2016年1月23日土曜日

妙法蓮華経・如来寿量品は諸経で最勝

記事の題に「諸経で最勝」と書いてある。
ここでは便宜上、寿量品の一品を一つの経、としてよい*1
本門・寿量品の勝義とは、いわゆる五重相対で「内外相対(仏教か否か)>大小相対(大乗か小乗か)>権実相対(権経か実経か)>本迹相対(本門か迹門か)」の、本迹相対までに当たる。
大聖人の本化・下種の法門にある寿量品の肝心「南無妙法蓮華経」を示すことで「種脱相対(下種か熟脱か)」というところまで究まる(教観相対という表現でも大体同じ)。

記事の題にいうところの根拠は、2016年1月10日投稿の某所質問における自己問答を以下に掲載することで、その説明としておく。

※この1月10~13日当時、まだ認識の甘い部分も多く、それから1週間以内に新たに知ることがまた多かった、回答文中、自ら「浅識」と称したが、やはりまだ不勉強である。記事下部「脚注・出典」の項に問題点などがまとまっているので、そちらを先に参照されてもよい。

※ここだけ2017年追記、この質問投稿時の2016年は小乗・権大乗を広く学び直した。法華経に寄せてその成果の一部を記録した記事がある→http://lesbophilia.blogspot.com/2017/01/hokekyo-monteigi.html




質問 2016/1/10 16:31:40

「法華経は効能書きしか書いておらず肝心の薬が無い」という「出定笑語」という江戸時代の儒学者(国学者)の書に書かれた批判*2を唱える仏教者は、取りも直さず日本の全伝統宗派を否定するに他ならないと思いませんか?
同じ理論では、利益ある真言密教も、知的な禅語(悟りを体感できる座禅)も、往生できる称名念仏もデタラメに変わりはありません。
でも、法華批判の時だけ彼らの中の賢げな人や学者は、こういった批判を金科玉条のごとく持ち出しますが、なぜでしょうか?

経文に「薬・丸薬が無い」ようであるからこそ、日蓮大聖人は妙法蓮華経文底秘沈の大法を解き明かして流布されました。
我ら凡夫が法華経を読んでも"無い"ように思えますが、ちゃんと薬は有ります。
題目を本尊に唱える、素晴らしい「良薬」がしっかり有ります。
また、「法華経は法華経自体への讃嘆=自讃ばかり」ともよく言う人がいますが、その文底秘沈の大法を讃嘆するのですから当たり前です。
それを知っている*3からこそ大聖人は、真実の説法が方便品の十如是と寿量品の久遠実成・良薬の理と最重視して、それを基盤とした教えを説かれたのです。
諸々の法華批判者よりも法華経に透徹していることは明らかです。
経自体は「月を指す指」として正確に月を指していますが、法華批判者は「月を指す指」すら正確に見えていないかぼやけて見ていましょう。

そして、「出定笑語」の批判など、江戸時代後期・幕末に流入した西洋的な合理主義や先天的な学問的見地に依れば、確かに法華経をはじめとした大乗経典は「インドに誕生した釈尊」の真説・仏説でないかもしれません。
しかし、妙法あるいは大乗仏教の理は厳然と存しているものと、私は"信じて"います。
正しい信仰と決断していきたいです。

「出定後語・出定笑語」が出た時代の日蓮宗僧侶はこう語っています。
「若し夫れ作者釈尊にあらずとも、経文に順じて釈尊の説とするに何の不可かあらん。経は作者には拘はらず唯だ其の理の勝るるを以て可なり。」
※法華経などの作者がもし釈尊でないとしても、経文によって釈尊の説いたことと見て何の問題があろうか。経は作者を問わずただその教理が優れていることをもって認めるべきだ。

「科学的」でないキリスト教*4などでさえ、深く信じる「科学者」もいるでしょう。
キリストは生まれから、生涯かけての事跡が伝わるところ押し並べて胡散臭いものですし、イスラムほか一神教の教えなど今時の小学生は信じちゃおりません。
そのような今時の小中学生、として過ごす現代的な唯物論者・無神論者であった数年前までの私(現在18歳)が、妙法に目覚めたということには確たる理由がございます。

とりあえず、あのような批判を九官鳥のように唱える人は、既成宗派の信仰をする人としてあってはならないように思えますがいかがでしょうか?
私(18)は教団に所属せず、両親もろくに宗教への関心を持たない人らですから、独自に信仰と研鑽を行っています。

近代の真言宗僧侶(後に還俗)*5はこう歌います。
「天台教義に根拠なし、真言誤読で真言なし、念仏往生仏語なし、禅は偽作で伝燈なし」
この言葉はどうにも捉え難いものです。
表面的な意味あいもさることながら、信仰的にも小難しくあります。




自己回答 2016/1/13 12:39:18

擣篩和合の丸薬と妙法蓮華経(釈尊所説のお経とは別の、根源的な法の名称)の悟りは、「唯仏与仏」であるから、凡夫には経文の上(文上)からは読み出せない。
故に文底秘沈と名づけられ、日蓮大聖人のように透徹された覚者でないとその法義も法理も知り得ない。
「十如是」の義に見る、羅什訳法華経の創作性(梵語版にかけ離れているとしばしば言われる)云々も、法華は真説か否かの議論と同一轍となる。
十如是から敷衍したとされる「一念三千」の義も、一般に五時教判と同じく、質問末尾の「根拠なき天台教義」と見られてしまうが、やはり釈尊が説いて羅什三蔵が明文化しようと、天台大師が説いて章安大師が明文化しようと、久遠からの根源の法の派生であって、大聖人の根本法門とは名同体異である。

今「是好良薬」としての南無妙法蓮華経の題目本尊を知ったところで、信じて唱える行いをせねば「薬効」が現れない。
ここで「汝可取服」、「取って(信じて)」「服す(唱う)」べきことを知らねばならない。
私はインターネットにより仏法に目覚め、見聞がかない、研鑽が進むとはいえ、普通の人は世俗文化の情報閲覧、コンテンツ利用、ゲームや雑談などに使い、無論私もかつてはそうであったから、やはり良薬が隠され、あるいは眼前に出されるだけではまだ意味が無いことは分かろう。
そして、最近までの私は勤行をほとんど行わなかったが、今は不遜ながら略式勤行を度々している。
至心より信仰する篤信の者になれたらそれは良いものだ、とやきもきしている。

斯様に法華経の金言を恐れ多くも援用する私であるが、完全に法華経を肯定するかといえば、そうとは言い切れない。
大聖人は初期の御書(妙判)の一つとして名高い「唱法華題目抄」の末文を「但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」として締めくくられている。
世尊は「神通力」を用い、法華を信解する功徳として「利根」が備わることは、法華経の中に説かれてあまつさえ譬喩品では、法華経誹謗はとんでもなく恐ろしい果報を受ける、とまである。
人として生まれ変わっても外見は醜悪、身体能力は不十分、人からも蔑視され続けて悲惨な一生を過ごしてしまう、と生々しい言辞が尽くされている*6

だが、大聖人は五大部の一つ「撰時抄」の中においても「彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱うる癩人とはなるべし」と仰せになっている。
天台宗・比叡山の座主は、正しい法華一乗を捨てながらに日本の中でも貴い位にいる。
癩病のような重症の人は、病の為に生命力が失われ、外見も醜くなって人から疎まれるが、誤った天台座主よりも、法華題目を唱える癩人の方が実際にはずっと尊い、と指南されている。
※天台大師が臨終に念仏も唱えて往生を願ったとか、伝教大師が念仏・禅を伝えて密教も学んだとかいう事跡は措いておく。
「癩病」もとい白癩の病(白斑)というものは、羅什訳妙法蓮華経やサンスクリット原本でも悪業の果報としてその名が出される。
インドでも中国でも日本でも、その症状の重い病気が古来より恐れられていた。
それでも、後生を思って南無妙法蓮華経を唱える癩人がいれば、天台座主のような貴僧よりも尊いと断言される。
とにかく末法においては、多くの法華経の理が合わなくなっており、大聖人としてもそのまま法華経の文に説かれる理が末法濁世に合うとお考えではいないことと拝察する。
だからこそ、大聖人が最も強く訴えた「お題目とご本尊」が末代の凡夫は貧富貴賎を嫌わず、受持せねばならない。
大聖人が解き明かした本化本門の法華経とを今一度、分別しておこう。

みなさんお疲れ様でした。


最後に、ようやく質問自体と関係のある個人的見解も書いておく。
独り信仰を持つ私(浅学で平成生まれ未成年)ですら、大乗非仏説論を峻別できた。
日本の伝統的な大乗仏教の集団教団に所属いている者が都合よくあの論理を持ち出すとなれば、やはり元々中国偽作の禅宗根拠経典「大梵天王問仏決疑経」や菩提達磨の伝説はもちろん、浄土三部経も何ら根拠が無くなり、これらを所依の経典とする諸宗はインチキな存在に等しくなる。
真言も陀羅尼も誤読まみれでは、利益が最初から存しないし、ありがたい大日如来(ビルサナ~)というのも、阿弥陀仏のように崇拝されたり、あるいは仏が汎神論的に存在するとはどういうことか*7、私が浅学とはいえ、かなり難解である。
小乗とされる戒律仏教とは精神を異にしているが、これまた奈良仏教のころから日本で大仏などが作られるほど古来信仰されているわけで・・・・・・このあたりはまだ難しい。
日蓮大聖人も、本格的な真言破折の開始は佐渡流罪以後であったし、もう少し学ぶ必要がある。

ちなみに私は特定宗派の教学の影響を強く受けているが、セクト主義・教条主義ではないからこそ、このような某門流信徒たちができない高度な質問をしている。
妙法を最勝と考える私だが、学ぶ対象は妙法の教理ほか、古今東西仏教思想全般にも拡げている。
もちろん、仏教に限って言えばそうであるが、外の学問も芸術も気ままに、ね。
本当に老いやすい自分は学も仏道も成り難いことを悔いている。
願わくは三宝の加護の深遠ならんことを・・・

※添付写真は2015年5月10日、自室安置本尊(ミニ掛け軸)と簡素な数珠
http://masashi.doorblog.jp/archives/44006253.html




自己返礼 2016/1/13 13:29:29

寿量品・自我偈は諸経の中の最勝と確信する。
これを第一に弘められた日蓮大聖人の智慧と慈悲に拝跪合掌の念は絶えない。
やはり円教・了義経とは、寿量品のことを言うのであろう。
ああ然るに、仏祖の真説でないことを認めて、末弟の新説に一理あるとすれば、法理あるとも仏教ではなくなってしまわないか。
否、インド釈尊も妙法の悟りを得ていた、信心により推断する。



自我偈のおもしろいポイント

「楽(樂)」という字の音読みが3種登場する。
「遊楽(ゆうらく)・伎楽(ぎがく)・信楽(しんぎょう)」

音に備わる義として、"らく"は気楽、"がく"は音楽、"ぎょう"は楽う(ねがう)と訓読することが多い。
"ぎょう"について、厳密な意味に私は明るくないので断言できないが、「喜んで願う」というニュアンスであろうか。
これら三者の発音・意味は、広韻という書にも出ているのでご確認あれ。
「盧各切(ロ・カク)=ラク、喜楽」 「五角切(ゴ・カク)=ガク(厳密にはンガク・カ゚クという鼻濁音)、音楽」 「五敎切(ゴ・ケウ)=呉音ゲウ漢音ガウ(厳密には同じく鼻濁音)、好也(よいこと・好むこと)」



脚注・出典

*1・・・ここで元々、『例えば世間では「妙法蓮華経」の中の「観世音菩薩普門品」のまた中の「偈」を「観音経」と呼称する場合がある』という記述で、記事投稿から6日はそのような説明を掲載していたが、それは誤りがある。「妙法蓮華経」という鳩摩羅什さんが翻訳した経典の「観世音菩薩普門品」には、本来「偈」というものが無かったことを1月25日ころに勉強中たまたま知った。なぜ記事投稿直後に・・・トホホ。で、だから何か、といえば、要は闍那崛多さんの「添品妙法蓮華経」が鳩摩羅什さん参照の梵語法華経とは別の梵語法華経に載っていた観音の偈を参照し、「添品妙法蓮華経」に追加された「観世音菩薩普門品」の「偈」が、後年後世に「妙法蓮華経」にもそのまま追加されたという。紛らわしいが、それが文献学上の事実であるそう。「観音経」との呼称は、そのウロウロした「偈」と、偈のみならず長行を合わせた「観世音菩薩普門品」に対して用いるが、この「偈」は本来別の経典でもあった、という文献学上の見解がある。

*2・・・平田氏はさほど儒学ではなく、キリスト教の影響を受けた神道観を持っている国学者で、儒学者と書いた当時、どこか複数のサイトの文章の影響で思い込みをしていたかもしれない。複数あるならば、どこかを発端に類似の情報が独り歩きしたのであろう。もちろん碩学の者は神仏道儒など兼学していそうだから儒学者とも言えなくはない。ほか、法華経を「効能書き」と見た人物は、一般的に弘法大師空海であるとするが、あくまでも「薬が無い」とまで強く主張した人物は平田氏であろう。

※ほか、法華経など大乗経典を「非仏説」とする見解については他ならぬ日蓮大聖人が他宗の見解として御書に取り上げられている。法華取要抄に倶舎宗・成実宗・律宗の見解として「四阿含・並に律論は仏説なり華厳経・法華経等は仏説に非ず外道の経なり」と紹介され、大聖人ご自身が認識されていたとは予想外であった。脱帽である。日本では古来から聖徳太子が注釈した法華経・維摩経・勝鬘経や金光明経などは小乗仏教扱いの宗派でも仏説として認められていた先入観がある。しかし、やはり日本でそういった非難が実際にあったろうか、疑問が残る。そこで、この法華取要抄の創価学会による講義・解説を拝見すると、インドや中国では確かにそういった非難が起こっていたとして具体的な例を挙げてある(大智度論弘明集出三蔵記集録を参照したそう)。この「大乗非仏説論」の日本における命脈は江戸時代・18世紀前半の富永仲基さんに始まる。彼は国学者でもなく、色々と博学な思想家であり、諸宗教(儒教・神道・仏教)への批判を行う中で「平田・出定笑語」に影響を与えた「出定後語(定を出でて後に語る)」を著した。

*3・・・妙密上人御消息の末文に「法華経の功徳は讃むれば弥功徳まさる、二十八品は正き事はわずかなり、讃むる言こそ多く候へと思し食すべし。」とある。

*4・・・ここでキリスト教を引き合いに出す理由は、対比として都合が良さそうという表面的理由も然りだが、奥底には別の潜在的な思惑もある。キリスト教系の学者が「大乗経典はキリスト教の布教がインドに及んで以後誕生した」という史学的仮説を前提に、「法華経などの大乗経典がキリスト教の影響を受けて撰述されたものであり仏説ではない」とした邪説への反駁でもある。例えば久遠実成などが聖書のイエスとこう似ている、と具体的な教義面の指摘もあるが、私としては時期など偶然に重なった程度のものと看做す。だが、大乗非仏説論者にも似た日本人の中には、これを真に受ける者もいる。キリスト教にも「高等批評」という文献学的議論があるのに、それを棚に上げてイエス実語を前提にするらしい。ともかく、私は法華の信奉があるから法華を宣揚するが、キリスト教の学者の論考もまたキリスト教の正当性の「為にする議論」であるので、それを念頭に置いてこう引き合いに出した。

*5・・・真言宗ではなく黄檗宗である。これは黄檗宗の河口慧海氏を、真言宗釋雲照・興然の両氏と同一視したための誤りである。きちんと調べておくべきであった。彼の著作「在家仏教」からの引用だが、全文は国会図書館のサイトにある→http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1907681

*6・・・「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ぜん (乃至) 此の人の罪報を汝今復聴け、其の人命終して阿鼻獄に入らん (乃至) 地獄より出でては当に畜生に堕つべし (乃至) 若し人となることを得ては、諸根暗鈍にして矬陋攣躄(ざるれんびゃく)盲聾背傴(もうりょうはいう)ならん (後略)」ちなみに、「聾」という漢字は漢音で"ろう"と読むが、呉音では"る"説と"りょう"説に分かれる。今の中国や韓国の読みをローマ字にすると"long"であり、"ng"音だから日本の漢音"ろう"に通じている。この"ng"の音が日本語読み"う"を為す場合、「漢"う"←呉"おう"」の音韻変化は生じない。中古音・上古音で"w"が"う"相当の漢字のみこれが有り得るのだから、日本Wiktionary編集者の参照元の辞書だかで呉音が"る"となっているらしいことは有り得ない。よって「聾」の呉音は、別の古文献からいっても"る"ではなく"りょう"であると私は結論する。なお、2015年12月下書きの未投稿記事において私は音読み時"う"と綴られる漢字が中古音・上古音のローマ字化でいかなる表記をされているか概要を説明しているので後日投稿を待たれたい

*7・・・仏・如来の姿には三身(3つの形)がある。一つには法身(ほっしん)…真理の法そのものである。もう一つには報身(ほうしん)…真理の法を得た仏の身などである。更には応身(おうじん)…他へ真理の法を説くために現れた仏の身や経文などである。この三身の詳細な見解については宗派によって異なる。大日経の大日如来≒華厳経の毘盧遮那仏という仏は、その宇宙や法や真理そのもの=法身である、といった他の仏・如来では通常ありえない存在となっている。だから、汎神論的に世界に遍満している、万物が大日如来だ、といった教えも散見されている。平易に言うと「概念の擬人化・神格化(擬仏化)」といったところか。俄かには解しがたく信じがたいことである。それまでは、精神体の分身が色んなところに居る、みたいな認識であった。

なお、「報身(ほうしん)」を連濁して"ほうじん"と読むのは、「報"ほう"」は軟口蓋鼻音の"う"でないため誤りであり、類推である。このことも2015年12月下書きの未投稿記事に詳述されているので後日投稿を待たれたい

大日経は「法身説法」のスタンスらしい。奈良時代に最澄さんと論争した徳一さんが、空海さんへも刃を向けた時に疑問視した経緯がある。菩薩は心の世界で報身の説法を聞けて、二乗や凡夫は目や耳などで仏法を知るのに、法身は理論的な存在であって、法を示さない。法を示したと感じる人の信仰が、そう感じて「私は法身による説法を聞いた」と主張できるが、実際には報身や応身のうちではないか?「法身説法」が成立することは言語表現の範疇に限る。「法身」の概念の定義を「密教のもの」として新しく変えれば、それはそれで正しくなるが、普通の大乗仏教の教理では有り得ない。つまるところ、釈尊・諸仏の実在から三身の概念を示し、理論から拡大解釈して「法身説法」の謬見が成立したのだろう。


0 件のコメント:

コメントを投稿

当ブログのコメント欄は、読者から、当ブログ記事の誤字・脱字の報告や、記事の話題に関する建設的な提案がされる、との期待で解放されていました。
しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。