2016年5月22日日曜日

商業主義的アニメ・キャラクターの宗教性

表題に関しては、アニメ・マンガ・ゲーム作品などのコンテンツに関連したグッズの例と、キャラクターの意匠を用いたキャラクター商品の例を以て、宗教との類似性や現代日本人の宗教観について論じたく思う。
詮ずる所、人々がアニメ・マンガ・ゲームほか多くのコンテンツや、ペット・愛人などの生命体にいくら信頼や愛着を持っても、死後を想って(神などへ救済を願うように)非実在キャラクターや実在ペット・愛人へ、その信頼や愛着を傾ける者は無に等しい。
これが、形としての宗教とは最も異なる点であろう。
いずれも、現世での享楽・耽溺の域を過ぎず、それらの事物に神秘的な思いを捧げたりもしないことがほとんどである(ただし死後アニメ世界に生まれたいとか愛人・ペットと一緒に天国行きたいという者はいる)。



※以下から本論に入るが、まず筆者・横野真史(19)は2012年8月からアニメを視聴していない点を留意されたい(リンク先の記事に細かい定義あり)。反面、美少女イラストの方面を好んで描いてもいる

アニメファンとは何であろうか、そもそもファン"Fan"とは、楽しみを意味する"Fun"と文字列が似るものの、それは偶然の結果であり、実際には狂信者を意味する"Fanatic"の頭3文字を取った俗語である。
あらゆるファン"Fans, Fanatics"は、その愛好する対象に、あるいは財産あるいは身命をも惜しまず、愛好耽溺を是としている(俚諺・俗説に曰く"信者と書いて儲けと読む")。
当然、アニメに限らず、芸能、音楽、スポーツ、物体や業界などの分野まで幅広く、このような姿勢のファンは多く、時には本人が普段の生活でしない過激な行動に出て触法行為さえ犯してしまうことは誰しも知るところであろう(過激な鉄道オタクが過去に問題視されてきた)。
こういう場合は、マニア・オタクなどと呼べば、誰もがイメージをしやすい(単純に造詣が深いだけで行動的でない者もマニア・オタクと呼称されるので一様ではない)。

ここでその例を詳細に挙げはしないものの、それらの情報を聞くたびに、人は「怖い、キチガイ、キモオタ」と恐怖や嘲笑を起こす。
また、そのような事象を知れば当事者は「自分は違う、自分はああならない」と同族嫌悪・同志を軽蔑することもあろう。
しかし、大概は程度の差はあれ、自分が普段の生活でしない、冷静に振り返ると「なぜあんなことを」と思えるような消費活動に及んでいることもある。
ファンとしての熱が一時的でも恒常的でも、冷めた時ほど悔悟の念は強いであろう。
しかし、その境界を幾度と移ろうばかりで、大概の者たちは各々の浅い人生観のみを以て、この染み付いた性質を直すことは不可能に近い。



アニメグッズという物体の収集や、それらで自室を飾ることで心が満たされるような現象もまた、宗教と結び付けられない事柄ではない。
2016年1月13日に投稿した記事で、私はこう書いた。
"明恵上人は臨終に際し、病床を仏像と曼荼羅で飾り上げたということは比較的知られる事跡(伝承?)である。さながら自室に美少女フィギュアを飾ってアニメポスターを掲げる人、さながら自室に軍艦や戦闘機の模型を飾って国旗や軍旗を掲げる人のようにも思ってしまう。"
このようにして現世の住まいを浄土の如く荘厳してしまおうという、僧侶をはじめとした大乗仏教の信者は多くいる。
穢土即浄土、娑婆即寂光・・・、物次第では浮世(憂き世)も住みよく変化させられる。
現代のアニメファン・アニメオタクたちもまた、キャラクターのフィギュアなどをラックに並べたり、ポスターを壁にベタベタと貼り付けることで、彼らが無聊を託てる憂き住まいを、理想の二次元空間(2.5次元とも)に変容できるようである。

ただし、私は物を必要以上に増やしてまで、欺瞞的な心の安定を得ようとは思わない。
自室安置のご本尊や最低限の仏具のみで「自室即道場」を実現できる。
私の部屋にご本尊を置くことは畏れ多く、アニメグッズなどは手を出すことすら憚られる。

アニメファンの精神性について、例えば、深夜アニメを中心としたアニメファンは、やはり忙しい日々の中で夜中、TV放送のリアルタイムでの視聴を美徳としている。
やはりTVで素のままに放送される映像に臨めば、臨場感が圧倒的に優れ、まさにユーフォリア・エクスタシーを感じ、さながら天界にでも昇り、神々の如きアニメの登場人物らと相見える、いな、一体化した気分となる。
これこそ彼らアニメファン・アニメオタクの「梵我一如」の体験であろう。
世間での自己を一時であっても離れ、観念空間に溶け込んで真の自己へと昇華する、忘我にして梵我一如ではないか。
この恍惚感を味わいたいがためにネタバレやフライング情報は嫌い、インターネット公式視聴サービス(ニコニコ動画など)や割れサイトを嫌う、正統派意識の高い者も多い。

※正統派意識とかという話をすれば、例えば宗教でも聖書や経典などといった聖典の記述や教祖の教説などの教義解釈について学問が起こり、研究され、論争が続けられた歴史があるように、アニメや漫画やゲーム(ACG, Anime Comic Game)などのファンもまた、作品の設定やストーリーの実相を精査し、インターネットなどで意見交換を行う。二次創作設定を嫌う原理主義者もいる。何にせよ、信者同士で考え方の相違があり、議論に熱が入る点はよく似ている。





続いて、アニメグッズとは異なったいわゆる「キャラクター商品」と、消費者の宗教性を述べる。
まず、キャラクター商品に大別して2種がある旨を示しておきたい。
その2種とは、商品のオリジナルキャラクターがある例と、他者が著作権を有する既存のキャタクターの意匠を利用した商品である。

前者の商品はオリキャラの存在によって特色と親しみある雰囲気を演出する意図があろうが、好みが分かれて受け入れられないこともあり、ある種の賭けである。
中でもケロッグのシリアルのキャラクターは「アイツ消された!」とよく話題にされる。
日本のシリアル製造メーカーの大手にはカルビーと日清シスコがあるが、カルビーのスヌーピーはともかく、日清シスコのシスコーンの何とか坊や(アメリカン狂気)の絵柄は2014年ころに著しくショタ的な顔と体型、フラットデザイン的な色塗りの絵柄に変更された。
そのようなイメージキャラ・マスコットキャラが消えたり、現代風にビジュアルを刷新する現象などは、若い世代ほどピンと来るのではないか。
オリジナルキャラは、中身の製品との関連性を感じさせないものほど賭けとしての性質が強いように思うが、逆にあまりオリジナルキャラの存在を強調しすぎない(製品名からキャラ名が作られてもキャラ名を製品名に冠しているものは抵抗が強いか)ことで、消費者の抵抗感を生まずにいる商品もある。

一方、後者の商品は中身である製品そのものが個性や斬新さに欠ける傾向がある。
後者の商品における既存のキャラクターの意匠の利用にも2種類あり、1つは作品やキャラと本来は関係のない分野でタイアップ・コラボレーションした商品(既存のものと新ブランドのものにまた分かれる)であるか、もう1つは最初から作品やキャラの設定と符合して新発売された商品である(このほか一時的なキャンペーン型の商品や前者の一時的なキャンペーンによる後者の方式もあるがこの限りでない)。



一番軽薄な印象を持つやり方は、「作品やキャラと本来は関係のない商品」である。
例えば、商品の中身自体はチョコレートの塊であるが、有名なキャラクターの意匠を利用する権利を得て、外装や個包装でその意匠をあしらい、飾り付けた商品がある。
そのような例に類する商品に対しては「軽薄な印象を持つやり方」と思うほかない。
製造者あるいは販売者自体が出す安易な策もさることながら、著作権・知的財産権を管理する側もお金をもらえれば利用する権利を与える軽薄さを嗤う。
資本主義だから仕方がないとはいえ、両者とも私に無節操な業界だと思わせてくれる。
私としては、そういった商売に否定や批判をしないで、商売の形として認めたくは思うが、あんまりディズニーやサンリオや日本のTVアニメなどのキャラクターが、同業他社どうしの製品に入り乱れている現状は心地よくない。
本当に、キャラクターの存在などは簡単な金額で売り買いできてしまうのだから、この点は宗教性や精神性にはごく遠く思う。

だがまあ、人々の中には、私の母(脚注で例を挙げる)を始めとして、どんな理由であれ何の由縁もないキャラクター商品に手を伸ばしたがる場合もある。
他の似た製品と比べて低価格のものもあろうが、小売店に2012年から入店しないでいる私が経験的に言うところではない。
ここまでの私の所説で実感が沸きづらい人は、菓子売り場の実地調査でよく観察されたい。
どんな理由であれ、ああいう人々ほど現代的な現実主義を持っているのに、実際は理性や知性に反した空想家でもあり、由緒なきものに神秘性を感じるような不思議な人々である。

そのような現代的現実主義とは、現代日本という土地に生きていて自然と具わる思想であって確然とした論理性に欠けるわけだから、クリスマスに遊びと、正月に初詣を行う者は多い。
これは単に、変哲のない生き方をしている多くの日本人の特徴であり、社会面も宗教面も、凡庸な日本人的に思想が国土通念上の中途半端なままに自然と得てきたものに過ぎない。
思想において志操堅固な者や、そうあろうとする者すらも、現代日本にほとんど居りはしない。





即物的思考に変わって宗教の教義や教団のしがらみを厭う現代の日本人も、詮ずる所は「色違いの信者」である。
現代の日本人は本来の尊ぶべき神や信ずべき仏を忘れ、神仏の区別もろとも捨て去り、自ら新たなる尊体を創造するに至ったのである。
心に「日本人」としての矜持や枠が薄れた末に、たまたまキャラクターコンテンツへ移入した程度のことであり、むしろキャラクターグッズなどの物体を飽きずに収集し続け、その物欲の需要がますます生産の供給を増長させるという循環で、日本人の芸術性から産業までを変質させるに至った。

好きな作品やキャラクターのためには、蓄財をも惜しまずに捧げ続ける(布施・供養)。
スキスキ!という気持ちに心が躍って理性の迷いが無いパターンや、中学生時代の私のように思い煩って迷うパターンもあれ、多くはその本人が本来惜しむであろう出費を厭わなくなる。
何という神秘性であろうか、作品に興味が薄いわりに菓子や日用品などキャラ商品へ手を伸ばしたがる私の母をも思えば、このような産業は画期的ではないか。
財産ばかりか、イベント参加であるとか、様々な場所に顔を出すその勇み足も、アニメ系以外の場面では決してなしえない。

迷い続けた中学時代を思うと、私は理性からようやく信仰に入ることはあっても、心が躍る気持ちで信仰を行う精神性には欠いていようことを改めて実感する。
純心というか、道心ならぬ童心というか、そうやって徹底的な出費でもって「お布施(ご供養)」ができる人々へ、私は、ある意味で尊敬を懐く。
今でこそ、去年末から略式ながら勤行を上げ続け、信仰は半ば強まっているが、つい2015年のいつまでかは、学者のような部外者の顔で宗教を学んでいた。
もちろん2014年6月に仏教を学び始めた時から、本格的な信仰に入りたい思いを兼ねていた。





アニメファンなどをそのまま宗教の信者と同様の「愚かな人種」と短絡するつもりはない。
以下から内容が専門的になり、口調や語彙が険悪に見えてくるが、主に日蓮某宗スタイルである。

例えば、とある小乗仏教の信者がネットで「私は二次元に萌えませ~ん、ゴータマ仏陀(釈尊)は実在した方ですから三次元萌え~、大乗仏教の信者は観音とか弥勒みたいな架空の菩薩好きの空想家だから、二次元好きと同じで~す」などと強引で偏屈な持論を垂れていたが、このように浅薄な総括をする論理を説くつもりはないことを留意されたい。
・・・これについて詳しく弁駁するのは恥ずかしいが、「架空」とされる菩薩が好きという大乗仏教信者は、既成仏教の法要に参列したり遍路などを巡礼するような在家の高齢者が多く、典型的なアニメファンだとか二次元好きはほぼいないし、等号で結び付けられるはずもない。
それは形式の話だから、精神性の話に移しても、私は典型的なアニメファンだとかとは理念を異にして二次元の価値を認めている(アニメは2012年8月から見ないと過去記事に詳述)。
それは一種の知性的な耽美主義であるから、自慰行為などの享楽的な行為は元々行わない傾向があるばかりか、昨今はますます自慰行為を避けることは2015年12月20日から2016年4月10日まで一度もオナニーによる射精をしなかったことに看取されよう。

少々くだらなく思われそうだが、このように私自身は極端な反例であるとしても、むしろそれを知らない者たちが惑乱して斯様な邪説を得意げに漏らすわけだから、少しは視野を広げられたく思う。
この発言者が、説明する事象の理解を促す上で便宜上こう説いた、と肯定的に理解をしても、そんな二次・三次の好き嫌いをいちいち披歴して卑俗に譬えるなど、仏教を心得ない状態は明白で、無道心にして世俗の倫理観すら弁えない言説である(二次が好きならどうとか三次が好きならどうとかいう二分法しかり、その執着しかりと外道を過ぎず)。
※ついでに私も少し蕩けたことを言えば、昨今の二次元はスケベに目を狭める傾向があって目つきが悪いので萌えづらい二次元が多い状態は事実である。

現代の小乗仏教もとい、日本で上座部仏教・テーラワーダを学ぶ人々(教団に所属しない場合が多い)は、特に日本で生まれ育っている場合、潤沢な既成の大乗仏教教団への反骨で西洋の合理思想・現実主義に毒された俗悪かつ、信仰の精神性を自ら殺した佞人が多い(ここまでは筆者も似たようなものかもしれない)。
それでいて知性を見せながら知性は薄く、在家のまま解脱を願う信念もない。
だから大概の者は、パーリ語など原典にこだわりながらパーリ語もサンスクリット語も覚えず、漢訳経典を「誤訳・改変まみれ」と嫌いながら漢文の知識に欠け、パーリ語で伝わる小乗経典のみが釈尊の真説であると信じ、N博士という東大名誉教授だった人物(故人)による現代語訳の経典を絶賛して聖典とし、日本語すら古文や現代文の小難しい文法を知らないことも多い。

酷い者は「般若心経は観自在菩薩がサーリプッタ様(舎利弗尊者)を『舎利子』と子ども扱いで呼んでいてブッダ(釈尊)の弟子を軽視している!」などと噴飯ものの低劣な難癖を付けている。
これは過去に私が書いたよう、「プッタ(梵語でプトラ)」自体が人物名の語末に付くと「○○の息子(サーリプッタならばサーリの息子)」という意味で、アメリカなどの「ソン(son)」という父称姓に似た接尾辞となり、単に「子」と「弗」は漢訳か音写かという違いでしかないが、これは舎利弗尊者に限らずウッダカ・ラーマプッタなど類例が多くある。
そんなパーリ語や漢語などのすぐ気付ける知識すら気付かないか、そもそも語義を学びもしていないほど浅学であり、語学も疎漏である。

これはその本人に限らず、多くの日本テーラワーダ信者が程度の差ばかりあって同類である。
先述のように、文献学的に漢訳経典や大乗経典を嫌い、思弁哲学的に小乗仏教を求める割には、知性に乏しく感情に流されて得羅漢・解脱・涅槃など遠かろう。
法華や念仏など、宗旨ごとの唯一最勝の教義を貶めつつ、「ダンマパダは唯一正しいお経だ!」と叫ぶところ、その法華や念仏の思想とどう異なるか聞きたいが、低劣の極みはスッタニパータの所説を取り上げながらダンマパダの所説と誤解してダンマパダを称賛する信者がいる点である。
それだったらば「パーリ語経典・南伝仏教のお経は全てブッダの言葉で正しい」と宣揚すればよい。
日蓮大聖人の御言葉を借りれば、「(前略) 弁へざる人師なんどが仏教を知りがほ」にして「経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ」ようなものである。

何よりも、彼らテーラワーダ信者は「自灯明・法灯明」とよく言うが、彼らの「釈尊真説=パーリ語経典など=正しい教え」という主張とは、小乗における釈尊への盲信であり、ダブルスタンダード(大聖人云・自語相違)となる。
※そもそも「自灯明・法灯明(もとい自洲・法洲、自依・法依)」とは、四念処のことであると釈尊は仰せである。四念処とは、今の自分の身や心について如実知見し、八正道に通じて法に依り自己反省することである。自分の心の三毒(正論を言いたい・他人を謗りたい・その感情に流される=貪瞋痴)を棚に上げてどうして議論や大乗誹謗をしようとするか?(大乗は四念処・八正道を成就した菩薩が議論や化他行をするのであって四念処の前提を心得ている)
事実、経典を読まず心得ずに尊大な主張をする信者が、うたた多くいる惨状は多く先述した。
彼らの嫌う創価学会などの宗教と、どう信仰や精神性が異なるか彼らに問いたいが、哲学的見地で一番正しいことは「どの信仰を持ってどの教団に所属するか」よりも、「どういう思考を基にその信仰を選ぶか」といった己の選択の正当性でなかろうか。
私は法華最勝を信じつつ、まだ諸経・諸教に触れている(法華においては思惟・理解よりも信心による一念信解の精神が大事であることは言うまでもない、その信心を曲げずに保持できる者はなお尊い)。
私は他人の短所を論うのではない、諸々の学者の蒙を啓かんと憐れむのみである。

諸々の日本テーラワーダ信者の中に、一時は既成仏教教団にとらわれた信仰をしていて、それで世間的な被害に遭ったからとして強く恨み、小乗仏教に傾斜して大乗非仏説論を唱えだす軽佻浮薄極まりない人間もいる。
要するに「本質(人間的な内面)」が変わらず、ただ執着する対象などの表面的な性質を反転させた程度に過ぎないし、そんなままでは解脱など到底できない。
現代的合理思想に毒されても煮え切らず、賢げにして愚昧なる者ども(悪道輪廻)よりも、創価学会などで純粋な信心を貫いている一部の会員の方がよほど尊いと思う。



すでに御存知であろうが、大阪の真言宗寺院に所属するとある僧侶は、南伝仏教圏(小乗・テーラワーダが盛んな東南アジアなど)に留学してパーリ語はもちろん、サンスクリット語、漢文、英語さえも学んできながら、テーラワーダの比丘には転身せず、日本の既成仏教教団の僧職にある広学多聞の持戒僧である(HPの書籍リンクがAmazonアソシエイト広告になっている点は心残り)。
彼はパーリ、サンスクリット、漢訳の様々な経典や律などを独自で翻訳してHPに彼の主張と共に掲載しており、中国の土地柄を蔑視しながらも漢訳経典を軽視せず、中国の先師らの論・釈にも通達してそれらも訓読・現代語訳を行う。
古今東西の思想・哲学(中国・インド・西洋・ギリシャなど)にも造詣が深い。
彼のように博学でなくとも、彼ほどの智者(日本復古仏教教祖N博士など)は小乗・大乗の差別を理性的に減滅して尊重できているし、私としても大小・内外の典籍は広く学ぼうと志向する。
繰り返すが、既成仏教教団の妄信・狂信者(ファナティック=ファン)に対し、既成仏教教団を金満・貪欲・俗悪な体質と見て過度に嫌って教義までも遠ざける佞人は表裏一体の範疇である。

彼の真言宗S派の僧侶・沙門K氏(過去に"婆塞=在家?"を名乗る)はどんな理由から真言宗に僧籍を置き続けるかは不明であるが、私は無宗教の両親のもとに生まれ、幸いにも中1(2009年)の4月に緊急の葬儀のために向かった父の実家がある鴨川市祖母らが仏壇の前で唱えていた南無妙法蓮華経のお題目を聞いて知り(葬儀は真言宗寺院だったが)、様々な思想の遍歴もあれ、先述のように2014年6月から仏法への関心を強く持って主に日蓮大聖人の法門を学び始めた。
仮初めにも「広学多聞」を見習いつつ、本心は帰一(一乗に帰依)である。
心の故郷は大聖人の仏法に他ならない、そう信心を起こしていると自負する。
だから、真言宗や真言密教などを「真言亡国」の悪法とまで言い切れずとも、胡散臭い印象は拭えずいるが、かの真言宗僧侶も何らかの理由や意志があってのことと拝察し、尊重したい。

結びとなるが、既成仏教教団の信徒も、新興宗教教団の信者も、それらの教団を嫌う独学者も、アニメなど商業主義下の消費者も、みな今の信奉や理念はそのままでよいが、せめて私や諸々の智者のような広い見識と尊重の思想を知っておいてもらいたい。
その上でますます自身の信奉や理念を堅固にできるならば、私はその人を尊敬すらできる。
正しい知見と精神性からそれを行うからである。
少し相対的に優れた事柄を知れば、それで安易に傾いてしまって人々の今がある。

また、宗教とは、形ある教団と体系的な教義の存在のみならず、多くの人間が心に抱えている精神をも指す普遍的な概念であり、人間の行為・行動などの根源ともなっている(もはやこの領域は"Religion"の訳語である「宗教」という語句には足らず、不適切であるとも思う)。
むしろ芸能や音楽や芸術やスポーツなどという趣味や娯楽こそが、宗教という根幹より生じた枝葉の結果である旨は、先の「音楽と宗教の概論」という記事を併せて読み、理解を深めてほしい。





起草日: 20160421

末文にあるよう、当記事は「音楽と宗教の概論」という記事と共通テーマであり、起草日も近い。
それ以前の過去記事にも、何か世間の事柄と宗教性を論じたテーマがある。
以下では、とある社会的・政治的思想(イデオロギー)と、宗教の相似性を縷々語っている。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/06/blog-post_21.html

以下の論文(1.4項)では、商業主義的な芸能などの世俗にとらわれた現代人が発する即物的利益信仰と即物的リスペクト意識について1.4項に「※」を付けて書いてある。
芸能人・音楽家やグループとかの熱心なファンも、ほとんど教団信者に変わらないことは公開収録バラエティ番組やライブ会場の観客席だとかに見え、芸能人などの顔を出した商品もキャラ商品と似たようなものである。
そういった既成教団で熱心に布施・供養を行う信者・カルト教団のカモと同種である現代人(拝金主義の家畜)の商業主義的執着や幸福の基準が、本当に人間としての幸福たりえるものか、胸に手を当てて今一度考え直してもらいたく思う。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/12/shikokubun.html#nn4

書ききれなかった話を要旨で略記→「アニメ・マンガ・(ビデオ)ゲーム等のキャラクターコンテンツの宗教性に準ずる例、その類例とはペットやトレーディングカードゲーム(TCG)がある。犬はまだしも、猫以下多くのペットへの愛着、ペットを通じた同志との交流(動物愛護運動)など様々な点を見るに、宗教の教団の信者に似る。御犬様ペット様の糞の始末(ケージの掃除など)に責任を持つ、という仁義が第一の理念らしい。トレーディングカードゲームも様々な点が似る。同志との交流というと、トレカにせよ多くのビデオゲームにせよ、多人数でプレイするものだが、悪しき遊戯に蕩けて雑談の因を生ずること豈に徒人(廃人)の謗りを免れんや、交友なる美辞はこの地に落ちず」



少し雑になるが引用 (小類聚 1)

アニメはどんな理論で「手の届かないモノ」と成り得るか。アニメとはテレビあらば無料で見られる、そんな体裁であるが、その次の到達点が「アニメグッズ」の購入である。どうあっても商業主義だから当然のことだ。そして、アニメのファンならそれを持つのもまた当然のことである。しかし、私がどうしてグッズの購入などできようか。これ故に、アニメを見る時間は無駄なのである。モノの恵みにありつけぬ私が見ても得られる愉悦はない。グッズの所持数がファン内での優劣さえ隔て、ランクが決まるならば尚のこと悦楽はない。ファンの立場にある以上、グッズ未所持では引け目を感じるのが人情だろう。アニメ業界でいう「作品愛」とは、精神に懐く愛情だとか以上に、いくら「グッズなる物体」を所持しているかで決まる「即物性」が優位となる。…2014/12/10

当の行政は軽佻浮薄にも、キャラクター戦略ばかり2000年代後半から進めている(ヌゥとかうなことか)。埼玉県内のマスコットキャラクターは、コバトンとアッピーだけでよい、2009年以降ゆるキャラ・ご当地キャラが流行りだすあたりからのジャスティス(市内ネタならレッズ・アルディージャのキャラだけでよい)。…2015/8/19 (2015年6月10日記事の追記欄)



色々と脚注 (小類聚 2)

ここでは本文中でもカッコで示したよう、母親のキャラ商品購入例を挙げる。

2・3月ころの日記メモで、某メスネズミ仕様の英和辞典か和英辞典を母親がにわかに購入していたことを記録したはずだが、文章が見当たらない。
母親は既にある辞書に満足しなかったり、随分とPCやタブレット端末(Kindle, iPad miniなど)に加え、2016年1月26日購入のiPhoneなど、電子端末を蓄えていながら今更活字の新しい辞書を、それもキャラ仕様のものを買ったわけだから、やはりキャラクターの存在による神秘性を感じずにはいられない。
当然、この母親はその某ネズミ系アニメにも詳しくないし、ファン向けの本だとかも所有していないが、安易なコラボレーションの辞書を買うのであるから笑ってしまう。

ほか、2015年10~12月のネット通販大量買い期間では、カートゥーン系のヒヨコキャラが描かれた"MADE IN CHINA"の袋ティッシュを異常な量で買ったのに、2016年未明にはまだ8割ほど残しながら別の日本製・紙箱ティッシュを買いだめしていた。
人の偶発的な備蓄(母が買い与えたシリアルが私の部屋に溜まる)には難癖を付ける割に、母自身は無駄な買いだめをし続ける様子は、当のネット通販期間に多く、Amazon等でのネット通販が止んでくる12月下旬も、イオンネットスーパーで大量の粉末洗剤とシャンプー詰め替えを買うこともあったが、欧米ヒヨコキャラ中国製ティッシュに関しては、単に中国製だとかを知らずに買って後悔したパターンではなかろうか。
母は、安易なキャラ商品などが欺瞞の温床である蓋然性を知らない。

元々商品の見る目のなさは、今更ほかの例を挙げるまでもないが、商品を検分さえしない無神経は一層の問題性があり、一例としては、私向けにと災害用のつもりの懐中電灯(過去の記述は見当たらず)を買った際、調べもしないで「レバーで手動発電」と思い込んでいたが、見るからに安物がそんな作りなはずなかろう、実際は電池の初期装備すらない電池式の安物である。
以下から、もう少し母とキャラ商品に関する各記録を集めて載せる。



ちなみに、母特有・キャラ商品選択癖はここで、ドラえもん映画仕様として現れた。イオンネットショップ>「ドラえもんの恵方巻」の公式ページを確認すると、「予約特典」の文字が浮かぶ。付属のカードホルダーなるものはその特典とのことであった。つまり、母はこれを予約購入したこととなる。 (中略、実物の画像付き) ところで、キャラクタータイアップ商品のこれは上出来の部類に思う。外装はまあ、本体も恵方巻きの上にドラえもんの鈴を象った卵焼きが載る。巻かれたものの中には別の卵焼きに加え、ドラ焼き生地まで巻かれる。よくある無節操キャラ意匠利用の商品よりも手が込んでいる点を評価しよう。…2016/02/02

ところで、裏面の用件だが、2月3日の節分と2月14日のバレンタインデーにおける食品分配予定が書かれる。後者は、ワケのわからないアニメキャラ菓子などが買われていることを既に確認している。母も弟も見ないか、グッズなど買うことの無いアニメのキャラクター食品だけ買う性癖は何とかならないものか。…2016/01/31

(2015年12月26日の) ピザーラの宅配に関して翌日気付いたことは、妖怪ウォッチというアニメ仕様の梱包になっていたことである。翌々日においては、「ジバにゃん & コマさんマグカップ」なるものがキッチン棚にあるのを目にした。母・弟とも妖怪ウォッチを視聴したことはほぼ無く、グッズも皆無であるが、なぜか過去に食品でいわゆるキャラクター商法、妖怪ウォッチのコラボレーション・タイアップ商品を好んで購入することがあった。今回にいたってはグッズ的な物が付き、わざわざグラタン1個のためにピザーラを呼びつけたのは、マグカップのオマケをせしめようとするためか。…2015/12/26

2015年7月29日投稿の本家記事ブログの8月4日追記
(7月28日の母・弟出かけ先について)"Disney On Ice 2015"鑑賞は「アナ雪」効果なのだろうか?母親は2014年からどうも「アナ雪」関連のキャラクター商品を、食品系から洗剤、化粧品の方まで買う傾向があり、甚だ疑問であった。本人はその映画を映画館で鑑賞したことがあったのだろうか。そういうことに足が遠い印象の母だが、かねがね推測されたことは、2014年3月の祖母・叔母2人を豊橋に招いた辺りで市内の案内をしていたが、もしかしたらその中で「日本最大級のシネコン」にも連れて行って、そこで鑑賞した可能性もある。「アナ雪」をその映画館で唐突なスケジュールで鑑賞できるのかは不明だが、これ以外に思い当たる節は無い。

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あしからず。

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