2015年10月13日火曜日

虚無思想と二分思考を克服する仏教

【分けた末が二極収斂】

知能は、"分ける"ことと"分かつ"ことにより"分かる"状態を得る。
第一に己の肉体の連続性から自他を分かち、自分の存在を確認する。
それを元に、他人から「あなた」と示されることで、相対的な自分の立場を知る。
他にもまた多くの分類が存在する。
生物か物体か無形の事象か、生物なら動物か植物か、どちらであっても多くの種族が存在する。
ここにまた、自他とは何かという話題が戻り、それでは便宜上"他"とされた分類のどこかに自分は属するものか。

ここで、限りなく存在し複雑に絡み合う自他、他と他の境界を、一色に塗りつぶす概念が現れる。
それは、人間的な思考・観念の中で生み出された分類も、境界も概念も全て、その中の存在でしかなく、それが本源的な存在ではないとする、"無"の概念である。
そういった、万物万象が無意味であるとした見解が中心的な思想を「虚無思想」と言う。

あるいは、神と称される何らかの「超越的な存在」に支配され、個々の自立的な存在などが無ければ、操られさえしていて、その超越的な存在の意思で全てが動いているであるとか、と考える思考もある。
これを宗教的には、「善悪の行動も人の禍福も、全て神の思し召し、みはたらきである」といった信仰上からの主張もあるのだが、上記の思考の限りではない。
更に、上記の思考における"神のような何か"があまりにも超越的であるから、それ自体の実否、というと「"神のような何か"も、"無"ではないのか?」、という点を問わない。
また、その"神"も"無"も人間の観念の中にのみ有って、砕いて言えば「神も無も"無"である」、といった結論も出さない。

ここでは、時折そういった「虚無」、もしくは"無"と神のような何かのみが有り得る「二分」の思考などが如何にして発生するか、という過程の説明をした。
この段落は、読みづらくなったために理解不十分のままの人もいるであろうが、以下を読み続けると幾分は解けてくるはずである。



【虚無と魔障の二分】

続いて、その"自"も"他"も無く、全ては"無"と"神"、そこに怒りのテイストが加わり、"無為の存在"と"魔の性質"といった更なる思想について、自分が時折思うことを話したい。
状況によるが、悲しみと怒りに駆られる時には「この世はほとんど"無"で、無にあらざるものは"魔"である」と考えたくなってしまう。
半ば投げやりであるし、本気でそのように信じ込みはしないものだが、普段から「魔」による障りが必ずあろうことは信じている。

本来の意味は後述するが、ここでの"魔"とは、ある時は人の心を蕩かし、ある時は道理でない状態を作って人を惑わし、あるいは苦しめるが、その手段は主に人の心を操って行動させるなどがある。
魔が、当人を苦しめる目的で操る場合はあるが、私は魔に操られるのではなく、常に同じ家に居る母親などを操って、私に危害を加える。
また、母親などでなくとも、母別居中で永く一緒には住んでいなかった小5から中2不登校までの学生時代においては、同級生であるとかが私の発言の揚げ足取り・曲解などによって公然と私を貶めるなどは非常に多くあり、当時は"魔"と思わずとも、有象無象のようには思っていた。



【エゴセントリズム小学生】


一方、そのことは措いても、小学生の時は自分だけ神でも無でもどちらでもない特別な存在だと考えることがあった。
不老不死も自分に限っては有り得るのではないか、とさえ感じた。
なぜ自分だけ自分の感覚を持ち、また周りに動く人間は機械であるとか、彼らは本当の感情を持っていないのではないか、といったところから、公然と人を殺し、警察に捕まって、あるいはリンチとしての暴行や惨い拷問を受けるとも、決して死には至らない気がした。

今の私は、それを「哲学上のエゴセントリズム」と呼ぶ。
自分を前提として、世界が誕生・維持・滅亡へ至るといった思想となり、現状、誰もが否定しえる余地は無い、珍理論である。
自分の誕生によって、親も自分以外の生命も宇宙も歴史も全て既成事実であるかの如く作られ、自分が死ぬと全ても滅ぶという思想があったし、誰かしらそう考え付くこともあるのではないか。
あるいはそれが転じて、どこかの誰かさんこそが、この段落における「自分」のような特別な存在であるかもしれない、とも考えた。
この発想では、その「誰かさん」を基準とすると「1秒前に世界が誕生した」と考えても否定できなくなるし、世界の誕生を0.1秒、0.0001秒など刹那の時まで求めてもキリが無くなる。

それでは逆に、自分を特別な存在と仮定したまま、死後があるとすれば・・・ここまで死を恐れるあまりの思考であり、ここからも同様である。
自分は苦しまず安楽にして息絶えるか、魂が俄かに離脱するか肉体が転移するかの後に、自分は間違いなく天国へ行けるか、別世界に帰還して神の一員として祝福を受ける・・・どうしても、苦しんで死ぬという微少ながら厳然としている事実は恐ろしかった。
努力が報われずに死ぬような悲観的現実を私が見て、そう死ぬ人々が自我意識を有するならばそのままに救われるための道を開きたかったかもしれない。

小学生の当時でさえ苦しい思いを続けていたり、過去にも書いたが、あの小5母別居以降に広い家で一人ぼっちの時間は、「誰かに監視されているつもり」で独り言を続けていた。
その誰か分からない者は、霊界や冥界のような場所と、この自分の近くに覗き穴か何かを開いて、常に監視をしているのではないか、と日々思いつつ、畏れながら不善を為すこともあった。
だが、自分の苦しみは監視者に評価され、死後祝福を受けよう、と。

今の私は、こういった「エゴセントリズム」的な思想から、流石に脱却して滅却した。
私の現在学んでいる分野に、そういった思想が無ければ、そのようなことを本気で信じてしまうのは、その分野の義に大きく反してしまうであろうから。
よって、ここからその分野の思想に並行して、「虚無思想(虚無主義、ニヒリズム)」と「虚無魔障の二分思考」というものを突破したい。



【諸々の謬見を仏法により破る】

仏法は、迷妄の苦悩を智慧に変える。
あらゆる濁りの多い世間で最も高徳にして清浄なる教えこそが仏法である。
仏法こそが、虚無思想も二分思考も、木端微塵に摧くであろう。

二分思考の例として、常見・断見に代表される極端な思想を嫌い、何事も中庸の立場で説く。
「常見」というのは、一般的に「霊魂・精神体の不滅」などを指すほか、先述の小学生の頃などに見られた「エゴセントリズム」も含まれ、死を恐れるあまりの邪見を指す。
「断見」というのも、誰もが時折「どうせみんな死ぬんだ!」と自暴自棄になってしまう・・・そう極端でもないだろうが、「人や生物は必ず死ぬ」という認識を悪しく弄して、この世の価値を濫りに喪失し、厭世的・頽廃的(ペシミズム・デカダンス)になったりする見解などが当たる。
また、「エゴセントリズム」の基準を他人に置き換えた際の思考はキリがない通り、自己を基準としても他人を基準としても、またはどの人間でもない基準を設けても答えが得られるはずもない「戯論」と一蹴される(空間は無量無辺・時間は無始無終という言葉が端的な理解である)。

こういった極端な思想や、様々な分野での二分的な思考は、仏法を学ぶ修行によって改善する。
現世における正しい思考能力と高潔な精神が備わり、後生も報われることとなろう。



仏法では"空"の原理を説く。
これはインドから古い中国に伝える際、まず理解されがたいため、格義仏教での理解は、道教の老荘思想における「無」、すなわち前述の「虚無」に置き換えた方便が伝わり、弘まったことがある(時期としては中論などが漢語に翻訳される5世紀までか)。
サンスクリット語では「シューニヤ(形容詞)・シューニヤター(名詞)」と言って数字の"0"の呼び名でもあったし、虚無主義の英語ニヒリズムの「ニヒル」もラテン語で数字の"0"の呼び名であったから、単語そのものは空も虚無も同義であったかもしれない。
だが、仏教の"空"が示す意味は"虚無"の理解と異なる。

金剛般若波羅蜜経の偈には「一切有爲法 如夢幻泡影 如露亦如電 應作如是觀」と説かれ、また涅槃経の偈では有名な「諸行無常」の一句が見える。
これは、単なる儚さと虚しさを説くものではなく、「全ての物事が泡や影、露や雷のように消えやすく短い時間の存在である」と、その姿形を長く留められない現世の有様を説いている。
仮の象形でしかないから、この世の事物に執着してはならず、未練を残してはならない、と。
だからこそ仏教では、永遠に崩れない幸福の生命を得るための修行をして、この現世、輪廻を続ける三界や六道から解脱を得んとするのである。
三界の中の六道に生まれて、仮の宿りに執着して未練を残すと、それが解脱の障礙(妨げ)となる。
よって、仮の象形として"空"を説いても、全くの無、ということを真理としては説いていない。
金剛経の偈と、有名な般若心経の「色即是空」を会通すると「色=一切の有爲法 即是(すなわちこれ) 空=夢幻や泡や影や、(朝日の前の)露、雷のごとし」と言え、互いに同義である。

隠棲修行者は、常に記録と観想とを続け、皮相的な仮相を詳らかに把握して、仏法を学ぶことによる研鑽で先達の智慧を知悉し、諸仏に連なる解脱を目指す。
その"空"と表され、夢と幻と泡と影と露と雷のような仮初めで短い一生のうちにも、諸々の欲望と執着を離れ、多くの功徳を積み、解脱せんと願いながら、修行を続ける。



次に、"魔"という性質についてだが、仏教においては修行者を困惑させる存在として説かれる。
単に、当人の煩悩や慢心に付け入って誑かすパターンがあるほか、当人の心と力が強く(堅固)て直接干渉できない場合は、魔が他人の身に入って操り、当人を惑わすものもある。
ただ、その魔の試練を忍従することによって積まれる徳もある。
仏教の説話において、そういった魔が誰かの姿を以って修行者の前に現れて、当人の根性を試すものがある。
何事も「魔である」と割り切って、動揺せず翻弄されぬ定力を備えれば、程度の差はあれ耐え抜くことができるものの、本当にその精神を持続させるのは困難である。
ましてや死ぬまで仏法の精神を貫くことは容易いことではない。
ここに、仏道修行者が現世において道を修める上での肝心がある。




当記事の原案は、10月2日の某所投稿である。
迷える私、仏法より解いて導く私、二人の私が対話しているようなものである。
より背景を言うと、10月2日の日記メモであり、これは来月投稿予定のまとめ記事に載る。

また、当記事は後日投稿予定の「研鑽連盟問答要項」の内容と幾分疎通する点がある。
当該記事の下書きは、大筋が9月末に出来ている。

一方、この記事は10月11日から執筆を始めた。
近頃の学術的メモ帳記事の中では、急ごしらえの方である。


0 件のコメント:

コメントを投稿

当ブログのコメント欄は、読者から、当ブログ記事の誤字・脱字の報告や、記事の話題に関する建設的な提案がされる、との期待で解放されていました。
しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。