2015年4月4日土曜日

横野真史のブログ文章記述理論

横野真史のブログは、2014年以降、毎度のように2,000文字を超す記事を送っている。
4,000~5,000文字超までもが稀に投稿される。
文字数が多いと読む時間も増えてしまい、億劫に思ってまともに読まない者もいるだろうが、それならばそれで良し。
長い文章であるが、タイプしながら余剰の表現などを推敲せんと、脳内で構築している。

即ち、冗長にならないための工夫がなされている。
※ページ端での改行を考慮した一行あたりの文字数というものも考慮している。
余剰の表現が省かれて尚、文字数が多いということは、密度が濃い上に豊かだといえる。

使用する語句も、イメージを端的に表現した物を選別する。
時に難解な場合もあるが、それはそれで読者の知らないものなら検索するか辞書を引くかで、また一つ教養が深まろう。
既にその語句を知っている者は、文章の理解が容易となるとも言う。

過去に何か同一事象を詳細に書いた記事あらば、当該の記述に適切な過去記事をリンクして、余分な説明を省略している。
同一事象に触れる際、逐一似たような説明を繰り返すより、過去記事を掘り出した方が、大切な記録の忘却も防げる(直接該当する文章を引用することもあった)。
私の記事投稿は伊達に行っているものではない。
活動以前の過去から、投稿当時の現在までの記録を大切に残している。
文意詳らかなれば、幾度も日の目を見よう。

記事リンクにより、回遊率を向上させる目的まで、一石二鳥だろう。
読者にも、「横野真史という人物はしっかり記録を取っていて、過去にも優れた記事を投稿している」という認識が生まれることまで加味すれば、それでまた多くの記事に目を通す。
あくまで、極一部の物分かりの良い読者に限りそうだが・・・

私は2010~2013年頃に、ネット上の人物の情報をやたら探ることが好きだった。
人物の過去の投稿、隠れている別サイトのアカウントや活動なども探り当てる。
2014年はいつからか、次第にその行為をやる頻度が減っていった。
勉強に時間を当て、それら「下らない行為」などは控えるよう自制したことは大きい。
この私自身が、少しでも興味を持った人間を調査するきらいがあったからこそ、読者諸君もファンの僭称とまでいかずとも、興味を持てば私の気概に少しでも感化されたい。

その過去記事というものが、つらつら2013年頃などを見返すに、敢えておかしな文体(キャラ作り)を多用していたようだ。
この点は同じ自分といえども、評価しがたいポイント。

愚蒙の輩、これを見るに本気で私を「馬鹿」だと思いき。
驕慢の輩、普く天下に満ち、邪鬼の跋扈せるやうなり。
ネットの事は即学校生活ぞかし、いづくに留まらんとも業が末に究まりぬるなり。

↑のように擬古文で書く頻度が2015年以降に激増するが、これを使用するタイミングは記事全体でバラバラではなく、一纏まりにするか、節目で挿入するかに留めてる。

通常の文章の語彙についてだが、これは語彙の豊富さを重視する反面、同一事象を指す場合はその都度異なる表現を氾濫させず、同一表現を用いる。
同一事象であるのに異なる表現を用いれば、異なる事象に触れてると誤解を生みかねない。
読み手に些細なれども、正しい理解をしてもらいたい上での配慮だ。
読み手の有無を問わず、書いた文章を自分が後々見返した時に混乱が生まれることもあるため、この部分も自ら防止することも・・・後付の理由じゃないよ。



粗方書きたいことは書いたはずだが、冒頭に「毎度のように2,000文字超」と能書きをした割に、この記事はその水準に達していない。
だが、どうでもいい情報を長々と書いて、帳尻合わせをするわけにもいかない。
「余剰の表現を省く」という理念を垂れたばかりに自ら反してしまいかねない。

文字数の参考として、当記事の一つ前の本家記事とメモ帳記事のリンクを載せる。
どちらも約3,000文字になったようだ。

本家→http://masashi.doorblog.jp/archives/43436304.html
メモ帳→http://lesbophilia.blogspot.jp/2015/04/blog-post.html

上本家記事についてこちらに少し解説を書く。
例えば「過去にも書いた同一事象の説明にはその記事のリンクを載せる」という説明をしたが、この上記事でもリンク化テキストが散見されよう。
当該記事への移動をしてもらう手間が増えるかもしれないが、その同一事象の詳細に興味なくば御覧にならずともよい。



追記:2015年8月28日

この記事の途中の記述に加筆しようと思ったが、そういう行為は大概、前後の文脈などを深慮せねばならないから作業のしづらさこの上なく思う。
今回追記したいのは、記事前半にある「※ページ端での改行を考慮した一行あたりの文字数というものも考慮している。」という点だ。

ページ端での改行を考慮した一行あたりの文字数というものも考慮している。
一文字が余分なために自動で改行されるのは煩わしいため、Bloggerのエディタ両端が全角文字で約40~50文字の感覚で埋まることを考慮して文章を書き、メモ帳ブログのPCデザインも、同様の長さで両端が合うように揃えている。
よって、それを拘泥するようになった2015年に入るか入らないあたりの頃から、当ブログのデザインことにページ幅と文字サイズは迂闊にいじれなくなっている。
ページ幅は多くの環境での閲覧に配慮して、これ以上広げるのはあまりよくない。
文字サイズは今以上に大きくしたいとは思うが、ページ幅を変えない場合「ページ端の自動改行」を考慮した今までの文章の改行が乱されるし、ページ幅を大きくして文字数を大きくするのは、先述のようにこれ以上広げたくない考えから難しい。
このように些か頑固なようでもある状況に陥っていて、2015年以降に当メモ帳のテンプレートをいじったのは、せいぜいcontent箇所の灰色の濃度を落として、テキストの濃度を上げて文字色を明確に読みやすくした程度だ。



追記:2015年9月19日

ついでに、文法で今年のいつからか非常に気にするようになっているのは「している・していない」という現在進行形の「い」抜きや、一文中(文節)で「は・では・には・のは」等の助詞が重複しないようにするところである。
前者の「い抜き言葉」に関しては一般的に誰も問題視していないし、私も他人が使うだけなら問題視しないが、自分の文章はここらへんもキッチリさせたく思う、というより、今では「い」が入ることが自然に当然のセンスとなっている。
後者の「助詞重複表現」に関しては、例えば長い一文で重複助詞が離れていれば一見違和感が無いのだが、それを意味が変わらない程度に重複助詞を近づけると、誰の目にも息苦しい助詞の重複と感じられるから、このように位置を整然とすることで助詞の重複というのは見分けが付く。

以下略、別途記事を作成して9月24日に投稿したので参照されたい。
準体助詞の件 http://lesbophilia.blogspot.com/2015/09/2015.html

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