2015年11月26日木曜日

10月に書いた文章より「現代的合理主義」を抜粋

10月中に起草した下書き記事の一部記述を新設記事として投稿する。
以下からの文章が始まった経緯として、私が小中学生の頃に持っていた思想「インターネット新保守主義」が関連する。
よって、その「中学生の頃の私」を念頭においてご覧いただきたい。
※後日、その10月起草下書きの記事を急いで仕上げて投稿するかもしれないので、そちらも併せて高覧されたい。



*現代的合理主義*

ここに論う「合理主義」とは、実に現代日本の気風によるものである。
よく、「都会の人は歩き方が速い」と言うが、これに代表されるよう、現代の日本人は無機質に効率や利益を追及しつつあるが、この合理性を突き進むと中国のような共産主義に至ってしまう。
だが、日本人は文化性などを尊重して、ほど良くニュートラル、中立の状態を保持しているから、マルクス的な究極の共産主義、中国でも未だ実現できていない境地へ達することはない(ただし戦前期の一国全体が思想を統制され、一致団結した時代は究極の社会主義に見える)。

およそ「将来の夢」とは、近年世間が憂えるよう、何とも安定した職種を志す子供たちが多くおり、それはこの「現代的合理主義」の気風から、その志が生じていよう。
具体的には、サラリーマン・弁護士・公務員、少し大きいものでは政治家などである。
「広義の公務員」なら、教師や警察官など、まだ子供に適切なものがあろう。
1000年以上前の中国では、官職を志して高位・高座に就かんと憧れもとい野望を懐くことは多かったようだが、それは当時の選択肢もとい視野が狭まっていた時代背景に起因している。
為政や処世を基盤とした教えである儒教などを根本思想として、中華思想など(もちろん右記の思想の一辺倒と言いたい訳ではなく仏教など他所の思想も「自己流」で受容していった)、現代中国は「儒教道教の徳」を忘れた「共産主義の欲(貪欲・強欲)」という点で正反対のようであるが、私見では現状変わらず、思想面の色違い程度でしかなく見えてならない。

一方で、現代日本はスポーツ選手だとかパティシエだとか宇宙飛行士だとかと、「ありがち」ながら子供として「あるべき」夢を持つ選択肢はいくらでも存しているにもかかわらず、今の有様がある。
日本のスポーツは多くの競技で好成績、パティシエという菓子作りも食文化も和洋問わず評価が高く、宇宙へ飛び立った日本人は私の故郷さいたま市(旧・大宮市)輩出の若田さんをはじめ多数おり、いずれも日本のキッズが憧れて然るべき職種であるはずだ。

職業というものは、それを望むにあたり何らかの意志が必要になるが、主にその根源は「欲望(金銭欲など生活安定・名誉・モテたい等)」か「願望(作業意欲)」のどちらかである(「望む」ことが前提であるから当人の意に反して無理やり就労させられるケースなどは除く)。
その仕事をさせてもらえる機会が得られるなら、タダ働きさえ買って出る人もいることは、ボランティアなど慈善活動(裏事情はともかく)の人々が好例である。
繁盛しなくても、自分の料理を振舞いたい、食べる人の笑顔に触れたいから、温もりを与えたい温もりに包まれたいなどと、料理店を営み続ける人もいる。
もちろん、そういった人々がなぜ利益を得られずしてそれを続けるか、全く感情が理解できない人も現代には増えているのではないか(少し前までの自分がそうだが、「理解」はできた今でも真似をしたいとは思わない)。

自己犠牲の姿勢を厭うにしても、身の丈に合わない金銭を得ることに狂奔する、貢献的自己犠牲を厭うのに、金銭を得るための自己犠牲、すなわち触法行為を厭わない輩が蔓延っている。
即物的な利益、給与という形を得られなくてもよい、とまで言わずとも、金欲しさから悪事に手を染める、例えば処方が制限された薬を不正に大量転売する富裕のお医者さんなどは、その職種の人間としてあってはならないであろう。
こういう風に、本来は人助けするであろう立場が必要以上の金銭に目を眩ませてしまうと、その職権を有した者にしか行えない悪事を働いてしまう。

利益を得るということは、同時に他へ還元する必要が、この現代社会に存している。
税制などはそのようで、一定額を超えてから贈与税や所得税などが発生するように、誰かが一方的に莫大な利益を得て、独占することは許されない。
「富の再分配」と言い、税制などが形式的でもそうあるように、日本など先進国は貧しいアフリカやアジアなどの途上国を恒常的に援助していく必要がある。
「恩返し」という、即物的見返りを求めてはならないのであろうが、真っ当な国ならきっと日本の恩に報いてくれよう(国交正常化以来中国への多額投資、民主党の対韓通貨スワップ・・・)。
国内であっても、年金制度や生活保護制度といった社会福祉保障は、現代の民主主義などにおける根底の原理として、先進国的な通念(富の再分配など)がある。

昨今のEUが、中東など紛争地域の難民を積極的に受け入れていることも、嫌々行う場合もあろうが、嫌でもやらねばならない理由、集団の義務がある。
自国の事情を顧みず、難民を受け入れ続けるべき宿命が、EU諸国に付きまとう。
先進国だからと悠然として安逸に浸るのではなく、欧州の威厳を保たねばならないから、例え国内の治安が下がる(直接難民が犯罪をするか、間接要因では国民の反発で国内デモや難民襲撃など)としてもこういった人々を受け入れる先進国の自己犠牲が窺えよう。
もちろん、国際社会の通念上そうした姿勢を保つのみならず、本心から哀れみがあってそのように援助していることもあると、私は信じたく、でなければ間もなく世界が暗転しかねない。

こう語る私は、中学生の頃に「ザ・即物的功利的唯物論者」としての思想が根強くあり、中学1年生の時の開校ウン周年記念冊子で「将来の夢」について書く際、「年収1000万円」と金額を書いて悦に入っていたが、金額を書く真似は不良生徒の「年俸1億」ほどしか見当たらないほどに異端児として不気味な光を発していたことと思う。
どうせ、この年頃に正常・健全な夢を浮かべた学生諸子も、30過ぎてから現実的夢想に耽溺し、「年収800万以上の男性ガー、3高じゃないとヤダー」等とのたまいだすのであろう。
2010年12月の不登校以後も、こうした「カネ、カネ、」という性質が残り続けた。
上の「自己犠牲・富の再分配」ということを知らなければ、納得もできない中学生当時ならなお、「老人に年金出しても税金のムダだ!役立たずを(法整備の下に)殺せ!アフリカなんて未来永劫に発展しねーよ!早々に援助やめろ!」などと強く思っていた(ストレートな表現、御免)。

これは新保守・ネトウヨ時代にも変わらず根深かった。
国益や利潤を追求するのもよいが、行き過ぎると金銭や数字ばかりに囚われる。そうであったところ、今やそういった差別思想など諸々の謬見を排除して、社会のしがらみさえも断っていることは、それなりの思惟を深めた時間の長さ・功がある。
このような中学時代の思想を忌憚なく検分・披瀝しているのも、ご覧の諸君に同様の考え方があるならば、潔く脱却され、真理の階梯を辿る道に入って頂きたいからである。


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