2014年12月21日日曜日

金銭の工面、切実な問題。お金のことを考えたくない。

全くもって私はまだ17歳の青いガキで、金銭を案じる必要はないかも知れないのだが、今から将来は暗澹としていることは明白、というより明黒、暗黒。
金儲けの手段を模索する、そんな意思は毛頭なく。
例えば私の上の弟みたく「小遣い週に3000円じゃ不満で、金が欲しいからバイトしたい」などという貪欲さだって持ち得てはいない。
私は、中2不登校のあたりにアフィリエイトやFX・投資等、ネットで設けることを志したり、中3で実行して2ヶ月で自主撤退してみたり、中3末期~卒業後数ヶ月まで「バイト探さないとヤバイ」という何の計画性もない漠然とした焦燥だけが起きたりといった過去にさらされた。

まあ、その焦燥感こそが「全うな社会性」を現しているのかもしれないが。
だが、そんな「社会性」なぞは、とっくに己の思考から廃している。
そんな「社会性」で急かされても、結実しなかった今までの人生で熟知している。

というわけでお金のことは考えたくない、お金がなくてもやっていける術。
ずっと親元(愛知・母や埼玉・父)に住むとか、誰かに身寄りを求めるとかしかない。
我が豊橋・並びに故郷埼玉は南海トラフ地震や首都直下地震で強い揺れが観測されるであろう。
地震や災害云々は前回の記事でも書いたため、省略しておく。

私はどんな危機に瀕しようと、困窮に陥ろうと、金を稼ぐ気は毛頭ない。
これも「全うな社会性」を廃したこと、そのものになる。
暗中模索の如く、今この活動の最中に手がかりを掴めれば本望。
それに至らず瀕して窮するならば、死を受け入れられる強い精神が要される。
あるいは死を厭わない・厭えないほどの生物的な感情をも廃する必要がある。

前者の豪胆が元来備わってたら、今頃どんな人間になってることやら。
なのでこの生活の折、それを得ることは期待できない。
後者の場合はもはや抜け殻というものだ。灰身滅智ともいう。
なので、前者の豪胆を十分に得ずとも、死を恐れない精神・智慧を得ればよし。

これらを見ると、仏教の修行にも類似している。
部屋に籠もって三年、悟りを得る者は現れるか。
悟りを得た修行僧は、死を恐れないが、むざむざ死ぬこともない。
逞しく生きられる上に、死期が迫っても畏怖を懐かず、最期を受け入れる。
これは長寿の高齢者も似たような心境を持つので、「安らかに眠る」と言われる。

ある教団は、人生の目的を「仏道修行に励んで来世に渡る幸福の業を積んでいくこと」と説いており、その一貫で自ずと現世においても功徳、ご利益を与るとする。
生来無宗教の私は今、仏教なりキリスト教なりバラバラに好き勝手で学んでいる。
宗教とは互いを貶しあい、相容れないものなので、敬虔な信者の方々には無礼だろう。

・・・・・・宗教の話が過ぎるきらいがあるようだ。
お金の話をすれば、私の人生は金稼ぎの普遍的な手法を敬遠してるために、普遍的な生き方も忌避して、修行に打ち込んで悟りに近づくのが最善ではないか。
生半可なことでは到底無理かもしれない、だなんて言わせないよ。
髪を伸ばし続けることと同様、引きこもり生活によって徹底できる。
生来その道を授かった、「世俗の名利」とは無縁な境涯を先天的に与えられた。
これを自覚して揺るぎない修行をしようではないか。俺。

以前、ニート研鑽会の構想があったけど、今回は引きこもりの新宗教になるね。
端的に教義を、「世俗の名利」に溺れず、部屋に籠もって修行を続けて悟りを得る。
1年数ヶ月前の俺は変に自虐して、卑下慢状態だったし。


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