2015年12月30日水曜日

類聚(6) ~ 「前の家での生活」篇

*横野要文類聚 第六篇・前節*
うら寂しく、物憂げに独り蹌踉ふ。
めでたきことなしと思へるは、なほ寂し。



横野要文類聚(よこのようもんるいじゅ)

今回のテーマは「前の家での生活」である。
この表題に言う「前の家」とは、2006年7月に一家5人で移住し、2006年8月ころに弟2人が児童相談所一時保護(?)→児童養護施設のため離れ、2007年4月に母が北海道紋別市へ別居のため離れ、2011年4月18日に私が小旅行もとい家出のため離れた、埼玉県○川市に所在する住宅であり、そこに住まった期間の生活記録を聚める。
前の家の構造や周辺の地理などを触れているものも聚めたい。

学校生活(O小・T小・K小・K中など)については、過去に複数の記事で情報の集積を図った。
現状類聚記事にする予定はない。
※2015年6月以降の月別記事数"6"を揃える目的で、かなり低い完成度のまま投稿します、どうか追々内容の充実されんことを。






(前略) 2010年なら前の家であるが、県下最大の神社に初詣しようと家を出るも、家から最寄りの駅前に着くや終電後であてもなく沿線の自転車徘徊をしていた。この2010年大晦日23時以降の参拝未遂の件について過去の記述を探したが、見当たらず。よってここに詳細を書くが、最寄り駅前で2人の若者が狂ったように空き缶を投げつけて奇声を上げたり、別の駅から離れのコンビニには駐車場で若者が職務質問を受ける様子もあった。なお、この外出直前は某掲示板閲覧か某お笑い番組あたりの視聴をしていたのではないかと記憶する。…2015/12/15

当記事注: 同日に別の話題で思考していた。あの頃は家でやることが少なかったこと、金銭を消費してコンビニなどで食品を買いたかったことなどがあり、今と違って自転車もあったわけだから、2010年12月の不登校以後も外に出る頻度は非常に多かった。家でやることについては後掲の11月8日の要文を参照されたい。

なお、他に見た夢の一つは、前の家の付近にある神社が土地ごと抉られ、最大で10メートルほどの深い孔が広がった。底の方には薄く土が被り、地中の排水機構が露出する。更に周囲の地理関係が乱れており、例えば前の家の敷地北側に神社(とスギなどの鎮守林)があるとして、南は民家や狭い田んぼなどがあるものの、ここには街を流れるタイプの河川が横たわっている。前の家かそれに似た場所が舞台となる場合、風景は一定でない。過去メモ文章を示そうと思ったが、記述未見。…2015/12/15

当記事注: 夢に出てくる前の家に在り方を綴った文言がメモ帳の過去記事にある。当該記事の投稿は2014年6月3日だが、後年加筆された記述であろう。

海産物や魚介類といえば、過去記事でも述べるよう前の家では朝食に定番の焼き鮭をはじめとして、かなりの頻度で焼き魚が出ていた(アジ、サバ、サンマ、ホッケ、メカジキ、イワシなどなど)。…2015/12/14

当記事注: 後の12月31日メモにこう書いた。「前の家で家庭内別居となる以前は、平日も休日も朝食は必ず父親が作ったものを共に食べる習慣が当たり前であった。この家にあって乖離した私を蔑視する母であるのに、朝食など(弟に)勝手気ままにさせることはおかしいと思う。草むしり騒動ほか、多くの(弟との)問題は母の遅起きや二人の朝のありかたの別離にある。 (中略) 私の前の家では、それぞれがしっかり早起きして、7時までには父が朝食の準備を済ませる、これが当たり前であった。母の母としての怠慢は (後略)」、食生活は記事後部2014/01/28要文に詳述される。

ペットボトルへの排尿は、夏場の前の家でよくやっていた。夜は部屋の外に出ると虫(ゴキブリ)に遭遇する・部屋に侵入されるリスクがあるなどで、濫りにドアを開けたり部屋を空けたりするわけにはいかず、密室たるトイレで遭遇することは何よりの恐怖であった。そのため、自室にて用を足さざるを得ないことが多々あった。反面、夏の早朝は部屋の外、2階の階段と接続する空間(広い廊下・踊り場というのか)で階段側の窓に向き合い、バルコニー側に背いて座り、涼んでいることも多かった。これで虫に遭遇した経験は無かった。…2015/12/06

ふと前の家で自室ストーブの放熱部分にティッシュペーパーを当ててよく遊んでいたことを思い出す。 (中略) 前の家では発火を恐れ、ティッシュペーパーは「こより」の状態を作って、それを遊びに使っていた(もとい網の奥に入れづらいからこよりにしていたか)。今回の状況として、熱の強いストーブ・トイレの狭い空間(前の家子供部屋3室ともロフト付きで天井が高い)・燃えやすい材質の紙という悪条件のみならず、「こより」という予防策を取らなかったことが大きい要因であった。…2015/12/05



日曜と月曜の間の深夜ほど番組がひどい時は無いと記憶するが、その記憶が依拠するところの過去は前の家2010・11年である。そのテレビ試聴末期は、NHKにしろ民放にしろ独立UHF局にしろ、素朴な番組を好んで試聴する傾向があった。…2015/11/30

当記事注: 11月6日の日記メモに「関東の独立UHF局に興味を持った小6」とある。

あの広い家で独りきりという中で、ある時はネット依存、ある時はネットもゲームも無い(2008年夏に別居母との再開の事前に上の画面に数字キー、別にQWERTY配列キー備わり、後のスマートフォン的なブラウジングが出来たスライド式携帯電話を受け取った経緯があるが、これは2008年10月に破壊し同年12月の姫路遠征時に返還した・・・2006年7月にあの家に越した折、2003年購入のSH252iを一時自室内で紛失しつつ小6か中1の時に再発見した経緯もあるが、これは当然2004年のとある経緯でネット接続不能である)環境下で、トモダチだとかもいなかったわけだから、独りで何をして時間を潰したかと言うと、お絵かき・物色など多種あろうが、独自の遊びを開拓することもあった。独自の遊びと言うと、現在この家や私の所有物にも結局は漫画やゲーム機などが無いわけであるから、このPCにもCPUを荒らすゲームを動かす気にならないため、音楽をいじることが多い。…2015/11/08



前の家付近の貯水池も、かつてはカモやサギ(白・青)などが多く浮かんでいたが、最近のストリートビューを見たら、長いこと水を入れていないのか、高い雑草が群生している(よく分からないが、浅い水に高い雑草が生えているようにも見えて不可解)。…2015/10/30

この母は、なんと風呂掃除をしている。母が風呂掃除などする様子は滅多に無かったし、実際にしている様子は初めて見た。前の家だと、自分や父など各自の判断により浴槽を度々洗っていたものだが、この家では弟も母も洗わないし、私は当地以前より推定4~5年入浴を行っていない。弟も母も、温泉は入っても家での入浴はしていないのではないか、と思うがそれは今朝たまたま、ゴミ容器に捨てられているバブの包装を見たところで一度覆った。あるいはバブをお湯が張られた浴槽に落とす以外の使い方をしているのではないかとも思ったが、母はこのバブなどの入浴剤を使うため、重い腰を上げたと見る。そして、一度バブを使った際は、久々に張ったお湯に髪やアカが浮き、ほかの汚れも混ざる汚さに絶句したから、ようやく掃除しようと発案したものと推量する。…2015/10/21

幕の内弁当なら、ある時からまだ弁当を買う頻度が多かった時期に母がよく私向けに買っていた。前の家でも父親が二人用に買うコンビニ弁当・弁当店の弁当(通称ほか弁)にこの名称の弁当が多かった(スーパーだと惣菜の丼ものも多い)。「ある時」というのは (後略)…2015/10/07

これはシバンムシというそうだ。この家で見たことはほぼないが、前の家ではこれより細長い(全長4mmか)甲虫は度々目撃している(1Fキッチンの引き出しで何か小物が置かれているところに3匹同時に見たことがある)。…2015/10/06



(2007年のネット利用など記述アリ、前略) このようなネット依存ともいえた時間は続き、ついに夏休みに入った。PCの使用自体は夜までにする決まりが自分の中に定まっていたが、その理由は諸説ある。自制心に起因するものもあれば、夜は魔が跋扈する時間(ゴキブリに遭遇することの危惧)で自室の外で過ごすことが恐ろしかったなど。父親からネット中毒の状態に関する指導もほぼなかった(気付けなかった?)ため、夏休みはますますネット利用が盛んになる。私としても父親の前でPCをする様子を見せいたか定かではないが、父親は私の平日のPC使用状況を知っていたはずだし、知らずとも何となく訝しさから普通の親は尋ねるはずだが、それも無かった。…2015/04/27

「バリケード」とは、前の家において2010年12月に始まる不登校の時も、2日目夜に設けたものが強固で、3日目の朝父親が部屋に押し入ろうとしたことを防げた。バリケードの件は過去にブログでも書いたはずだが、膨大な記事の中からその記述が検索技能を駆使しても見当たらない(長文回避で過去記事リンクしたかった)。…2015/04/21

ローソンといえば2011年4月18日に豊橋へ来た日、前の家の最寄店で最後の買い物をしたことと思う。こちらに来たときはポイントカードの有効期限の関係で悩んだが、今より体力が残っていたのだから、遠くとも同ローソンへ足を運べばよかったと思う。…2015/04/02



そんな中、ふと父親の部屋の本棚にあったキチガイ漫画を思い出す。それは、戦前(厳密には直後)世代で過酷な時代を行き抜いたお方の漫画で、戦争を行き抜いた漫画家はしばしば戦争をモチーフに描くこともあり、かの手塚治虫や水木しげるも多く書いていた(グロばっか!)。それらも父親の本棚にて小学生の頃から目にしていたものだ。…2014/06/23

小5で両親離婚(別居)、最初は父親が料理を作ってくれず、朝はコンビニ弁当生活。それからしばらくして、父親が料理を毎朝しっかり作るようになり、朝はご飯、味噌汁、焼き魚、納豆、漬物、緑茶などまさに健康的なものを出し続けていた(この品のいずれかを取るメニューが多い)。 (中略) 2010年1月(?)までにゆっくり鍛え、それからは一日腹筋40x4セット=160回、背筋30x1=セット30回、腕立て伏せ10x4セット=40回を目標に鍛え続け、毎日記録もしていた。結果5月頃にもなると腹筋も割れていた。記憶では、50m走が10.3秒から8.7秒まで飛躍的に上昇したのだ。あの日の「デブ」から手の平を返すように「ガリガリ」と言い出す人もいたけれど。そして同年10月家庭内別居、12月不登校、2011年4月、母親の家へと家出した。 (中略) まあ、前の家で不登校になった2010年12月以降もこちらに家出する2011年4月18日まで、それなりにコンビニ通いやマクド通い(ビッグマックセット♡)していたけれど。…2014/01/28



ついでに、父親の音楽経験は、トランペット、ギターにある。与野時代、ギター(アコギ)は捨てられた。 (中略) トランペットだが、父親がよく吹いていた。2台ほど持っていた。公園で吹くことが多かった。同じ公園でも、人目の付きづらいところで演奏することが多かった。父親はジャズに憧れていて、CDはもちろん、昔集めたカセットのコレクション、そしてレコードまで持っているかなりのジャズオタだった。もちろんレコードは、ただ持ってるわけじゃなく、レコードの再生機器も持っていた。ただ、埼玉に住んで蒲田(隣は川崎)に勤務する忙しい日々のため、ライブに行く姿は見かけない。トランペットの演奏技術だが、2005年と2010年の違いを感じない。…2013/08/14

当記事注: 父親は家でトランペットを吹く際、ミュートをかけるというか、サプレッサー的な消音器のようなものを取り付けていた。こういう回想をしていると、父が部屋の窓を開けてタバコを吸っている光景(奥に杉林)が浮かぶのは何故であろうか。なお、トランペットで共通する趣味を持つ知り合いもいない様子であり、そういった人物との電話でのやり取りも聞いたことは無いし、そもそも仕事が終わると遊ばず呑まずに帰ってくる人間である。

今月で2年以上自転車に乗ってないことになりました。 (中略) 記事トップの写真を撮影した頃の使用状況は、雨などの天候の問題が無い日であれば毎日乗っていて、学校の無い日でも当時の地理感で周囲を遊覧していました。1日の時間がたくさん余った前の家で家庭内別居・不登校期の5ヶ月超の時間を、一人長く外で過ごし続けましたが、主要な行き先として大きい公園、田畑などの行き先なき行き先のほか、コンビニでの消費活動が多く、一時期はファストフード店も通いました。 (中略) 人生の中で長い間自転車に乗ってない時期がかつてもう一回あった。おおよそ2年、小学生のときそんな時期があった。やはり、久しぶりに自転車に乗った時は慣れなくて「事故に遭ったらどうしよう」という恐怖もあったが、その時は問題なく、中学進学後も自転車事故は無く済んだ。(中学はもちろん自転車通学)…2013/04/19




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2015年12月25日金曜日

類聚(5) ~ 「修辞」篇

*横野要文類聚 第五篇・前節*
言(ことば)にあや有り、以て意義量り難し。
若し人、之(これ)を聞きては、或は瞋(いかり)を為し、或は心に渡らす。


横野要文類聚(よこのようもんるいじゅ)

今回のテーマは「修辞」である。
言辞を修飾する、ということであろうか。
修辞技法には多種多様あるが、私の要文がそれをいかに奏効しているかは実際に読んで感じられたい。
過去に「ニシテ表現」なる名称で、修辞技法の一種を提唱した記事があり、こちらも参照されたい。
※2015年6月以降の月別記事数"6"を揃える目的で、かなり低い完成度のまま投稿します、どうか追々内容の充実されんことを。






その言葉は耳朶を打ちつけ、胸中を穿つこと、さながら雷鳴のごとく、強靭な矢に射抜かれるごとくであった。…2015/10/25

寡黙朴訥にして能く指示をこなしていながら、親には何も伝わらないわけです。…2015/10/22

当記事注: 緒言にもリンクした、いわゆる「ニシテ表現」はこれである。



ともあれ、かの時代にあって、かかるアンチクライスト・アイコノクラストの暴言は、聖職者からの罵声を浴び、敬虔な信者からの瓦石を被ること免れ難き所業ではないか…2015/06/21

解説:「かの○○にあって、かかる(斯様な)××は」と似ている表現を続け、更には「○○からの××があり、△△からの□□は免れ難い」といった少し古風な冗長反復表現を使うが、先の「アンチクライスト」という思想は、非物質の「罵声」に通じ、「アイコノクラスト」という行為は、物質的な「瓦石(がしゃく)を被(こうむ)る」ことに通じ合う。「思想・非物質⇔行為・物質」すなわち、思想の因は罵声の果、行為の因は被石の果という、非物質・物質の対極構造をなしている。ところで、なぜ聖職者が罵声のみ浴びせるといえば、聖職者が末端信者のような暴行をすると顔が汚れ手を汚しかねないから自重しているのである。また、敬虔な信者が投げる石は、クラストされたアイコンの破片である。なお、アイコノクラストを語源ギリシャ(ローマ字)でいうと"Eikonoklastes"となる。



「理と事」の例を挙げると、例えば誰かの理に適った思考があるとして、その人がその内容を事細かに言葉で表せないとしても、確信を持っていれば要点だけ「私はしっかり論"理"的に考えた末、"事"実としてはこうなると断言できる」と話せるのだ。その弁が理に適った答えであるかは、実際に起きることを確認すれば明らかとなる。私が理を噛み砕いて説明をする中で、仮に思考が錯乱して言葉が詰まるような状態となったとしても、平静を取り戻して「事実確認」の旨を頼めばよい。事実に符合する理論であるなら、その正当性が事実に反映される。「事実確認」に念を押すことが実は、最も理を噛み砕いた表現になるのだ。「百聞(理)は一見(事)に如かず」という有名なことわざに、「理と事」の差がよく表れる。正しい理論の場合は如実に事実の形として出るが、稀にどんな理を尽くした計算をしても、事実の形が異なる場合があることもある。「理と事」の他の例だが、(後略)…2015/06/03


2015年12月20日日曜日

類聚(4) ~ 「譬喩」篇

*横野要文類聚 第四篇・前節*
世尊は種々の譬喩をして衆に理解を得せしむ。
仏法は難信難解のやうなれども、世事はみな知るところなれば、世事をもて譬喩を説かん。
余もまた是の如く説くことあらん。



横野要文類聚(よこのようもんるいじゅ)

今回のテーマは「譬喩(ひゆ)」、何らかの物事を別の物事で例えた文章であるが、私の学ぶ分野に疎い人には難読単語である。
このつづりは仏教・漢訳仏典ではよく使われるので、「比喩」と一般的なつづりにはしない。
また、前節は「仏法」に念を押して綴ったが、一応は仏法以外の種々ある話題からも「譬喩」にあたる文章を聚めていく。
というより、類聚案は最初からそのつもりでいて、前節を書くにあたって「譬喩といえば仏典ではないか」として、世尊は~と綴ったくらいである(本来の順序)。
※2015年6月以降の月別記事数"6"を揃える目的で、かなり低い完成度のまま投稿します、どうか追々内容の充実されんことを。
ブログ内キーワード「例えば」「平易」「砕いて」「言うと」「ように・ような」






10時40分前から、トイレで健康的山盛りウンコ6本セットを出荷してきた。シリアルという肥料の恵みをありがたく思う次第だが、ウンコ収穫(排便)には結構苦労する。排便はズルズル引っこ抜かれるようだ。…2015/12/17

この夜(に母と弟の2人)は、カキとカレーを食べていたようである。私がキッチンなどにあるゴミ袋を確認して人が何を食べたか知って日記メモに記録することは、ちょうど考古学者が貝塚などの遺跡を発掘調査して古代人の生活を窺い論文で発表するようなものである…2015/12/04


この部屋着にプリントされた亀のデザインについて、「一眼の亀」との折衷を色々と試みたが、やはり原義との定義がズレかねないので断念した。いわく、長久の寿命を持ちながら片目を失い、体が常に灼熱と極寒に苛まれる亀が千年に一度、永遠の安らぎを求めて深海から浮上し、大海の水面のどこかに浮かんでいるとされる聖なる流木「赤栴檀」を探しに出る。こうして私もこの世界で流転輪廻の苦しみを経ながら、人間の生があるうちに、真実の法に値ってこれを受持し、解脱を得て安楽の処を目指すべきである。この亀はその求道心を表すほか、堅固なる道心を胸に持つことも表す、と…2015/11/28 (本家2014/11/13の追記)


今のような、ネットに重点を置いた活動をしていると、ネット上の「横野真史」という人格が本体で、リアルの人格こそが自分にあらぬ存在のように錯綜してしまいかねない。インターネットという媒体が、現象の空間を前提として成立するように、自分もまた、肉体や生命に精神を備えたところから、ネット上の仮名に託しているのである。いわば、ゲーム中毒に陥って、あたかも己は主人公に成りきったように振舞うことが類似する (中略) それはともかく、私の「横野真史」という人格は、その仮名すら実際の自分の本名を踏襲しつつ、更に多くの面で自分を昇華させたものであり、混同などはおろか目標にすべきである…2015/10/30

法師はハッとした。眼前にはただの俗人がいるだけのようだが、その言葉は耳朶を打ちつけ、胸中を穿つこと、さながら雷鳴のごとく、強靭な矢に射抜かれるごとくであった。自分は深く仏法を学んでいるはずだが、未だに人間の存在に囚われていた。作品は素晴らしい、人間は植物の種を蒔き、育てあげるとはいえ、育った植物・採れた果実は結果的に良いもので、誰が育てたと気にするであろうか(現代は少し事情が異なるも割愛)。育ちきらなかったものもまた、そういう結果に過ぎない。人が育てなくとも、立派に果物を実らせる果実もある、歌道なら読み人知らずとも言える。この歌人の作品を、この歌人のものとして尊ぶことはしても、それ以上に歌人の人間的な空間まで思い、執着する必要は無いばかりか、無益なのだ。法師は己を恥じ、俗人からの説法を身に染め、改めて仏法に向き合う心を持った…2015/10/25

当団体の理念や存在意義とは「救済」にありますが、この熟語だけではある種多義的でありますので、う一つ言葉を足すと「落穂拾い」になります。穀物は秋に収穫期を向かえ、世間では成長に伴って学校であるとか社会的な機関が置かれ、現代は誰もが普遍的な手段としてそれらの機関を通りますが、穂が切れるか毀れて落ちるように、そこから漏れてしまう者も少なからずおります。そこで、当団体は智と識を以って心の深奥より救済をすることを重大意義として、この研鑽精神を普く布衍し、漏れた者たちを掬い救わねばなりません。これは未成年~若年層が主なターゲットであり、穂も穀も腐らずある内に拾って参ります。刈穂も落穂も一個体には等しい価値がありましょうに、拾ってくれる者は普通おりません。なるか分からない田畑土壌の肥やしになるのみで終わります。「落穂」としての価値は、早い解脱の性質を内在しておりましょう。当団体の教導を受けられることは僥倖であります…2015/10/17

某スーパー系列の全国一有名な店舗(客が炎上騒動)へ到るつもりが、3階建て公共施設に当たったようだ。T字路までは、建物の規模から何だこれ、といった気持ちでいた。航路に例えれば、アメリカから太平洋を船で横断して日本を目指すも、台湾へと流された気持ちであろう。否、海上を西進してインド目指したヨーロッパ人が、後の西インド諸島や新大陸などを発見したような・・・この施設は新発見でも何でもないけれどね。過去記事・動画にもあるし。…2015/10/06


過去に、「夫婦は家の柱」と言った。子供は世間に言う「子は鎹(かすがい)」であるものの、決裂するような夫婦で、揺れ動いた柱はボロボロならば、鎹も外れてしまう。現に、家庭の家庭らしき様相は、夫婦の不仲によって早く崩れている…2015/09/18


例えば、食べ過ぎたという人に対し、欲張りな性格が原因だとしか思わないことと同じである。単なる結果に対する原因を推量する上で、浅薄な思考によって短絡的に決めてはならない…2015/08/17

多くの人間は、どれほどケースを集めても、判断結果を二分と一元にのみとどめる。私は常に、そういった極度な二分思考に陥らないよう、公平に近づけた判断を行う。その深い思考には言語化の必要性もある。達観した末の思考を恒常的に活用するためにも、記事などにメモすることで叶うはずだ。例えば、土の道路があるが、次第に車の交通量が増えた(思考の頻度が増える)ので綺麗に道路を塗装・整備をして(達観に至る)も、多くの車が走る(雑念が混じる)だとか、時間経過と共に荒廃・風化(失念・忘却)するなどで、必ず補修などする必要があるだろう。道路に例えることに意義を持ち、それは今の私が正しい道を進んでいるとの確信であり、また研鑽の意志とは「道を行じる」というところにある…2015/08/17

赤ちゃんに与える離乳食などは、しっかり冷ましてから与えるイメージが諸君にもあるはずだ。イメージしやすく言うと、母親がスプーンに取ったお粥(リゾット)を「ふーふー」と冷ましてから与えてみるが、赤ちゃんが辛い顔をしたり吐き返せば、「あ、ごめんねぇあちゅかったね~」、「赤様ごめんなさい!」と言う光景があるかもしれない。ここで「お風呂の温度」と関係のある話題となるが、小1の頃の私が適温~ぬるいと思っていた「39度のお風呂」も、赤ちゃんには熱く、落ち着いていられないレベルのものではないかと見られる。毎日のように風呂に入る(張ったお湯に浸かる)生活をたった10年程度でも続けている内に、個人差もあるが多くの子供は40度辺りまで慣れてしまう (中略) 浴槽本体に排出するお湯については、少なくとも4年以上風呂に入っていない(お湯に浸かっていない)私が知っていることや意見できることは何もない…2015/08/12


例えば、3000年前に天才の人が「我々の住む土地は丸い星なんだ!球体なんだ!」といきなり悟った事実を話しても、当時の人類には到底理解できない。現代でこそ星の外から地球を見返すことはできても、当時では実質不可能である。せいぜい、「空に浮かぶ星と我々の住む土地は同じ性質なんだよ」とその事実を理屈として、演繹的に話す手段しかない。航海技術が進んだ500年以上前になってようやく「西洋から西に船を進めて東洋に至る」という仮説を実証できるようになった程度である。航空技術や軍事技術も成長した末に、星の外まで飛べるようになった現代、「この目」で住む土地の丸さを見て、球体であることは反論なく証明された。「百聞(理)は一見(事)に如かず」という有名なことわざに、「理と事」の差がよく表れる…2015/06/03 (メモ帳2015/12/10の加筆込み)


「形骸化した議会」において、議員歴の長い人が議席を多く占めていることは想像できよう。議員歴が浅い人は何らかの志を秘めている。ことに、明確な意志を持って出馬した無所属・無党派の吉田氏の猛威には、彼ら中堅以上の市議にとり安穏ならざるものがある。何せ「ダントツ」の発言回数を以て、矢継ぎ早の弁舌で議会を揺さぶる男は脅威だ。安逸の微温湯に浸っていたかったところに、不遜な冷や水を浴びせられるようなものだ…2015/05/14


「小説を読むことが勉強」とだけ書けば、いかにも滑稽じみているだろう。例えるなら藪医者の治療や民間療法を推すようにアテにならなさそうだ。もちろん漠然と小説を読むこと、文字をただ音に捉え茫洋と浮かべることを、勉強と呼べば「驕り」であると私も頷ける。無為に読むだけなら、ゲームなどの遊戯に耽溺するほうが有意義となる。
しかし、国語や英語の教科書等を思い出して頂きたい。何か文章が書いてあれば、学ぶべき要素がページの隅か、後続のページに載っていたはずである。並びに、教師の存在によって効率よくそれを学べる。私がやってることはこの平凡な授業の形態を、ただ一人、己を師と定め行う必要がある…2015/01/23 (その3週間前らしい)



「楽しみ・幸福感を与え合い、授かり合う。」例えば野良猫に餌やりをする人がいる。 (中略) 野良猫は雑菌まみれだが、彼らは大胆不敵にも撫でる。猫は見てるだけでも気持ちが満たされるが、触れられれば更に上の快楽へ昇華されるだろう。猫に餌を与えることは猫自体の空腹を満たすにとどまらず、与える側はその行為で猫助けした気分になったり、猫の姿で癒されたりと気持ちが満たされるのだ…2014/07/03

当記事注: 相互に刹那的至福を与え合い、授かり合う反面、野良猫の異常繁殖は猫の飢餓と喧嘩を招き、人間生活への衛生問題などを惹起するのだから、長期的には相互に問題を起こす。善悪不二・善悪一元・善悪互具とはこのことであろうか?皮肉で笑えてしまう。

ペットを飼うことが愛する心を育むなどの情操教育として有効とされるが、逆に弟はばあさんを利用してストレス解散の捌け口としているのだろう。ばあさんをペットのように労るなどという考えは皆無であろう。その様はまさに動物虐待と同様…2014/04/21

さあ、例を挙げてみよう。普通は家を建てるに設計図が必要→設計図通りに建てる。我が両親のような者は設計図を作らずに勢いで家を建てた!出来損ないの家が竣工するも、出来損ないを建てた後から直す→手遅れですよと。。。止まらない加齢に焦って、土壇場の高齢出産をしたことが仇となる(知的障害を持つ弟が好例・知的障害でも幸せに育てられる親とはだいぶ事情が異なる・経緯が酷いのだからその後も改善なく苦しんだままの両親)。…2014/01/01



当記事の投稿直後の要文(過去要文の回聚が困難だから仕方が無い)


そもそも、窓枠砂埃は自主的に掃除することがある(最近では10月17日など)。母親こそ、母自身の部屋の窓枠砂埃を除去し続けないでいる。いい加減に自分の非に気付いてから人の非を唱えたら良い。化粧の崩れた婦人が、子供の口についたご飯粒を「みっともない」と激怒するようなものである…2015/12/24

それから間もなく、アメリカの脅威を覚えた日本が真珠湾爆撃をしたごとくに私は、まず空の牛乳パックを地面に叩きつけて牽制し、理性的な鉄槌を加えたところ、母が理性を失った。執拗なまでに襲撃し、攻撃を加え(さながら本土大空襲や原爆投下)てくる…2015/12/22

・・2016年以降も色んな記事で比喩表現を行っているから、よく探してみてね!

―もう一度、前節―
世尊は種々の譬喩をして衆に理解を得せしむ。
仏法は難信難解のやうなれども、世事はみな知るところなれば、世事をもて譬喩を説かん。
余もまた是の如く説くことあらん。



追記: 2017年8月5日
「萌えの典籍」全般に、植物を中心とした譬喩が現れる。
それは梵語でウパマーというが、人物による譬喩・因縁、梵語でアヴァダーナやニダーナというものもある。
特に「萌え話・萌え歌・萌詩"The Moetries"」の記事に載る話には頻出する。
譬喩を中心とした話に「雑萌喩(ぞうみょうゆ・ザフミャウユ)*」がある。


2015年12月15日火曜日

私の音楽活動分野の呼称とは何であろうか? & 活動方針・展望

私自身の音楽活動を主体としたブログである「横野真史音楽ブログ(音楽館)」で、ブログ設立当初に書いた記事では「自称一人バンド」と、そのロック系ジャンル楽曲制作の名義である"Sundarkness"について表現しているが、これには大いに語弊がありそうだ。
バンドとは、楽器を弾いてこそ名乗るものであるが、巷ではチャラチャラしたあるいはイカツげな男らが歌って踊る音楽グループが「バンド」と誤解される傾向がある(○爆、エグ○イルなど)。
私自身もただ、「ロック系を作っているから"一人"でもバンド」としていたようで、楽器を弾いているならばそう名乗るに値するが、実際はDTMにおける「打ち込みの作曲」をしているに過ぎず、楽器を弾いて音を録り、ミックスする行為さえ満足に出来ない。
バンドとは、楽器を弾いてこそ名乗るものであるから、仮に作曲は出来なくても、一般のジャズバンドやマーチングバンドなどは既存の有名な楽曲を演奏し続けるのである。

というわけで、「私自身~」「バンドとは~」を2往復させての考察を4行で書いておき、「一人バンド」とはあくまで「自称」という範疇では妥当としておく。
件の記事でそのように表現した当時の心境として、バンドという存在に仮託した活動を標榜し、あわよくば演奏の協力者を抱えられたら、との淡い期待もあったのであるが、孤陋の身なれるを知らざりしが故に儚いことである。
近頃思うこととして、「自称」のスタンスであっても「バンド」と銘打つことは余りにも滑稽でならないため、今後はそう名乗る気があまりない。
深意をいえば、バンドなるものが私の精神と背くようでもあり、世俗芸能とは別とされる古典音楽においても、現代では演奏家ばかりもてはやされ、相容れないことを思っている。
それでは、私の音楽活動によりよい呼称が他にあることか。

例えば「ライター Writer」というと、ゴーストライターだとかシンガーソングライターといったように、接頭語を伴う呼称がやや存在している。
ライターということは"Write"して然るものであるが、何を"Write"するかといえば、歌詞あるいは楽譜と見られる。
しかし、私といえばDTMでの打ち込みが専らであり、歌詞は今なおも書こうと思わず、楽譜は猿真似が関の山であるから、私に付けては余る表現であろう。

ここに、歌詞を書いてボーカルを募る、楽譜を書いて奏者を募るといったことを求めず、一人耽美的な楽曲のありかたを探求するといった、私らしい姿勢を感じてしまう。
私の諸活動(記録・研鑽・創作)は、この数ヶ月に常々「自己満足」と形容してきているが、端的に言って「自己満足」という言葉に落ち着くのかもしれない。
もちろん、それは腑に落ちない一面もあるのだけれど、一般にはこう捉えられよう。



・「バンド」の単語に関する余談
Yahoo!知恵袋は2015年10月下旬からカテゴリの増設と整理を行ったが、「バンドエイド」という文字列がある既存の質問の多くが「音楽 > バンド」カテゴリに移行されてしまった。
どこぞの指定管理者制度図書館の蔵書分類のように、字面だけで機械的にカテゴリを認識するから、こうも不適切となってしまうが、大手の運営ほどその陥穽の識別ができず自覚も無い。



・どこに載せようか迷ったメモを一応ここに掲載する
「快楽も金銭も結果的に得られる程度で良い。自ら願って求むるところにあらず。芸術は、肉体的ないし即物的な満足よりも、己の心の満足にこそ至福がある。これぞ芸術に望ましい少欲知足の姿勢である。観念的なれども、この美学を奉じている。満足すれば飽きて辞めるのか否、飽くことなし、満足あってなお追究す。耽美主義的精神論、修養足らざる不肖の身にあり」



【活動方針・展望】
某サイト・某ツール作曲の人々は、当該サイト内でこそ好きなように気兼ねなく且つ他ユーザーと懇ろに交流してきたのであるが、一度サイトの外に出ると、サイト旧友との付き合いこそすれ、音楽性や活動の姿勢は見る影も無い。
Twitterほか音楽サイトで遊戯雑談の活動の域を出ず、いやしくも作曲するとて、音楽性に妥協を感じる。
妥協したる音楽性とは如何なるものぞや、既存有名楽曲アレンジほか、オリジナルでは凡庸な陳腐な無難なジャンルが多かったりしたり、ジャンル名ばかり同系列でも腕が落ちていたり、やりたいことをやっていないのではないか、と思えるような楽曲群である。
当該サイト内の熱気・情熱というものを「他所に持ち込む」ことについて、自重する道理はない。

よって、私は技量の許す限り気儘に音楽制作と楽曲投稿を続ける。
今の精神状態・・・道心がある私には、あんまり過激(卑俗)な語彙を用いたり、奇を衒うようなことはしづらくあるが、それも「やりたいこと」でないのだから無理にすることではない。
同サイト内でも、実機端末が動くうちは「身を粉にする」とまで言わずとも時間との折り合いをつけながら随時投稿を続けるが、某サイトとは先述の通り、連帯感であるとかフレンドリーな交流により、彼らの創作機運を相高めている節がある。
某サイト特有のポイントとして、譜面共有の自由度が高い点があり、他のサイトにはないアレンジやコラボレーションなどの投稿量も一考に値する。
今でこそ「街」の名は廃れて「廃村」さながらにあれ、最盛期の賑わいを垣間見る思いで、当時の彼らが互いに励まして成り立つとも私は遠く忍ばせるのみに、別の信念から活動を継続する。

つらつらインターネット上の創作界隈(同人等)を惟みるに、当該サイトの元住民らに限らず、広く創作界隈で2011~13年以降は何かためらい気味のものを感じてならない。
気兼ねなくやっていけばよいところが、どことなく妥協した創作ばかりに思える。
音楽のみならず、絵であるとか、創作界隈の全般を俯瞰した上でそう書く。
「聖人(しょうにん)或いはこの道を去り、或いは退き、已に一人(いちにん)も残らず。求道の者・誰(たれ)かこれを嘆かざらん」

以上の文章は大半が12月9日頃に書かれた。
ところが状況は一変して、12月12日から稀にあるサーバの504エラーが始まった。
これは今年に2度あり、いずれも4日ほどウェブサイトもデータスペースも接続不能に陥った。
当該サイトのサーバ上にデータを保管するところに依存する面が強い点で、実機での制作は厳しい上に、実機で行ってもサイト公開が現状できるはずもない。
また、サーバが消失する(管理者自宅サーバーの放棄か契約解除かデータ紛失かデータ消去)こととなれば、サイト利用自体誰もできなくなることも論を俟たない。
MIDIシーケンサーの制作環境でも構わないが、一つの意志は潰えよう。


2015年12月10日木曜日

思考区分による社会思想の分析 (未完)

2015年10月下旬に執筆した記事であり、当該期間中に大半の記述(8,000文字ほど)を終えた。
むしろ、案ありきで短時間のうちに書ききり、後は手詰まりともいう。
一部分を別途記事として、11月中に分離投稿した。
できれば、全て分割して逐次掲載したいものだけれど。

※当記事と似た趣旨の過去記事例では「(日本潜在・中国現行の)共産主義」を論じている。
※記事投稿後も加筆を継続している。



目次 (Wikipediaライクに、li要素とページ内移動リンク)

一. インターネット新保守思想


1.1 概説

語義の釈、「新」とは「新興」というように、「旧来」との区別を前提としており、ことに近年インターネットを中心に世論を席巻しつつあることは、2011年の高岡さん騒動を嚆矢としている。
というのも、各業界を壟断するマスメディア業界・芸能界が強権発動して、一人の芸能人(タレント・俳優)を業界から追放したのであるし、その原因となった芸能人の発言が平易にして素直な当事者による感想であるため、彼ら「マスコミの偏向報道・朝鮮資本」真実を知った人々からの強い賛同を得て已まないものである。
当時の2ch掲示板といえば、関連スレッドは怒涛の勢いでパート番号が上っていた(おそらくはニュース系で歴代最多の★522、最後は1スレ勢い約100万、当該掲示板「芸スポ速報+」のルールでパートスレに4日間までの存続制限がある)。



個人的な来歴、中2の不登校(2010年12月)に入る前後の頃からネットの保守思想を主体的に学びはじめ、中3の頃をピークとして2012年中に断ち切ったため、1年ばかり浸かっていたということになろう(これは単に今そう回想したことで言うのではなく、2012年中にアップした動画にそう書いてあることも根拠の一端)。
いわゆるネット右翼として、各種ニュースなどに目を光らせ、2chニュース系の掲示板に通っていたわけだが、次第にレスの多くを敬遠するようになったことには多々理由がある。
この思想からも遠ざかる傾向が出始め、2012年以降はこの思想における誤謬性や、人々のあり方に疑問が強まり、自分のあるべき状態ではないことから、離れ始めた。
とはいっても、左派に反転することを意味しない。
政治だとか外交だとか経済だとかといった分野への関心を減らしたに過ぎず、政治思想でいえば保守派、大戦期の歴史問題もほぼ中韓の強弁に正当性が無いものと見る。
同時に、どこかの政党が、といった枠組みにこだわらず、政治家が、といった固執もしない。

新保守いわゆるネトウヨ系に対して反抗が露骨な人々(左派・左翼系あるいは政治思想を問わず敬遠?)も、実は本質的に変わりが無く、同轍である。
双方のあり方が不穏当に異様であるから、私はニューススレのレスは2012年から見なくなり始め、今ではスレタイ・本文を見るとしても、レス内容に一瞥する気すら沸かないし、ニコニコ動画(政治動画は見ていない、動画ジャンル不問)のコメント欄も同じように比例して今では見ていないのも、人種が同じのように思われるところが理由である。
「ネトウヨ」などのような単語を常用して新保守思想のネット住民を罵倒する人らは、その彼らの「ネトウヨ像」に匹敵するかそれ以上に下品なやり口を取る(恣意的な表現や主観的なレッテル貼り・同一視をする)傾向があり、とはいえそれについては詳述すべきではない。
以下から「新保守思想」を持つ人々に関する論考を始めるため、先に断り入れた。



この「新保守思想」にも、近年では分化があり、現政権(安倍氏・麻生氏など)を全面的に支持する派閥や、現政権の構成員に特定宗教の陰謀がある・アメリカの傀儡であると見る派閥など、一様に「愛国」を自負していても、現政権に関する扱いが異なりつつある。
私は、その彼ら現体制の構成議員諸氏に依存するわけでもなければ、陰謀だとか回し者だとか等との邪推もしないし、日本共○党のように法案への恣意的な呼称を以て糾弾することもしない。
良い法案は良いだろうし、悪いと思う部分があれば精査して、賛否を持つか思考放棄してもよい、何せ参政権の無い18歳であり、今から向き合う必要があるということはない。
明治以降に起きた歴史問題についても、正しい・事実は事実であり、捏造は捏造、それ以上の執着は無用であるが、現代の外交にまで持ち込む某大陸や半島は偏執狂である、とだけ思う。

今の私の政治思想を平たく言えば「ストレート中道」であろう。
仏教を学べば、平等知見(びょうどうちけん)をもって質直分別(しちじきふんべつ)できる。
これまた平易に言うと、公平公正で素直に物事を捉える能力が身に付く、ということである。
また、必要以上の執着が無くなるから、浅い歴史や政治の問題など、部外者たる私は重きに置かなくてよいことを割り切れる。
仏様も、経典においては忌憚なく「執着の強い迷える者(我慢偏執・迷妄)」を責めておられる。



1.2 現代的合理主義

ここに論う「合理主義」とは、実に現代日本の気風によるものである。
よく、「都会の人は歩き方が速い」と言うが、これに代表されるよう、現代の日本人は無機質に効率や利益を追及しつつあるが、この合理性を突き進むと中国のような共産主義に至ってしまう。
だが、日本人は文化性などを尊重して、ほど良くニュートラル、中立の状態を保持しているから、マルクス主義的な究極の共産主義、中国でも未だ実現できていない極致へ達することはない(ただし戦前期の一国全体が思想を統制され、一致団結した時代は世界史上に類例無き究極の社会主義に見える)。

およそ「将来の夢」とは、近年世間が憂えるよう、何とも安定した職種を志す子供たちが多くおり、それはこの「現代的合理主義」の気風から、その志が生じていよう。
具体的には、サラリーマン・弁護士・公務員、少し大きいものでは政治家などである。
「広義の公務員」なら、教師や警察官など、まだ子供に適切なものがあろう。
1000年以上前の中国では、官職を志して高位・高座に就かんと憧れもとい野望を懐くことは多かったようだが、それは当時の選択肢もとい視野が狭まっていた時代背景に起因している。
為政や処世を基盤とした教えである儒教などを根本思想として、中華思想など(もちろん左記の思想の一辺倒と言いたい訳ではなく仏教など他所の思想も「自己流」で受容していった)、現代中国は「儒教道教の徳」を忘れた「共産主義の欲(貪欲・強欲)」という点で正反対のようであるが、私見では現状変わらず、思想面の色違い程度でしかなく見えてならない。

一方で、現代日本はスポーツ選手だとかパティシエだとか宇宙飛行士だとかと、「ありがち」ながら子供として「あるべき」夢を持つ選択肢はいくらでも存しているにもかかわらず、今の有様がある。
日本のスポーツは多くの競技で好成績、パティシエという菓子作りも食文化も和洋問わず評価が高く、宇宙へ飛び立った日本人は私の故郷さいたま市(旧・大宮市)輩出の若田さんなど多数おり、いずれも日本のキッズが憧れて然るべき職種であるはずだ。

職業というものは、それを望むにあたり何らかの意志が必要になるが、主にその根源は「欲望(金銭欲など生活安定・名誉・モテたい等)」か「願望(作業意欲)」のどちらかである(「望む」ことが前提であるから無理やり就労させられるケースなどは除く)。
その仕事をさせてもらえる機会が得られるなら、タダ働きさえ買って出る人もいることは、ボランティアなど慈善活動(裏事情はともかく)の人々が好例である。
繁盛しなくても、自分の料理を振舞いたい、食べる人の笑顔に触れたいから、温もりを与えたい温もりに包まれたいなどと、料理店を営み続ける人もいる。
もちろん、そういった人々がなぜ利益を得られずしてそれを続けるか、全くその感情が理解できない人も現代には増えているのではないか(少し前までの自分がそうだが、「理解」はできた今でも真似をしたいとは思わない)。

自己犠牲の姿勢を厭うにしても、身の丈に合わない金銭を得ることに狂奔する、貢献的自己犠牲を厭うのに、金銭を得るための自己犠牲、すなわち触法行為を厭わない輩が蔓延っている。
即物的な利益、給与という形を得られなくてもよい、とまで言わずとも、金欲しさから悪事に手を染める、例えば処方が制限された薬を不正に大量転売する富裕のお医者さんなどは、その職種の人間としてあってはならないであろう。
こういう風に、本来は人助けするであろう立場が必要以上の金銭に目を眩ませてしまうと、その職権を有した者にしか行えない悪事を働いてしまう。

※先述の「願望」からその職を選んだというのに、金が入るようになるとますます金を求める「欲望」が強まる人は多い。本来、収入などとは、その職を続けて得られるオマケ・副産物であるべきなのに、職の継続意欲よりも収入確保が目的意欲となって職を継続してしまえば、本末転倒となる。あるいはそもそも、「医者とか国家資格必要な職種って高収入じゃね?」という不純なる「欲望」の動機からその職業や資格が人気となるなら、もはや「道」を忘れた非道外道の民に満たされている日本という国を憂えるしかない。否、後述する「中学生の頃の自分」こそがその典型例であった。「無職即聖職」と確信す。ただし、古来人間は自分の生活の糧として「生業」を持つものであるから、生活に窮してしまわぬよう最低限の金銭などを要した「欲望」の動機は受容する。問題は、先まで上げた諸々の例のように、身の丈に合わない「欲望」か。

「利益を得るという行為」は、同時に「他へ還元する必要」が、この現代社会に存している。
税制などはそのようで、一定額を超えてから贈与税や所得税などが発生するように、誰かが一方的に莫大な利益を得て、独占することは許されない。
「富の再分配」と言い、税制などが形式的でもそうあるように、日本など先進国は貧しいアフリカやアジアなどの途上国を恒常的に援助していく必要がある。
「恩返し」という、即物的見返りを求めてはならないのであろうが、真っ当な国ならきっと日本の恩に報いてくれよう(国交正常化以来中国への多額投資、民主党の対韓通貨スワップ・・・)。
国内であっても、年金制度や生活保護制度といったものは、現代の民主主義などにおける根底の原理として、先進国的な通念(富の再分配など)がある。

昨今のEUが、中東など紛争地域の難民を積極的に受け入れていることも、嫌々行う場合もあろうが、嫌でもやらねばならない理由、集団の義務がある。
自国の事情を顧みず、難民を受け入れ続けるべき宿命が、EU諸国に付きまとう。
先進国だからと悠然として安逸に浸るのではなく、欧州の威厳を保たねばならないから、例え国内の治安が下がる(直接難民が犯罪をするか、間接要因では国民の反発で国内デモや難民襲撃など)としてもこういった人々を受け入れる先進国の自己犠牲が窺えよう。
もちろん、国際社会の通念上そうした姿勢を保つのみならず、本心から哀れみがあってそのように援助していることもあると、私は信じたく、でなければ間もなく世界が暗転しかねない。

こう語る私は、中学生の頃に「ザ・即物的功利的唯物論者」としての思想が根強くあり、中学1年生の時の開校ウン周年記念冊子で「将来の夢」について書く際、「年収1000万円」と金額を書いて悦に入っていたが、金額を書く真似は不良生徒の「年俸1億」ほどしか見当たらないほどに異端児として不気味な光を発していたことと思う。
どうせ、この年頃に正常・健全な夢を浮かべた学生諸子も、30過ぎてから現実的夢想に耽溺し、「年収800万以上の男性ガー、3高じゃないとヤダー」等とのたまいだすのであろう。
2010年12月の不登校以後も、こうした「カネ、カネ、」という性質が残り続けた。
上の「自己犠牲・富の再分配」ということを知らなければ、納得もできない中学生当時ならなお、「老人に年金出しても税金のムダだ!役立たずを(法整備の下に)殺せ!アフリカなんて未来永劫に発展しねーよ!早々に援助やめろ!」などと強く思っていた(ストレートな表現、御免)。

これは新保守・ネトウヨ時代にも変わらず根深かった。
国益や利潤を追求するのもよいが、行き過ぎると金銭や数字ばかりに囚われる。
そうであったところ、今やそういった差別思想など諸々の謬見を排除して、社会のしがらみさえも断っていることは、それなりの思惟を深めた時間の長さ・功がある。
このような中学時代の思想を忌憚なく検分・披瀝しているのも、ご覧の諸君に同様の考え方があるならば、潔く脱却され、真理の階梯を辿る道に入って頂きたいからである。



1.3 現実「語」主義

続く題名は何とも手作り感の強いもので、一見して何の話か判断しづらい。
要は「現実」という単語をあんまり念を押しすぎる人がネットの政治ファンなどに多いということであり、その「語」を悪しく弄するところで鬱陶しさを個人的に感じている。
「語」主義だから、当人が九官鳥のように唱えるだけで、当人こそ実はオウム返しならぬブーメランの法則で当人の思考状態にも、適用されている。
インターネットの中でも、2ch系や知恵袋・ツイッター等には様々な政治ファンが多いものの、みな下品な言葉が多いだけでなく、こういった語の悪用が目に付くことは甚だ多い。
※2015年11月にも地方新聞社の偉い役職の人(反自民の左翼系)が政治関係の投稿で暴走し、謝罪投稿はするも会社から役職を解任された報道がある。

斯く言う私も、2012年の投稿楽曲に"Loser of the Reality"、つまり「現実の敗北者」を意味するものがあったりと、やはりそちらの思想に染まっている場合こういった傾向が出てしまう。
自分も、「現実『語』主義」思想の影響を真に受けていたようであった。
ましてや、自虐的な意味合いでこの曲名を定めたのであろうか、己よ。

それで、どう「『語』を悪しく弄する」かといえば、キーワードは「見る・直視」である。
見るべき・直視すべき「現実」とは、社会的あるいは即物的なものか。
また、見るべき「現実」を見た上で、捉え方が主観と異なる人を、見ていない・逃げているそのものと判定される。
見るべき「現実」が多様なら捉え方も多様であるのに、当人の一元性より一様に判定することは論理上に危ういところがある。
その一元性から「コレ・アレには『未来』がある・ない」と更に広げられる。





1.4 精神面(民族の理念)での問題

初めに、"Mental"というニュアンスでの「精神」ではないことを留意されたい。
先の「現実『語』主義」と同様、そういった「精神病」云々を取り上げた論理は、インターネット特有の交流の中で毒された思考から普及し、この論理を弄すると詭弁の域を出なくなるため、私は持ち出さないようにしているし、以下の内容は精神病などとは関係が無い。
私が"Psychology"の側面から人を穿って見ることもしない。
ここでいう「精神」とは、もっともストレートに言えば「大和魂」ということになる。
また、価値観や趣味といった言い換えもある。

日本人らしからねど然(さ)ある「現代的合理主義」は、この「精神」にも適用される。
現代日本人は「神を信じない」というより、神が何であるか曖昧であるのかもしれない。
キリスト・イスラム等の絶対神を奉じた一神教の神と、日本の伝統的な神から世界の神々(ギリシャ神話からインドのものなど)といった多神教の神、現代の作品の想像上の神など、「神」といっても種類が多々あり、それらが宗教的に統率されないから異なる神々の情報が混在している現代日本では、「神」像が捉えづらい。
更に、実在した賢者にてあらせられる「仏様」を、この「神」と混同・同一視する者も非常に多いことは、キリスト教的な偶像崇拝と、多神教的に多くの仏・菩薩が崇拝されるからかもしれない。
その「神」の存在は、そういった情報や人生経験から存在の有無を個々人が弾き出し、各々の「神」像が形成されてゆき、日本人同士でそうは一致しづらい。

それでも、「この世を支配したり人を救う」性質のある絶対神的なものは、多くの日本人が懐疑的であり、否定する傾向にあることは違いなかろう。
願い事を叶えてくれず、「どうせ神なんていないよ」、誰しもそう心で思うこともあれば、口に出すこともある。
斯く言う私も、一神教の神を信じないし、一般的日本人と異なり宗教の教義上からその理由を述べられるが、ここでは煩瑣であるから省く。
2014年6月から仏教を学び始める前の自分は「神とは自分の中にいる!最も身近にいる!」等、思考を深めた上で「己心」を結論としていた。

なぜ現代日本人が、自分たちの神を知らないようになってしまったかといえば、日本の宗教史に詳らかである。
各地の集落などで実りをもたらす山の神など、各々が神を奉じていたわけだが、それぞれが似たような「神」像を掲げ、衝突や吸収などでその神という観念が食いつ食われつの様相であった。
優れた神と劣った神、色々混ざり合って、10世紀までには「天照」が最上となる(記紀のどちらかが根拠)ものの、それまでには仏教の伝来などで、既に神と仏への信仰の混在があった。
その「仏」であっても、あらゆる宗派があらゆる仏を等しく崇めるのではなく、「無量光明の阿弥陀仏(念仏・浄土系)」や「遍照金剛の大日如来(密教・真言宗)」などに宗派間で優劣の主張があったり、「仏は娑婆に実在されたお釈迦様と将来仏として下生される弥勒菩薩だけ!」などの主張もある。
平安時代の天皇なら釈尊を中心とした天台宗(比叡山)、平安末期からは加持祈祷好きのために真言宗(高野山)、鎌倉~江戸時代の武士は徳川家の菩提寺があることで有名な浄土宗をはじめとした念仏系の宗旨など、時の為政者らは中心の「仏」が相容れない宗派で定まらなかった。

西洋(欧州や中東)は国家がどう分裂しても闘争しても統合しても、ほとんどキリスト教かイスラム教であり、中国大陸もどんな王朝であれ儒教や道教の思想を根本とした政治が中心であったが、この島国の日本は万世一系の君主・皇統連綿と流れても、信仰は多様化を極めていた。
そのような日本人特有の、時代に対する柔軟な性質が悪く作用し、この現代的合理主義と、「神」という各々が懐く観念の複雑化・抽象化が発生した。
この現象を悪く言ってしまえば、軽佻浮薄で移ろいやすく、無節操ということである。

※いや、日本とは和を重んじる、その和とは、すべての存在を尊重して共存する姿勢である。神などの「宗教」という分け隔てを設けず、あらゆる思想も受け入れる。一方、何でも悪しきものを排除する思想は、西洋に端を発し、これをも受け入れた近代・戦前の日本の過ちであり、今の中国や北朝鮮など独裁的全体主義国家の体制と何ら変わらない、右翼・左翼諸氏は中道・真の「和」を知るべきである。日本宗教史の無節操は和の裏返しか。

※一部の現代日本人は、芸能などカルト的に熱狂することもあり、どこどこのチャートで上位を取りたいグループの方策に乗せられて一人でCDを何千枚も買うことは、即物的利益の信仰ともいえ、事実ライブだか握手会・サイン会だかで会う・触れられるならば有難すぎるのであろう。また、何らかの作品や作者などへのリスペクト意識が高いという人は、金銭拠出・正規購入という形でこそリスペクト意識(敬意)の印になるとの即物的観念論を垂れるが、単なる商業主義・搾取のカモか。

現在、無神論的だった人(皇室不要といった冒涜など含む)がインターネットの影響で忽然と右傾化したり、一方の人は反安保法案・反戦争法案(センソーホーアンハンターイ)といった迷妄の左傾化も甚だしい(自分の母がニワカ共産党支持者である)。
安易に、元々の考えと反転してしまう人が多いということである。
本題の、ネット経由の新保守思想であれば、日本的なセンスと遠い人(欧米化・西洋気取りなど)が突然に嫌韓・愛国宣言などを始めるということである。
私は、それらの風変わりな状態を批判して、「みな一様にこうなれ」と強いるつもりはない。
また私は、和風=愛国、愛国=和風といった、相互の等式を唱えてもいない。
私思うに、新保守思想の様子は、趣味や感性が自由な現代的保守でありながら、政治などの思想がみな似通うというところが特徴なのであろう、とだけ指摘する。

世界的なイベントや表彰において、日本人が優秀な結果を出すことは、私としても喜ばしい面はあるけれど、それ以上の関心をその分野や人物に持とうとはしない。
そのイベントや表彰の分野や人物に関して興味を強く持つこと、今仏法を学び奉る私が、新たにそれらの領域に手を伸ばすことは無い。
勉強と創作関連を続ける意志が強く、そういった人格が長い経験より形成された今、子供のように多様な夢を持つという所には既にいない(小学校中学年の頃はアレコレ夢想していたり、唯物論者の中学以降も変に憧れを広げることがあった)。
だから、その時その時で特定のスポーツ観戦などで盛り上がる大人というのは、学問上で見れば子供と本質的に変わりが無く、子供の方が伸びしろの広さで優れているくらいだと私は見ている。
子供の可能性は無限大・・・とまで言わずとも、子供の夢やその場の精神はいくらでも大目に見ようと思う反面、いい年をした大人が熱狂していると、単純に何ら知性のない人間としか見られず。

私の信念から来る感情が、そう否定的に向かせるのであるが、少し考えを変えれば、やはり業界側としても、こういった好成績による宣伝効果で、新しいファン層や、ずっと先に述べた「日本のキッズが憧れ」ることで担い手も増えることであろう。
特定のスポーツ観戦などであれば、大人は結局、個々人の娯楽としてのみならず、周囲との話題を持つ上で必要とする者もあろうし、私が濫りに批判すべき事象でないかもしれない。



1.5 善悪二分思考

まず、私の政治的な思想は善か悪かといえば、"ネットの"保守派を好きはしないが、それで私が即左派となるわけではないので、私は片方から見た「善」でも「悪」でもないこととなる。
"ネットの"という点では、左派も過激というより狭隘であるし、結局は私が"ネットの"という接頭語を冠して認識した後は、どちらの人にも好かない(特に左派はリアルであっても某党員や反アレのデモ集団など、公正に見えない)。
だがやはり、左右どちらか一方のみが正しいとすれば、正しい方を批判せずとも、そもそも信じない時点で必然的に「悪」になるのかもしれない。
だから、二分法でいえば、ただ一つの善に属さず、中道ぶるまいの私は「悪」となろう。

およそ異常な犯罪は、国内で誰が起こそうとも彼らの攻撃対象である「在日朝鮮人(チョン)・在日支那人(チャン)」といった観念的存在に挿げ替えられる。
これは、ニュース報道などの犯罪・事件のみならず、ほか異常行為や悪い性格、悪い発言などもまたそれらの観念的存在に置き換わるようである。
日本には1億を超す人々がおり、全体的な民度が他国と比較して良いといえば、統計にはそう表れているものの、画一的ということはないから、各々が異なる信条や習慣を持ち、価値観も趣味も当然、日本人がみな一緒ということもない。
それを、日本人は即「善人」とした上で、「悪人」とは総じては外国人、別しては在日朝鮮・支那人として、全くの個人レベルで大小の差異はあれ「悪人」とされる人が即「在日(略)人」とみなす。
とある悪人が生粋の日本人であるとしても、彼らの認識を介した観念的存在においては「在日(略)人」となる(ナチス・ドイツのアーリア人認定とユダヤ人認定並みに暴力的である)。

例:とある教団の老獪教祖

こう書く私の中3ネトウヨ時代はと言うと、苗字や顔立ちなどを材料に、よほどでもない限りは「在日(略)人」という断定を避けるような考えであり、いわゆる「在日認定」ということは短絡的で偏頗だからと自制をする傾向があった。
ここに感情的な要素が加わると、誰でも程度の差はあれ慎重な考えを維持する歯止めが利きづらくなってしまい、その「短絡的」と厭うたはずの状態に自ら陥りやすくなることもあった。

思想の偏向を嫌う現代性においては、日本の政権与党である自民党が「中道右派」を標榜するように、「中道・中庸」が好ましい立ち位置ではなかろうか。
「超党派」という表現も聞かれるが、政党というセクトの壁、派閥の枠を超し、イデオロギーに左右されず正しいことは正しく、また偏った思想を介在させず公平公正に分析したいときにこれを用いる。
国防にしても原発にしても社会保障にしても、右翼は右翼、左翼は左翼で相容れないことのみぶつけ合うのでは喜劇じみているから、正しいことにはそういう政党だとかのしがらみを超して、みんなで支持すべきではなかろうか(その点で某市議の姿勢は賛同できる)。
別の派閥や思想に属する者を全て、絶対的非難対象とし、あらゆる発言などを否定的に取ることは好ましくない(例えば私を憎んで私と同じ年代・出自・地位・血液型の人を憎まず、また元々私と同じ年代・出自・地位・血液型の人を嫌って私を憎むべからず、憎き坊主の袈裟を憎まず)。

続いて、あたかも「中道」であるような名前の「男女平等」が連想されるので、新保守の次は、これについて語る。





二. 中道もどき男女平等主義(フェミニズム)


2.1 概説

世間では、かまびすしく「女性が活躍する~」、「女子の~」といった華やかなフレーズが飛び交っているように見える。
これらは広義の「男女平等」に収まるようだが、実態を闡明しよう。

語義の釈、「男女平等主義」、一見すれば「平和主義」のような良い響きがありそうだが、英語の対訳を探すと、"Feminism"である。
性別区分に"M"と"F"があるが、この"F"は"Female"の略であり、ラテン語の語根でいえば"Fem"として、女性を意味する点が通じる。
要は、女性からの視点で物事を見たとき、女性の立場や地位が不満足である状況分析を前提として、現状の改善として女性の権限の拡張や待遇の向上を狙っていることになる。
その"Feminism"というフェミニン思想を「男女平等」と訳するところに第一の誤謬がある。
女性の視点から唱えた思想という、その前提を自ら打ち消すように、日本のフェミニストがこの訳語を唱えたのであれば、まず第一の問題である。

また、「女性の権限の拡張や待遇の向上」による男女平等の実現は、戦前などの昔なら女性の主権が男性に追いつこうとして平等を得るという点に一理あるも、今日ではほとんど平等か、仕方の無い性差はそれぞれあるのみで、これ以上望んではそれこそ、女性に偏重しかねない。
今の日本に望まれていることは何か。
障がい者などのバリアフリーのようなものであろうか。



所詮、人間が言うところの「平等」は、正しい理念(綺麗な理想)のもとならば実現など不可能である上、彼らフェミニストほか左翼らはそもそも誤った思考によって偽りの平等(後述)を謳っているに過ぎないから、平等の語を易々と使うべきではない。
日本語の「平等(びょうどう)」は、「平(びょう)」という呉音と、それに呼応した「等(どう)」という連濁で読む通り、その音韻が漢訳仏典・仏教(仏教建築の平等院鳳凰堂は有名)に由来する。
法華経の「平等大慧(びょうどうだいえ)」というように、仏様の力用・慈悲など、不可思議なる仏教・仏法のためにのみ用いる。

私はその上で、思想や生まれ育ちなどの隔たりを取り払った尊重主義を持っている。
私ほど酷烈な人生を歩んだ上で根性を曲げずにおり、真理を求める心が起これば、自ずとそういった理解や精神性が養われる。
今の世間上流による人権尊重の在り方は、一種の英知の結集かもしれない。
世間での差別とは、その理解や精神性のない差別者と被差別者がいて成立する。
外見が醜悪である・能力が劣る、そういった価値判断をし、醜悪で劣る者を個性として尊重できずに様々ないじめ(学校・職場)などで迫害し、またその被害者も広い心と理解を持たないため、卑屈になってしまい、悲観的になって自殺も有り得れば、そうでなくとも過激な下剋上を画策する(美容整形などもすさまじい自己否定であって愚昧・無知の所業)。
こう見れば、そういった人々が差別者や被差別者になってしまう事実は、相互の理解不足が一因として大きいし、今の生温い人権教育と、反対に差別を助長する合理的思想(1.2でいう将来の夢)の流布では子供たちの犠牲(自殺)も増え続ける。
現代人とはみな、愚かな集団にいて愚人に囲まれる愚人である。
愚かな子供のうちでは助かりようもないから、くれぐれも人間的な心を失わないで生き続け、その苦悩の中に、いつか私のような理解と精神性をどうにか得られることを願う。



2.2 日本左翼の欺瞞的平等主義

フェミニストに限らず、日本の左翼系で「差別を無くす・無差別・平等・人権」などと謳っている者達の大概が、真に平等や尊重を信念としてはおらず、「特定の層(性別・年代・出自など)が被差別の状態にある」という前提で、その層への差別を無くそうと訴えている。
だから、興味の外に対してはかえって嫌ったり卑屈になる傾向があることは、ネット上の左翼などが対立意見を言う者の論理と無関係な悪い面(事実無根で勝手な憶測のことも)を摘み上げて嘲笑するような、公平でも公正でもない詭弁を弄するところに彼らの差別意識が見え隠れする(無論この心理はネット上の右翼や政治ファンも同様である)。

被差別の原因となる要素を、特殊なものや劣ったものと思うところ(観念)に差別が生じやすいのだから、むしろ卑屈になって隠したり、逆に強く訴えるのではなく、みんなで善悪や優劣の区別(観念)を取り払い、個性として認めて尊重しあえばよい。
端的に言えば、彼らの人権屋の多くは、あらゆる存在の平等や尊重よりも、特定被差別層の擁護を目的としているから、それこそ偏屈な思想・差別意識の根源であると言わざるを得ない。
「これが好き・嫌い」という幼児思考の延長でしかなく、仏道修行者は須らく捨つべき執着でもある。
被差別者への擁護は構わないし、そういった活動も決して私は軽蔑せず、徳ある弱者救済の精神として尊重したいが、実際の彼らはみなどこかで誤りを生んでおり、それが一向に変わらない。

日本の左翼団体は押し並べて何らかの邪心を抱えているから、博愛精神のポーズだけをとって実際には、自分たちの利権を守ろうとするか、貪っているようである。
そのような陰謀の性質が強い左翼団体が、早い時期では戦前から、長年に渡って日本で暗躍してきた。

私は先1.1に「ストレート中道」と僭称した。
仏法を知らねば正しく中道に入ることは無かろう。
その私は右翼も左翼も尊重するし、正しい理念や信念があるならば共に語り合って何らかの命題に突き当たっていくべきであろうが、今のネット右翼たちの盲いる様や、日本の左翼全般のお為ごかしぶりを思えば、とても良い存在として認められ得ない。
このようだから、今のネット右翼の多くは、左翼的思想や反右翼発言が全て反日的思想もとい、全てが在日外国人(特定アジア系)・カルト教団(南北朝鮮系)そのものだと見誤ってしまう。
どちらも「社会をより良くしたい」、具体的に言えば国家や民衆が豊かに栄えるための方法を考えていく上で思想の異なりを二分に呼称した程度の概念であるのに、彼我が全く別離してしまった。

私の中道・尊重という立場の平等性について少し例を挙げる。
例えば、私が中国・韓国の文化などを褒めることがあるとすれば、それは異文化を尊重する延長線上の行為である。
これが主に右翼・極右のセクト主義やナショナリズムなどイデオロギーが強い人々には、聞くに堪えないことと思う。
また、多くの左翼系は特定の存在などを過剰に讃嘆するか擁護する一方で、それが侮蔑を受けるか何らかの侵害に遭えば過剰に反発する、というような極端且つ偏狭なもので、とても平等の語は当てられず、尊重の思想にも遠い。
そのような思想がこの例以外にも漏れなく言えてしまう。

この故に、日本の左翼系団体のいう「平等」という理念は、まったき欺瞞というほかない。
2.1の如く、平等の原意に基づけば、「平等」を人類が成し得ることは不可能である上に、一応それを理念・理想と見るにも、その理念・理想と乖離した偏狭な行為を続けている。

私の中道・尊重という立場は穏健であり、個人の心における平等の実現を支える。
完全な中道や中立性は有り得ないし、それをしようものならば人間の思想・社会的活動が大きく制限されるであろうが、それも程度を見ればよい。
何かの行動や発言の結果に、悪いことが起こるならば結果論であろうし、そうして行動の積極性と消極性とを巧みに操ることができれば、また中道というものである。
これは、結局、その個人の経験量や現在の実践に依存する。






2015年12月5日土曜日

2015年11月の「日記メモ啓発月間」後記

2015年11月中、本家ブログにおいて「日記メモ啓発月間」を敢行し、月間毎日メモの投稿という一大目標を成功裏に収めた。
メモ帳にて当月分のまとめ記事は作らないでおくことは、啓発月間を始めるに当たって悩んだわけだが、その過程で当記事「後記」との代替案が浮上し、これを採用した。



個性的なナンバー一覧

11月3日メモ・・・その日の面白い出来事を、書き下ろしイラストと共に解説している。
11月5日メモ・・・楽器(10月31日メモにある母の購入物)を試しに演奏したことと、その楽曲に関して音階なども書いている。
11月6日メモ・・・故郷埼玉のブランドに関連して、最近の全国事件に対する埼玉らしい立場や、県警の問題性など、自分の経験も開陳して詳しく語っている。
11月1718日両メモ・・・フランス語の音韻について、母への配達物から一考してある(メモ帳にこれをまとめて集成した記事がある)。
11月23日メモ・・・小さく散歩した記録が普段の日記メモのノリで綴られる。
11月30日メモ・・・最後の日、末尾にベタベタとリンクが張られている。

画像つきの日付→01 03 06 10 13 18 19 20 21 23 27 28 30



「メモ記入日の一覧」テンプレート・HTMLタグ

例月のまとめ記事では2015年7月分から「メモ記入日の一覧」を設け、更に同年9月分からは記事内の日付別のリンクを万全に付けるなど、閲覧の利便性を向上させた。
そこまで熱心にご覧の良心ある読者などいるわけはない、と思いつつこれを10月分でも続けた。

<b><span style="font-size: large;">メモ記入日の一覧</span></b><br />
<a href="#1">1</a> <a href="#2">2</a> <a href="#3">3</a> <a href="#4">4</a> <a href="#5">5</a> <a href="#6">6</a> <a href="#7">7</a> <a href="#8">8</a> <a href="#9">9</a> <a href="#10">10</a> <a href="#11">11</a> <a href="#12">12</a> <a href="#13">13</a> <a href="#14">14</a> <a href="#15">15</a> <a href="#16">16</a> <a href="#17">17</a> <a href="#18">18</a> <a href="#19">19</a> <a href="#20">20</a> <a href="#21">21</a> <a href="#22">22</a> <a href="#23">23</a> <a href="#24">24</a> <a href="#25">25</a> <a href="#26">26</a> <a href="#27">27</a> <a href="#28">28</a> <a href="#29">29</a> <a href="#30">30</a> <a href="#31">31</a> <br />

"#1"などは日付の位置に移動させるわけだが、当該記事のパーマリンク(固定URL)をその前に書かないと、Bloggerは勝手に無関係なユーザーページのURLを挿入してしまう。
「ユーザーページのURL」とは、"https://www.blogger.com/blogger.g?blogID=(特定の数字列)"であるが、そんなことをするブログやHPサービスなどは、Bloggerくらいしか存在しない。
よって、当メモ帳では逐一当該記事のパーマリンク(固定URL)を"#1"などの前に挿入する手間をかけている。

ほか、この「日付の位置」を定義させるため、適切な箇所に1つずつ日付ごとのdiv idタグを貼る。
"1"とある箇所は、2、3、10、22などと日付に応じた名前を記入する。

<div id="1">
</div>



2015年11月29日日曜日

日本人の精神性と信仰心 ~ 歴史的経緯と現代のありかた (10月文章抜粋)

今回も10月中に執筆した文章中、「ネット以降の保守思想」に関する項目から抜粋して投稿する。



* 精神面(民族の理念)での問題 *

初めに、"Mental"というニュアンスでの「精神」ではないことを留意されたい。
先の「現実『語』主義」と同様、そういった「精神病」云々を取り上げた論理は、インターネット特有の交流の中で毒された思考から普及し、この論理を弄すると詭弁の域を出なくなるため、私は持ち出さないようにしているし、以下の内容は精神病などとは関係が無い。
私が"Psychology"の側面から人を穿って見ることもしない。
現代日本人がいう科学、ことに医学や人体に関する話をすると、精神病理も栄養学も個々人が勝手なイメージを重ねたり、「血液型による性格の判断」などといった現代的な迷信(造語: 現代唯物教・民間信仰の邪義)が強く罷り通っているため、この方向は好まない。

ここでいう「精神」とは、もっともストレートに言えば「大和魂」ということになる。
また、「趣味」や「感性」といった言い換えもある。
そこで、総括的ではあるが「民族の理念」という括弧の注釈を付けた。



日本人らしからねど然(さ)ある「現代的合理主義」は、この「精神」にも適用される。
現代日本人は「神を信じない」というより、神が何であるか曖昧であるのかもしれない。
キリスト・イスラム等の絶対神を奉じた一神教の神と、日本の伝統的な神から世界の神々(ギリシャ神話からインドのものなど)といった多神教の神、現代の作品の想像上の神など、「神」といっても種類が多々あり、それらが宗教的に統率されないから異なる神々の情報が混在している現代日本では、「神」像が捉えづらい。
更に、実在した賢者にてあらせられる「仏様」を、この「神」と混同・同一視する者も非常に多いことは、キリスト教的な偶像崇拝と、多神教的に多くの仏・菩薩が崇拝されるからかもしれない。
その「神」の存在は、そういった情報や人生経験から存在の有無を個々人が弾き出し、各々の「神」像が形成されてゆき、日本人同士でそうは一致しづらい。

それでも、「この世を支配したり人を救う」性質のある絶対神的なものは、多くの日本人が懐疑的であり、否定する傾向にあることは違いなかろう。
願い事を叶えてくれず、「どうせ神なんていないよ」、誰しもそう心で思うこともあれば、口に出すこともある。
斯く言う私も、一神教の神を信じないし、一般的日本人と異なり宗教の教義上からその理由を述べられるが、ここでは煩瑣であるから省く。
2014年6月から仏教を学び始める前の自分は「神とは自分の中にいる!最も身近にいる!」等、思考を深めた上で「己心」を結論としていた。

なぜ現代日本人が、自分たちの神を知らないようになってしまったかといえば、日本の宗教史に詳らかである。
各地の集落などで実りをもたらす山の神など、各々が神を奉じていたわけだが、それぞれが似たような「神」像を掲げ、衝突や吸収などでその神という観念が食いつ食われつの様相であった。
優れた神と劣った神、色々混ざり合って、10世紀までには「天照」が最上となる(記紀のどちらかが根拠)ものの、それまでには仏教の伝来などで、既に神と仏の混在があった。
その「仏」であっても、あらゆる宗派があらゆる仏を等しく崇めるのではなく、「無量光明の阿弥陀仏(念仏・浄土系)」や「遍照金剛の大日如来(密教・真言宗)」などに宗派間で優劣の主張があったり、「仏は娑婆に実在されたお釈迦様と将来下生される弥勒菩薩だけ!」などの主張もある。
平安時代の天皇なら釈迦を中心とした天台宗(比叡山)、平安末期からは加持祈祷好きのために真言宗(高野山)、鎌倉~江戸時代の武士は徳川家菩提寺があることで有名な浄土宗をはじめとした念仏系の宗派など、時の為政者らは中心の「仏」が相容れない宗派で定まらなかった。

西洋(欧州や中東)は国家がどう分裂しても闘争しても統合しても、ほとんどキリスト教かイスラム教であり、中国大陸もどんな王朝であれ儒教や道教の思想を根本とした政治が中心であったのに、この島国の日本は万世一系の君主・皇統連綿と流れても、信仰は多様化を極めていた。
そのような日本人特有の、時代に対する柔軟な性質が悪く作用し、この現代的合理主義と、「神」という各々が懐く観念の複雑化・抽象化が発生した。
この現象を悪く言ってしまえば、軽佻浮薄で移ろいやすく、無節操ということである。

※いや、日本とは和を重んじる、その和とは、すべての存在を尊重して共存する姿勢である。神などの「宗教」という分け隔てを設けず、あらゆる思想も受け入れる。何でも悪しきものを排除する思想は、近代・戦前の日本の過ちであり、今の中国や北朝鮮など独裁的全体主義国家の体制と何ら変わらない、右翼・左翼諸氏は中道・真の「和」を知るべきである。無節操は和の裏返しか。



現在、無神論的だった人(皇室不要といった冒涜など含む)がインターネットの影響で忽然と右傾化したり(小学生→中2にかけての自分がそれ)、一方の人は反安保法案・反戦争法案(センソーホーアンハンターイ)といった迷妄の左傾化も甚だしい(自分の母がニワカ共産党支持者である)。
安易に、元々の考えと反転してしまう人が多いということである。
本題の、ネット経由の新保守思想であれば、日本的なセンスと遠い人(欧米化・西洋気取りなど)が突然に嫌韓・愛国宣言などを始めるということである。
私は、それらの風変わりな状態を批判して、「みな一様にこうなれ」と強いるつもりはない。
また私は、和風=愛国、愛国=和風といった、相互の等式を唱えてもいない。
私思うに、新保守思想の様子は、趣味や感性が自由な現代的保守でありながら、政治などの思想がみな似通うというところが特徴なのであろう、とだけ指摘する。

世界的なイベントや表彰において、日本人が優秀な結果を出すことは、私としても喜ばしい面はあるけれど、それ以上の関心をその分野や人物に持とうとはしない。
そのイベントや表彰の分野や人物に関して興味を強く持つこと、今仏法を学び奉る私が、新たにそれらの領域に手を伸ばすことは無い。
勉強と創作関連を続ける意志が強く、そういった人格が長い経験より形成された今、子供のように多様な夢を持つという所には既にいない(小学校中学年の頃はアレコレ夢想していたり、唯物論者の中学以降も変に憧れを広げることがあった)。
だから、その時その時で特定のアレ観戦などで盛り上がる大人というのは、学問上で見れば子供と本質的に変わりが無いが、伸びしろの広さで子供が優れているくらいだと私は見ている。
子供の可能性は無限大・・・とまで言わずとも、子供の夢やその場の精神はいくらでも大目に見ようと思う反面、いい年をした大人が熱狂していると、単純に何も学んでいない人間としか見られず。

しかしそう否定的に、私の信念から来る感情が向かせるので、少し考えを変えれば、やはり業界側としても、こういった好成績による宣伝効果で、新しいファン層や、ずっと先に述べた「日本のキッズが憧れ」ることで担い手も増えることであろう。
特定のアレ観戦であれば、大人は結局、個々人の娯楽としてのみならず、周囲との話題を持つ上で必要とする者もあろうし、私がみだりに批判するべきではないかもしれない。



備考

2014年3月6日における自撮り写真へ、2014年3月19日に文字を付与した

上掲はオマケの字幕付き写真である。
本文参照『2014年6月から仏教を学び始める前の自分は「神とは自分の中にいる!最も身近にいる!」等、思考を深めた上で「己心」を結論としていた。』

字幕は「頼れる神こそ己の中にある。自我の神格化によって鼓舞するんだ!崇拝対象は最も身近にあると考えろ!」とする。
字幕に「己」と「自我」という類義語があるが、ここでは前者が「深層意識や無意識の精神か何か」を意味し、後者が「当人など誰でも生者の顕在意識が五感を用いて認知できる対象として実在する肉体から存在を認定する生命全般」を意味すると考えればよい。
つまり、前者が深層的に神を宿しており、後者が表層的に神格化されるべきだと、当時の私が字幕において主張をしたかったのだろう。
理由は、2014年6月以前のコンテンツに多かれ少なかれ書かれているかもしれない。
ところで、「神」と「神格化対象」という二者が両者の差異を示しているが、哲学的には定義が困難かと思う。

2015年11月26日木曜日

10月に書いた文章より「現代的合理主義」を抜粋

10月中に起草した下書き記事の一部記述を新設記事として投稿する。
以下からの文章が始まった経緯として、私が小中学生の頃に持っていた思想「インターネット新保守主義」が関連する。
よって、その「中学生の頃の私」を念頭においてご覧いただきたい。
※後日、その10月起草下書きの記事を急いで仕上げて投稿するかもしれないので、そちらも併せて高覧されたい。



*現代的合理主義*

ここに論う「合理主義」とは、実に現代日本の気風によるものである。
よく、「都会の人は歩き方が速い」と言うが、これに代表されるよう、現代の日本人は無機質に効率や利益を追及しつつあるが、この合理性を突き進むと中国のような共産主義に至ってしまう。
だが、日本人は文化性などを尊重して、ほど良くニュートラル、中立の状態を保持しているから、マルクス的な究極の共産主義、中国でも未だ実現できていない境地へ達することはない(ただし戦前期の一国全体が思想を統制され、一致団結した時代は究極の社会主義に見える)。

およそ「将来の夢」とは、近年世間が憂えるよう、何とも安定した職種を志す子供たちが多くおり、それはこの「現代的合理主義」の気風から、その志が生じていよう。
具体的には、サラリーマン・弁護士・公務員、少し大きいものでは政治家などである。
「広義の公務員」なら、教師や警察官など、まだ子供に適切なものがあろう。
1000年以上前の中国では、官職を志して高位・高座に就かんと憧れもとい野望を懐くことは多かったようだが、それは当時の選択肢もとい視野が狭まっていた時代背景に起因している。
為政や処世を基盤とした教えである儒教などを根本思想として、中華思想など(もちろん右記の思想の一辺倒と言いたい訳ではなく仏教など他所の思想も「自己流」で受容していった)、現代中国は「儒教道教の徳」を忘れた「共産主義の欲(貪欲・強欲)」という点で正反対のようであるが、私見では現状変わらず、思想面の色違い程度でしかなく見えてならない。

一方で、現代日本はスポーツ選手だとかパティシエだとか宇宙飛行士だとかと、「ありがち」ながら子供として「あるべき」夢を持つ選択肢はいくらでも存しているにもかかわらず、今の有様がある。
日本のスポーツは多くの競技で好成績、パティシエという菓子作りも食文化も和洋問わず評価が高く、宇宙へ飛び立った日本人は私の故郷さいたま市(旧・大宮市)輩出の若田さんをはじめ多数おり、いずれも日本のキッズが憧れて然るべき職種であるはずだ。

職業というものは、それを望むにあたり何らかの意志が必要になるが、主にその根源は「欲望(金銭欲など生活安定・名誉・モテたい等)」か「願望(作業意欲)」のどちらかである(「望む」ことが前提であるから当人の意に反して無理やり就労させられるケースなどは除く)。
その仕事をさせてもらえる機会が得られるなら、タダ働きさえ買って出る人もいることは、ボランティアなど慈善活動(裏事情はともかく)の人々が好例である。
繁盛しなくても、自分の料理を振舞いたい、食べる人の笑顔に触れたいから、温もりを与えたい温もりに包まれたいなどと、料理店を営み続ける人もいる。
もちろん、そういった人々がなぜ利益を得られずしてそれを続けるか、全く感情が理解できない人も現代には増えているのではないか(少し前までの自分がそうだが、「理解」はできた今でも真似をしたいとは思わない)。

自己犠牲の姿勢を厭うにしても、身の丈に合わない金銭を得ることに狂奔する、貢献的自己犠牲を厭うのに、金銭を得るための自己犠牲、すなわち触法行為を厭わない輩が蔓延っている。
即物的な利益、給与という形を得られなくてもよい、とまで言わずとも、金欲しさから悪事に手を染める、例えば処方が制限された薬を不正に大量転売する富裕のお医者さんなどは、その職種の人間としてあってはならないであろう。
こういう風に、本来は人助けするであろう立場が必要以上の金銭に目を眩ませてしまうと、その職権を有した者にしか行えない悪事を働いてしまう。

利益を得るということは、同時に他へ還元する必要が、この現代社会に存している。
税制などはそのようで、一定額を超えてから贈与税や所得税などが発生するように、誰かが一方的に莫大な利益を得て、独占することは許されない。
「富の再分配」と言い、税制などが形式的でもそうあるように、日本など先進国は貧しいアフリカやアジアなどの途上国を恒常的に援助していく必要がある。
「恩返し」という、即物的見返りを求めてはならないのであろうが、真っ当な国ならきっと日本の恩に報いてくれよう(国交正常化以来中国への多額投資、民主党の対韓通貨スワップ・・・)。
国内であっても、年金制度や生活保護制度といった社会福祉保障は、現代の民主主義などにおける根底の原理として、先進国的な通念(富の再分配など)がある。

昨今のEUが、中東など紛争地域の難民を積極的に受け入れていることも、嫌々行う場合もあろうが、嫌でもやらねばならない理由、集団の義務がある。
自国の事情を顧みず、難民を受け入れ続けるべき宿命が、EU諸国に付きまとう。
先進国だからと悠然として安逸に浸るのではなく、欧州の威厳を保たねばならないから、例え国内の治安が下がる(直接難民が犯罪をするか、間接要因では国民の反発で国内デモや難民襲撃など)としてもこういった人々を受け入れる先進国の自己犠牲が窺えよう。
もちろん、国際社会の通念上そうした姿勢を保つのみならず、本心から哀れみがあってそのように援助していることもあると、私は信じたく、でなければ間もなく世界が暗転しかねない。

こう語る私は、中学生の頃に「ザ・即物的功利的唯物論者」としての思想が根強くあり、中学1年生の時の開校ウン周年記念冊子で「将来の夢」について書く際、「年収1000万円」と金額を書いて悦に入っていたが、金額を書く真似は不良生徒の「年俸1億」ほどしか見当たらないほどに異端児として不気味な光を発していたことと思う。
どうせ、この年頃に正常・健全な夢を浮かべた学生諸子も、30過ぎてから現実的夢想に耽溺し、「年収800万以上の男性ガー、3高じゃないとヤダー」等とのたまいだすのであろう。
2010年12月の不登校以後も、こうした「カネ、カネ、」という性質が残り続けた。
上の「自己犠牲・富の再分配」ということを知らなければ、納得もできない中学生当時ならなお、「老人に年金出しても税金のムダだ!役立たずを(法整備の下に)殺せ!アフリカなんて未来永劫に発展しねーよ!早々に援助やめろ!」などと強く思っていた(ストレートな表現、御免)。

これは新保守・ネトウヨ時代にも変わらず根深かった。
国益や利潤を追求するのもよいが、行き過ぎると金銭や数字ばかりに囚われる。そうであったところ、今やそういった差別思想など諸々の謬見を排除して、社会のしがらみさえも断っていることは、それなりの思惟を深めた時間の長さ・功がある。
このような中学時代の思想を忌憚なく検分・披瀝しているのも、ご覧の諸君に同様の考え方があるならば、潔く脱却され、真理の階梯を辿る道に入って頂きたいからである。


2015年11月19日木曜日

フランス語の音韻に関するにわか仕込みをしてみた記録

初めに、私は「外国語の学習者」ではなく、僭越ながら「言語学や音韻学の研究者」と自称したほうが正しいから、英語など特定の言語をピンポイントで学びもしないし、話者になる気もあまりない。
故に、たとえ英語に偏ることがあっても、言語学総体における一カテゴリの範疇に留まる。
今回は、最近の母親の浪費の中で、ケーキや観葉植物などがあり、箱や容器などにプリントされたフランス語から少し勉強へ広げてみた記録を日記メモから集成する。
最近のにわかな勉強でも、また知ることが多くて、後学のためにもなりそうだ。

そもそも私は浅学の徒なれども、ナントカ語の文章を目にすると、どうしても脳内でカタカナ表記にしたがる知的好奇心が俄然高ぶって、口頭でそれを読もうとする。
そうして成り立ったカタカナ音を文字にして、それが実際に慣用的なカタカナ表記(カタカナイゼーション"Katakanization")にどれほど合致するか、単語をGoogleで検索するか、英語版Wiktionaryに当たって語源や発音記号を参照するか、Google翻訳の音声合成機能の発音を聴くことで正確なカタカナ表記を模索する。
このような方法でカタカナ表記を定めていくことは、フランス語に限らず、ドイツ語であるとかも同様に役立つであろうが、特にフランス語のように発音法則が掴みづらいか安定しない言語には慎重を期してじっくりと調べている。



ここで、ようやく日記メモの引用を交えた本題へと入ろうとする。
その前に、以下からの記述と併せて、過去・2014年9月28日の、当メモ帳ブログにおけるフランス語記事をお一つ参照されたい。
http://lesbophilia.blogspot.com/2014/09/blog-post_28.html

11月17日の日記メモ

12時50分にヤマト(クール車)から1箱の配達があった。
14時台後半に諸々確認すると、表の段ボール箱には"LeTAO"と書いてあり、内の箱はケーキであり、"Venezia rendez-vous"とある。
後者は、独り言で「ヴェネツィア・レンデツ・ボー」と読んだ。
ベネチアだから後もイタリア語として、"vous"をフランス語のように語末の"s"を発音せず読んでみたのだが、このフランス語の音韻理論は当たっている。
ただ、正式なカタカナでの読み方は、もう少し異なるし、語末の子音を発音しないなら"z"もそうすべきであるから答えは「ランデブー」だそうで、これは聞いたことのある単語でも意味を知っていない。
ところが、今検索するとこれはやはりフランス語のようで、ベネチアの先入観から理性的にイタリア語と思ったが、やはり文字の並びでフランス語理論を思い起こした私の言語感覚は天才的直感であったようである。
このケーキ名、イタリア語の都市名とフランス語の単語を混ぜるとは・・・。
3度のケーキより言葉遊びが好きな私であった。

20時40分前から1Fリビングにて少し作業をしたが、その折、件のLeTAO品がまだ他にあったようで、冷蔵庫に保管されているものを見た。
箱には「ドゥー・クーシェ・コンポゼー・デ・マスカルポーネ・エ・デ・フロマージュ・ア・ラ・クレーム」等とフランス語で書いてあった。
どうやらこちらが件のメーカーの看板商品のようである。
なお、今回のスイーツなフランス語に関連して、過去のスイーツ記事のフランス語についても当該記事に加筆しておいた。

当記事注: ここで、上「ランデブー"Rendez-vous"」を例にフランス語の文字対音韻を詳しくメモすると、子音を伴う"en"も「アン」と読むことは、「"ren"=ラン」の箇所や、○○マンというフランス語の単語なら「"ment"=マン」となるように見られる。上メモの通り、語末のzにしてもtにしてもsにしても、発音はしない=無音化をする。更に、"ou"は大概「ウー」であることも見られている。




11月18日の日記メモ

17時過ぎに配達物と見られる植物(今回は10月末の3点・写真と異なり、模造でない)3点について確認した。
量と大きさから、郵便からの配達のほうであろうが、クリスマス仕様の植物で、またしてもフランス語で「ボンヌ・ジュルネ」や「アン・アヴル・デ・ペ」等と書いてある。
母に色々思い浮かぶことがあるが、10月該当範囲のメモ記述に任す。

ところで、アン・アヴルだかというのは、"Un avre"と書いてある(Un harveとどちらが正しいのかは不明)。
連声のような法則で「アナヴル」と読むのもありえそうだが、具体的な呼称を探しても、先の単語の語末が"n"の例についてはエリジオンともリエゾンとも言えないようで、なぜこう稀有な例に当たって、たまたま調べる初心者以下の私を悩ませるのであろうか。
これは非常に難問であろうから、口先フランス語話者には到底解答し得ないであろうし、いわんや初心者以下の私をや、として離れる。
ちなみに直後の再調査で、恐らくはアンシェヌマンという法則らしい。
なお私は外国語の学習者ではなく、言語学や音韻学の研究者と言ったほうが正しいから、英語など特定言語ピンポイントで学びもしないし、話者になる気もあまりない。



↓11月19日17時26分の投稿時にはこの画像を用いていたが、18時台に写真を取り直して先の画像に置き換えておいた。

ボンヌ・ジョルネ bonne journee journée


2015年11月13日金曜日

同じ作者の2009年の作品と、初公開が2012年で未完の作品それぞれ

私は、2015年以降あまりPCでゲームをやることがなく、ゲーム自体は専ら某サイト関連(RPGが主要であり、自主制作している人が今も少数いる)の携帯のアプリか、同じく携帯電話のソーシャルゲームで2010年・前の家から断続的にやっていて後々フォンブラウザ版(PCでも登録可)などが出来ているもの2種をPCでもプレイするなど、コアもにわかも、ゲーマーなら誰もが身の凍るような思いをするであろう。
ヒョイヒョイ新しいものに手を出したり浪費散財をも厭わないという軽薄さが無い私の、硬派で高潔な精神が伝わり、畏怖のあまり身を凍らせよう。
そんな中で、11月4日の正午過ぎに、予てやろうと企てていたPCのフリーゲームをDLした。



そのゲームは、「2012年7月に公開され2013年7月に私が初プレイした長編のフリゲARPG(未完)」の同作者が2009年に公開したもので、共に人名や地名・魔法などの設定のほか音楽なども少なくはあるが通じ合う。
ただ、リリースの前後関係はそうでも、作品内設定の時系列などは私のプレイ順と同じく、リリースの前後関係とは逆であるそうだ。
例えば、DQは未プレイでほぼ知らないが、DQもナンバリングと逆である3→2→1の順で次の時代へと世界が進んでいるらしく同様である。
2013年7月にその某フリゲをプレイしたというのに、2015年11月の今になって同作者の前作をプレイするとは、実に遅れているようだが、これの初プレイ自体は2013~14年中であった。
その時はどういうものか少し気になった程度であったから、初めに苦手な雰囲気を覚えて間もなくプレイを放棄したという経緯がある。
今回はかなり本気で挑んだことにより、食わず嫌い的な意識から脱却できたのであろう。

私の過去記事における、2012年7月公開の某フリゲに関する記述は、本家2014年9月15日の記事終盤と、メモ帳2015年7月16日記事の21日追記などがある(加えて、2014年中の絵の練習記事のどこかに二次創作っぽい漫画を載せてあるが、大部分はモザイクがかかる)。
このように、時間と共に過去作への疑問と希望を募らせ、ゲームプレイに欠いた状態もあることから生活面への影響を調べる意も兼ねてプレイを始めることとなった。
「疑問」とは、いかに設定や名称や音楽や画像に相互性があって、どう相関するか、また作者の意思についても指している。
「希望」とは、2012年7月に公開された作品で気に入ったキャラと同名キャラの存在をたまたま2013・14年頃に知り、そのキャラはいかに登場していかなる設定を持ち、後の作品とどう相関し、また未完である後の作品のストーリーがどう紡がれるかその判断に寄与されようことを期待するものであった。



まず、その疑問の解決について話す前に、両ゲームの仕様を説明する。
2009年のものはRPGツクールで、12年7月のものはWolf RPGエディターであるが、前者は音楽以外のデータが特定の圧縮・暗号化がされているようであり、後者はほぼ全て暗号化されている。

音楽に関して言うと、前者は8~9割がMIDIで残りが全てMP3ファイル、後者は聞いてすぐにMIDIが1割ほどしかないことが分かる。
例えば、09年作でMIDIだった曲が12年作には非MIDIのオーディオになっている例が数個見られた。
12年作はあらゆる内容のボリュームが大きいとはいえ、やはり一番データサイズが大きいものは音楽系のファイルのようである。
BGMが一大要素である日本のゲームは、やはりグラフィックでCGを多用しない反面、豊富なオーディオデータが最も容量を消費する。
余談だが、前者ツクールで鳴るMIDIは各々PCに定義された音源で鳴らされる(私の場合Timidity++を設定し、導入したSoundfont、大抵のWindows環境は初期音源gm.dls)が、後者ウディターはWindowsなら初期音源gm.dlsが強制的に選ばれるようである。



私が12年作で気に入ったキャラクターの1人は、09年作でも登場しているということで、まずその相互性として、12年作では人を超えた種族の設定があり、長寿であることが伝えられる(設定の時系列では過去にあたる12年作でも最低600年以上生きていることが推定され、それから何年か何百年先とも付かない09年作の世界でも登場していると1000歳超もありえる)。
そもそも12年作は、09年作で神話的に説かれる小さな設定(「こういうおとぎ話もある」というスタンス)を主体としており、語弊はあるが「外伝」のようなものである(もっとも、12年作はクオリティの高さから圧倒的な人気の差がつく)。
その09年作での小さな設定・おとぎ話と大きな関わりがあるように描写されつつ、09年作のメインストーリーで活躍されないキャラが、現状は唯一の12年作再登場キャラ(モンスターには再登場が多くある)として、12年作でも現状はストーリーの端で登場する。
「現状は」と二度念を押す理由として、前者の「現状は」なら09年作に同姓と思われるキャラ(妹?)がおり、12年作では「生き別れの妹」の存在が示されるよう、今後のアップデートでその「妹」が09年作から再登場するかもしれないし、後者の「現状は」なら、今後のアップデートで何らかの活躍が期待されるからである。

もし09年作が12年作とストーリーが繋がり、12年作の舞台の後の世が09年作で、同キャラとその妹(?)の関係が12年作の今後のアップデートで判明すれば、同作者の作品の世界観において複雑な移り変わりが一つに結ばれるのであろうか。
それとも、そこまで考えることは行き過ぎであろうか。
このキャラを主体とすると全て結ばれそうであるが、ストーリーや各名称などには齟齬も生じており、全く一体とみなすことができない現状があり、今後どう明確になってくるか注目されよう。



最後に、ここまでの話がまとまっているのか、判断がつかないが、この文章を執筆した11月6日に、冒頭でも書いた「某サイト関連」の活動内では、このキャラクターのドット絵(キャラチップ)のデータを、某サイト関連のゲームと似た雰囲気に修正して、そこでのブログ内に掲載した。
09年作と12年作のどちらかといえば、前者の方をデータフォルダ内の.xyz圧縮データから、通常の利用が可能なpngなどに変換した。
私的利用の範疇を逸脱しているから、他者の知的財産権を侵害しているようだけれど、長年こういう自分はそこら辺の順法意識が薄くて困る。
小6・中1の時に2ch関連の書籍で、著作権を条文のみならず具体例からも学び、半可通とは違った知識を得たが、要は政治家が汚職することなどと同じである。
2014年7月の動画説明文にも「剽窃」云々と、自分について語ってある。



付録:保存楽曲識別番号
当記事も、音楽館の作曲者関連の記事のように、某サイト保存楽曲から識別番号を羅列する。
テーマは、12年作に重なる印象の曲である。
範囲を広げるとARPGやRPG系全般、広げすぎると多くのゲームジャンルに伸びてしまうため、自分でもどの程度までが適切な境界であるかは判然としない。
また、件のゲームはほとんどフリー素材系である(12年作にはオリジナルで提供されたものがあるようだが詳細不明)。

件のテーマに該当する曲(個人管理識別番号)→230 316 321 374 379 414 462 507

この中で特筆すべきは"230"であろう。
私は2013年9月4日にこの曲を初めて聴いたようであるが、この曲の某サイト投稿は2013年9月3日であり、投稿から間もなく聞いていたようである。
それに、2013年9月といえば、私が12年作を初プレイした2013年7月からまだ日が浅く、この12年作に対する想いがやや残りつつあったわけで、この曲にはかなり強く12年作を重ねた。
曲名に「永久(とこしえ)」と冠している点も、「時間」をテーマとしている12年作(主要キャラの一人がタイムスリップに相当する禁忌の魔術を持ち、第一部エンディングはそれを発動して終了)の印象と重なるものであろう。
また、同楽曲作者のメイン名義と同じひらがな3文字の投稿名で、同ゲーム公式BBSに投稿があるが、同一人物であるかは不明である。

余談となるが、ゲーム系の楽曲に関して少々説明する。
某サイトでゲーム系というと、RPGの対抗馬はSTG・・・もっと言えば東方系(私も投稿経験あり)が物凄く多い。
あらゆるゲーム・アニメ・バンドなどこの世にある中でも、もっとも「コレが多い」という固有名詞を挙げるなら、「東方(厳密には東方project)」に勝るものは某サイトに無いと思われるほど東方風の楽曲が多い。
2006年の時点で3人以上は複数回東方っぽい曲を投稿している(メタルのおじさん含む)。
一方でRPGといえば、典型的ではあるがDQかFFのような戦闘曲がかなり人気である。
広義のゲーム音楽としては、音ゲーの曲も含まれるだろうか。
某サイト作曲者にも音ゲーファンが多く、音ゲーっぽいテクノやトランスも多く見られる。
ただ、やはり作品名などの固有名詞で最多のキーワードは「東方」ではないか。

なお、メタルのおじさんが東方かSTG系、あるいはファミコン横スクロールアクション的な曲を作ったことはあっても、RPG系は見られない。
そもそも、彼の2006年以降に見られる活動名義は、とある横スクロールのSTG(ケイブ以外の何か)の作中における楽曲名の単語3つの頭文字から取られている(本人談)。
3文字である点のみを取っても、東方でいえば「ZUN」「NKZ」のようにSTG界隈の慣習(ZUN氏も言及)を感じさせる。


2015年11月8日日曜日

詮無き空想「捕らぬ狸の皮算用」も小学生の頃には良き夢想

私は日々ネットでの言論を行う。
創作関係(絵・音楽)にしても言論と同様、リアルの形に残したいと思うことは多いが、とりあえず論文を紙面に印刷する場合を考えた。
去年から、自分のネット投稿文章を紙に書写することは多かったが、今年は日記メモを取る習慣が強まるに連れ、その因果関係はともかく、書写行為はしなくなった。

紙に印刷することを考える際、第一にA4コピー用紙一面にコピーする手段がある。
各種資料・学校のプリントのような紙面となろう(それらは主に横書きだが、私は縦書きにしたい)。
こういった場合は、Microsoft OfficeのWordなどが最もポピュラーな編集方法で、この下に印刷を行うものだが、あいにく私のOffice系ソフトは某紛い物メーカーの体験版しかない。
Wordなどにこだわらない手段としては、画像にテキストを貼り付けてその画像データを印刷することか、あるいは直接ブログのHTML画面をブラウザの機能で印刷することも挙げられる。

実は私の思考では、Wordなどオフィス系ソフトは後から思いついていて、今の「画像方式」と「ブラウザ方式」が先行していた。
そういうわけだから、最初から「Word方式」ということは考えなかったが、ブログ記述では便宜上このようにする。
ほか、A4の紙では大きく読みづらい・折れやすいので、後々半分のA5サイズにすることを考慮した印刷方法を採ることもよい。
この場合は、1枚の紙に1Pと100Pついで2Pと99Pのような印刷方法を採るか、1Pと2Pついで3Pと4Pのような印刷方法を採るか、という点も考える。



以上のように真面目な思案を展開しても、空想に近いと気付いてしまう。
なぜであるか、立派に考えても実行が無ければ「捕らぬ狸の皮算用」となってしまうからであり、それは「皮算用」というほどに小中学生時代に多々経験があったからである。
2007年4月、母別居開始から広い家に独りでいる時間が急増した中で、様々な思考に耽っていたものであるが、その中には「皮算用」とも言える計算活動が多かった。
過去記事で「中1時の開校ウン周年」における「将来の夢」欄で「年収1000万円」と、理想の収入を書いた真似に見るよう、即物的思考はあったのだが、ただ現代の大人らがそうのたまうことと異なり、小学生(高学年)の当時からそれなりの計算を伴っていたのである。

想定した年収や月収(月給)を前提に、食費いくら、電気水道料金、ガス代は当時の家がオール電化であることから加算する場合と加算しない場合を考え、光熱費という概念は今でも謎だが、適当に小額加えたであろう、それにマンション・アパート住まいなら家賃だとか、想像しえる各種ケースを精査した上で、貯蓄額や遊ぶ金などをどれほど残せるか計算していた。
今では当時のメモ資料実物など、前の家に置き去りであるから、どのような内容か確認不能であるが、上記はほぼ高学年~中1の頃にそのままされていたことと覚える。



あの広い家で独りきりという中で、ある時はネット中毒、ある時はネットもゲームも無い(2008年夏に別居母との再開の事前に上の画面に数字キー、別にQWERTY配列キー備わり、後のスマートフォン的なブラウジングが出来たスライド式携帯電話を受け取った経緯があるが、これは2008年10月に破壊し同年12月の姫路遠征時に返還した・・・2006年7月にあの家に越した折、2003年購入のSH252iを一時自室内で紛失しつつ小6か中1の時に再発見した経緯もあるが、これは当然2004年のとある経緯でネット接続不能である)環境下で、トモダチだとかもいなかったわけだから、独りで何をして時間を潰したかと言うと、お絵かき・物色など多種あろうが、独自の遊びを開拓することもあった。
独自の遊びと言うと、現在この家や私の所有物にも結局は漫画やゲーム機などが無いわけであるから、このPCにもCPUを荒らすゲームを動かす気にならないため、音楽をいじることが多い。

「音楽をいじる」のであり、「楽器をいじる」行為は、物を持っていないため不可能である。
仮に持っていても、あまり触れないのであろうし。
「音楽をいじる」とは、「音楽ファイル=MIDIなどのデータをいじる」ということであるが、同時にMIDIファイルの再生もまた、視覚的に楽しみ甲斐のあるソフトを利用する。
TMIDI Playerを筆頭に、動画投稿経験ならMAM Playerもある。
MIDIファイルで簡易に音ゲーをプレイできるSynthesiaはインストール済みでも、あまり使わない。
PCゲームとは、CPU・消費メモリのほか、ノートPCのキーボードに対する負荷も考慮しており、ましてやこのような長文を打ち続ける私がこれ以上キーボードへの負担をかけることは忌避する。

その私は、視覚的にも再生される諸ソフトによって、音ゲー的な独自の遊びをしている。
再生画面を見ながら指先でドラム演奏・・・右手のみなら、人差し指がキック・バスドラム、中指・薬指などがスネアの役割、この役割分担は場面によって一律でない。
両手でやる場合は、その視覚的にそれらの再生画面を見ない状態も多い。
再生画面を見ない、ということは、PCの前にすら居ないで、押し入れないで自分の肋骨や腹部など音の異なる箇所でキック・バスドラムやスネアなど区別して叩く。
「一律でない」わけだから、別パートへの展開前などにスネアを激しく叩く場面があれば、両手法の場合今まで肋骨キック・バスドラ演奏の右手を腹部に移動させ、左手と共に打ち鳴らす。
思えば、指のドラムなどの美学は、小5・6の頃から基礎が固まっていたようである。
やはり片手法なら人差し指と中指、両手法なら左手と右手で異なる音が鳴るように気を遣っていたらしく、似たようなことをしている他の男子児童などは、その区別をしていなかった。




2015年10月30日金曜日

「ネト本リア末」議論と而二不二の義

インターネットは、構造上リアルありきとはいえ、人々の生活は趣味や娯楽から、経済活動に至るまでネットに移行しつつあり、依存傾向にさえ変容しつつあることは、既に大衆までも知覚する。
私の場合は、ネットショッピングを行わない(中3の時に数度のみ)が、経済活動そのものが、リアルでもぼちぼち自販機に通う程度に、つましくある。
頻繁に買うならば安価に済む手段に越したものはないが、私は自販機という割高なようでも便利なものに直近3年間は全き100パーセント支出している(不意に小銭を失った時などを除く)。

一方で、創作や言論の拠点は、ネットでの公開を主体としつつ、リアルにも形に残そうと、多少の行動がある。
例えば、紙に絵を描く、イラストや写真のデータを紙に印刷する、言論の文章を筆写する(ペン手書きの訓練にもなる)等。
音楽関連は、CDに焼くなどしたいものだが、結局WAVEやMIDIなどの各種データをUSBメモリに移すほどしか、現状は手段が無い。
ましてや、絵をイラスト集に、文章を著書にして発行するであるとか、自作曲の楽器演奏やCD製作配布・販売など、出来ようもないし、そこまで物質化・大衆化する必要も無い。

今のような、ネットに重点を置いた活動をしていると、ネット上の「横野真史」という人格が本体で、リアルの人格こそが自分にあらぬ存在のように錯綜してしまいかねない。
インターネットという媒体が、現象の空間を前提として成立するように、自分もまた、肉体や生命に精神を備えたところから、ネット上の仮名に託しているのである。
いわば、ゲーム中毒に陥って、あたかも己は主人公に成りきったように振舞うことが類似する。
度合いによるが、軽度であれば、ネット掲示板・チャット・ネトゲなどで「なりきり」などとして遊戯雑談を交わす人々がおり、重度を過ぎれば、自分が主人公および作品内キャラ本人そのものと本心で深く刻まれるケースもある。
架空作品主人公に擬したリアル犯罪行為(主にグロゲー)は、精神面だとこの中間で、意識の上に意図的になりきりはするが、行為がそのキャラクターさながらであるから、厄介でもある。
私は深くゲームプレイをしないながら、俄かに新規プレイ(ここではネトゲやソシャゲを除くものを指す)してハマり込むと、何となしにゲーム外での思考の中で混同することもある。

それはともかく、私の「横野真史」という人格は、その仮名すら実際の自分の本名を踏襲しつつ、更に多くの面で自分を昇華させたものであり、混同などはおろか目標にすべきである。
恒常的にこうした論理的な思考を維持し、日常のあらゆる場面において精神の安定による冷静かつ迅速かつ的確な判断を繰り出せることが、一つの境地であろう。
ほか、ネット上に最新の顔写真を公開し続けているが、まず写真を撮る際は撮り直しなども多い。
公開できるほどの写真は、話題に合致している場合と、単純に顔貌が美麗である場合などあるが、そのようにネットで公開した写真の時ほど常時美しければよいと思う。
ただし、写真の写りと鏡の映りでは、写・映される顔の状態すなわち絶対性が良い場合、鏡はその絶対性を反映するから、続く相対性で不利になる写真の写りは想像と齟齬があったり、期待はずれのパターンが多い。
この点は複雑であるし、ネット人格に比肩する目標、ということの例としては参考にならない。



ここで改めて、「本末」の語義を考えられたい。
「本」とは根本、「末」とは末節ということであり、本体・末端、本望・瑣末ともいえる。
私の学問分野で、例によっては「本迹(本地と垂迹)」ともいう。
"本"来の自分に対して、その派生であるネット上の人格が"末"端であり、本体がネットを去るか消えたら、活動の形跡は残るとしても、末端の魂、新たな生命活動は無くなる。
死体が腐敗するように、コンテンツ跡地は数年、十年と消滅の可能性が増えるか、あるいはサイトが生き残ればそっくりそのまま十年以上残るかもしれない。

この横野真史という名義は、本体の自分が多くの時間と手をかけて育てあげている。
その功も徳も、実に高く積まれているように思えて、分裂した人格を本来の人格が羨望し、あるいは神格化したように高次で捉える。
「本迹」でいえば、高次のネット人格"本"が顕現して、"迹"のリアル自分に降臨することを望むか。

「自分で撮った覚えが確然とあるこの顔写真は、横野真史の顔写真であるか・・・、横野真史とは自分であり、自分とは異なる存在なのであろうか・・・。いや、自分は○○ではなく横野真史であったのか。これが横野真史の写真であれば、自分は横野真史なのであろう」といった具合に色々と混乱してはならない。
正しくは、自分が○○であって、横野真史は仮想空間での異称であり、創作や言論などの活動の一切は本体の自分を根源・根本として、仮想空間では横野真史の名で発するのみである。
このように正確な分別を維持しなければ人格は崩壊してしまう。

また、もし法律上の氏名を「横野真史」に改名するか、逆にネット上の名義を「○○」という本名に改名したとしても、やはり全く同一の人格ではない(名同体異、99%までは似せても完全はない)。
そうはいっても、「横野真史」に根も葉もない・誤解の風評が立てば、即リアルの自分への風評として憂えるものであり、横野真史の上で糾弾すべきであろう。
このように、而二不二の義を以て、同じのようで異なり(而二)、異なるようで同じ(不二)という分別を持たねばならない。
先述の「この横野真史という名義は、本体の自分が多くの時間と手をかけて育てあげている」という一文の通り、本体の自分と遜色がないか、それ以上の人格として生きていて・・・肝心な結びの文章を失念した。なんでかな。

表題に「ネト本リア末」と書いたが、結局のところ、「ネト本リア末」と「ネト末リア本」のどちらが正義であるかは判断が付きづらい。
物質的・歴史的にはネットが先となっていても、今や冒頭の例にある通り、ネットこそ観念上の本体のみならず、世間を動かす力もすさまじく、ここに一つの共同体も見られ、"ネト本"の者も多くて然るべきではないか。



大事な仏法の用語を、謹んで俗用し奉る、恐々合掌。
どこかの人だと、人格、パーソナリティ、ペルソナ、アイドル、等と言い始めてしまいそう・・・。
本記事は、前記事の「携帯電話・半角カタカナ・メモ形式」で原案を作ったが、最初はあんまり私の趣味ではないから掲載さえためらったが、結果はこの独立記事として規模が肥大化した。

記事冒頭ではネト本思想における経済活動の一端として「ネットでの買い物・ネット通販・ネットショッピング」にやや触れた。
母親は、記事執筆の今月2015年10月は高頻度でネット通販を行っていたことが脳裏にあろうか。
この様子についての記録は、来月の3日頃に「日記メモまとめ記事」として、当ブログにおいても閲覧できるようになる。
2015年8月21日の日記メモには、サイトのAmazon アマゾンを例に取ってリアル店舗の需要が減ることについて簡単な記述がある。
「みな母のようにネットでの食品購入が増えたら、佐川とヤマトが肥大化する。需要に応じてAmazon等が独自の配送機関を設けるかもしれない。リアル店舗小売業の雇用が運送業に傾くな、と何となく恐怖を感じるが、それは食品配達に限らず佐川とヤマトが来る度に思うことだ」


2015年10月25日日曜日

横野的な思想文集(雑多に)

いつだか「硬き褥に臥せて思いぬ~」といった形で文章を載せた(1/14, 3/12両メモ帳記事)。
今回も同じく、硬き褥に臥せながら思い、メモ(携帯電話による半角カタカナ入力)に残したことをここで校正し、掲載する。
その形式でメモしたこと以外の情報もあるが、とりあえず一括で載せる。



道心生活 (2015年10月21日の硬き褥メモ)


いわゆるアレの人々に対して、世間では昼夜逆転の先入観を持つだろうし、私自身も昼夜逆転状態の方が生活上で合理的であり、自由度が高く思えるから過去には昼夜・夜昼逆転を自在に繰り返して過ごしていたが、現在は自律的に普通の起床・就寝時間を定着させており、それは道心の故である。
このことは、8月下旬の日記メモに表れはじめ、9月中は1ヶ月間に貫き通し、今月10月であっても、絶えず続いていることは、道心なくして持続不可能である。

たまたま睡眠時間の短い日が続いた20日は満身創痍であった。
前日(19日)夜においては、この近頃の陽気を、件の灰色スウェットにて過ごし、体は主に背中や額に、首や脇などが湿っぽくなり、某サイトの耳に悪いロック系の曲をいじっている上に解体工事の長時間続いた轟音のみならずここで鼓膜が刺激されるのは、もう死体メッタ打ちである。
目にしても右目が、数日前からの違和感が続き、今見れば充血をもしていて、ケツの痔などが不安になるような作業を続けた。
就寝時には後頭部の腫れを仰向けに寝て圧迫されることで意識し、翌20日の朝は4時台に一度目覚めてから二度寝後の7時半の起床では、寝相のためか全身が痛んでいて、その後も首と腹部の筋肉痛が続いた。
後述する安眠妨害などの難・万障はあれ、道心の故に持続しえていることは、合理性から昼夜逆転を続けられるという点もまた、私の実行力が窺えよう。
必要があるから隠棲を続け、必要がないから外出もしない反面、必要があれば外出はできる。

日々生活記録を取り、ネットで披瀝し布衍する。
綿密に計画を練り、自ら律する。
愚物の親が、良き指針を示すということの無きようは自明のことであるばかりか、道心を乱し、志を知らず、安眠妨害をするほどである。
この念を持って日々高揚感が沸き起こり、ますます希望が充ち満ちる。
披瀝布衍の慈悲は俗に言うところの売名や自己主張にあらず。
正見智目を開かしめ、同じく道心ある者を導かんと遍照す。



↓別の時のメモ文章(校正済み)だけれど、少し話が↑と繋がる(意図していないけれど)。
真っ当な考えのある人が減りつつある今(顛倒濁世)、それで諦めず、私のようにいよいよ正しい考えを持つ人を探している。
そんな人と巡り会い、共に真理を追い求め、実証していきたい。
そういう目的で活動しているのに、よく忘れ、見失いやすく、徒労と虚無の懐疑がある。



この章に関する注釈・追記 (2015年10月29日)

道心があれば、その各々が「不善」と思い悩むことは自然と改まる。
というよりは、あるべき「善」に還るのであろう。
「善悪」といえばおよそ観念的で、個々人の主観に基づく面は多いが、とりあえず各々が「酒・タバコの使用(飲酒・喫煙)は悪いな~」等と嫌う悪は、道心を持つことで自然と直るものである。
道心を持てば、私のような肩書きの人が誇る「昼夜逆転」状態の生活が、健全な生活に矯正されよう、強く望んで血眼になる苦労などは必要が無い。

なぜならば、個々人には本源的に各々の「善」が備わっているからであり、その善は、正しい徳を得ることで遺憾なく発揮されるし、寧ろ「善」であることが当然の姿である。
正しい徳と道心によって、あるべき「善」に還るという思想は、いわゆる「性善説」である。
儒教の思想かもしれないが、中国以後の大乗仏教はこの影響を受け、日本でも「信仰の功徳により自然と宿命転換して、生活も豊かになる」と現世利益まで説く教団が多い。
この思想が極まると、「徳が無いから、悪因の果報で弱者・貧乏・負け犬」という極端な主張がされる場合もある(儒教はこれが旺盛であり、中華倫理最大の誤謬である)。

そこまで言うつもりはないが、今の私は困窮のようでも、大聖人のように日々悦びを感じ続け、仏法を学ばせてもらっている立場でいられるから、生きる希望を大きく懐いている。
道心より、自然と希望も生まれるし、私は成人以後も飲酒・喫煙はしない方向でいよう。
されば、禁酒・禁煙が難しくて悩んでいる大人は、アレコレ策を練る前に、清浄の法を学んで改悔し、道心を持つところから始めるべきことを推奨する。




如是我聞。


意訳: このような出来事があったかもしれない
注釈: 正統な使い方(仏典)と異なる

昔、仏法を学びつつ、歌道の執着が強い法師がいた。
或る時、その法師が憧れた高名な歌人が亡くなり、法師は悼んでいた。
法師は、歌道を嗜む人々の集いにしばしば足を運んでいたが、そこでその歌人の死について語らうことにした。


すると話し相手の俗人(僧侶でない人)は、饒舌にこう話し始めた。

「なぜ汝はその歌人の死について傷心し、惜しんでいるのか。彼の詠む歌がもう増えないことは惜しむべきだが、今の歌が消えるわけではない。また、いやしくも彼が生き続けたとして、歌を詠むことができないままとなれば、それは彼であって彼でない。彼に歌を詠むことのほかに何を求めようか、悔やむべきことは無い」


法師はハッとした。
眼前にはただの俗人がいるだけのようだが、その言葉は耳朶を打ちつけ、胸中を穿つこと、さながら雷鳴のごとく、強靭な矢に射抜かれるごとくであった。
自分は深く仏法を学んでいるはずだが、未だに人間の存在に囚われていた。

作品は素晴らしい、人間は植物の種を蒔き、育てあげるとはいえ、育った植物・採れた果実は結果的に良いもので、誰が育てたと気にするであろうか(現代は少し事情が異なるも割愛)。
育ちきらなかったものもまた、そういう結果に過ぎない。
人が育てなくとも、立派に果物を実らせる果実もある、歌道なら読み人知らずとも言える。
この歌人の作品を、この歌人のものとして尊ぶことはしても、それ以上に歌人の人間的な空間まで思い、執着する必要は無いばかりか、無益なのだ。
法師は己を恥じ、俗人からの説法を身に染め、改めて仏法に向き合う心を持った。
「人はみな つね無き身にて 死なむとも 成仏ばかり 尊きはなし 三宝に帰命し奉る」

解説
某サイト多くのゲーム作者や作曲者らの失踪(=歌人の死)・腐敗(=詠めずとも生きる)は甚だしいといえども、彼らが遺してきた多くの作品は良いものだ。
それでも自分は、彼ら「中の人」が気にかかって已むことは無い。
一方でサイト住民の中には、淡々と作品を利用して作者らと交流するのに、失踪などを気にかけない人もいるようであり、何とも言えない心境である。
ある人は「2015年9月6日から失踪中の作者M」らのゲームプレイが主要だが、どこかが抜けているのか、あるいは表に出さないものの作者Mの失踪を憂えているのか。
作者Mと共同で製作した経緯のあるゲーム作者諸氏も、作者Mの失踪に関して口に出さないか、最近1ヶ月はサイト関連の掲示板にも書き込みが乏しくなっている(冷え切っている)。
無論、憂えている私も作者Mに対し、某サイトで楽曲提供をした身であるとはいえ、某サイト内で彼のことは特に触れずにいるが、某住民や作者らは私の比でない親密な交流をしていたはずであるから、もっと悲しみを文字としてもよかろうに。



何でもない昔話 (改行ナシで縮める)


小4二学期で4・5・6年か4・5年か4・6年の時に私と同じクラスに所属し、私と下の名前が同音異字の男児がいた。その男児は私並みに勉強が出来る、と言うよりも、知識の豊富さであれば当時の私を超していたかもしれない。小4三学期に漢字検定5級(出題範囲が小6で習う漢字だから推奨は中1以上)を受けに行く(一度○川市を離れ、故郷・浦和に降りて会場に赴く)ことを彼に話したときは、3級を受けると意気込んでいた(彼の合否は不明だが、私は抜き打ちテストのノリで挑んだから合格点の80~90%ほどで受からず、ちなみにクラスのある女児が7級を受けに行くという自慢を小耳に挟んだ)。同じく小4の時に、エベレストの山頂の所在地を、私が中国・インドと思っていたとき、彼は中国・ネパールと答えた。反面、彼には忘れ物が多く、時の担任教師・ケバい中年女性からよく怒られ、時には授業遅延の犯人としてクラス全児童の前で涙ながらに謝罪をさせられることもあった。これには胸が痛みつつも、私という成績優秀かつ問題児という存在としては、案外、身近にいる彼に敵わないのではないか、と思った。それはそれで、校内にあって気が楽になれる考え方である。彼とは、あの学校生活にあって比較的仲良く会話ができた方であったが、頭突きを売りにしているから、その辺りは冷や冷やしていた。


この彼については、過去にどこかで書いたはずだが、例の如く投稿が見当たらなかった。



相対値の中の絶対数と相対数(絶対と相対の誤謬)


普通の人の1日あたり消費エネルギーを100として、頭での消費を20とする
私の消費エネルギーを80として、頭での消費は相対数で2倍なら32、絶対数で2倍なら40となる。
100の中の20はパーセンテージ20%、これの2倍が40%でも、100の40%は40、80の40%は32。
絶対数で2倍の40という時、私の80という中の相対でいえば50%であるから普通の2.5倍。

次の例として、某ゲームにおけるアイテムドロップ率を挙げる。
とあるモンスターを倒してレアアイテムAがドロップする(拾える)確率を2%として、これに「ドロップ率5%アップ」という効果を備えて臨むとする。
この"5%"が、相対値の絶対数を上げるならばレアアイテムAのドロップ率は7%に上昇するが、相対値の相対数を上げる場合、「ドロップ率"2%"」を絶対と立てるわけだから、2の内の5%、即ち2に0.1を加算した2.1%にしか上昇せず、その効果は有って無きが如し、と言える。
このことは、「○パーセント増加」と「○ポイント増加」という表現の相違にも似ている。

「ドロップ率が5%上がる」という説明だけでは曖昧であるのだが、実際にその効果を備えて臨み、プレイしてみると、レアアイテムAはドロップする気配を見せず、後者の「相対値の相対数」として作用していることが分かれば、有名無実の説明だと思わずにいられない。
簡単な説明はいくらでも解釈でき、それをインチキに用いる側はいくらでも正当化できてしまうため、これで起こるトラブルを回避するのが賢者であり、即ち明瞭な説明を以て明らかにすることで、未然に相手の誤解も不快感を生まない。


2015年10月17日土曜日

研鑽連盟問答要項

便宜上の表現「団体・首脳」。現状は適切な表現を模索中(首脳→拾主"しっす"等)。
Q(質問)&A(回答)とも、自分で設けているが、ここでは質問者が良識ある人間で、回答者が「首脳」とされる人物への忠実な理解者という存在に仮託した形式であるように見て頂きたい。
特に回答者こそが忠義・礼節の態度と教法への理解を得ていて、首脳サマの御眼鏡に適っているから、そういった姿勢も学べる素晴らしい「問答要項」である(回答者は度の強い敬語表現を用いるるが一部の文法は通俗的にして普通の人が読みやすくする)。

「・・・・・・真史様は、こう仰せられたので、わたくしめではその御見識に到底比肩することは考えられなくなりました。それでも真史様は、常に『真摯な修行に臨むことで、みな人生を終えるまでに今の私ごときの浅き智は超し得よう』と励まされますので、意気地の無いわたくしめも毅然と立ち直ることが適うのであります」

「真史様を知る者がたとえ万人を超そうとも、その教えの聖水を漏らさず受け容れ、濁さず留めることが適う器*1は一つとして*2有難く御座いましょう」

「ごいこーへんしょーまさしさまっ☆ごいこーへんじょーまさしさまっ☆」



Q. この団体の名称「寂光園*3 "Pseudotopia"」についてお教えください。
A. 寂光園 "Pseudotopia"の名称の起源は、団体の設立経緯の以前にあります。2014年6月に首脳は、自身のお部屋を「欺瞞の楽園」とのおつもりで冗談ながらにそう称されました。それから1年以上も経つころに首脳は、本当にこの世は欺瞞の存在であるけれど、自分の部屋も現世における修行道場になり得るということに気付かれ、仮のすまいでありながら浄土さながらの効験を望むに至られ、改めてこの名を団体の名称として相応しく定められたのでございます。

Q. この団体の理念とは何ですか?
A. 当団体の理念や存在意義とは「救済」にありますが、この熟語だけではある種多義的でありますので、もう一つ言葉を足すと「落穂拾い」になります。穀物は秋に収穫期を向かえ、世間では成長に伴って学校であるとか社会的な機関が置かれ、現代は誰もが普遍的な手段としてそれらの機関を通りますが、穂が切れるか毀れて落ちるように、そこから漏れてしまう者も少なからずおります。そこで、当団体は智と識を以って心の深奥より救済をすることを重大意義として、この研鑽精神を普く布衍し、漏れた者たちを掬い救わねばなりません。これは未成年~若年層が主なターゲットであり、穂も穀も腐らずある内に拾って参ります。刈穂も落穂も一個体には等しい価値がありましょうに、拾ってくれる者は普通おりません。なるか分からない田畑土壌の肥やしになるのみで終わります。「落穂」としての価値は、早い解脱の性質を内在しておりましょう。当団体の教導を受けられることは僥倖であります。

Q. 「救済」は手段で、別に目的があったりはしませんか?拾った穂の行く先は?
A. 「救済」を謳って多額の布施を集める怪しい宗教法人や、「救済」を演じる顔で路上生活者に公的支援を斡旋しつつその手数料として公金をくすねる怪しいNPO法人など、巷には数多蔓延る邪まな団体がございます。お為ごかし・私腹肥やしとは異なり、料金・費用の徴収は行いません。食物の無い状態に陥れば、そのまま運命に殉ずる選択を頭の片隅に置き、日々自ら戒める気概が必要であります。この精神性を学ぶことも研鑽の一環であり、心肝に染まれば即ち救済への前進であります。また、多くの迷える者達にもこの精神を知らしめて啓蒙をせねばなりません。

Q. この団体が行う「研鑽」の厳しさや、娯楽の許容範囲は?
A. 「研鑽」では、「見聞・思惟」の二つを愛し、それ以外の執着・雑念は可能な限り交えないようにする精神が肝要であります。身を滅ぼせとまで言わずとも、己の身ですら最愛であってはならず、「身を粉にする」ような思いで臨む姿勢は望ましくございます。娯楽に対しては、時間を過度に消費するような耽溺が無いように自らを制し、律する心構えが必要であります。ましてやゲーム等に金銭を拠出する行為は愚昧に存じます。こういった習慣のある方は、速やかにこの執着を断つことにこそ専念しましょう。首脳は誰かからこうした指針を示されずとも、人類の師匠におわします仏の所説に依って漸次独りで娯楽・嗜好品の執着を断っていき、痩せさらばえられました。遊蕩も控え、隠棲の中でその理智を究めんと弛まず過ごしておられます。首脳の身は細ってなお心が豊かでございますことは、仏の教えという能く実らせる福田を蔵しておられるためであり、首脳は内にも外にも収穫・落穂拾いを行って自他共に解脱を得んと得さしめんと、常に農耕を勤めておられます*4

Q. 「研鑽精神の布衍」とは具体的に何をするのでしょうか?
A. 主にインターネットの場で行います。首脳の場合は自身の観想という精神面のみならず、生活記録を取るなど文字に起こして、多くブログ等で発信しておられます。一字一句、文法や誤字などに注意をしつつ、学術的な側面も付けるなど、あらゆる労苦を厭わず行っておられます。文字数や冗長性などを抑えながら、内容が豊富なものを実現する点にも苦心しておられます。そうして救済対象に弘めようと啓発主張される慈悲を、鮮烈に感じます。道心ある人々がこの首脳のような活動をする者を見るならば、「我も斯くならん」と憧憬を懐くことは必定でありましょう。これに対し、魯鈍懶惰なる様の者を直接に責める必要もあり、これは相手を選んで行われたく存じます。また、苟くも首脳の勇姿を見て、悪心ばかり懐く不届き者には強く呵責すべくございます。我々は現代の賢人であられる首脳の驥尾に付し、薫陶を受けつつ、たまたま首脳を知っても憎んでしまう人*5には、強烈な啓蒙が必要でありましょう。

Q. 宗教の教義とは思想が似ていませんか?
A. 首脳の識られた答えとは、仏教を学ばれる折に得たものであり、御自身も仏教の延長や仏教を援用したものであると御考えであります。首脳は何らかの宗派に「仮想入信」をし、宗派の教義や聖典を学び、宗派の修行も実践されました。仏教は宗派が多岐に渡っておりますが、宗派の隔たりの無い普遍的な教義については仏教の基本となります。それが、取りも直さず世界の真理であり、正しい教えでございます。方便のお答えを濫觴として、多くの仏典・教書を紐解いたり、自ら観想することで更なる真実を導き出し、真理の全容を明らかにすべく、首脳は日々修行をされており、我々も志を同じくするものであります。

Q. 破壊的なカルト教団のように変質してしまいませんか?
A. 首脳の言を預かりました「是の如きテロル画策は非道の衆、瞋毒の徒なり。如何なる義を掲ぐるとも、人命をば殺すべからず。豈隠棲の身にて殺生を行ぜんや」。こう強く制誡され、どんな考えを持ったとしても殺人に手を染めてはならないことを決然と仰せられております。

Q. 特定の政治思想を唱えていますか?
A. 当団体で政治思想を掲揚して、所属する者に対し強制することはしておりません。また、各個人の是とする思想や信条を否定もいたしません。ここは個人の自由の範疇であり、それこそが当団体の方針であります。研鑽をする人々の意思は自ずと公平になると推定されます。ただし、団体に所属する者の全体で見て、いくらか特定のものに傾倒する場合はございましょう。とりあえず、団体規模で政治思想の掲揚は無いことを留意されたく存じます。当団体は既成の概念や団体に偏るわけでもなければ、全く新しいものでもなく、中庸の立場にあり続けましょう。

ズバリ、首脳の政治思想の変遷!



讃嘆の偈頌(未完成)とその訳

世濁悪強盛。著根本無明。於是如夜永。有人見月星。不得遊戯処。久受大苦悩。而識少真理。則入安穏道(あへ)

世は濁悪の真っ只中。
人々は根本的な迷いに支配されている。
その俗世にあって、世俗的な快楽すら得られず、世人よりも強い苦しみを受けながらも、一つの答えを識る者がいた。
それだけで、どこまでも救われた安堵感が満ちた。
同じような苦悩の渦中にありながら迷い続ける人々にこの真実方便を伝え、同じように救いの道を行かすべく教えを興した。
この答えとは、真理の一端に過ぎないが、同時に根本的な迷いの強い世間にあっては、誰人も気付き得ないものであるから、これ一つを識るだけで、大衆の中でも長大な飛躍となり得る。
多くの人間にこれを弘め、より多くの真実を解き明かし、生命の最期までに真理の全容を悉く覚知せんとす。

自ら命を絶ってはならない。
人を著しく害さない範囲であれば、どうあっても生きて、研鑽と瞑想などを続け、生命の最期までに真理に達せんとす。
成し遂げる使命があるのであれば、自ずと生きぬく術が備わる。
もし万策尽きれば、覚悟して運命に殉ずる外なく、それもまた真理と心して日々自ら戒めよう。
決して、自他問わず人の身を毀してはならない。
例えば、一日の私腹を肥やさんがために人を殺める者がいる。
刹那的な安楽はあっても、現世の外、後生までもその因果応報を恐るべし。*6
我々は三毒と五欲を制し、律し続けながら修行をすることで積まれる徳により、細くも長い生命が備わるであろう。

甚だ強まった濁悪の世相において、我々は世俗的な快楽も充足感も求めては儚くあるのみばかりか、罪業とさえなってしまう。
ここは安楽の場所ではないが、ここを嫌って速やかに死のうとしてもならない。
ここにあって修行をすることが、最も重要な生き方である。
また、それを自身の宿命と定めて、運命を容れる決意が必要である。
然れば仏の法を能く知り、志を同じて真理への階梯を上り、無上覚を得よう。



脚注 (出典・参考文献)

*1・・・とある宗派において、歴代・当代の管長が祖師の教法を正統に継承していることを譬えた「法水瀉瓶」が元ネタ。今の世を見ていると、一分でも道心を持って、仏法を学ぼうと発心する機根ある者が、どれほどおろうか。ましてや、真理への階梯を私と共に上ってくれる人は居難い。窮地に陥ったらば、いっそ放浪して入山した方がよいかもしれない。師匠も弟子も相互に求め合い、師は法を説き、弟子は法を嗣ぎ、更なる弟子・信者へと法を伝え弘むという、連綿たる法脈が仏教を現在まで遺してきたのではないか。三宝への尊敬・信仰とは、ここに大いなる意義を置く。

*2・・・今まで、多くの者が私を「笑われ者」として見てきたであろうが、誰も私の言葉を理解することなく、1年とて私を「嘲笑う」ことさえなかった。きっかけは何でもいい。笑いたければ笑え。哀れみたければ哀れんだままに私の言葉を聞いていればよいが、1年も持たない。いや、厳密には1秒とて理解されない。それで、1分でも、延ばして1年でも、心から理解して献身に聞く者など一人もいるはずがない。「鳳潭の人形」と同じである。また、一箇半箇を願う師と、一箇半箇を自負する弟子の関係を羨んでも空しい。私が良い人間であるとし、良い弟子がつくとする。その弟子が私に師事するならば、私は良い師となってより良い師に育つ。弟子を得て師となった結果が、より良い師への因ともなる。弟子とは、良い師をより良い師にさせる「師の師」である。しかし、そのような良い弟子がつかないならば、私が良い師ともより良い師ともならない。私をより良くする弟子をまた、私をより良くする師としておきたい。今の世に、師として師となる優れた人間が一人もいないという前提で逆説的師の弟子を求めるが、今のところ、そんな弟子も現れそうにない。末法悪世で師も弟子も、現世の他人に求められない。仏法信仰の原点である、過去の賢人・諸仏と自身の可能性への信仰を取り戻そう。

*3・・・読みは「じゃっこうおん (旧仮名:じやつくわうをん)」であるが、当初は園を"えん"とする、漢音の読み方であった。

*4・・・2016年1月からパーリ語の仏典も読み始めた(読書の基本は日本語訳だけど)ので、後からの挿入で恐縮だが当記事脚注でも説明する。スッタ・ニパータ1章4経 (うち77-80)における釈尊の説教を知られたい。物体としての道具を使用した物質的・生産的な農耕を行うのではなく、心の田畑に種まきから草むしりに水やりなど、耕作の行為を絶やさず続けていることについて訴えられている。なぜこう訴えられたか。釈尊は托鉢で食を得ようとされている折、「私は自分の収穫物を食べて生きている。あなたも食べるなら一緒に耕作してから食べてね(働いてからメシを食え)」と農耕従事者のバラモンに言われたので、「自分は既に自他へ大いなる恵みを与えており、自分もまたそうしてから食べている」との旨を丁寧に説明されている。ただし、このあと感動したバラモンから乳粥を布施されようとしたとき「僧侶は説法の報酬・対価・見返りとしての布施・供養を受けない」という教義から、乳粥の布施を釈尊はお受けにならなかった(現代語訳の例)。同様の話は他のパーリ仏典「相応部7.11経"Kasibhāradvāja Sutta"」や漢訳仏典「雑阿含経98経」にも見られる。

*5・・・徒然草の第八十五段でいう「至りて愚かなる人」

*6・・・天下無雙の智人・広学多聞の明匠(日蓮大聖人の説)である栂尾の明恵上人は、自身の病気を診てもらった医者に「寒い山中で体を壊しているから、温めた酒を飲み続けて治癒する」と示されたところ、「若し予暫くも世に住して益(益)有るべきならば、三寶の擁護により病癒え命延ぶべし。さあるまじきに於ては、佛の堅く誡め給ふ飮酒戒をば犯すべからず。」と、自分に全うすべき使命あれば加護による延命があり、もし寿命が残り短くとも破戒をしてまで延命はしない、と厳格であった。また、「飲酒の罪は現世のみならず来世にも罪障として悪影響を及ぼす」、「法師として教導する責任のある自分が病気を理由に飲酒をすれば、後世の弟子はこれに託けて破戒をしてよい風潮が強まりかねないであろう」と、思慮深い一面も見せた。


2015年10月13日火曜日

虚無思想と二分思考を克服する仏教

【分けた末が二極収斂】

知能は、"分ける"ことと"分かつ"ことにより"分かる"状態を得る。
第一に己の肉体の連続性から自他を分かち、自分の存在を確認する。
それを元に、他人から「あなた」と示されることで、相対的な自分の立場を知る。
他にもまた多くの分類が存在する。
生物か物体か無形の事象か、生物なら動物か植物か、どちらであっても多くの種族が存在する。
ここにまた、自他とは何かという話題が戻り、それでは便宜上"他"とされた分類のどこかに自分は属するものか。

ここで、限りなく存在し複雑に絡み合う自他、他と他の境界を、一色に塗りつぶす概念が現れる。
それは、人間的な思考・観念の中で生み出された分類も、境界も概念も全て、その中の存在でしかなく、それが本源的な存在ではないとする、"無"の概念である。
そういった、万物万象が無意味であるとした見解が中心的な思想を「虚無思想」と言う。

あるいは、神と称される何らかの「超越的な存在」に支配され、個々の自立的な存在などが無ければ、操られさえしていて、その超越的な存在の意思で全てが動いているであるとか、と考える思考もある。
これを宗教的には、「善悪の行動も人の禍福も、全て神の思し召し、みはたらきである」といった信仰上からの主張もあるのだが、上記の思考の限りではない。
更に、上記の思考における"神のような何か"があまりにも超越的であるから、それ自体の実否、というと「"神のような何か"も、"無"ではないのか?」、という点を問わない。
また、その"神"も"無"も人間の観念の中にのみ有って、砕いて言えば「神も無も"無"である」、といった結論も出さない。

ここでは、時折そういった「虚無」、もしくは"無"と神のような何かのみが有り得る「二分」の思考などが如何にして発生するか、という過程の説明をした。
この段落は、読みづらくなったために理解不十分のままの人もいるであろうが、以下を読み続けると幾分は解けてくるはずである。



【虚無と魔障の二分】

続いて、その"自"も"他"も無く、全ては"無"と"神"、そこに怒りのテイストが加わり、"無為の存在"と"魔の性質"といった更なる思想について、自分が時折思うことを話したい。
状況によるが、悲しみと怒りに駆られる時には「この世はほとんど"無"で、無にあらざるものは"魔"である」と考えたくなってしまう。
半ば投げやりであるし、本気でそのように信じ込みはしないものだが、普段から「魔」による障りが必ずあろうことは信じている。

本来の意味は後述するが、ここでの"魔"とは、ある時は人の心を蕩かし、ある時は道理でない状態を作って人を惑わし、あるいは苦しめるが、その手段は主に人の心を操って行動させるなどがある。
魔が、当人を苦しめる目的で操る場合はあるが、私は魔に操られるのではなく、常に同じ家に居る母親などを操って、私に危害を加える。
また、母親などでなくとも、母別居中で永く一緒には住んでいなかった小5から中2不登校までの学生時代においては、同級生であるとかが私の発言の揚げ足取り・曲解などによって公然と私を貶めるなどは非常に多くあり、当時は"魔"と思わずとも、有象無象のようには思っていた。



【エゴセントリズム小学生】


一方、そのことは措いても、小学生の時は自分だけ神でも無でもどちらでもない特別な存在だと考えることがあった。
不老不死も自分に限っては有り得るのではないか、とさえ感じた。
なぜ自分だけ自分の感覚を持ち、また周りに動く人間は機械であるとか、彼らは本当の感情を持っていないのではないか、といったところから、公然と人を殺し、警察に捕まって、あるいはリンチとしての暴行や惨い拷問を受けるとも、決して死には至らない気がした。

今の私は、それを「哲学上のエゴセントリズム」と呼ぶ。
自分を前提として、世界が誕生・維持・滅亡へ至るといった思想となり、現状、誰もが否定しえる余地は無い、珍理論である。
自分の誕生によって、親も自分以外の生命も宇宙も歴史も全て既成事実であるかの如く作られ、自分が死ぬと全ても滅ぶという思想があったし、誰かしらそう考え付くこともあるのではないか。
あるいはそれが転じて、どこかの誰かさんこそが、この段落における「自分」のような特別な存在であるかもしれない、とも考えた。
この発想では、その「誰かさん」を基準とすると「1秒前に世界が誕生した」と考えても否定できなくなるし、世界の誕生を0.1秒、0.0001秒など刹那の時まで求めてもキリが無くなる。

それでは逆に、自分を特別な存在と仮定したまま、死後があるとすれば・・・ここまで死を恐れるあまりの思考であり、ここからも同様である。
自分は苦しまず安楽にして息絶えるか、魂が俄かに離脱するか肉体が転移するかの後に、自分は間違いなく天国へ行けるか、別世界に帰還して神の一員として祝福を受ける・・・どうしても、苦しんで死ぬという微少ながら厳然としている事実は恐ろしかった。
努力が報われずに死ぬような悲観的現実を私が見て、そう死ぬ人々が自我意識を有するならばそのままに救われるための道を開きたかったかもしれない。

小学生の当時でさえ苦しい思いを続けていたり、過去にも書いたが、あの小5母別居以降に広い家で一人ぼっちの時間は、「誰かに監視されているつもり」で独り言を続けていた。
その誰か分からない者は、霊界や冥界のような場所と、この自分の近くに覗き穴か何かを開いて、常に監視をしているのではないか、と日々思いつつ、畏れながら不善を為すこともあった。
だが、自分の苦しみは監視者に評価され、死後祝福を受けよう、と。

今の私は、こういった「エゴセントリズム」的な思想から、流石に脱却して滅却した。
私の現在学んでいる分野に、そういった思想が無ければ、そのようなことを本気で信じてしまうのは、その分野の義に大きく反してしまうであろうから。
よって、ここからその分野の思想に並行して、「虚無思想(虚無主義、ニヒリズム)」と「虚無魔障の二分思考」というものを突破したい。



【諸々の謬見を仏法により破る】

仏法は、迷妄の苦悩を智慧に変える。
あらゆる濁りの多い世間で最も高徳にして清浄なる教えこそが仏法である。
仏法こそが、虚無思想も二分思考も、木端微塵に摧くであろう。

二分思考の例として、常見・断見に代表される極端な思想を嫌い、何事も中庸の立場で説く。
「常見」というのは、一般的に「霊魂・精神体の不滅」などを指すほか、先述の小学生の頃などに見られた「エゴセントリズム」も含まれ、死を恐れるあまりの邪見を指す。
「断見」というのも、誰もが時折「どうせみんな死ぬんだ!」と自暴自棄になってしまう・・・そう極端でもないだろうが、「人や生物は必ず死ぬ」という認識を悪しく弄して、この世の価値を濫りに喪失し、厭世的・頽廃的(ペシミズム・デカダンス)になったりする見解などが当たる。
また、「エゴセントリズム」の基準を他人に置き換えた際の思考はキリがない通り、自己を基準としても他人を基準としても、またはどの人間でもない基準を設けても答えが得られるはずもない「戯論」と一蹴される(空間は無量無辺・時間は無始無終という言葉が端的な理解である)。

こういった極端な思想や、様々な分野での二分的な思考は、仏法を学ぶ修行によって改善する。
現世における正しい思考能力と高潔な精神が備わり、後生も報われることとなろう。



仏法では"空"の原理を説く。
これはインドから古い中国に伝える際、まず理解されがたいため、格義仏教での理解は、道教の老荘思想における「無」、すなわち前述の「虚無」に置き換えた方便が伝わり、弘まったことがある(時期としては中論などが漢語に翻訳される5世紀までか)。
サンスクリット語では「シューニヤ(形容詞)・シューニヤター(名詞)」と言って数字の"0"の呼び名でもあったし、虚無主義の英語ニヒリズムの「ニヒル」もラテン語で数字の"0"の呼び名であったから、単語そのものは空も虚無も同義であったかもしれない。
だが、仏教の"空"が示す意味は"虚無"の理解と異なる。

金剛般若波羅蜜経の偈には「一切有爲法 如夢幻泡影 如露亦如電 應作如是觀」と説かれ、また涅槃経の偈では有名な「諸行無常」の一句が見える。
これは、単なる儚さと虚しさを説くものではなく、「全ての物事が泡や影、露や雷のように消えやすく短い時間の存在である」と、その姿形を長く留められない現世の有様を説いている。
仮の象形でしかないから、この世の事物に執着してはならず、未練を残してはならない、と。
だからこそ仏教では、永遠に崩れない幸福の生命を得るための修行をして、この現世、輪廻を続ける三界や六道から解脱を得んとするのである。
三界の中の六道に生まれて、仮の宿りに執着して未練を残すと、それが解脱の障礙(妨げ)となる。
よって、仮の象形として"空"を説いても、全くの無、ということを真理としては説いていない。
金剛経の偈と、有名な般若心経の「色即是空」を会通すると「色=一切の有爲法 即是(すなわちこれ) 空=夢幻や泡や影や、(朝日の前の)露、雷のごとし」と言え、互いに同義である。

隠棲修行者は、常に記録と観想とを続け、皮相的な仮相を詳らかに把握して、仏法を学ぶことによる研鑽で先達の智慧を知悉し、諸仏に連なる解脱を目指す。
その"空"と表され、夢と幻と泡と影と露と雷のような仮初めで短い一生のうちにも、諸々の欲望と執着を離れ、多くの功徳を積み、解脱せんと願いながら、修行を続ける。



次に、"魔"という性質についてだが、仏教においては修行者を困惑させる存在として説かれる。
単に、当人の煩悩や慢心に付け入って誑かすパターンがあるほか、当人の心と力が強く(堅固)て直接干渉できない場合は、魔が他人の身に入って操り、当人を惑わすものもある。
ただ、その魔の試練を忍従することによって積まれる徳もある。
仏教の説話において、そういった魔が誰かの姿を以って修行者の前に現れて、当人の根性を試すものがある。
何事も「魔である」と割り切って、動揺せず翻弄されぬ定力を備えれば、程度の差はあれ耐え抜くことができるものの、本当にその精神を持続させるのは困難である。
ましてや死ぬまで仏法の精神を貫くことは容易いことではない。
ここに、仏道修行者が現世において道を修める上での肝心がある。




当記事の原案は、10月2日の某所投稿である。
迷える私、仏法より解いて導く私、二人の私が対話しているようなものである。
より背景を言うと、10月2日の日記メモであり、これは来月投稿予定のまとめ記事に載る。

また、当記事は後日投稿予定の「研鑽連盟問答要項」の内容と幾分疎通する点がある。
当該記事の下書きは、大筋が9月末に出来ている。

一方、この記事は10月11日から執筆を始めた。
近頃の学術的メモ帳記事の中では、急ごしらえの方である。


2015年10月8日木曜日

散歩の間も記録を怠らない精神

散歩を通して経験することは、隠棲生活とまた趣が異なり、等しく尊いものだ。
よって、些細なようでも知ったことは記して、思ったことは綴る。
今まで価値を感じず、意識もしなかったA家の庭(お隣花鳥園)は、今年になって何だか素敵な植物に魅力を覚えたが、それも束の間、いつまで続く風景かと、風に強く揺れ続ける笹の葉や、青々とした葉を多くつける木々を見て思うことはあっても、思いもよらず今月で見納め(未明)となろう急報は、A宅解体工事によるところである。

その私は、2014年以降ますますちょっとした外界の変化に興味が出やすい。
散歩では時折、歩みを止めて記録行為に没頭する場面もある(通りに背を向けて俯き気味に)。
多くは歩きながらキョロキョロしつつ、あるいは画面を見ずにポチポチやっているわけだが、漫然と歩きスマホであるとか、自転車でだらんと身を乗り出してスマホを眺めながら漕ぐ学生は危うい。

以下は、10月6日18時10分から行った長距離想定ルートの練習散歩の道中、あるいは散歩に出る前から携帯電話で取ったメモとなるが、後の自分に最低限の情報・情感が伝わる・思い出せるよう、冗長さを省きつつも、順序の通り克明に記録している。
19時2分に帰宅し、帰宅後PCを起こしていない時のみならず、PCは既に動かしていて携帯電話メモと19時3分撮影の写真が未送信であるラーメン食後にもなお携帯電話メモを追記している。
また、IMEの変換仕様と文脈を考慮し、適度な半角スペース挿入をしている。
半角といえば、メモは本来半角カタカナで取っているのに、某メールサービスでは自動で全角カタカナに変えられる。

ジュンビウンドウ ボウカンギヘヤギパーカー ナガラクチュウシャジョウダッタトコロガケンチクコウジノバニ タテモノヨウトハヒミツ オウダンホドウデスコシデモカケルト、ヒザガイタム カンセンドウロデハジブンメガケテクルマガトビコンデ キケンナサーキットニタツトモジブンノミハケッシテガイサレジ、トオモイタイ タトエバトリヒッピキデンセン ソウオモウトラッコウニダイコンノハラシキモノ ベツノミチカラマエニヒトガハイッタ タイリョクガモテバハシッテオイヌキツツ、オリカエシチテンマデツキススミタイ カレハギュウドンチェーンテンヘ ジョシコウセイフタリグミガパンヤニハイル、ホカニモガクセイノオウライハオオシ テンナイニモスデニヨニンボド ムッツブンキノミチ アヤマッタノデアパートシキチノヲ チズアプリヲヒライテモヨカッタガユウチョウニハ マクバユウメイテンポノツモリガアイプラザニアタッタ コウロニタトエレバ、アメリカカラタイヘイヨウオウダンシテニホンニメザシ、タイワンニナガサレタキモチ コウヨウナキカイドウデ、フラフラトアルクヒトアリ、スレチガウニ、カオガケサノヒト ジカンテキニサツジンカエリモアリエソウ イマユクカンセンドウロホドウハタイコウブヘ セマク、ジテンシャノツウコウオオケレド、 ハルカコウハウニホソク! カエリニモノヲカオウトシタガ、コンカイモジハンキガクルッテイテナニモカワズニカエル 19.2キタクゴ、タダチニユウショクジュンビヲハジメ、ナベハリミズワカシノアイダニパーカートヘヤギヲヌイダラ、ウシロクビマワリノウラガワ(サイズノタグフキン)ニイチミリホドノチャイロイコウチュウガイタ ドウシテモムシヲモラッテシマウ ショクゴハヤスマズフクノカタヅケナド

こうして取られたメモを元に、本家記事のとても詳細な文章として再構築される。



草木諦観抄 夫れ散歩を通して(中略) かかるメモは清書して組みかえられ畢んぬ。


2015年9月28日月曜日

2015年以降、特に配慮する文法

一字一句を推敲する。
文法で今年のいつからか非常に気にするようになっているのは「している・していない」という現在進行形の「い」抜きや、一文中(文節)で「は・では・には・のは」等で助詞の重複がないようにするところである。
前者の「い抜き言葉」に関しては一般的に誰も問題視していないし、私も他人が使うだけなら問題視しないが、自分の文章はここらへんもキッチリさせたく思う、というより、今では「い」が入ることが自然に当然のセンスとなっている。
後者の「助詞重複表現」に関しては、例えば長い一文で重複助詞が離れていれば一見違和感が無いのだが、それを意味が変わらない程度に重複助詞を近づけると、誰の目にも息苦しい助詞の重複と感じられるから、このように位置を整然とすることで助詞の重複という状態を見分けられる。
適度に句点(ピリオド)を打って文章を終わらせる工夫は必要だろう。

これは自分で記述訓練をしてこそ得られる感覚だから、文例を挙げての説明は野暮だと思ったが、一応の例を挙げておく。
慣用句的な「一概にこうとは言えない・一概にはこうと言えない」のどちらかが適切な文脈において「一概に"は"こうと"は"言えない」と、助詞の"は"が2回使われることが助詞の重複である。
「この場合に"は"それ"は"しないでね」という一文も重複であり、否定形が続くものが多い。
助詞"は"の同系の助詞として仮定などの意味がある接続助詞"ば"であり("こういう場合は"と"これならば"という語は文章によって同義である)、例として「そういうことなら"ば"(同義表現: そういう場合"は")、これ"は"いらない」という一文が挙げられる。
助詞の重複は、助詞全般に対して有り得るものであるから、「が」の系統など、色々ある。
曲がりなりにも文章に関する仕事で収入を得ているプロは、一応、この点にも念を入れる。
※今の一文の「曲がりなり"にも"」と「この点"にも"」は重複表現の範疇でない。
"は"の重複表現は、現代人好みの曖昧な印象を付けるようであり、発言者の心の自信の無さや、何となく中途半端に表現したい意図が表れている(曖昧な表現を好んでいる自分に気付いてこれを退治する努力が必要に思う)。



ここでもう一点思い出したことは、名詞的な助詞である「の」や助詞的な名詞である「こと・もの・ところ(蛇足:とき・ころ等)」を多用しすぎない表現であろう。
前者は名詞的=体言のような性質を有することで「準体言助詞(準体助詞)」と呼ばれ、後者は「形式名詞」と呼ばれる。
「こと」に関しては、中学生の頃、自分の言いたいことを海外サイトに英語の長文で書き込もうとした際に、客観的に見て使わない英単語"Thing"が、自分の知識で直訳するとあまりにも繁多になっていて、ウンザリした経験がある。
一方、英語の"Thing"も「こと・もの・ところ」同様に、何らかの事象に当てる表現として"Everything, Anything"等の英熟語がある点で日本語と類似する。

現代の日本語の表現は、曖昧にしたがるきらいが備わる(まあ英語も"This is it"みたく前後の文脈を知らないと意味不明な文章が多いが)。
それを覆して、「こと・もの・ところ」などは、全て具体的な名詞にすればよいのである。
例えば「驚いたことがある」という一文では、「驚いたこと」が何らかの過去の経験を指すのか、何らかの本で読んだ記述を指すのか、あるいはその他なのか、曖昧である。
「驚いた経験がある、驚いた記述がある」と、一つの単語を差し替えるだけで、いくらか具体性を持った想像が可能となる。
こうして、極力「こと・もの・ところ」という、どんな文脈も嫌わない中性的すぎる単語を、具体的な単語に差し替える"こと"="思考・努力"が重要であり、常に心がけている。
そうすれば、自分の言葉を英訳したいときも、垢抜けない雰囲気が一掃されるかもしれない。

助詞的な名詞(こと・もの・ところ、とき・ころ、なに等)は、ある程度漢字にしない方がいい理由として、当てる漢字の意味(字義)が含まれないところにある。
好例が「もの」であり、人物などを指す「者」や、物質・物体などを指す「物」のほか、「こと」のように事象を指す場面もあるが、これはどちらに変換するのも好ましくない。
無闇に漢字にしてはいけないのが、助動詞「いる・みる」や「ない」等であり、「してみる」の「みる」は視覚的に見るのでなく、「試みる」ことであるから、当然「見る」と綴らない。
「しない」の「ない」も否定形の助動詞という上では本来「せず」いい、漢文なら「不」の字を当てたように「無」よりも「不」の字義が通じ、助動詞「ない」は存在の有無などを意味しないから、「しない」の「ない」は「無」と綴らない。
有無の「無」と異なって、新参助動詞だから「綴らない」を「綴らなし」と文語体形容詞同様の終止形にすることなどは禁物。
上代から現代にかけての日本語の変遷を見ては、自ずと感覚を得られる。
「ない」という形容詞的な助動詞・「もの」という助詞的な名詞などは、音がたまたま一緒で意味も類似するだけであり、正体は別物と考える必要がある。

※「ない」の語は、既述するように「存在の有無=○○が無い」と、「行わない=不」に加え、「性質の否定=非・不」いうのがあり、「ではない」なら「あらず=非ず」が対応する。「ではないが」という表現は「あらねども」等と古文に変えられるよう、実は対応がしっかり出来る。



漢字の変換についても「など・等」を使い分けるのは、実際に脳内で「等」の時は"とう"として言葉が紡がれているので、これに従う。
私は文脈により「など」か「等(とう)」を選んでいるわけだが、見る人にはこのニュアンスの違いが汲み取れないかもしれないというジレンマがあって、私としては方針を変えたい部分もある。
こういう私は、他にも「ほか・とき」を漢字にするかしないか、迷う経験が多い。
そもそも、「ほか・とき」とも漢字の変換が複数ある(とき=刻というのはデフォルトIMEで出来ない)。
今の一文に出た「とも=共、できる=出来る」といったものも多く選ぶ時間を取るし、そういった変換するかしないか迷いやすい漢字には枚挙に遑が無い。
ここで、適宜その可読性を考慮するか、あるいはその時の裁量など、必ずマニュアル通りの文法を持つ必要が無いという帰結もある。
もちろん、私自身そんなマニュアルありきの執筆活動ではないのだが、伊達に書いているわけではないからいくらか自分の流儀が定まりつつあるのは当然である。



最後に、文法や文字主体の話と少し異なることだが、近頃の傾向をここに記録する。
日々脳内の思考や、口に出す独り言では、反射的に古い発音であるとか、浮かび上がった言葉の文字列は古い仮名遣いなどに置き換えられてしまう。
簡単に言えば、FPS・TPS等の暴力ゲームや、テトリス等のパズルゲームにはまった時に自覚する中毒症状と似ている。
前者は視界がさながらゲーム内の空間であって自分は主人公のつもりで他の歩く人間が殺害対象などに捉えられたり、後者はあらゆる物体などの形状が積まれたテトリミノのように見えてしまうというもので、どちらも過去に体験している。

今の私という者は、ちょっとした言葉もおかしな発音に置き換えたり、あるいは普通の人が「してる(い抜き言葉)」と言うところ、「してる→している(正統)→しておる(古風・老人)→してをる(旧仮名遣い)」のように変化して、独り言では実際にそう口に出すことが特に多い(「してをる"Shi-te-wo-ru"」の発音は少し自然に"Shi-tweo-ru"というくらいが近い)。
少し考えただけでもこうして即座に、普通では奇異と見える表現に置き換わる。
英語の学習に徹すると、日本語の単語が勝手に英訳される人もいるし、これも経験があり、今でも日本語や漢語の音韻が勝手に英語・ラテン語・ギリシャ語・ドイツ語等に変わることもある。
異言語などが干渉するという状態は、普通の人だと一過性の流行語にはまってポンポン出すようなもので、私の場合も勉強の成果といえども、いずれは元に戻るのではないか、あるいは「個室即地域」の方言のように定着するのではないか。
方言というものは、本来日本全国で同じように(蝦夷は不明、アイヌは漢字系と異文化)時代差はあれ、現代で言う古語が話されていて、近代に至るまで江戸時代の封権(??)で地域ごとに独自に進んだ大衆文化の中で成熟した。
各国の領域下やもう少し広い地域で、産業も政治も収まった(それまでは中央集権と、他の地方の作物・鉱物取立てで統治)わけで、大名だかの頭以外の民衆は遠く他所行きする必要も無い。
今の私も封建(??)的に過ごしているわけだから、方言的な独自の語りも生まれように、これは今に限らず幼少期も単語レベルなら造語を生んではいた。





後年の追記①
「動詞連用形+て」という形の後に句点を打つと、文脈が乱れやすい。
ただし、「よって・したがって」や、「○○を以て」や、「○○に於いて」などの副詞的用法の表現には句点を付けた方が文章の整理がつく場合があるため、便宜を図って句点を付ける。



2015年9月22日火曜日

2015年・秋季散歩計画の策定

涼しい季節となってきた。
まあ、連日の雨の影響でもあるかもしれないが、いずれは必ず寒くなる。
年の後半の涼しい時期、すなわち秋季の散歩シーズンについて考え始めておきたい。

私が散歩する日を選ぶ上で、自身の体調はもちろん、気温や天候のみならず、散歩後の風呂や洗濯をも視野に入れる必要がある。
2015年3月30日にも「散歩の計画は風呂というものも包含している。みだりに放蕩して汚して、剰え洗濯・風呂が叶わないというわけにはいくまい。」と記述している。

例えば、午前中に散歩に出て帰宅し、間もなく衣服を洗濯機にかけ、自分も風呂に入り、出てからは洗濯物を干しださねばならない。
夜や早朝などに行うゴミ出しや自販機通いなら、部屋着でササっと済ませて、長くても1週間経つまでに洗濯される。
私は頻繁に外出するわけではないから、一度着て外で長時間歩いたために汗を少しでも吸った衣服は速やかに洗濯する必要があると考えているし、母親などに頼るわけにはいかない事情もある。
母子家庭にあって母親は・・・いつもの事情を話すと長くなるが、2015年3月から当面休職でいるため、本来なら母に任せてよいのだが、家事の積極性に欠いていて思い通りにはならない。

やはり、散歩する最中は汗かきを厭わずやっていきたいので、事後には風呂などその日の内に入っておきたいわけだが、風呂についても入りたければ入れるものではない。
これも上述のものと似たような事情があることは、多くの過去記事・日記メモに見るところ。
なお、いつもの注意点となるが、浴槽という狭義の風呂は2010~11年より一度も入っていない(故に日記メモでは「シャワシャン」の注釈を頻繁に付けている)し、どんな散歩になろうとも入浴は当面有り得ない。



普通の人が気軽に外へフラつくのと異なり、自分はこうした面で躊躇している。
同じ自分を振り返ると、確かに豊橋に来てから1年以内は風呂や洗濯などを一切意に介さず、奔放な面も多かった。
例えば2週間風呂に入らないことがあるとして、その間に何度もコンビニ通いをするなど、かなり不潔に思うかもしれないし、どちら(コンビニ通いも風呂2週間超拒むことも)にしても、今の価値観では真似したいと思わない。
散歩の判断に迷っている今の状態も愚かしく感じるが、欲が先行して外出し過剰な消費活動(ほぼ毎日浪費気味のコンビニ通い)を続けることは猶愚昧に思う。
コンビニ通いが実質不可能となったり、コンビニ店員への恐怖が強まって入店しなくなった2012年9月からも、自販機に通う頻度は今の5~10倍ほどあっただろう。
幾らか経済的な束縛が外的に強められた結果であるとはいえ、今の状態は清らかで慎ましやかに感じるから、幸甚の思いだが、同時に散歩の決断力に欠いてしまうのは副作用であった。
だが、条件がそろって散歩を即決する日は、2014年秋季にも2015年春季にもあった、これが救いであるから、10月以降も条件がそろえばこうしてまたどこかへ行けると良い。



散歩の計画であるから、目的地やルートなども考えねばならない。
詳細なルートはこの記事では示さないが、過去の散歩記事では便宜上どこかの駅を起点として地図にルートを描いている。

目的地の案としては、とある急勾配の場所(川の流域が低地だから川に対して傾斜がある)に設けられた長い階段を歩きに行くとか、2014年11月の大量下血の日に歩いた幹線道路沿いの商店を再度映しなおしに行くとか、愛知県道2号沿いとか405号沿いとか、色々ある。
弟ほどの体力を持っているか、前の家のように自転車を所持していれば、外出自体の頻度もあがり、より遠くの場所にさえも行けるようになろう。
その場合は今年度開校の特別支援学校であるとか新しい図書館(分館)であるとか、あるいは弟のように頻繁に中央図書館に行ってみる(弟はビデオをレンタル出来ても本は借りられない)など、選択肢が大いに増えることだろう。
それも、自転車という当たり前の道具にさえ恵まれない自分には夢想でしかないことに気付けば、慎ましい隠棲が大事。
ただし、散歩の意思を放棄するものではないから、今後もじっくりと案を練っていきたい。

→記事投稿の翌日である9月23日(メモ参照)に、一つの案の練習散歩を実行した。
1日限りの行動にならぬよう、今後も12月まで出来る範囲で検討する。