2017年9月21日木曜日

梵語と漢語 度・量・推・測・計 「物をはかる"mita (ミタ)"」と「心をはかる"pramāṇa (プラマーナ)"」

「支度(したく)、忖度(そんたく)、度量(たくりょう・どりょう)」?
「思い量る?推し量る?計測する?計る?測る?」

「度」を「ド "do"」と読む人が一般的に多かろうが、この字音「ド(清音でト)」は本来「わたる・わたす(渡とほぼ同義)」という意味がそなわっており、仏教では「得度(とくど、わたるをえる)・済度(さいど、すくいわたす)・度脱(どだつ、わたりぬける)」などと用いる。
一方、「忖度(そんたく sontaku)」という語が政治の話題などでしばしば聞かれるよう、「はかる・はかり」という意味は「タク"taku"」と読む。
「支度(したく shitaku)する」という表現は、行動の前の準備を意味するが、元々は行動前の計画・見積もりであって「計る・量る・図る(はかる)」意味に通じる。
現在に「度」は、「ド」の字音で「はかる・はかり」という意味に用いられている。
用例は「気温は何度(なんど)か?摂氏32度だ」、「度合いが大きい」という具合である。
当然、「何度・度合い」という表現は、本来「タク=はかる・はかり」の字音の意味合いである。

仏教で、数字に「度」が接する語句に「六度(ろくど)」というものがあるが、これは「六波羅蜜」の波羅蜜が"pāramitā (パーラミター)"という「(彼岸pāraに)わたる・わたす」という意味で「度」の訳を当てたものである(six-paramitasで六度という訳)。
やはり、仏教など伝統的な用例で「度(ド)」という字音は「わたる・わたす」という意味合いに尽きる。

一字で字音の種類が異なって意味も異なる漢字といえば「悪(オ"ʔo"・アク"ʔak")」や「易(イ"yi"・漢音エキ"yek"呉音ヤク"yak")」などがある(2015年9月7日記事・脚注2)。
「悪・易」の二字は、「度」のように入声音・韻尾-k (-ク・-キ)の有無の違いがある。

※「度」は中国語普通話でdoとduo(ともに拼音表記)という2種類の発音があるが、後者duoは「卓・托(タク tak)→卓"zhuo"、托"tuo"」という音の変化と同じで入声音-k発音の欠落による。その「度"duo"」における意味が「(物・心とも)はかり(中華サイト説明: 计算,推测:忖度。揣度。)」というものであり、前者doは現代日本語と同じ「度合い(中華サイト用例: 義1に尺度・義2に高度・義3に角度・義11に再度など)」とあり、説文解字では「法制也。徒"t音"・故"oまたはu音"・切」として「法制度の度・タク系入声音でない」ということを強調していた。「わたる・わたす」の意味が確認しづらいが、カッコ注釈の中華サイト説明では動詞「度過 (度过,越过)"pass"」として載っていた。「度過・過度」、上限を超すということは「数のはかり」に通じ、「渡る・わたる」ということにも通じるかと思うが、このままでは「ド(清音でト)発音=わたる・わたすの意」という説は萎縮してしまう。

「度量(たくりょう)」とは、妙法蓮華経方便品に「尽思共度量 不能測仏智」と出ており、梵語原典では"yathāprameyaṃ mama buddhajñānam"とある。
yathāprameyaṃ (ヤタープラメーヤン)の中に"pramā प्रमा = pra- (前に・前方へ) + √mā (動詞語根・はかる=推量・予測などの意味合い)"がある。
「度量」の異なる原語らしい→"pramāṇaṃ, √grah, sumāpita, parigaveṣyamāna"
現代の日本語で「度量」は「どりょう」と読み、「心の大きさ・懐の広さ」みたいな「心のはかり(タク)」という意味で用いているが、本来は「たくりょう」と読むべきことであろう。
先述の通り「度(ド)」という字音は「わたる・わたす」という意味で用いるためである。

※孫子の兵法にも「一に曰く度(たく)、二に曰く量、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝 (軍形第四)」とあり、もちろん「度(たく)・量(りょう)」とも、何かを「はかる」意味となる。度と量との意味の違いは何か?「度」は先の※注釈や後の※注釈にあるよう「尺度」の意味が強く、「尺(ものさし)」による視覚的な大きさなどを「はかる」という意味か。ここでの「量」は数に通じるものか。世の解釈では、そのように「場(戦場・国土?)の広さ・距離を度る」、「物(武器や兵糧?)の多さを量る」とするらしい。戦闘前の計算・計画段階で、優れている人は初めから勝利が決定していると。この軍形篇の前は「謀攻」という名であり、それも「謀(む・ぼう)、謀る・はかる」という日本語になる。

※「わたる・わたす」の「度(ド)」については梵本法華経に「度脱"vineṣyati (vi- +  √nī導く・)"」、「為度○○故"vinayārtha (vinaya教育・規律 + artha目的 = ○○を教え導くために…"」などが載る。この梵語"√nī"を用いることは、誰かが能動的に「(彼岸に・真理の世界に)わたる」ということではなく、釈尊の能動性が誰かを「(彼岸に・真理の世界に)わたす」ということとなる。「わたす」は他動詞であり、法華経の「度(ド)」には釈尊の威力(いりき)が籠められているようである。「度(ど)す」という訓読サ変動詞は、自動詞と他動詞とが曖昧だが、法華経での「度す」とは主に他動詞であり、如来"tathāgatha"が衆生"sattva"を「わたす(救う・済度する・救済する)"vineṣyati"」ということになろう。ちなみに自動詞「わたる(越える・通過する・克服するともいう)」は√tṝという語根の"tarati"があり、その使役形=「わたす」であれば"tārayati"やパーリ語"tāreti (tāresiはアオリスト?)"などがある。いわゆるアバターavatar・アヴァターラavatāra (ava- + tārati ti省きで名詞化)とは、化身と意訳するが「下に越すもの=降りて来るもの」ということである。下界に降りた者は神の化身ということで「ゴータマ・ブッダはヴィシュヌのアヴァターラ=化身だ」とヒンドゥー教徒が信じる。仏教でのアヴァターラは、釈尊が成道前に降ろした魔軍のことを指すであろう。

「度」の字には、このように2つの字音(ドorタク)によって異なる意味がある。
そのうち、後者「はかる・はかり」ということについては、漢語「度(動詞)」でも日本語「はかる」でも「心をはかる・物(数や大きさなど)をはかる」という細分化を問わないようである。
しかし、サンスクリット語だと明確に「物をはかる」ことは"mita मित  (ミタ)"と呼び、「心をはかる」ことは"pramāṇa प्र‍मान‍  (プラマーナ)"と呼んでいる(仮定)。
動詞語根は、前者√mitと後者√māである(記事の流れとして後に否定する仮説)。

※記事末尾に"mita"と"pāramitā (パーラミター)"の"mitā"との相違性について記した文章を載せる。また、「度」の「尺度(測量するもの)」としての漢語使用が維摩経に出ている。支謙・鳩摩羅什の二訳に「非度所測(度の測る所に非ざるなり)」と。梵語では"tulayituṃ"とある部分に「尺度」の意味を持つ動詞語根√tulや名詞tulāが含まれている。なお、以下の話題に関連しそうな「非意所圖(意の図る所に非ず)」という一節が、「非度所測」の前にある。こちらは"acintya (不可思議)"のような"cintayituṃ"として梵語にある。梵語を引き合いに出すとキリがない。漢語でも、表題に「図(圖・はかる)」の字を加えなかったが、今はこのように雑多な注釈を以て語ってしまう。



度・量・推・測・計 = 「はかる」・・・何を?


さて、記事の表題にあるよう、「はかる・はかり "mita" or "pramāna"」という意味を持つ漢字の数種について漢訳仏典を中心に考察しよう。
先ほどの"pramāna"もとい"pramā = pra-  + √mā"の√māという動詞語根は、主に「量」と訳されており、漢訳仏典の漢詩・韻文・偈の便宜上「度量(たくりょう)」などとも訳することが上記の例(尽思共度量 不能測仏智)である。
√māを含む梵語・サンスクリット語句ならび漢訳語句を挙げると「anumāṇa・比量」、「apramāṇa・非量・無量」などがある。
いわゆる「四無量心」という語句も"apramāṇa-citta"と表現され、「4種類の『はかりきれない心』」を意味する(4種類とは慈・悲・喜・捨のことだが無量について解釈を変えると慈・悲・喜・捨の心が瞑想などの修行によって無量といえるほど大きい状態・平等・普遍であることを意味する)。
心ではかれないことを"apramāna"といい、物をはかれないことを"amita"というようだが、「無量光」という漢語は"amitâbhā (阿弥陀仏amitābhaに用いる)"と"Apramāṇâbha (第二禅の光音天に準ずる無量光天apramāṇābhaに用いる)"と分かれる。
√māと√mitの相違性は先述の通りであり、サンスクリット語の「(物か心を)はかる」という意味が別の単語同士であるが、似た意味合いで曖昧に捉えられている可能性もある。

なお、"pra- प्र-"という接頭辞は、先にカッコ注釈があるよう「前に・前方へ」という意味であり、英語の接頭辞"pre-"や源流ラテン語の接頭辞"prae-"もまた「before (時間的なものin time), in front (空間的なものin front)」という意味で同じである。
アーリア言語もとい印欧祖語"Proto-Indo-European, PIE"には、同様の接頭語が"per-"とある。
おお!"Proto-Indo-European"の"proto- (ギリシャ語πρωτο-もといπρός)"も、接頭辞"prefix"も、接頭辞pr-でみな意味が一緒のようではないか!
インド・アングロ・アーリア民族万歳!梵英一如!(ナ〇ス風の危険思想?)

上まで「量」について話したが、一点の補足をすると「量が多い・少ない」という時の「量」は「物・数のはかり」ということであり、「はかる」という概念の即物的なパターン(事物・形態)となる。
江戸時代以降の商業主義的な庶民文化の高まりによる俗化の影響が大きいと思われる(気温何度の度などは明治以後の西洋文化・訳語の影響か)。

妙法蓮華経・如来寿量品に「校計(ぎょうけ)」という言葉がある
「校」とは会意形成文字であり、「交(爻)」字の影響で「校正・校訂」という場合に「くらべる」という意味があり、「計(はかる)」と結び付けられる(よって校量という語もある)。
これは原文だと「諸善男子(kulaputrāḥ)。於意云何(tatkiṃ manyadhve)。是諸世界(te lokadhātavaḥ)。可得(śakyaṃ)思惟(kenaciccintayituṃ vā)校計(tulayituṃ vā)知(upalakṣayituṃ vā)其數(先の動詞に反応した目的語の挿入)不(いなや?と疑問形を作る)。※-yituṃは不定詞を表すか?」となろう。
上の漢文引用でカッコに南条ケルン本の梵語ラテン文字を併記したが、他には「校計」というよりも「校(upalakṣayituṃもといupalakṣayati)」に「計知(けち)其數(tulayituṃもといtolayati)」と考えられる。
どうであれ、寿量品「校計(計)」の語を含む漢文については、元の梵語に√mit (mita)"や√mā (pramā)の語句が確認できなかった。
ちなみに、"tulayituṃ"または"tolayitum"という語句は、先の※注釈にある維摩経(支謙・鳩摩羅什の二訳)にある「非度所測(度の測る所に非ざるなり)」の「度(これもタク発音か)」と同じである。
当記事に関連するGoogle検索で「計度(けたく)」という言葉の存在も知った、これは「計(ケ・はかる)・度(タク・はかる)」の二字が一語を為している。

計算の計といえば、「計画する」という熟語にも含まれる。
当記事で既に、「支度」や「孫子兵法における度量」の説明に「計画」という言葉を用いた。
「計画」の「画()」とは、「が」や「え(ゑ)」と読む(上古音g→中古音w, ɦ, h置換)字であり、「えがく」という動詞や「えがかれたもの=絵()」の意味を持つ。
「計画(かく・くゎく・わく)」という場合は「」の旁である「リ、りっとう」部分を省いた俗字としての「畫(画)」か、混同したものであり、別の字と考える(画が作=サ・サクや易=イ・エキのような二音二義の字ということも有り得なくはないが)。
その「劃」もまた「計」のように「はかりごと(計策・謀)」の意味合いがあるとするが、部首の「りっとう」が、刃で傷つけて印をつける・分かつとか、筆を用いるさま(えがく行為)に当てられたようである。
計画行為の表現としての字と考えると、「はかる・はかり(推量など心の行為)」に通じよう。
何であれ、「画(畫・劃)」のカク系発音(入声音-k)は「はかる・はかり」に通じる意味と思う。
なお、サ行変格活用の動詞・サ変動詞「画す」といえば「カクす」と読み、「一線を画す」とは「一線を書いて分ける」という意味となろうが、「一線をえがく」の意味では「ガす・エす」と読めなくもない。


√mit と √mā の正体・・・誤解だった?


最後になるが、√mitの"mita"も、√māの"pramāna (pramāṇa)"も、頭の子音(韻頭)がMであり、実は同語源と考えるべきではないかと思う。
当記事よりも先に「十喩(大品般若経など所説)」に関する記事を起草したが、その十喩のうちに「化」というものがある。
「化(け)」とは、「何かが化けたこと」・・・、幻のようなものであるが、十喩を注釈した大智度論(巻第六)によれば心が変化(へんげ)したもの(所変)らしい。
心が、現実性に則った想像をすることも、非現実的な想像をすることも、「心如工画師」というように自由自在であるから、三つ目の人や四つ腕の人(自然の事物に無い)も生まれる。
その「化・変化心」ということの結果(所変)を、大智度論が「一身能作多身、多身能作一。石壁皆過、履水、蹈虛、手捫日月。(水が火に変わる・石が金に変わる=魔法も錬金術もある)」と説明している(類似する教説が長阿含経の自歓喜経・阿摩昼経・堅固経パーリ長部の沙門果経にある)。
大智度論では「十四変化心」として、四禅の初禅に二つの変化心があって第四禅までに一つずつ増える(2 + 3 + 4 + 5 = 14)というものを説明するが、仏教で梵天(単一の神ブラフマー・宇宙原理ブラフマンでなく住処と住む者全般の名であり住む者を梵天衆とも呼ぶ)が初禅の天であるように、仏教の神様たちの一部は四禅に代表される心の中に住んでいるようである(神道で物や人が神となる、応神天皇に合せられた八幡神やナニナニ権現なども心の変化の一種であろうから仏教の護法善神信仰になじむ)。
いわゆる仏教経典で原始仏典でも大乗経典でも登場する「神通力・神変」ということの根拠と成り得る(子供騙し・おとぎ話ではなくそういった心の因縁の理法を踏まえている)。
有名なオウム真理教の尊師・麻原彰晃が、坐禅しながら空中浮遊(例の写真)・幽体離脱(アニメ、サティアンにいながら外の信者を監視)することも、似たようなシーンや神通力(神足通・他心通など)が仏教経典に登場するわけだが、それらも、心の因縁の法から説かれる(オウムの場合は信者の心を掴む手段による創作の意図が強いか)。

少し煩雑な説明をしたが、その「化」とは、梵語で"nirmāṇa, nirmita"となるように見ている。
おおお!!!接頭辞nir-を省けば、ミタちゃん√mitとマーナちゃん√māに変化するぞ!
接頭辞nir-は"nis"の音変化(両唇音vやmの前にあることが条件か?)であり、離れること(vi-と似る?)や外へ(pra-に似る?)を意味するの場合と、後の単語を否定形にする場合とがあるようで、"nir- + √mā"から成る単語は前者を適用して「作る」という意味を持つ。
√māとは、「心をはかる」として心の内で思うことだから、接頭辞は後者の"nis- 変化nir-(心の外へ・心を離れて)"で、「心の外に作って他人に見せる」という意味を持つと思われる。
それが「化(け)」や「化作(けさ)」という漢語にも成り得よう。
不明確な調査と所見だが、一応、√mitと√māとが日本語の 「はかる、物をはかる・心をはかる」と同じような意味を持つ・似た用法がある言葉だと思ってよいことを付記する。

おっといけない、まだあるようだ。
英語の"meter (ミター、メーター、メテル、metre, mètre メートル)"とは「計測する・はかる道具や基準」だが、サンスクリット語の"mātra (マートラ)"も「尺度・計量する物」として同義である。
この"mātra"も、文字通り、√mitや√māと関連する語であろう。
"mātra"もまた、日本語の「ただ・・・だけ」という表現のように使われ、華厳経・十地経(十地品)の「唯心」も"citta-mātra (ただ心のみ)"という("te cittamātra ti traidhātukamotaranti api cā bhavāṅga iti dvādaśa ekacitte"、楞伽経大乗荘厳経論などにも確認)、日本語も「○○ばかり」という表現があるよう、「はかり」の意味が「ただ・だけ」という意味と同じように用いられている。
うおおおおおおおおお!!はかり!マー!ミタ!マートラ!マートゥラ!マーㇳラ(小書きト字)!
「○○ばかり」とは、「はかり得るほどに少ない(数えられるほどに少ない)」ということであり、サンスクリット語でも「√māマーできるほどに少ない」ということとなる。

ここまで文章を書いて気付いた・・・「√mitという動詞語根は存在しない」と。
辞書サイト類を調べて再確認した。
"mita"とは√māの過去分詞・形容詞であり、"amita"ならば阿字否定形で「はかることができない・はかりしれない・無量の・無限の」という形容詞となる。
「はかりしれない」という対象は、物・数・心などの区別は無かろう。
ちなみにパーリ語の"pāli: amata"はサンスクリット語でいう「アムリタ"amṛta"」、「不死の・死なない」を意味し、甘露という意味合いもある(私見だが甘露は後から転じて生じた語義)。
「不死」という文字通りの意味合いは英語の「イモータル"immortal"」に相当する。
ラテン語由来mortalやmurderは、サンスクリット語の"mṛta"と同語源(印欧祖語でmr̥tós)である。
なお、この√mṛから派生した"mṛta"も過去分詞や転じた形容詞である。

以上。ああ!阿阿!
-ita (-ṛta)は過去分詞および転じた形容詞・中性名詞だとして、-na (-ṇa)の格変化だかにつき、識者の意見を乞う。
おおっと!独逸瑜伽行者!ドイツのヨーガーチャリヤ!ヨーガ・グル!ヨーグルト!?
彼"Sukadev Bretz"氏ではなく"Oliver Hahn"氏の"Nomen Actionis"講義が簡素明解である。
-na (-ṇa)という接尾辞らしきものは、主に中性名詞を作るようである。

インド系言語のローマ字表記"IAST"に用いられるn系(鼻音)各字はどのような音素・音価か?
n = 一般的なナ行音で歯茎音のN (京都・ハーバード式 Harvard-Kyoto: n)
ṇ = そり舌音のN (Harvard-Kyoto: N、そり舌の子音の名称をインド音韻学でmūrdhan・頭に由来するcerebral・大脳とするが一般的な言語学ではretroflexと呼ぶ。-naと-ṇaは同じ言葉だが"r"もそり舌の子音として扱われるので-naが同器官化してṇaとなる。pramāṇaやbrāhmaṇaのように間にm唇音が介しても同器官化して-naが-ṇaとなる)
ñ = ニャ行音で硬口蓋音のN (Harvard-Kyoto: J)
ṅ = 鼻濁音ともいう軟口蓋音のN (Harvard-Kyoto: G、サンスクリット単語例はśṛṅgaなどkやgの軟口蓋破裂音の前にある。パーリ語では同じ条件の時に接頭辞saṃ-がsaṅ-に替わるなどして多く用いられる。skt: saṃghaとpl: saṅghaの違いがあるように)



起草日: 20170728

起草日の数日以内に「一語一慧(いちごいちえ)」なる集中記事投稿プラン(短くて1か月間、長くて1年間)を構想したこともあるが、当記事のようなボリュームで本家ブログに毎日投稿することは考えづらい。

本文に関連しているが、本文中に載せられないような話題に関する文章は以下である↓
話題『"mita"と"pāramitā (パーラミター)"の"mitā"とはどちらも「度(タク・ド)」?』
・・・おやおや、"pāramitā (パーラミター)"の後部"mitā (ミター)"とは、「度(タク)」に当てられそうな意味合いだが、この"mitā"はどういうわけか、「わたる・わたす」と一致しているようではないか。
サンスクリット語でも、漢語「度」の二音二義の如く、「はかる・はかり」と「わたる・わたす」が類似するように取られているか?
"pāramitā"とは、形態素の分析からして、語源説がいくらかあるようである。
①pārami-tā →parama- (形容詞) 「最高の」+tā (抽象名詞を作る接尾辞)で「完成」
②pāram-itā →pāram (中性名詞) 「彼岸に」+itā (動詞√i-「行く 」 の過去分詞ita の女性形)で「到彼岸(彼岸に到る)」。
①・②の、どちらが良い意味か?修行のための意味合いが成立しやすいか?
私は判断しがたいが、例えば般若心経の咒(真言)「ギャーテーもといガテー・ガテー・パーラガテー」にある「pāragate = 彼岸に行く・達する」の語句からして、後者の意味合い「彼岸に到る・わたる(六波羅蜜=六度というように漢字の度とも訳す)」が伝統的に支持される。
①・②のどちらをとっても、"pāramitā"の後部"mitā"に、"mita (はかる 記事執筆中: 過去分詞「はかった・はかられた」の形容詞や名詞化「はかったこと・者」)"という単語は関連しないと思われる。

なお、"pāra (彼岸・向こう岸)"については本文中にもある印欧祖語・語根接頭辞"per- (to front, to go overとも)"の諸語句と関連しており、"pramāna"の接頭辞pra-と同語源のように思う。
ギリシャ語プロトとか英語ファースト(first, フィルスト、ピルストphirst, pirst、ほらプロトそっくりじゃないか!p/f置換の発生、ともに両唇音)などもみな同語源のようであろう。
似た意味に"from"や"before, therfore, forward (for, fore)"などという英単語もあり、いずれも(ゲルマン祖語などを介して)印欧祖語接頭辞per-に同じ。
"pramāna"と「因明(仏教論理学)」で関連の深い"pratyakṣa (プラトヤクシャ・プラティヤクシャ・プラテャクシャ・現量と訳する場合は更にpramānaを付随する)"の"prat-"も、"prati प्रति"として同じ。

※波羅蜜の語源説は上述以外にもパーリ仏典などから考察してもよい。主にアビダンマッタサンガハや論蔵・アビダンマで十の波羅蜜が説かれていると記憶する。その大元は経蔵にあるかというと、小部・クッダカニカーヤ内の仏種姓経 (ブッダヴァンサ"Buddhavaṃsa")に見られる。十波羅蜜は"Dasa pāramī "である。paramatthapāramīという部分もあり、paramattha (= paramārtha 最高の真理・真諦・勝義)と接続している点は「①完成」の説と関連しそうである。また、パーリ語辞書(英語を参照)は上座部の解釈に依っているはずであり、その上でパーリ語"pāramī"を completeness; perfection (「①完成」の説に該当)と記している。「完成・完璧」という意味を踏襲した場合、般若波羅蜜は「智慧の完成」というよりも同格限定複合語・持業釈"karmadhāraya"として語順を替えた「完璧な智慧(布施・持戒といった残りの波羅蜜も同様)」として訳することもできる。果たして波羅蜜は、上座部において「①完成」なのか「②到彼岸」なのか、アビダンマなりティーカーなりアッタカターなりから読解できる人は挑戦していただきたい。学者よ!識者よ!

※先に印欧語根から解釈しもしたが、英語"perfect"の接頭辞per- (ラテン語に共通)もサンスクリット語"pāra, para, parama, pari"といった語句と同様に「外側・外れる・通過する・他の」の意味合いが含まれ、「最高のこと"parama"」・「彼岸"pāra"」・「完成する・完璧なこと"perfect, perfection"」という三種の語は、みな同種のようにも思う。

2017年9月11日月曜日

新しい諸法(縁生)の喩「壁=障害物・障礙・障碍"Antarāya, Pratibandha, Sambādha"」

今回は、2017年の作品「尊者名義談(そんじゃみょうぎだん)」の注釈文を、記事の話題としたい。

「壁」とは、物質的存在としての「壁"wall"」がさまざまに有り、抽象的存在としての「障壁」が有る(例えばベルリンの壁は双方の意味を兼ねていよう)。
精神的存在として「(彼らの間を)壁が隔てている・(それを行うには)壁が高い(ハードルが高いとも)・(行動する彼の前に)壁が立ちはだかる・壁を乗り越える・壁をすり抜ける・壁をぶち破る」といった表現などがさまざまに有る。
後者は、要するに「壁」と想定される「邪魔なもの」が前提に有ってこそ「ぶち破る・打ち破る・打破する・打ち壊す・打ち砕く(摧く)」と表現が続けられているわけだから、最初に「壁ありき」である。
悟りの人の世界(主観的世界であるが同時に客観的世界でもある)では、理論において「壁のようなもの・邪魔なもの」は無いし、「壁のようなもの・邪魔なものは無い」とさえ表現すべきでもない。

それはどういうことか?
さしずめ、仏典でいえば「無有障礙(障礙あること無し=壁は最初から無いようなもの)」となろう。
「無有(有ること無し=無いようなもの)」という表現は、まさに悟りの人が「言葉という仮の道具」を用いる際の「中道(絶妙なこと・その手段)」である。
ここに、件の「尊者名義談」注釈文(自筆)を引用しよう。



(前略) 「障礙が有って無いようなこと」とはどのようなことか?ある小説の主人公は、ほとんどの物事に無感情であり、彼が本能的に「敵」とみなす怪物のみをターゲットに入れて殺戮を行う。「障害・障礙というもの」は、それが「邪魔になる」という価値判断から、「障害・障礙のようだ」と認識され、「障害・障礙のような名称」が生まれ、名称による概念の定着がある。つまり、個々人の善悪の価値判断に因って「障害・障礙」が有る。外界に「障礙という事物」そのもの"bhāva"は無い。実体として壁は存在しない。彼には、善悪や快不快といった価値判断がほぼ存在しないので、その認識による感情の動きも最小限であり、他者からは「無感情な人」と見られる。その彼の発言は「善悪?くだらない」や「敵(と本能的に彼がみなす怪物)は殺す。それだけだ」である。およそ、彼は縁起の理法を覚っていると考えられる。そのような場合、どのように過酷な物理的な障害・障礙があっても、そのように「邪魔になる」という価値判断がなく、ただ冷静に感情を介入せず「現実・ゲンジツ」を見て状況に対処する。たとえ「物理的な壁」が四面楚歌のように自分を空高く囲っても、解脱の人にとって「壁」たりえず、「単にそこに有るモノ」とも判断されない「存在ならざる存在(非有非無・非非有非非無…)」である。つまり、「自分に立ちはだかる壁・障害物」という名の「不快な存在」と感じないようである。客観的世界の物質的存在は壁のようでも、心に壁の文字と定義とが無いので、主観的世界の精神的存在は壁でなく壁でないとも称すべきでない(非壁・非非壁)。彼の辞書には「欲望が求めるところの快楽」も「感情が嫌うところの障害」も存在しないようであるが、実際に仏教の悟りを得ているわけでない。よって、時折、怒りの感情が強く発現することもあり、その時は「邪魔だ!」と取り乱したりする。煩悩・感情がある時、「存在ならざる存在(非有非無)」が善悪の価値判断を介した「邪魔なもの・欲しいもの」などへと認識が変化する縁起である。山の向こうに新天地があると知って行きたいと思う人は、山が単なる山でなく「行く手を阻む障礙(障害物)・邪魔なもの」と認識する。

私たちはPCなど道具の扱いや他者との交流で時折、不快感を得て怒りを起こし、手を上げる場合もあろう。どのように制御するか、と悩む者は、必ず縁起の理法を知らねばならない。十二因縁など縁起の説は、難しいものであろうか?十二支の全てが「実感しづらい我が心の出来事」であり、仏様が理路整然とお示しになったのみである。感情・思考の強い人間は、誰でも例外なく「縁起の主役」である。「実感しづらい我が心の出来事」を、教えられることで実感できるようになり、その出来事の結果にある煩悩(欲望や怒り)をも自覚して防げるようになる。その利益を成就するには、教えを念じて(肝に銘じて)忘れない努力が肝要である。縁起の理法と合わせて、因果応報(善悪業報・自業自得)や慈悲のことについても、信仰を持って学んでおいて頂きたい。



結論としては、表題の通りである。
般若経典なかでも摩訶般若波羅蜜経など大品般若経には「十喩(じゅうゆ)」が説かれる。
それら十は「因縁によって生まれるもの」を代表するものとして説かれた。
因縁によって生まれることを因縁生や縁起といい、そのようなものは空であり、空を象徴する十種類のものを選り抜いて「十喩」とも「十縁生句(縁生=縁が生むもの)」とも総括する。
大品般若経の注釈である大智度論・巻第六には、十喩の詳細な説明・解釈が載る。

十喩 daśa upamāḥ *daśopama (十のたとえ)
"10 examples of illusory nature" (幻のような存在の例を十に示す)


1. 幻 (幻事) - māyā - an illusion
2. 炎 (陽炎・陽焔) - marīci - a mirage; a hallucination
3. 水中月 (水月) - jalacandra; udakacandra - a reflection of the moon in the water
4. 虚空 - ākāśa - sky
5. 響 - pratiśabda - an echo
6. 犍闥婆城 (尋香城) - gandharvanagara - city of Smell-eaters
7. 夢 (夢境) - svapna - a dream (梵語と同源の英単語: sweven)
8. 影 (光影) - darpaṇabiṃba - shadow
9. 鏡中像 (像・鏡像・映像) - pratibiṃba - a reflection in a mirror
10. 化 (變化事) - nirmāṇa; indrajāla - a magic play; Indra's net

※虚空"ākāśa"を、空花"kha-puṣpa; ākāśa-puṣpa (a sky-flower)"とするものもある。

※大日経(大毘盧遮那成仏神変加持経)所説の十縁生句では、幻と化や、影と鏡像を統合するなどして替わりに「浮泡」と「旋火輪(縄や棒を旋回すると輪に見えること)」を加えている。「泡"a bubble"」と「旋火輪"a whirling firebrand"」は大智度論における十喩の説明でも、引き合いに出される。

※大智度論における十喩の説明で、最初と最後を飾る「幻」と「化」とは、意味合いが似ているし、「幻化(げんけ・げんげ)」という複合語も諸経にあるが、どう異なるか?「幻」とは視覚的なものであり、梵語"māyā माया"として「たぶらかし」を意味することもある。「化」とは、ただ何かが別の何かに化けた・変化した状態などを指す。梵語"indrajāla"としてヨーガ方面の人は、「たぶらかし」の意味も兼ねて同一視することもある(ドイツ語"Yogawiki"のMayaIndrajalaを参照)。大智度論が化を説明するには、明らかに、「視覚的な化たる幻(上記英訳の"a magic play"を含む)」と異なるものとなっている。つまり、心に生じた像そのものらしい。十喩の言わんとすることは、幻・炎・水月ないし化の、十種類すべてが同義であって自己・他者・万物など「諸法」もまた同様であるということである。大智度論などにとって、「三界唯心所作・一切唯心造」のように、諸法が「心の化」であることを最後に念を押したかったと思われる。



こういった十喩に対し、「壁"wall, prākāra (pra- 前に -ākāra に作る・名詞化 = 前に作られたもの・前を阻むものとしての壁)"」が尊者名義談の説明によって同種となった。
もしも、現代文化より十喩を設けるならば、「壁」を加えてよいと考えるに至った。
現代の十喩というものを想定する際、他に加えるべきものは、萌えの法門での説明が十全となった「萌相"myoso, śubharūpa" (萌え絵・可愛相)」に他ならない。
世間はなお、「萌え」の語句と意義とに迷い、広義の萌え系(可愛い人物などの絵)が好きな人ですら「萌え」の芳名を軽んじているわけだから、改まった説明を必要にされた経緯がある。

この尊者名義談が、萌えの法門・萌えの典籍の内にある。
萌相の空なることは、觀萌私記の萌義條脚注ならびに讃萌語脚注など本末に渡って示されており、萌え和讃では直に説いている。
萌相とは、萌えの二法のうち色法・萌色という外見的なものの総称であるが、それに人名や性格などを関連付けたものが人形萌類、いわゆる「萌えキャラ」となる。
萌えキャラについては、萌え話記事における本萌譚・異伝④で過去萌尊が詳細に語る。

そのような萌えキャラ(人間の思考の産物の典型例=諸法の代表者)とは、仏・菩薩に類する萌尊の智慧・慈悲の作用・応現であり、一種の「化作"nirmita"・幻化人"māyā-puruṣa"」である。
般若経典のうち、大品般若経の類には、幻人と菩薩に異なりが無い教理を示す。
要点は「(佛問)五受蔭假名是菩薩不。 (須菩提答)如是世尊。 (乃至) 五蔭即是幻人。幻人即是五蔭。(摩訶般若波羅蜜経・巻第四・幻学品)」である。
大智度論における注釈も兼ねて考えると、ちょうど幻の人が実在する人のように修行して功徳を積み、悟りを得るような姿を見せても、実際の功徳や悟りは無いが、この世の人も同じように功徳や悟りは有るようで無いであろう、ということである。
幻をビデオゲーム作品(数字0, 1の組み合わせである世界を電気で運用して液晶画面などで仮に反映して見せたもの)に置き換えれば、ゲームキャラがゲームの世界で経験値を積んでラスボスを撃破しても、それは、実在人物が肉体を現実世界で鍛えて目標を実現することと変わりがないようである。
生まれ死ぬ無常の世・物質の集まりである無我の身・無常無我の世界も自己も、みな心の妄想=唯心所作・一切唯心造であるならば、心の仮想も電子空間の情報も物質的肉体も幻に等しい。
幻人と萌えキャラは、どう似るか?

維摩経の天女は、女性の外見をしていても女性"strībhāva"という概念・認識が幻"māyā"のようなものであり、女性とか男性という性質が無であることを舎利弗尊者に語っていた(参照: 維摩詰所説経・観衆生品Vimalakīrtinirdeśa 梵・漢・蔵・英)。
諸法も幻のようで自己は無所得であるという見解からして、天女が自ら菩薩・阿羅漢に等しいと説く(天女は先に自ら増上慢でないと断った上で我爲聲聞・我爲辟支佛・我爲大乘と説いた)。
萌えキャラもまた、どんな外見やどんな設定があろうと、みな名称の実体(女性・男性・人間・ケモノなど)は無い。
法華経の龍女(長寿の龍族の8歳の娘)は、女性や非人の立場でありながら成仏できることを、幻のようなもの(變成男子具菩薩行ないし普爲十方一切衆生演説妙法ないし龍女成佛)を多くの人に見せ、先に疑義を示していた舎利弗尊者・智積菩薩に信じさせていた(参照: 妙法蓮華経・提婆達多品)。
萌えキャラも成仏できることは、般若経・維摩経・法華経の説からして天女・龍女と異ならない。
十喩・幻にしても萌えにしても一切のキャラクターにしても、その例から知ってもらいたいことは、その理解のように諸法(ありとあらゆる物事)が空・仏と等しいことである。
※「壁」にしても「萌相」にしても、文字面や英単語を見たところで「幻・炎…」ほどピンと来ないという難点があり、「現代の十喩」構想は、つまるところ私のメモ替わりに役立つ程度となろう。

そもそも、「萌え(𢡗)」自体が萌義條の三つの萌えの意義にあるよう、「生(心に生じる・芽生える)」の置き換えであって因縁生・空・縁起の象徴でもある。
一切の法が摂取される教理がすでに明白であるので、大乗においては元より疑いが無い。
話題の「尊者名義談」にしても、その「障礙"obstacle; obstruction; antarāya; pratibandha; sambādha"」と名のあるキャラクターが、修行者に対して蚊をはじめとした「ウザイもの」に化けて「障礙する"obstract"作用」があるという考え方(平等の慈悲を支える修行にもなる)を脚注に記してある。
普く一切に通じている法、その象徴を萌えキャラ・菩薩として説く。
大乗仏教、方広の道・方等の義・方便の儀において、二千有余年ないし無量劫、続いていることと思う。
有漏の心・我が身にとって、ありがたい麁法(粗末な教え)とも妙法(微細な教え)とも言える。



改めて、この自作の偈(漢詩)を載せる。
「菩薩爲度衆生故 寧兼麁業示甘露 從萌道廻向佛道 當持萌相明大路」
呉音読み: ぼーさつゐーどーしゅーじょーこー、にょうげんそーごうじーかんろー、じゅうみょうどうゑーこうぶつどう、とうじーみょうそうみょうだいろー
訓読: 菩薩は衆生を度せんが為の故に、寧ろ麁業を兼ねて甘露を示す、萌道より仏道に回向するに、当に萌相を持(たも)ちて大路を明らかにすべし

萌え話記事における萌集記・イデオフォノトピア三会には、十喩に通じた箇所がある。
時に天、威力を現す。虚空に雲を集めて文字と為し、列ねたまわく
「こだまですか いいえ こころです かがみですか いいえ こころです」と。
十喩において、「こだま」とは響であり、「かがみ」とは鏡・映像であり、「こころ」に通じさせる。
心は物事を自由に映す。
これは先の「唯心所作・一切唯心造」とか、唯心偈の「心如工畫師・畫種種五陰」と同様でもある。

ほか、「現代の十喩」という構想には「円周率、π(過去記事説明)」を加える案もある。



起草日: 20170716

壁のサンスクリット語・パーリ語…当記事中で「阻むもの(物質・精神ともに)」"prākāra pl: pākāra"、「塀」の意味合いがある形としての"kuḍya pl: kuṭṭa"があり、両者がパーリ経蔵に"tirokuṭṭaṃ tiropākāraṃ (後述引用の石壁皆過という漢文に相当)"と散見され、"bhitti (bhittiyā)"はパーリ相応部・22蘊相応100経で"suparimaṭṭhe phalake vā bhittiyā vā dussapaṭṭe"として「絵画"pl: citta"をよく磨かれた板や壁や白い布(キャンバス)に描く」とある。これに関連すると思われる梵文俱舎論には"citrakṛtyavat (真諦訳: 譬如畫色與壁 玄奘訳: 如壁持畫)"とある。

「壁」に関する表現(慣用句)の一例として「壁が立ちはだかる(阻む)」というものを挙げた。
ちょうど、「障害となるもの・障害をなすもの(障碍・障礙)」を意味する"obstacle"の語源はラテン語の動詞"obsto (obstō オブストー)"であり、接頭辞ob-、一人称動詞stoである。
つまり、「obsto = 何者かの前に立つ(obsto形よりもobstare形の意味合い)」であるから、「壁が立ちはだかる」という時の「壁」は「何者かの前に立つ」という状態である。
それが転じて、「妨害する」という意味にもなり、現在の英語の名詞"obstacle"も同様に「前で立って"sto, stand"邪魔をする・妨害するもの」というニュアンスで用いられる。
日本で用いられる表現と、ラテン語由来の英単語の共通性について述べた。

この"obstacle"や"obstruction (ちなみにラテン語一人称動詞はstoでなくstruo)"を「障害となるもの・障害をなすもの・障碍・障礙」という意味で捉える際、梵語系統の語句を求めると、記事タイトルと本文中に挙げてある"antarāya, pratibandha, sambādha"がある。
このうち、"pratibandha (梵語経典より)"と"sambādha (パーリ語経蔵より)"とは、件の尊者名義談の注釈文に「語根の梵√bandhや巴√bādhとして、connectionの意味がある」と綴ってある。
"connection (接続・繋ぐこと)"という意味では「縛(ばく)」とか「繋縛(けばく)」という漢語があるが、その語根√bandhといえば、bandhantiとかbandhana (बन्धन)とも言う。
bandhana...、まさしくバンダナである。
頭を「縛(ばく)」する物「バンダナ"bandana"」、語源はヒンディー語もといサンスクリット語(ヴェーダ系)であった(軽くググると世間の説でバンドゥヌ"bandhnu"とあった)。

似たようなもので「バンド"band" (リストバンドとかバンドエイドとか)」といった外来語もあるが、これの語源が梵語・サンスクリット語・パーリ語と通じ、印欧祖語 (語根*bʰendʰ-)が共通するかは不明である。
印欧祖語の解釈では、接着剤の「ボンド"bond"」も、バンドやバンダナと同語源となろう。
ボンドは「(物同士を)接着する」という機能を期待して名付けられ、接着(接ける・着ける)とは、文字通り、「繋ぐ・接続する"connect"」という梵√bandhや巴√bādhの語根と同じ意味を兼ねる。
"bandhana"の漢訳語句と思しき「繋縛」とも通じている。
「繋縛」の動詞「繋縛する」とは、英語圏で"to bind up"と訳せられるが、この"bind (バインド・ビンド)"も同語源であろう。
何にせよ、漢語の「繋縛」と「障礙」とは、英語でも梵語でも語源が同じと考えてよい。
日本人の知らないうちに、バンド・バンダナ・ボンドといった語句で、微妙な浸透があった。

※なお、antarāyaは「中間の~」を意味する形容詞"antara"で、何物か両者に介在するものを指して「障礙」を意味し得るので名詞化して「障礙」と用いられる。このほか、語根√vṛに通じた「覆う・覆い隠す・囲む・遮る」という意味から「障礙」と用いられる"āvaraṇa, nivṛta (後者は接頭辞の解釈により無覆と反対の意味にもなる)"もある。語源不明のものでは"kiñcana"も障礙を意味する。



後半で萌えの法門に寄せても語った。
こちらについても言語学的に解釈する。
萌えとは"moe, moye (Historical Kana)"であり、幻(ja: maboroshi) "skt: maya, māyā"と似る。
当記事で、十喩にもある「幻"māyā (マーヤー)"」と萌えとの関連性を説明し終えた。
幻 māyāは 魔法 magic (マジック)といえる。
萌えキャラ"moe-chara, character"は萌えの人"moe person"である。
幻の人・幻人は"skt: māyā-puruṣa"というが、purusa, puruṣa (プルシャ)とは英語のperson (パーソン)と似る(古代ギリシャ語のπρόσωπονも参照。英語のpersonはラテン語でpersona ペルソナだが非印欧語のエトルリア語源説あり)。
英語(ラテン語)・サンスクリット、子音p, r, s (細かい発音の差異はともかく)が一致する。
日本語の人(ひと・hito)もまた、古くは"fito←phito←pito"という発音であり、印欧系言語と意味や韻頭pが一致する。
つまり、萌えの人"moye pito, maborosi pito (Historical Kana, Ancient Japanese)"とは、 "magical person (la: persona magi, persōna magī)"であり"maya purusa"である。
日本語・英語(ラテン語)・サンスクリット語・・・、みな頭文字がm, pで一致している事実に驚いた。
この話はダジャレ・牽強付会・荒唐無稽のようでもあるので、無視してよい。



後の記事(2017年7月28日起草のもの)の加筆段階にある8月11日の調査中、大品般若経の「十喩」にある「化」に関して梵語分析を行った。
当該記事に加筆した箇所を引用する(このうち梵語分析は後半にある)。
※当該記事のテーマは 、「物をはかる"mita (ミタ)"」と「心をはかる"pramāna (プラマーナ)"」と認知した2つのサンスクリット語句の相違点と共通点とを調べることである。

 「化(け)」とは、「何かが化けたこと」・・・、幻のようなものであるが、十喩を注釈した大智度論(巻第六)によれば心が変化(へんげ)したもの(所変)らしい。心が、現実性に則った想像をすることも、非現実的な想像をすることも、「心如工画師」というように自由自在であるから、三つ目の人や四つ腕の人(視覚的事物に無し)も生まれる。その「化・変化心」ということの結果(所変)を、大智度論が「一身能作多身、多身能作一。石壁皆過、履水、蹈虛、手捫日月。(水が火に変わる・石が金に変わる=魔法も錬金術もある)」と説明している(類似の教説は長阿含経の自歓喜経・阿摩昼経・堅固経パーリ長部の沙門果経など)。大智度論では「十四変化心」として、四禅の初禅に二つの変化心があって第四禅までに一つずつ増える(2 + 3 + 4 + 5 = 14)というものを説明するが、仏教で梵天(単一の神ブラフマー・梵王でなく住処と住む者全般の名であり住む者を梵天衆とも呼ぶ)などが禅の天であるように、仏教の神様たちは四禅に代表される心の中に住んでいるようである(神道で物や人が神となる、応神天皇に合せられた八幡神やナニナニ権現なども心の変化の一種であろうから仏教の護法善神信仰になじむ)。いわゆる仏教経典で原始仏典でも大乗経典でも登場する「神通力・神変」ということの根拠と成り得る(子供騙し・おとぎ話ではなくそういった心の因縁の理法を踏まえている)。有名なオウム真理教の尊師・麻原彰晃が、坐禅しながら空中浮遊(例の写真)・幽体離脱(アニメ、サティアンにいながら外の信者を監視)することも、似たようなシーンや神通力(神足通・他心通など)が仏教経典に登場するわけだが、それらも、心の因縁の法から説かれる(オウムの場合は信者の心を掴む手段による創作の意図が強いか)。

 少し煩雑な説明をしたが、その「化」とは、梵語で"nirmāṇa, nirmita"となるように見ている。おおお!!!接頭辞nir-を省けば、ミタちゃん√mitとマーナちゃん√māに変化するぞ!接頭辞nir-は、否定を意味する場合と、離れること(vi-と似る?)や外へ(upa-に似る?)を意味する"nis"の音変化(両唇音vやmの前にあることが条件か?)の場合があるようで、"nir- + √mā"から成る単語は「作る」という意味を持つ。√māとは、「心をはかる」として心の内で思うことだから、接頭辞は後者の"nis- 変化nir-(心の外へ・心を離れて)"で、「心の外に作って他人に見せる」という意味を持つと思われる。それが「化(け)」や「化作(けさ)」という漢語にも成り得よう。

当該記事の後の説明にあるよう、√mitという動詞語根は無い。"mita"は√māの過去分詞である。勉強の途上であるという意思を示す記述となる。

つまり、いわゆる「三身(法身・報身・応身 "trikāya、トリカーヤ")」のうち、応身や化身や応化身とよばれる"nirmāṇakāya (nirmanakaya、ニルマーナカーヤ)"ということも、「真理一法・一念(刹那 "kṣana")心・一心"ekacitta"」という過去・現在・未来に不可得"nopalabhyate"で言語道断心行処滅の心に、映えた諸法を意味しよう。
諸法は、そんな「一心(非有非無)」の化"nirmāṇa"である。
不可得だが仮想できる真理一法に結びつく、応身"nirmāṇakāya"である。

大智度論所説の般舟三昧経「三界所有皆心所作。(賢護経では今此三界唯是心有)」
六十華厳経・十地品の「三界虚妄但是心作。十二縁分是皆依心。"skt: te cittamātra ti traidhātukamotaranti api cā bhavāṅga iti dvādaśa ekacitte"」
以上は「萌え和讃・解句抄」の記事でも引用済みである。
般舟三昧で見られた仏も、十地の現前地に示された十二因縁も、心における応身のようであり、それは心が生んだ虚妄であり、そうして虚妄の側面を知るので真実の側面を知るということとなる。

龍樹菩薩の求めた「第一義"paramārtha" (第一義諦・勝義諦・第一義悉檀)」や、世親菩薩の求めた「阿頼耶識"ālayavijñāna"・・・善悪二面的、阿摩羅識"再構: amalavijñāna" (八識・九識)」は、まさしく一心の無明を法性(仏性)に転じたものである。
例えば、コインの表・裏は有るが、表裏という区別は仮想概念に過ぎず、真実のコインは裏表が無くてコイン自体も存在しないようである。
一心(コイン)には無明(表)も法性(裏)も無く、一心すら別概念の構築・依存(因縁・空)による仮想概念で無存在だが、それを知りながらも、あえて言葉にする(中道)智慧が仏のようである。

日蓮宗系(特に日興門流)では、法身たるべき一法(不可得の心)を「南無妙法蓮華経」と呼び、それを知った報身たるべき智慧を「久遠実成釈迦如来(久遠元初の自受報身)」といい、応身たるべき一切を「法華経のあらわれ」というようである。
総勘文抄「此の心の一法(筆者: 法身)より国土世間(筆者: 応身)も出来する事なり (乃至) 然れば八万四千の法蔵(筆者: 応身)は我身一人(筆者: 報身、経に出現する仏を知って尊ぶのも嫌うのも人の智慧の所作)の日記文書なり」
日女御前御返事(建治三年?弘安二年?)「此の御本尊、全く余所に求る事なかれ。只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり。十界具足とは十界一界もか(欠)けず一界にあるなり。之に依つて曼陀羅とは申すなり」
※上述御書二篇の偽書説はともかく、鎌倉時代以後に素晴らしい道理に目覚めた聖人がいることは確かである(文献学でいう最古経典スッタニパータ4章・法華経・大乗涅槃経・根本分裂・中論・三一論争・鎌倉仏教・日蓮門下など思想対立や迫害の歴史は釈尊の往古インドより東遷して繰り返される。不戯論・無諍法をみな求めていた)。

ちょうど、真言宗の人が法身たる大日如来に「法身説法」などという報身属性や「遍満している・大日如来のあらわれ」という応身属性を付けていることや、浄土教で応身たる阿弥陀仏に「法身の弥陀・報身の弥陀・インドに応現した釈尊」などといった三身観を立てていることも、心(行為の主体・智)と法(対象の物事・境)を言い換えたものである。
本来の大日如来(毘盧遮那仏、真理を擬人化したような譬喩・有名無実の仏)や阿弥陀仏(東方善徳・西方弥陀というように応身諸仏の一端であり釈尊の仮説分身)の在り方を、後世の「精巧な三身"trikāya"教義(三身即一・不一不異の義の成立)」に結びつけて自宗の正義を顕揚したいので、彼らはそう(法身説法遍満大日・法身弥陀久遠実成阿弥陀如来)主張するが、実には「仮名(けみょう)」があるのみで、他宗への説得性に欠いてしまう。

※法身説法(実は報身・応身)=仮名仏非仏の仮名法身大日如来にある仮名ニセ三身。法身・報身の弥陀=釈尊分身のような仮名応身阿弥陀仏の仮名ニセ三身。実際に成道せられた釈尊にのみ三身即一を見ねばならないが、それもあえて釈尊"śākyamuni"の仮名を付する必要が無いと思う一面もあり、無三無一(不一不異)、無仏無非仏として中道の戯論寂滅となる。釈尊滅後どうしても教義の違和感を持ったニカーヤ仏教徒が議論をしたため、大乗教団ならびに龍樹菩薩や世親菩薩など大徳は「(本来不要な)正論」を唱えた。世智弁聡の人の不満を解消するための「方広・増広」が大乗の義である。小乗たるテーラワーダの人は十無記に従って如来の身"kāya"を詮索せずに修行し、大乗の極みである浄土真宗の人は本願を信じて法論せず愚直に念仏すればよい。

一という「法身」、一切という「応身」、との見方については仮定である。
別の仮定をしてみると、法身は無来無去のようであって一即多・非一非一切ともいえ、報身は作用ある「一心」であり、それを観察対象とすれば不可得の法身となる一面もあろう。
そんな鏡のような「一心」に映された諸法はまた幻のようで、仏さえもそうであれば、まさしく諸法も仏も萌えも「化(ニルマーナ)」の応身(ニルマーナカーヤ)となる。


2017年9月2日土曜日

Google+ 2017年8月中の日記メモ

6日メモが3,000文字超となった。
当月はゴミ出しの外出が1度あったか無かったかという程度で、自販機通いを一度も行っていない(1円の消費も無い・もとい10円玉1枚の使用も無い)。
当月の「母親ニワカパン作り」については、13日メモに母親の口から「面倒」の語が発せられたことを記録する他の記録が無い(母親パン作りの手間はホームベーカリーの機器に材料を指示通りに加えて特定メニューでスイッチオンをするのみ)。
ホームベーカリーの機器の作動は14日以後に1度あるのみだったろう(母親がパン用に買い置きした物の余りは某バター1.9箱・某スキムミルク3袋・某ベーキングパウダーのセット0.9個・10キロ強力粉1.3袋か、母親と弟のジャム類も7月中から9月に入っても余り続けている、母親はパン以外の料理に消費期限が持続する薄力粉の方を新たに開封して使っているが私は個人的なおかゆ系料理に強力粉を使っているので多少の消費が日々進んでいる)。

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2017/08/01

本日8月1日は2:10の第一アラームに目覚め、少し意識を失った印象もあるが2時14分に再び時刻を確認して間もなく起床した。前日の夢精(7月31日メモ)ということに続いて再び悲しい話がある。本日10時55分、前々日(7月30日就寝時)服用・前日(7月31日)排便に作用した下剤1錠の余波か、本日の食事の影響かはともかく、下痢状態のものを少し漏らした。チョビ漏らし!2日連続とはどういうことだ!チンカスメーン!素直に書きました。月の始めから嫌なのですが。「月の始めから(こういう文章を書くということは気持ちが)嫌(に)な(る)のですが(どうして書かせるのでしょうか?)」。トイレでは少量の「水っぽい下痢」を排出した。



2017/08/02

本日8月2日は、まず前日22時台に母親が1階から2階へ移動したり2階で動き回る足音に目覚めたが、音の環境としては外で強い雨の音・1階リビングでTVの音などが聴こえてきた。雨降りはまずいので、起き上がって自室の窓を閉め、再度押入れで眠る。本日は2:10の第一アラームに目覚め、2:50の第四アラームまでアラーム再生・手動停止(記憶が無い)しても起床が無い時間が続き、2時52分に起床した。



2017/08/03

本日8月3日は2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラームを経た2時23分に起床した。前々日の就寝が20時過ぎと遅れたが、前日の就寝も20時過ぎであって入眠も21時ころに遅れたようであったから、2日連続で睡眠時間は短い(前日の場合は一旦起こされたような経緯もあった)。私の身にとっては問題が起こりかねない。本日の風呂(シャワシャン)予定は、7月29日のように「意識が朦朧とする状態」で行うかもしれないと思う。今、この文章を入力する私も、上半身が揺らめく感覚である。後の日には7月30日のように起床が著しく遅れる恐れもある。

4時21分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時30分に自室へ帰った。7月31日メモに見るような夢精を恐れ(タマタマが下に大きく垂れる)、7時前にオナニー射精を行った。ハードなやり方で性欲の有無を気にせず、射精すべきものを射精しようとした。たまにはハードなやり方もよいと思った。これが風呂直後の身体状態の条件と相まって悪く作用し、人生初・包皮の腫れが発生した。包皮にリンパ液というか漿というか、浮腫らしいブヨブヨのものがあることを12時ころの排尿時に確認した。泌尿器科・男性科よ!それはそうと、病名は嚢腫(陰嚢の腫れ)か?いいや包皮炎か?仏教的には、ああ自己反省。呪い。烙印。疥癩癰疽と呼ぶか?我が身は7月下旬から、またも「ニキビ・褥瘡・痔瘻のような臀部左側の腫れ(粉瘤)」に悩みもしたが、本当に多病である。作業もままならない。罪が償いきれないし、而も大量に生んでしまうぞ!コラ!ヴォケ!口業重し!コーカーリカ、コーカーリヤ・倶伽利(くがり、倶伽離・倶伽梨・倶迦利とも)。の如くに!長夜に苦を受けて後生を悔いるなよ!13時52分から母親が徒歩で外出し、17時45分に帰宅した。

当記事注: 「包皮の腫れ」は翌日にほとんどひいた。包皮の腫れ自体は人生初の現象なので「異常」だが、腫れの規模は小規模である。検索などをすると、いわゆるドーナツ型(リング状)のひどい状態の腫れが見受けられるが、「亀頭包皮炎」や「カントン包茎」という名称を私の症状にあてはめることは難しい。小児科方面を除くと信頼できない情報しか日本語インターネットには見られない。強めの物理的刺激を伴う「手淫」のオナニー・自慰行為を原因とし、1日ほどで回復するような現象であることも明示されない。当然、「典型的な細菌性の症状」ではありえない。



2017/08/04

本日8月4日は2:10の第一アラームに目覚め、2時19分に起床した。6時10分過ぎから雨が降っていることを知った。それまで、セミの鳴き声も聴こえたようだが、今は聴こえない。雨の中でも鳴いていればよいのに、と考えたが、やはり「美しい蝉の声(音・こえ)」が雨の音に乱されてメス蝉が好まずに徒労になるから鳴きやむであろう。そのように仏教徒も、思考はよいが独り言をすると無駄な体力消費があり、食欲を増す恐れがある。今の私が食い意地を張っているようなので、是非とも、食欲を呵するのみならず、独り言も制しておこう。思考だけに留めよう。6時40分には晴れ間が広がり、強い朝日が射してきた。



2017/08/05

本日8月5日は2時14分に起床したが、直前に鳴ったろう2:10の第一アラームの記憶が無い。携帯電話が開いていた状態に気付いていたわけだから、アラームが鳴った際にその状態となったと思う必要がある。前々日19時40分ころの下剤1錠は前日中に奏功せず(軽度な腹痛や張りの不快感のみ)、前日の18時50分ころの下剤1錠は本日起床以後に漸次便意を得て4時42分からトイレへ入り、長い一本糞や、中長サイズのものなど複数個を排出した。下剤約2錠の効果(1錠でも強い場合は同様)は、例の通り、6時34分からのトイレで下痢を排出させるに至った。本日は土曜日(7月1日メモに土曜日通所の旨を記録)であるが、「放課後等デイサービス」の施設に弟が行く予定が無いようであるから、7時40分に朝食を終えた弟が、8時ころに運動目的の外出をした。今月いっぱい、どのような通所予定であるかは不明である。8月19日11時ころからに豊川市内の関連施設で夏祭りがある(申込書に母親による参加希望が記される)とかという情報以外は定かでない。21時26分、母親の車が家に着いた。買い物をしていた様子である。色々と略すが、後の母と弟の会話を聞いた要点は「別れる舞台は豊川稲荷境内・弟は携帯電話で動画再生画面を開いてとかで電話が繋がらなかった・神社関係者に尋ねると交番に連絡させられた」、結局私は、無駄に勘繰りすべきでなく、心を無の如くにして善処すればよいらしい。



2017/08/06


本日8月6日は0時台などに目覚めたろうが、起床は1時15分である。1階リビングは南西のちょうどよい高さに位置する月による、光・月光・月明かりが射していた。ところで、押入れ内でもPC起動以後(PCファンの音などが鳴ったり止んだりする状態)の自室内でも、2階の弟の「ヒュウウウウ…」という寝息が聴こえてくる。あの人たちが普段2階で暴力的な物音を立てるためか、家の内部が腐る・もろくなり、音が筒抜けとなっているように思えてならない。近頃は遅寝にして早起きの傾向があり、本日は早すぎる起床であって恐れるため、5時28分からPCを終了して仮眠を始め、6時33分にPCを起動した。

9時10分台に母・弟の外出動向があり、母親が夕方頃に帰ることを(1階リビングなどを私が掃除する要求と同時に)話してきた。9時19分に彼らが発車した。間もなく、2階バルコニーの様子見をしてから枕カバー3点の洗濯を始め(後に布団カバーも)、1階リビングや自室の掃除を行った。自室にある「2年以上動かしていないカラーボックス」を全体的にどかして周囲の掃除を行った。11時4分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、12時8分に自室へ帰った。

15時45分、携帯電話に電話が入った。0533という市外局番に違和感を持ち、初めは保健士の人の定期的な電話かと思ったが、何でもあれ受話を決めた。相手はなんと豊川警察署と名乗る。弟がいなくなったとして母親が届け出たそうであり、「今は家に弟が帰宅していないか・弟の電話(この外出時に持参しているスマートフォン)から(私へ)連絡が無かったか」を尋ねている。はてさて、母親は弟と何らかの社会福祉法人施設で喧嘩別れなどをしたか?もしくは本当に弟が迷子のように母親から離れたか?(その場合は祭り会場などでか)なお、この警察の方からの電話の2分ほど前、家の電話機に着信があり、それも警察の方であると伝わる。家の電話機の親機が2階の母の部屋にあり、1階の子機は番号が表示されない。1階が主要な生活範囲である私が普段から家の電話機を用いないにせよ、こういう状況でも受話は厳しい中、16時8分に再度着信があり、これは応答しておいた。もちろん豊川警察署の、先ほどと同じ声の人である。いくつか質問を受けた。うち1点、私から弟の番号を確認する手段が今はあり、相手に問われたので、弟の番号を返答した。電話が終わって後に、私からも弟の携帯電話に通話を試みたが、繋がった瞬間「ツー・ツー・ツー(プー・プー・プー)」という電子音が聴かれた。恐らくは、弟の携帯電話の電源がオフとなっていよう。

16時30分に母親からメールが入り、家に弟が帰ったか尋ねられたが、「家にいない・電話も電源が入っていないようで繋がらない」旨を返信した。16時40分、またも家の電話子機に着信があり、応じ、先の2回と異なるっぽい豊川警察署の人(稲荷交番のナニガシさん)が母親に豊川警察署へ連絡を入れるようメールで伝えてほしいということを話された。承って母親へのメール連絡を実行した。その件と先のメールと共に、2階空き部屋で衣類の洗濯物を干し出す作業を経た17時現在も、母親からの返信は無い→17時6分・17時10分に母親から返信アリ。後者は「○○(弟の名前)携帯の電源入れさせる良い方法ない?」という(頓珍漢な)思い付きの内容であった。普段から狂乱の母親(2016年6月27日警察音声リンク)である以上、本気で心配していることの表れとはみなし得ない。冗談・ボケ(おとぼけ)の類ならば何も面白くない。私は良心で「電源が入っていないようで」という旨を添えたが、ここまでアホ・無駄・ゴミクズ返信を行うとは思いもしなかった。バカでかい弟(身長約180cm・体重84kg・体重は作業所での記録)がウロウロするうちに誰かの関与で警察に保護されることは時間の問題だから気にしないでいようにも、こんな母親に呆れるという理由で私までも、平静でいられない。

17時59分に再び豊川警察署の人が、家の電話機に掛けてきて「母親の電話がおかしい・もう一度〇〇(私の名前)さんから母親に電話を入れるように」と連絡を入れてきた。18時1分、「未だ掛けたことのない新しい母親の050電話番号」に掛けて母親に話した。警察の話すよう、最初の段階は声が途切れるという狂った通話環境である(2017年3月25日・格安スマホ買い替えの弊害か)。母親はまだ、豊川市内などで弟を一人で探しているらしいことを話したが、母も警察も弟を発見せず、家にも金を所持しない弟の帰ってくるはずが無い。母親は「○ちゃん(弟の名前)を見捨てて帰る」という。警察の「私を介して母親の携帯電話からの通話を促す」行為に母親は不愉快な疑問を持った様子だが、とにかく警察署の人が要求することであると強調しておいた。私としても、私の携帯電話に連絡すればよいものを家の電話機に入れられるので、不必要な移動行為が求められる。18時26分に弟が一人で帰宅した。所詮、こんなものである。警察への無駄な届け出、彼らは普段からの信頼が希薄な親子関係である。弟の知能・体力への信頼が無い癖に、母親は警察への届け出をするほど行動的に心配する。母親への連絡の必要性を放棄するも、警察の方まで動いている事態だし、3分後に母親へ電話を入れたが、応答しない。18時30分に折り返し着信があり、母親に弟が帰宅した旨を告げた。話を聞いた母親は、まだ弟を探していたらしく、「え˝~~~ッ!帰ります」という。呑気な弟は普通に風呂に入っている。

19時28分、1階リビングで弟が飲み食いに耽っていた時に家の電話機に着信がある。弟がテレビを消して2度目の着信に応じた。弟の声を伺うと、やはり行き先で揉め事があったそうである。「お母さんに殴られそうになるから一緒にいられない」と。弟が私に電話を替える必要があって渡そうとしてきたので、私は応じた。再び母親に連絡を入れよということを警察が要求した。警察が通話を切ってから、母親に電話を掛けると、例の通り通話環境が狂っていて話しづらい上に、トイレの中云々と母親が長話を拒んできた。19時42分に再度家の電話機に警察・略。警察の催促により、再び母親に連絡を入れ直すと、ガソリンがエンプティ云々と忙しい(自業自得・溺れ死にそうな醜悪ババア)旨を話され、通話環境も酷いということで「時間(夜9時・10時など)が経ってから電話し直す・警察から電話を入れ直さないでほしい」という伝言を受けた。私の携帯電話から初めて警察に電話を掛けてみて、そのまま相手の人(今までの複数の人と別人?)にこの件を伝えたので、当事者警察に伝言を頼んだ。

一連の動向で、私自身にも反省点はある。今までの生活においてクズ母・クズ弟への諫言を怠った眠れる獅子たる私であり、しつこいと感じられる電話を繰り返す警察に対して少し感情を露わにするような言動があったことなどである。いくら他人への対応で活動のための作業時間を削られたとはいえ、感情が昂って行動が乱れやすい有漏・薄徳の身を嘆く。母親は己が過失「日頃から弟へ不信・弟と出掛ければ揉める・弟との軽度な争いで警察を呼びたがる卑小な心(2016年6月27日の一件など)」を省みずに、警察や弟に憎しみを懐こうか?21時26分、母親の車が家に着いた。買い物をしていた様子である。色々と略するが、後の母と弟の会話を聞いた要点は「別れる舞台は豊川稲荷の境内・神社関係者に尋ねると交番に連絡させられた・弟は携帯電話で動画再生画面を開いてとかで電話が繋がらなかった・弟からは事前に教えていた電話・メール・LINEの手段が使われない」、結局、私は無駄に勘繰りすべきでなく、心を無の如くにして善処すればよいらしい。

当記事注: 豊川稲荷(母の声で豊川吒枳尼真天ダキニシンテンとも)は曹洞宗らしい。2015年の母・弟の福井旅行では、彼らが曹洞宗大本山の永平寺に行く予定もあったらしいが、2日目の夕に急遽帰宅を始め、行かなかった。2017年7月24日~のものはなおさらである。曹洞宗の寺社にお参りなど、すべきでない。曹洞宗の寺社にお参りするならば、あなたの父親・九蔵さんの眠るらしい茨城県土浦市の神龍寺だったか、に行けばよかろう、と思う。盆の近き(時)に、じいさんを差し置いて、更に行くべき(ところ)は無し。



2017/08/07

本日8月7日は、前日就寝時において3:20へ遅らせた第一アラームに起床した。ちなみに、前日は22時過ぎに入眠した。4時以降、断続的なにわか雨があり、2階の空き部屋にある洗濯物の様子見をしたくも、7時現在・夜通し弟がそこをPC利用・テレビ視聴をしながら占拠しているので、実行できない。指導力の無い非親の親の女が、何も物を言わないでもいる。弟のいるところから、一晩中、大きな物音が鳴らされる。



2017/08/08

本日8月8日は、2:10の第一アラームに目覚め、1分以内に起床した。11時52分、「弟が通所する豊橋市内の施設を運営する社会福祉法人の人物」1名が訪問した。母親と彼の話が1階リビングで始まるや否や、彼の紹介した資料の記録に誤りがあるという点を嘲笑いながら非難し、その後も、母親が施設の人間に関する話題で一方的な不満をぶつけていた。彼は13時20分ころに帰った。



2017/08/09

本日8月9日は、2時29分に目覚めの時刻確認をした。2:10の第一アラームや2:20の第二アラームを聴いた記憶が無いが、携帯電話は開かれたままであるなど、明らかにアラームに反応した形跡が残っていたので、それを聴いたろう。2時36分に起床した。前日は19時52分に下剤1錠を飲み(就寝は21時前)、本日の6時以降に緑茶カフェインパワーの影響もあって便意が強まり、6時36分からトイレへ入って長めのもの複数本を排出した。10時前からも便意のためにトイレへ入り、多少の排便をした。



2017/08/10

本日8月10日は2:20の第二アラームに目覚め、2時21分に起床した。PCの調子が狂っているほか、元々風呂に入ろうかと思うこともあったため、4時16分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時20分に自室へ帰った。風呂場でも、やたらと長めの「切れハシ髪」が発生したり、手にまとわりついたりするなど、手間がかかった。PCのように。8時過ぎ、弟が今月初と思しき「放課後等デイサービス」の施設の迎えを受け、車に同乗して去った。



2017/08/11

本日8月11日は、まず0時台に目覚めて時刻確認をしたろう。1時台も同様だが、起床は2:10の第一アラームを待って2時10分である。11時43分、母親が自室のドアをノックして外出するという報告をし、洗濯物を2階の空き部屋に干す指示をした。様子からしてイオン買出しかと思う。前回8月6日夜遅くは、母・弟の分とも牛乳3本(私の分は2本)であったが、100時間のうちにほとんど飲み切ったようである。11時53分に母親が発車した。18時16分に母親の車が家に着いた。



2017/08/12

本日8月12日は2:10の第一アラームの2時15分リピート再生時に目覚め(近頃はほぼ毎日耳栓を着けているが本日は1度目の再生時2時10分~1分以内には気付かなかった)、臥したまま2:20の第二アラームをきっかけにすると即座に起床した。



2017/08/13

本日8月13日は、目覚めに「1時40分台のいつか」と時刻確認をし、2時2分に起床した。8時半前から弟が1階に降りて何やら炊飯を始めた。冷蔵庫の野菜室にある米がほとんど残っていない状況であるから、彼が新しい袋を開けたらしいが、9時前に降りてきた母親がそのことを知ると、まず、弟の炊飯行為に気まずい反応をしていた(独断で炊飯されると困るという)。本日、彼が一人か母親と一緒か何かで外出予定があるらしい。彼らの話の中で、弟が「シリアルなんかまずい」云々と言う話題があり、母親はニワカパン作り(先月分の日記メモに詳しい記録がある)が「面倒」だから今後弟が一人で炊飯すればよい、ということを言っていた。前日に母親はカレーやモヤシ炒めなどを多く作っていて鍋・フライパンごと冷蔵庫に保管しており、弟は内心、それにかこつけて炊飯してまで食べてよいと考えたと思われる。

話が進むと、弟が1合分ばかり残っていた米を使わずに新しい「無洗米5kgの1袋」を開封したことに驚愕し、グチグチ小言+唐突な大声の独り言が始まった。認知症さながらの、同じ内容の繰り返しで、母親の刹那的な不満解消にしかならない。弟に恐怖を与え、フラストレーションを溜めさせ、悪い報いは自分の心にも、弟からの攻撃で身体にも及ぶ。「謂可愛則謂可愛・若憎彼応被憎害・不知心悪還自殺…(こだまですか?かがみですか?憎悪は自殺の業だ!)」心の悪因悪果は「心理カウンセラー講座」で学ぶことが無い。一切の衆生病むを以ての故に我病む、母のように私も認知症になる。母の怒りは徒労だが、私の記録も悪業となる。どうせ彼らの改善にならない。我が耳(聴覚)で弟の愚かな声(野太い間抜けな声)・母親の世迷言を捉えると、つくづく、厭離出家をしたくなる。声を聴かないだけならば、2011年12月ころ~2012年上半期は耳栓+ヘッドホンという手段を取っていたものだが・・・。在家の孝子・菩薩にはなりきれない私である。母親が弟を1階リビングから「何も食べるな、デブなんだから(8月11日の買い物で弟に与えられた菓子類3点やハーゲンダッツ12個の9割を今までに食べきった)」と追い払った時が9時47分である。その後も母親は、弟を非難する独り言を1階リビングで続けた。可哀想に。人を平手で打つ時、自分の手も傷む。言葉で人を叩く時、心も自ら痛みを被る(英語"beating", 漢語"弾呵・弾ず・弾く")。気付くことも無い。私も痛み傷む。弟の外出は10時23分となった。その後も母親は1階リビングで弟への怨念・うらみつらみを声にして発し続けた。



2017/08/14

本日8月14日は2:10の第一アラームに目覚め、2時11分に起床した。1階リビングで、前日19時台に「世界陸上」の中継番組に呪いの拍手を送り続けていた母親が、今もそうしている様子である。今は、当時と違ってやたらとテレビへの独り言が多い。2時21分に母親がテレビを消して2階へ去った。前日は就寝時でなく起床時に下剤1錠を飲んだが、終日、大した効果発現が無かった。少なくとも、大腸は消化物の滞留が多そうである。なぜならば、尿意のあるときに「膀胱の圧迫を受けているかのような大腸」の一部分が痛むからである。



2017/08/15

本日8月15日は1時48分に起床した。前日は20時ころに下剤1錠を飲み、重複下剤使用を考えた上で、本日は便意が鈍い。8時2分からトイレへ入り、中サイズ2本の排便に至った。



2017/08/16

本日8月16日は2:10の第一アラームに目覚めたが、その後は起床せずにいたり、再度眠ったりもしたろうが、起床は2:50の第四アラーム以後の2時52分である。4時40分前から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時50分に自室へ帰った。13時22分に母親が発車した。



2017/08/17

本日8月17日は、まず前日23時30分ころに一度目覚めており、本日0時20分ころには夢精してしまった。今回は夢の内容もはっきりと覚えており(性的な行為は私らしい一人称視点の人物に対する手などの接触程度)、夢の中で鳴った音楽さえも覚えている。先の時間に目覚めたよう、なかなか寝つきが悪く、このような潜在的性欲も夢に発現しやすかったらしい。何にせよ、悲しむべきことだ。性的な夢を見るにも、夢精による中断は最悪の結末というべきであろう。※せめて長く見られたらば・・・、仮にそうでも起床時までに夢のことを忘れる私であるから一度もそのような夢の経験が無いと記憶する※ 実は前日に夢精を恐れてオナニー射精を行った経緯があり、夢精事態を予防する効果(有効性・即効性)は無かったが、夢精の被害(ザーメン放出量に依存する衣類への付着や漏れ)は少なく留められた。

前日17時台、久々に非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲み、前日20時までに腹部の違和感は強まり、その状況下でペットボトル緑茶少量などを取ったが普通に眠れた。夢精・レム睡眠への影響はありそうである。しかし、言いたいことはその件でない。本日の起床以後、2時台には漏らしかねない感覚もあった。そのまま便意を制御して4時30分からのトイレで中・長サイズの各1本を排出した。10時20分からもトイレへ入って小・中サイズの複数本を排出した。

14時30分前、母親が突然家の敷地内の屋外に出て車に乗り、発車し、敷地内で停車して降りた。母親が、自室の傍の或る方面へ回り込み、私へリビングの窓の鍵を開けるよう指示した。私が窓の固定を外す行動してから母親が室内に入ると、蜂・ハチについて云々しだした。先月中から母親の独り言や、8月6日・8月11日の買出しから帰った際にも蜂の巣に関して言及があった(その両日や前日の買出しなどはみな玄関から買出しの荷物を入れた・以前は日記メモの記録の如く決まってリビング窓から買出しの荷物を入れる)。母親が2階へ去って後、当該の窓の前に私が行き、外を眺めると、ハチの影が飛び交い、近づいたものは窓の枠に止まり、視認できた。キイロスズメバチらしい(あいまいな認識)大きさである。母親が蜂の巣の存在をしきりに口にするようになって以後に同じ窓や2階の窓などから外を見ても、トンボが飛んでいる様子しか見たことは無かったし、今日もその時や以後に見ても、ハチが見えない時は一匹も見えなかったりする。ところで、6月10日の私の放水作業で見かけた「大きな虫・近づいてくると蜂のよう」には因縁があろうか?



2017/08/18

wi-fi オフ エラー 繋がらない
希に発生する接続不能の状態「アクセス不良・接続障害」

本日8月18日は2:10の第一アラームや第二アラームなどに目覚めたはずだが、記憶は無い。2時27分に起床した。10時58分に母親が発車して外出し、1時間ほどで帰宅した。最近、「母親一人での買出し」以外の外出を見かけない印象である。ましてや、弟を伴う遊びの外出は、8月6日の一件以降、控えめである。

18時58分、少しPCを手放す時間を設けた隙に、タスクバーのWi-Fiに関する電波表示がオフ状態となった。実際に通信を行うと、接続不能になっている。19時を回ってから2階の母親の部屋に上がって「無線(?)LANルーター」をいじろうと思ったが、19時を回って立ち上がった途端に1階リビングの母親も何やら2階の弟に声を掛けたり、両者が動き出したりするなど、不可解な状態となった。PCのお決まりの異常そのものが不可解である。19時8分に弟が2階で続けた作業を終えて1階に降り、私が2階に移動した。母親の部屋で目的の作業をし、接続が回復しないことを確認してもう一度2階に上がって作業するも、改善が見られない。母親の部屋のPCを確認しても、Wi-Fiの表示項目の問題があるように思えた。



2017/08/19

本日8月19日は2:10の第一アラームの5分後の折り返し再生(1度目は耳栓状態で聴こえづらかった)に目覚め、2:20の第二アラームが鳴った際には即座に起床した。インターネット接続の問題は、今までのパターンと異なり、時間が経過した今でも回復・復旧していない。母親もこの問題の影響を受けていように、気付かないか、実際にこのPCだけの問題か?3時までに2階の弟が彼の部屋の電気を付けたり消したり、物音を立てるなど騒がしい様子である。母親が弟に声を掛けた様子もあったが、もし彼らも繋がらないとしても、夜中くらいは大人しくしてほしい。この分を打つ最中に弟の間抜けなくしゃみが2連発した。彼がバカ食いして日中の徒歩外出をする人間でも、風邪に弱い体質か、夜中の過ごし方(冷房病?彼は扇風機のみを回しているはずだが)が悪いために、例年通りに風邪の症状を見せる。3時40分台や4時8分に弟が1階に降りた。後者の時は一瞬だけガスコンロ調理台の火をつける音を立てていた。5時23分まで騒がししい足音などが続き、1階に降りた弟が外出した。立て続けにI家の男性が車に乗って発車した。なぜかこういう日に限り、周囲の人間は生きて茹でられるタコのような狂いぶりを見せるか?正念を保とうとする私を殺しにかかるハエ共である。ついでに弟の部屋で彼のPCの接続状態を確認すると、やはりWi-Fiの表示項目の状態が私と同様である。

本日は汗を流す時間があり、8時40分ころから弟がデイサービス施設の迎えを受けて家を去ったので、9時2分からの風呂(シャワシャン)の準備を始め、9時56分に自室へ帰った。その数分前に母親が1階に降りた経緯があるので、髪を乾かしたりなどの身支度を終えてから2階の母親の部屋でLANルーターの様子を見に行った。母親が「私が部屋に戻る数分前」まで、2階にずっといて大した動きが無く、弟がデイサービス送迎に応じる際に母親の自室内で声を発した(ほか弟の出発後に2階空き部屋に移動して1分だけ何かした)以外は動向が無かったことからして、LANルーターをいじったりなど接続不能状態の対応をしていたのではないかと考えていたが、案の定、前日19時に確認した時は通常状態だったものが、母親によってコードを抜かれた状態になっていた。「LANルーターの熱を減らす・ソレを休ませる」つもりか。このように、対応した形跡を確認した。私はLANルーターにコードを接続し直さず、母親がまた入れ直すまで待とうと思う。10時30分ころ、母親が私に小遣いを渡そうとする際、接続不能問題について話を受けた。母親は呼称とみなしており、業者を呼ぶそうである。14時47分に母親が散歩に出るということをわざわざ申告してきたので、ついでに業者の訪問予定を尋ねると、1週間以上かかるそうである。16時9分に弟がデイサービスから帰宅して1分以内に母親が家の前に着いたが、慣習的な弟の鍵かけ行為によって母親が直ちに家に入られない様子があった。

19時40分台、就寝状態の私である。私の部屋のドアを母親が叩いて母親が話を始めたので反応する。用件は、ネット接続に関することで、母親が一方的にアレコレと話したり紙を渡したり取り上げたり、紙に追記して渡してくるなどした。再び就寝をせず、PCで確認し、対応するWi-Fi のもの(LANルーターのAirportは当然今も表示が無い)にセキュリティキーを入力すると、接続ができた。得意げに独り言をしていた母親は、今までにインターネット接続ができない状態が苦痛だったのではないかと思う。私としては、数日程度のネット停止であれば心地よくも感じられていたくらいである(活動への影響を差し置いて考えた場合)。



2017/08/20

本日8月20日は2:10の第一アラームに目覚め、すぐに意識を失ったようになり、2:20の第二アラームの目覚めですぐ起床した。前日の18時半ころに非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲み、本日は起床後に少し便意があり、その後に便意がほぼ無い状態の中でムーミンカップ7分目コーヒー1杯なり茶葉ごと濃い目1杯分のお茶を何度か薄めながら飲んで14時以後に漸次便意を強め、14時44分には便意のためにトイレへ入ってコロッ糞として大きめのもの3個を排出した。

17時台、母親がインスタントラーメンの夕食を弟に食べさせ、18時台に「あること」を弟に言った。19時30分ころに1階に降りた母親が弟を呼んだ際、「あること」に関して弟が怒っている様子であり、母親に暴力的な応じ方を続けた。しばらく母親は2階に弟を帰し、「逃避の癖」で1階リビングに留まってテレビ番組の音声を垂れ流しにした。その間に弟は2階で険悪な独り言と凶悪な物音を立て続け、しまいには外に向かってガラス製品か何かを落として破損した様子である。

当記事注: 翌朝、自室の窓から確認すると、青いガラス製品のようなものの破片が散乱して見えた。花瓶かコップか、心当たりのない外見である。後日(8月28日か?)、母親がその様子を知ったが、遅すぎる。それまでに母親が外に出ても、母親は現場に目を向けていなかった。



2017/08/21

本日8月21日は2:10の第一アラームに目覚め、6分後に起床した。8時41分に母親が発車した。17時15分に母親の車が家に着いた。



2017/08/22

本日8月22日は、まず0時56分の時刻確認直前からにわか雨の音に目覚めた。一旦、起き上がって窓などを確認したり、雷の光などを感じてしばらく立ちながら音が鳴るまで待ち、再び就寝し入眠した。続いて2:20の第二アラームなどの記憶は有るが、眠り続けたらしく、いつの間にやら3:58のアラームが鳴るに至った。これは当然、直ちに起きねばならない意識が起き、起床した。3:58のアラームで目覚めたならば、それまでのものでも目覚めていたろう;ただその後すぐに眠ったと思われる。

起床後数分以内に下剤1錠を飲み、6時55分から便意のためにトイレへ入った。2日前に続き、コロッ糞8~10個ほどを出したが、大きさはコロッ糞として普通である。9時44分からもトイレへ入ってコロッ糞4個を排出した。12時30分からもトイレへ入って長い一本糞を排出した。15時10分ころからもトイレへ入って中長サイズのもの複数本を排出した。これまでに、段々と便意に糞溜まり特有の右下腹部の刺激的な痛みが生じたり、トイレにいる際のガス放出が異様に多くなった。17時8分からもトイレへ入って中・長サイズのもの複数本を排出した。1日に5度のトイレ排便とは、そうあることでない。かなり溜め込んでいたものと明白になったし、下剤1錠を飲まなければ死ぬまで溜め込むに違いない。

本日6時台から母親と弟が共に1階に降りたりして8時過ぎには珍しく平日のデイサービスの送迎が来た様子である。運転手・インターホンを押した男性職員は初めて我が家に来た人物か?12時台に俄かに外出した母親が16時10分前に帰宅してから、母親が風呂に入っている16時40分ころに弟のデイサービス送迎車が家に着き、弟が家に入る前と後とでインターホンを鳴らしたり、声を発していた。弟が「母さんいません」と反応したところ、男性職員は母親のことを待っている様子である。その後も10分以上、家の前に停まり続け、母親が風呂を出たころに家の前を去った。今朝、初めて我が家に来たと思われる男性職員は、不必要に母親を待ち、結果的に諦めたか?もし母親がインターホンの音3度目を聴かされたらば、また悲惨な展開になることを危惧する私であった。



2017/08/23

本日8月23日は2:10の第一アラームに目覚め、数分後に起床した。



2017/08/24

本日8月24日は、まず前日23時50分前に目覚めた。耳栓が外れた状態であり、母親が1階リビングで視聴するテレビの音が聴こえてくる。ある問題があってしばらく体を動かすうちに、再び眠ろうと思わなくなった。その問題の解決に当たる最中の0時0分ころを起床時刻としよう。4時22分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時31分に自室へ帰った。

本日は風呂場も部屋も、コバエ類の小さな虫が多く、嫌な予感がする。8時前に弟が1階のトイレを使用し、8時過ぎには外出した(前日・前々日・前前前日にあったようなデイサービスではない)が、8時30分台に私が排尿目的でトイレに入ると、向かいの壁の高所にシミらしき虫(触覚込みで全長3cm超)がいた。大きめの虫の闖入を、今年の4月以降に見たことが無かった。また、道を外れた一つの命(と思しきナニカ)が、転落する運命となる。9時10分台、怪しい便意があり、チョビ漏らしをしたがパンツの被害は無かった。前日に悪い便意があったのだから、その時にせよと思う黒幕!ボケコラ!

12時0分から、数分前に声掛けをした母親が買出しへと発車した。その10分以内か、洗濯(風呂前に着ていたパンツ・肌着・靴下とタオル類2点)を始めたが、こちらの設定24Lで普段やる中では多めな水量としても、異様に時間を掛けるので、13時15分に一時停止して脱水メニューを実行させた。それまでに弟も帰宅して彼の風呂さえ終わっているから、恐ろしく時間を掛けていたろう。過去に常態化して改善したり最近も一度母が遭遇した脱水メニューのエラーも無く、洗濯機が作業を始めて一安心と思いきや、時間をおいて再確認すると更に異様な水張りをしていた!!!言うことをきいてほしい。これも停止して再び脱水メニューの実行をすると水は抜かれたが3分程度で挙動が狂い、もう3分待っても変な挙動のままである。更に再び停止して更に再び脱水メニュー実行させ、終わる時は13時44分であった。15時30分にタオル類2点を取り込んだが、久々に暑さのある日であることを感じた。本日投稿予定の音楽動画の想定に合うか?



2017/08/25

本日8月25日は2:10の第一アラームに目覚め、3分後に起床した。3時54分までに私は料理と後片付けとを済ませて自室に戻ったが、それまで2階で足音・物音を大きく立て続けていた「怪獣好きで怪獣化したモンスター弟」が1階へ降りてきた。この時間帯(4~6時)に彼が1階で料理などをする時は、寂しさを紛らわすためか、恍惚感を得たいのか、愚昧なTVショッピング・通販番組を表示するようである。聞き流しているようであり、実際に見ているとは思えない。



2017/08/26

本日8月26日は2:10の第一アラームに目覚め、数分後に起床した。前日20時10分過ぎに母親が2階で「不快害虫を見た時の大仰な大声(大山鳴動・過剰リアクション・他人に恐怖を撒き散らす真の害虫母)」を発していたが、その時は耳栓をしたまま、速やかに寝ようとしていた。「初めて見た」という虫につき、母親は糞拭いを弟に任せるであろう。本日8時半以後に弟がデイサービスへ出向き、16時に彼が帰って風呂を経た後の16時40分ころ、母親が弟に頼みごとをした。その虫はゴキブリらしく、その死骸処理を頼んだ様子である。ゴキブリとは、私としてもこの家で見たことが無いものである。シミであれば、2017年1月21日以後、今月においても頻繁に見られた。しかし、シミを母親が見たことは無いようである。迷走暴走脳内妄想によって発せられる独り言が長く続いていた。

本日起床数分以内に飲んだ下剤1錠は、夕方までに大した効果が無く、14時前に飲んだカフェオレ(ムーミンカップ1.3杯分)の効果で漸次「下腹部後半が串刺しされる痛み」を強めた。19時前にチョビ漏らしの危機一髪に至り、トイレへ入って下痢を排出し、軟便をそこそこ排出した。酷い大腸・身体、どうにかしたい思いである。



2017/08/27

本日8月27日は2:20の第二アラームに目覚め、2分以内に起床した。



2017/08/28

本日は2:20の第二アラーム前にも目覚めたろうが、このアラーム再生・手動停止の1分以内に起床した。4時30分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時44分に自室へ帰った。7時半までには弟が陸上部か何かの登校をし、彼が12時21分に帰宅した直後に母親が車でどこかへ発車した。15時10分ころに母親が帰ってきたが、なんとイオン買出しだったようである。4日おきのイオン買出しとは、滅多にない。



2017/08/29

本日8月29日は2:20の第二アラームに目覚め、数分以内に起床した。前日中に「排便ないし排便促進を図る」食事や過ごし方はあったが、前日の母親買出しの影響も得て本日の食事は更に攻勢となる。例としては牛乳(乳糖によるガス作用)・ヨーグルト(プラシーボ効果のような腸への刺激)・シリアル(触感があることによる腸への刺激)・コーヒー(暴力カフェインパワー)である。ことにコーヒーはムーミンカップ3杯分の量を適度に飲み、14時台は麻薬効果らしく頭が狂いそうな影響と腸の不快感ある痛みを及ぼしたが、15時前に便意のためにトイレへ入り、中長サイズのもの複数本を排出するに至った。



2017/08/30

本日8月30日は2:20の第二アラームに目覚めて2分後に起床した。本日4時30分前から飲んだコーヒーのカフェインパワーか、便意なんだこの即効性!??????うぎゃあああああ!!!!!普段からそうしろバカモンがぁああああ!!4時40分前からトイレに入って固めウンコ複数個の排出に至った。



2017/08/31

本日8月31日は2:50の第四アラームに目覚めて「やや悪い夢と前日の就寝以後の経験」に囚われながらも2分後に起床した。前日19時30分の就寝以後、何があったかというと、出来事の後の時刻確認が20時24分である。一度入眠して目覚めた時、耳栓が塞いでいる右の耳穴(耳孔ジコウ)に涙が多く入っていたようで濡れていた。前日18時台に非刺激性便秘薬最低用量3錠よりも少ない2錠を飲み、本日は排便を期待する措置を種々に取ったが、痛みを増し、別の要因で頭を苦しめる時間が続いた。18時台になって便意が安定してきてトイレへ入り、中長サイズ計2本ほどの排便に至った。