表題に関しては、二つ乃至三つのテーマを包含する。
「真の音楽」を求め、現代における音楽ジャンル帰属意識の宗教性と、音楽の宗教的な歴史に関して論じたい。
真の音楽とは何か。
私が作った楽曲の中にはどのジャンルとも定めがたい楽曲がある。
何らかの既成のジャンルや特有の作品などに擬した楽曲だが、特定のジャンルと言い切れない。
私は、歌を混ぜない音楽を作る傾向があるから、単に楽器オンリーの楽曲を包括する「インスト(インストゥルメンタル)」と呼称できなくもないが、あまりに包括的であるから独自色に欠く。
だがまあ、音楽に歌声だとか肉声を使いたくない主義のもとにこの「インスト」という形にこだわる場合、それは何らかの派閥を形成している様相とも見られるから、一個の特定のジャンルとして捉えられなくはない。
「ジャンル」とは「宗教」であり「セクト」であり、個々の理念もとい信念に基づくからである。
個々人の音楽観には、個々人の宗教観があろう。
その中でもヘヴィメタル系は派閥(スクール・学派)主義・セクト主義が強い。
メタル自体が異ジャンルを蔑視・軽視する傾向もあり、また異ジャンル(テクノとかクラシックとか)の良いところを摂取することもあるから、多様にメタル内のジャンルが形成される。
そして互いに「俺たちが正統派で真のメタルだ!(お前たちはポーザーだ!)」、「俺たちが新しいメタルの革命家だ!(お前たちは古い・ダサイ!)」と誇っている。
特にこのセクト主義が強いと、色々思い煩うことも多いので疲れやすかろう。
各々の掲げる「メタル」という神霊を畏れ、またその神霊に背く音楽活動(異ジャンルへの気移りなど)をしてしまえば、罪業の意識か自己の理念への違背を愧じる。
各々の掲げる純粋なメタルに対する「穢れ」を混ぜてはならないという、貞操観念、衛生観念、潔癖の思想・・・。
正しく、メタラー諸氏の己心に具わる「メタル」という神霊を潜在的に奉じて畏れるメタラーとは、八百万・八万四千(これは具体的な数字ではなく単に量の多さを示す宗教用語)のメタル神霊の申し子たちであった。
この私も、己が「メタル神(デウス・メタルム "Deus Metallum")」を2014・15年にネット上で開陳したが、これは世界初のことであるから、私はメタル神の預言者を自負する。
メタルとは、異ジャンル蔑視・排除という国家神道のようであり、異ジャンル摂取という伝統的神道(列島各地の神々や異国の神や仏教を習合した)のようであり、メタル下のジャンル分裂・分派という仏教各派(いわゆる十三宗など)のようでもある。
日本の宗教性とよく似ているものと感じたが、肝心のメタラー諸氏は一人として明文化しない。
それで、冒頭の話題に戻すが、音楽に歌(歌声・歌詞・歌唱)が必要なものか、考え直す必要性を覚える。
音楽とは、そもそも宗教に発祥があるものではないか。
各地の祭祀(儀式・儀礼)や布教において神を讃える詩、神の教えを伝える詩などは多く歌われていた(神以外には先祖などの高尚な精霊・霊魂か、大自然や万物への崇拝)。
「歌」が宗教の口伝であり、文字のある文明では聖典・経典の石碑などが残る。
原始的な宗教からすでに言葉をリズムに乗せて印象付け、覚えやすくして各地に広めたり後世に残していったわけであるが、そのうえで楽器も当然誕生した(それ以前も)と見る。
現代でもアフリカや南米やアジアの部族・少数民族の楽器には、多くの名残を窺える。
簡単な打楽器や管楽器(太鼓・笛)が太古から各地にあり、後には弦楽器が2000年以上前から中国やインドにあったのではないか、と仏教の典籍・経文から披き見る。
仏典には、漢語であれパーリ語であれサンスクリット語であれ、弦楽器(琵琶など)・打楽器(鼓"つづみ"など)に関する語句が多く見られる(中東・メソポタミアにはもっと古くからあろう)。
西洋一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教)においては、ヘブライ語などの歌の石碑が残り、キリスト教はミサの習慣を通じて楽器が極度に進化し、イスラム教はアカペラ重視(ナシード)と、個性的に枝分かれした。
私は断定を避ける表現をあえて連続させるが、要は知識自慢の一種である。
Wikipediaからかじった知識は書いていない。
ただし、それだけでは公開する記事として不適切に思い、一応は調査する必要があるから今にWikipediaなどを確認する。
例えば日本語版Wikipedia「弦楽器」には歴史だとかの項目がない反面、英語版Wikipedia "String instrument"は1番目の項目が"History"となっており、著しい違いを見る。
即物的な現代の日本人にはやはり、楽器という「物体・道具」に、因果だとか因縁だとかの歴史的経緯や宗教性を求めないばかりか、「痛い・イモい・古臭い・電波」という印象さえ持っているから設ける気にはならないのであろうか。
この「弦楽器」日・英の両記事のみ例に取ってそう結論すべきではないものの、私は他のあらゆる事柄も大同小異であると見ている。
件の「弦楽器」記事は、2003年9月20日の版からすでに「地域ごとの弦楽器とその大まかな歴史」という項目があり、当時は楽器名すら設けられておらず、これは2016年現在も楽器名は羅列されて項目名は残っているが、10年以上経つ今なお「大まかな歴史」なる情報は書かれていない。
ほか、日本語版Wikipedia「琴」においては、先の「2000年以上前から中国やインドに弦楽器があったのではないか・中東・メソポタミアあたりも」という仮説を上回る、興味深い考古学的な記述がみられた(「縄文琴」の節など)。
Wikipedia以外の情報に目を向けると、やはり特定の文明には紀元前2000年、などとして楽器の起源を推定する記述も見られるが、あくまでも宗教などを切り離した考古学の観点に留まる。
打楽器・管楽器など、楽器全般に関しては英語版"Prehistoric music"などを参照されたい(20000年前とか43000年前とかと推定される出土品などが例示されている)。
それはそうと、このように音楽は、宗教の祭祀の副産物であるように見える。
しかし、現代の革新的で画期的な音楽文化は何物であろうか。
これは「音楽」の名でありながら別物の概念である、と言える。
例えば、十七条憲法の「憲法」と、西洋の"Constitution"の訳語として既存語句を借りた「憲法」の相違点や、仏教・神道などの用語が日本でのキリスト教などに導入されたよう、微妙なニュアンスのようで著しい差異があると私は見ている。
人々の生活の豊かさは、西洋の産業革命、また日本をはじめとする世界中の工業化などに見られるように、合理性より急激な成長を見込んだ進歩発展思想の影響があるが、やはりそれは西洋的な思想である。
音楽にしても、西洋は、中世以後に飛躍的な発展があったが、ここに宗教との乖離を見る。
宗教から副次的に漸次進歩するという「自然性」よりも、独自の急進的な成長こそを是とする結果、音楽は西洋で著しく進歩し、それは明治以後から現代までも日本に多大な影響を与え続け、日本はことにガラパゴス性から日本ならではの個性が育まれた。
戦前より七五調の軍歌、演歌、現代では様々な歌謡曲・ポップス(J-pop)があり、東アジアや東南アジアの音楽シーン(K-pop, C-pop, その他)に多大なる影響を与えた。
上述の「メタル」であっても、日本では「メロスピ」なるジャンルの提唱と呼称の流布を始めとして、V系だとか同人系のガラパゴス的メタルが世界のマニアを魅了する。
また話を脱線させたようだが、これも私の衒学趣味や記録活動の一環として看過してほしい。
このように楽器というものは、西洋の発展的な思想において魔改造を経てきた。
その思想の影響を強く受けた日本も同調したから、任天堂などのゲーム音楽(いわゆるFC音源など)、ヤマハ・ローランドといったシンセサイザー及び電子音楽・DTM(DAW)のメーカーもこれに貢献してきて世界中にそれらは愛されている。
こう見ると、音楽および音楽性ある文化的行為は、歴史的な経緯より3つに大別されよう。
1. 祭祀や布教や王族奉仕のため、基本的な歌・声にオマケとしての楽器もある音楽(原始宗教・古代文明、昔の諸宗教、現代では鈴・木魚などを用いて読経する日本仏教や楽器嫌いのイスラム教)
2. 西洋で次第に発展した革命的な音楽(芸術革命・ルネサンスとかいう?)
3. どこまでも楽器にこだわるか楽器に依存しない、現代の自由で多様なスタイルの音楽
この3種があり、そのうち、本来的な形式で根本的な発祥を踏襲している音楽は"1"であろう。
故に、冒頭に提起した主題の結論を私が言うならば、真の音楽は"1"であるといえる。
※世界的に変なラップ系(過去記事: あんなもの)の画一化が進んでいる現代の音楽は、1の真の音楽の形式・楽曲の構成には似る。だが、それのみが似て、歌詞は浮ついたラブソングならば宗教性薄く、1の真の音楽に遠い。いな、婬楽(いんぎょう)を以て宗(むね)とする現代の時勢にあっては、ラブソングも賛美歌たり得よう。ラブソングでなければ吟遊詩人とか琵琶法師のようなものか。
私は"2"のような西洋の古典主義の流れがある楽器演奏者を嫌い、"3"の自由なスタイルの恩恵を享受して楽器を演奏できずとも、DTM・打ち込みによって作曲を楽しんでいる。
西洋の発展的な思想はあまり好まないが、これがあることで現代は音楽の極北に達して絶対的中流層(国家を問わずインターネット利用のできる環境の層)まではその音楽を聴き知っている。
当然、昔から人々が発展思想を持たなければ、それはそれで"1"の如き「自然性」の音楽だけで足りたであろう、人間の欲求満足・幸福は、当人の生きる時代や住む環境(国家など)でどうにでも変わるような「無我・無常」の、相対的概念でしかない。
だから、偶発的な「今」のあり方という現代に、喜びや悲しみを持ったところで意味はない。
むしろ私は往古を偲んでいる。
最近は、ある種のネオクラ・ネオクラシシズム=新古典主義ということで、日本の和歌の様式と古語を用いた現代的な音楽を志向している(仏教の偈などでも思案中)。
その一例が、YouTubeに日本時間2015年12月31日17時に投稿した「大晦日の歌」である。
未だに、誰も古語を用いた楽曲を作っていない。
インターネットを通じて古文献などを学び、DTMで多彩なジャンルの楽曲が作れる。
現代なればこそ、文明の利器を用いた復古主義は蓋然的に起こるはずだが、この現状であるから、私が先陣を切って開拓せねばならない。
とはいえ、気軽に提唱する程度の感覚であるから、ほんの濫觴となるのみに終えるか。
私のような10代・20代の若者こそがこれを志向すべきであろう。
中高年などは「懐メロ・演歌」などと中途半端な懐古に耽溺するのみであるから、復古主義はその旧態依然とした愚物への反動として第三者たる若き志士が成し遂げるものである。
素晴らしき現代性を受け入れ、優美なる往古を知り得た若者らは進んで復古主義に走るが、中途半端な中高年の大衆は、自分の生まれ育った程度の浅い過去にのみ執着する愚物である。
ここまで言うと、国家神道を勃興させた明治維新の革命家の異常性にも似ていようが、私はそれくらいの強い気持ちでこれを提唱する。
故に強い気持ちがあらば、たとえその人の様式が、俗悪なジャンルの音楽などとなったとしても、私は尊重したい。
日本Wikipediaで現代音楽とかそれ関連の記事をいくら見ても、あれは人名を書き連ねる「人物らの話題」の域を出ていないため、「音楽の話題」とは無関係である。
私の記事は具体的だが、日本Wikipediaなどは「人物ら」の話題の空虚な記事ばかりであるから、音楽として学ぶべきポイントは一つも看取し得ない。
音楽と人物はもう少し切り離そうではないか、人物の話題には興味がないし、その夥しき人物らを知らねば、飲み込める記述でないから、空虚というほかない。
起草日: 20160420
近頃、何らかのテーマをもとに最初から記事を書くという作業をしないでいたが、今回の記事は話題を個人的に提起して起草に至り、最初の3時間ほどで4,000文字を超すに至った。
私の機運が高まれば、俄かな経緯であっても十分に満足できる情報と筆致でもって綴ることができるようであると、再認識するに至って僥倖である。
何か、今後も心に思う話題があれば、進んで記事にして情報の発信(思想の開陳)に繋がるよう、発想を持てると好ましい。
追記: 2018年1月
ブログ筆者・横野真史は、2017年にサンスクリット語の偈(詩・韻文・讃歌)を作った。
「宗教文学(?)」といえる、「萌えの典籍」中に盛り込んである。
和讃・漢詩といった、日本語・中国語の韻文(音楽的に歌えるもの)も数多くある。
それについて、①唱えた・②ロック自作曲で歌った音声があり、動画として投稿した。
古代宗教や、その伝播といった、原風景らしきものを思い浮かべられるとよい。
①唱えた http://www.youtube.com/watch?v=EIb2CfiUCPM
②歌った http://www.youtube.com/watch?v=-NhafvQ8x10
ただし、この音楽活動は、「音楽および音楽性ある文化的行為は、歴史的な経緯より3つに大別されよう」として古いものの順に挙げる行為を支持するものでない。
起源や推定可能な最古の形式に、今知られる音楽の歴史の一類型を当てはめることは困難であることを私は知っている。
当記事ではあえて宗教の賛美をしたくて"1"という一類型に関する強調をしていた。
布教の行為に「音楽性ある文化的行為」が見られることは確かである。
しかし、それが音楽の起源よりは、発展の一部に相関性が高いものと考えよう。
宗教的な音楽は、それ自体も必要性からの独特な適正化がありえるし、アフリカの部族なども彼らの中での独特な適正化があったのではないか?
何らかの様式を、起源や推定可能な最古の形式とみなすことはできない。
あくまでも「古代宗教や、その伝播といった、原風景」の表現方法に当たる。
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あしからず。
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