* 精神面(民族の理念)での問題 *
初めに、"Mental"というニュアンスでの「精神」ではないことを留意されたい。
先の「現実『語』主義」と同様、そういった「精神病」云々を取り上げた論理は、インターネット特有の交流の中で毒された思考から普及し、この論理を弄すると詭弁の域を出なくなるため、私は持ち出さないようにしているし、以下の内容は精神病などとは関係が無い。
私が"Psychology"の側面から人を穿って見ることもしない。
現代日本人がいう科学、ことに医学や人体に関する話をすると、精神病理も栄養学も個々人が勝手なイメージを重ねたり、「血液型による性格の判断」などといった現代的な迷信(造語: 現代唯物教・民間信仰の邪義)が強く罷り通っているため、この方向は好まない。
ここでいう「精神」とは、もっともストレートに言えば「大和魂」ということになる。
また、「趣味」や「感性」といった言い換えもある。
そこで、総括的ではあるが「民族の理念」という括弧の注釈を付けた。
日本人らしからねど然(さ)ある「現代的合理主義」は、この「精神」にも適用される。
現代日本人は「神を信じない」というより、神が何であるか曖昧であるのかもしれない。
キリスト・イスラム等の絶対神を奉じた一神教の神と、日本の伝統的な神から世界の神々(ギリシャ神話からインドのものなど)といった多神教の神、現代の作品の想像上の神など、「神」といっても種類が多々あり、それらが宗教的に統率されないから異なる神々の情報が混在している現代日本では、「神」像が捉えづらい。
更に、実在した賢者にてあらせられる「仏様」を、この「神」と混同・同一視する者も非常に多いことは、キリスト教的な偶像崇拝と、多神教的に多くの仏・菩薩が崇拝されるからかもしれない。
その「神」の存在は、そういった情報や人生経験から存在の有無を個々人が弾き出し、各々の「神」像が形成されてゆき、日本人同士でそうは一致しづらい。
それでも、「この世を支配したり人を救う」性質のある絶対神的なものは、多くの日本人が懐疑的であり、否定する傾向にあることは違いなかろう。
願い事を叶えてくれず、「どうせ神なんていないよ」、誰しもそう心で思うこともあれば、口に出すこともある。
斯く言う私も、一神教の神を信じないし、一般的日本人と異なり宗教の教義上からその理由を述べられるが、ここでは煩瑣であるから省く。
2014年6月から仏教を学び始める前の自分は「神とは自分の中にいる!最も身近にいる!」等、思考を深めた上で「己心」を結論としていた。
なぜ現代日本人が、自分たちの神を知らないようになってしまったかといえば、日本の宗教史に詳らかである。
各地の集落などで実りをもたらす山の神など、各々が神を奉じていたわけだが、それぞれが似たような「神」像を掲げ、衝突や吸収などでその神という観念が食いつ食われつの様相であった。
優れた神と劣った神、色々混ざり合って、10世紀までには「天照」が最上となる(記紀のどちらかが根拠)ものの、それまでには仏教の伝来などで、既に神と仏の混在があった。
その「仏」であっても、あらゆる宗派があらゆる仏を等しく崇めるのではなく、「無量光明の阿弥陀仏(念仏・浄土系)」や「遍照金剛の大日如来(密教・真言宗)」などに宗派間で優劣の主張があったり、「仏は娑婆に実在されたお釈迦様と将来下生される弥勒菩薩だけ!」などの主張もある。
平安時代の天皇なら釈迦を中心とした天台宗(比叡山)、平安末期からは加持祈祷好きのために真言宗(高野山)、鎌倉~江戸時代の武士は徳川家菩提寺があることで有名な浄土宗をはじめとした念仏系の宗派など、時の為政者らは中心の「仏」が相容れない宗派で定まらなかった。
西洋(欧州や中東)は国家がどう分裂しても闘争しても統合しても、ほとんどキリスト教かイスラム教であり、中国大陸もどんな王朝であれ儒教や道教の思想を根本とした政治が中心であったのに、この島国の日本は万世一系の君主・皇統連綿と流れても、信仰は多様化を極めていた。
そのような日本人特有の、時代に対する柔軟な性質が悪く作用し、この現代的合理主義と、「神」という各々が懐く観念の複雑化・抽象化が発生した。
この現象を悪く言ってしまえば、軽佻浮薄で移ろいやすく、無節操ということである。
※いや、日本とは和を重んじる、その和とは、すべての存在を尊重して共存する姿勢である。神などの「宗教」という分け隔てを設けず、あらゆる思想も受け入れる。何でも悪しきものを排除する思想は、近代・戦前の日本の過ちであり、今の中国や北朝鮮など独裁的全体主義国家の体制と何ら変わらない、右翼・左翼諸氏は中道・真の「和」を知るべきである。無節操は和の裏返しか。
現在、無神論的だった人(皇室不要といった冒涜など含む)がインターネットの影響で忽然と右傾化したり(小学生→中2にかけての自分がそれ)、一方の人は反安保法案・反戦争法案(センソーホーアンハンターイ)といった迷妄の左傾化も甚だしい(自分の母がニワカ共産党支持者である)。
安易に、元々の考えと反転してしまう人が多いということである。
本題の、ネット経由の新保守思想であれば、日本的なセンスと遠い人(欧米化・西洋気取りなど)が突然に嫌韓・愛国宣言などを始めるということである。
私は、それらの風変わりな状態を批判して、「みな一様にこうなれ」と強いるつもりはない。
また私は、和風=愛国、愛国=和風といった、相互の等式を唱えてもいない。
私思うに、新保守思想の様子は、趣味や感性が自由な現代的保守でありながら、政治などの思想がみな似通うというところが特徴なのであろう、とだけ指摘する。
世界的なイベントや表彰において、日本人が優秀な結果を出すことは、私としても喜ばしい面はあるけれど、それ以上の関心をその分野や人物に持とうとはしない。
そのイベントや表彰の分野や人物に関して興味を強く持つこと、今仏法を学び奉る私が、新たにそれらの領域に手を伸ばすことは無い。
勉強と創作関連を続ける意志が強く、そういった人格が長い経験より形成された今、子供のように多様な夢を持つという所には既にいない(小学校中学年の頃はアレコレ夢想していたり、唯物論者の中学以降も変に憧れを広げることがあった)。
だから、その時その時で特定のアレ観戦などで盛り上がる大人というのは、学問上で見れば子供と本質的に変わりが無いが、伸びしろの広さで子供が優れているくらいだと私は見ている。
子供の可能性は無限大・・・とまで言わずとも、子供の夢やその場の精神はいくらでも大目に見ようと思う反面、いい年をした大人が熱狂していると、単純に何も学んでいない人間としか見られず。
しかしそう否定的に、私の信念から来る感情が向かせるので、少し考えを変えれば、やはり業界側としても、こういった好成績による宣伝効果で、新しいファン層や、ずっと先に述べた「日本のキッズが憧れ」ることで担い手も増えることであろう。
特定のアレ観戦であれば、大人は結局、個々人の娯楽としてのみならず、周囲との話題を持つ上で必要とする者もあろうし、私がみだりに批判するべきではないかもしれない。
備考
2014年3月6日における自撮り写真へ、2014年3月19日に文字を付与した |
上掲はオマケの字幕付き写真である。
本文参照『2014年6月から仏教を学び始める前の自分は「神とは自分の中にいる!最も身近にいる!」等、思考を深めた上で「己心」を結論としていた。』
字幕は「頼れる神こそ己の中にある。自我の神格化によって鼓舞するんだ!崇拝対象は最も身近にあると考えろ!」とする。
字幕に「己」と「自我」という類義語があるが、ここでは前者が「深層意識や無意識の精神か何か」を意味し、後者が「当人など誰でも生者の顕在意識が五感を用いて認知できる対象として実在する肉体から存在を認定する生命全般」を意味すると考えればよい。
つまり、前者が深層的に神を宿しており、後者が表層的に神格化されるべきだと、当時の私が字幕において主張をしたかったのだろう。
理由は、2014年6月以前のコンテンツに多かれ少なかれ書かれているかもしれない。
ところで、「神」と「神格化対象」という二者が両者の差異を示しているが、哲学的には定義が困難かと思う。
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