2017年2月20日月曜日

仮設エッセンス(仮我・假我) ~ 主観的真理に生きる道

仏教では「諸行無常・諸法無我」を説き、人の心は"猿が木の枝を飛び回るように"移ろい続けるものとする理解を説いている。
しかし、そう一応の理解があって「戒定慧」の三学の修行をするからこそ、諸々の僧侶・比丘・阿羅漢・菩薩・仏は、心の定まる境地を得ている。
つまり、「諸行無常・諸法無我」の理解に伴う修行によって禅定を得た定心が据わっている。
「心の行いに常であることは無い、事物に固定的な実体(我・アートマン)は無い」と説くにも関わらず、諸々の僧侶・比丘・阿羅漢・菩薩・仏は、心の安らぎが常のようであり、自我を保てているようである。

「単に『念』や『定』が保てているだけであって別に『エッセンス・自我』を想定しているわけではない」と思われるかもしれないが、かすかにでも自我が無いと、「不浄の我が身があり、受ける思いは必ず苦である」といった「身・受・心・法」の四念処が成立しない(自己や他者や一切の事物の"我"が想定されなければ不浄の物事が想定されないし自己の"我"が想定されなければ苦を受ける主体も想定されないから)。
また、仮の自我が無いと、仏も菩薩も比丘も、教化や経典編纂などはなされなかったであろう。
教化や経典編纂をするにも、自分の感情が無くて「『慈悲』という名のプログラム」や受信情報のような原理で行う「ロボット」ではないと考える。
覚者は執着を離れて泰然とした心でいるのであるが、喜び(歓喜)もあれば、感極まって言葉を発したりもする(ウダーナ・無問自説・随自意)、とされる。
覚者による諸々の感情表現もまた、感情が無くして「『慈悲』という名の精巧なプログラム」によって発せられた「方便」と言えようか?

私の不十分な信仰の眼で推し量っているが、この事実の相(経典に登場する人物の活躍)を観て私は「自己を自己たらしめる本質・エッセンスが現世の身において仮に設けられた」と説いている。
仮の自我などの世俗諦(世諦・俗諦)が、修行の意義や一切の仏事の成立を潜在的に支えている。
その高尚な自覚は仏に通じており、また常に仏を連想するので「仮に設けた仏のエッセンス」と呼称する。

仏教用語の「仮我」とは、字面において似ているが、これは諸行無常・空の物事で仮に姿形や精神が実在することについて「五蘊仮和合(五陰和合)」を指してそう称している単語である。
「仮設エッセンス」とは、より一歩進み、諸行無常・諸法無我・空の現世を理解した上で自ら保とうとするか自然と保たれるような、自我意識の高尚な境地を示す。
その境地にある人が、先に列挙される諸々の僧侶・比丘・阿羅漢・菩薩・仏がたであると見る。
加えて、在家居士であっても、そういった人物は稀にいるであろう。

「仮我」ではなく「無我の我(諸法無我の世の中で仮に保たれる我)」とでも呼ぶべきか、その人は「無常の常」とも呼べ、いわゆる四顛倒ならぬ涅槃の四徳と呼ばれる「常楽我浄」に通じる。
大乗の大般涅槃経は、既に、そのスタンスで「常楽我浄(経文中に四徳とは呼称していない)」を説いているものであった。
無論、それもあえて言葉で表現する(仮名する)とそう言えるものであって、実際には中論18-6偈でいう「無我無非我」と言うべきか(中論所説の意味するところは少し異なる)。
私はこれを、現代的に「仮設エッセンス」と呼称しているのである。

この「仮設エッセンス」は人間の思考能力・精神性が無くては成立しない。
逆に、その思考能力・精神性があれば、人生に活かされ、仏教のみならず世間の職業や芸術などでも有用である。
この仏教の理解が、却って世間の活気を生み出すことになる。
私が仏教を学んでもらいたい心、「随喜(ずいき)・歓喜(かんぎ)」は、この理解に依る。



「仮設エッセンス」の理解は「生活と仏道」の記事「觀萌私記」などを熟読し、人間的な精神で玩味することで体得されるかと思う。
何よりは、私のように経律論(三蔵)・経論釈といった仏典を読む行為を推奨したいが、ひとまずは私の記事から当たると仏門に入る準備運動となろう。
「生活と仏道」では、一般人や閑居求道者(引きこもり仏教徒)など在家の人がすぐに行えるか、自然と成立する事柄を述べており、全て潜在的な「仮設エッセンス」の所行であると読み取れる。
「觀萌私記」は、諸教と万物と仏教との通底により、私が好む「萌え系の絵」に適用して仏教理解を説いており、そういった「觀萌」の結果的見解が「仮設エッセンス」の所産であると読み取れる。
また、「内蔵萌心」の見解を詳述して「主観的真理・客観的真理」と、その2つの真理を理解して主観的真理に基づいた人生の尊さを綴った記事も同時に読めば理解が据わるであろう。

この「仮設エッセンス」は、ご聖教の中に説かれていないとしても、理として有り得る。
いわゆる如来蔵思想・仏性思想や天台教学十界の「仏界」に通じているものであり、現代的に説き直したものである。
様々な例から仮設エッセンスの自覚を促す。
仏の種々ある方便・譬喩に倣い、私は説く。
「水の雑じった乳・糞の雑じった飯・玉石混淆・摧尊入卑」との謗りを顧みずに続けよう。
「仮設エッセンス・精髄大神・私の中の仏様・常住如来」の意のままに。

ところで、近頃の私は、その「仮設エッセンス」の理解に執着しつつあり、まるで「法有我」に執着した部派の見解のようである上、肝心の「禅定」や「忍耐(忍従・忍辱)」の心が薄れているように感じられるため、やはり「仮設エッセンス」も一応の理解に留め、執着してはならない。
「空の法有我」みたいな人々には「仮設エッセンス」という「仮の人有我」をほのかに説いて中道・無執着の境地を得てほしいが、「仮設エッセンス」を強調しすぎて「人有我」の外道にならないよう、制御する精神も重要である。
この理解さえも兼ね備え、今後も「仮設エッセンス」の喜びを説こうかと思う。



起草日: 20170104

去る1月1日付けで本家ブログに投稿した記事にも仮設エッセンスの意義を含めて語った部分がある。
パーマリンク設定にあたって「仮設エッセンス"Kasetsu Essence"」の訳語を考えたが、難しい。
"described essence" "designated ssence" "imaginary essence" "temporary essence"
どれをとってもニュアンスの差異はあり、一語で表現が不十分である。
"provisional establishing of the essence"、これに決めようか。そうしよう。長けれども。

我が人生における有始有終のアイデンティティ"Identity"であるが、大乗仏教の理にならえば、自分の死後の人間も感化できるであろうし、過去の大徳もアイデンティティを得ていたならば、それは無始無終と言い換えられよう。
その量りようもない過去と未来のことは、信じれば真実のようでもあり、信仰の立場では無始無終と言って疑いはない。
ある判断基準で、二つの物事は共に無であり、ある判断基準で、二つの物事は共に有となり、その二面性・多面性は第一義諦・世俗諦のようである。
物事の勝劣も、「片方が勝れてもう片方が劣る」という見解に2つの判断基準があり、「両方は表面的差別があっても真には差別がない」という見解にも判断基準があり、「"差別がない"とか"平等だ"という見解も意に介しない」という見解・・・見解であって見解でないものにも判断基準がある。

いわゆる「四句分別」のようであろう。
「物事の片方が勝れてもう片方が劣る」という「世俗的な二分思考」の見解は、一応の理解として大事だが、差別意識や悪い感情に発展しやすいので執着しない。
「両方は表面的差別があっても真には差別がない」という「世俗に於ける至上の諦」の見解は、その二分思考を超克した高尚な見解だが、慢心の種となりやすいので執着しない。
「"差別がない"とか"平等だ"という見解も意に介しない」という「真如実相の諦」の見解ならざる見解は、現世における有用性が無く、この思考以外の見解を排除しては仏・菩薩・修行者のいずれでもない顛倒の状態(過去記事にいう虚無的な客観的真理の体現者)となるので執着しない。
いずれも状況によって必要な見解であり、仏教徒はいずれの判断基準も持ち合わせておくべきであろうから、一つに固執すべきでもない。

私は複数の判断基準による多角的な思考の中で自然と行われているが、悪い感情の強い時は、どうしても「世俗的な二分思考」の段階で止まってしまう。
悪い感情・四悪道の心のために四悪道の思慮に留まることは当然であろう。
五蓋の煩悩ともいうが、そういった智慧を蔽い隠す煩悩の作用が「正思惟」を阻害する。
故に仏教では悪い感情・四悪道の心を無くそうと努力するのである。
仏道修行の功徳で「心の余裕」があると、冷静に、このような複数の判断基準に則って思考が行えるであろう。


2017年2月10日金曜日

大乗仏教・反省の論法「而二不二(二而不二)」 ~ 小乗が小乗である理由

「大乗(大きな乗り物・マハーヤーナ・梵語の語源研究は記事最下部に)」を自負する教団から「小乗(小さな乗り物・ヒーナヤーナ)」と呼ばれる部派仏教・教団・教義が「小乗」と呼ばれる所以には、様々なものがあるが、教理の面でいうと、「不了義(法義が不十分であること)」という点に尽きる。
例えば、小乗と大乗は共に「一切皆苦」や「諸行無常」や「空(シューニヤター=インドでの数字の0と同じ発音、虚無・空虚さ"Emptiness"と訳するが自性・固定的実体の空虚さを言うのであって現象の面には因縁で仮に存在していることを以てこう名付ける)」という教理を含めているが、小乗仏教はそこに終わっているので教理が追及されきっていないということを「不了義=了えざる義」と呼ばれる。
小乗の「不了義」の教え(小法)に気付かずに小乗の悟りに留まることを「小智」ともいう。
大乗仏教は、その「中途半端で一面的な不了義」の先に、反対の一面も唱え、それを包括した。

これが大乗・大般涅槃経(漢訳では曇無讖)の中に尽くされている。
法四依の中の一つ「依了義経不依了義経」はもちろん、いわゆる外道の四顛倒「浄楽常我」を破る仏教の四念処「身=不浄・受=苦・心=無常・法=無我」の観念を変え、いわゆる涅槃の四徳「常楽我浄」として唱えるなど、不二の法門が見える(ただし件の涅槃経に常楽我浄を涅槃の徳目として挙げている箇所がなく涅槃を常楽我浄四徳とする表現は日本の書にしか見当たらない例外)。
賢人は、全ての物事に善悪の二面性とその空虚さ(感情的価値判断で善か悪かの一方を決定されること)という様々な性質を見るわけだが、大乗仏教ではこうした理解で「中道」を目指している。
人々は世俗の在り方を反省して一旦は「諸行無常、諸法無我!その通りだなぁ」と思ってもよいが、その理解で終わると「小乗」であり、小乗の理解を反省して大乗の理解に繋げる。
小乗・空(天台教学でいう"但空"の蔵教)ともすると虚無主義に陥りかねないから、小乗の理解に執着しそうな時、反対の理解「非空」も説くことで双方を包括し、また、「空・非空(二辺)」のどちらも絶対的とは言えない「中道」の理解となるように説き続ける。
行ったり来たり(右顧左眄)と面倒臭く思われ、「二枚舌だ!両舌だ!」と敬遠されそうだが、賢い人は最初こそ厭うとしても速やかに中道の智慧を定めるであろう。

この大乗・大般涅槃経は中期大乗仏教経典という文献学上の学説があるが、学説上それ以前のものとして竜樹菩薩の「中論(梵語に基づく仏教学のリネームで"根本中頌")」は好例である。
「空」の教理を様々な物事から徹底して論証してゆく。
第十八・観法品では、有我も無我も説く仏の説法を示し、真実においては有我・無我ではなく、有我・無我でなくもないと語る(18-6偈: 諸佛或説我 或説於無我 諸法實相中 無我無非我)。
この中論は、先の四顛倒の「常・楽・我・浄」に関しても、第二十三・観顛倒品において論じており、それらを「有り」とすれば顛倒を断つことができず、それらを「無し」とすれば最初から無いものを断つことができないとし、「有無」を二重否定する論理(中道)が展開される(諸行無常・諸法無我ということも有無を否定する・それでこそ顛倒は断つことができ、解脱の道であるとする)。
第二十四・観四諦品では、論敵から「空に執着しているあなた(竜樹菩薩)は仏教の教義を全て否定している」と誤解されたことにつき、「空」が絶対的法則として唱えられるのではなく、あくまでも「仏が仮に名前を付けた法則のようなもの」であって、この空(空性)の理解(空義)こそが諸々の仏教の教義を活かしていると論証している(24-18偈以降)。



さて、「空」については、絶対視・執着をすると「小乗」あるいは「外道」に陥る危険性がある。
先述の通り、仏が仮に名前を付けて説いた「絶対的であって絶対的でない法則」と確かな認識があれば、まさしく大乗の理解であるが、世間には「空」の教理に感心して絶対視する者もいる。
「ヤハウェ(唯一神の名)」を名乗る人物がインターネットにおり、大乗仏教の法華経・無量義経・大般涅槃経を讃嘆しながら「一切法即空」と唱えつつ、キリスト教やイスラム教の神・唯一神の正体も「空」の象徴であって仏教と同根であるかのように語っていた。
それは一理あろう、一理あろう、と思う。
確かな見解により、「我、神なり!我、真理を得たり!」と思い、自らヤハウェを名乗り(ブッダを自称しても同じこと)、諸教同根を謳うことは自由である。
実際のキリスト教徒やイスラム教徒の大多数が空の教理に並ぶ哲学性や死生観を持っているかどうかは、ここで論うべきでない。

問題は、この人物が「空」を唯一神の如く絶対視していて「非空・不空」の義を立てていないため、恐らくは誤解を犯している点である。
大乗仏教の教理は「而二不二(二而不二)」である。
一切の事物や象形は空であると唱えることは自由であるが、それに執着してそれのみを唱えて満足するようだと、いわゆる「法有我」の小乗の境地に留まるし、見ようには、「見ようには」、それを唯一神として崇めるような非仏教にもなる。
「空」の教理は、釈尊や過去の大徳が正しく説明してくださった「法の宝」かもしれないが、「一切法」を「空」だと思うならば、その理解も執着するところではない。
こういった反省のために大乗仏教は教理を追求していき、中論に見る通り、「空性・空義・空用" śūnyatā, śūnyatārtha, śūnyatā-prayojana"」のような空の区別が「仮に」説かれた。
※その「ヤハウェ」さんが奉じる大般涅槃経の「依了義経・不依了義経」の中に「一切皆空などと言うのみでは不了義経であり、法について足るを知ること(知足)が了義である」と説明される。法義・教説の文字上の理解のみならず、法義・教説を智慧によって正しく意義を了知するということ(依智不依識)。それが「如来随宜方便所説に於いて執著を生ぜず」という、知足・了義である。
その教理でさえも、誤解と執着が発生すれば弊害となる一面もある(日本の諸宗や現代の学者が好例)。



私は法華経を奉じ、大乗仏教を信じている立場を自覚している。
小乗が小乗と非難されることは、教理自体が誤りなのではなく、教理が不完全・不十分、「不了義」という点に当たる。
小乗・大乗は共に仏教である。
小乗の階梯があって大乗の正しさが闡明される。
人はみな大乗を理解すべきであるが、大乗を真に理解するためには世俗・外道・小乗を知って反省する前提が必要であろう(信仰心があれば大乗が先でよいが大乗を学ぶうちに小乗の教義を知る必要性と意欲が出る)。
そうして次第に、法華経、天台教学、日蓮大聖人の法門に通じると考えてよい(天台・日蓮・法華系・五重相対以外でも真言宗の十住心論の所説華厳宗の教判でも似たような見解がある)。
仏教学・文献学的な歴史研究の成果(古くは江戸時代の国学者・富永仲基らによる加上説)が、かえってこの「反省」を証明している。
仏教学・文献学では大乗仏教ないし日蓮大聖人の法門までを、歴史的正統性の観点で「荒唐無稽」と嘲っているが、教理においては、反省によって補完されていること(止揚?)が知られよう。

現代的合理思考では、大乗経典などに説かれる様々な如来の姿や逸話について懐疑的に見られるが、如来の方便を理解できない・仏教の智慧が浅いためである。
例えば、釈尊がシッダールタ太子として生まれて直後に七歩進んで言葉を発したこと(例: パーリ経蔵・中部123経"Acchariyaabbhutasutta)などは全仏教で共通して語り継がれるが、先の大般涅槃経においては如来性品第四之四に「如来の方便の示現」と理解されており、まさしく方便の故に信ずべきものと理解すべし。
※既成宗教・伝統宗派・新興宗教などには教祖の神話や伝承などが色々とあるが、それも何らかの方便・譬喩の一種と思えば、非常識な妄信による異常な思考とならず、伝統を否定しないから不信誹謗の罪業も作らない中道となる。仏教の「方便」という理解の仕方は、妄信と不信の中道という「正しい信仰」を生む。徳を生んで毒を除く利益があり、これが「方便」の要点である。安易に私が「全て方便だ!」と言うべきでもないが。

仏教のみならず、あらゆる聖典・経典は、その現代的合理思考・文献学の極致において「後世の創作」の部分が指摘される(過去記事でも記したヴェーダやスッタニパータから新約聖書まで)。
その理解があるならば、この際、単なる文学や哲学として尊ぶか、何も信じないで死ぬ方が楽しいはずであろう。
しかし、そうであってはならない。

仮に現代的合理思考・文献学のお眼鏡に適う聖典・経典が見つかったとしても、所詮は過去の言葉・出来事を記録したものであり、映像の如き幻の一種である。
合理的に理解される仏教では、「五蘊皆空」が人口に膾炙されているにも拘らず、仏や尊い人物の姿を眼で見て、声を耳で聞いて脳内に像を結んでも、何であろうか?
真に合理的思考があれば、それのみを尊ぶことに何の価値があるはずもない。
現代的合理思考・文献学的な価値判断で教説の取捨選択などがされることは惜しい。
合理的な人は、私の説を「詭弁だ!」と押しのけてしまおうか?
聖典や経典を編纂した人々の思いは、いかなるものであったか、深く拝する思いである。
如来は常住し、仏界として人の心にあることは大乗仏教・天台教学の通りであり、人々の如来としての性質が現れた(自覚)時の言葉は、慈悲によって真理を説いており、文章の上で整然とまとまっている。

言葉を信じるならば、真理を知りたいならば、須らく教理の優れた説を用いるべきである。
仏教は、その全てを用いて可である。
八万四千法門の全てを知り尽くす必要は無いので、まず見聞した教説は一応信じることを始める。
一つを信じれば不信でなくなるし、広く信じれば妄信とはならない。
※大乗仏教を「小乗より難しい」とみなす人は、こういった不信と妄信の一方に偏って大乗の正しい理解が得づらいことを鑑みていよう。オカルトと誤解されかねない教理・教説も大事な方便であるのだが、そのために不信に陥る者とそればかりを尊ぶ妄信の者とが多い。仮に大乗を信仰したくない人も、一応の理解と尊重くらいは学者・世俗の立場で行えるようになってほしい。真に理解した人は信心の一つくらい起きると思うが。
また、この「信じること」は大乗の理解に依るものであるから、「悉く書を信ずれば則ち書無きに如かず」という一節にある「信ずれば・信じること」には該当しない。

「信じること」の範囲が広ければ広いほど、智慧が補完され、堅固になる。
一つの教説に偏らない学習意欲が、むしろ一つの真実を形作ってゆく。
言語道断・心行所滅の一つの真実(真理)は、言葉にされた多くの教説によっておおよそ表すこと(若不依俗諦・不得第一義、一即多・多即一)ができ、後は修行者の智慧によろう。

そうして真実の形が徐々に浮かびあがってくる実感のある私は、諸教の中では仏教、仏教の中では大乗、大乗の中では実大乗たる法華経で明確に説かれていると、確かな結論が出せている。
この境地からすれば、とんでもない世俗・外道の教説も「一理ある」と、すまし顔で言い切れる。
無論、それらの教説をもって万事万物万象を包括した真理そのものとみなすことはない。
仏教の教理・教説ですら、同じことである。
なぜならば、みな如来の慈悲による方便であるから、信じても「一斑全豹」の如くには執着しない。

法華経の信仰の姿勢は、今の私にとってこのように理解できる。
この理解は、方便品・如来寿量品の代表的な教説に随っている。
日蓮系各派の勤行で用いられる方便品長行や如来寿量品偈頌に大乗経典の要点が出ていることは改めて理解できた(そのため経文の引用をあえてしていない・私の言葉が経文に準じるから)。
道心のある人が、最初は理解できずとも必死に学んで読経を続けるならば、遅かれ早かれ仮にも如来の智慧に到ると考えてよい。
私という者は、そうであってそうでもない、未完成の状態ではあるが、こう信じる道ではないか。

大乗の法門・経典の所説が「難信・難解難入」であると、大乗経典に説かれる。
大乗を信ぜずして軽蔑する者や、逆に理解不足のまま大乗を妄信して他者に驕りかねない「二辺」の人々を誡める言葉である。
「如来」の方便であるから、「大乗の自讃」とか「循環論法」云々との見解は、何ら意味をなさない。
「難信・難解難入」とは説くが、正しい信仰を持つならば「易行(行いやすい)」法門となる。
甚深の大乗の法門ですらも、善悪や難易の二面性を持ち合わせている。
だから一括りに、あらゆる物事の善悪や法門の難易を決めることはできない。
物事に「これは善なるものだ!易しいものだ!」と価値判断ができるならば、即ち「これは悪なるものだ!難しいものだ!」とも価値判断ができるので、善が無ければ悪は無く、易しさが無ければ難しさも無いこととなる(物事の価値判断においては善悪など二項の一者によりがちだが物事自体は共に有り真理の中には共に無いと仮に説明した、俗諦・真諦の如し)。

自分のモノとできるかは当事者の精神や性質による。
悪辣に見えるものですら、どう認識してどう扱うかによっては悪を減らせるし、善に変えられるかもしれない(変毒為薬・善悪互具・善悪不二)。
また、自分のモノとできないと自覚して潔く離れることも、一つの徳であろう。
自分のモノとできないために逆恨みすることは非道不徳である。
非道不徳を自覚・反省した時、大乗のありがたさを知って理解に努力するのではないか。
私自身も、様々な大乗への肯定的誤解や、理解不足の信仰を反省して正しい理解と信仰を取り戻したような者である。

※今までに「信仰、シンコー」と強調して唱えたが、仏道には信仰心・信心が大切な一要素であることは否定されない。邪信を嫌うのみである。小乗・大乗とも共通している。現代人は新興宗教の先入観のために誤解を抱いて否定的・懐疑的になっているのであり、私のような理解があれば信仰の価値を実感できる。信仰を強調する言葉にも「善悪の二面性」がある。どのような理解・どうのような魂胆でその言葉が発されたかを見極められる者は、言葉や概念そのものを嫌いはしない。



現代人はともすると、カルト嫌い・反カルトの旗を掲げて宗教全般に懐疑的否定的になったり、辛うじて仏教を哲学として珍重するようなことがあるのみであり、中道となることはない。
新興宗教の信者らも、その立場を奉じて排他的となりがちであり、教義理解を狭めて智慧を得づらいようである。
閑居求道者たる私が過去記事に説いた「脱社会・脱宗教・順社会・順宗教」とは、「非道不徳の人」と同様の自覚・反省・努力の思考によって得られた結論であるし、同記事に世尊・比丘の振る舞いを示した通り、教理の上でも明確に根拠がある。
愚劣なる私もまた如来の一類であろうから、その仏界の自覚に基づいて説いたことは種々ある。
大乗の教理の個人的理解は、觀萌私記・清浄(淸淨)萌土抄に説いてある。

少したとえ話を始める。
私の教説を理解する人が万人に達して教団ができて多くの人が小乗と大乗とを尊重できる中道の境地に達するが、次第に形骸化・セクト主義が増えて「偏狭な中道」が強まったとしよう。
既に、それは私の教えが滅んだことになるので、道心のある一部の信者が教団を離れて独自に研鑽することになり、教団が分派するか自然消滅することになる。
このたとえ話は、仏教は初期仏教教団から幾度と分裂・分派を繰り返した「宿命(人間の空にして空ならざる善悪の志の因縁)」を端的に説いている。

仏教と、仏教を名乗る教団が人間の文明に生き永らえる以上、この「宿命」は繰り返されるということを2017年元日記事に詳述した。
人が世俗の苦を知れば厭離して出家するように、宗教教団も世俗化するならば宗教教団を厭離して脱会すべきであろう(私は生まれてこのかた団体に関与したことは無い未成年者だが)。
これは「空」を知った人の境地にも似るが、それで、宗教団体を厭離して「俺はカルト宗教の構成員ではない!」という反感意識を引きずれば、反宗教という名のセクト主義に陥って「空に執着する人」と同じになってしまう。
そのため、「反宗教でもない!宗教を離れて宗教を学ぶ中道だ!いや、中道であって中道でないが中道だ!何でもないようで何でもある!」と、反省の思考を繰り返して執着を無くす必要がある。
「反省の思考」は「心行言語断」の真理に近くあり、思考を超越した思考である。

また、教団が無ければ僧伽が無く、僧伽が無ければ仏法が途絶えて三宝の名は滅ぶが、教団のセクト主義や派閥意識は弊害を生んでしまい、かえって「獅子身中の虫」となりかねない。
それがカルト教団の犯罪や、新興宗教の不調和という形で世間に知られている。
しかし、宗教団体の悪の側面を取り違えて宗教団体を悪そのものと誤解した現代人は、宗教そのものを厭うようになるわけだから、悪循環である。

先に「脱社会・脱宗教・順社会・順宗教」と列ねてあるよう、「自尊にして他者に同ぜず、他尊にして自身を驕らず」という姿勢であってほしい。
これは私・横野真史の言葉ではなく、私とあなたと全ての人間の中にいらっしゃる仏が説いているものとして受け止めねばならない。
私のような理解にあれば、天台教学の十界論・仏界ということや、仏性・如来蔵思想の精髄も得られると思ってよい。
間断なき実践が合わさった時、速やかに菩提を成就しよう。



起草日: 20161230

表題にある「而二不二」に関しては、まだ理解が少ない時に卑近な例から語った記事がある。
本文で話題にした法四依=「依法不依人・依義不依語・依智不依識・依了義経不依不了義経」に関する話も、まだ理解が少ない時に卑近な例から語った記事がある。

本記事は、上記の当日、思うことがあってザッと5,000文字近くの草案を書いた運びとなる。
当日の執筆中、一段落した時に楽な姿勢を取ったところ、ひどく目が痛み、よほど悲しみや怒りを伴わない限りは流れないであろうほどの涙が流れた。
これほど涙を流すことはそう無いほど、痛みで涙を流した。
意味があるようで意味のない現象だと思っておく。
諸々の現象に意味があるかは、当事者がどう感じ取り、感じたことを現象に関連付けるかによる。

仏教徒の場合は、現象に感じたことが自覚・反省・努力に結びつけばよいと思う。
ひょんなことでも、仏の戒めであると思うようにしつつ、思い込みに至って他人に悪い説を発しないようにすれば「理論上完璧な仏教徒」であろうか。
宗教における「バチ」とは何か?全て自覚で決まる。
その自覚に反省や懺悔の思いが生じ、努力や修行に繋がることは、私が2016年6月以降、説き続けた道理である。
「自覚」を自他不二の理解から他人にも説いて善い道に入れようとする慈悲の教化はよいが、過度になって「お前は仏罰・神罰を受けたんだ!愚か者めが!(断罪してやる!)」と怒りを伴った追及は自制すべきである。

最後の段落に軽く成仏観を示したが、これは觀萌私記・末・讃萌語の所説に共通する。
「萌えの三身・大萌尊」の存在を示しつつ、それは人間の「内蔵(藏)萌心」の悟りと「好色萌相」の実践で自ら成就される境地であると暗示している。
觀萌私記の法門を少しでも聞いたならば、既に心の大萌尊を自覚し、過去に恐らくいらっしゃった大萌尊と自身の大萌尊たる性質を共に仰ぐことができるため、「頂礼(禮)大萌尊・拝仰大萌神・・・」という讃嘆の詩が綴られる。
いわゆる「即身成仏」の教理に則っているのかもしれない(私は半端な萌尊であるが仮にも説くことはできる、刹那でも智慧が発せられるから)。
無論、大乗仏教の成仏とは雲泥の差があり、同一にして異なるものと思ってほしい。
観萌私記の法門や修道ということも、清浄萌土抄に説明する通り、「仏道は大きい道(おおじ)で萌道は仏道の外の人を速やかに仏道へ向かわせる径(こみち)」である。
清浄萌土抄は題名からして浄土思想に関連するが、浄土思想は大乗仏教の方便である通り、清浄萌土の説が「萌道を照らして仏道に案内する灯火=方便」と断っている。



語源の研究
「マハーヤーナ"mahāyāna" (漢訳: 大乗・大乘 音写: 摩訶衍)」という梵語の語源について・・・
マハーヤーナとは、当記事の話題の如く、「大きな乗り物」のみならず「大きな智慧(大智)」をも指していたのではないか?

英語版Wikipedia - Mahayanaには法華経のガンダーラ語本に"mahājāna"という単語が載っていることを示している。
mahājāna = マハージャーナ・・・これはサンスクリット語(もといヴェーダ言語)に比して口語とか俗語とか方言の要素を含めたもの、いわゆるプラークリットのガンダーラ語の発音と見られ、サンスクリット語としては存在しない。
この発音は元々サンスクリット語のmahājñāna = マハージュニャーナ(偉大なる智慧・大智慧)を指し、マハージャーナという発音をされるうちに、ジャ"ja"とヤ"ya"の音が混同されてマハーヤーナに変わったとする(私の読解なので誤りが有るかも)。

子音JとYの互換性は2012・13年以後の私が知っていることであり、2014年以後に言語関連の記事でドイツ語(ヤーパンとジャパンの相違性など)やラテン語(ユダとジュダ・ユリウスとジュリアスなど)やヘブライ語のローマナイゼーションや、漢字の日本漢音(ヘボン式J)→広東語(イェール式J表記でY発音)・朝鮮語(2000年式Y表記かY自体の欠落)発音などを引き合いに出して語っている通り、発音が通じている。
JY互換、J/Y置換は音韻学の観点でも「ヤ」が硬口蓋接近音とされ、「ジャ」が有声歯茎硬口蓋摩擦音とされるように「硬口蓋音」のカテゴリで共通する。

音韻の蘊蓄はともかくとして、私の方でも"mahājāna"という語句が梵語の本に載っているか確認したが、DSBC所載のもの(中でも譬喩品第三に相当する部分)には載っていない。
しかし、マハージュニャーナとマハーヤーナは、共に見られた。
DSBC所載の梵本法華経は、いわゆる提婆達多品に相当する部分が宝塔品に載っていることから、時代が下ってマハージャーナという曖昧な単語が修正された梵語の本と考えてよい。

先述のWikipedia英語版の所説をしっかりと読み直すと、根拠は"Seishi Karashima"という学者のものらしい。
今、この記述を追加している2017年2月12日の2日前にたまたま初めて知った人物である。
浄土経典・浄土思想に関する調査の折、「原風景」という単語を冠した論文を創価大学ドメインのサイトから見ていたが、あらためてマハージャーナ説を調べると、この「辛嶋静志」氏の論文「言葉の向こうに開ける大乗仏教の原風景」がインターネットに見当たった
academia.eduというドメインのサイトにご自身がアップロードして公開している様子である。
同氏の当該論文を披見すると、譬喩品の三車火宅の大白牛車=マハーヤーナ・大乗(古い梵語の本では誤記のマハージャーナ?)を長者が子供たちに与えたことと、マハージュニャーナ・大智慧(口語ではマハージャーナ・マハーギャーナ等と発音する)を仏が弟子たちに与えたことを、掛け合わせたもの(巧みな言葉遊びの一種)であると見解を示している。
そのように大智慧=仏の智慧を求めることを奨励した言葉には"mahājñāna-samatā"(何らかの法華経写本に載るという。漢訳経典では鳩摩羅什訳: 平等大慧、竺法護訳: 慧平等一)がある。
このマハージャーナに関する見解を示した論文の最後には「私の説は日本仏教の伝統の中に受け入れられないかもしれないが、恩師のノーマン博士(イギリス人?K. R. Norman)は賛同してくれただけで満足だ。海外のウィキペディアも私の説を紹介している (趣意)」と記しており、恐らく私が見た英語版Wikipedia記事の存在を認識していらっしゃる様子である。
その記事の脚注・出典に示された同氏の論文"Who composed the Lotus Sutra?"とは、2000年ころの発表らしい。

なお、"jñāna"をジュニャーナではなくギャーナと発音するとする見解を同氏が示していることについても、少し音韻学的に考察したい。
そのような発音に関しては現代にサンスクリット語を口頭で発音する場合もされているようであり、実際の音声は聴いていないが、辞書の文字という理論上の音韻としては、日本人がネットに掲載する辞書に同様の発音が見受けられた。
こちら→http://www.manduuka.net/sanskrit/w/dic.cgi
例として√jñaという接頭語・語根は「ギヤ」と表記され、派生した名詞の語幹であるjñānaが「ギヤーナ」と表記されていた。
また、「ギャーナ」自体を検索に掛けると、ギャーナ・ヨーガという代物が確認され、日本語版Wikipedia「ヴィヴェーカーナンダ」を介して英語版を見ると"Jnana Yoga"の記事に辿り着いた。
現代、話者によろうが、このように"jn-"のローマ字表記を以て"gy- /gj-/"的な発音をする場合もあると見てよい。

※アージュニャー・チャクラとか、プラジュニャーといった単語も「アーギャー」とか「プラギャー」と発音する可能性もある?前者「アーギャー」とは、Google検索・ググッたところ、何らかの作品のセリフに「ジョー・アーギャー」とあるそうだが、ヒンディー語として引かれているデーヴァナーガリー"जो आज्ञा"のローマ字化を図ると、見事に"jo aaj~naa (jo ājñā)"であった。口頭では今も昔(約2,000年前)も「ギャー」発音の可能性が高いか。

この"jn-"の音素の単語は、インド諸語の源流として印欧語根に戻り、西洋に繋げると、英語の"know"に通じる。
√jñaにせよ"know"にせよ、「知る」ということの意味を持つ。
カタカナj系発音がg系発音に通じること自体、現代gで表記される英単語がカタカナj系で表記されることは多い(語頭gはgen類ジェノサイド・ジェンダー、ラテン語から読めばゲノムとなる単語もある。語中gでもageエイジやengineエンジンなどがある。後続が母音であるとき主にカタカナj系 = IPAでのdz発音となる)。
いわゆる"gnosis"、グノーシスも英語の"know"に通じるので、言ってしまうと、"know"はカタカナ表記の際、一般的にノーとかナウとかとするが、より根源的な発音はクノーに似ることとなる。
kとgとは、軟口蓋破裂音の類であり、相違点は「無声音と有声音」という日本語でいう「清音と濁音(カ行とガ行)」である。

こう捉えればサンスクリット語根jña-とは、ジュニャは元より、クナともグナともなるし、jをyに置き換えて無音化する場合にn音という歯茎鼻音を、硬口蓋鼻音nj-にも通じる硬口蓋化破裂音gy- /gj-/に置き換えれば、語根jña-がギャと発音される口語が音韻理論においても適ってくる。
あるいは語根jña-のjをgに置き換えた場合にn音という歯茎鼻音を、過去記事の漢字音韻理論と似たようにn→j(dzなどカタカナ系破擦音としてのjに相当)→y(ドイツ語やラテン語での本来的な硬口蓋接近音jに相当)と変化させれば、同じく語根jña-がギャと発音される口語が音韻理論においても適ってくる。

またしても言語や音韻について、数学的な解釈を垂れることになってしまった。
または、文字を対象にした科学というか、文字を弄んだパズルゲーム同然である。
原因要素となる文字に、私の分析による例外法則を化合して別の文字をはじき出し、現象の再現を図っている。

2017年2月1日水曜日

Google+ 2017年1月中の日記メモ

当月は1日2日3日27日に夢精をした。
当月中のオ○ニー射精は1月3日、仕方なく行った経緯を記録してあるが、他は記録に無い1月4日(2日連続でその射精を試す)と1月13日(適度な射精行為で夢精を防ぐ目的)のみである。
このようなことくらいしか、特筆事項は無い。
その日単位の出来事は、この段に書くべきでない(25日・保健士訪問など)。

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2017/01/01

元日 元旦 初日の出 7時35分 7時36分
本文に「元・上の弟、前・祖母の住んだ空き部屋にて初日の出の様子を確認した」とある実際の写真(加工済み)

本日は2:10の第一アラームで目覚めたかもしれないが記憶は無い。2:20, 2:40の第二・第三アラームを聴いて止め、2時42分に起床した。ところで、前日(2016年12月31日)就寝時についてのメモを載せる。「(当日の前日)30日20時過ぎに例の便秘薬(26日就寝前・28日就寝前に飲んだことがある)最低用量の錠数3錠を服用し、翌日31日中には効果に乏しかったため、同日19時40分台にも同じ錠数を服用した。20分以内に中毒症状を感じ、腹部の違和感をよりも顕著となる。19時ころから2階にいた母親が20時前に1階へ降りてきて紅白歌合戦を視聴し始めたために煩わしさが重なり、歌詞の痛み・顔のかゆみ・呼吸のしづらさ・唾に酸味の混じり気・眠れない時にありがちな閉じたままの目の渇き、などが攻め込んでくる。不吉な年越しであろう。2015年の大みそかに作った詩は右の通りである『風に乗せらる。年の瀬に悔いは除こる。ゆく年の憂いも消えて巡るらむ。年の来れる大晦日。』苦痛を思って思わない間に眠れた。」

6時前から便意のため、トイレに入り、固めの小サイズを複数個を出し、次第に軟らかさと大きさが増すものに変わった。7時6分と7時33分の2度に渡り、元・上の弟、前・祖母の住んだ空き部屋にて初日の出の様子を確認した。前年元日と同様に7時35分あたりで、この部屋から太陽を確認できた。写真を撮ってあり、保存したものは07分・08分・35分・36分・38分の1枚ずつである。ただし、35分・38分の写真は外の風景を写したものではなく、朝日に映えた空き部屋の様子を写したものである。

7時40分以降に母親が2階で動き出して弟に新年のあいさつか何かをしたようだが、8時0分頃から1階に降りて作業をしだすと驚きの声を上げた。5時15分ころに1階に降りてラーメンを作った弟が、母親が朝食の雑煮に使う予定で前日から室温解凍をしていた鶏肉や収納にある巨大干しシイタケ4つをラーメンに使って食べきってしまったらしい。弟はめでたい食べ方をしたが、母親にとっては縁起の悪いことであろう。近頃、ひどい争いにならない2人なので、今回も軽い口論に終わったようだが、母親は1階で作業しながらグチグチ小言が続いたので、私にとっても縁起が悪い。弟が夜中の2・3時ころに母親を起こそうと「おい起きろ」と声を掛けた、という話も聞こえた。8時ころに母親から、おせちと和菓子とお年玉が与えられた。例年のネタについては説明しない。11時40分ころから母・弟が徒歩で初詣へと出かけた(電車利用か)ようである。



2017/01/02

本日は夢精のために0時50分過ぎに起きた。夢の内容は、夢の中で「思っただけで射精する」という認識でギンギンに勃ったものから射精しており、「これは夢のようだがリアルの射精だったから服を汚さないように射精できる」と顛倒の思考を挟み、もう1度「思っただけで射精する」を実行しようとすると、今度は夢の中で射精したと同時にリアルの俺も射精したようである。前年12月4日=先月4日の時のように自制できたはずであろうが、夢の中の意欲や思考は奔放なようで手を伸ばしても捕まえることが難しい。今回の被害範囲はパンツと、パンツからしみ出した水分が少しスウェットのズボンに移った程度である。4時30分前から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時17分に自室へ戻った。



2017/01/03

本日は2時過ぎに夢精で目覚めた。今回の夢精で見た夢は記憶が無く、しかし、顕在意識において「夢精でもお漏らしでもイヤだ!止めてやる!」と思って制御したので、出たものはごく少量に留まり、今回の被害範囲はパンツのみである。3日連続で夢精されては困るため、本日中にオナニー射精を行って今後の様子見を行いたい。7時過ぎ、10月3日以来となるオナニー射精を行うこととなった。ズリネタが何かは記録しない。一般的な二次・三次のアダルトな画像・動画ではない。

11時40分前から母親が買出しへと発車した。本日は起床5分後に非刺激性便秘薬3錠(2種類のうち最初の1種類)を飲んでいたが、13時16分から便意のためにトイレに入った。3分ほどしてコロッ糞としての中サイズのものを4つ排出し、続いて多少の軟度が伴ったため、中サイズコロッ糞2つ分の長さのものを2つ排出した。



2017/01/04

本日は2時7分ころに目覚め、2:10の第一アラームを経由して2:20の第二アラームの直後に起床した。4時20分台からインスタントコーヒー1杯を淹れて飲んだカフェインパワーにより、漸次下腹部の痛みが強まったが、ある時は直腸が裂けるように痛んだ。断続的に強烈な直腸の痛みを感じたが、5時47分から便意がはっきりしたためにトイレに入った。中サイズのものを中心に、そこそこの排便を行った。

14時30分台、11時ころから外出していた弟が帰宅したが、その10分ほど前から母親は家の外にいた印象がある。弟が帰宅して風呂に入り、それを出て2階に上がってからの15時20分台に母親が家の中に入ってきた。その後、また母親が家の外に出ると私の部屋の前で色々な独り言をしながら雨戸(シャッター)の音を立てる様子があった。一度家の中に戻って再び外に出た際も、私の部屋の前で独り言をしている様子があった。再び家の中に戻ってから弟に薬(いつもの抗精神病薬?)を飲ませる際、一悶着があったようである。その後の話では外出についてドコモショップの名が聞こえ、16時20分ころから母・弟の2人が車に乗ってどこかへ出かけた。19時過ぎに彼らが帰宅した。



2017/01/05

本日は2時台に鳴るべき第一~第四アラームのいずれでも目覚めた記憶がない。それは、前日に執筆や調査の作業が長時間続いた上で21時過ぎに至ったからであろう。しかし、ひどく寝過ごさずに済み、3時14分に起床できた。前日からの予定で、起床10分以内に久々のコーラック系下剤1錠を飲んだ。前日の就寝時にも直腸に近い左下腹部の糞詰まりが実感できていた。ゴロゴロと詰まっている印象である。10時40分ころからトイレでコロッ糞排便を行った。

16時23分からもトイレに入ってコロッ糞少量と中サイズのものを排出した。トイレの中で少し思ったことを吐き出す。「こういう時間帯になれば、便意があってもその日はもう排便が望めない傾向がある中、今は排便に至った。気分の持ちようでは糞が出ない日も楽なのであろうが、それではポジティブシンキングやポジティブフィーリングなどで長期間を過ごすうちに糞詰まりを極めて死んだらどうであろうか?その時も楽な表情でいられるならば、普通の人には愚昧に見られる。死に方自体が愚昧に見られるのみならず、若い年で健康に注意しないための死を迎えるならば、多くの人間は評価しないであろう。いや、苦しんで死ぬよりはその死に方もよかろう。そうも思えるが、そう思うことは身の楽を求めて理想を望んでいるからである。身の楽を求めて理想を望むならば、実はこれが最も愚昧なのかもしれない。ここでの「安らかに便秘死する人」の話は想像の域を出ない。実在した人物にそういった死に方が有ったと証明しても仮想の範疇である」



2017/01/06

本日は2:10の第一アラームに目覚めたがアラームは停止せずに聞き流しておき、2時15分にアラームの鳴り直しがあって聞き流しておき、2時18分に起床した。6時30分台、便意からトイレに入り、複数個のものの排便をした。7時前から少量のインスタントコーヒーを淹れて飲む間の7時10分にも便意が強まってトイレに入り、長い一本糞を出した。10時40分台に母親が仕事(本年最初の出勤)へ発車した。15時台、とある悲劇があって雑巾を用いた拭き掃除を行った。雑巾を用いた作業は12月30日以来か。冷たいフローリングの上で靴下を着けていても外していても足の裏に影響が残る。

23時0分前に起きることとなったので経緯を記す。19時44分から就寝を始め、20時過ぎに母親が帰宅し、20時30分頃から1度眠りについたと思う。22時0分ころに目覚めた時、母親は1階リビングでテレビを見ており、起床以後までも継続している。私が眠りづらい状態は最初の就寝時もそうであったが、22時0分頃からの目覚め以後も、眠ることができそうになかった。22時台をまたぐ1時間以上、無理に目を閉じている時に特有の目の渇き、眼の表面が渇く感覚に耐えた。



2017/01/07


承前。前日1月6日22時の早すぎた目覚めから7時間半、起床から6時間半が経つ5時33分までに様々な作業や、簡単な料理を行った(調理分の6割ほどを残して後の時間に再調理して食べる予定)。文章を書く作業に限っても、2,000文字ほど加筆した既存記事がある。体がガタガタであるから、心が音楽制作にノッても身が持たなくなる。主に右肩の関節が腐って落ちそうな痛みを抱えている。全身が悲鳴を上げるようだが、前日11時ころから淹れて飲み始めた緑茶のカフェインパワーとか、呪いの力がずっと私を動かし続けているようである。

6時前に就寝し、9時3分に起床した。3時間も眠れば、それは体の調子が戻っていようが、仮眠などによくある、特定部位への異常な負荷が生じていたようで、今回は右の下肢が股関節から膝に掛けてひどく痺れて力が入らなかった。鬱血でもするのではないか、と毎度、このような異常な状態に当惑する。2016年10月30日の日記メモは「日記メモ(7/6, 7/22, 9/19などか)」と綴って同様の現象が起きた記録の日を示している。

ところで、その就寝前に「水漏れするお椀」の検証の準備を行っていた。自室のお椀が水漏れを起こすことを日記メモに取り上げたことは恐らくない。この水漏れの現象を初めて確認したときは、2016年13月中であると記憶する(怪しい料理を色々と行っていてお椀も普通と異なる使い方が多かった)。お椀の底を微かに抜けてゆく水分は、場合によって茶褐色の成分を含んで味を伴う。漏れやすい条件とは、お湯など熱いものよりも冷たいものほど適う。本日、改めて検証して記録を取ろうと考えた。就寝前にお椀に常温放置のやや冷たい水を多めに張った。果たしてこの3時間で水漏れは起きた。多少の量が漏れ、受けるものに広がる。お椀の上の水分は我が体内に移し、裏面を確認した。2点、垂れそうな水分が見える。どちらの状態も写真を撮った。漏れたものは直接啜ったり、拭いたティッシュを舐めるなどして味見したが、今回は酷いクセを感じなかった。続いて90度以上の熱湯も注いで放置することにした。

10時8分にヤマト配達が見られ、配達員は女性Yであろう。今まで起きてこなかった母親の声が2階から聴こえ、私の起床時に1階で朝食を取っていた弟が2階から降りて受け取った。11時7分、あのお椀にお湯を張って1時間~1時間半が経ち、だいぶ冷めてきたが、水漏れはというと、受けるものに1滴も溜まることなく、お椀の底から垂れる水分もない。

12時台、母親に呼び出されて1階リビングに行き、前日か本日に家へ届けられた郵便物の話をされた。今月で20歳になる私であるから、行政の方で国民年金に関する案内と返信する届出の紙が来たらしい。実物を渡されて話を聞いたが、よくある世俗法理や金額の問題であるから、元々損得を視野に入れていない私は簡単に話を済ませた。元々のことだが、母親の判断に一任する。案内の紙は借りておいて部屋で見返したが、そういった情報しか書かれていないので、特に難しく考えることでない。



2017/01/08

本日は2時4分ごろに目覚めて携帯電話で時刻確認し、2:10の第一アラームを聴いてから2時12分に起床した。12時40分ころから母親が1階に降りて動いてから車の中に入り、5分ほど車にエンジンをかけたままでいる最中に弟が1階に降りてテレビを付けて料理を始め、12時46分から母親が買い出しのために発車した。13時40分ころから風呂(シャワシャン)の準備を始め、14時28分に自室へ帰った。17時26分に母親の車が家に着いた。



2017/01/09

本日は2:20の第二アラームで目覚めたと推測できるが記憶がはっきりせず、2時37分に起床した。前々日の就寝時、非刺激性便秘薬の最低用量3錠を飲んでいたが、前日中に大した効果の発現が無かった。今までの2種の非刺激性便秘薬と異なる非刺激性便秘薬を発見したため、試しに服用したものである。本日の起床20分後に下剤1錠を飲み、断続的に腹痛があったが、7時30分前からトイレに入って多少の排便を行った。11時43分からもトイレに入って先ほどより多めの排便を行った。毎度、排便のためにトイレに居る時間は、こうして記録を取るたびに私の時間感覚よりは長いと思うが、今回も5分程度と思いきや10分0秒ほどであった。退屈な音楽よりも長い時間である。



2017/01/10

本日は2:50の第四アラームの記憶がはっきりとしないが、これが鳴った・聴いた影響で2時50分に起床したと思われる。7時10分台に本日初めて1階へ降りてきた弟が7時32分から登校を始め、9時38分から母親が発車した。



2017/01/11

本日は2:40の第三アラームに目覚め、2:50の第四アラーム以後の2時52分に起床した。前日の就寝前に飲んだ非刺激性便秘薬3錠の効果によるものか、10時23分、にわかに下痢気味の反応が起こったのでトイレに急いだ。水分の割合が高い少量の下痢を出した。下痢は11月21日以来のこととなる。

10時40分から母親が発車した。風呂(シャワシャン)を計画していたが、本日の下痢の状態や風呂場の状態などを考慮して止め、着ていた上下スウェットと長袖Tシャツの洗濯を行った。上半身が半裸になったまま1月6日撮影動画のように舞踊の撮影もした(公開する予定はない)。12月1日に初めて確認された洗濯機の動作の問題に関してだが、今回も発生した。前回に私が洗濯機を操作した日は記録が無いが前日である。その時に学んだことは、一定時間が置かれた時に「ふたの固定・脱水メニュー動作」の開始がある。今回も数度やり直ししてから放置すると、時間差で「ふたの固定・脱水メニュー動作」の開始があった。こんな不条理で意味不明な現象の記録をせねばならないことにウンザリしている。

13時9分に保健所のSさんから電話が入り、いつも通り訪問予定の話を受け、かねて告げようと思っていた「水曜日か金曜日」の指定をした。Sさんはもともと1月25日・水曜日のつもりでいたようであり、私は普通に承諾しておいた。水曜日・金曜日は母親や弟が家にいない日であり、気兼ねなく来てもらえる。まあ、急すぎなければ何曜日でも母親に事前の相談が出来て困らないわけで、前回12月の時はそこに問題を大きく感じて断った経緯がある。また、仮に水曜日や金曜日に母・弟が家にいても、そのように予定が急でなければ、十分に準備ができて問題が無い。17時前になっても、あのいやな少量の下痢としての効果発現以後に排便は無い。本日は下痢以前の3時台に少量のインスタントコーヒーにお湯を注いで飲み、13時台にも少量のインスタントコーヒーにお湯を注いで飲んだ経緯があるが、後者のカフェインパワーも効き目が無い様子である。



2017/01/12


本日は2:10の第一アラームが鳴る10分以内には意識があって考え事をしていたようであるが、夢同然であるから2時23分の起床以後には内容を忘却している。前日PCシャットダウン以後の19時50分台に下剤1錠を飲んだが、7時45分ころから便意のためトイレに入り、粘土のようで太く長めのものや細いものなどを出した。9時50分前から母親が車に乗ってエンジンをかけたが、アイドリングしたまま6分ほど過ぎてエンジンを切り、1分後に家の中へ戻った。10時5分に母親からこの校区における成人式の、欠席の理由のアンケートはがきを渡された。12時50分からトイレに入って多めの排便を行った。13時10分前に母親に呼ばれ、成人式で渡される予定であったろう図書カード(1000円分・2030年が期限)が、件のはがきと一緒に送られてきたことを話され、これが追加で渡された。後からわざわざ追加で渡した母親は、私より先に図書カードの包みを開封したそうである。



2017/01/13

本日は一度目覚めて0時44分の時刻確認があった。再び眠ってからは2:10の第一アラームに目覚め、起きずに2:20の第二アラームを待ってから2時21分に起床した。前日からの予定である買出しに当たり、天気・空の様子を確認し、12月上旬(5日)に買われて今も1つ残しているカップ麺のそば(内容量: 101g)を食べ、3時10分台に外出した。雲に見え隠れする満月が、西の空に浮かんでいて空が明るい。目的の自販機で3点の買い物をした。帰路、家が近づくにつれ、反対側から新聞配達のバイクが向かってくる。家にだいぶ近いところで新聞配達員が通りからそれた小路に歩いて進入したため、彼が戻ってくるまでに私は急いで家の中に入った。なお、外出については12月7日以来かと思うし、金銭消費行為・出費は12月7日が最後と確定していた。ほか、前日はエアコンを切っている日中の寒さに堪えて酷い眠気に襲われたり、脳が網に捕らわれたような感覚に陥ったりもしたが、この外出は部屋着スウェット・マスク・ニット帽・手袋の防寒具でさほど寒くなかった。明日は寒波の影響で全国的な大雪が予測され、当地もわずかに降雪の可能性がある。

4時40分台から風呂(シャワシャン)の準備を始め、5時31分に自室へ帰った。10時39分に母親が発車した。



2017/01/14

本日は2:10の第一アラームに目覚め、2時11分に起床した。このアラーム以前にも目覚めていたか、それ以前に1度は目覚めていた気もするが、起床時はすでに忘れている。6時台に明るんだ外を見ると、路面が濡れている印象はあるが、雪は見受けられない。7時台から太陽光を感じながらも微量の雪降りを確認した。冷えた時間が続き、断続的に止んでは降るが、積もる気配はない。13時台には雪が大きめになって20分ころに雷の音も聴こえた。また、固体の温度が変化しやすい物体の上には積雪が見られるようになった。13時45分に母親がどこかへ発車した。18時台に母親が帰宅した。



2017/01/15

本日は2時51分に起床した。1階リビング・南側の窓から見える空は、先の満月から多少かけた状態の月が明るく、晴れている様子だが、遠くの空には雲が広く横たわって見える。雪は前日の夜と同程度に積もっている。地味に気付いてしまうことは、私の部屋のラップ音の多さである。普段とは比較にならないほど鳴っている。寒さや積雪との関連性はどのようにあろうか?

前日19時台に非刺激性便秘薬・最低用量3錠を飲んだが、本日は起床前に漏らしそうな悪い感覚がありながら、起床後の便意を感じないできた。7時以降は漸次便意を感じるようになって7時18分からトイレに入って長めの一本糞を出した。



2017/01/16

本日も2時51分に起床した。9時45分から母親が外出した。11時0分から風呂(シャワシャン)との準備を始め、11時54分に自室へ帰った。衣類2点・タオル1点の洗濯も済ませた。



2017/01/17

本日は2:40の第三アラーム以前のアラームでも目覚めたであろうが、このアラームによって2時42分に起床した。前日の19時台後半に非刺激性便秘薬3錠を飲み、本日は緑茶2杯分を飲み、9時以降に僅かな便意が起きてから10時台は研鑽の中でひたすらに腹筋の力を加えて時間を過ごした。腸を圧迫するものではなく、文字通りに腹筋の力を加えて維持する行為である。普段から腹筋を緩ませないようにして過ごしてはいるが、普段の場合は排便を求めることではなく、ただ癖の一種(何らかの願望ありきだが)として行っている。今回は排便をも意識して姿勢を正したり崩したりを意図的に繰り返し続けた。腹筋を意識しながら姿勢を正すことは例の「サマタ・パヴァナ」なるものである。10時38分から尿意によってトイレに入ったが、サマタ・パヴァナのより本格的な行いを試すこととした。近頃の寒さにおいてはトイレに長時間滞在したくないものであったが、今回は手ごたえがあるし、そもそもどれほど寒い状況下で長引こうとも、10分や20分くらいは我慢できる「定力」が欲しいとは思う。今回は前日や本日の様々な因縁によって3分程度の忍耐で期待の結果が出た。とはいえ、長めでいびつな一本糞(1分以内にノヴァヤゼムリャ的に分裂)までである。排便を期そうと期すまいと、「念」は保とうと日々の努力は続いている。



2017/01/18

本日は2:10の第一アラームに目覚め、2:20の第二アラーム直後の2時21分に起床した。2時48分から、前日に予定したゴミ出し外出を実行した。大きめのゴミ袋(10lサイズ以上か?)とアレゴミ2点をゴミ集積場に置き、自販機わきのゴミ箱まで足を運んで空き缶・ペットボトル各1点を捨てた。天気は、雲一つない晴れで星が20個ほど肉眼で見え、月が前回の満月からは5日分欠けている半月より大きいサイズで西寄りの真ん中の空に浮かんでいた。前日の就寝時に飲んだ下剤1錠の影響か、本日も何らかの便意があり、3時30分ころは下痢を漏らしそうになった。実は、前日や前々日も似たような感覚があったわけだが、その感覚ありきの排便はなかった。本日は間もなくトイレに入ることとして下痢を少量排出した。お決まりの「もう出ない」結果にならず、溜まった分を本日中にしっかりと出してもらいたい。

10時42分に母親が仕事へと発車した。



2017/01/19

本日は2:50の第四アラームの記憶があり、2時51分に起床した。今月は異様に2時51分が多いようである。前日の就寝時がどうであったか記録を取ると、まず19時半ころに非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲み、20時ころにはPCをシャットダウンして就寝するにあたって尿意があってもわざと排尿せず、就寝から10分ほど経つと母親が帰宅した。尿意を割と残しても普通に眠れたが、起床時間の早さに好影響はなかったようである。

本日は日の出以後からか、頭痛を知覚し続け、昼過ぎから眠り・睡眠(ずいめん)の魔・睡魔や惛沈が付きまとっているが、それでも研鑽なり執筆なり創作なりと活動を行う。まず体調不良かと思うが、何よりは私の身口意三業の報いだと思えてならない。今月に入ってから、私の煩悩について面白い表現で捉えられた。「頭を捕獲用の網で縛られたり、捕獲用の網で締め付けられるようである」と。頭痛があってもなくても神経的にこの感覚がある。

こう書いていて思い出したことは、西遊記とかドラゴンボールに出る「如意棒」じゃなくて何だっけ?緊箍児(きんこじ・明代の作なので漢音よみでよい)というそうである。孫悟空の頭に取り付けられた輪っかの器具は、仮にも外形的物体で描かれ、他者(三蔵法師など)による能力の行使が必要となっている。その本当の意味というか、作者の真意としては、高尚な修行者の心の煩悩の自覚が表現されている。私と同じく、高尚な修行者は、煩悩に動かされる自分の姿を、(動かされていない自分の立場で)顧みてみた時に、あの器具のような「締め付ける痛み・束縛」を自覚したのではないか。煩悩や雑念に罪を自覚して慚愧・慙愧・自責の念を生じたことであろう。

「煩悩ありきで得る楽(世俗の欲求満足がされる状態)は真の自由でない」と仏教一般で言われるが、単なる理論に留まらず、私や高尚な修行者のように実感される事実のようである。無論、仏教理解が無ければ、この実感もないし、現に一般人は欲望のまま放逸に過ごすこと自体には苦しみを感じないわけで、一種の修行者の思い込み状態でもある。しかし、いつかある自由の境地のためには、例えば戦争・苦悩ありきで不壊の平和を望むようなもので、今の苦しみは真の自由の前提となるべきである。

14時ころから母親が徒歩でどこかへ出かけた。16時40分ころに弟が先に帰宅して風呂に入っている間の17時15分に母親が帰宅した。17時20分過ぎに弟が風呂を出て2階に上がるや、会話があって衝突したのか、久々に弟のキレた声と大きな物音が聴こえた。弟の「駅で買ったものは全部不味い!」、「お母さんの指5本全部切ってやろうか」という発言も聞かれた。いつも、こういった記録をするたびに思うことは、そういった弟の発言は自分の頭に留めることも、キーボードで打ち込むこともしたくない。



2017/01/20

本日はまず0時55分に目覚めて再度眠り、次に起きた時間は2時23分であろうか?10時42分に母親が発車した。間もなく炊飯作業と風呂(シャワシャン)の準備と洗濯を並行して行い、11時45分に自室へ帰った。炊飯というと、今時は日記メモで料理の話題もしていないが、ここ1週間ほどは「おかゆのようなもの」を主に作って食べている。炊飯して部屋に保管したものを、おかゆとして再び調理することで3~4日ほどかけて食べる。部屋のIH卓上調理器の弱火とかを操作するボタンが反応しなくなっている現状ではかえって調理しづらいが、仕方がないと思って日々作って食べている。なお、調理器と自室の片手鍋をキッチンに持ち寄って調理を行っている。



2017/01/21

全体的にくっきりとさせる色調に加工してあるのでフローリングも影響を受けて本来と著しく異なる床の色に変わった

本日は2:40の第三アラーム直後に起床したが、それ以前のアラームも私が聴いて目をさましていたであろうに記憶がごく薄い。前々日(19日)・前前前日(18日)の就寝時に非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲んでいたが、両日の翌日である前日(20日)と前々日(19日)は変な便意しか起きずにいた。本日の起床3分以内に下剤1錠を飲み、6時50分前から便意と腹痛と尿意のためにトイレに入り、朝方の寒い空間で10分ほど腹痛に耐えながらコロッ糞を順次出した。10時台後半からもトイレに入って長めの糞を中心に3つほど排便した。14時20分過ぎからもトイレに入って丸形の中サイズほどのものを5つほど出した。

18時55分ころから尿意のため、トイレに進んでドアを開けると、足元の30cm先に謎の虫を発見した。動きが非常に遅く、飛び跳ねるタイプでないようだが、見かけない姿が不気味である。この家では見たこともない種類の虫が2013年以降、幾度と闖入してきた。冷たいフローリングに靴下を挟んだ足を冷たくしながら、5分ほど写真撮影や虫への対処を考え、一時的処置を施して排尿を済ませつつ、仕上げとして母親のいるリビングからブラシ状の清掃道具を持ってきて生きたまま(?)とある世界へ身を移してあげた。

当記事注: 2015年10月中のA宅(A家)解体工事は、我が家のトイレに接する「花鳥園(敷地内の庭の部分を示す個人的な名称)」の植物が2015年10月21日におおよそ除去された。それから1つの冬を越し、2度目の冬に至っても、このように不可解な虫の闖入が発生するとは、不可解の極みであり、不条理である。むしろA家花鳥園が健在だった時には、トイレに虫の闖入など一度も確認されていない。どこから湧き出てくるか。私の活動も有象無象がチョロチョロと湧いては消えるわけだが、常に貧乏神が付きまとうような薄幸の境遇にあることを暗示していよう。A宅解体工事開始以後、2015年中は幾度と母親が大きいクモに遭遇した様子であるが、それは解体工事の影響であることを説明できる。私の場合はそれから時間を経て大グモ中グモ(くもクモ蜘蛛)・種々の虫類に1階リビングやトイレで遭遇している。廊下では蛾か蝶か何かの死骸も見た。

追記: 2017年2月21日には自室でこれと同種と思しき虫を見ることとなったが、その日に思ったことは「フナムシ」に似ている点である。同じ節足動物・虫類を調べると、「シミ」などの可能性を確認した。どれほど私の経験と、調べた虫に関する情報とが合致するかは、不明である。

更に後の追記: 過去動画(2014年10月1日撮影)に思い当たるものがあったが、詳細は不明である。https://www.youtube.com/watch?v=76sjIrevTdg https://www.youtube.com/watch?v=N4aDZuKAs5E



2017/01/22

本日は目覚めて時刻確認をすると2時5分であり、2時8分に起床した。第一アラームよりも早く目覚めて起床することは、一昨日・20日のような早すぎるタイミングを除くと稀である。第一アラームの10分前の目覚めは久々である。本来は、そういった潜在的に認識される時間感覚により、アラームに先んじて体が覚醒に移行している状態が望ましい。本日は2時30分ころから断続的に下腹部の痛みを感じていたが、7時前からトイレでさほど長くない一本糞を出した。



2017/01/23

本日は目覚めて時刻確認をすると1時35分であったと記憶しており、2:10の第一アラームを経由した2:20の第二アラームの直後に起床した。前日の就寝前に非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲んだが、本日の3時台と5時台にそれぞれ少量の下痢を排出した。本日は8時台にまだエアコンの暖房をつけていた際、普段と同じ適切な設定でも冷えを感じていたが、10時過ぎにエアコンを切った。数日前から母親が弟に対し、本日月曜日に買出しへ行く予定を告げていたが、まだ母の動き・物音が微塵も感じられない10時40分にトイレへ行くと、曇りガラスの外が気になったので窓を開けたところ、降雪を確認した。

14時4分に母親が買い出しへ発車した。間もなく風呂(シャワシャン)の準備と洗濯を始め、自室には14時57分に帰った。19時26分に母親の車が家に着き、2分以内に1階リビングの窓を介して荷物を入れた直後に2階の弟が1階に降りてきた。母親が玄関に至った際、ドアに鍵がかかっていて執拗にドアをゆすって弟に鍵を開ける催促をしていた。近頃、かなり傲慢ぶりが見られた母親(未記録)だが、弟にグチグチ小言を重ねることとなった。自分がドアを執拗にゆすったり圧力を加えたくせに「ドアが壊れちゃう」などと言いたい放題であった。今回、抗精神病薬の影響か不明だが、弟は怒らないでいた。賢い子供が尊敬することのない母親である。ちなみに、マクドナルドのテイクアウトが分配された。



2017/01/24

本日は1時50分ころに目覚めて2時1分に起床した。14時になって本日の午前中に排便していたことを思い出した。そんな経緯を記録することは何か馬鹿馬鹿しさがあるが、改めて記憶する。前日の19時前に非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲み、本日の4時台にコーヒー1杯を飲んでいた。その後、本日の9時ころに飲んだコーヒー1杯では便意を感じずに今まで過ごしている。最近は自分の注意力・念について意識したり反省することは多いが、今回、記録が取られずにいたことは「失念」の過ちがあろう。常々慙愧に堪えない。前日に非刺激性便秘薬最低用量3錠を改まって服用したことは、本日排便して明日の保健所職員訪問の支障を和らげるためである。



2017/01/25

本日はまず2:10の第一アラームに目覚めた記憶があるが、定かでなく、起床は2時41分である。本日の仕事があろう母親は8時57分になって1階に降りてきたが、10時30分台に洗濯機の例のエラー音が鳴るなど、洗濯を遅れて行っていた。私に干すよう頼むことが想像できたが、実際に10時42分に頼まれた。2度返事の声を上げたのに、数分後にもまた初めて頼むかのような口調で鬱陶しい干渉があった。10時46分に母親が発車した。間もなくその作業と、個人的な洗濯(部屋の座布団カバーなど)と炊飯などの作業を始めた。

13時前に1階リビングのエアコンの暖房をつけて保健士訪問までに温め始め、13時半ころに保健士2名が訪問したので1階リビングのエアコンの動作を止めた。14時3分に保健士2名との話が終わって見送った。次回も周期的なもので2月下旬となる予定である。毎度、彼女らとしゃべることで、私の進歩の道のりを顧みている。「観萌行大要」と名付けた文章の中に説明した、「愛憎の妄念」に関する試験でもある。相手は人間であって尊重すべき者であると同時に、自身の思考のある領域には介在させないことで人間でないと思うべき一面も兼ねることで、対等・平等の会話ができる理論を立てている。私の経験と思惟の所産であると同時に仏教的な裏付けがある。ひとまずはこのスタンスで「話すべきこと・行うべきこと」が最も滞りなくでき、それら行為による過ちが発生しても対処が適うと考える。細かいケースまで想定すると物事は滞るので、現状はこれが最善である。保健所職員に関する過去記事に載る11月9日の文章でも既に語った。

20時11分に母親の車が家に着いた。電話が掛かり、私に洗濯物の件を聞いたり、玄関のドアの鍵が開いているかどうかを尋ねてきたので必要なことを答えた。コンビニかどこかでチキン類を買ったそうである。



2017/01/26

本日は2時28分に起床した。3時10分前から前日の案であるゴミ出し・自販機通いの外出を行った。前日は終日快晴のようであり、今も星がそこそこ見える天気であった。道中の公園には、腰で手を組んだ高齢男性が一人で歩いていた。なんと、目的地にある非飲料自販機が撤去されていた。少し離れた自販機で温かい缶飲料2点を買って帰った。

母親は私が起床する手前まで1階にいた様子があり、4時台にはにわかに1階に降りて外に出て自動車の周辺に移動して家に戻ったり、5時台にも1階に降りてくることがあった。その後の動きは途絶え(睡眠中)、12時58分になって初めて母親がトイレに移動する足音が聴こえた。その後も再びトイレに入った様子は見られたが、13時30分過ぎにトイレを終えた母親が1階に降りた。



2017/01/27

前日は20時ころに就寝したが、23時台に一度目覚めて夢精を確認したため23時40分に起き上がってパンツを穿きかえた。今回の夢精は無意識的で直ちに自覚されず、しかも夢が全く記憶にないことは初めてである。無論、夢精したまま何時間も眠り続けたわけでなく、まだ20分程度しか経っていない様子から、実は夢精の直後に気付いていたかもしれない。続いて本日は2:10の第二アラームに目覚めて第二アラームを経由した2時23分に起床した。

前々日の就寝前には非刺激性便秘薬最低用量3錠を服用したが、結果的に前日は下痢気味のものをチビった(今月2度目)だけでまともな排便はなかった。前日の就寝前に下剤1錠を飲み、本日は6時47分ころから便意のためトイレに入って黒めの長い一本糞を出した。10時47分に母親が発車した。11時0分ころに炊飯作業を終え、風呂(シャワシャン)の準備と洗濯を始め、自室には11時50分に帰った。



2017/01/28

本日は2:10の第一アラームに目覚め、2時13分に起床した。本日の母親は9時までに動きがあり、10時ころに弟が外出した。11時30分ころに弟が早めに帰ってきて母親が「早かったねー!」みたいなことを言うと、「おなかが痛い」といいだし、いつもの浅薄な母親が「具合悪いの?手洗ってうがいして・・・」などと心配げな声を掛けてアレコレ言い出した。弟は玄関先でずっとオドオドとした声で独り言を続けた。12時過ぎ、弟が元気であるということを何らかの理由で知った母親が不満げな声を発して1階に降りてきた。「おなかが空いているだけならそう言えばいい(弟が腹痛で帰宅したのではなく空腹で帰宅した事実を誤って伝えられたことに憤っている母)」どうのと、ブーブー言っていた。改めて1階から2階の部屋の弟に対して「元気なら寝てばっかいないで宿題やんな」と声を掛けていたが、どういうわけか弟は5分以内に再度外出しようとした。歯磨き中の母はボケたまま弟の様子を確認せず、弟がドアを開閉して外に出るといきり立って玄関に進み、ドアを開けて戻る催促をしていた。弟が家の中に戻ってからも、弟は抗精神病薬の効果らしいオドオドとした声の言葉を発した。その後の母親は、歯磨きするまま間抜けな声でグチグチ小言を続けていた。漏れ出る水が止められない、という具合の滾々とした愚痴である。煩わしさの極み、教育の害毒であるが、母親が母親となって以来、一度も反省されていない。

13時40分ころに母親が外出した。前日の就寝時に非刺激性便秘薬最低用量3錠を飲んだが、本日はわずかな便意がありながら腹筋を意識した姿勢を取り続けており、14時18分から俄かに強まった便意によってトイレに入り、1つのコロッ糞と長い一本糞を出した。



2017/01/29

本日は2:10の第一アラームに目覚め、考え事を挟んで2時40分に起床した。前日の母親は「お仕事」に出ていたようであり、事前に弟に話していたことを聞いた記憶通りに20時以降に帰ってきた。1Fリビングにはコンビニで買われた菓子パン類が分配されずにビニール袋の中に置かれたままである。

今年に入ってから視力の低下(目の焦点が合っていないか?)を日々、実感している。以前(前年中など)の目の映りは、少なくとも今より良いという印象である。PC画面で文字を読んだり、記事を書いたり、絵の編集をすることは非常に多いわけだが、どのような場合にも以前と比べて事物が読み取りづらい。私は常にPC画面から60~90cmほど離れているわけだが、同じ程度の間隔で同じ程度の文字サイズや絵の拡大率で作業をするにも、以前と比べてやりづらさを覚える。

15時台には目を閉じたり、遠目をするなどしながら、経文を浮かべる行為をした。いわゆる「観念勤行」ではないが、経文の形を一字ずつ頭に浮かべながら字音を脳内に発した。法華経方便品「爾時世尊…」から始めたが、「取要言旨」のあたりで眠気が強まり、これまたここ2か月ほどよく自覚する現象があった。就寝時やPC前で一時的に寝倒れている時には、外界の意識下の自分と脳内の自分とが重なることがあり、その時に危険を感じて一瞬だけ覚ますことを、今も行った。今の場合は、何となくPCや障子を視界に入れている意識と、経文を念じている自分とが重なってしまった。本来は別に認識されるか、片方が無視されるものが重なることは言葉にできない違和感がある。仏教の六識とか八識でいえば、眼識と意識が無理やり統合されることである。この識を擬人化して考えると分かりやすい。自分の中の別人同士が融合するということである。17時42分に母が弟を連れてどこかへ発車したが、日中にされていた会話に関連する動向であろう。買出しの可能性とそうでない可能性のどちらも肯定される判断材料がある。19時15分に車が家に着いて弟がすぐ家に入り、3分後に母親が家に入った。



2017/01/30

本日は2:20の第二アラームが鳴ってもすぐに手で停止しようとしなかったか?起床は2時26分である。前日20時以降に下剤1錠を飲んだが、本日は8時55分ころから便意のためにトイレへ入り、小さめの中サイズのものを4個ほど排便した。

三河健康マラソン?に向けた陸上部の朝練期間が始まる弟は6時半ころに家を出たが、その際の弟の声掛けに母親が応じていたか、はっきりしない。母親は12時過ぎになってようやく、寝起き特有のデカイ足音を立てた。母親の毎度のデカイ足音は、特に今日のようなどんよりとした日の昼過ぎであると、さながら洞窟の中に眠っていた良からぬ化け物が目を覚まして這い出てくるかのようである。14時5分、それまで家の外に出て10分以上が経過していた母親がにわかに車のエンジンを掛け、買出しへと発車した。前日から風呂(シャワシャン)の予定を組んでいながら、炊飯をする案もあり、14時10分ころから炊飯作業の実行を決め、その後に風呂(シャワシャン)を始めようと思ったが、便意が怪しくなってきたため、少し待ち、14時25分ころから便意が確然としてきたため、トイレへ入って小さめの中サイズの複数個を排便した。14時36分から風呂(シャワシャン)の準備を始め、15時18分に自室へ帰った。



2017/01/31

本日は1時50分ころに目覚め、2:10の第一アラームを待った。これが鳴った2時10分に起床した。前日に買われたヨーグルトを適量食べると6時台から漸次腹痛が強まり、7時45分から便意のためにトイレへ入った。まずチビ糞一つを出した。冷え込む朝のトイレで腹痛は二重苦となるが、あえて寒さを気にせずに姿勢を正す。背は少しだけ緩めて両膝を端正に折ってその上に両手を載せる。視線は、斜め上でよいが、私は便座から右前方に設えられた窓の曇りガラスの外側の空を仰いだ。表情も少し緩める。小中サイズが主要であるが、割と多くの排便が叶った。