2015年5月11日月曜日

「四字熟語+にして」という表現を探して集める

去る本家記事には「早期熟脱にして先見の明あり」という一文を綴った。
この文章の構造は、よく見る表現を踏襲している。
記事の題に「四字熟語+にして」と書いたこれだが、主に古文献・・・江戸時代までの書には散見されていた。
本来は漢文の訓読文で見かけるものであった。
何かこの表現が各所で見られることで、こだわりでもあるのかと思い、私自身も惹かれていった。

「四字熟語+にして」という表現に用いられる四字熟語は半ば造語のこともある。
これを「ニシテ表現」とでも呼ぼうか、「ヲシテ文献」から発想したものだ。
わざわざカタカナにしたいのも、「ヲシテ文献」が私の思考に干渉してくるからである。



「講説精弁にして能く~」 「叢林幽深にして翠葉~」 「言辞柔軟にして衆心を~」 「恵解天然にして秀逸の~」
といった用例を今までに見かけた。
「此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり」と叢林~は約10ヶ月前に知った表現。

リズム感が豊かだね、ニシテ表現とは。
大概は人格だとかの様子を讃える感情で形容する際に用いられている。
「本尊~」と「叢林~」については、物(御本尊モノ発言じゃないよ)や場所の状態を讃えている内容となっており、趣旨としては同様だろう。

2015年4月26日にはニシテ表現が多用される江戸時代の書を見た。
「生智聡敏にして当世絶倫の学匠、信行兼備の明師なり」 「文辞鄙昧にして聖徳を黷さんことを」 「聴睿絶倫にして博学宏才なり」などなど・・・
文辞~について、前後の既述を加味して文脈から意訳しよう。
「寛師の百回忌に際してこれを著した。寛師の功績をみんなに伝えて寛師の恩に報いたい。ただ恐れるところは、私の稚拙な文章で寛師の尊さを汚してしまうこと。」
謙っているね。私の拙訳、慙愧に堪えぬ思いであります。。。



適当に自作したものを載せる。
冒頭の例文→「早期熟脱にして先見の明あり」
「當(まさ)に此(こ)の男子(なんし)、眉目秀麗(みもくしうらい)にして精悍(しやうかん)なる相貌(さうめう)を有(いう)す」
「博覧強記にして聡明の聞こえあり」

「早期熟脱」の意味合いは、トップリンクの当該記事を熟読すればよくわかるよ。
そして、この「ニシテ表現」の概念に気づけたものがネットにいないか探した。
ダブルクオーテーションとアスタリスク併用検索「"四字熟語にして" "にして*あり"」←このまま検索して分かるとおり、********-u.ac.jpの投稿1件である。
それを見ても結局、上のほうの「楚兵剽軽にして~」のみが関連したもので、ニシテ表現の存在に触れたものでない。
「 "四字熟語" "にして" "にして*の*"」など色々試したがやはり無関係。
よって、この記事を以て世界初の提唱となる。

幼少より新しい概念を唱える傾向があった私にも、今や忘却されたものは少なくない。
本家ブログで唱えたものなどはネットに短からず残ってくれるだろうが、自分で過去記事を見回る気力も沸いてくるものではない。
ましてや、一所懸命に探して「あるはずがない」といういつもの徒労パターンは御免被る。

ここでニシテ一句。
「一所懸命に(探)して徒労に畢んぬ」



とある********-u.ac.jpのページ管理人の大学教授も、社会だとか、減らず口の「名言」が好きな言葉だとか、呆れるね、彼自身がその言葉で称えられた人格と逆ではないのかと。
言語のサイトなのに、全国のマラソンだとかの遊蕩に明け暮れた自慢とか、社会がどうとか、そんな雑然としたサイトは一度も見たことがない。

現代に於ける「大学」とは、世渡りの為に通る道だから、ただの形骸化した機関であり、そこに組していることに何の誉れも価値もないだろう。
100年以上前は学問の鬼門であり登竜門であり、国の学術面で最高権威であろうが、今では渡世の橋、ただの通り道。
真に学問を考える点では、大学の存在に拘泥する必要はなく、参考になるかわからないが、50年前の漫画にも「博士ってのは何も大学にいるだけじゃないぞォ」というセリフがある。
大学なぞに所属していることが誇れる点は何もなく、内心誇っているなら慢心もいいところ。

噂をすれば、当の********大学は、まさに父親が卒業した大学ではないか。
大学教授さんが1951年生まれ・・・これも父親より10年と離れない年である。
大学などという形骸機関は、思考が顛倒した輩の通り道であろう。
驕り昂ぶる偉人サマの詭弁を「名言」として持つなど、顛倒の極みである。

こんな下らんサイトを見ることこそ「一所懸命に(探)して徒労に畢んぬ」という、意義の深いニシテ一句に表されている。
無いことが判然としているものを探しても徒労に終わる、それも判然としていたのに。



追記: 2015年5月12日今後何か面白そうなニシテ表現があれば、随時追記していこうと思う。
まずはそう思うきっかけとなった「野衲は徳薄垢重にしてその器でありません」だ。
僧侶である書き手自身を「野衲(やのう)」と称してへりくだり、更に自身の器を「徳薄垢重(とくはくくじゅう、とくはっくじゅう)」と形容している謙遜の文章である。
「徳薄垢重」の語は、妙法蓮華経如来寿量品の中の「諸善男子。如来見諸衆生。楽於小法。徳薄垢重者。為是人説。我少出家。得阿耨多羅三藐三菩提。」という部分が依拠。
要するに、徳が薄くて垢が重い=下賎で不浄な者を意味するようだ。
謙遜する際にこれを用いているのである。



追記: 2015年5月26日本家ブログ5月26日付けの記事の後記欄で以下のように綴った。
「御本仏の在世にも邪法充満せり。何に況や現代に仏の名を終生知らざる事をや。諸の衆生、"摧尊入卑にして"遍く濁世に満つ。正法を持つと雖も懈怠の人、猶多し」
こういった自作の文章を毎度取り上げるのも野暮であるし、「軽い造語」が入ってないね("摧尊入卑"は普通の人だと知らない四字熟語だけど)。
慰め程度に、もう一つ同追記日時内に知ったもの、妙法蓮華経譬喩品より載せる→「諸根暗鈍にして矬(ざ)陋攣躄・盲聾背傴ならん」



追記: 2015年12月13日
Google検索ではヒットせぬであろう、レア文章をゲットしたので掲載する(一部記述検索で1件のみヒットした)。
「ニシテ表現」とは、「に+して」であり、この「に」とは「なり」の連用形である。
「として」という表現も「たり」の連用形「と」が入っていて同様である。
以下の文章には「ニシテ表現」は含まれず「トシテ表現」が少しだけ含まれるに過ぎないため、当記事との関連性は薄いが、念のため載せておく。

 夫れ仁者はまさに天下の憂いに先立ちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ。今茲に弔慰を捧げんとする一千百八十余柱の英魂は、身夙に軍籍にあり只管国策の伸張に専念し、偏に国運の開拓に戮力せり。然れば第二次世界大戦の勃発するや、身を塞北に挺して砲雲弾霧を凌ぎ、肝を南溟に砕いて屍山血河を越え、具に艱難を嘗めて従容莞爾、唯だ国あるを知りて我あるを知らず。義あるを思うて身あるを忘る。蓋しまさに天の大任を下さんとするや、必ず先ずその心志を苦しめその筋骨を労せしむればなり。
 然るに何ぞ図らん。時運拙く国策の破綻に会して、所期の目的を果たす能わず、功は敗戦の汚名に抹し、労は降伏の恥辱に包まれて慰むること能わざりき。遂に名を戦犯裁判に借りて、冤罪を以て刑場に誅せらる。その恨むところ誠に万斛、耳此を聴くに耐えず、心此を偲ぶに耐えざりき。
 爾来光陰早くも転じて半世紀を閲す。日愈々遠くし、思い愈々繁くして情更に溢る。怪々たる海潮の声を聞いては、魂魄の今に迷えるには非るかを疑い、燦々たる天辺の星を仰いでは、英霊の今に瞬けるに非るかを思う。重ねてその功烈の平和安寧の風に蕩散し、日月怱忙の波に忘失せられんことを恨む。しかし英魂を天地の外に慰むるの手段を執らんには。依って高 (中略) の照鑑を仰いでその雄志を紫明の山水に留めんとす。見ればそれ、桜花駘蕩たる春風に散り急ぎ、禽鳥嬉々として青山に声を連ぬ。安養の静謐、浄土の幽寂も是くの如きか。仰ぎ願わくは、十方の諸仏これらの幽魂の誘引して、速やかに無上の覚位に導き賜わんことを。

※「留めんとす」から「仰ぎ願わくは」までの文章は、この11年前の版で「今や諸士の億念し止まざりし東亜の康寧、人類の福利具現するの日至れり。以て瞑するに足るべし」となっている。



追記: 2016年6月12日
「~にして」という表現は、「に(ナリ活用連用形)+し(す=サ変活用連体形)+て(助詞)」に分解できる。
このうちの「に」は、ナリ活用の連体形であるから、「~として」とするタリ活用の表現と別に用いる。
「~として」という表現も同じように分解すれば、「と(タリ活用連用形)+し(す連体形)+て(助詞)」となり、これは、「凛として」のような単漢字を始め、「敢然として・厳然たる」のほか、「○々」という韻を踏んだような畳語のような熟語に付随する表現である。
「○然」形式であれば、「然(ぜん)」を呉音で「ねん」と読んでも「忽然(こつねん)として~」と言う場合もある。

それでは本文にもあるフレーズ例の「恵解天然(えげてんねん)にして~」は、なぜナリ活用のニシテ表現であり、タリ活用のトシテ表現とはならないか?
これは先に言うよう、ナリ活用とタリ活用の基準が畳語のような熟語であるとか、基準が曖昧であり、科学的に定まった法則が言語には、必ずしもあるわけではないという観点で考えれば、結局、作文者や漢文の訓読者などの感覚に依存する側面が強い。
加えて「恵解天然」が四字熟語であるから、誰か作者の感覚でニシテ表現が取られたのみである。
よって、それ以上は疑問視ができない。
他にタリ活用自体の現代的な用例を言えば、「○○(肩書などの名詞)たる××(人名などの固有名詞)」という、畳語や韻を踏むことと無関係な表現も多々見られるが、このために現代人にはタリ活用の分別が難しい。


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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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