2015年10月30日金曜日

「ネト本リア末」議論と而二不二の義

インターネットは、構造上リアルありきとはいえ、人々の生活は趣味や娯楽から、経済活動に至るまでネットに移行しつつあり、依存傾向にさえ変容しつつあることは、既に大衆までも知覚する。
私の場合は、ネットショッピングを行わない(中3の時に数度のみ)が、経済活動そのものが、リアルでもぼちぼち自販機に通う程度に、つましくある。
頻繁に買うならば安価に済む手段に越したものはないが、私は自販機という割高なようでも便利なものに直近3年間は全き100パーセント支出している(不意に小銭を失った時などを除く)。

一方で、創作や言論の拠点は、ネットでの公開を主体としつつ、リアルにも形に残そうと、多少の行動がある。
例えば、紙に絵を描く、イラストや写真のデータを紙に印刷する、言論の文章を筆写する(ペン手書きの訓練にもなる)等。
音楽関連は、CDに焼くなどしたいものだが、結局WAVEやMIDIなどの各種データをUSBメモリに移すほどしか、現状は手段が無い。
ましてや、絵をイラスト集に、文章を著書にして発行するであるとか、自作曲の楽器演奏やCD製作配布・販売など、出来ようもないし、そこまで物質化・大衆化する必要も無い。

今のような、ネットに重点を置いた活動をしていると、ネット上の「横野真史」という人格が本体で、リアルの人格こそが自分にあらぬ存在のように錯綜してしまいかねない。
インターネットという媒体が、現象の空間を前提として成立するように、自分もまた、肉体や生命に精神を備えたところから、ネット上の仮名に託しているのである。
いわば、ゲーム中毒に陥って、あたかも己は主人公に成りきったように振舞うことが類似する。
度合いによるが、軽度であれば、ネット掲示板・チャット・ネトゲなどで「なりきり」などとして遊戯雑談を交わす人々がおり、重度を過ぎれば、自分が主人公および作品内キャラ本人そのものと本心で深く刻まれるケースもある。
架空作品主人公に擬したリアル犯罪行為(主にグロゲー)は、精神面だとこの中間で、意識の上に意図的になりきりはするが、行為がそのキャラクターさながらであるから、厄介でもある。
私は深くゲームプレイをしないながら、俄かに新規プレイ(ここではネトゲやソシャゲを除くものを指す)してハマり込むと、何となしにゲーム外での思考の中で混同することもある。

それはともかく、私の「横野真史」という人格は、その仮名すら実際の自分の本名を踏襲しつつ、更に多くの面で自分を昇華させたものであり、混同などはおろか目標にすべきである。
恒常的にこうした論理的な思考を維持し、日常のあらゆる場面において精神の安定による冷静かつ迅速かつ的確な判断を繰り出せることが、一つの境地であろう。
ほか、ネット上に最新の顔写真を公開し続けているが、まず写真を撮る際は撮り直しなども多い。
公開できるほどの写真は、話題に合致している場合と、単純に顔貌が美麗である場合などあるが、そのようにネットで公開した写真の時ほど常時美しければよいと思う。
ただし、写真の写りと鏡の映りでは、写・映される顔の状態すなわち絶対性が良い場合、鏡はその絶対性を反映するから、続く相対性で不利になる写真の写りは想像と齟齬があったり、期待はずれのパターンが多い。
この点は複雑であるし、ネット人格に比肩する目標、ということの例としては参考にならない。



ここで改めて、「本末」の語義を考えられたい。
「本」とは根本、「末」とは末節ということであり、本体・末端、本望・瑣末ともいえる。
私の学問分野で、例によっては「本迹(本地と垂迹)」ともいう。
"本"来の自分に対して、その派生であるネット上の人格が"末"端であり、本体がネットを去るか消えたら、活動の形跡は残るとしても、末端の魂、新たな生命活動は無くなる。
死体が腐敗するように、コンテンツ跡地は数年、十年と消滅の可能性が増えるか、あるいはサイトが生き残ればそっくりそのまま十年以上残るかもしれない。

この横野真史という名義は、本体の自分が多くの時間と手をかけて育てあげている。
その功も徳も、実に高く積まれているように思えて、分裂した人格を本来の人格が羨望し、あるいは神格化したように高次で捉える。
「本迹」でいえば、高次のネット人格"本"が顕現して、"迹"のリアル自分に降臨することを望むか。

「自分で撮った覚えが確然とあるこの顔写真は、横野真史の顔写真であるか・・・、横野真史とは自分であり、自分とは異なる存在なのであろうか・・・。いや、自分は○○ではなく横野真史であったのか。これが横野真史の写真であれば、自分は横野真史なのであろう」といった具合に色々と混乱してはならない。
正しくは、自分が○○であって、横野真史は仮想空間での異称であり、創作や言論などの活動の一切は本体の自分を根源・根本として、仮想空間では横野真史の名で発するのみである。
このように正確な分別を維持しなければ人格は崩壊してしまう。

また、もし法律上の氏名を「横野真史」に改名するか、逆にネット上の名義を「○○」という本名に改名したとしても、やはり全く同一の人格ではない(名同体異、99%までは似せても完全はない)。
そうはいっても、「横野真史」に根も葉もない・誤解の風評が立てば、即リアルの自分への風評として憂えるものであり、横野真史の上で糾弾すべきであろう。
このように、而二不二の義を以て、同じのようで異なり(而二)、異なるようで同じ(不二)という分別を持たねばならない。
先述の「この横野真史という名義は、本体の自分が多くの時間と手をかけて育てあげている」という一文の通り、本体の自分と遜色がないか、それ以上の人格として生きていて・・・肝心な結びの文章を失念した。なんでかな。

表題に「ネト本リア末」と書いたが、結局のところ、「ネト本リア末」と「ネト末リア本」のどちらが正義であるかは判断が付きづらい。
物質的・歴史的にはネットが先となっていても、今や冒頭の例にある通り、ネットこそ観念上の本体のみならず、世間を動かす力もすさまじく、ここに一つの共同体も見られ、"ネト本"の者も多くて然るべきではないか。



大事な仏法の用語を、謹んで俗用し奉る、恐々合掌。
どこかの人だと、人格、パーソナリティ、ペルソナ、アイドル、等と言い始めてしまいそう・・・。
本記事は、前記事の「携帯電話・半角カタカナ・メモ形式」で原案を作ったが、最初はあんまり私の趣味ではないから掲載さえためらったが、結果はこの独立記事として規模が肥大化した。

記事冒頭ではネト本思想における経済活動の一端として「ネットでの買い物・ネット通販・ネットショッピング」にやや触れた。
母親は、記事執筆の今月2015年10月は高頻度でネット通販を行っていたことが脳裏にあろうか。
この様子についての記録は、来月の3日頃に「日記メモまとめ記事」として、当ブログにおいても閲覧できるようになる。
2015年8月21日の日記メモには、サイトのAmazon アマゾンを例に取ってリアル店舗の需要が減ることについて簡単な記述がある。
「みな母のようにネットでの食品購入が増えたら、佐川とヤマトが肥大化する。需要に応じてAmazon等が独自の配送機関を設けるかもしれない。リアル店舗小売業の雇用が運送業に傾くな、と何となく恐怖を感じるが、それは食品配達に限らず佐川とヤマトが来る度に思うことだ」


2015年10月25日日曜日

横野的な思想文集(雑多に)

いつだか「硬き褥に臥せて思いぬ~」といった形で文章を載せた(1/14, 3/12両メモ帳記事)。
今回も同じく、硬き褥に臥せながら思い、メモ(携帯電話による半角カタカナ入力)に残したことをここで校正し、掲載する。
その形式でメモしたこと以外の情報もあるが、とりあえず一括で載せる。



道心生活 (2015年10月21日の硬き褥メモ)


いわゆるアレの人々に対して、世間では昼夜逆転の先入観を持つだろうし、私自身も昼夜逆転状態の方が生活上で合理的であり、自由度が高く思えるから過去には昼夜・夜昼逆転を自在に繰り返して過ごしていたが、現在は自律的に普通の起床・就寝時間を定着させており、それは道心の故である。
このことは、8月下旬の日記メモに表れはじめ、9月中は1ヶ月間に貫き通し、今月10月であっても、絶えず続いていることは、道心なくして持続不可能である。

たまたま睡眠時間の短い日が続いた20日は満身創痍であった。
前日(19日)夜においては、この近頃の陽気を、件の灰色スウェットにて過ごし、体は主に背中や額に、首や脇などが湿っぽくなり、某サイトの耳に悪いロック系の曲をいじっている上に解体工事の長時間続いた轟音のみならずここで鼓膜が刺激されるのは、もう死体メッタ打ちである。
目にしても右目が、数日前からの違和感が続き、今見れば充血をもしていて、ケツの痔などが不安になるような作業を続けた。
就寝時には後頭部の腫れを仰向けに寝て圧迫されることで意識し、翌20日の朝は4時台に一度目覚めてから二度寝後の7時半の起床では、寝相のためか全身が痛んでいて、その後も首と腹部の筋肉痛が続いた。
後述する安眠妨害などの難・万障はあれ、道心の故に持続しえていることは、合理性から昼夜逆転を続けられるという点もまた、私の実行力が窺えよう。
必要があるから隠棲を続け、必要がないから外出もしない反面、必要があれば外出はできる。

日々生活記録を取り、ネットで披瀝し布衍する。
綿密に計画を練り、自ら律する。
愚物の親が、良き指針を示すということの無きようは自明のことであるばかりか、道心を乱し、志を知らず、安眠妨害をするほどである。
この念を持って日々高揚感が沸き起こり、ますます希望が充ち満ちる。
披瀝布衍の慈悲は俗に言うところの売名や自己主張にあらず。
正見智目を開かしめ、同じく道心ある者を導かんと遍照す。



↓別の時のメモ文章(校正済み)だけれど、少し話が↑と繋がる(意図していないけれど)。
真っ当な考えのある人が減りつつある今(顛倒濁世)、それで諦めず、私のようにいよいよ正しい考えを持つ人を探している。
そんな人と巡り会い、共に真理を追い求め、実証していきたい。
そういう目的で活動しているのに、よく忘れ、見失いやすく、徒労と虚無の懐疑がある。



この章に関する注釈・追記 (2015年10月29日)

道心があれば、その各々が「不善」と思い悩むことは自然と改まる。
というよりは、あるべき「善」に還るのであろう。
「善悪」といえばおよそ観念的で、個々人の主観に基づく面は多いが、とりあえず各々が「酒・タバコの使用(飲酒・喫煙)は悪いな~」等と嫌う悪は、道心を持つことで自然と直るものである。
道心を持てば、私のような肩書きの人が誇る「昼夜逆転」状態の生活が、健全な生活に矯正されよう、強く望んで血眼になる苦労などは必要が無い。

なぜならば、個々人には本源的に各々の「善」が備わっているからであり、その善は、正しい徳を得ることで遺憾なく発揮されるし、寧ろ「善」であることが当然の姿である。
正しい徳と道心によって、あるべき「善」に還るという思想は、いわゆる「性善説」である。
儒教の思想かもしれないが、中国以後の大乗仏教はこの影響を受け、日本でも「信仰の功徳により自然と宿命転換して、生活も豊かになる」と現世利益まで説く教団が多い。
この思想が極まると、「徳が無いから、悪因の果報で弱者・貧乏・負け犬」という極端な主張がされる場合もある(儒教はこれが旺盛であり、中華倫理最大の誤謬である)。

そこまで言うつもりはないが、今の私は困窮のようでも、大聖人のように日々悦びを感じ続け、仏法を学ばせてもらっている立場でいられるから、生きる希望を大きく懐いている。
道心より、自然と希望も生まれるし、私は成人以後も飲酒・喫煙はしない方向でいよう。
されば、禁酒・禁煙が難しくて悩んでいる大人は、アレコレ策を練る前に、清浄の法を学んで改悔し、道心を持つところから始めるべきことを推奨する。




如是我聞。


意訳: このような出来事があったかもしれない
注釈: 正統な使い方(仏典)と異なる

昔、仏法を学びつつ、歌道の執着が強い法師がいた。
或る時、その法師が憧れた高名な歌人が亡くなり、法師は悼んでいた。
法師は、歌道を嗜む人々の集いにしばしば足を運んでいたが、そこでその歌人の死について語らうことにした。


すると話し相手の俗人(僧侶でない人)は、饒舌にこう話し始めた。

「なぜ汝はその歌人の死について傷心し、惜しんでいるのか。彼の詠む歌がもう増えないことは惜しむべきだが、今の歌が消えるわけではない。また、いやしくも彼が生き続けたとして、歌を詠むことができないままとなれば、それは彼であって彼でない。彼に歌を詠むことのほかに何を求めようか、悔やむべきことは無い」


法師はハッとした。
眼前にはただの俗人がいるだけのようだが、その言葉は耳朶を打ちつけ、胸中を穿つこと、さながら雷鳴のごとく、強靭な矢に射抜かれるごとくであった。
自分は深く仏法を学んでいるはずだが、未だに人間の存在に囚われていた。

作品は素晴らしい、人間は植物の種を蒔き、育てあげるとはいえ、育った植物・採れた果実は結果的に良いもので、誰が育てたと気にするであろうか(現代は少し事情が異なるも割愛)。
育ちきらなかったものもまた、そういう結果に過ぎない。
人が育てなくとも、立派に果物を実らせる果実もある、歌道なら読み人知らずとも言える。
この歌人の作品を、この歌人のものとして尊ぶことはしても、それ以上に歌人の人間的な空間まで思い、執着する必要は無いばかりか、無益なのだ。
法師は己を恥じ、俗人からの説法を身に染め、改めて仏法に向き合う心を持った。
「人はみな つね無き身にて 死なむとも 成仏ばかり 尊きはなし 三宝に帰命し奉る」

解説
某サイト多くのゲーム作者や作曲者らの失踪(=歌人の死)・腐敗(=詠めずとも生きる)は甚だしいといえども、彼らが遺してきた多くの作品は良いものだ。
それでも自分は、彼ら「中の人」が気にかかって已むことは無い。
一方でサイト住民の中には、淡々と作品を利用して作者らと交流するのに、失踪などを気にかけない人もいるようであり、何とも言えない心境である。
ある人は「2015年9月6日から失踪中の作者M」らのゲームプレイが主要だが、どこかが抜けているのか、あるいは表に出さないものの作者Mの失踪を憂えているのか。
作者Mと共同で製作した経緯のあるゲーム作者諸氏も、作者Mの失踪に関して口に出さないか、最近1ヶ月はサイト関連の掲示板にも書き込みが乏しくなっている(冷え切っている)。
無論、憂えている私も作者Mに対し、某サイトで楽曲提供をした身であるとはいえ、某サイト内で彼のことは特に触れずにいるが、某住民や作者らは私の比でない親密な交流をしていたはずであるから、もっと悲しみを文字としてもよかろうに。



何でもない昔話 (改行ナシで縮める)


小4二学期で4・5・6年か4・5年か4・6年の時に私と同じクラスに所属し、私と下の名前が同音異字の男児がいた。その男児は私並みに勉強が出来る、と言うよりも、知識の豊富さであれば当時の私を超していたかもしれない。小4三学期に漢字検定5級(出題範囲が小6で習う漢字だから推奨は中1以上)を受けに行く(一度○川市を離れ、故郷・浦和に降りて会場に赴く)ことを彼に話したときは、3級を受けると意気込んでいた(彼の合否は不明だが、私は抜き打ちテストのノリで挑んだから合格点の80~90%ほどで受からず、ちなみにクラスのある女児が7級を受けに行くという自慢を小耳に挟んだ)。同じく小4の時に、エベレストの山頂の所在地を、私が中国・インドと思っていたとき、彼は中国・ネパールと答えた。反面、彼には忘れ物が多く、時の担任教師・ケバい中年女性からよく怒られ、時には授業遅延の犯人としてクラス全児童の前で涙ながらに謝罪をさせられることもあった。これには胸が痛みつつも、私という成績優秀かつ問題児という存在としては、案外、身近にいる彼に敵わないのではないか、と思った。それはそれで、校内にあって気が楽になれる考え方である。彼とは、あの学校生活にあって比較的仲良く会話ができた方であったが、頭突きを売りにしているから、その辺りは冷や冷やしていた。


この彼については、過去にどこかで書いたはずだが、例の如く投稿が見当たらなかった。



相対値の中の絶対数と相対数(絶対と相対の誤謬)


普通の人の1日あたり消費エネルギーを100として、頭での消費を20とする
私の消費エネルギーを80として、頭での消費は相対数で2倍なら32、絶対数で2倍なら40となる。
100の中の20はパーセンテージ20%、これの2倍が40%でも、100の40%は40、80の40%は32。
絶対数で2倍の40という時、私の80という中の相対でいえば50%であるから普通の2.5倍。

次の例として、某ゲームにおけるアイテムドロップ率を挙げる。
とあるモンスターを倒してレアアイテムAがドロップする(拾える)確率を2%として、これに「ドロップ率5%アップ」という効果を備えて臨むとする。
この"5%"が、相対値の絶対数を上げるならばレアアイテムAのドロップ率は7%に上昇するが、相対値の相対数を上げる場合、「ドロップ率"2%"」を絶対と立てるわけだから、2の内の5%、即ち2に0.1を加算した2.1%にしか上昇せず、その効果は有って無きが如し、と言える。
このことは、「○パーセント増加」と「○ポイント増加」という表現の相違にも似ている。

「ドロップ率が5%上がる」という説明だけでは曖昧であるのだが、実際にその効果を備えて臨み、プレイしてみると、レアアイテムAはドロップする気配を見せず、後者の「相対値の相対数」として作用していることが分かれば、有名無実の説明だと思わずにいられない。
簡単な説明はいくらでも解釈でき、それをインチキに用いる側はいくらでも正当化できてしまうため、これで起こるトラブルを回避するのが賢者であり、即ち明瞭な説明を以て明らかにすることで、未然に相手の誤解も不快感を生まない。


2015年10月17日土曜日

研鑽連盟問答要項

便宜上の表現「団体・首脳」。現状は適切な表現を模索中(首脳→拾主"しっす"等)。
Q(質問)&A(回答)とも、自分で設けているが、ここでは質問者が良識ある人間で、回答者が「首脳」とされる人物への忠実な理解者という存在に仮託した形式であるように見て頂きたい。
特に回答者こそが忠義・礼節の態度と教法への理解を得ていて、首脳サマの御眼鏡に適っているから、そういった姿勢も学べる素晴らしい「問答要項」である(回答者は度の強い敬語表現を用いるるが一部の文法は通俗的にして普通の人が読みやすくする)。

「・・・・・・真史様は、こう仰せられたので、わたくしめではその御見識に到底比肩することは考えられなくなりました。それでも真史様は、常に『真摯な修行に臨むことで、みな人生を終えるまでに今の私ごときの浅き智は超し得よう』と励まされますので、意気地の無いわたくしめも毅然と立ち直ることが適うのであります」

「真史様を知る者がたとえ万人を超そうとも、その教えの聖水を漏らさず受け容れ、濁さず留めることが適う器*1は一つとして*2有難く御座いましょう」

「ごいこーへんしょーまさしさまっ☆ごいこーへんじょーまさしさまっ☆」



Q. この団体の名称「寂光園*3 "Pseudotopia"」についてお教えください。
A. 寂光園 "Pseudotopia"の名称の起源は、団体の設立経緯の以前にあります。2014年6月に首脳は、自身のお部屋を「欺瞞の楽園」とのおつもりで冗談ながらにそう称されました。それから1年以上も経つころに首脳は、本当にこの世は欺瞞の存在であるけれど、自分の部屋も現世における修行道場になり得るということに気付かれ、仮のすまいでありながら浄土さながらの効験を望むに至られ、改めてこの名を団体の名称として相応しく定められたのでございます。

Q. この団体の理念とは何ですか?
A. 当団体の理念や存在意義とは「救済」にありますが、この熟語だけではある種多義的でありますので、もう一つ言葉を足すと「落穂拾い」になります。穀物は秋に収穫期を向かえ、世間では成長に伴って学校であるとか社会的な機関が置かれ、現代は誰もが普遍的な手段としてそれらの機関を通りますが、穂が切れるか毀れて落ちるように、そこから漏れてしまう者も少なからずおります。そこで、当団体は智と識を以って心の深奥より救済をすることを重大意義として、この研鑽精神を普く布衍し、漏れた者たちを掬い救わねばなりません。これは未成年~若年層が主なターゲットであり、穂も穀も腐らずある内に拾って参ります。刈穂も落穂も一個体には等しい価値がありましょうに、拾ってくれる者は普通おりません。なるか分からない田畑土壌の肥やしになるのみで終わります。「落穂」としての価値は、早い解脱の性質を内在しておりましょう。当団体の教導を受けられることは僥倖であります。

Q. 「救済」は手段で、別に目的があったりはしませんか?拾った穂の行く先は?
A. 「救済」を謳って多額の布施を集める怪しい宗教法人や、「救済」を演じる顔で路上生活者に公的支援を斡旋しつつその手数料として公金をくすねる怪しいNPO法人など、巷には数多蔓延る邪まな団体がございます。お為ごかし・私腹肥やしとは異なり、料金・費用の徴収は行いません。食物の無い状態に陥れば、そのまま運命に殉ずる選択を頭の片隅に置き、日々自ら戒める気概が必要であります。この精神性を学ぶことも研鑽の一環であり、心肝に染まれば即ち救済への前進であります。また、多くの迷える者達にもこの精神を知らしめて啓蒙をせねばなりません。

Q. この団体が行う「研鑽」の厳しさや、娯楽の許容範囲は?
A. 「研鑽」では、「見聞・思惟」の二つを愛し、それ以外の執着・雑念は可能な限り交えないようにする精神が肝要であります。身を滅ぼせとまで言わずとも、己の身ですら最愛であってはならず、「身を粉にする」ような思いで臨む姿勢は望ましくございます。娯楽に対しては、時間を過度に消費するような耽溺が無いように自らを制し、律する心構えが必要であります。ましてやゲーム等に金銭を拠出する行為は愚昧に存じます。こういった習慣のある方は、速やかにこの執着を断つことにこそ専念しましょう。首脳は誰かからこうした指針を示されずとも、人類の師匠におわします仏の所説に依って漸次独りで娯楽・嗜好品の執着を断っていき、痩せさらばえられました。遊蕩も控え、隠棲の中でその理智を究めんと弛まず過ごしておられます。首脳の身は細ってなお心が豊かでございますことは、仏の教えという能く実らせる福田を蔵しておられるためであり、首脳は内にも外にも収穫・落穂拾いを行って自他共に解脱を得んと得さしめんと、常に農耕を勤めておられます*4

Q. 「研鑽精神の布衍」とは具体的に何をするのでしょうか?
A. 主にインターネットの場で行います。首脳の場合は自身の観想という精神面のみならず、生活記録を取るなど文字に起こして、多くブログ等で発信しておられます。一字一句、文法や誤字などに注意をしつつ、学術的な側面も付けるなど、あらゆる労苦を厭わず行っておられます。文字数や冗長性などを抑えながら、内容が豊富なものを実現する点にも苦心しておられます。そうして救済対象に弘めようと啓発主張される慈悲を、鮮烈に感じます。道心ある人々がこの首脳のような活動をする者を見るならば、「我も斯くならん」と憧憬を懐くことは必定でありましょう。これに対し、魯鈍懶惰なる様の者を直接に責める必要もあり、これは相手を選んで行われたく存じます。また、苟くも首脳の勇姿を見て、悪心ばかり懐く不届き者には強く呵責すべくございます。我々は現代の賢人であられる首脳の驥尾に付し、薫陶を受けつつ、たまたま首脳を知っても憎んでしまう人*5には、強烈な啓蒙が必要でありましょう。

Q. 宗教の教義とは思想が似ていませんか?
A. 首脳の識られた答えとは、仏教を学ばれる折に得たものであり、御自身も仏教の延長や仏教を援用したものであると御考えであります。首脳は何らかの宗派に「仮想入信」をし、宗派の教義や聖典を学び、宗派の修行も実践されました。仏教は宗派が多岐に渡っておりますが、宗派の隔たりの無い普遍的な教義については仏教の基本となります。それが、取りも直さず世界の真理であり、正しい教えでございます。方便のお答えを濫觴として、多くの仏典・教書を紐解いたり、自ら観想することで更なる真実を導き出し、真理の全容を明らかにすべく、首脳は日々修行をされており、我々も志を同じくするものであります。

Q. 破壊的なカルト教団のように変質してしまいませんか?
A. 首脳の言を預かりました「是の如きテロル画策は非道の衆、瞋毒の徒なり。如何なる義を掲ぐるとも、人命をば殺すべからず。豈隠棲の身にて殺生を行ぜんや」。こう強く制誡され、どんな考えを持ったとしても殺人に手を染めてはならないことを決然と仰せられております。

Q. 特定の政治思想を唱えていますか?
A. 当団体で政治思想を掲揚して、所属する者に対し強制することはしておりません。また、各個人の是とする思想や信条を否定もいたしません。ここは個人の自由の範疇であり、それこそが当団体の方針であります。研鑽をする人々の意思は自ずと公平になると推定されます。ただし、団体に所属する者の全体で見て、いくらか特定のものに傾倒する場合はございましょう。とりあえず、団体規模で政治思想の掲揚は無いことを留意されたく存じます。当団体は既成の概念や団体に偏るわけでもなければ、全く新しいものでもなく、中庸の立場にあり続けましょう。

ズバリ、首脳の政治思想の変遷!



讃嘆の偈頌(未完成)とその訳

世濁悪強盛。著根本無明。於是如夜永。有人見月星。不得遊戯処。久受大苦悩。而識少真理。則入安穏道(あへ)

世は濁悪の真っ只中。
人々は根本的な迷いに支配されている。
その俗世にあって、世俗的な快楽すら得られず、世人よりも強い苦しみを受けながらも、一つの答えを識る者がいた。
それだけで、どこまでも救われた安堵感が満ちた。
同じような苦悩の渦中にありながら迷い続ける人々にこの真実方便を伝え、同じように救いの道を行かすべく教えを興した。
この答えとは、真理の一端に過ぎないが、同時に根本的な迷いの強い世間にあっては、誰人も気付き得ないものであるから、これ一つを識るだけで、大衆の中でも長大な飛躍となり得る。
多くの人間にこれを弘め、より多くの真実を解き明かし、生命の最期までに真理の全容を悉く覚知せんとす。

自ら命を絶ってはならない。
人を著しく害さない範囲であれば、どうあっても生きて、研鑽と瞑想などを続け、生命の最期までに真理に達せんとす。
成し遂げる使命があるのであれば、自ずと生きぬく術が備わる。
もし万策尽きれば、覚悟して運命に殉ずる外なく、それもまた真理と心して日々自ら戒めよう。
決して、自他問わず人の身を毀してはならない。
例えば、一日の私腹を肥やさんがために人を殺める者がいる。
刹那的な安楽はあっても、現世の外、後生までもその因果応報を恐るべし。*6
我々は三毒と五欲を制し、律し続けながら修行をすることで積まれる徳により、細くも長い生命が備わるであろう。

甚だ強まった濁悪の世相において、我々は世俗的な快楽も充足感も求めては儚くあるのみばかりか、罪業とさえなってしまう。
ここは安楽の場所ではないが、ここを嫌って速やかに死のうとしてもならない。
ここにあって修行をすることが、最も重要な生き方である。
また、それを自身の宿命と定めて、運命を容れる決意が必要である。
然れば仏の法を能く知り、志を同じて真理への階梯を上り、無上覚を得よう。



脚注 (出典・参考文献)

*1・・・とある宗派において、歴代・当代の管長が祖師の教法を正統に継承していることを譬えた「法水瀉瓶」が元ネタ。今の世を見ていると、一分でも道心を持って、仏法を学ぼうと発心する機根ある者が、どれほどおろうか。ましてや、真理への階梯を私と共に上ってくれる人は居難い。窮地に陥ったらば、いっそ放浪して入山した方がよいかもしれない。師匠も弟子も相互に求め合い、師は法を説き、弟子は法を嗣ぎ、更なる弟子・信者へと法を伝え弘むという、連綿たる法脈が仏教を現在まで遺してきたのではないか。三宝への尊敬・信仰とは、ここに大いなる意義を置く。

*2・・・今まで、多くの者が私を「笑われ者」として見てきたであろうが、誰も私の言葉を理解することなく、1年とて私を「嘲笑う」ことさえなかった。きっかけは何でもいい。笑いたければ笑え。哀れみたければ哀れんだままに私の言葉を聞いていればよいが、1年も持たない。いや、厳密には1秒とて理解されない。それで、1分でも、延ばして1年でも、心から理解して献身に聞く者など一人もいるはずがない。「鳳潭の人形」と同じである。また、一箇半箇を願う師と、一箇半箇を自負する弟子の関係を羨んでも空しい。私が良い人間であるとし、良い弟子がつくとする。その弟子が私に師事するならば、私は良い師となってより良い師に育つ。弟子を得て師となった結果が、より良い師への因ともなる。弟子とは、良い師をより良い師にさせる「師の師」である。しかし、そのような良い弟子がつかないならば、私が良い師ともより良い師ともならない。私をより良くする弟子をまた、私をより良くする師としておきたい。今の世に、師として師となる優れた人間が一人もいないという前提で逆説的師の弟子を求めるが、今のところ、そんな弟子も現れそうにない。末法悪世で師も弟子も、現世の他人に求められない。仏法信仰の原点である、過去の賢人・諸仏と自身の可能性への信仰を取り戻そう。

*3・・・読みは「じゃっこうおん (旧仮名:じやつくわうをん)」であるが、当初は園を"えん"とする、漢音の読み方であった。

*4・・・2016年1月からパーリ語の仏典も読み始めた(読書の基本は日本語訳だけど)ので、後からの挿入で恐縮だが当記事脚注でも説明する。スッタ・ニパータ1章4経 (うち77-80)における釈尊の説教を知られたい。物体としての道具を使用した物質的・生産的な農耕を行うのではなく、心の田畑に種まきから草むしりに水やりなど、耕作の行為を絶やさず続けていることについて訴えられている。なぜこう訴えられたか。釈尊は托鉢で食を得ようとされている折、「私は自分の収穫物を食べて生きている。あなたも食べるなら一緒に耕作してから食べてね(働いてからメシを食え)」と農耕従事者のバラモンに言われたので、「自分は既に自他へ大いなる恵みを与えており、自分もまたそうしてから食べている」との旨を丁寧に説明されている。ただし、このあと感動したバラモンから乳粥を布施されようとしたとき「僧侶は説法の報酬・対価・見返りとしての布施・供養を受けない」という教義から、乳粥の布施を釈尊はお受けにならなかった(現代語訳の例)。同様の話は他のパーリ仏典「相応部7.11経"Kasibhāradvāja Sutta"」や漢訳仏典「雑阿含経98経」にも見られる。

*5・・・徒然草の第八十五段でいう「至りて愚かなる人」

*6・・・天下無雙の智人・広学多聞の明匠(日蓮大聖人の説)である栂尾の明恵上人は、自身の病気を診てもらった医者に「寒い山中で体を壊しているから、温めた酒を飲み続けて治癒する」と示されたところ、「若し予暫くも世に住して益(益)有るべきならば、三寶の擁護により病癒え命延ぶべし。さあるまじきに於ては、佛の堅く誡め給ふ飮酒戒をば犯すべからず。」と、自分に全うすべき使命あれば加護による延命があり、もし寿命が残り短くとも破戒をしてまで延命はしない、と厳格であった。また、「飲酒の罪は現世のみならず来世にも罪障として悪影響を及ぼす」、「法師として教導する責任のある自分が病気を理由に飲酒をすれば、後世の弟子はこれに託けて破戒をしてよい風潮が強まりかねないであろう」と、思慮深い一面も見せた。


2015年10月13日火曜日

虚無思想と二分思考を克服する仏教

【分けた末が二極収斂】

知能は、"分ける"ことと"分かつ"ことにより"分かる"状態を得る。
第一に己の肉体の連続性から自他を分かち、自分の存在を確認する。
それを元に、他人から「あなた」と示されることで、相対的な自分の立場を知る。
他にもまた多くの分類が存在する。
生物か物体か無形の事象か、生物なら動物か植物か、どちらであっても多くの種族が存在する。
ここにまた、自他とは何かという話題が戻り、それでは便宜上"他"とされた分類のどこかに自分は属するものか。

ここで、限りなく存在し複雑に絡み合う自他、他と他の境界を、一色に塗りつぶす概念が現れる。
それは、人間的な思考・観念の中で生み出された分類も、境界も概念も全て、その中の存在でしかなく、それが本源的な存在ではないとする、"無"の概念である。
そういった、万物万象が無意味であるとした見解が中心的な思想を「虚無思想」と言う。

あるいは、神と称される何らかの「超越的な存在」に支配され、個々の自立的な存在などが無ければ、操られさえしていて、その超越的な存在の意思で全てが動いているであるとか、と考える思考もある。
これを宗教的には、「善悪の行動も人の禍福も、全て神の思し召し、みはたらきである」といった信仰上からの主張もあるのだが、上記の思考の限りではない。
更に、上記の思考における"神のような何か"があまりにも超越的であるから、それ自体の実否、というと「"神のような何か"も、"無"ではないのか?」、という点を問わない。
また、その"神"も"無"も人間の観念の中にのみ有って、砕いて言えば「神も無も"無"である」、といった結論も出さない。

ここでは、時折そういった「虚無」、もしくは"無"と神のような何かのみが有り得る「二分」の思考などが如何にして発生するか、という過程の説明をした。
この段落は、読みづらくなったために理解不十分のままの人もいるであろうが、以下を読み続けると幾分は解けてくるはずである。



【虚無と魔障の二分】

続いて、その"自"も"他"も無く、全ては"無"と"神"、そこに怒りのテイストが加わり、"無為の存在"と"魔の性質"といった更なる思想について、自分が時折思うことを話したい。
状況によるが、悲しみと怒りに駆られる時には「この世はほとんど"無"で、無にあらざるものは"魔"である」と考えたくなってしまう。
半ば投げやりであるし、本気でそのように信じ込みはしないものだが、普段から「魔」による障りが必ずあろうことは信じている。

本来の意味は後述するが、ここでの"魔"とは、ある時は人の心を蕩かし、ある時は道理でない状態を作って人を惑わし、あるいは苦しめるが、その手段は主に人の心を操って行動させるなどがある。
魔が、当人を苦しめる目的で操る場合はあるが、私は魔に操られるのではなく、常に同じ家に居る母親などを操って、私に危害を加える。
また、母親などでなくとも、母別居中で永く一緒には住んでいなかった小5から中2不登校までの学生時代においては、同級生であるとかが私の発言の揚げ足取り・曲解などによって公然と私を貶めるなどは非常に多くあり、当時は"魔"と思わずとも、有象無象のようには思っていた。



【エゴセントリズム小学生】


一方、そのことは措いても、小学生の時は自分だけ神でも無でもどちらでもない特別な存在だと考えることがあった。
不老不死も自分に限っては有り得るのではないか、とさえ感じた。
なぜ自分だけ自分の感覚を持ち、また周りに動く人間は機械であるとか、彼らは本当の感情を持っていないのではないか、といったところから、公然と人を殺し、警察に捕まって、あるいはリンチとしての暴行や惨い拷問を受けるとも、決して死には至らない気がした。

今の私は、それを「哲学上のエゴセントリズム」と呼ぶ。
自分を前提として、世界が誕生・維持・滅亡へ至るといった思想となり、現状、誰もが否定しえる余地は無い、珍理論である。
自分の誕生によって、親も自分以外の生命も宇宙も歴史も全て既成事実であるかの如く作られ、自分が死ぬと全ても滅ぶという思想があったし、誰かしらそう考え付くこともあるのではないか。
あるいはそれが転じて、どこかの誰かさんこそが、この段落における「自分」のような特別な存在であるかもしれない、とも考えた。
この発想では、その「誰かさん」を基準とすると「1秒前に世界が誕生した」と考えても否定できなくなるし、世界の誕生を0.1秒、0.0001秒など刹那の時まで求めてもキリが無くなる。

それでは逆に、自分を特別な存在と仮定したまま、死後があるとすれば・・・ここまで死を恐れるあまりの思考であり、ここからも同様である。
自分は苦しまず安楽にして息絶えるか、魂が俄かに離脱するか肉体が転移するかの後に、自分は間違いなく天国へ行けるか、別世界に帰還して神の一員として祝福を受ける・・・どうしても、苦しんで死ぬという微少ながら厳然としている事実は恐ろしかった。
努力が報われずに死ぬような悲観的現実を私が見て、そう死ぬ人々が自我意識を有するならばそのままに救われるための道を開きたかったかもしれない。

小学生の当時でさえ苦しい思いを続けていたり、過去にも書いたが、あの小5母別居以降に広い家で一人ぼっちの時間は、「誰かに監視されているつもり」で独り言を続けていた。
その誰か分からない者は、霊界や冥界のような場所と、この自分の近くに覗き穴か何かを開いて、常に監視をしているのではないか、と日々思いつつ、畏れながら不善を為すこともあった。
だが、自分の苦しみは監視者に評価され、死後祝福を受けよう、と。

今の私は、こういった「エゴセントリズム」的な思想から、流石に脱却して滅却した。
私の現在学んでいる分野に、そういった思想が無ければ、そのようなことを本気で信じてしまうのは、その分野の義に大きく反してしまうであろうから。
よって、ここからその分野の思想に並行して、「虚無思想(虚無主義、ニヒリズム)」と「虚無魔障の二分思考」というものを突破したい。



【諸々の謬見を仏法により破る】

仏法は、迷妄の苦悩を智慧に変える。
あらゆる濁りの多い世間で最も高徳にして清浄なる教えこそが仏法である。
仏法こそが、虚無思想も二分思考も、木端微塵に摧くであろう。

二分思考の例として、常見・断見に代表される極端な思想を嫌い、何事も中庸の立場で説く。
「常見」というのは、一般的に「霊魂・精神体の不滅」などを指すほか、先述の小学生の頃などに見られた「エゴセントリズム」も含まれ、死を恐れるあまりの邪見を指す。
「断見」というのも、誰もが時折「どうせみんな死ぬんだ!」と自暴自棄になってしまう・・・そう極端でもないだろうが、「人や生物は必ず死ぬ」という認識を悪しく弄して、この世の価値を濫りに喪失し、厭世的・頽廃的(ペシミズム・デカダンス)になったりする見解などが当たる。
また、「エゴセントリズム」の基準を他人に置き換えた際の思考はキリがない通り、自己を基準としても他人を基準としても、またはどの人間でもない基準を設けても答えが得られるはずもない「戯論」と一蹴される(空間は無量無辺・時間は無始無終という言葉が端的な理解である)。

こういった極端な思想や、様々な分野での二分的な思考は、仏法を学ぶ修行によって改善する。
現世における正しい思考能力と高潔な精神が備わり、後生も報われることとなろう。



仏法では"空"の原理を説く。
これはインドから古い中国に伝える際、まず理解されがたいため、格義仏教での理解は、道教の老荘思想における「無」、すなわち前述の「虚無」に置き換えた方便が伝わり、弘まったことがある(時期としては中論などが漢語に翻訳される5世紀までか)。
サンスクリット語では「シューニヤ(形容詞)・シューニヤター(名詞)」と言って数字の"0"の呼び名でもあったし、虚無主義の英語ニヒリズムの「ニヒル」もラテン語で数字の"0"の呼び名であったから、単語そのものは空も虚無も同義であったかもしれない。
だが、仏教の"空"が示す意味は"虚無"の理解と異なる。

金剛般若波羅蜜経の偈には「一切有爲法 如夢幻泡影 如露亦如電 應作如是觀」と説かれ、また涅槃経の偈では有名な「諸行無常」の一句が見える。
これは、単なる儚さと虚しさを説くものではなく、「全ての物事が泡や影、露や雷のように消えやすく短い時間の存在である」と、その姿形を長く留められない現世の有様を説いている。
仮の象形でしかないから、この世の事物に執着してはならず、未練を残してはならない、と。
だからこそ仏教では、永遠に崩れない幸福の生命を得るための修行をして、この現世、輪廻を続ける三界や六道から解脱を得んとするのである。
三界の中の六道に生まれて、仮の宿りに執着して未練を残すと、それが解脱の障礙(妨げ)となる。
よって、仮の象形として"空"を説いても、全くの無、ということを真理としては説いていない。
金剛経の偈と、有名な般若心経の「色即是空」を会通すると「色=一切の有爲法 即是(すなわちこれ) 空=夢幻や泡や影や、(朝日の前の)露、雷のごとし」と言え、互いに同義である。

隠棲修行者は、常に記録と観想とを続け、皮相的な仮相を詳らかに把握して、仏法を学ぶことによる研鑽で先達の智慧を知悉し、諸仏に連なる解脱を目指す。
その"空"と表され、夢と幻と泡と影と露と雷のような仮初めで短い一生のうちにも、諸々の欲望と執着を離れ、多くの功徳を積み、解脱せんと願いながら、修行を続ける。



次に、"魔"という性質についてだが、仏教においては修行者を困惑させる存在として説かれる。
単に、当人の煩悩や慢心に付け入って誑かすパターンがあるほか、当人の心と力が強く(堅固)て直接干渉できない場合は、魔が他人の身に入って操り、当人を惑わすものもある。
ただ、その魔の試練を忍従することによって積まれる徳もある。
仏教の説話において、そういった魔が誰かの姿を以って修行者の前に現れて、当人の根性を試すものがある。
何事も「魔である」と割り切って、動揺せず翻弄されぬ定力を備えれば、程度の差はあれ耐え抜くことができるものの、本当にその精神を持続させるのは困難である。
ましてや死ぬまで仏法の精神を貫くことは容易いことではない。
ここに、仏道修行者が現世において道を修める上での肝心がある。




当記事の原案は、10月2日の某所投稿である。
迷える私、仏法より解いて導く私、二人の私が対話しているようなものである。
より背景を言うと、10月2日の日記メモであり、これは来月投稿予定のまとめ記事に載る。

また、当記事は後日投稿予定の「研鑽連盟問答要項」の内容と幾分疎通する点がある。
当該記事の下書きは、大筋が9月末に出来ている。

一方、この記事は10月11日から執筆を始めた。
近頃の学術的メモ帳記事の中では、急ごしらえの方である。


2015年10月8日木曜日

散歩の間も記録を怠らない精神

散歩を通して経験することは、隠棲生活とまた趣が異なり、等しく尊いものだ。
よって、些細なようでも知ったことは記して、思ったことは綴る。
今まで価値を感じず、意識もしなかったA家の庭(お隣花鳥園)は、今年になって何だか素敵な植物に魅力を覚えたが、それも束の間、いつまで続く風景かと、風に強く揺れ続ける笹の葉や、青々とした葉を多くつける木々を見て思うことはあっても、思いもよらず今月で見納め(未明)となろう急報は、A宅解体工事によるところである。

その私は、2014年以降ますますちょっとした外界の変化に興味が出やすい。
散歩では時折、歩みを止めて記録行為に没頭する場面もある(通りに背を向けて俯き気味に)。
多くは歩きながらキョロキョロしつつ、あるいは画面を見ずにポチポチやっているわけだが、漫然と歩きスマホであるとか、自転車でだらんと身を乗り出してスマホを眺めながら漕ぐ学生は危うい。

以下は、10月6日18時10分から行った長距離想定ルートの練習散歩の道中、あるいは散歩に出る前から携帯電話で取ったメモとなるが、後の自分に最低限の情報・情感が伝わる・思い出せるよう、冗長さを省きつつも、順序の通り克明に記録している。
19時2分に帰宅し、帰宅後PCを起こしていない時のみならず、PCは既に動かしていて携帯電話メモと19時3分撮影の写真が未送信であるラーメン食後にもなお携帯電話メモを追記している。
また、IMEの変換仕様と文脈を考慮し、適度な半角スペース挿入をしている。
半角といえば、メモは本来半角カタカナで取っているのに、某メールサービスでは自動で全角カタカナに変えられる。

ジュンビウンドウ ボウカンギヘヤギパーカー ナガラクチュウシャジョウダッタトコロガケンチクコウジノバニ タテモノヨウトハヒミツ オウダンホドウデスコシデモカケルト、ヒザガイタム カンセンドウロデハジブンメガケテクルマガトビコンデ キケンナサーキットニタツトモジブンノミハケッシテガイサレジ、トオモイタイ タトエバトリヒッピキデンセン ソウオモウトラッコウニダイコンノハラシキモノ ベツノミチカラマエニヒトガハイッタ タイリョクガモテバハシッテオイヌキツツ、オリカエシチテンマデツキススミタイ カレハギュウドンチェーンテンヘ ジョシコウセイフタリグミガパンヤニハイル、ホカニモガクセイノオウライハオオシ テンナイニモスデニヨニンボド ムッツブンキノミチ アヤマッタノデアパートシキチノヲ チズアプリヲヒライテモヨカッタガユウチョウニハ マクバユウメイテンポノツモリガアイプラザニアタッタ コウロニタトエレバ、アメリカカラタイヘイヨウオウダンシテニホンニメザシ、タイワンニナガサレタキモチ コウヨウナキカイドウデ、フラフラトアルクヒトアリ、スレチガウニ、カオガケサノヒト ジカンテキニサツジンカエリモアリエソウ イマユクカンセンドウロホドウハタイコウブヘ セマク、ジテンシャノツウコウオオケレド、 ハルカコウハウニホソク! カエリニモノヲカオウトシタガ、コンカイモジハンキガクルッテイテナニモカワズニカエル 19.2キタクゴ、タダチニユウショクジュンビヲハジメ、ナベハリミズワカシノアイダニパーカートヘヤギヲヌイダラ、ウシロクビマワリノウラガワ(サイズノタグフキン)ニイチミリホドノチャイロイコウチュウガイタ ドウシテモムシヲモラッテシマウ ショクゴハヤスマズフクノカタヅケナド

こうして取られたメモを元に、本家記事のとても詳細な文章として再構築される。



草木諦観抄 夫れ散歩を通して(中略) かかるメモは清書して組みかえられ畢んぬ。