英語圏以外では、ヨーロッパの多くの国・言語圏がイギリスと同じ「日月年 (D/M/Y)」を用いる。
このような、日本人や東アジア人から見て「逆転された順番」は、日付の数字のみならず、言語表現の随所に見られる。
「富士山(Fuji-san, Fuji-mountain)」は"Mt. Fuji, Mount Fuji"となる。
ただし、「日本海」は"Sea of Japan"、「マン島」は"Isle of Man"として前置詞"of"を伴うので、今は異なるパターンと考えよう。
「安倍首相」と「トランプ大統領」は"PM Abe (Prime Minister Abe)", "President Trump"となる。
人名においても、日本人の安倍晋三"Abe Shinzō"は姓・名だが、アメリカ人・西洋人のドナルド・トランプ"Donald Trump"は名・姓であるため、もし日本人を西洋で表記するならばシンゾー・アーベイ"Shinzo Abe"となる(姓はsurnameやfamily nameといい語順の観点において西洋では「ラストネーム"last name"」だが日本では「上の名前"upper name"」)。
地名表記・住所表記においても、「東京都千代田区千代田1-1 (皇居の所在地)」は"1-1 Chiyoda, Chiyoda, Tokyo"となる。
これらの「逆転された語順」は、ラテン語の同格表現(英語で"apposition" 同格・同位・併置・並置などと翻訳される)における語順を慣習的に用いたものと考えてよい。
古典ラテン語や教会ラテン語といったラテン語では、"dies illa (その日。dies = 日 illa = それ。文法的に女性名詞・単数・主格が同じ。いわゆるディエスイレ"Dies Irae"の"irae"は単数属格なので異なる)"のような同格表現が、日本語に翻訳された表現と逆の語順であることが多い。
また、そのような語順は、ここで「西洋式」と呼称しよう。
日本語に一般的な語順は、ここで「東洋式」と呼称しよう。
※"dies illa"の"illa (男性形: ille)"は後世のロマンス語系の定冠詞"definite article" (スペイン語el フランス語le イタリア語il)の語源となるような限定詞"determiner"・指示代名詞"pronoun"の用法である以上、同格表現の例としづらくもある。加えて、それは教会ラテン語などのロマンス語と共にある時代の言い回しである。「私たちの父"pater noster"」も"noster"が所有代名詞"possessive pronoun"で形容詞"adjective"のようでもあり、同格表現の例としづらくもある。日本語のカタカナ語で認知された古典ラテン語の同格語は一般的に存在しないので、ここでは古典ラテン語っぽい同格表現を挙げてみる。「都市ローマ=ローマという名の都市"urbs Roma (奪格にするとurbe Romaになる。古典ラテン語の長母音を反映すれば主格urbs Rōmaが奪格urbe Rōmāとなる通り、urbsのみならずRomaも格変化による母音の変化がある)"」(cf. NLG Bennet, C. E. sect. 169)。余談だが、ラテン語と文法的に同種の「同格"apposition"」表現は、梵語系統=サンスクリット語・パーリ語などのインド・アーリア語にも見られる(記事末尾を参照)。ラテン語でも梵語系統の言語でも、王の名など肩書を伴った人物の呼称には極めて高い頻度で同格表現が用いられる。英語では"King **"のみならず、"** the King"のような東洋式の語順で定冠詞を介するパターンもある。
※カッコ内に先述のように"Dies Irae"の"irae"は、"ira"の単数属格であって"dies (単数主格)"と格"case"を異にしている。しかし、意味論的に同格表現と考えられるべきであり、その際に用いられる属格が「同格の属格(説明の属格とも)"appositional genitive, appositive genitive"」と呼ばれる。英語での日本海"Sea of Japan"やマン島"Isle of Man"も、格変化なき英語とはいえ前置詞"of"が「同格の属格」を表現している。ただし、当記事でいう同格表現とは異なるものと便宜的に区別される。
※もちろん英語の"President Trump"を日本語は「トランプ大統領 Toranpu Daitōryō」のみならず「大統領トランプ=大統領であるトランプさん」のように西洋式の語順を借用すること(loan)もできると留意されたい。有史以来、日本は漢訳仏典から間接的にインドの言語の影響を受けて似たような表現をしてきた可能性もあるが、それは希少であろう。
ラテン語の同格表現と同じ語順の「西洋式」の表現が、現在の英語・ドイツ語=ゲルマン語系統や、フランス語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語=ロマンス語系統や、ロシア語・チェコ語=スラヴ語系統の現代語に、どれほど広く用いられるか不明である。
何らかの「西洋式」の表現が、それらの言語系統においてどれほど古い時代から用いられるか不明である。
イタリア語の料理名や音楽用語の中には、しばしば英語や日本語の一般的な表現と逆の語順が看取される(何とかピザ"*** pizza"=ピッツァ・ナントーカ"pizza ***"や、何たら作品=オーペラ・ナンターラ的な)。
そもそもイタリア語自体、"Lingua Italiana"と自称する名(Italianoという男性単数のみの名称も有る)が西洋式の語順(これは同格表現でなく名詞 + 形容詞)である(英語ではItalian language)。
"Divina Commedia"は、「神曲」というその日本語・中国語(または明治訳語の和製漢語など)での通称と変わらない。
現代のヨーロッパ言語は、一言語内でもごちゃまぜの様相を呈していると思われる。
※ちなみにフランス語は"au"(à le) のような縮約形"contraction"の前置詞+定冠詞が「ガトーショコラ"gâteau au chocolat"」とか「カフェオレ"café au lait"」とかの料理名に含まれるので、イタリア語と異なる。日本語だとカフェオレは「コーヒー牛乳=コーヒー入りの牛乳」でも「牛乳コーヒー=牛乳入りのコーヒー」でも理解できてしまうが、ガトーショコラは"au"の料理に関連した意味に限定させると「チョコレートを混ぜて作られたケーキ(英語: a cake cooked with chocolate)」という語順でのみ理解できる。もし「ケーキを混ぜて作られたチョコレート」だと焼き菓子入りのチョコレートとでもいうことになるか?答えは、元の言語の前置詞の用法に明瞭である。フランス語はあくまでも、前置詞を伴っているので「チョコレートを混ぜて作られたケーキ(英語: a cake cooked with chocolate)」と、規範的な理解のみを許す。
ヨーロッパ現代語では、ラテン語の格変化"case inflection"と性数格一致"agreement, concord"に相当する文法機能が1000年以上前から失われている場合が多い。
古典ラテン語・古代ギリシャ語(アッティカ方言~コイネー)・梵語(ヴェーダ・サンスクリット・パーリ語を含む)には6~8の格変化があったし、現代語であってもスラヴ語派・一部ゲルマン語派にも5以上(非印欧語のフィンランド語・ハンガリー語・バスク語は10以上)の格変化を持つ言語があるが、英語やロマンス諸語は代名詞にのみ5個以下の格変化があり(例外でロマンス諸語のルーマニア語は名詞にもある)、ドイツ語は代名詞と定冠詞の格変化があるのみである。
その点は注意すべきである。
※性"gender (いわゆるジェンダー。梵語・古代インド言語学ではリンガ liṅgaという)"についても現代の英語は中途半端にヨーロッパ古典語の特徴を残している。著名な例として職業名につくような"-man" (梵語manuなどインド・ヨーロッパ言語における同根語はみな男性名詞)という接尾辞は絶対的に男性名詞を作るといい、「女性にもそう呼べば女性差別になる」とか「女性なら"-woman"を使うべきだ」という話が社会的にある。"-man"は漢字文化圏からすれば「人"human being (ラテン語由来のhumanはhomo, 地上の生命"earthling"という原義であって英語man ドイツ語Mann 梵語manuと関係が無い語源の言葉であることに注意。とはいえこれらは古典語で男性名詞である。中性は無生物などになりがち)"」ほどの意味でしかなく、「男」とか「女」という性別それ自体に関わる意味で取られようも無い。顔・声などが認知されないながらに文面から実在すると推定された人物についても"he, she, it"のような三人称代名詞は使えないならば、苦肉の策で"that person"のような熟語か、"neutral he"を用いるくらいしかない。これは言語における社会科学の側面で考えられる課題の一つとなる。日本語や中国語はジェンダーレスな言語"genderless languages"である。英語をはじめとしたヨーロッパ現代語には今でもそのような文法の性の男女別異があるため、"gender-neutral language"という立場で表現を中性的にする努力もある。しかし、無生物の単語である「海」を意味するラテン語mareは中性、その子孫イタリア語la mareは男性、フランス語il merは女性であるような特徴が、英語には無い。そもそも英語にはラテン語のような形容詞の男女性変化が無いのだから、職業名のための男女名詞区別はナンセンスである。「"-man"が指すものは男だけだ」という固定観念を捨てて潔くジェンダーレスに切り替わればよいが、日本人の言語感覚では量り難いほどに文法の性の男女別異の根が深いようだ。言語の性差も、日本語や中国語のような必要最低限の程度に、いずれは減らされて東洋式になるかもしれない。
ともあれ、現代語は、ラテン語以来の「西洋式」を現代でも守り続ける傾向がある。
果たして、ラテン語と文法が合わないか、ラテン語と疎遠になってきた現代語において、いつまでもどこまでも「西洋式」を用いる必要が有るか?
●日付表記における東洋式の合理性
日付に関してはデジタルな領域において、内部の処理では「年月日」が常識的に用いられる。
ただし、ウェブサイトの表(テーブル)やエクスプローラーなどに搭載された並び替え(ソート)機能が西洋式の言語圏では、日付の表示の見かけが「月日年」や「日月年」にされている。
当然、並び替え(ソート)機能で日付の昇順や降順を行う場合、「年月日」がその基準となる。
科学的合理性に倣うならば、日付はどこの国の人であっても「ISO 8601, 年月日8桁方式 (Y = 0000 M = 00 D = 00)」にするとよい。
2018年12月1日(アメリカでDecember 1, 2018)は、20181201 (2018-12-01)となる。
当ブログの「日記メモまとめ記事」の日付表示は、開始当初から年月日8桁方式である(ただしパーマリンクはJuly-2015や後に月名を短縮してDec-2018とする)。
ましてや、アメリカとイギリスという同一言語圏で異なった表記があるとは、非合理的な側面が強くなるし、他の「日月年」の国の人が英語を用いた時であれば、なおさら「月日年」か「日月年」か判断が困難になることがありえる。
もし政治的な主張をする人が"9/11 (9.11)"と知られる出来事=「2000年9月11日のアメリカ同時多発テロ」を単に"9/11"として書いて政治的な主張をするならば、「日月年」の国(ヨーロッパなど)の人が「1989年11月9日のベルリンの壁崩壊」と混同するかもしれない。
●人名表記における東洋式の合理性
果たして、ラテン語と文法が合わないか、ラテン語と疎遠になってきた現代語において、いつまでもどこまでも「西洋式」を用いる必要が有るか?
●日付表記における東洋式の合理性
日付に関してはデジタルな領域において、内部の処理では「年月日」が常識的に用いられる。
ただし、ウェブサイトの表(テーブル)やエクスプローラーなどに搭載された並び替え(ソート)機能が西洋式の言語圏では、日付の表示の見かけが「月日年」や「日月年」にされている。
当然、並び替え(ソート)機能で日付の昇順や降順を行う場合、「年月日」がその基準となる。
科学的合理性に倣うならば、日付はどこの国の人であっても「ISO 8601, 年月日8桁方式 (Y = 0000 M = 00 D = 00)」にするとよい。
2018年12月1日(アメリカでDecember 1, 2018)は、20181201 (2018-12-01)となる。
当ブログの「日記メモまとめ記事」の日付表示は、開始当初から年月日8桁方式である(ただしパーマリンクはJuly-2015や後に月名を短縮してDec-2018とする)。
ましてや、アメリカとイギリスという同一言語圏で異なった表記があるとは、非合理的な側面が強くなるし、他の「日月年」の国の人が英語を用いた時であれば、なおさら「月日年」か「日月年」か判断が困難になることがありえる。
もし政治的な主張をする人が"9/11 (9.11)"と知られる出来事=「2000年9月11日のアメリカ同時多発テロ」を単に"9/11"として書いて政治的な主張をするならば、「日月年」の国(ヨーロッパなど)の人が「1989年11月9日のベルリンの壁崩壊」と混同するかもしれない。
学術論文で出典を示す際に、その本文中に「ハーバード方式"Harvard referencing"」で出典が適用される場合が有る。
それは、"Parenthetical referencing"ともいって本文中における括弧での挿入行為を伴い、括弧内には参考文献の著者の姓と発行年(author-date)のみが表記される。
当記事を出典にする場合、当ブログ筆者の姓「横野"Yokono"」と投稿の年「2019年」のみで (Yokono 2019) と表記し得る。
そして、「ハーバード方式」が適用されても適用されなくても、みな著者の人名が参考文献のリストにおいて「姓, 名(last name, first name 両者はカンマで区切られる)」と表記されねばならない。
その場合に、当ブログ筆者「横野真史"Yokono Masashi; Masashi Yokono"」は、"Yokono, M. (姓に大文字を当てる方式ではYOKONO, M.)"となる。
任意の西洋人名 (a common placeholder name) "John Smith"は、"Smith, J."となる(cf. 英語版Wikipedia - Parenthetical referencing)。
それが人名表記の学術的な基準として世界的に浸透している。
姓は基本的に一つだけなので、これが強調されることは合理的であるためと思われる。
英語ではカーネル・サンダース"Colonel Sanders"とか、プレジデント・トランプ"President Trump"とか、クイーン・エリザベス"Queen Elizabeth"とか、エンペラー・アキヒト"Emperor Akihito"とかと、何の名称のどの部分が姓なのか名なのかその他なのか、言語知識の薄い人には判断しづらい状況も有ることを思えば、学問においては判断しやすく表記すべきことが自明の理である。
※王侯貴族などの高貴な人の名は日本の諡(おくりな)・諱(いみな)のみならず、後述の古代ローマの"cognomen"など、複雑だったり多様だったりする。それ以上に、現代の英語の人名表記は、英語の言語習慣を把握しきれていないと、無茶苦茶であろう。
学術論文に採用された姓の表記は、インド学・言語学などの学者である「モニエル・モニエル=ウィリアムズ"Monier Monier-Williams"(ハイフンの用法に注目)」のような名前(本来の姓WilliamsにMonierが加えられて新しい姓Monier-Williamsとなった)も、学問分野を異にするような初見の人にとって判断しやすい。
彼は学術論文の参考文献のリストで同様に"Monier-Williams, Monier"などと表記される。
著者は誰であっても、西洋人であっても、日本人や中国人や朝鮮人=東アジア人と同じく、人名が「姓, 名(last name, first name 両者はカンマで区切られる)」と表記されねばならない。
これも「東洋式」である。
学問においては、「東洋式」の語順こそが合理的であると断言できるし、すべからくそうあるべきである。
●グローバリズムに言語における合理性を適用する
この「グローバル」とやらの時代であるならば、英語は中途半端に言語の習慣を守ろうとせず、日付と人名との正統な表記において東洋式の語順に統べた方がよい。
日付は「年月日」が東アジアや他の国やデジタルな領域などで用いられても、「年日月」はどの時代のどの言語も用いることが無かったし、英語圏における混乱と同じ現象はほぼ起き得ない。
現代の英語は、ヨーロッパのみならず世界中の言語の影響を受けている。
アメリカ英語の母語話者やイギリス英語の母語話者が他の言語・文化から影響を受けるのみならず、世界中の英語を外国語として用いる者が英語に各々の言語・文化の独自性を持ち込んでもいる。
古い時代でさえ、同一言語の同一性は徐々に失われて緩急はともかく変化しつつあったが、現代ならば尚更、無秩序な変化が起こり得る(人間の体格や顔つきが往古より食文化と共に変化の速度が速まることに同じ)。
無自覚・無意識のままに無秩序な変化が起こることは構わないが、どうせならば、言語を科学的に把握して意図的に変化させても良かろう。
英語は、「グローバル」とやらの時代において、より合理的なものに向上させることができる。
英語の語順は、上記の例について、全て西洋式・ラテン語の同格表現もどきを、東洋式に改めることができるし、その方が合理主義的に好ましい。
無論、これは一つの「言語に関する自覚」を示すのみであり、私の願望ではない。
私が願望は、各々が自ら言語を顧みるようになることであり、そのきっかけを今までもこれからも私はする。
●西洋式の古い慣習的な利点
ところで、「西洋式」の語順がそれとしてヨーロッパなどの言語(セム語派であるヘブライ語・アラビア語などにも見られる)に確立したことには、その原初に利点があったのではないかと思う。
「西洋式」の利点は、発展してゆく文明における言語の用い方(文脈・コンテクスト・コンテキスト"context")を想定した際に挙げることができる。
例えば、昔の西洋や中東の人は名乗る際に個人の名のみを挙げることが多いので、「私はガイウスです(古代ローマの名 praenomen)」とか「私はヨハネです(過去のヘブライ語やアラム語のようなセム語圏に多い名 後世の英語でジョン"John"となる)」とかと言われても、同名の人が多くなる場合に「誰々の子の~(son of who)」とか「どこ出身の~(from where; born in where)」とかと後から言い直す必要がある。
ラテン語的には「ガイウス・ナンタルス(何たら氏のガイウスさん・男性)」とかのようになる。
「ナンタルス」という部分は姓(surname, family name, last name)であり、古典ラテン語を用いた時代の古代ローマでは"nomen; nomen gentilicium"という。
この姓よりも更に後ろに来る"cognomen"もあり、同じ氏族でも家(分家、同じ兄弟でも新しい家族に成ったりするような場合がある)ごとに区別できたりする(cognomenの後ろに"agnomen"がある人もいる)。
姓と名とを備えた人名は、一部の文明において、その内の高貴な人に限られるかのようにも言われるが、それはどちらでもよい。
何らかの言語(そもそも言語の伝播は特定の文化性・経済性・政治性に拘束される)の話者が、そういう人名の名乗り方をしてきたことは考えられる。
地名についても「ここはムーラです」とかと言われても、同名の土地が多くなる場合に「どこ地方の~ (in which region)」とか「どこ国の~(in which country)」とかと後から言い直すことになる。
単に「Aさん: アレはどこにありますか? Bさん: 私の家です」という話であっても「Aさん: それ(Bさんの家)はどこですか? Bさん: ムーラにあります、エムーラ地方の(あえて英訳すれば It's in Mura, Emura.)」と言い直す。
これらは話し手が認知する最も身近な・最小単位のものがまず挙げられ、その後に補足する必要が有れば「誰の・どこの・どのような」といった情報が必要になる。
これはラテン語や英語などで、疑問代名詞と関係代名詞に発音の共通が多いことに通じる(梵語は疑問代名詞と別にयद् yad系の関係代名詞があり、古代ギリシャ語も同様。英語は限定詞・指示代名詞から派生したいわゆる制限用法の関係代名詞thatがある点も注意したい)。
※日付についても「その日は何日です」、「それは何月の?何年の?」として、そういった言語の用い方を想定できるが、現代人だと「私は(西暦)1980年生まれです」くらいが普通なので必ずしもこの話には合わなかろう。東アジアでは干支=六十干支を用いて「〇〇の日」というような場合も多かったろうが、大概は先に「元号〇年」が伴う。
こうした言語の用い方を想定するならば、その言葉のやりとりにおいて、自然と「名・姓」や「都市名・国名」といった「西洋式」の語順が都合の良い場合も考えられる。
しかし、現代文明では、他ならぬ「西洋式」を用いる言語の人たちが「西洋式」の合理性を考え直さねばならない一面を抱える。
西洋の現代語は、ほとんど前置詞を用いることによってその語順で説明ができる。
前置詞を用いない場面では、「東洋式」の語順に切り替えることも可能である一面が多いと考慮できるし、先述の通り「デジタルな領域」や「学術論文」に東洋式が浸透している。
日付の表記においても、先述の通り、「ISO 8601, 年月日8桁方式 (Y = 0000 M = 00 D = 00)」や、その類似の表記が浸透しつつある。
日本人は、手放しにアメリカンスタンダードに迎合せず、東洋式の優れた側面を自覚した方が良い。
西洋人は日本人が思う以上に姓名表記を尊重しているであろうし、日本人や中国人などは自然な流れで東洋式の姓名を用いて問題は無い。
無論、西洋式のような名・姓の順に則る人々に東洋式の順を強いることはできない。
日付にしても人名にしても多くの同格表現にしても、2019年現在、東洋式の使用のために状況を選び、直感的に語順の特徴が意識されやすくなるための配慮を要する。
私は、この「言語に関する自覚」を示すのみであり、急進的な行動を望んでいない。
私が望むこととは、各々が自ら言語を顧みるようになることであり、そのきっかけを今までもこれからも私はする。
起草日: 2019年1月28日
英語の語順・統語論のうち、同格表現の現代的用法(土地・日付・人名など)における伝統的な側面を、当記事で示した。
同格"apposition"とは、その英語の文法用語の語源について考えると、ラテン語の"ponere (直説法一人称能動態単数でappono)"に前置詞もとい接頭辞ad- (~へ、~に向かって、英語: ~に近い)が伴った"apponere"という、単に「置く・並べる・加える」などの意味である(接頭辞ad-は梵語接頭辞ā-と同じように能動的な意味を付加するに過ぎず「同」という漢字の意味は薄い)。
その"apponere"の派生語が"appositio"であり、英語では"apposition"(フランス語と綴りが同じだが中英語の時点ではもっと発音に近いapposiciounだったので後世に修正されたろう)となる。
ただし、ad-が日本語の促音便のように長子音(gemination)となってap-と変化を受ける(古典ラテン語発音でアド・ポスィティオー→アッポスィティオー)。
日本の外来語に「ポジション(位置・地位などの意味)」という言葉があるが、当然、"apposition"の "position"部分に相当する。
何が言いたいかといえば、「同格」という"apposition"の訳語において、「格変化"case change"」という時の「格"case"」は"apposition"という語に見出せないという点である。
ラテン語や梵語など、インド・ヨーロッパ言語(印欧語)の古典語で一般に見られる格変化の道理からすれば、それらの言語で実際に用いられる同格表現は確かに「格"case"」が揃っているので、意訳(semantic translation; free translation)としては「同格」が妥当な場合も有ろう。
しかし、ともすると「格」という言葉を英語知識しか持たない学習者が「格式・品格・人格・性格の格(もし英語にすればstatus, rank, character...)」などと、現代日本人の言語感覚で民間語源的に解釈すること(語呂合わせ)となりかねない。
無論、それでさえも英語しか外国語学習をしない人を対象にする説明としては、理解しやすい場合も有ろうが、小賢しい学習者は誰も腑に落ちないと思われる。
とりあえず、「同格」という"apposition"の訳語については、意訳(semantic translation; free translation)の側面が強いことについて考慮しておきたい。
同格表現に関する様々な情報(辞書・文法書・各種文献)を載せているページがあるので以下に示す。
古典ギリシャ語(古代ギリシア語)・ドイツ語の話題もあるが、そこでは必ずしも同格表現が「同じ格"case"になる」とは限らないことが示されてもいる。
2006年9月1日: 「同格: ta meta ta phonetika」
http://toxa.cocolog-nifty.com/phonetika/2006/09/post_d8b5.html
以下に載せる※印の文は、記事本文に挿入しようとも込み入っていて長くなるので私がそこに掲載しなかった文である。
文献についての検証が不正確でもあるため、興味のある者が各自で検証すると、各自の学習のためにもなろう。
※余談だが、ラテン語と文法的に同種の「同格"apposition"」表現は、梵語系統=サンスクリット語・パーリ語などのインド・アーリア語にも見られる。その語順は「西洋式」の場合と日本語のような「東洋式」の場合とが混在している。梵語系統では、平叙文の「〇〇は××だ」と表現する文においてコピュラ動詞・存在動詞を用いずに「○○××」と表現できる。この「○○××」が梵語系統の平叙文であるならばよいが、これが一文の名詞句に過ぎない場合、同格表現とも解釈できてしまう。梵語系統はラテン語のような西洋式の語順で同格表現をするように限れば、理解しやすい。無論、梵語典籍はその語順の制約を受けていないので、その読解は難しくなる。パーリ語の経典のうち、相応部22.100経の冒頭に「比丘たちよ、この輪廻は無始である"Anamataggoyaṃ, bhikkhave, saṃsāro."」とある。bhikkaveは呼格なのでさておき、Anamataggoyaṃとsaṃsāroはいずれも主格であり、Anamataggoyaṃは連声・サンディの状態をほぐしてAnamataggo ayaṃという主格の2つの単語を読み取ることができる。ayaṃ saṃsāroこそが「これは・輪廻は=この輪廻」という同格表現である。「これ"ayam"」という言葉は単に名詞や代名詞の主格ではなく限定詞のようなものであると取れば同格表現とし難いが、これは日本語と同じ「東洋式」の語順である。同経の他の同格表現には名詞 + 名詞の主格「これは・心は=この心は"idaṃ cittaṃ"」がある。形容詞 + 名詞の処格「強固なものに・柱に=強固な柱に"daḷhe khīle"」もある。同じくパーリ語の経典では名詞 + 形容詞「王は・マガダのものは=マガダ国の王は"rājā māgadho"」という語が見られ、肩書の名前などにラテン語と同じ「西洋式」の表現が見られる(長部2経など)。他に「王は・パセーナディは・コーサラのものは=コーサラ国の王パセーナディは"rājā pasenadi kosalo"」という、英語話者は2・3番目の語の間に前置詞"of"を入れれば理解しやすい例も有る(相応部3.1経など)。「王パセーナディ」とは、漢訳仏典で著名な「波斯匿王(はしのくおう)」であり、漢語・日本語とは語順が逆である。ただし、原点のような「王波斯匿」という語順も少なくはない。「西洋式」の同格表現が他の梵語系統に見られることに興味がある者は、何かしら例文を集めてみるとよい。ところで、複合語の一種である同格限定複合語は、梵語のそれ=持業釈"karmadhāraya (パーリ語でkammadhāraya)"だと「名詞A + 名詞B」の語順は日本語・漢語とそのまま同じであること(e.g. sākyamuni, śākyamuni 釈尊)に対し、片方が形容詞である場合にラテン語(もしくはセム語派であるアラビア語)の「名詞 + 形容詞」の語順が多く見られること(karma + dhāraya 持業釈という文法用語そのものに見られる)も付記する。姓名については、「ガウタマ・シッダールタ=ガウタマ氏(姓)のシッダールタさん」のように日本語と同じである。言語にはイレギュラーな事項も伴う傾向があるので、それも考慮すると、いつも同じことは言えないが、一応、規範的に、梵語系統は以上の特徴が窺える。
※参考までにスペイン語で「イタリアのマッタレッラ大統領 or イタリア大統領セルジョ・マッタレッラ氏」を表現すると"el presidente italiano, Sergio Mattarella"となる。ポルトガル語で「アメリカのブッシュ元大統領(子の方)」を表現すると"o ex-presidente americano George H.W. Bush"となる。同様に「アメリカのトランプ大統領」は"o presidente americano, Donald Trump"である。コンマ (, comma) の有無が例によって分かれることはここで論じない。
関連ワード?: 社会言語学"sociolinguistics" 固有名詞部分の話ではないが地名学"toponymy" 人名学"anthroponymy" 歴史言語学"historical lingustics" 認知言語学"cognitive linguistics" 語用論"pragmatics" 言語類型論"linguistic typology" 統語論"syntax"
P.S. 統語論では、文法事項である形容詞句"adjective phrase, AP"における形容詞"adjective"・名詞句"noun phrase, NP"における名詞"noun"といった句"phrase"を構成する成分である「主要部"head" (e.g. 名詞句に形容詞と名詞があるならば名詞が主要部)」について、言語ごとに主要部の位置が異なるとする。
言語類型論では、当記事に示される名詞句を構成する成分(形容詞や名詞や同格表現)の語順について、日本語は主要部後続型(head-final または主要部終端型)言語とされるので、当記事で対比されるようなラテン語・イタリア語は主要部先行型(head-initial または主要部先導型)言語のように見えるが必ずしもそう言われないらしい(head-directionality parameter)。
英語は、既述の通り混在しているが、主要部先行型言語とされる場合が多いものの、細かい分類では主要部先行型言語とされない(されるものはアイルランド語・マダガスカル語、筆者は詳しくない)。
追記: 2020年4月17日
中英語"apposicioun"という単語は、用例が1ないし0のハパックス・レゴメノンや幽霊語の類であるかもしれないと思った。
または、文法用語として中英語でもラテン語でも用いられた例を私は見たことが無いと思った。
そこで、中英語"apposicioun"の文例を可能な限り探すと、2件見当たった。
この2件が、文法用語として用いられているようには見えないが、何らかの著名な辞書が中英語での語形として挙げるに足る量があることは明確である。
追加で探すと、Middle English Compendium というサイトの項目で、"Hou knos þu a preposicion? A party of spech þe wech ys vndeclynet and ys set before oʒþer partys of spechys togedyr in apposicion and composicion."が載っていたが、これは文法の話題に見える(1450年ころとされる Peniarth Accedence が典拠というが情報が少ない)。
当記事を見直した理由は、以下の報告をブログ内のどこかに—現状は未定だが—記したかったためである:
漢文「A即B」という表現は、しばしば「AすなわちB」と訓読されるが、同じ訓読の「A則B」「A乃B」「A輒B」などと意味–用法で区別される。
漢文「A即B」は「BであるA」・「Bという名のA」という意味を持っていると感じることがあった。
つまり、同格表現の標識–マーカー (appositive marker) ではないかと思った。
これは何らかの文献の文脈から、意味論的に取ることができる。
英語Wiktionary "即" (oldid=58958461)は、同格表現の意味にある"namely; that is; to be the same as; i.e."を「即」の定義の1つに加えている。
そこでは現代中国語と中古漢語といった時代の差が示されていないことに注意を要する。
西洋の現代語は、ほとんど前置詞を用いることによってその語順で説明ができる。
前置詞を用いない場面では、「東洋式」の語順に切り替えることも可能である一面が多いと考慮できるし、先述の通り「デジタルな領域」や「学術論文」に東洋式が浸透している。
日付の表記においても、先述の通り、「ISO 8601, 年月日8桁方式 (Y = 0000 M = 00 D = 00)」や、その類似の表記が浸透しつつある。
日本人は、手放しにアメリカンスタンダードに迎合せず、東洋式の優れた側面を自覚した方が良い。
西洋人は日本人が思う以上に姓名表記を尊重しているであろうし、日本人や中国人などは自然な流れで東洋式の姓名を用いて問題は無い。
無論、西洋式のような名・姓の順に則る人々に東洋式の順を強いることはできない。
日付にしても人名にしても多くの同格表現にしても、2019年現在、東洋式の使用のために状況を選び、直感的に語順の特徴が意識されやすくなるための配慮を要する。
私は、この「言語に関する自覚」を示すのみであり、急進的な行動を望んでいない。
私が望むこととは、各々が自ら言語を顧みるようになることであり、そのきっかけを今までもこれからも私はする。
英語の語順・統語論のうち、同格表現の現代的用法(土地・日付・人名など)における伝統的な側面を、当記事で示した。
同格"apposition"とは、その英語の文法用語の語源について考えると、ラテン語の"ponere (直説法一人称能動態単数でappono)"に前置詞もとい接頭辞ad- (~へ、~に向かって、英語: ~に近い)が伴った"apponere"という、単に「置く・並べる・加える」などの意味である(接頭辞ad-は梵語接頭辞ā-と同じように能動的な意味を付加するに過ぎず「同」という漢字の意味は薄い)。
その"apponere"の派生語が"appositio"であり、英語では"apposition"(フランス語と綴りが同じだが中英語の時点ではもっと発音に近いapposiciounだったので後世に修正されたろう)となる。
ただし、ad-が日本語の促音便のように長子音(gemination)となってap-と変化を受ける(古典ラテン語発音でアド・ポスィティオー→アッポスィティオー)。
日本の外来語に「ポジション(位置・地位などの意味)」という言葉があるが、当然、"apposition"の "position"部分に相当する。
何が言いたいかといえば、「同格」という"apposition"の訳語において、「格変化"case change"」という時の「格"case"」は"apposition"という語に見出せないという点である。
ラテン語や梵語など、インド・ヨーロッパ言語(印欧語)の古典語で一般に見られる格変化の道理からすれば、それらの言語で実際に用いられる同格表現は確かに「格"case"」が揃っているので、意訳(semantic translation; free translation)としては「同格」が妥当な場合も有ろう。
しかし、ともすると「格」という言葉を英語知識しか持たない学習者が「格式・品格・人格・性格の格(もし英語にすればstatus, rank, character...)」などと、現代日本人の言語感覚で民間語源的に解釈すること(語呂合わせ)となりかねない。
無論、それでさえも英語しか外国語学習をしない人を対象にする説明としては、理解しやすい場合も有ろうが、小賢しい学習者は誰も腑に落ちないと思われる。
とりあえず、「同格」という"apposition"の訳語については、意訳(semantic translation; free translation)の側面が強いことについて考慮しておきたい。
同格表現に関する様々な情報(辞書・文法書・各種文献)を載せているページがあるので以下に示す。
古典ギリシャ語(古代ギリシア語)・ドイツ語の話題もあるが、そこでは必ずしも同格表現が「同じ格"case"になる」とは限らないことが示されてもいる。
2006年9月1日: 「同格: ta meta ta phonetika」
http://toxa.cocolog-nifty.com/phonetika/2006/09/post_d8b5.html
以下に載せる※印の文は、記事本文に挿入しようとも込み入っていて長くなるので私がそこに掲載しなかった文である。
文献についての検証が不正確でもあるため、興味のある者が各自で検証すると、各自の学習のためにもなろう。
※余談だが、ラテン語と文法的に同種の「同格"apposition"」表現は、梵語系統=サンスクリット語・パーリ語などのインド・アーリア語にも見られる。その語順は「西洋式」の場合と日本語のような「東洋式」の場合とが混在している。梵語系統では、平叙文の「〇〇は××だ」と表現する文においてコピュラ動詞・存在動詞を用いずに「○○××」と表現できる。この「○○××」が梵語系統の平叙文であるならばよいが、これが一文の名詞句に過ぎない場合、同格表現とも解釈できてしまう。梵語系統はラテン語のような西洋式の語順で同格表現をするように限れば、理解しやすい。無論、梵語典籍はその語順の制約を受けていないので、その読解は難しくなる。パーリ語の経典のうち、相応部22.100経の冒頭に「比丘たちよ、この輪廻は無始である"Anamataggoyaṃ, bhikkhave, saṃsāro."」とある。bhikkaveは呼格なのでさておき、Anamataggoyaṃとsaṃsāroはいずれも主格であり、Anamataggoyaṃは連声・サンディの状態をほぐしてAnamataggo ayaṃという主格の2つの単語を読み取ることができる。ayaṃ saṃsāroこそが「これは・輪廻は=この輪廻」という同格表現である。「これ"ayam"」という言葉は単に名詞や代名詞の主格ではなく限定詞のようなものであると取れば同格表現とし難いが、これは日本語と同じ「東洋式」の語順である。同経の他の同格表現には名詞 + 名詞の主格「これは・心は=この心は"idaṃ cittaṃ"」がある。形容詞 + 名詞の処格「強固なものに・柱に=強固な柱に"daḷhe khīle"」もある。同じくパーリ語の経典では名詞 + 形容詞「王は・マガダのものは=マガダ国の王は"rājā māgadho"」という語が見られ、肩書の名前などにラテン語と同じ「西洋式」の表現が見られる(長部2経など)。他に「王は・パセーナディは・コーサラのものは=コーサラ国の王パセーナディは"rājā pasenadi kosalo"」という、英語話者は2・3番目の語の間に前置詞"of"を入れれば理解しやすい例も有る(相応部3.1経など)。「王パセーナディ」とは、漢訳仏典で著名な「波斯匿王(はしのくおう)」であり、漢語・日本語とは語順が逆である。ただし、原点のような「王波斯匿」という語順も少なくはない。「西洋式」の同格表現が他の梵語系統に見られることに興味がある者は、何かしら例文を集めてみるとよい。ところで、複合語の一種である同格限定複合語は、梵語のそれ=持業釈"karmadhāraya (パーリ語でkammadhāraya)"だと「名詞A + 名詞B」の語順は日本語・漢語とそのまま同じであること(e.g. sākyamuni, śākyamuni 釈尊)に対し、片方が形容詞である場合にラテン語(もしくはセム語派であるアラビア語)の「名詞 + 形容詞」の語順が多く見られること(karma + dhāraya 持業釈という文法用語そのものに見られる)も付記する。姓名については、「ガウタマ・シッダールタ=ガウタマ氏(姓)のシッダールタさん」のように日本語と同じである。言語にはイレギュラーな事項も伴う傾向があるので、それも考慮すると、いつも同じことは言えないが、一応、規範的に、梵語系統は以上の特徴が窺える。
※参考までにスペイン語で「イタリアのマッタレッラ大統領 or イタリア大統領セルジョ・マッタレッラ氏」を表現すると"el presidente italiano, Sergio Mattarella"となる。ポルトガル語で「アメリカのブッシュ元大統領(子の方)」を表現すると"o ex-presidente americano George H.W. Bush"となる。同様に「アメリカのトランプ大統領」は"o presidente americano, Donald Trump"である。コンマ (, comma) の有無が例によって分かれることはここで論じない。
関連ワード?: 社会言語学"sociolinguistics" 固有名詞部分の話ではないが地名学"toponymy" 人名学"anthroponymy" 歴史言語学"historical lingustics" 認知言語学"cognitive linguistics" 語用論"pragmatics" 言語類型論"linguistic typology" 統語論"syntax"
P.S. 統語論では、文法事項である形容詞句"adjective phrase, AP"における形容詞"adjective"・名詞句"noun phrase, NP"における名詞"noun"といった句"phrase"を構成する成分である「主要部"head" (e.g. 名詞句に形容詞と名詞があるならば名詞が主要部)」について、言語ごとに主要部の位置が異なるとする。
言語類型論では、当記事に示される名詞句を構成する成分(形容詞や名詞や同格表現)の語順について、日本語は主要部後続型(head-final または主要部終端型)言語とされるので、当記事で対比されるようなラテン語・イタリア語は主要部先行型(head-initial または主要部先導型)言語のように見えるが必ずしもそう言われないらしい(head-directionality parameter)。
英語は、既述の通り混在しているが、主要部先行型言語とされる場合が多いものの、細かい分類では主要部先行型言語とされない(されるものはアイルランド語・マダガスカル語、筆者は詳しくない)。
追記: 2020年4月17日
中英語"apposicioun"という単語は、用例が1ないし0のハパックス・レゴメノンや幽霊語の類であるかもしれないと思った。
または、文法用語として中英語でもラテン語でも用いられた例を私は見たことが無いと思った。
そこで、中英語"apposicioun"の文例を可能な限り探すと、2件見当たった。
Neuermore be made scarificacioun bot if apposicioun
—謎。Hans Kurath, Robert E. Lewis名義で出された Middle English Dictionary に載る。掲載サイト: Google Books
That thou next at this apposicioun, (他の表記: þat þou next at þis apposicioun)
Whiche in the signe shal be of the Lion, (他の表記: Which in þe signe schal be of þe leoun)
—西暦1400年没 Geoffrey Chaucer による The Canterbury Tales (カンタベリー物語) 所収の"The Frankeleyns Tale";1行9音節で韻を踏んだ詩の中だが原典で前の2行は音節数が異なる。掲載サイト: 1, 2
この2件が、文法用語として用いられているようには見えないが、何らかの著名な辞書が中英語での語形として挙げるに足る量があることは明確である。
追加で探すと、Middle English Compendium というサイトの項目で、"Hou knos þu a preposicion? A party of spech þe wech ys vndeclynet and ys set before oʒþer partys of spechys togedyr in apposicion and composicion."が載っていたが、これは文法の話題に見える(1450年ころとされる Peniarth Accedence が典拠というが情報が少ない)。
当記事を見直した理由は、以下の報告をブログ内のどこかに—現状は未定だが—記したかったためである:
漢文「A即B」という表現は、しばしば「AすなわちB」と訓読されるが、同じ訓読の「A則B」「A乃B」「A輒B」などと意味–用法で区別される。
漢文「A即B」は「BであるA」・「Bという名のA」という意味を持っていると感じることがあった。
つまり、同格表現の標識–マーカー (appositive marker) ではないかと思った。
これは何らかの文献の文脈から、意味論的に取ることができる。
英語Wiktionary "即" (oldid=58958461)は、同格表現の意味にある"namely; that is; to be the same as; i.e."を「即」の定義の1つに加えている。
そこでは現代中国語と中古漢語といった時代の差が示されていないことに注意を要する。
0 件のコメント:
コメントを投稿
当ブログのコメント欄は、読者から、当ブログ記事の誤字・脱字の報告や、記事の話題に関する建設的な提案がされる、との期待で解放されていました。
しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。