリカ英語tree [t̠ɹ̠̊˔ʷɪi̯] チュリー(複雑なIPA "t̠ɹ̠̊˔"は後部歯茎で調音されながらも非歯擦音としての破擦音であることを意味している。この単語GA発音の例では唇音化してさえもいてトゥルウィーと無理にカナ表記することも可能)
※英語の抽象名詞に見られる-ション -tion (根源はラテン語 -tio) については中英語の文献で-cionのようにC字を用いるなど、中英語が借用する元の言語=何らかのロマンス諸語のうち古フランス語やアングロ・ノルマン語などからして、摩擦音か破擦音への歯擦音化が既成事実化していたことを想定する。まさかとは思うが、t = /t/ が同じく破裂音である c = [k] に変化したという、基本的に言語学で観測されづらい現象は無かろう。

上代日本語と現代日本語の音素「た行い段=ち」
 [tʲ] (硬口蓋化した歯茎破裂音)→  [t͡ɕ] (歯茎硬口蓋破擦音)
単語例:上代日本語 *mititika 標準的な日本語 道 michi, 近い chikai 琉球語の宮古方言 mtsï or mcy むツtsïka or cyka ツカ (借用語などにあるティ/ti/やテュ/tyu/の類は硬口蓋化した歯茎破裂音 [tʲ] として解釈される)
※現代語に関する現象で「なんという nan to iu・なんていう nan te iu」や英語の"Did you..."が、硬口蓋系の破擦音「なんちゅー nanchū」や英語 [dɪdʒuː](近似カナ: ディヂュー)で発現することがある。反対に、ドイツ地名の外来語 (gairaigo) カナ表記「テュービンゲン tyūbingen(原語ではuウムラウト = ü が用いられる)」にあるような硬口蓋化子音 [tʲ] としての「なんてゅー nantyū」を大半の日本語話者は常用しない。連声(外連声・内連声)・連音・サンディ (sandhi) を古代から形式的に保持するサンスクリットにそういう種類のものは無くも、同系言語のパーリ語にはサンスクリットと同じ単語が硬口蓋系破擦音に変化したような単語が多い。それは2018-03-08記事に"satya"に対する"sacca"などを縷々と例示して説明される。先の日本語・英語の例にあるような、文法的な形態の連結の場合にサンスクリットやパーリ語で同様の現象があるかは定かでない。

中古音・漢字音の音素での硬口蓋化系 /Cj (Cʲ, CはConsonantの略)/
明、呉音ミャウ・ミョウ、漢音メイ、唐音ミン 中国語拼音ming 韓国語ラテン文字表記 revised romanization = 文化観光部2000年式でmyeongミョン@
※上古音ではlやrのような流音で二重子音を形成していたと推定される。
※「」と「」は現代中国語で"zhong"系であるものの、字音仮名遣いでは前者「ちやう/*tyau/」と後者「しゆ/*syu/ orしう/*siu/」に分かれる。これは広東語前者zung1後者zung2・韓国語前者jung 중後者jong 종・ベトナム語前者trung後者chủngを比較に用いれば、中古音ZZで前者/ʈɨuŋ/後者/t͡ɕɨoŋX/と推定されることが分かる。2017-05-21記事にも同じ趣旨が書かれる。中古音で硬口蓋系の破擦音であると分かるか硬口蓋系の響音・介音があると分かるか硬口蓋化 [ʲ] があると分かる、限りはこの例に含めない。もしそれ以前(日本・朝鮮・ベトナムなどに現代までの命脈を保っている借用がある以前や上古音)に硬口蓋系の音が子音部に無い限りはこの例に含めてよい(上古音は不確実の要素が多いが参考にしようという。例としてBS前者*truŋ-s後者*(mə-)toŋʔ-sで含める例=硬口蓋化の発生前に当たるように見える)。

中古音・漢字音の音素での硬口蓋鼻音系 /ɲ (nj)/
現代中国語普通話で拼音"r" /ʐ/ (有声反舌摩擦音or接近音) に相当し、朝鮮語で文化観光部2000年式"y" /j/ (硬口蓋接近音。ハングルで母音表記のみ)に相当し、広東語で粤拼"j" /j/ (硬口蓋接近音)に相当。e.g. 「 Hepburn: nyū (ニュウ:呉音), Pinyin: róu (ゾウorロウ), revised: yu (ユ), Viet: nhu (ニュ), Jyutping: jau4 (ヤウ)」 「 Hepburn: ni (ニ:呉音), Pinyin: èr (アーorアル), revised: i (イ), Viet: nhị (ニ), Jyutping: ji6 (イorイィ)」 「 Hepburn: nen (ネン:呉音), Pinyin: rán (ザンorラン), revised: yeon (ヤンorヨン), Viet: nhiên (ニェン), Jyutping: jin4 (インorイィン)」 @

中古音・漢字音の音素での軟口蓋鼻音系 /ŋ (語頭に限るng)/
日本語カナでガ行音素に相当、現代中国語普通話と朝鮮語で無子音(ゼロ、ヌル。ハングル字母でㅇ)に相当するが、一部が普通話で拼音 /y/(硬口蓋接近音)に相当、ベトナム語と広東語で軟口蓋鼻音の音素に相当。e.g. 「 Hepburn: ga (ガ), Pinyin: wǒ (ウォー), revised: o (オ), Viet: ngã (ガorア), Jyutping: ngo5 (ゴーorオー)」 「 Hepburn: ge (ゲ:呉音), Pinyin: yá (ヤー), revised: a (ア), Viet: nha, ngà (ニャ・ガorア), Jyutping: ngaa4 (ガーorアー)」@






以上に見るように、硬口蓋化は多様である。
基本的な原因としては、単語例に見られるように阻害音系の子音にエ /e/ やイ /i/ のような前舌母音 (front vowels) が付いたCV構成の発音が主要である。
それに種々の間接的な原因=条件 (conditions) があるものとして、私は思考を重ねた。

多様な「硬口蓋化」の歴史的な条件と発生時期について、2019年3月ころに指数を求める発想があった。
その指数は、日本語族の日本語と琉球系の一言語・ロマンス諸語のフランス語とイタリア語・サンスクリット・朝鮮語・中古音の一系統から現代普通話の中国語漢字音など、各々のために個別に決定されることになる。
値が近似する言語どうしは硬口蓋化に代表される音変化の特徴が似ていると判断する。
その指数を求めるための基準に以下を私は想定する。

・硬口蓋化の起点 (e.g. [k], [t]) や終点 (e.g. [t͡ɕ], [ʃ]) など種々の子音の発音に必要なエネルギー量
 「エネルギー量」は、参考までにアフリカの言語のうちでもナミビアあたりにいる民族が用いるコイサン諸語で常用される「吸着音"click consonants"」を考察するとよい。文明的な国では古代でも現代でも、それが言語音声の弁別に用いられたという証拠が無いが、アフリカの部族・民族の一部では日常的に用いられているという、このような二分法が可能である。アフリカがHomo sapiens sapiensの起源を持つこと・原始人が狩猟採集をしていたことなどと、その部族・民族の生活が一致しているので言語も原始的な特徴を持つと考えるかもしれないが、「吸着音は最古層の言語音声だ」と結論付ければ早計である。私はその物質的な証拠を何も認知しない。また、生物の進化の多様性は各々の必要な時間をかけて成り立ってきたことからして(ダーウィン進化論についてしばしば言われる話)、言語の多様性もそういう過程から各言語の個性が成り立ったろう。アフリカの狩猟採集の部族・民族もまた、その個性が一定の時間をかけて成り立った可能性 (i.e. 子音強化 fortition) がある。現代日本人である筆者は、吸着音がとてもエネルギー使用の大きい子音発音だと思うが、それで最も古代の言語の特徴であると断定しづらい。とりあえず、エネルギー量の大小は、大まかに吸着音≧破裂音>破擦音>摩擦音>接近音のように想定されると付記する。無論、今に列挙されて最もエネルギー量が少ないと見られる接近音も、多くの言語話者にとって歯茎系の破裂音・破擦音よりも接近音 [ɹ] の発音が困難とされるならば、解剖学的・生理学的な構造にその原因があり、実際に力学的にも調音器官を動かす際に話者ごとの余分なエネルギー使用が発生するので、あくまでも任意の調音点における任意の調音器官による各種調音方法の子音を機械的に発音した際の想定である。

・時期ごとにおける異言語との接触

・食品の軟化または硬化(e.g. ある採集狩猟民が固い木の実・草・生肉を食べていたが農耕が定着して調理技術が進んでからはご飯 coocked rice, grain, cereals やパン bread を食べるようになった)が発生した後にその継続によって変化した歯列・骨格による発音能力
 2018年3月8日の記事末尾 https://lesbophilia.blogspot.com/2018/03/fricativization.html#artifoot で説明済み。「人間の文明は裕福となり、数万年前~数千年前の人類が硬い肉や木の実や穀物を食べていたことに比して食肉も果実も穀物もみな柔らかくなっているし、現代は様々な機械音(エンジン音や動作音)・電子音(シンプルな波形など)・人工的音声を聴覚的に受けてもいる。人の顎と歯が退化し、舌などの機能が弱まり、聴覚的に人工的な音声を多く聴くといった因縁(感受・認識・経験・定着)のある現代文明の条件下であれば、その果報が相応に発生するということである」といい、仏教の因縁観を援用して認知科学・神経科学の趣旨を説いている。

これらの条件や判断材料も数値化・整理する必要があるので、実現のためには非常に多彩な分野の情報や多くの研究者の共同作業を要すると思う。
それで硬口蓋化指数とされる何かを作ることができても、学問的にその確実性を得られるかは定かでない。
一応、この硬口蓋化指数を用いることで言語における様々な音変化や民族の遺伝的形質の変化などを推定することが私の期待である。
分子人類学や遺伝学で究明されるべき「民族」(mtDNA, Y-DNAハプログループとかの何らかの範疇を拡げて通念上の日本人<東アジア人種などの領域で想定)ごとの言語の特徴(最適性理論に関連)も、歴史的・社会的な経緯で徐々に形成されたか、生理学的な特徴(調音位置・調音方法が人体の形質や脳・神経の機能の傾向に依存する)から進化論的に形成されたか、硬口蓋化指数が手掛かりになると期待する。

硬口蓋化によって破裂音の特性が変わったり、破擦音・摩擦音になるということ(更にはジャ・シャ系統が硬口蓋接近音としてのヤ [ja] になるか一言語の古い文献ではその異言語の似た系統の音 like as [ʝa] を/ja/で記録するような場合もあること)は確かに承認されるが、そのようなものは「子音弱化 lenition」であって反対に「子音強化 fortition」も言語によっては存在する。
子音強化は、歴史的な音変化よりも異言語間の借用語に見られ、特に文明の発達の度合いが高いものから低いものへ借用があった際に多く見られる。
これも私がその概念名称を知る以前に、(借用の起点と終点)「パーリ語とタイ語」、「漢字中古音とベトナム語」、「西洋言語と朝鮮語」を引き合いに出して2018年3月8日の記事末尾 https://lesbophilia.blogspot.com/2018/03/fricativization.html#artifoot で説明済みであるため、参照されたい。
英語版Wikipedia記事 - Fortition (oldid=892797175)には「スコットランド語・ラテン語・英語などとスコットランドゲール語 Scottish Gaelic」の例が挙げられる。



ここまで綴られ、読者がこれを読み、「硬口蓋化指数とは何を表現したいか?」と疑問に思うかもしれない。
硬口蓋化指数という名で、色々と考えられた。
1. 硬口蓋化という音変化が現代語に見られる結果の量的表示
2. 硬口蓋子音および近似する子音の現代語における微細な弁別(e.g. キ・チの弁別、ニのような硬口蓋系の鼻音と目された中古音漢字が日本語呉音とベトナム語では維持されるが中国語普通話と韓国語では維持されていない)の量的表示
3. 硬口蓋化の原因となる民族的特徴(遺伝学・分子人類学・形質・病理など)の量的表示
4. 硬口蓋化の原因となる文化的背景(食事・言語接触など)の量的表示

これらを全て数量化してから総合的な硬口蓋化指数を作るべきであろうか・・・、発想当時のアイデアがいつの間にか不明瞭になっている。
どうぞ天才学者さんで興味をお持ちの方が仕上げればよろしうございます。
2を調べるには、大学所属の学者の常套手段で世界各地出身の学生たち数百人を臨床試験に用いるなどすればよろしうございます。



概念図(抽出図)であっても、その日本語族・ロマンス諸語・サンスクリット・中国漢字音・朝鮮語などの個別の指数をチャートにして示す@



科学的な母音表 (scientific vowel chart) を自然科学の手法で生み出す案

生成音韻論 (generative phonology) と実験音声学 (experimental phonetics) の統合は言語音声研究における課題と考えられるようである。
生成音韻論における「弁別素性(distinctive feature または弁別的素性)」では、何かしらの基準に対してプラス + マイナス - を振るような発想が1960年代からあるが、未だ定説を見ないようである。
個人的にも、例えば「日本語の無声破裂音/k, t, p/は常に少ない有気音"aspirated consonants"の特徴で発せられる(音素としては有気音・無気音の弁別が無いが有気音を弁別する言語にとって無気音に置換できる)」と言うとき、その言語音声の具体的な一例(/ka/ 1モーラのみ)を、現代英語ネイティブスピーカー(彼らは語頭でアクセントある破裂音を有気音で発する)にはアクセントのある音節だと認知する者とそうでない者とがいたり、朝鮮人には有気音=激音(격음 またはコセンソリ 거센소리)として認知する者とそうでない者とがいると仮定する場合、音声学の立場では、日本語の破裂音の音素は無気音とも有気音とも確定しづらい側面がある。
弁別素性では、「日本語の破裂音の具体例」が有気音であるかどうかを、[+/− spread glottis] で判断すると思う(i.e. 日本語の破裂音は [+ spread glottis])。
言語音声を通言語的に識別するにも、弁別素性で +, - の二分法だけでは通じないかもしれない、と私は思っている。
もし、認知に関することよりも客観的な調音部の運動などを基準とするならば、私が彼らの論点を捉えていなくて弁別素性を考え直すことができない。
とはいえ、「日本語の破裂音の有気音としての特徴の多寡」のような微量の差異も学術的に名称のある場合がある(後述の母音にて詳述)し、やはり+, - の二分法だけでは言語音声の分類に課題が残ると思ってよい。

弁別素性・生成音韻論という、言語学のうちの一分野に貢献できるか不明であるが、本論に入ろう。
実験音声学の解剖学的な方法論 (調音音声学 articulatory phonetics) のみならず、音響学的な方法論 (音響音声学 acoustic phonetics) で示された「フォルマント (formants; F1, F2, 必要によってF3)」の発想から、新たに同様の通言語的な設計を生み出しえる。
ここでは、母音に限って説明をしよう。

現代の音声学などで母音を示す際に用いられる「母音表 (vowel chart)」は、左に前舌母音・右に後舌母音、上に狭母音・下に広母音の基準を有し、右辺が垂直の線で左辺が上辺から下辺へ狭まる斜線で構成された四辺形で示されている(言い換え→四辺形ABCDで辺CDが垂直・辺ABが辺ADから辺BCへ狭まって伸びる斜線で構成されている)。
母音の区分には、その前舌・後舌や、口の広さ=狭・広(舌の高低)以外にも、唇の円さ=円唇・非円唇があり、それについては四辺形上の点の左を非円唇・右を円唇として区別する。
これは一般的な言語の母音を詳細に示す手段のうちでも基本的であり、調音の条件や骨格などによる制約を上手く捉えている。
しかし、日本語のウの音の微妙加減、エ・オの広さの中間具合などは、基本的なうちに含まれず、更に詳しい説明やIPAの補助記号を用いるなどして示す必要がある。

立体図形と母音の点と座標の値を示した画像

立体図形と母音の点と座標の値を示した画像。背景黒で線だけの立体図形に [u] X=63狭, Y=63後舌, Z=-64円唇 有声音である黄色の点を示す。[a] や [i] や 日本語ウも示す@

既存の母音表以外を基盤する場合は左右対称6角形を立体化するなど代案がある@

コンピューターの技術が日常的に用いられる人においては、やはり立体図形とその座標で、母音の特徴を数値化して示すことが、容易に想像できよう。
すなわち、既存の母音表の特性を生かしながら、判断基準すべてを数量化してしまい、X, Y, Zに配当して立体化する(その四辺形に奥行きを付ける)。
そこに個別の母音の位置を点で示すことで、あらゆる言語の母音を「構造的に(近代言語学・哲学のような言い方。構造主義的に structural。または生成的に generative)」示すことができる。
点にはX, Y, Zの座標の数値が示され、IPAで近似する記号を表示できる。
なお、無声母音"devoiced vowel, voiceless vowel" (e.g. ささやき声や日本語の語末ウ音 [u̥]) や、鼻母音"nasal vowel" (e.g. 日本語の撥音/N/の前で発せられる鼻音化した母音) を表現したいときには、これらを別次元に扱って表記する方法もある(普通の点を任意の色の円として無声母音や鼻母音の点を他の図形とするか色彩を変えるなど)。

このような考え方が、当ブログの2019年4月6日投稿記事に示されていた。
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/04/symphonedy-vowel-pitch.html

単母音"monophthongs"は以上のようであり、二重母音"diphthongs"の場合は通常の母音表だと矢印直線で起点から終点を指している。
これもそのまま図形の中で再現できるであろうし、直線でなく適宜に曲線(後述の音声合成関連で生理学的・力学的な理由に基づく cf. 非ユークリッド幾何学のような曲がった直線。平面図形の世界地図上の直線と地球儀準拠の世界地図の曲線)を用いても可能と思う。

さしずめ、ノーム・チョムスキーの生成文法のようなモデルを母音表に反映したものと言おう。
こうしてチョムスキーさんの派閥の人が行う「生成音韻論」の「弁別素性」も、母音に限っては音響音声学・実験音声学の知見を加味して考察できるであろう。
そう思ったが、彼らの論点と、この研究とにはあまり関連性が無いかもしれない。
何かの発想に繋がればよいと思う。

言語学者たちの想像する言語音声のうち、母音のみであれば、これで自由に特性を示しえる。
これはまた、科学的絶対性にもならっている。
是非とも、いわゆる理工系の人に音声学(IPA, 調音位置・調音方法とその音響的発現)を学んでもらうことで音声合成技術の作成に役立ててもらいたいと思う。
この立体図形上の任意の点に対応した音声を、音声合成技術で簡単に出力できる発想もある。
※音声合成技術と音声学の知見の関連は、あまり公表されないが、管見の限りでは神経科学分野の福祉の方面で実用が考えられている(cf. AIに言語発音とその発話の脳の電気信号の関係性を学習させて音声合成を行うUCSFの Chang Labによる技術)。自立的な歌手とハイテク系シンガーソングライターが作編曲する場合やDAWを用いる音楽家がボーカルを扱う場合やボーカルのインストゥルメントのデータ(VSTi, SoundFont, 日本のアマチュア界隈で主流の歌声合成・歌唱合成ソフト関係)を作成する場合などにも多かれ少なかれ音声学の見解が借りられてもいる。

無論、人間の一般的な言語・自然言語で用いられない母音(無用なもの)をも発生させることになるが、もし生身の人間および言語学者に区別できない限りでは、何も問題の無いことである。
地球の座標 (geographical coordinates) も、単なる海面を指すことがあるのと同じで、直ちに問題とはならない。
考え直せば、人間の母音もまた自覚的・意識的に発せられたり聴かれたりすることは、人間の生物学的な知覚システムのために排除されているわけで、改めて科学的絶対性に近づけた見地では、発音の一時的な微細な区別を知ることになる。
無論、母音表の立体図形をコンピューターのソフトウェアで表示する際、点を置くことが可能な位置の数を限定すれば、特に学問的に実用的な範囲での使用も可能になる。

最先端の科学研究や技術開発でタブーな話題は「その研究題材や成果が直ちに役立つか・実用的か」ということである。
何らかの人にとってくだらないように思えても、そのように発明されたものが後々の研究や技術開発に役立つような事例を科学史から学んでいる人には、の研究の意義の有無を問うことが、科学自体の意義の有無を問うことであると分かるかと思う。
ましてや私は在野の研究者で、公費による支援は無いし、日頃の個人的な生活の時間が研究に傾けられるのみである。
そういうわけで、研究意欲のある人が可能な限りに色々と素敵な研究ができることを、在野の研究者である私は心で応援している。



少し話を変えるが、日本語の母音のウの音についての音素的認識が共有された日本人の間では、同じような音響的特徴を示現するであろう。
同じ狭母音のイの音でも、より広いアの音でもエの音でもオの音でも、音素的認識が共有される限りには同じような音響的特徴を持っている音であろう。
それは言語獲得が済んだ10歳程度の子供から、成人男性・成人女性にいたる多くの人で、彼らがウの母音を認知したり発音したりする場合も平等であろう。
声のオクターブ的な違い=人それぞれの基調となる声色を問わず、一般的な母音は固定的な特徴がその相対性のうちに示されている。
言い換えれば、母音の同一性とは、そのように固定的な特徴を言うことができる。

これも私が思う数学的な考察の仕方で示しえる。
第一フォルマント F1 と第二フォルマント F2を求めて長方形(四辺形の一種)のX方向とY方向の長さとし、それを言語獲得が済んだ10歳程度の子供から、成人男性・成人女性にいたる多くの人の発音標本から作製する。
それは数学でいう「相似 (similar, similarity)」として等しい幾何学的特徴を持つことになる。
ウの音にはウの音の長方形ができ、イの音にはイの音の長方形ができ、アの音にはアの音の長方形ができ、それが日本人の老若男女に共有されると考える。
数学や幾何学の形式科学の特性を言語の音韻論に適用した場合にそうであって、自然言語・音声言語の事実としてもそうであると言いたいわけでない。

他にも、X軸上にF1とF2との差を点にして置き、Y軸上に一個体の標本の標準的な声色のピッチ(音の高さ)を並べてみても面白い。
それでウの音とイの音とアの音は、それぞれ一次関数のような線としてX, Yの図に顕現する。
・・・、実際にどうなるかはともかく、何か数学的な発想を音声学に取り入れるための思考訓練として、こういった考えをしても面白いと思っている。




言語数理モデルの他の例示 (10月2日追記)

アナグラム (anagram) に近い形で何かしらの言葉遊び (word play) に役立つ指標を考えることがあった。
骨組みに:
①現代日本人の言語感覚によくある「複数の単語間または一単語を基準にした他の単語との文字列の一致度」
②ヨーロッパ広域(歴史的文献では中国を含む)で典型的な押韻
③音声学的な調音位置・調音方法の近似
などを含む。
個人的な作詞や言葉遊びの領域で、それらが骨組みの未完成な指標が少し利用される程度であり、今までに言及しないでいた。

上記のうち、一般的な類例は無いか?
①に近いものでレーベンシュタイン距離 (Levenshtein distance, edit distance) というものがある。
これはあくまでも情報理論 (information theory) に関連した歴史的経緯から成立した文字列の測定基準であり、様々な情報技術分野で便利に応用される・初歩的なスキルとして用いられる。
これだけだと、言語の系統に限らず数字に適用され、パズル的でもある。その方面で、ハミング距離 (Hamming distance) も重要にある。
回数の制約などのマイナーチェンジには「ダメラウ・レーベンシュタイン距離 Damerau–Levenshtein distance」があり、スペルチェックをはじめとした自然言語処理に寄与する。
私であっても、日記メモの編集行為・プログラミング言語の使用・バイナリエディタの使用などから、効率性を考慮する過程でそのような測定基準を脳内に持つことはあった。
③には何かしらの言語音声アルゴリズム (phonetic algorithm) が適用できる。
とはいえ、近似的であるから、私が求めるようなものは可能な限り私の方で考え、その後に比較・対象行為が行われよう。

改めて2019年10月2日に、この方面で参考までに知るべきことを知ったので、当記事に補足する。






起草日: 20190527

起草日とその翌日に草案として11,000文字程度を書いた。
その時に「思考が混乱しそうである。しばらくこの記事の話題を保留にして既存の美術・音楽・学術の作業に戻らねばならない。それから1か月間でも1年間でもじっくりとこの記事の話題に取り組もう」と考えた。

言語学に当記事で示したような応用数学の手法を取り入れる案は、言語学が人文科学である伝統と手法を、研究者の意識から埋没させるかもしれないことに注意したい。
自然科学で応用数学の手法を取り入れて成功しているようなことは、扱いが悪いと大きな失敗を招くかもしれないし、浅学である私は特に注意したい。
「人文科学である伝統と手法」はすでに示したような18~19世紀における印欧語の比較言語学・歴史言語学や印欧祖語の再建などに代表される分野の研究史と研究行為を指す。
20世紀後半から言語学の現代的な発展・多様化が顕著となるにつれて様々な方法論が学際的に用いられたり、開発されたりしたが、「人文科学である伝統と手法」無くしてはそれらも無かろう。
実例としては、2019年5月16日投稿記事に示された「2019年、アメリカの研究機関UCSF Chang LabのチームがAIに言語発音とその発話の脳の電気信号の関係性を学習させて音声合成を行う技術の報告をした。彼らに音声学の専門家が関与せずとも音声学の知見が用いられた」ことである。
英語の音素・音価に関して国際音声記号 (IPA) を用いる手法などが、神経科学の医療的な技術開発でも見られるという。
音声波形・スペクトログラムの利用は音声学(音響・実験)の手法であるとしても知見とは異なろう。
この実例は言語学の外であり、広い言語学のうちではなおさら「人文科学である伝統と手法」が活かされている。



2019年7月から数学関連の学習として最低でも中等教育レベルを行った上で当記事を投稿する予定であったが、絵や音楽に関連する作業と調査(個人的な興味として地理・気候・植生などもある)に追われて、全く実現されなかった。
言語学への関心も遠のいてしまったので、この記事は2019年8月10日現在、明らかに下書き状態の範囲が広い。
7月20日~8月9日の20日間には、100文字も加筆編集できなかったろう。


2019年7月15日月曜日

科学・文学・音楽・美術 個人主義や自由主義のためのリベラルアーツと芸術運動

私がそうであるように…、改めて、ひきこもり(引きこもり・引き籠り)・ニートの人々はインターネット利用可能の限り、家で静かに学問や芸術をすべきであることを付言する。
「ひきこもり」定義は通念上のものと、個人の自覚によるものと多義的であるが、ここでは特に前者と後者の一致を重んじる。
親(経済的な保護者・扶養者)と一緒にいる者のうち、親と不和である者は、それでも忍耐強く・実直な努力をするとよい。
独居で生活保護を受ける者は、行政から就労支援を勧められても、機械的に処理しつつ、忍耐強く・実直な努力をするとよい。
ああ、実際に私のような努力をする人とその可能性ある人は、世間一般を概観するにつけ、千人に一人いるかも疑わしい。
とはいえ、改めて説明したく思う。

学問や芸術を行うこと、その目的を何にするか?
これはまた、各々の人生経験・人生観・死生観・価値観から決めればよいと思うし、まだであるならば好奇心の向く範囲内での努力の結果に自ずと見出せるとよい。
苦しみの心を自覚するならば、その解放を目的とすべきである。
つまり"id est"、自由主義・リベラリズム"liberalism"の原義であるラテン語"libero, liberare"を志向した手段とすべきである(辞書的な語源はフランス語libéralisme<libéral<ラテン語liberalis<liber<印欧祖語*h₁lewdʰ- "people, to grow"となるので私の思想的な語源になりそう)。
リベラルアーツ"liberal arts"とリベラリズムは直接関係しなかろうが、個人の意思や精神の表現の「手段と目的」という関係性そのものに通じる。
リベラルアーツとは、古典的な定義で3つの技能"trivium: grammar, logic and rhetoric(文法・論理・修辞)" + 4つの技能"quadrivium: geometry, astronomy, arithmetic and music(幾何学・天文学・算数・音楽)" = 7つの技能 (skills, arts; artの語源はラテン語ars) を意味しており、内容は表題にあるものと重なる。

しっかりと断っておくと、個人主義や自由主義は「ジコチュー(自己中心的)」とか意味論的和製英語での「エゴイスト・ナルシスト(ナルシシスト)」という意味で捉えられるべきでない。
…、両主義者のうちに半ば重なる例もあるが、ここで客観的にそうかどうかを論うべきでなく、単に「苦しみからの解放」などについて個々人が自ら斟酌できることを望む。
端的に、個人主義"individualism"は「互いの個性・人生を尊重することで自身の個性・人生も尊重されることを志向すること」、自由主義"liberalism"は「互いの自由を侵さないことで自身の自由も侵されずにあることを志向すること」と解釈してもらおう(全体主義の共産主義やナチズムといった反例を参照。相互に意味が異なる経済学や社会学や政治学での見解も参照すべきだがここでは詳述しない。まあ日本の和・仏教の中道によればそういうリベラルvs.保守のような西洋思想の両極端および和や中道それ自体への固執を排除してこそ平和・寂静・自由自在ということかもしれない)。
こう理解すれば、感情的に孤立を求める姿勢を個人主義とも言わないし、他人へ傲慢なふるまいをする姿勢を自由主義であるとも言わない(特に後者の姿勢については犯罪を自由に行うと牢獄に入れられるという古来の人間社会の特徴によって考えると、犯罪をしたがる者が不自由な牢獄で苦を感じずにいる道理が無いことでも分かる。脱獄は稀な者しかできないし苟も脱獄したところで心が安らぐ時が無かろう。そもそもどんな状況でも苦の無い者が犯罪をしたがる精神が有り得ない。荒唐無稽な可能性として外的なマインドコントロールくらいになる。芸術については特に風刺画などでの政治的な主張が芸術を利用した芸術の外の行為=外道であるかその当事者に得させる刹那的な幸福を精神的に良くないと私は思う)。
学問や芸術は、その実行者たちのうちに精神的な苦を強めて精神障害を抱えたり、自殺する人もいたが、彼らは彼らの行為・経験の結果にそうしたものである(弟子や家族や職業に恵まれていてもそうなる)。
一応、興味があれば実例を学んでもよいと思うが、結果的に「じゃあ自分はどう努力してゆこうか?」と省察する糧にせねばならない。

「苦しみからの解放」ということは、私が仏教の学習を通じて得た人生観である。
仏教に依拠するならば、芸術・学問・リベラルアーツというもの=才芸が強く介在すべきでないことは明確であるし、自覚もある。
例えば、私の仏教学習の初期に日蓮系宗派・新興宗教を学び、日蓮大聖人や彼が尊敬した高僧の一人である伝教大師の言葉にも「仏道修行者は才芸を用いるべきでない(あるいは…才芸に長けているからといってその人を尊敬すべきでない)」という意見がある。
無論、彼らも上代日本・中世日本において十分に才能がある人たちであったろうが、その彼らこそが言う。

伝教大師最澄の願文「自未得照理心以還不才藝(意訳: 真理を観る心を得ていないうちは才芸を行わない、ということが二つめの誓願である)」

日蓮大聖人の御書…頭に浮かんだフレーズの典拠不明。他に似たものには下記。
唱法華題目抄「但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」
阿仏房御書「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経なり。今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」

2018年以降、一旦、その方から外れている。
それまでに私は、単に一人の人間 (個体 of ヒト属ヒト Homo sapiens sapiens) として真理の探究を志向していたのであって自身のアイデンティティをニート・ひきこもりであると仮定していなかった。
今は、ニート・ひきこもりである社会的な現実性の観点で芸術や学問の各分野を行い続けている。

因縁によって概念・名称があるが、それは仮名と見られる。当記事注: 当該記事に示されたように中論の24:18偈 = yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe | sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā || ”衆因縁生法 我説即是無
亦為是仮名 亦是中道義”の要約である点に注意。
私は「中卒・無職・ニート・引きこもり」とも名乗るし、釈尊は「釈迦族の人・瞿曇・ゴータマ"Gotama, Gautama"・聖者(牟尼・ムニ"Muni")・覚者(仏陀・ブッダ"Buddha")・応供(阿羅漢・アラハント"Arahant, Arhat")」という名を用いる。
私は自ら、言語学者とも名乗り、閑居求道者(げんごぐどうしゃ)とも名乗るが、人間という存在は、それらの肩書きに収まる存在であり、なおかつ肩書きに制約された存在でもない。
「仮名(仮に名付けられたこと)」に執着があるべきでない。

私には「中卒・無職・ニート・引きこもり」という仮名があり、または「シンガーソングライター・イラストレーター・フィロソファー・サイエンティスト・オカルティスト・ロマンティシスト」という仮名もあろうが、「仮名(仮に名付けられたこと)」に執着がないと考えたい。

関連記事
2018年1月21日投稿『道心あるニート・引きこもりの修行における障壁』
https://lesbophilia.blogspot.com/2018/01/neet-hikikomori-shugyo.html



表題にある「芸術運動」ということについて注記しよう。
「芸術運動 (art movement)」とは、ふつう、「芸術分野・芸術領域のうちでの (inside, within) 運動」を意味しており、「芸術行為を用いた (with) 運動(特に社会的・政治的・哲学的な傾向が強い)」ではなかろうが、ここでは両方の意味がこめられる(双方向・共依存・一体不可分)。
大衆音楽・マンガ・アニメなどの商業的な風潮・商業主義に疑問のある人々は、是非とも自己表現の手段として音楽・美術を行ってほしい。
このための簡単な考え方を示そう。

「大衆音楽の歌手・アイドルとその作品は商業的に生産されたものであり、歌手・アイドルが作詞・作曲を自発的に行う権能が無いか許されていない。シンガーソングライターは稀である。多くの場合に大衆音楽は自由な創作性から乖離した商業主義・拝金主義の姿勢である」

「某イラストレーターは『自分から企業に仕事を求めよ=自分を売れ』と発言して『インターネットで”お仕事募集中”である人』を愚弄したが、彼は給料のためのイラスト技能を自慢することになる。しかし独立的な人は他人から仕事などというものをもらわずに自給自足できる。某イラストレーターは自由な創作性から乖離した商業主義の傀儡である」

一昔前だとそうであるが、今はSNS等が個人主義・自由主義を支える結果があり、彼らの自己表現の自由度が上がっているという側面も、社会科学を行う者は考慮したほうがよい。
いずれにせよ、お金稼ぎよりも高く「自己表現の手段」が意識されたい。
常時これを意識せよ、ということでなく、単に必要な時、反省や他者への説明に顧みられよう。
そうして各種芸術行為をすることは、現代日本的な全体主義・商業主義・資本主義のもとでの芸術行為に一つのアンチテーゼを提示することになる。
「社会貢献・奉仕活動」といった旧来からある世間のしがらみと別の立場であるが、またしかし、こうした個人主義・自由主義の立場の芸術も、インターネットなどで公開される限り、同じく社会のうちでなされるものであることを忘れてはならない。

関連記事
2014年12月11日投稿『"手の届かないモノ"への空虚な夢想を断つ』
https://lesbophilia.blogspot.com/2014/12/blog-post_11.html

2016年3月16日投稿『SoundCloudの夥しきスパム"Spammers"の問題と、音楽の世界的な没個性化についての雑感』
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/03/soundcloudspammers.html

2016年5月22日投稿『商業主義的アニメ・キャラクターの宗教性』
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/05/idol-and-idea.html

2017年2月4日投稿『2016年末から年明け後もYouTube・外部サイトで多めに投稿』
http://deathmetal.blog.jp/arc/Jan-20-2017.html



また、インターネットでの言論に資するためには、言語的な技能 (trivium; grammar, logic, rhetoric) を用いて民間レベルの科学研究を進めてほしい。
「科学 (science, scientia)」とは、過去記事 (2019-05-16) に説明が済んでいるように、典型的な理系学問・理科や自然科学に限るものでない。
現代日本人になじみ深い「理系・文系」という二項概念は、用法が乱れて曖昧模糊であって日本でしか通用しないし、そもそも個人の意欲にならった学問の行為に無関係であるから重視されるべきでない。
どうあっても人文科学から自然科学まであらゆる科学の専門家・研究者に匹敵することは無かろうが、民間レベルで言語の自覚や科学知識の向上を資することは可能であるし、それで自身も世俗的な範疇で自信を持つことができる。

私は、この3年ほど、更新頻度を少なくしている傾向にあるが、これに色々な理由が考えられるにせよ、一つには「みだりに語らず、静かに・黙っているべきだ」という考えに従うためである。
インターネットで不必要に多くの情報を流して錯綜させるべきでないと思う(その行為が恥になるかどうかは当人の感性にもよるしここで断言しない)。
メディアリテラシーということを重んじるべきである。
学問で大事な姿勢は西洋の科学史などから縷々と示すこともできるが、ここであえて中国の古典から挙げるならば「尽く書を信ずれば則ち書無きに如かず(孟子・盡心下 引用: 盡信書,則不如無書)」、「学びて思わざるは則ち罔し、思いて学ばざるは則ち殆し(孔子・論語・為政 引用: 學而不思則罔,思而不學則殆)」というものであり、各種研鑽から科学研究まで、これを重んじるべきである。

論議・論争に関することも、おおよそ積極的な加担がされるべきでない。
精神において、勝敗や優劣の茨(泥沼)に入ることを欲すべきでない。
私のことを話すと、誰かを叩きのめしたくて活動をしているわけでない。
反対に、固定的な信念や目的を有しているとも断言しづらい。
自身の活動の意義などは、たびたび書いたことと思うし、ここで詳述しない。

2016年以降に私の言論行為は(曖昧な範囲の過渡期にはその傾向があるとして):
 私の意見であることの明示・事実提示などを峻別して、される。
 当面の目的が明瞭である状態で、される。
その限りで、個人主義や自由主義と、社会貢献と、精神修養との中庸の姿勢がある。

関連記事
2014年10月10日投稿『ニートの新世代「ネイティブニート」を提唱!』
http://masashi.doorblog.jp/archives/40633597.html

2016年10月21日投稿『事実認識の相違、思想や意見の対立でヘイト感情…世俗上の中観法』
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/10/heretical-dogmas.html

2017年1月16日投稿『本来的・本質的に「優しい心・思いやり」が人間に備わっている事の理の論証 ~ 2つの真理』
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/01/dualism-of-truth.html

2018年9月24日投稿『動画「引きこもりによる芸術・宗教活動と人権・人道」』
http://masashi.doorblog.jp/archives/52483964.html

2019年5月16日投稿『科学的なこと(物質的な客観性と学者の精神・方法論)・学術の方向性』
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/05/glossaria-scientia.html





起草日: 20190602

当記事ではニート・ひきこもりが行うべき学問・芸術を示した。
過去には宗教を主要にしていたし、今であってもその話はされてもよかろう。
生い立ちなどで負の自覚のある人たちでも、結果的に今も生きていることに恩恵を感じられるための芸術・学問・宗教である。
芸術・学問は先に仏教徒・高僧の言葉が引用された通り、才芸・利根の類なので、無理だと感じる人もいるであろう。
宗教としては、そういう人であっても、現世における各々の知能・精神に相応する学習や努力の後に良い果報が得られることを説いてもいるし、私の過去記事から仏教・キリスト教で説かれたことを色々と探してみるとよい。
殺人鬼アングリマーラ、先天的障害者チューラパンタカ、その他・・・。

再び人文科学と芸術の話が混ざるが、私の"Dominus Immensus (萌えの典籍の派生作品)"というラテン語歌詞・音楽動画を上記月間に「歌える中古日本語・翻訳版 (v1.01 based)」と「改訂版 (v1.02)」の2本で投稿した。
人間関係などに関しても、研鑽に関しても、忍辱・忍耐・堪忍を行ずるためには、「不可量であること」を思う障礙尊者になりきってみたい。



上記月23日に『ニート・ひきこもり学問芸術「紀要」 (事実上のVol. 2)』と題する動画を投稿した。



link: https://www.youtube.com/watch?v=L1bhNGgV_bE



上記月28日に日系アメリカ人2世の「マコト・フジムラ"Makoto Fujimura"」という芸術家のTwitter, ツイッター・ツイートを見た。
彼の父親は「藤村靖"Osamu Fujimura" (2017年没)」、私の一研究分野である言語学・音声学で先進的だった(というが藤村靖さんを当日知ったばかりで詳しくない)。
その次男(?)にあたる彼のツイートの一つをご覧いただきたい。

海外で学ぶことを望まない日本の若者について"Hikikomori nation"という一言で反応。

既知!論外!勿論。
彼の他のツイートでありえない、当該ツイートは2019年6月28日 (JST) 時点でリツイート・いいね数が0である(画像中に説明)。
私は(公然とツイッターを行わないし単発アカウントを作っても見苦しかろう)コメントを個人的なメモとして残す。
My comment: (字数に制限あり)
Masashi Yokono, he is a hikiko-
mori. He interests international
learning. Fields he does include
your father's field (phonetics).
(Methinks)
"Hikikomori" that you say/define
is not relating him. You Artist
should not mention social topics
and "hikikomori".

(What is "Hikikomori" that you say/define? Is he a "Hikikomori" that you say/define?) ※世人の混乱した定義"confusing definition"で私はひきこもりか否か?しかしそれは関係が無い。私はニート"NEET, Not in Education, Employment, or Training"であってひきこもり"hikikomori"であると自負する。世間の人がどう階級・身分を定義しても、私は全てに該当して該当しない。

国内の日本人同士でも修羅のようなレッテル貼り・カテゴリー化"categorization"・同質化・等質化・均質化"homogenization"(これらは他動詞transitiveの行為名詞nomen actionisで私は用いる)をするわけだが、海外で生まれ育った人であっても、似たような考え方をする。
芸術家とされる彼がそのように野暮な話題・言論を行うならば、彼は芸術家としての魅力と本質"nature, essence"を自ら損なう。"He is not artist or other professional, just... (neither X nor Yは排他や双数に関する表現なのでここには使えない)"
これは私の意見である。

以前もインド在住の日本人女性「メーダーみちか"Medha Michika"」という人物のブログ(記事は2015-03-28)で、似たような一文を見ている。
他にはオーストラリア・タイで幼少期を過ごして東京都知事選挙に2度立候補(私が埼玉県内に住んでいる2011年4月までに政見放送をNHKで視聴)した「谷山雄二朗"Yujiro Taniyama"」氏も、インターネットで「ひきこもり」を現代日本人全般への侮蔑に用いていた。
「マコト・フジムラ」と「メーダーみちか」と「谷山雄二朗」はいずれも余分な一言でひきこもりに言及したことになり、現実のひきこもり(英語だと無冠詞複数形hikikomori people)に無関心であると私は拝察する。
このような言説(匿名掲示板などの投稿に似る)は無粋であり、非建設的であり、実りなく、現代日本人の一部が持つ「海外に興味が無い」という気持ち(内心の自由・職業の多様性="freedom of thought, academic freedom, economic freedom"に該当するし村には村の伝統や生活がある)を理由にひきこもり認定をされることを望まなかろう(逆に海外どころか世界ありとあらゆる事物・概念に興味を持ちながら人生の目的を確固とするひきこもり生活の私は何者か?学校ならHarvard, MIT, Oxford, Cambridgeなどに限らず広く興味がある)。

彼らは無関心・浅学である限りに黙っている方が賢明である。
雑談さえ、名前のある活動の下で公的に行うべきでない。
i.e. 「自由"freedom"」の範疇にあるべきでない。

原因と結果の短絡的な同質化・等質化・均質化"homogenization"が、社会人・シャカイジン様のみならず芸術家・宗教家にも見られるので、時折、退廃的"It is decadent"と私は思う。
芸術家・宗教家を含む大衆は、確かにニート・ひきこもりの人権"human rights"が無いものとバイアスがかかるが、それは生物学的な矛盾・社会学的な矛盾・歴史的な過失 (cf. Homo sapiens, Capital punishment, racism, such as The Holocaust and Armenian massacre) を擁している。
日系人とその子孫に限らず、海外の人々 (people live in overseas) も、そういう傾向は有ろうことを、今までにインターネットの随所で見出した。

ネット上の傍観者たちは、ニート・ひきこもりに面識ある者が僅かであり、あまつさえ実際のニート・ひきこもりが科学的に定量的研究"quantitative research"がされていない現状で、誤った一般化"faulty generalization"などをし、軽薄な言及をするように見える。
社会にニート・ひきこもりは実在するので、社会人たちはLGBTやキリスト教国におけるムスリムなどのマイノリティを尊重したがることと同じく、ニート・ひきこもりを妄りに・濫りに比喩表現で用いるべきでない。
人間社会には、問題を濁す者が多きに過ぎる(万象のうちの単なる現象に過ぎない何かを問題視する者たち自身がその問題性を曖昧にする)。
実際のニート・ひきこもりは露出せず、当事者たちにニート・ひきこもりアイデンティティが無い(有ってもネガティブな感情に変換する者が多い)。
多くのニート・ひきこもりはサイレントマジョリティに属しており、私のような研究者は現れない。
当記事で語るまでも無く、種々の社会問題の理想的な解決などありえないからこそ、あらゆる階級とも異なる立場で私が研究する。
急進的解決は不可能であり、ニート・ひきこもりの定量的研究にも近道は無いからこそ、当事者の中でも唯一私が「隗から始めよ」として身近なレベルで行う。

ニート・ひきこもり諸氏は、人間文明が概して差別・偏見に満ちていると知り、他者よりも自身の心の差別・偏見を照らし出してみるとよい。
本文で既に挙がるリンクの一つに維摩経などを引用して私はこのことを説き終えている。
仏の心・浄き心では、そのように差別・偏見がこの世に満ちていないことになる。

私には目的が有るようで皆無でもあるが、一応、世間の愚かしい対立が和(やわ)されることを願って記す。
多くの社会人たちは何かを問題視してその問題性を忘却するし、彼らは全人類への慈悲やシンパシーなどを持たないし、私はそれらが事実であってもなくても構わない。
ニート・ひきこもりの自覚ある者たちは現代文明で経済的な庇護を受けて生きる限り、芸術や学問の行為を個人主義"individualism"として行うことを、私は当記事で推奨している。



当記事であえて言及しないでいた2019年5月に発生した川崎20人殺傷事件の犯人「岩崎隆一」さんがどうひきこもりであるか、私は説明しない。
同じように私が201213年にブログで取り上げた愛知県豊川市「岩瀬高之」さん、私が2013年から存在を認知していた外出して集団ストーカー記録を行い続ける愛知県岩倉市「岩間好一」さん(派遣社員時代から逮捕歴あり。2019年6月に交通事故に遭う)についても説明しない。
彼ら個人が何であれ、ニート・ひきこもり諸氏は、人間文明が概して差別・偏見に満ちていると知り、他者よりも自身の心の差別・偏見を照らし出してみるとよい。
本文で既に挙がるリンクの一つに維摩経などを引用して私はこのことを説き終えている。
仏の心・浄き心では、そのように差別・偏見がこの世に満ちていないことになる。


2019年6月14日金曜日

説明用の図の区分、文字配列図・数式・想像図・概念図(抽出図)・写真

目的別に図を用いることは、説明の理解のしやすさに貢献すると思う。
以下に、説明の目的としての図 (diagram, chart, graph, 表 table) の区分を示す。
それらは一般的であるよりも私による区分である。
それらの基準は外見的特徴(例は折れ線グラフ・図形・樹形図など)と少し異なる。



アート込み
文字配列図…その人が持つ概念"concept"とそれらの関係の抽出・抽象"abstract"であって文字や最小限の記号のみで表された。記号を含めても含めなくても文章表現のみでこの図の機能は可能でもある。文字の大小によって統計結果の提示に用いることもできる(cf. ウェブサイトにおけるタグクラウド 応用1例)。
当ブログでの例は2017-06-20画像4, 2019-05-16画像1

数式…数学・自然科学・精密科学で多様に用いられる。証明のために示されることが多い。この証明とは科学的な意味での証明と思う。一部の自然科学・精密科学は、当然、観測などの実験行為を求められもする。少なくとも、理論が確かであると承認されるきっかけになりやすい。

概念図…その人が持つ概念"concept"とそれらの関係の抽出・抽象"abstract"である。その目的性が数式とは異なるとして、それを私は捉える。つまり、証明のためというよりも説明の手段として理解を促す目的であろう。
当ブログでの例は2016-12-082017-04-102017-06-20画像3

modeling modeling parabola chart diagram graph table
概念的想像図…"concept"そのものではなく"conseptual"概念的なスキーマ的な提示である。それらの図はモデリング"modeling"の一種であり、概して近似的 (approximative, approximate; approximation) である。仮定や説明の手段などに用いられる。
当ブログでの例は2019-04-06画像4

想像図…その人が考えていたり認識・記憶しているたりする事象の譬喩(比喩)的な提示である。幾何学的な簡易性の無いイラストレーション"illustration"もよい。その人自身の満足によいが、その人自身でも表現に難があると意識した場合には自ら疑問を残す。うまく扱えれば、他者の理解や興味を誘う。
当ブログでの例は2019-02-03

Bibliotheca Polyglottaからの転用
写真…何かしらの事物の証明に用いられやすい。先の想像図の代用にもなる。その分、読み手は捏造や杜撰な利用に注意を要する。証明バイアス(造語)のようなことで、証明の意味を求めるような精神性にも注意を要する。ちなみに他の図を撮影した写真は、その目的で用いられる限り、写真でなく「目的別の図」に区分される。
当ブログでの例は2017-11-20, 2018-04-20



しかしまた、多用すると冗長な場合もある。
それは「オッカムのかみそり Occam's razor (オッカムの剃刀、節約の原理)」として、適宜に省くこともありえる。



このように概要を述べる私は、2018年以前に「必要な情報を言葉で示したり、外部サイトの詳細または客観的な情報を示せばよい。図を載せるにも外部サイトにあるものはそのリンク程度でよい」という考え方で、図を用いない形式の論文を主要にしていた。
これには、宗教学などで古典を閲覧し続け、そこで、基本的には図(圖)が無いことと、図がある場合も特殊であるか・特定の系統の文献に限ると判断していて同じように私もブログ記事・論文を作ればよいと思った経緯がある。
他方、2015年に始まる「日記メモ」では「証拠写真」のようなものを可能な限りに掲載する。
もともと(2010年から)顔出し動画投稿者のポリシーがあるためである。
2013年から本格化したお絵描きでも、「練習である」とされる絵を可能な限りにインターネットで公開する姿勢がある。

しかし、宗教学など人文科学の学問に関する活動では、私の研究対象の特性上、写真などを用いる必要性が無いことが多いし、図 (diagram, chart, graph)・表 (table) も同様である。
誰かの著作"Quaestiones et decisiones in
quattuor libros Sententiarum Petri Lombardi"
とされるものに載っている
その発言 (Wikimedia commons)
当然、必要性を感じる場面では、パブリックドメインらしい写真・図・表などの画像を引用(私が引用に利用した二次的な情報源も提示)する。

「必要性」と「多用すること」について、その「オッカムのかみそり」に関する格言で"Pluralitas non est ponenda sine necessitate (多数であることは必要性なくして仮定されるべきでない)"と言われている。
他に似たようなフレーズを載せる→"Numquam ponenda est pluralitas sine necessitate", "Entia non sunt multiplicanda sine necessitate"。
言葉を用いた者=オッカムのウィリアムという神学者 (William of Ockham c. 1287-1347)が「中世ヨーロッパのスコラ学の普遍論争の唯名論」に関与していたという前提知識が必要かと思う。
唯名論 (nominalism) とは、個々の事物=認知客体 (object) がカテゴリー化・普遍化される本質は無い(客観的な普遍性は事物ごとに定まっていない)としているそうであるが、彼自身が唯名論の人か私は判断しづらい。
彼の思想には、「明らかに存在すると分かるものや聖書に示された神の存在について過剰に(余計に)説明しなくてよい(要旨がSpade, Paul Vincent 1999 = ISBN 052158244X p. 104. にあると英語版Wikipediaに示される)」という見解があったろう。
インターネットで彼についての典拠と一次文献とを閲覧することに困難さがあるが、興味のある人が各自で調査すればよいと思う。

有名な発言や格言は、その帰せられ方の事実性に懐疑が起こりやすい。
先の発言が彼に帰せられるが、実際はそうでないと言う。
実際に誰かと言う議論がされると、特に、彼よりも20年ほど早く生まれたドゥンス・スコトゥスJohannes Duns Scotus とされる
発言の典拠が何かといえば、私が調査可能な限りでは「誰かの著作"Quaestiones et decisiones in quattuor libros Sententiarum Petri Lombardi"」である。
内容は基本的に誰かの質問にドゥンス・スコトゥスが回答する、Q&A形式(問答)であるが、話題の発言については質問の箇所"Proponitur quaestio. - Utrum Angelus possit moveri in instanti?" (大文字Angelus = Angel of the Lord 主の使は立っている場所で動かされることができるか?と直訳) のだいぶ後になる。
Ostenditur non esse necessarium quod Angelus in instanti temporis discreti moveatur. Dico ergo ad quaestionem quod quia pluralitas non est ponenda sine necessitate, et non est necessitas quare clebeat poni tempus discretum mensurans motum Angeli, nam quicquid salvatur per illud tempus discretum salvabitur etiam per tempus continuum in communi, sicut enim oportet eos dicere quod si transeat in instanti, non potest immediate habere alium transitum instantaneum, ita potest poni si transeat instantanee in instanti temporis continui, ita quocl licet post illud instans possit habere motum continuum in tempore habito, non tamen potest habere transitum instantaneum irnmediatum; non ergo est inconveniens ponere Angelum in quantum participat conditionem corporalem, id est quae potest esse eiusdem rationis aliquo modo in ipso et etiam in corpore, quod etiam participet mensuram corporis aliquo modo: in quantum autem movetur localiter participat ubi, quocl est conditio et passio corporalis, aliquo modo eiusdem rationis in ipso et in corpore; ergo etiam potest mensurari mensura primi corporis moti.
 - 1912年の Commentaria oxoniensia 出版物から抜粋

後世に定式化した「オッカムのかみそり」を好む科学哲学などでの脈絡から、改めてその言葉"Pluralitas non est ponenda sine necessitate"を意訳すると「不必要に多くのこと(仮説を証明するための条件)を仮定すべきでない」となる。
私は、西洋哲学・科学哲学を学ばなくとも、宗教学を行う間に、似たような感覚が身についていた。

当記事の話題からすると雑学であるが、かのアルベルト・アインシュタインさん Albert Einsteinが「理論はできるだけシンプルにすべきだが、しすぎてはならない "Everything should be made as simple as possible, but not simpler." (123)」と発言したとして人口に膾炙する元ネタは、1933年7月10日"On the Method of Theoretical Physics (於オックスフォード)"での発言だという。
それは1934年の出版物に載る形で"It can scarcely be denied that the supreme goal of all theory is to make the irreducible basic elements as simple and as few as possible without having to surrender the adequate representation of a single datum of experience." (Philosophy of Science, Vol. 1, No. 2, p. 165., 英語版Wikiquote参照) とあるそうである。
人口に膾炙した後との意味の比較を各自で考えるとよい。



当記事の話題は西洋哲学・科学哲学ではなく、説明用の図の区分と図の多さの必要性であろう。
そのために、当ブログにおける回顧や、行為の展望がある。

当記事の趣旨を記す。

  • 目的別に図を用いることは、説明の理解のしやすさに貢献すると思う。
  • しかし、多用すると冗長な場合もある。
  • このように述べる私は、従来からそのように考えてきたが、最近では掲載を増やそうと望む。

Occam's razor pluralitas
2019年6月9日・作「説明には余分なるの図」



起草日: 20190529

途中の部分について本文中に挿入しなかった記述↓
※私は唯名論について仏教でいう空のうちの一面(空"suñña, suññatā , śūnya, śūnyatā"といってもパーリ〇空経MN121-122でのそれとか人法二空とか十八空とか色々な説明が可能なので本当に一面のみ)に比較しようとした。私は科学哲学用語と無関係な様態における神学者オッカムさんについて仏教やインド哲学の論理学・因明 (hetu-vidyā) の量 (pramāṇa プラマーナ) が一般には三量=現量 (pratyakṣa-pramāṇa) 比量 (anumāna-pramāṇa) 聖教量または正教量または至教量 (āgamaまたはśabda-pramāṇa) であることに関して「四量・譬喩量 (dṛṣṭānta-pramāṇa) などで詳細に語る必要が無い」という論者もいると書こうとした。因明のうちで陣那 (じんな・ぢんな dignāga ディグナーガ) さんは聖教量を否定した(成唯識論本文抄に云く「陳那門人師資相順故亦不立彼聖教量」)ということは、科学哲学でのオッカムのかみそりと結び付けられるべきか(人間の受動的な知覚された物事の理解や信用ではなく、やはり学者や修行者らが科学・宗教などの目的は何であれ真理を求めるときの能動的な懐疑が関係するようである)。11世紀以前の漢訳文献を探して頻出しない語句もあると分かったが、私の調査方法の問題かどうかも判然としない。この調査を放棄した。