2016年11月11日金曜日

中道修行者・信仰者の在るべき姿勢

脱社会にして順社会
脱宗教にして順宗教
これぞ中道の修行・信仰の在り方

社会に同じて名聞利養を求める姿勢ではなく、社会に反して種々の害を生む姿勢でもない。
宗教に同じてしがらみに囚われる姿勢ではなく、宗教に反して論争に業を煮やす姿勢でもない。
ただいま、このように中道の境地で「二重否定」の論証を行った。
社会にも宗教にも、同ぜず反せずして脱して順じる(脱ぎつつ順う)。

「脱社會而順社會 脱宗敎而順宗敎 此業即中道修行 此念即中道信仰」
「非同社會求名利 非反社會生多害 非同宗敎著團眾 非反宗敎交諍論」

このような姿勢こそ、己の苦しみを除き、他人との争いも生まず、他人に新たな苦しみを与えずして自分に苦しみの因を作らず、真に自他の平和と解脱を生む功徳となる「中道」の姿勢である。
私は仏教を学ぶ以前より「中卒ニート引きこもり」を名乗る脱社会・無宗教の身であるが、それのみを美徳とせず、社会を別物として尊重・協調しながら宗教の価値を肯定する「順社会・順宗教」という立場も得た。
閑居求道者として重要な方針の一端に組み込まれた。
続いて詳説したい。



・「反社会的」とは、一般的にヤクザ・指定暴力団や特定カルト教団などを指す言葉であり、比丘や私などは「脱社会的」な立場として中立・無害である。なまじ社会に関与するから社会に利益をもたらす反面、社会悪を犯す者も当然多い。資産家による脱税だとか租税回避地での架空運営など、経済面では顕著である。そんな慳貪な資産家が、国家の法に対して秘密裏に背いているならば、それこそ反社会的である(一部大企業による業界の独占や脱税も多く、これも反社会的)。また、社会に直接関与せずとも、観念的な部分で執着して苦悩する者がいる。そのように生活は社会から離れていても、心は執着・苦悩して俄かに殺人事件を起こすケースもある。それはともかく、私ほどに理解ある脱社会人だからこそ逆説的に順社会的でもあり、むしろ積極的に社会に順うべき立場が、托鉢・乞食によって生きる比丘"Bhikṣu, Bhikkhu (直訳すると「乞う者・乞食beggar」)"である。これこそ健全なる中道の人々の在り方ではないか。

・中道の在り方により、シャカイジン様ならではの犯罪行為も逸脱社会者ならではの犯罪行為も、共に防げる。また、それら"Crimes"に対して宗教・道徳的な"Sins"も、ある程度は起こさずに済むが、信じる人の信じる立場で自ら認める罪(三毒や七つの大罪と言われるような精神作用)は、残念ながら、我々は日々作って止まらない(それを止めて解脱することが仏道修行の目的)。比丘になる・出家するにあたっても、家族と分断するオウム真理教のような手法は、釈尊在世より実父・浄飯王(音写で輸頭檀那王)の懇願によって禁じられ、出家希望者の親が存命の場合は親の許可が必要となっている(十遮十三難の「父母聴」。由緒は律蔵に見ゆ。四分律では巻三十四を参照)。

・社会や経済というものは、どうしても現代文明に生きているならば関わる必要がある。いや、それは釈尊御在世においても変わらない。故に、社会という煩悩の大海からの出離を願って出家しても、仏教僧としての出家生活は在家の人々から僅かばかりの恵みをもらって(托鉢・乞食して)生きる。相互依存(共依存)や、少なくとも自身が他の存在に現象的・物質的に依存してこそ自尊も自虐もあり、生命維持もできるものと、虚心坦懐に認められなければ、それこそ解脱のための土壌が育まれない。一方、現代人は親元を離れて経済的に自立すれば、それが尊い自立的人生だと思いがちだが、それは資本主義と個人主義による妄執である。他人への物質的依存を排除した自立的な人生など誰にも有り得ないが、そう言うと親元(離婚母なので法律上他人だが)に住み続ける私の屁理屈に思われかねない。この際、完全な白黒もないが、相手がそう認定するならば何でもよいと思う。一応は弁論の余地があるので、私の説明をした。また、他人の世俗的な生き方は、過度でない限り否定する気もない(仏教を学ぶ者はより節度を持つべき)。

・こういった比丘の生き方は、一見利己的で「寄生虫」などと俗世間に思われそうだが、いや、その自覚があってこそ、他人へ敬うように振る舞えるであろう(自己肯定がかえって尊大に振る舞う精神的余裕を生む場合もあるが)。比丘が托鉢・乞食する際は無駄口を叩かないようにするが、私が母から食料を恵んでもらう生活においても、食品の種類や銘柄などの注文は行わないでいる(2016年現在、去年までは注文が多いところから漸次ラーメンの味と購入数のみの注文となった経緯がある)。彼ら比丘の、無駄口を挟まないで表情を変えない、という態度が日本では傲岸不遜に感じられる面もあろうが、上座部仏教圏の民間では逆に尊敬されるそうである(一部、観光客などには気さくに振る舞う者もいるそう)。それはともかく、そういった在家信者などに食料や寺院の寄進といった施しを受けるとともに、釈尊や諸々の比丘は法の施しを行う。しかし、食料や寺院の寄進の対価として法を施すものではない。法施とは、ただ人々に慈悲の教化を行う目的にあり、そうして結果的・副次的に在家信者からの物質的恩恵がある。私もまた可能な限り如法に生きて説法・教化を続けて参り、万象の恩恵に対する感謝を絶やさないことで貪欲さを減衰して精進する。

・社会を厭うにしても、宗教に転がり込んでかえって信者を餌にする俗物にコキを使われてはならないし、そんな俗物になってもならない。事情や魂胆はともかく、宗教の教団もまた金銭に執着している。現今の宗教団体は悉く文明の支配下に生きねばならない上に、新興宗教も伝統宗派も様々な理由で経済苦に喘ぐ教団もあれば、富を貪って利益を追求する教団もある。多くの信者は寄付・布施・供養といって何らかの金銭を恵む。それらは純粋に教団の興隆を願ったり信仰・研鑽ができる生活の感謝したり、といった心からされる寄付もあれば、空想の御利益を求めたり教団幹部を恐れたりするなどの不純な寄付もある。こういったしがらみ(不自由)を厭ってこその仏教であろう。特に出家者はみなそうあらねばならない。無論、前者の寄付を行える立場の在家信者は、そのままそうして教団に従うままでいる方が良い場合もあるし、これは強制するものでもない。元々そうである者に対してそのままで良いと言えるが、元々そうでない私のような教団未所属の者(講義の無宗教者)は、よほど気を許せる理解を得ない限り、教団や宗派や宗教施設に転がり込む必要はない。

・なまじカルト教団に入ったり、なまじ宗教を学んだために、宗教を排除する思想や、宗教を極度に嫌う潔癖思想を持つ人間を見て、私は「脱宗教・順宗教」と説く。感情は人の考えを振子のように動かす。意業は重いからこそ、清浄な仏教の思考によって制御する。現代的で極端な二分思考の弊害が、こういった宗教嫌いor教団所属者(カルト構成員)という二択以外の選択肢を排除する視野狭窄を生んでしまう。観るほどに私は、どこまでも、須らく中道なるべしと思う。近代的合理主義系の思想は左派であり、共産主義は極左と言われ、いずれも宗教に否定的であるが、この際、宗教を嫌う者は中道ならざる極左思考によって宗教廃絶を使命に掲げて生きてほしい(極右・ナショナリズムも既成宗教を邪魔ものとして敬遠する場合があるが民心の統制に利用できる場合は大いに利用する)。中国共産党やマルクス思想入門の手引きとなる私の記事をご覧になりたい(宗教廃絶など空理空論の共産主義革命には不可能だが)。上流気取りの中立思想(国連・EU・西側の民主主義国家などの意向)を重んじたい者は、せめて文化の多様性の観点によって旧来の宗教を尊重する心がけは必要である。

・二分思考の典型例は「我々の宗教を信じれば天国・我々以外の宗教を信じたり我々の宗教を信じなければ地獄」という教義である。社会面も同じことである。「成功・失敗」、「(仏教用語ではない意味の)成功して出世したい・失敗したら自殺する」、といったような二極の選択肢しか許されないならば、人類総ロボット化して超効率化社会を実現するか、いっそのこと絶滅する、二極の選択肢こそが正しい。そのどちらもが現代的な合理主義(かつは資本主義、かつは共産主義、かつは虚無主義)においては幸福の社会であろう。しかし、それは9割方の人間が肯定しない。なぜならば、ごく一部の例外を除き、人間には心がある。故に私は「脱社会・順社会」と説く。こう理解して実践する者は、社会を超越した「超社会(および超宗教)」の境地とも言える。釈尊はまさにそのようなお方である。私のような生い立ちで正気を保っている者こそ、まず社会と宗教を脱しつつ、尊重も行える「超社会・超宗教」の立場となってほしいと考える。そして愚昧なる民衆(自ら迷い苦しんで他人と諍い争う人々)に、二分思考を克服させる説法・教化に生きてもらいたい。

・「社会主義」とは、社会が人々に対して社会の理想を認めさせる立場にあり、これは現代日本に生きている小中学生ならば思い浮かべる「エリートを多く育てて無駄な政党とか政治家を省いたまともな奴が政治家になって支配すればよい」という、少し無理のある思想である。それは全体主義ともいうが、宗教の教団にも、そういった一宗教団体の理想を配下の信者に強制してその通り動かすものがある。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は社会主義(金日成主体思想)の国であるが、彼らは金一族の偶像やマスゲームなどで民衆を鼓舞して統制するように、こういった宗教団体も、何らかの信仰対象を旗印とし、集会で軍歌っぽい教団の歌を流して躍らせたり、大規模な集会でどこか無機質な印象を覚えるショーを行う。この話は仏教の思想とあまり関係のない社会学や社会科学などの学問的な考察となってしまうが、このように社会性を強めるとカルト教団同然となり、宗教を教団の枠組みで鼓舞すると社会主義のような全体主義体制に変わるという、少し考えればすぐ分かるような話を垂れた。「社会即宗教論」では中華人民共和国の共産主義・マルクス主義(正しくは毛沢東思想)を例にとって詳述している。今の日本は、社会主義と逆の立場にある「民主主義」の体制であるが、ともすると今の日本人は社会の妄執を強くして、人権尊重に欠けた思考を大人になるまでに強くしてしまう。それが当たり前の共通認識となっている現代の日本社会は、民主主義や自由主義が転がった、民主型の社会主義となっている。従来の社会主義は、為政者・政府の理想を下層の民衆に認めさせていたのに、今の日本は民主的なために民衆が民衆に社会的理想を強制し、それから逸脱するだけで「異物・異端者」とみなす風潮がある。日本から「和」の思想が死んで同化強制・同調圧力という「同」の悪に生まれ変わろうとしている。そうして日本も世界も滅ぶ。



起草日: 20161001
この記事における「賢者」の立場を補足する目的
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/10/heretical-dogmas.html

日本の伝統宗派(出家)と日本の新興宗教(在家)の二元対立によって醜い罵り合いや粉飾を行う現象に関して2015年5月10日5時に少々述べた追記欄が過去記事にある。

出家して山に入る行為について、ことに別の宗派を批判する側が「叡山(など)に篭って修行しても侘しい・空しいだけ」、「社会から隔絶された山寺(各宗の本山寺院など)」と嘲ったり、「社会から逃避して修行」とまで蔑んだりもする。一方の出家・寺院・宗派としては、ホームページなどで「社会貢献」を強調することもある。片や出家の反社会性や脱社会性をあげつらい、片や非難された劣等感を糊塗している。

対して、その前者としての立場が強い某在家教団も、一般世間から反社会的カルトと非難される。宗教同士で「アレは邪教だ」と烙印を押しあうことは順当だが、社会性を持ち出す論は詭弁的。意見や立場が異なって対立すると結果的には低劣な争いで同化しちゃう真理だろう。宗教家が「感情」の中の「三毒」や「大罪」に振り回されるとは、色々と失望する。

結局、宗教に社会性を云々するのもアレであるし、真面目に修行をすればよいと思う。れっきとした犯罪行為ともなれば、法治国家のもとにおいて問題視されようとも、その範疇でなければ問うべきでなかろう。ことに「出家」であれば、否、「出家」だからこそ社会の趨勢に敢えて迎合する道理はない。2000年以上前のネパール寄りのインドでは、街を去り山に篭ることが美徳だったはずだ。

仏教とは、社会貢献だとかを強調するわけでなく、反社会的行為をするものでもなければ、利益に執着する俗物宗教などでもなく、先に示したような中道の立場にある。
多少、態度が人々に対して不遜になる面はあっても、先に示した通り、関与する人や全ての事物に感謝をしている(理論上は)。
二元対立の迷妄に喘ぐ彼らは、「いわゆるコンプレックス」と呼ばれる妄執に囚われて解脱に遠い上に、中道の境地からも極めて遠い外道の狂人のように思えてならないが、私がそう非難して良いはずもない。
出家も在家も、本来はそういった「相互依存」とか「お互い様」を理解して共存するものであろうに、今更そんな議論など、それこそ仏教に反していると自覚してほしい。

なまじ社会から逸脱しているという妄執を自分に重ねた宗教者が、そのようにかえって「自分は社会になじんでいて逸脱していない!」という感情を潜ませて社会性を強調する。
それは自尊でも矜持でもなんでもない欺瞞・粉飾・糊塗であり、多くの宗教団体はこの迷妄・苦境に陥っている。
社会からの逸脱であるかどうかなど、宗教(教義)にとって本来は関係が無い上に、それを糊塗するために煩うなどは、それこそ宗教の道を逸脱している。
だから「脱社会しかし順社会」として、共存共生の立場を取りつつも、同化する必要は無いと私は言う(優越感も劣等感も未練も執着も卑しい感情に因り、自他を悩ませる悪業となるから超越・超克せよ、と言う)。

※今は超克した立場によってこのような記事が書ける。今まではくだらない論争に意義を挟むと自分も同化しかねないからこのような話題の記事を避けたり、少し言及する程度に留めていた。今ではさほど気にせず、忌憚なく、こういった記事を書く必要を感じる。

およそ、宗教の教義はあらゆる人々を受け入れて救いの道を示しており、仏教はその最たるものだが、現今の宗教団体はかえって偽善を強調して人々を形だけ集めようとしつつ、大事なところでは門扉を狭めているのではなかろうか。
それで世人や在家教団から、疎ましく思われ、時代錯誤とか封建的とか社会逸脱とか社会隔絶とかとレッテルを貼られ、変な自覚を持つため、そのような欺瞞・粉飾・糊塗に徹している。
現今の宗教団体がどんな体制で社会への迎合を誓おうとも、どう続けられようとも、組織や組織的対立に無縁(広義の無宗教)の私には構わないが、そういった両極の主張「社会貢献 or 社会逸脱」のどちらかが宗教の教義そのものに見られてしまう事態は憂慮せざるを得ない(やはり中道・中立・中庸であってそもそも社会云々を重視することが本末転倒であり、あえていえば脱社会・順社会とするしかない)。
私としては、最も門が開かれた仏教を、特にそういった「コンプレックスなるもの」が強い人々に弘め、是非とも妄執からの解脱を期している。

宗教がらみの論争だと、「在日○○宗教」とか、争い合う相手側の首脳を「在日○○人」だとかとレッテル貼りを行ったり、著名な宗教家に医師免許も無く精神病(精神分裂云々)の診断を行う者も多いが、もはや宗教でも何でもなく、特にネットのものだと最初から宗教当事者を交えないで無宗教の者が好き勝手に言っている場合の方が多い。
そこまで来ると、仏教にも哲学にも暗く、人権思想という世俗の方面にすらも無知な者が、モラル無く悪罵しているような、禽獣か修羅の議場である。

もう一点言いたいことは、その「コンプレックスなるもの」が強い宗教団体が「理想のシャカイ」などと喧伝して挙句、終末思想を自ら具現化する例がある。
宗教団体でない個人的な仏教独学者も、にわかに「(経済的な)理想社会」云々とのたまう
そんなものは「順社会」の姿勢ではなく、その「コンプレックスなるもの」の所業である。
「健やかな布教活動に勤しむ中で社会が清浄になる」という副次的結果を望むならばまだしも、なぜ自ら変革を起こそうと画策するか?
共産主義・独裁主義・全体主義の者の革命思想そのものであり、穏健な仏教徒の発想ではない。
私は、私の説法・教化で「落穂拾い」が一つでも多く叶う結果を、仄かに願うのみである。


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