2015年6月10日水曜日

己心空間のトポニム問答

我が故郷・埼玉の地名について少しだけ考えていた。
記事タイトルの「トポニム"Toponym"」とは、ギリシャ語根分解で「場所"Top-"+名前"-onym"」を意味する英単語である。

問ふ、につくわうかいだうの彼の鄙びたる地、何ぞ粕壁と称さるや*。
答ふ、都より来(きた)る人、彼の地に下りらるれど、そこに家(やかた)ひとむねも無きなり。其の土を栄えん*と欲し、やうやく粕にて壁をこしらへたり。故に粕壁と名づくるなり。

問ふ、去(いぬ)る平成二十一年より、三百尺の高楼聳ゆれど、これまた粕にてこしらへたるか。
答ふ、かかる"タワーマンション"は、鉄筋コンクリートにて建立せられり。勿憂。

※「称さるや」は当初「呼ばれんや」としたかったが、どちらにしてもネット上にまともな用例が無い。助動詞「ぞ」で「何ぞ」と用いたいときは係助詞であることを念頭に「何ぞ粕壁と称する(連体形)」か「いかにぞ粕壁と名づくるor称せらるる(連体形)」がよいか。また、「栄(は)え」の原型は「栄ゆ」であるため、「栄へ」という仮名遣いは無いと見る。「栄(さか)へ」はあろうが。他動詞のように用いることに違和感もある。



上記の私が書いた文章、その前半はとんだ法螺吹きであるけれど、実際に私の予想としては「"粕壁"が先で、後に縁起の良さそうな"春日"を当てた」というものだった。
現在、字(あざな)に残る「粕壁」は葬り去りたい忌み名だとか、と邪推していた。

正しくは、「粕壁」が後(江戸時代)であり、"カスカベ"の名が始めに定まった時(南北朝時代)から「春日部」という漢字で、その由来が、この地を領地とした士族の姓「春日部氏」であるという。
今の都市名は、この原点が1944年4月1日の合併で再興したものということになる。
・・・・・・では、その士族の姓「春日部氏」の由来とは、出自とは何か。
初出は不明瞭なところがあり、経緯が掴み難い。

埼玉県内の士族といえば、秩父氏・河越氏をはじめ、熊谷氏や比企氏も有力、熊谷は歴史的に栄えていた都市(同時に、地方都市然としている宿命と広域合併で県内屈指の人口減も)で、比企郡は今尚多くの自治体=町村を残しており、市として独立したのは旧松山町=東松山市くらい。
私の日々の勉強で、日蓮系の教学があるが、その歴史背景を知る上で「比企」の名は稀に見られると感じている。
この場合「比企谷」という名が登場するが、鎌倉市内の寺院と関連している。
氏族の繋がりとしては、埼玉の比企郡と共通している。

比企のほかは、いずれも県内に誇れる栄えある地名となっているのも、歴史的経緯からして必然的なものが感じ取れる。
埼玉県内の地名、ことに現行の市区町村なら、2013年に地理と共に全て把握していた。
サイタモニム(ギリシャ語根より類推"Σαϊτάμὄνυμον, Σαιταμονυμον")に興味あって強記だったという。



以下、個人的な昔話 (記録活動)


生まれてより埼玉県内に住んでいた14年間で、川越は一度も行っていない。
秩父も一度も行っていない(中2課外授業を拒否しなければ行っていたことになっているかもしれないが、その授業の行き先が"山間の河川敷"という曖昧な記憶なため、定かでない)。
春日部なら、小3の頃に千葉県野田市の清水公園に行く途中、大宮で乗車した東武野田線で通過しているはずだ。
車窓の風景に「あれがしんちゃんの家か!?」と、目を鋭くしていた。

熊谷はバイパス(国道17号支線)利用で頻繁に通過、駅自体の下車が2008年に一度ある。
当時、北海道紋別市か兵庫県姫路市のどちらかに住んでいた母親が県内に遊びに来た際、児童養護施設の弟2人を連れて熊谷市郊外のリゾートホテルに2泊ほどする際に下車した。
帰りにまた駅前でカラオケ店に入ったそれが、人生最後のカラオケとなった・・・。

比企郡および東松山市は、森林公園あたりや、あるいは某クリニックだかに小6~中2手前の期間には度々訪れていたと記憶する。
某クリニックに数度カウンセリングを受けに行ったのも、私が自発的に父親に「精神科で診てもらいたい」と尋ねた経緯があるが、当時の私は年下の幼児ばかりいる小児科的なものでなく、成人も受診する精神科を期待していたが、当時は上手く口に出来なくて「本当にここなの?」としか聞けず。
そのカウンセリングも、私が小4の頃に児童相談所で受けた内容と同じようなIQの検査だとか、私が中1になって受けるに足らないメニューであったことに、冗長で回りくどく嫌気がさした。
担当の30前後ぽっちゃり女性の作り笑いを絶やさぬそれに、不覚にも気味の悪さを覚えて、事実上最後となった回では「気持ち悪いですよ」と主語も無い言葉で単刀直入に言ってしまったほどだ。
決して容貌に対して言っているのではない、といった意思も告げることはかなわない。
女性の返事は「よく言われるよ」と、どんな感情から出るか、とぼける程度に済んでいた。

父親もまあ、元々家から少し離れたここに連れるのも面倒だったのだろうし、乗り気でない私の態度も相俟って、上述のように数度(多く見積もって4度)のみの受診となった。
最後の回が、中1の終わりも近い頃・・・平成21年度末のようなものだ。
その後、新しい精神科などの手引きが一切ないまま、「診てもらいたい」の願望が潰えた。
父親に物を選ばせる(塾など、子供の教育の補助の場の斡旋、鑑定する眼が問われる)ことは、どこかアテに出来なかった記憶が少々残っている。
教育の方面、家庭のケアには疎いようだった、それはこの件に限らないけれど。
このクリニックの件も、塾の件も、過去にどこかで書いたのに、例の如く探しても徒労に終わった。



追記: 2015年8月19日

埼玉ひいては関東地方一体が、数千年前は広く海に沈んでいたことは2012・13年頃より知るところで、本家2013年5月6日の記事画像にもそれは描かれている。
同時に、「海無し県に浦和がある」理由も、私はその関連性を結び付けていた。
12・3年頃から、さいたま市をはじめとした荒川以東江戸川以西の低地は、23区よりも水位5m上昇で水没しやすいことについて非常に悩ましく思ってもいた。
23区よりも海から離れた埼玉南東部の低地が23区よりも水没しやすい道理はあるのか、と。

当時の見解として、見沼に見られるような歴史的経緯であり、今は見沼田んぼと少数の住宅地などがあるが、地盤は弱い方で、保全地域でない場所でも宅地開発は芳しくない。
地盤が弱いことによる問題は、大地震などの有事に建物倒壊・液状化の危険性があり、本家2013年3月18日の記事で転載した3.11関東液状化地域の画像では、海から離れた箇所は埼玉でも千葉茨城でも利根川流域で被害があったことが分かる。
また、県内の荒川河川敷は多くの公園・ゴルフ場のみならず彩湖をも造成し得る広さであり、桜区・西区などには田園も広がる。
一方の都内では、河口に近づくにつれて同じ荒川河川敷とは思えないほど狭まるのも、平気を見込んでのことか、開発上やむを得ず危険な場所にも都市開発を続けたことか。
どちらにせよ、都市部としては広大な河川敷を備え、その先にも田園などが広がるところ、現在の桜区西区流域付近は、明治期以前から人が住みたがらなかったほど地盤が弱いか、氾濫しやすいと思っていた。
名実共に「荒川」として、近世より現代までその立場は崩れていない。

この度、かなり有力なPDFファイルの論文を拝見し、川口市付近などもそういった縄文時代前期~後期までのかつてには荒川(入間川説)の河口と見られたということを学んだ。
12・3年頃から今なお曖昧な認識として、荒川・元荒川の1000年以内の歴史の問題があり、流路であるとか川の存在自体だとかが疑問視されているのだが、この機会にはっきりさせたく思い調べてみると、元々の荒川は元々の利根川に合流して東京湾に流れていた(縄文海進、画像検索をして参照)が、中世・近世に入って色々と流路がいじられた説が一般的のようである。
今から約1000年前であれば、縄文期の高い水位が退く=海退して、川の水路もはっきりしたわけで、その頃までは入間川も利根川も東京湾に流れた川だった。

同PDFファイルでは、そもそも全国に現存する浦和の地名自体が、開拓以降に付いた北海道の2箇所を除くと、愛知県西尾市東幡豆町と鹿児島県いちき串木野市にしか無いそうだ。
地名の由来は地形などからいくらか推量できるが、埼玉平野部の地名の場合は、より古来を地質学的に掘り下げねば解明できないほど奥深い。
我が故郷・浦和の最も貫禄・趣きがある事実となっているが、あまり宣揚されないし、当の行政は軽佻浮薄にも、キャラクター戦略ばかり2000年代後半から進めている(ヌ○とかう○ことか)。
埼玉県内のマスコットキャラクターは、コバトンとアッピーだけでよい、2009年以降ゆるキャラ・ご当地キャラが流行りだすあたりからのジャスティス。(さいたま市内ネタならレッズとアルディージャのキャラだけでよい)



「さきたまの うらわのみよを たどるなら ちよやちよなる すめらぎにすぎ」
その土地の歴史を知りたい時、物的な調査だけでは解明できない含蓄を持つ地名が無視されるのであれば、灯台下暗し、である。
殊に埼玉県内の地名であれば、史料に初めて名が載るのがやや遅れる場合も多いため、地名から古来を知ることが肝要であろう・・・極論じみている。

あらあら追記事項が住んでからも色々サイトを眺めていたが、江戸川の古い呼称に「太日川(ふとひがわ)」というものがあるそうで、気になって調べてまた興味深い画像を見つけた。
それを眺めていると、関東平野が今以上に水びたしであって、夥しい血管のようだ。
霞ヶ浦から印旛沼まで繋がっており、見沼も見える。
東海道・鎌倉・相模の国などの西・南方を経て埼玉・群馬・栃木・千葉・茨城方面に行くにも、川が多くて幾度も舟渡しを頼まなくてはならない苦労が偲ばれる。
しかも荒川・利根川などの河川の流路を変える事業を行った先人の判断と気概は恐るべし。
新しい都に水害が起きることを防ごう(?)と、早くから手を着けておいたのだ。


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