2014年12月31日水曜日

寵愛者「子羊らい○」に学ぶメタル道 "The Anecdote of Hubris by Amadeus"

寵愛者による叛逆の逸話

らい○ちゃんはロック・V系と称し、メタルを好んで作曲していたが、音楽制作が板に付くと漸次メタルを離れ、異なるジャンルばかりを手掛けだす。
果てに「臭いメタルばっかり作っていた」などと軽蔑し、その後、諸事情で引退「幸せです」と言い残してシーンを去った。
この作曲活動引退とは、メタル誹謗を許し給わぬメタル神の厳然たる御裁断に他ならぬ。
彼女の、楽才の渇望に応えあそばし、無上の才を授け給うたメタル神だが、寵愛者の不知恩たる叛逆に悲憤あそばした。
彼女はネット遺言のち、メタル冥界に召喚され、メタル閻魔に裁かれた。

-The Wrathful Deity-

ここに下った判決は、凄絶且つ彼女の罪過を鑑みて順当なものであった。
執行は血腥さと死臭の漂う地下の拷問部屋で、メタル神立会いのもとされる。
冥府魔道を地で行く惨憺たる様相の冥罰。
らい○さんは神の愛を知って多幸感を得たことを誓い、神は喜悦あそばした。

メタラーは、メタル神に「求めれば与えられる」信義の下、渇仰せよ。
メタル神の尊き御名を称えよ。
寵愛者、子羊らい○を弔え。
鎮魂詠唱「願わくは夭折した殉教の聖女に安息のあらんことを」

-Requiem Aeternam-

Amadeus來○のHubris 「謗るまじ仮令ひメタルに厭きたとて汝メタルに背かば死なむ」
Augustinus dixit "Non enim amat Deus damnare sed salvare."


補足

12月29日、リアルのメモ帳に書いた情報を転載した。
原案は、ブルータルデスメタルばりの拷問を詳らかに綴った10月13日の記事である。
紙に書くことがPCでの編集より難しい点とは、書き終えた場所を訂正する際、文字列が乱れたりすることだ。
後から綺麗に訂正したくても消しゴムで後の既述全消し後、書き直す必要がある。
だが私はこの点も充分に打破できた。
しっかり脳内で整理して書くことで、この問題は予防できる。

PCでのテキスト編集の利便性を享受しすぎると、こちらの技能が緩慢になるため、紙で訓練。
学校で、教師が黒板に書いたことをノートに移すことよりずっと高度な作業だ。
困難の最たるは、字を書く枠が定まった原稿用紙等で論文や文学を綴ることだろう。


今様讃歌「汝鋼道本懐たれ」

神の力を 仰ぎたる
時こそまさに 神は笑め
尊き御名を 称えれば
無上の才を 授からん

アマデウス殉じ 喜ぶは
神の殺めを 受けし故
アマデウスの死を 弔えば
誓いの心 固まりき

不退転なる 信鋼を
身命惜しまぬ 練鋼を
汝鋼道 本懐たれ
汝鋼道 本懐たれ

(ところで、称えるべき御名って?→信仰の根本、南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経みたいなものだが、悟り得ず=勉強不足の今は難しい、「デウス・メタルム"Deus Metallum"」か「デウス・メタリー"Deus Metalli"」か「メタロテオス"Metallotheos /μέταλλοθεος"」だろう。メタルをテオーシス。単にメタルと呼ぶだけでも神性=テイオテースが光る)


寵愛者の作曲歴

2008年10月、17歳で某サイト上の作曲に参戦。
2009年から交流サイト上でロック系以外の楽曲投稿頻度が増える。
2010年にもなれば、よりその傾向が強まるにしたがい、(ロック系離れを直接の原因としない)中傷が外部サイトで増える。
2010年半ばに当該サイトから失踪し、ニコニコ動画への投稿を始める。
2010年末に当該サイトで復活するも、年が明けて一月の間に去る。
2011年4月末、ニコニコ動画上で「幸せです」と言い残して引退し、行方不明。

晩年=2011年にも彼女は両サイトにて気丈に振舞っては、音楽活動を続けたものの、所詮メタルを作らざれば、それは崩壊寸前の虚勢=風前の灯に過ぎなかった。
「臭いメタルばっか作ってた」と自供したことがメタル神の逆鱗に触れて、一週間の猶予後、8日目に冥界に召喚される折で「幸せ引退」を告げたのだろう。
我々はそんな彼女の死を弔うことで、これを教訓に己を戒め、神への誓願を胸に、前を見据えて作曲に勤しまねばならない。

一方、その当該サイト乃至前身サイト時代から実に2012年8月までの約7年間、メタル作曲に心血を注いだ現在37歳のオヤジについても今後触れたい。
だが、宗教的なテイストをいかに混ぜ込むかが課題である現状、構想が固まらない。


2014年12月28日日曜日

戦局の急な終幕"Deus Ex Machina"とその伏線

ある小説を読んでいて、この表題にあたるシーンといえば、まずは「主人公がふとしたことから敵軍の5本指に入る強者と対峙していたが、歯が立たず、己の使える技で最も強力な『雷霆』の技を行使しても尚、傷一つどころか衣服への損傷さえ与えられない上に、その敵に一方的に弄ばれ、『慈悲』を口実に主人公と傍らの人を上級魔法で殺めようとした刹那、強力な第三者の気配に恐れ戦き、その敵は遁走する」シーンだ。

これについてはその伏線が未然に張られており、突如現れた第三者とは世界の魔力を監視する人間界筆頭の賢者であるが、このシーンよりずっと前に、敵自身の口でこう告げている。
「こちらが強力な魔法を使うと、厄介な方々に察知される」ということなのに、前言撤回のごとく慢心から上級魔法を振り翳そうとして、失敗したのであった。
なお、この戦闘の発端は、主人公ではなく「傍らの人」がこの敵の魔法から逃れてる際、バッタリとこの主人公に邂逅し、共に行動を始めたら行く先の移動魔法陣が作動して、別の戦場(敵曰く、戦場ならぬ「墓場」)へ飛ばされることになったのだ。



他のシーンだと「敵軍の幹部格の強者から剣の手合わせを申し入れられ、受けたのだが、全く太刀打ちできず、敵に本気を出すよう煽られて、禁忌の『赫灼』の力で闘気を漲らせて、腕が拮抗したところで第三者の介入がある。その者はその敵の忌んでいる(?)存在らしいが、その者には顔をも覆い尽くす重装備の敵を見ても誰か判らず、こんな巡り合わせで敵は遁走する」シーンだ。

このシーンは、実のところ「その者とその敵」が過去に何があったか、どういう関係だったかが未だ明かされてない上、その敵自体、その外見と同じく謎に包まれた存在のままだ。
この敵が戦線を離脱する際に、主人公はこんな半端な終わり方より、どうしても勝敗を決したかったが、それは叶わず力なく倒れた。
それはその「禁忌の『赫灼』の力」によって抑えられていた疲労感がどっと押し寄せたこと。
なお、この第三者様は、直前に主人公が訪れた店の店主なのだが、主人公が購入品等を放置しながら唐突に店を抜け出していったため、それを直接届けに来てこの戦場に躍り出た。
主人公が店を抜け出した理由は、この戦場となった場所に一旦戻らねばならぬ事情があったこと、並びにそこにその敵が居合わせたのも、逆に主人公と会いたかったからである。
これについてもそういう伏線が未然に張られていたことになる。



このように2例、表題の例を挙げておいた。
これを"Deus Ex Machina (デウス・エクス・マキナ)"という。
解決が困難そうな事態に、あたかも神が救いの手を差し伸べるような解決方法で収束させる。
端的に言えば「ありえない理不尽な切り上げ方」を指す手法だ。
同時に、表題の通り、2例ともそのデウス(ry発動に伏線を敷いている。

この小説だと、平常の世界であれば、1例目の「厄介な方=人間界筆頭の賢者」が高度な移動魔法を用いてその場に舞い降りるだけで、何でも解決できそうだね。
もちろん、それなら最初から敵軍そのものも壊滅できるが、やはりその既存の強者の他に、迷える下々の者たちの間で、新しい強者を生ませたいのだろうね。
尚且つ、「人間界筆頭」がみだりに動き回ると、敵軍も強い警戒を持つか、先に強力な一手を下されちゃうし、迂闊に動けないんだよね。
きっとそういう、表面張力にも似たような事情がある。

この小説では敵陣営が異次元空間にあるんじゃないかと考えてしまうのだが、表向きの根城は魔王の降臨と同時に隆起した地の最高峰、常人に到達不能な場所に居を構えている。
もちろんそれ以前に魔王なる者がどこに潜んでいたかというのは未だ不明。
先述の通り、その賢者サマなら難なく到達できそうだが、やはり踏み入ることが憚られるのか。
この小説はその他、そんなチート級キャラが敵味方問わず複数いるが、迂闊に出張るわけにもいかないようで、ひっそりとした動向が多い。
魔王がその気になればすぐ世界を滅ぼせるが、それをしない理由もあるし、その賢者はじめ「厄介な方々」が徒党を組んで挑めば、敵の軍勢を瓦解せしめられるが、それをしない。



何にせよ、現状は主人公らが窮地に陥っても死することはないと見られるが、まあもう2年以上更新されてない小説に、ストーリーの「現状」を問うのがそもそもの誤りかもしれない。
なので勝手に勉強に使わせてもらっているよ、という私だった。

言語訓練の観点でも、実に興味深い横文字も連発してるが、例えば英語はもちろん、ギリシャ語然としたもの、ラテン語、ドイツ語など・・・
これらは言語学的に分析したくなるし、実際に昨日12月27日は色々調べ漁っていた。
それらの用語は元ネタありきなのか、また、本人の言語知識による造語かという考察。
舞台により北欧やエジプトの神話由来の単語も頻出し、後世の言語との類似性(ギリシャ語なら古代エジプトの言語、ドイツ語なら北欧の古ノルド語などと似ている)も知ることが出来た。
今、判明している類似性は語彙"vocabulary"レベルなんだけどね。



オマケ 某小説作者の情報
・2012年10月21日の更新を最後に小説の更新を放置
・2013年7月31日にサイト付属の掲示板での返信を以て生存確認なし
・サイトと掲示板以外の活動サイト未確認(HP普及時代に栄えた登録制検索エンジンサイトやアクセスランキングサイトくらいしか見当たらず)



2014年12月27日土曜日

母親が「しんぶん赤旗」を購読し始めた

先の総選挙を受けてか、今月・12月半ばより私の母は日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」を購読し始めた。
この新聞が家に届いてる事実を知った当初は「聖教新聞のようなものか」などと思いもした。
実際に、2011年中は聖教新聞が我が家に投函されたこともある(余談だが、中3ネトウヨ期2011年7月14日にこれを紹介する動画をニコニコに投稿した・削除済み)。
よって、近所の共産党支持者が同じように近所一帯へ配布してるのだろうと考えた。
しかし、そんな憶測も次第に薄れた。

一度や二度でなく、一週間以上も届けられてるからである。
それに、一週間待たずとも、3度目の配達時に早朝起きていた私は、室内から配達の様子をこの目で見たのであったが、なんと乗用車での配達なため、やはり全国疎らな新聞の輸送拠点から車で送ってる、逆に言えば近所に住まう人間でもないことになる。
よって、その3度目の配達の時、私は既に、母が「しんぶん赤旗」を購読していると確信した。
ついでにいえば、この通り母は日曜版ではなく、日刊紙の方を取っていると書きたい。


【母の政治観は謎】


まず、私の母は先の総選挙でこの豊橋の選挙区「愛知県第15区」の候補者の内、誰に投票したか、そもそも選挙の投票に臨んだのかさえ与り知らない。
だが私は当人に聞く気概を持ち合わせていない。

この豊橋の選挙区では、私の予て思った通りに「自民党の根本さん」が当選した。
期間中のある朝に私が散歩している際、根本氏の応援選挙カーと偶然すれ違ったりもした。
女性が窓から手を差し出しながら通行人に「おはようございます」と挨拶を展開していた。
近づくにつれて、私も大声で仰々しく挨拶したい気持ちも山々であったが、終ぞなしえず。

我が家にも届いた当選挙区の選挙公報(?)の紙を見れば、この共産党は安倍政権・自公政権の政策への批判を主軸に選挙活動を展開していた。
アベノミクス云々について、「雇用が増えたという安倍ちゃんの主張のトリックは、非正規雇用が増えたに過ぎず、正社員は減っている」といった物が印象に残った。
これを見たとき、「顕○会も同じ主張してたなぁ」と思った私であった。
こういった野党的な切り込みに、恐らく感化されて母親はしんぶん赤旗の購読を決めたか。
あの母親の政治信条というのはいまいち掴めず、共産党についてどう認識を持ってるか。


【新聞購読の是非】


続いて思うことは、どこの新聞を取るのは好きにしても、実際にあの人が毎日読めるのか。
我が家の新聞購読歴は私の記憶だと、私が小2のあたりまで毎日新聞、続いて1年ほどが朝日新聞で(左派ばっかり)、それからは新聞を取らなくなって今に至っていた。
それは当然、小5母別居以降、父・母のいずれも新聞を取ってないことを意味する。
母別居~私が母宅へ移るまでの母や、私が父宅へ離れてからの父については知る由もなく。
この辺も本人から聞く気概は持ち合わせていない私であった。

新聞の購読動機も、その自公政権への猜疑心から共産党の主張に賛同して取り始めたのか、それとも読むつもりではなくて、新聞紙が何かの目的で必要だがコンビニ等で当日分を買うのに躊躇してるか、定期的に届かれないと必要な量が足りないか。
当然、読むつもりなくして購読してることはないだろうがね。
早朝に我が家へ届くが、仕事前にポストから取らずに仕事に行ってるようで、実際に家の中に新聞が入るのは、弟が学校帰り(冬休みの今は知らない)にポストから取り出してからだ。
この点を加味し、もし読んでないなら、相変わらずあの人が行動を起こす時の理想の持ちようと、起こしてからそれを果たせているか、その整合性が疑問でならない。


【結び】


結びになるが、結局どんな風の吹き回しで「しんぶん赤旗」を購読し始めたのか。
当の新聞は我が家の例からも鑑みて、先の総選挙以降は購読者数が急増中だ。
私の母親もやはり、この共産党による与党批判に、何かを感じた次第であったか。

といったわけで今回の記事は非常に稀な政治の話題が強めな記事となった。
とはいえ、そこは私らしく、身辺の話題も押し出されているが。
個性というのは、こういうものでしょ。
私がただ政治の話題だけごねてもつまらないし。
私としては政治の話題よりも、「新聞購読の是非」という日常テーマについて書いたつもりね。


ちなみに、「赤旗」をどうしても「せっき」と読んでしまうが、実際に戦前の非合法出版時代、いわくつきの頃は「せっき」と読ませていたらしい。
これを「せっき時代」という。「石器時代」じゃないよ。
「あかはた」って言うと、「アヲハタ」っていうジャムメーカーがあるよね。



追記:2015年6月
「社会即宗教論」という拙論文を執筆するにあたり、当記事にも追記が必要だ。
去る2015年3月に母親が赤旗を解約していたのだが、その動向の一つが3月7日にある。
一連の異常な様子を克明に記した記事の最後部に、その件を詳述している。
以下、母親が知らないことを綴った箇所を転載する。
俄かに、解散総選挙で与党批判した政党に憧れを懐くのはいいが、本来どういう政党か存じ上げないまま衝動的に購読を始めた愚鈍さが露見した。その機関紙も母親が望む方向ではなく、連日一面で扱われる話題は、若い頃に学生運動などでヤンチャしてた現在高齢の人らが中心に展開する、農協・労働関連の抗議と沖縄米軍基地移転関連の抗議であり、母親の関心などがあるはずもない。私としても物騒でしかないので、それらの殺伐とした話題は敬遠しているが。尚且つ、特定の政党を支持・批判する思想も持っていない。



2014年12月25日木曜日

自ら炊飯器でご飯を炊くようになって

私の主食は専らラーメンとご飯で、ご飯なら10月までは母親が買ってくれるサトウのご飯を食していたが、10月以降は不買宣言(リンク先追記欄)に伴って摂食量を抑えるように。
その不買宣言を受けて久しく、今は手元にどうにか6食分残してるが、今月からはいよいよ本格的に、読んで字の如く「自炊」を行い始めた。
もともと料理自体は母親作ったものはあまり口に入れたくない気分から、ラーメンなり簡単に調理していたわけであるし、そのお陰で今の私は太らずに済んでいる。

というのも、母親の別居以前(小5まで)は母料理の揚げ物ばっかり尚且つ菓子や炭酸飲料を今以上に摂っていたわけだからぽっちゃり体型、小4の8月まで同居していた弟2人もまた然り。
ところが弟2人が児童養護施設へ、私もほどなくして父と2人暮らしになってからはそんな状態からある程度離れられ・・・・・・
いつもみたくこっちの話題で記事のスペースが埋まるのを避けたいから、こちらを参照して理解されたし→http://masashi.doorblog.jp/archives/35738168.html
この話題の結び、弟2人が児童養護施設入所中の2008年末に私が同伴した姫路の母マンション遠征時に、彼らは施設帰りを拒否して母マンションに残ってからはみるみる太ったよ。
母親の料理を口に入れたくないというのは、太るか否かの問題ではないけどね。



本題への軌道修正をするが、継続的な自炊(純粋にご飯を炊く作業)をするようになってから、体調に何か変化があったかといえば、特には。
私の研鑽活動等の時間を幾分削る必要があるのは痛手である。

炊事の概要としては、いつかに私へ譲られた古い炊飯器(2005年製?)をあえて使わずに、母親が常用する比較的最近(2011年製)の炊飯器をこっそり使っている。
母親に気付かれないように使っていて、もう既に気付かれても特別咎めたりしてこず、容認しているのだろうか。
※マヌケな人だから、よもや気付いていないということも有り得る。
毎回自分が即・翌日分まで見据えて食す1合分しか炊かないが、最近は2合炊いたこともある。



今日12月25日は4時前にご飯を研ぎ始め、4時過ぎに炊いた。
いつもメニューで「エコ炊き」なる項目が選択されており、母親の思いでこうされてるから、無理にいじったりしないでいたが、今回は「極うま」なるものを選んで使用した。
少々炊飯時間に差異が生じる、後者のほうが些か長めだ。
実際の感覚として、炊飯器のスイッチを入れてから普段滅多に洗わない、私用の鍋や食器類を洗い終わった頃合にもまだ、目立った外見の変化が出てなかった。
そして炊き上がりの相違点だが、米粒の表面の粘り気は、後者の方が強めであった。

今回の炊飯は主にその時食うのではなく、保管して後々頂こうという意図で行った。
いざ、茶碗にご飯を盛ってラップを掛けようとした時。
そのサランラップが1回分にも満たない長さで途切れた。
即ち、最後の僅かなほどしか残っておらず、これで以てその分は使い切ったことになる。
なんたる不条理、私が使ったタイミングで残りの最後、それも何の役にも立たない、1回分にも満たない程度。
折角、俺が家計を慮って真面目に炊事してるのに、俺には何もするなというのか。

私がこの時に憤ったのは、上記の通り「私が使ったタイミングで使い切られた」ことよりも根本的なものがある為で、私が今日炊事したことを母親に覚られるためだ。
それでどういう問題があるかといえば、私が炊飯後の釜なり杓文字なりを勝手に洗えば、母親が私の洗い方に目くじらを立てそうだということ。
その他種々の問題もあるが、正に俺がラップを使い切ったことで憂慮しか沸かず。

すぐさま新しいサランラップをキッチン上部の棚(?)から取り出した。
1合の半分のご飯を盛った茶碗に掛け、残った1合の半分はラップでくるんだが、これについては平時のままに実行しただけである。
そして空となったラップの容器は、捨てずにキッチンに置いた。

これは、私の手法で処分して、それを見た母親の流儀に悖っている際に、本人の不興を買うことを避けたいという意図がある。
・・・ここまで文章を書いた6時過ぎ、私は結局この空のラップ容器を自分で処分した。
サランラップの刃、しなやかな金属製の刃の扱いには万全を期して、しかし私は半ば荒めに行った故、右手薬指あたりの皮を軽度に抉らせてしまった。

結局、厄介な不条理で一悶着の羽目になった。
それからも患部は、負傷部位はヒリヒリと痛む。
なぜ家計を慮る好青年が、こんな痛ましい思いを受けねばならない。
こういう不条理による洗礼など、至って不要だ。



2014年12月21日日曜日

金銭の工面、切実な問題。お金のことを考えたくない。

全くもって私はまだ17歳の青いガキで、金銭を案じる必要はないかも知れないのだが、今から将来は暗澹としていることは明白、というより明黒、暗黒。
金儲けの手段を模索する、そんな意思は毛頭なく。
例えば私の上の弟みたく「小遣い週に3000円じゃ不満で、金が欲しいからバイトしたい」などという貪欲さだって持ち得てはいない。
私は、中2不登校のあたりにアフィリエイトやFX・投資等、ネットで設けることを志したり、中3で実行して2ヶ月で自主撤退してみたり、中3末期~卒業後数ヶ月まで「バイト探さないとヤバイ」という何の計画性もない漠然とした焦燥だけが起きたりといった過去にさらされた。

まあ、その焦燥感こそが「全うな社会性」を現しているのかもしれないが。
だが、そんな「社会性」なぞは、とっくに己の思考から廃している。
そんな「社会性」で急かされても、結実しなかった今までの人生で熟知している。

というわけでお金のことは考えたくない、お金がなくてもやっていける術。
ずっと親元(愛知・母や埼玉・父)に住むとか、誰かに身寄りを求めるとかしかない。
我が豊橋・並びに故郷埼玉は南海トラフ地震や首都直下地震で強い揺れが観測されるであろう。
地震や災害云々は前回の記事でも書いたため、省略しておく。

私はどんな危機に瀕しようと、困窮に陥ろうと、金を稼ぐ気は毛頭ない。
これも「全うな社会性」を廃したこと、そのものになる。
暗中模索の如く、今この活動の最中に手がかりを掴めれば本望。
それに至らず瀕して窮するならば、死を受け入れられる強い精神が要される。
あるいは死を厭わない・厭えないほどの生物的な感情をも廃する必要がある。

前者の豪胆が元来備わってたら、今頃どんな人間になってることやら。
なのでこの生活の折、それを得ることは期待できない。
後者の場合はもはや抜け殻というものだ。灰身滅智ともいう。
なので、前者の豪胆を十分に得ずとも、死を恐れない精神・智慧を得ればよし。

これらを見ると、仏教の修行にも類似している。
部屋に籠もって三年、悟りを得る者は現れるか。
悟りを得た修行僧は、死を恐れないが、むざむざ死ぬこともない。
逞しく生きられる上に、死期が迫っても畏怖を懐かず、最期を受け入れる。
これは長寿の高齢者も似たような心境を持つので、「安らかに眠る」と言われる。

ある教団は、人生の目的を「仏道修行に励んで来世に渡る幸福の業を積んでいくこと」と説いており、その一貫で自ずと現世においても功徳、ご利益を与るとする。
生来無宗教の私は今、仏教なりキリスト教なりバラバラに好き勝手で学んでいる。
宗教とは互いを貶しあい、相容れないものなので、敬虔な信者の方々には無礼だろう。

・・・・・・宗教の話が過ぎるきらいがあるようだ。
お金の話をすれば、私の人生は金稼ぎの普遍的な手法を敬遠してるために、普遍的な生き方も忌避して、修行に打ち込んで悟りに近づくのが最善ではないか。
生半可なことでは到底無理かもしれない、だなんて言わせないよ。
髪を伸ばし続けることと同様、引きこもり生活によって徹底できる。
生来その道を授かった、「世俗の名利」とは無縁な境涯を先天的に与えられた。
これを自覚して揺るぎない修行をしようではないか。俺。

以前、ニート研鑽会の構想があったけど、今回は引きこもりの新宗教になるね。
端的に教義を、「世俗の名利」に溺れず、部屋に籠もって修行を続けて悟りを得る。
1年数ヶ月前の俺は変に自虐して、卑下慢状態だったし。


2014年12月20日土曜日

豊橋市の降雪記録、地理的特質・・・地震についても

豊橋市は県内でも雪が降らないor降っても積もるほどは降らない。
それは同じ渥美半島の田原市でも同じ(半島の西端はどう?)。
県内でも南に突出してる地域且つ、関東最南端より緯度が低い地域も多いため、本州太平洋側多くの都市で雪が降ったとしても、渥美半島は滅多に雪が降らないor降っても積もるほどは降らないわけだが、同じ本州で南に突出してる紀伊半島のことは詳しくない。

2014年12月は現在20日までに愛知県内平野部でも数度降雪があった。
特に18日は規模が大きかった。
もちろん、上述の通り豊橋等では降ることもなく(北部や県境の山間部では降ったの?)。
そこでこの記事では、私の近所における降雪記録を振り返る。


2011年4月18日に豊橋市の家へと移り住んだのだが、この年の1月はそこそこ積もったらしい。
2011-12年シーズンは不明。
2012年12月10日10時頃に降雪確認。
その時の記事→http://masashi.doorblog.jp/archives/21098197.html
その他の2012-13年シーズンは不明。
2014年2月7~9日、関東甲信での最初の大雪報道で私はそわそわした。
降らない降らないと嘆き続けたが、同月14日6時に降雪確認。
それらの一連の様子はこちら→http://masashi.doorblog.jp/archives/36292385.html
2014年末の今、上記、名古屋地域で降雪があっても、豊橋じゃ雨が冷たく降り頻るだけ。
12月18日は名古屋地域はもちろん、九州平野部でさえ降雪したのに。
※記事投稿日以降に積雪あれば、気付き次第、最下部に随時追記※


著しい積雪は交通の麻痺など社会の停滞をもたらすとされるが、通勤通学とは無縁の俺には逆に関東のごとく降ってくれる方がずっと楽しいものなのにね。
眺めるもよし、身を投じるもよし、掴んで固めて遊ぶもよし。
「少しくらい外に出てあげてもいいわよ」、という気になるのだがね。
俺が豊橋ではなく埼玉に残り続けていたら、疑心暗鬼な父親との二人暮らし&阿鼻叫喚ゴキブリの騒ぐ夏という2大不安要素があれど、前代未聞の豪雪の恩恵は受けられたね。


タイトルにて「地震」などとも銘打ったため、これについて触れる。
この県内でも異端な地理的特質を持つ豊橋ないし田原は南の沖を震源に大地震、とりわけ南海トラフ沖地震が発生した際に大津波が押し寄せることが想定される。
この防波堤たる渥美半島が名古屋方面の被害を緩和してくれることだろう。
なんとも不謹慎な言いようではある。

防波堤と化した豊橋でも、同じ市内でそれは南方沿岸部のみ、市街地に懸念は及ばず。
それは飽くまで私見だが、それがなぜそうと割り切るか解説しよう。
2013年の独自調査結果だが、あの一帯には海沿いに先人の手による盛り土がされており、今や北側の畑から眺めると海を隔て山にしか見えないほどである。
「山にしか見えない」と書いたが、これは実物を見たのではなく、その後の2014年に反映された現地ストリートビューから判断したのである。
実際にその光景は、まさかあの山のような丘陵を越えてすぐ海があるとは思わせない。
賢い先人たちが将来の大津波に備え、太平洋遠州灘沿いに現在の豊橋市域から旧赤羽根町付近まで丘陵地帯を設けたことにしみじみと感心する。

この海沿いの丘陵地帯はGoogle Earthを用いた2013年の独自調査結果によると、高いところで80m~100mにも及び、よしんば3.11時仙台級の津波が押し寄せたとしても、梅田川以北に広がる豊橋市街地に流れ込むことはないと断定する。
それは飽くまで南沖から流れてきた津波に対してそう断定するのであって、三河湾等別方位(豊橋が海に面してるのって西だけじゃん)からの襲撃は別問題。
だが西方から押し寄せた場合も、田原等の沿岸部埋立地が広大で、豊橋にも明海町があって多くは遮られる。
そうならずとも、あの一帯で地震の影響で立った波ならば、ほぼ恐れるに足らず。
仮に陸地へ流れてきても田園が広がってる場所まででほとんど奥には浸水せず。

豊橋市はここでも地理的特質を発揮したが、一部田原市や、仙台そっくりの湖西市・浜松市は大きく損害を被るハメになるかもしれない。
豊橋除く各地域も沿岸部に緑地帯があるが、丘陵ではなく防砂林・砂防林が関の山。
仙台沿岸部の震災前の空中写真にも、似たような林が見られた。
1984年→http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1165123


磐石な共同体の瓦解・・・ 抗えぬ大自然の脅威・・・




追記:2015年1月2日11時半
遊具 積雪 豊橋

1月2日の夜中に降雪、朝に止んで積雪が確認された。
朝8時過ぎ、風呂上りの私は急いで髪を乾かして服を着替え、「空き缶を捨てに行く」大義名分の下に外出
正月の朝とはいえ、車の通りが少ない。
公園にて写真を撮影、園内は大人しかおらず、17歳の私が最も若いようだ。
遊具の写真を撮ってPanoramioに投稿したが、私が気兼ねなく撮れるほど遊具エリアに人がいない。

私が確認した園内=遊具エリア・芝生広場に子供がいなかったし、近所でも子供のはしゃぎ声などがしないまま、時間が過ぎる。
数年ぶりのまともな積雪は、11時頃にもなると何事もなく溶けて消える。
折角の恵みを、蔑ろになさってはいかんぞよ。


2014年12月14日日曜日

古語の動詞で「い+ぬ」や「え+り」の発音ってどんな意味を持つの??

11月30日付けで投稿した記事を12月14日追記したこと(後掲)に端を発した疑問を、勉強で解決。

「斯く語りき」や「斯く語りぬ」や「斯く語れり」はそれぞれどう違いがあるのか。
以前、某教団の会歌「時ぞ来たりぬ」を「時ぞ来たれり」と誤って覚えたこともある。
この「れり」と「りぬ」ではどのような差異を生ぜしめるのか。
後述の解説を見れば、なぜ誤って覚えてしまったかは仕方がないことといえる。

「りぬ」もとい「いぬ"inu"」の発音は「風立ちぬ」などにも見られることは有名だ。
多くの人は「立ちぬ」という見慣れない表現に戸惑ったことだろう。
それでは、動詞に追随する「いぬ"inu"」、「えり"eri"」とは如何なる意味をその品詞に修飾するのか詳しく的確に書こう。


検索スキルを懸命に駆使して調べたところ、明確に判明することとなる。
ここでは端的に違いを表すので、詳しく知りたい方は記事中部の出典欄を参照。
「いぬ」は「完了」を修飾し、「えり」はその「完了」に対して「継続」をも含むらしい。
「時ぞ~」をなぜ誤って覚えてしまったか、それは偏に「完了の意味を含める共通点を持ち、更なるニュアンスこそ異なるが類義であるため仕方がない」と結論付けられる。
更に言うと、「い」や「え」は動詞に連用形を付与("え"の場合已然形も)するから、「ぬ」や「り」がそれに追随する、そういう風に取るのが正しいようだった。

「時ぞ来たりぬ」や「風立ちぬ」をはじめとする「いぬ」は「時が来た」ことと「風が立った」ことを完了している意味を持つ。
その為、「斯く語りき」と「斯く語りぬ」は意味はほぼ一緒なのだが、「いき"iki"」「いぬ"inu"」自体の使用範囲には差があり、「いき」は動詞・助動詞まで、「いぬ」は動詞のみ。
また、「咲く」という動詞を例に取ると、「咲きき」と「咲きぬ」なら「き」が連なる前者だと違和感を覚えるため、個人の好みという差で「咲きぬ」を取りたくなる。
ここらへんの価値観で使い分けをすることもできるが、「語りき」と「語りぬ」なら前者の方が聞き馴染むことや理解がしやすいとは思う。
これらも、使い手の好みや聞き手に対する配慮という機微で使い分けることになる。

・・・「我、是の如く聞きき」って思い切っているよね。


【出典・参考サイト】

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/intro/jodousi01.html#ab03
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13128104703


【詳細な記事背景】

でもまあ、「いぬ」の完了形の動詞が用いられてる名前で最も有名なのが、「風立ちぬ」だものね、現代では他にそもそも用法さえ知られないなら悲しいほど廃れた用法なのか。
また現代人、つい半年前の私もこの変化を知らなかった同類なのも悲しいことだ。
※古い用法だが、有名どころに「猛き者も終には滅びぬ」があるじゃないか!

この記事を書いたきっかけは冒頭にあるとおりだが、その過去記事はこちら。
http://lesbophilia.blogspot.jp/2014/11/blog-post_30.html
追記事項は「召喚詠唱」の段で、ラテン語の勉強をした最中に召喚詠唱追加を思い立ち、ラテン語の詠唱は聖歌の曲名が適任だったが、物足りない気持ちから日本語の前置きを付けようと考えて「輝きぬ」という言葉を別の言葉で検索した時に目に付いたからこれもその中に入れようとした。
その時、「輝きぬ・・・って、使い方はこの場合に相応しいのか?」と疑問に思い「時ぞ来たりぬ」や「風立ちぬ」などで知る「動詞連用形+ぬ」とは何なのか検索したのだ。
それで更なる疑問と共に、色々と学んで解決できたことが発端で記事を書いたのだった。

召喚詠唱「五濁悪世より離れ、寂光の園を築き給うた主の御稜威ぞ、此處に普く輝きぬ!」
"Veni Creator Spiritus!!"

「ぬしのみいつぞ ここにあまねく かがやきぬ」とは、7+7+5である。
こういった5文字 or 7文字のフレーズは和歌で応用できる。
このパートを川柳の五七五に無理やりすれば「ご威光ぞ ここに普く 輝けり」で良し。
※係助詞「ぞ」は最後が連体形でないといけない云々で「ぬ→ぬる」、「えり→える」が正しいという。「かがやきぬ」は字数的に「ひかりぬる」と訂正し、「輝けり」は「輝ける」と訂正するか・・・。

2014年12月11日木曜日

"手の届かないモノ"への空虚な夢想を断つ

私はこの頃、「最近のゲームの話題」を見ると嫌気が差す。
17歳といえば、まだまだゲーム盛りの年頃だし、今日日においては40歳前後でも現役のゲーマーが多くいる中、私はゲームの話題を敬遠している。
私自身、3歳から小学生の頃はマリオ勢であり、しかも任天堂以外のハードを嫌う傾向にあったが、中1にもなると毒されてPSPのある一世を風靡したゲームに手を出す。
所詮、友達が欲しいとかそんな儚い願望に溺れた悪あがき。
中3の4月に豊橋へ家出してからは、小6からバリバリの洋ゲー勢であった上の弟の洋ゲーをプレイさせてもらい、小5の時から微かにあったGTA等グロ・暴力ゲームへの憧れは意外な結果で叶ったという経緯を持つ。

そんな私は今、どんなハードであろうと最近のゲームの話題全般が苦手で、理由は単純明快「ゲームに憧れても買えるはずがないため、空虚な夢想に過ぎず、それに囚われたり端から眺める愚を犯すくらいなら、勉強なりに時間を費やした方がいい」という結論に落ち着いたから。
ゲームの毒性くらい、誰しも知ってるだろうが、実際に多くの人はゲームを辞められないのに、私は容易く脱せたのも、偏にネット主体の勉強への意志からか。
この考えに帰結するのも、上記の忌まわしき過去があってのことか。
そして、それからすれば比較にならない現在がこの思想を増長させる。
あのゲームが欲しいと母親にねだれば、軽薄にも母親は易々と買い与え、そのゲームなどの娯楽に興じ泡沫の如く消えていった時間。
取り返しの付かないことではあるが、その過去を持つからこそ、一層この思想が強まる。

教育の「飴と鞭」の采配は、この母親は最悪だっただろう。
端的に表せば、害毒となるゲームなどは妄りに買い与え続けた小5別居・離婚までの時代、怒ればしつけを口実に妄りに頭を叩き続ける虐待じみた小5離婚までの時代。
以前もこんな文章をどこかで書いたことがあるから、箍が外れぬよう自制を掛けるが。

ゲームなどの低俗で浪費する娯楽に興じたあの時代にもう一点、愚かしい習慣をあげるなら、今以上に菓子や清涼飲料水・炭酸飲料などの糖分が多い飲食を繰り返していたことだ。
いずれも、私がぽっちゃり体型だった小5別居・離婚までの時代はそういった生活習慣が顕著で、私と同じ轍を踏んだ「上の弟」も児童養護施設時代は良しとして、2008年末の姫路母宅遠征から施設帰り拒否問題以降の母親の庇護で怠惰を享受し、世間知らずになったことは今も尾を引いていて、彼に哀れみの一つはくれてやりたい。
2012年8月の迫害以降、父親の家でそれ以上の甘い蜜を吸ってると思しき彼は、PS4やXBOX ONEあたりでもやってるだろうか?
迫害時の手土産、PS3は現役だろうか?PCみたく現地で破壊したか?


続いて、ゲームと同等の忌まわしき話題が「アニメ」である。
アニメはどんな理論で「手の届かないモノ」と成り得るか。
アニメとはテレビあらば無料で見られる、そんな体裁ではあるが、その次の到達点が「アニメグッズ」の購入である。
どうあっても商業主義だから当然のことだ。
そして、アニメのファンならそれを持つのもまた当然のことである。

しかし、私がどうしてグッズの購入などできようか。
これ故に、アニメを見る時間は無駄なのである。
モノの恵みにありつけぬ私が見ても得られる愉悦はない。
グッズの所持数がファン内での優劣さえ隔て、ランクが決まるならば尚のこと悦楽はない。
ファンの立場にある以上、グッズ未所持では引け目を感じるのが人情だろう。
アニメ業界でいう「作品愛」とは、精神に懐く愛情だとか以上に、いくら「グッズなる物体」を所持しているかで決まる「即物性」が優位となる。

中3のあたりに、自室をフィギュアなりポスターなりで満たしたい欲望(オタク部屋?)があったが、このころの俺は未だ、そんな夢想がいかに儚く叶わないことであるか、気付く由もなかった。
グッズなどの物質的な充足を求める物欲にまみれた豚と、それを食い物にする商業主義・資本主義の業界がなせる業であり、貧乏人に等しい私はすべからく厭離すべきではないか!

また、個人的にアニメ視聴・鑑賞自体に、元来視覚的・聴覚的に苦手意識があったが、これまたリアルにしてもネットにしても、アニメの話題が蔓延してるからそれを共有したいなどという俗な考えがあったことも相俟って一刀両断することになった。
苦手意識について詳らかに説いた記事はコチラ→http://masashi.doorblog.jp/archives/40013079.html#nigate


アニメにしてもゲームにしても、他人との共通の話題を持とうとする意思は、正しく「社会性」に違いないが、俺の人生史は半ばより意味を成さなくなった以上、そんな社会性は排してしまえ。
俺がその辺にいくら精通しようと、話題が振られない以上、意味を成さない。
尚且つ、ゲームで脳を蕩かしアニメも然りだが、金と時間をも奪われるなら笑止千万。
予て「心身に害を齎す」と疑問を持つなら、悪の根を絶つべし。

よって、来月で18歳、後数年で成人を迎える私だが、この意志を貫けば間違いなく「酒・タバコ・パチンコ」に溺れることもないと断言できる。
アニメ・ゲームに惑わされることの更なる上位互換であるこれらだが、アニメ・ゲーム以上に「金銭・消費行為」が大前提となるため、そんな不健全な快楽を求めることも無い。

清らかで、お淑やかで、麗らかで、慎ましく美しい。
純真無垢にして清廉潔白なるままにありたいだろう。
・・・酒・タバコ・パチンコのことを抜きにしても今の俺が綺麗とは言いがたいがね。



最後に、「手の届かないモノ」の例外をあげよう。
人生的な夢だとかまで、「夢想」と割り切って手放すことは、かなり違ってくる。
私が斬り捨てた「手の届かないモノ」は往々にして金と時間を奪い、ゲームのように脳や身体に悪影響を及ぼす存在だ。
私にとって最近のゲームを購入することは「金を浪費した」意識に陥らせる上に、そもそも買うことの利点がその対価足りえるか疑問でならない。
ゲームへのあれこれ夢想とは、雲を己の手で掴んでみたい、ということに等しいのだ。
手を宙でバタバタさせる様など、はしたないことこの上ない。

よってこれまた金銭はクリーンに、DTMフリーソフト等で作曲したり、紙とペンとスキャナ付きプリンターで絵を描くなど最低限の環境で創作活動を行う。
これらの活動のなんと有意義なことか。
楽器やペンタブなど専門的な道具を買うお金もなく、それらの品定めをネットですることは、ゲームの話題を見るのと同じく、雲を己の手で掴むため宙で手をバタつかせるに等しい。
この慎ましい精神で行う活動のなんと健気な姿勢か。



私はゲーム反対家ではないが、英語の面白いゲーム反対ネタ動画
http://www.youtube.com/watch?v=0jzFjmIbX8c
http://www.youtube.com/watch?v=yrLT_ftszxA



追記: 2016年1月6日
私のメンタリティというものには、当記事に見られるアニメグッズや新作ゲームなどへの出費を厭うことのみならず、深い信仰心というものも似たように遠ざける傾向があろう。
それは、我が両親に起因するものと思っている。
常々、私の活動では、両親の無機質かつ愚癡・瞋恚の強きことを語っている。
これといった趣味にせよ、信仰のようなものにも遠い両親の元で波乱の半生を過ごし、今なお生命の危機に晒される私であるが、人一倍に向上心はあることのみ小4二学期以降不変である。
ために、こうして種々の活動(記録・創作・研鑽)を継続してこられた。

言いたいことに戻すが、「アニメグッズや新作ゲームなどへの出費」という若者ならほぼ誰もが年に1回以上ないし日々していることを、私(18、今月で19)が長年していない否したくても出来ない時期があったことは、現在仏教を学び奉りながら、衷心より信仰を懐くということが叶わないことにも似ている(教団無所属で寺院参拝などもできないからか)。
世間世俗のたとえですら、アニメグッズや新作ゲームなどへの出費・多々買いを「布施」にたとえ、作品のファン、ことに熱狂的なものを「信者」などと、宗教に見立てている。
私がアニメグッズや新作ゲームなどへの出費をしたがらず、信仰心も持ちづらくあることは、こういった多面的な見地で疎通しているものと、一考を述べる。



後の関連記事
2016年5月22日・公開「商業主義的アニメ・キャラクターの宗教性」
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/05/idol-and-idea.html


2014年12月8日月曜日

人の家の前で利己的に雑談に耽るクソババアから垣間見る現代のモラル「傍若無人」

姦しい


2014年11月11日16時、私の家の前で高齢女性2名が立ち話を展開していた。
私の部屋に届く大きな声で交わされたやり取りは余りにも耳障りだった。
そのため、記録として証拠撮りをしたのが上の写真になる。

この写真を見ていただければ分かるとおり、我が家の方を向いている。
しかし、彼女らは我が家に用事があるわけでもないし、周辺の家にも結局立ち寄ったわけではなく、ただの通行人に過ぎない中で、我が家の前で立ち話をしていたのだ。
私としては、鬱陶しい声自体にしか意識が向かず、会話内容は歯牙にも掛けなかった為、何の話題が彼女らをそんなに白熱させ、我が家の前にて歩みを止めていたのかは知らない。
結局5分ほどこれが続いたようだった。

この件の概要はこんなところだが、このような高齢女性が酷く耳障りな声で話すことは最近1週間にも心当たりがある。
向かい隣の家は顕著なもので、他所から来たババアを連れた車が道路の真ん中で停車し、道を塞ぎながらそのババアが向かい隣のババアと大声で立ち話。
いい年して普通の会話に大声が出ることがある意味羨ましいが、控えてもらいたい。
連れの人間の車も、道路事情をしっかり鑑みてもらいたい。
この他、色々な場所で「クソババアの姦しい喋り」は私の耳を劈いた。


今の時代、「平成生まれ」や「ゆとり世代」という、生まれの時代で人格の判断をも決めてしまうような言葉が罷り通るが、人格の判断は「生まれた時代」という区分よりも「生きる時代」で区分した方がより的確ではないかと考えている。
例えば、近年は老人のモラルも疑われている。
私の身近はもちろんだが、社会全体なら「幼稚園(など)の運動会がうるさい」と騒音の苦情が全国で増加しているが、苦情を入れた本人は多くが老人である。
これだって、年齢が年齢だからそうする、などと安易に決め付けるのはよくない。
現代を生きる人間は、老若男女の垣根を越えてモラルが欠如している、こう取るべし。

現代だと高齢化といった絶対的なことが昔より増えてる要因かもしれないが、あくまで真実の一端に過ぎず、個々の平均的な教養性の悪化という相対的要因も重大だ。
現代の日本だから、先述のように「老若男女の垣根を越えてモラルが欠如」しているため、これから年を重ねるごとに一層その性質に拍車が掛かるだろう。
日本全体のみならず、私の近所でも「クソババアの姦しい喋り」が増加して、神経質が顕著になると思うと、今から憂いしかない。

「老人らしく寝たきりになれ」と言う気は毛頭ないが、年相応に出張らず、大人しくして頂こう。
老人とは「好々爺」というように、親しまれる状態こそ理想の姿だが、近年の老人はそれが乏しいようにしか感じられないのだ。
そして私の憂慮は、身辺の範疇にとどまらず、日本という国の近い将来にも波及しているが、やはり「濁悪の世」と称するに相応しい「人心の落魄」は見るに堪えない。



追記:2014年12月29日10時台

爺 迷惑 キチガイ 酔狂


近所の婆と他所の爺がどうしてか我が家の前で喋り、挙句会話が終わっても爺の車が10分ほど家の前に停まり続けた。
爺の外見は、帽子と長めのヒゲだが、クリスマスはもう終わったぞ。
本当に爺婆は他の邪魔な爺婆をおびき寄せる力があるものだな。

話し込んでる間は、婆がなぜか持ってた花束、それが我が家に向けて置かれていたが、あたかもここが交通事故現場で犠牲者が出たみたいな無礼さだ。
家に用がないのはもちろんだが、不躾にも左側の車輪が我が家の敷地内に乗り上げっぱなし(そうしなければ別の通行車に迷惑がかかるからなのだろうが、それなら不必要に我が家の前に居座るのはもっと問題だ)。
とことん悪事を極めていやがる。

この酔狂の開始ゴングは、車のブザーであったが、よくもまあ人を呼ぶ際に車のブザーを堂々と、躊躇いもなく鳴らそうと思えるね。
まさしく、モラルの欠如も甚だしい。

私はこの事態を前にして、特に当人達の前に出て干渉(咳払いなどで嫌悪感を仄めかし)することはせず、上の写真の如く密かに記録する程度にとどめた。
全く近所人と見知ってるような人間らに、こちらが嫌悪感を示したら、それだけでどんな仕打ちが待ってるかと思うと、そんな厄介事は御免蒙りたい。
本題にあるモラル欠如が顕著な、現代の哲学だろう。
卑しき者が蔓延してる世間では、誰がどう狂える者かも察しが付かない。
ならば「識者、訝しきに関わらず」という言葉で以て、様子見を決め込み、記録を取る。
こんな記録活動は良心の呵責もあるが、なぜ己を非として責めねばならない。

そして、こいつらの会話の直前までは雨が降っていたが、なぜ雨は止んだ。
俺は早朝、外に出ねばならない、この家の衛生上必要な作業(ゴミ出し)をせねばならないのに、こんな雨で妨害されたが、こいつらの無益な路上の立ち話には天は微笑んだのか。
こいつらが住宅街の狭い通りを塞いで通行車に迷惑をかけた、邪魔な存在でしかないし、この会話の有益性を問うなら、当人らの独善にしかならない。
天までもが乱れた世の中、今年8月以降だけでも広島の土砂崩れ、御嶽山の噴火、長野北部の震度6弱、九州までに渡る12月ではありえない大雪(豊橋は少しも降らなかったが)など振り返れば明白だ。

矍鑠たる好々爺の温情に触れる、子供達はその恩恵を与られない時代である。
これもまた濁世の現証、私もその犠牲者であった・・・。
現代は世代を超えて等しく尊敬すべからぬ者が跋扈しており、年上の者に敬意を持って接することは敬意を持った人の徳になっても、敬意を持たれる者が真に尊敬を受けるとは限らない。
誰かに敬意を持っても、面従腹背でいないと同質化しよう。

2014年12月7日日曜日

新学問「インターネット考古学」の提唱

私はネットで色々な情報を探す上で、かつては栄えていた掲示板など、人が集まる形式のサイトを見てはどこか哀愁がこみあげるのだ。
その中で一番、この記事に書きたいサイトがある。
そのサイトは最近まで私も投稿をしていたため、サイトそのものの名称とリンクなどを掲載するのは遠慮しておくが、どんな魅力があるか端的に綴る。

・2003~2005年まで続いたとあるサイトが潰れ、同趣旨の後継サイトを誰か作らないかと元住民が求め、アプリ制作兼サイト運営を趣味でしていたプログラマーに白羽の矢が立ち、複数の元住民の嘆願によって2006年1月に誕生した(2007年6月リニューアル)。
・サイトの趣旨は、とある携帯アプリによる「作品」の投稿である。
・前身となったその2005年没のサイトも同趣旨のアプリで作られた作品が共有されていたが、アプリごと消えたために、そのサイト創設者はアプリも同時に作った(というよりは、アプリあってのサイトである)。

これらの情報は全て、私が自分でネット上を検索するか、投稿された昔の情報を探し回るなどで何とか入手しまとめられた。
Wikiの類など、そんな沿革やら年表やらを詳らかに書いてるサイトは皆無だ。

このサイトは2010年頃になると同界隈では類を見ないほど栄えた。
投稿作品のジャンル(写真やイラストなど画像系かツクール的なゲームかDTM的な音楽か)というものを書くと、検索スキルが高い人に特定されるので控えておく。
2014年の今もサイトは存続しているものの、時代が時代なために嘗ての投稿量は見る影もなく、サイト管理人は2013年8月にサーバ維持費の不満を漏らしていた。
私はそのサイトに2014年5月から参入したわけで、元々2011年から静観していたが3年もの長い沈黙を破って新規参入した私という者は、斜陽のサイト情勢では珍しいだろう。
なお、当該サイト住民とはほとんど交流せずを徹し、今のところ一方的な作品の投稿が中心。



そのサイトに関する概要と私的な経験についてはここまでにしておく。
記事の題にある「インターネット考古学(またはウェブ考古学)」とは、このように今昔サイトの足跡を辿ってみて、サイトの歴史を知ったり感傷に耽るなどが主な目的。

ネット考古学のための便利なツールがある。
各検索エンジンはもちろん、"Internet Archive, Wayback Machine"である。
例えば、先述のサイトの前身であった「2003~2005年まで続いたとあるサイト」であっても、投稿作品の過去ログの残っている場合とそうでない場合とがあり、後者のために"Internet Archive, Wayback Machine"を用いる。
検索エンジン(Google等)利用は、私自身2011年から愛用しているマイナス検索や完全一致検索、"Allintitle"など様々な技を駆使するといった検索スキルを要することになる。

ネット考古学に類する既成概念の単語は、「ヲチ」などである。
「ヲチ」とは現在の変化を遠見で観察・記録をする行為を指すが、ネット考古学は極めて過去を遡る、文字通りに考古学を主体として研究するところが大きい。
他にも「サイト跡地」や「記念カキコ」などの概念も、ネット考古学に通じる(ネット遺産・Web遺跡)。

以上の説明で「面白い」と思えることに、ネット考古学という学問の価値がある。

個人的なネット考古学の経験なら、古くは2007年(私が小5の時)にもある。
当時、あるゲームの攻略サイトのオマケ的な雑談掲示板に入り浸ったが、このサイトは2006年8月誕生、誕生当初の住民は主に、同管理人経営の別攻略サイト付属掲示板である。
私はそこで様々なサイトを知った…YouTubeやFlashサイトを知り、YouTube経由でニコニコ動画を知り、Flash経由で2chを知る。
2008年にもなるとそこは激しい投稿量となり、人の多い時間帯にはレスが全体で1分に20回ほど付くこともあり、攻略サイト付属の雑談掲示板としては類を見ない夥しさだ。
YouTubeやニコニコ動画などに、そのサイトを題材にした動画を投稿する者も多くいた(これに限らず、この掲示板ネタの外部サイト進出を「内輪ネタは自重しろ」と問題視する住民もいたが)。
私のサイト住民歴なら断続的に欠けたこともしばしばあったし、2011年以降はほとんどアクセスしなくなった。
それから2013年12月に掲示板機能だけが閉ざされた。
原因は2010年以降、犯罪予告などの警察沙汰も多く、当該掲示板専用の荒らしツールなどでの連投横行が続いて管理人が溜まりかね、その時になってやっとである。
最後に残っていた住民は、同管理人運営の別攻略サイト付属掲示板が複数存在する内のどこかへ散らばっていったと推測する。

これもまたネット考古学的な経験であった。
私自身、ここ半年は何かの掲示板に書き込むことが激減し、月に1度あるかさえも疑わしいが、持続的にROM専でアクセスするところがある。
そこは雑談掲示板などの非建設的なやりとりを交わす場ではない。
2ch内のどこかの掲示板でもなく、「したらば」で取得されている。
この掲示板については、ネット考古学上の言及をしない。
※したらばの余談だが、小6の10月に自分で開設した掲示板があるが、当時の登録情報を忘れた今ではログイン不能(2015年2月の運営方針により閲覧不能)。



ここまで、私が例として「あるアプリによる作品を共有するサイト」と「あるゲーム攻略サイト付属掲示板」をあげたが、日本で有名な同種のサイトだと、ニコニコ動画や2chなどがある。
ご覧の諸君も、それらの有名なサイトの歴史を知りたくなるときがあるだろう。
いつ誕生したか、きっかけやその経緯、サイト創設者の姿と意思から、サイト黎明期の住人や閲覧者の傾向(個々の人物像・功績)や現在までのサイト人口推移。
こういった様々な要因を調べたりして感慨に浸る、感傷に耽る。
そんな魅力を私はこの学問に重ねている。

学問としての扱いだが、確かに学術性に欠くし、どうしても趣味の範疇でしかないかも。
ここまでの記述から、学問らしさをまとめると
1. 必要なスキル・・・調査ツールの把握(検索エンジン、"Internet Archive"など)と検索スキル(マイナス検索、完全一致検索、"Allintitle"などいわゆる演算子)
2. サイトへの興味から調査を通してサイトの歴史や住人・閲覧者の在り方を知ってサイトの真髄を学ぶ=古代文明へ思いを馳せる感情に結びつく
3. 多くのサイトのあゆみを理解したところで、インターネット全体の変化を捉え、果ては将来をも考える
4. こういったスキルや知識を糧に、別の方面でも使う(自分がサイトやブログを運営するにあたって発揮できるし、自分のみに収めず広く伝えるなど)

このように書けば学問らしさが伝わるでしょ。
学問的な優劣を問えば、既存の学問より学術性に乏しいし、この学問で権威を名乗れるなんて論外なところは否めないが、何よりもいいところはネットが普及した今の時代に合っていて、身近で普遍的、入りやすくて実用的。
悪く言い換えると学問じゃなく趣味や娯楽の性質が強いかもしれないが、私はこういった調査を真摯に行っているつもりだ。



学問の逸話(宗教的なニュアンスも含まれる)が既存記事に書かれている。
私がそれらサイトの足跡を辿り、思索した末の答えが以下の記事にまとまっている。
http://lesbophilia.blogspot.jp/2014/10/blog-post_13.html



後年の追記

考古学や地学・地質学というか、何らかの施設の建設に当たっても「地質調査」が行われる。
最新投稿日順(日付昇順)でブログ記事などのコンテンツが縦列表示横2列であっても改行して縦列になる)される姿は、まるで地層のようである。
その地層のうちの一部分の土を取り出せば、その時代の気候や生物の生息の形跡などが分かるし、比較的浅いものであれば人間の生活の足跡・文明の残滓(不自然な土器や金属の分子・成分が多く検出されるなど)が判明する。
これは、そのブログ記事や動画などのコンテンツのリンクをクリックして閲覧するようなものであり、こういった縦列表示やコンテンツの閲覧によって時代を感じ取ることができる。
さながら地質調査の、地層を見たり、土を検分することと同じである。
参照する例は当ブログの全記事リストもよいし、私の種々のYouTubeチャンネルの動画でもよい。

全記事リスト→http://lesbophilia.blogspot.jp/p/blog-page.html
YouTube音楽チャンネル動画(日付昇順)→http://www.youtube.com/user/SundarknessMusics/videos



より後年の追記

ネット考古学、ウェブ考古学 Internet Archaeology, Web-archaeology

古代インドの言語学者、パーニニ流「六合釈・複合語解釈」の一つ「依士釈・依主釈"Tatpuruṣa, Tatpurusha" = 格限定複合語(依存・従属複合語)"Determinative compound"
属格的な「インターネットに属する考古学(Archaeology of the internet)」
対格的な「インターネットを学問対象とする考古学(Archaeology that did for the internet)」
与格(為格)的な「インターネットに寄与する(インターネットの為に行われる)考古学(Archaeology for/to the internet)」
処格(於格)的な「インターネットという処における(インターネットに於いて行われる)考古学(Archaeology in the internet)」

屈折における格を想定して前後の語幹の関係性を捉える「格限定複合語(依存・従属複合語)"Determinative compound (Dependent compound)"」による複合語解釈である。
もし具格的な「インターネットを用いた考古学(Archaeology with internet)」とすれば、従来の考古学のためにインターネットという道具・手段を用いるという意味で取られる可能性がある。
また、処格的な「インターネットという処における考古学」であっても、「インターネットという処における考古学-の研究手段、公表状況」といった意味を付随して取られる可能性もある(あらゆる語句にはそれを形容詞化して再び名詞化するようなプロセスも考えられるから・・・人の用いよう)。
仮定名称の詳細な説明には、他者が余分に意味を介在させないための考慮も必要である。

2014年12月3日水曜日

日本陸軍第15師団の再開発 ~愛知大学・高師緑地~

高師緑地は散歩でよく足を運ぶ場所だ。
そして、今年の散歩で愛知大学内の現存する旧陸軍庁舎に参ろうと思ったが、結局は敷地内に足を踏み入れられず仕舞いで、これからも怖くて当分行けない。
散歩計画を策定した今年5月に並行して、この辺り「高師原」の歴史的な地理も学んだ。
その時の調査の進行に沿って記述する。


まず、国土地理院の空中写真から探した。
件の一帯で最も古い写真は1959年(昭和34年)5月8日撮影であった。

画像の赤線:後述の場所として見当のつく範囲を示す


この時点で既に愛知大学を始めとする教育機関群(福岡・栄小学校、南部中学校、時習館高校、県立豊橋工業高校)、そして高師緑地や隣のユニチカの区画までもがはっきりと浮き彫りに。
当時でも各々の基本的な区画は定まっていたことになるが、これら教育機関が立派に集積されたこの地域も、まだまだ農地が目立つ様子であった。
現在住宅地となっている場所の多くは、畑が主体の農地だったのだ。
郊外に宅地開発が及んでも、豊橋は名実共に全国屈指の農業都市ではある。

この文教エリア・学園都市において、画像中に未だ開設されざるものを求めよう。
中野小は昭和60年に分離で開校、豊橋聾学校は昭和47年に現在地に移転とのこと。
現在の時習館高校の北側のグラウンドはこの時まだ畑だった?
福岡保育園は運営法人の施設一覧ページに昭和22年8月1日とある(認可年月日:昭和46年1月1日というのは、運営団体が法人化されて以後に登記名目が変更された日付であろう)。
このほか、広大な敷地で後の教育機関や商業施設などに変容する場所が、この時点で既に現在の施設と同等の区画を有しながら、別の建物が建っていた(例えば工場など?)ことについては、最早俺個人で調べられる領域を脱している為、収集不可能。


更に古い写真や地図がないか探した。
画像検索から探し出すというとても簡易な手法で挑んだら、豊橋市美術博物館のサイトに1931年(昭和6年)の古地図が載せてある。
http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=4439 (名称は「豊橋及其近郊」)

こちらにおいても高師緑地と思しき区画が左半分に浮かんでいる。
ほか、「高師原」と題した1938年の地図が「日文研データベース>所蔵地図」より見つかり、かつての豊橋鉄道渥美線における空池駅(からいけ、1944年6月5日に休止して1977年に廃止された)の位置(高師緑地北端の交差点よりも北にある)が確認できた。
http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2249.html



続いて、この日本陸軍第15師団の地名にまつわる情報を書く。
「高師原」とされる梅田川以北に一つ、「天伯原」とされる梅田川以南に一つといった、二つの広大な敷地から構成されている。
この情報は上記の博物館のページの上2点の地図を見ていただければ想像に易い。
渥美線の駅名にも旧「師団口駅・兵器廠前駅・陸軍病院前駅(後年いずれも改称されている)」など影響を与えているが、駅の利用者もこれらの施設に目的がある者が殆どではなかろうか。
・・・陸軍の施設を除いては、延々と広がる畑くらいしかなかっただろうし。

余談だが、「天伯原」の名を見ると「天生原」を思い出す、何のことかしら。
かつては全国各地の農耕地帯や草原などはみな「原」という字が地名に付随していたのか。
農耕開拓以前の原野の時からでもあろう。
「高師の名 普く渥美に 轟けり(五七五)」彼の時代に於ける広大なる高師村。
其の残影、今尚も高師町の名に残り、剰えJR線を越したる先に飛び地ぞある。


最後になるけど、この15師団に関する記述のある記事って以前も書いたよね、と思ってメモ帳内を探してみたけど見つからなかった。
その最中で、次の手段に及んだ際、即座に「まさかYouTubeで書いたことじゃないの?」という真実に気付き、それらしい動画を見つけたが、説明文参照。
まあこの記事は、15師団を初めとする情報に特化した明確な差別化をさせてるし。
YouTube投稿動画の方へ気付かなければ、メモ帳内で、無い物をずっと探し続けることに。



今回の記事は私の愛読ブログ「咲いた万歩」さんリスペクト。
恐縮ながらリンクさせて頂きますhttp://blog.goo.ne.jp/manpoarukuhito
このブログは散歩記事がメインであると同時に、たまにこのようなその土地の歴史について調査した記事を投稿しており、今回の記事はそれへの憧憬もあるが、私と大きく異なるのは、私の考え方や感情を押し出す私の記事と比べ、いい意味で淡々と必要な情報のみを記すところ。
まあ私としては、敢えて雑駁な身の上を綴ることで、個性に含める意図があるけどね。



ほか、後日見つけたページ「陸軍の町 福岡」
http://www.fukuoka-e.toyohashi.ed.jp/tiiki/tiiki4.html
豊橋市立福岡小学校のHPであり、この項目には15師団、十五師団の施設の現在の土地利用についてなどが簡潔に記される。
それ以外の情報は、かなり詳しく書いてある。



ほか、後年の記事の追記事項
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/06/ruiju-7.html
2016年4月29日は「高師(たかし)」に相当する名前が倭名類聚抄に載っていることを知った。訓読みの漢字表記が「高蘆(たかし、高天原"たかまヶはら"のように"あ"の連続を省くか。後に高足)」で、漢字音写は「多加之(たかし)」である。同書では渥美郡に属す。意外と由緒がある名前であった。「高蘆」を冠する神社もある。当該記述の話題は「高師原」だが、「高蘆原・高芦原」と表記を変えると、付近の「芦原」の地名は「高師」から副次的に生じたものと考えてよいように思った。
更に文学的な方面を探すと、有名な歌人・西行法師などの歌にも、広域名称としての「高師」が登場している。
http://web.archive.org/web/20080708030447/http://www.techjapan.co.jp/kitakuraHP/tokaido/14.html
「高師山 はるかに見ゆる ふじの根を 行くなる人に 尋ねてぞしる」 藤原為家
「朝風に 湊をいづる 友船は 高師の山の もみぢなりけり」 西行
これらの歌に見られる「高師」とは、愛知県豊橋市の高師緑地・高師原に代表される地域のことを指すとは、断言しづらい感覚がある。
愛知県豊橋市に隣接する静岡県湖西市に、静岡県湖西市新居町浜名高師山という地名がある。
日本鹿子という江戸時代中期の書にも「遠江國(=現在の静岡県西部)名所之部 高師山 二川の宿と白須賀の宿との間なり、北は山、南は海なり」とあるそうで、湖西市内に高師山と呼ばれる名所があることを示唆している。

別方面には「たかしのはま」という表現もあるが、豊橋市高師町とその近辺は梅田川・柳生川の流域が主要であり、海は三河湾が近くとも、豊橋市南部の浜には遠い。
今の二川・岩屋地域や静岡県湖西市一部なども、古来「高師」と呼ばれていたか、住人が称していた可能性もあろう。
また、単純に「高蘆、高い芦・葦・蘆・アシ」という意味で「たかし」と呼ばれていたところ、この豊橋市高師町のような高師と同一視された可能性もある。


備考:地理座標 (geographic coordinates)
「愛知大学内の現存する旧陸軍庁舎」…愛知大学豊橋キャンパスにある愛知大学東亜同文書院大学記念センター・愛知大学記念館で旧大日本帝国陸軍第十五師団司令部庁舎
 34° 44′ 24.2″ N, 137° 23′ 11.27″ E (DMS, 度分秒表記の例)
 N 34.740057, E 137.386464 (decimal, 10進数表記の例)
後者のGoogle地図使用例→https://www.google.co.jp/maps/@34.740057,137.386464,227m/data=!3m1!1e3?hl=ja



後年の追記

実は大阪にも「高師浜」があり、2013年から私が話題にしていた「荒木探偵、のんちゃん」(北海道出身、京都市在住)がアイススケート目的で来ていた。
高石市という名前との関連を思わせる。
日本語の音韻論での高母音削除 (high vowel deletion) の方法で、音素「たかいし /ta.ka.i.si/」の /ka.i/ が /ka/ と低母音(広母音)側に吸収されて(ただし中母音かしないという、複合語としては稀なケース)「たかし /ta.ka.si/」と変わった可能性がある。
『日本書紀』巻第三十、持統天皇に、「准(なぞらふ)河內國(かふちのくに)大鳥郡(おほとりのこほり)高脚海(たかしのうみ)」(新字体+訓読:河内国の大鳥郡の高脚海に准ふ)とある