2015年5月23日土曜日

助動詞「る」の連体形的な性質について感覚を掴めたので解説

「(れ)る」は連体形の助動詞でもある。
「られる」のら抜き言葉というのは現代において長く論議されてきた文法の問題であり、当ブログでも度々「"eru"形の動詞」と呼んで疑問を呈してきた("eru"形=下一段活用だと後日知る)。
この「られる」の正体とはそもそも何かを率直に言えば、原型の動詞に多義的な助動詞「る」を付随する上で、その動詞を変形させた結果の形と見ている。

助動詞「る」が多義的と称する所以は、私が様々な書を見てきて「自発・可能・受動・尊敬」と「継続・現在進行助動詞『り』の連体形」に加え、「連体形をなす助動詞的な文字」としての性質があることに気付けたところにある。
この種の日本語は、今日までの足跡を辿れば判然とするのだ。
書というと、鎌倉時代などが中心である。

この記事では、最近どうにかして気づけたことを、全力で砕いて解説していきたい。
つい数ヶ月前なら、連体形と連用形の作用の違いを、ネット上の文章の理屈では到底理解できなかった私が感覚的に要領を得られたわけだから、地盤が固いと言い難い。
今の自分が書くこの記事で説明不足・不適切さも出るかもしれない。



まず、「る」が連体形としての性質を持つことは、古く生きた助動詞に見られる。
過去・完了の助動詞「つ・ぬ」の連体形は「つる・ぬる」であり、現代でもお堅い場面に用いられる状態否定の助動詞「ざり」の連体形も「ざる」である。
助動詞連体形の「ぬる」を用いた好い例文を、日蓮大聖人の御書挙げたい。

「法に過ぐれば罰当たりぬるなり」

この「なり」という助詞が指す範囲が動詞である場合、連体形である必要がある。
この御文では「当たる」という動詞が「なり」に指されているため、「当たる→当たりぬ→当たりぬる」と変化したのだ。

大聖人サマは正しい仏法のみならず、正しい文法も示された。
これこそ生きる古典であろう(もちろん教法も学んでおりますとも)。
この「なり」自体が実は助動詞で、「つる・ぬる」というものは過去・完了の助動詞「ぬ」の連体形に「る」というものが付くという点を再度踏まえて頂きたい。
以下に当方が確認するため参考にしたリンクを載せるが、「なり」という助動詞に意味が別個のものがあること(性質として、連体形でなく終止形に付く点など)を注釈している。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/intro/jodousi06.html#a08

※御書でよく見かける「動詞+なり」表現は「云うなり」であるが、この「云う」をはじめ、通常の動詞は多くが終止形と連体形が同一の形であるため、「云うなり」の「云う」も連体形であり、もし可能・受動で「云える・云われる」の意味にしたければ「云える・云わるるなり」とする。



では、ここで助動詞「る」自体の解説に入る。
先ほどの「法に過ぐれば~」に加え、「唱うれば」という表現も借用する。
「過ぐれば」は、「過ぐ(動詞終止形)+る(連体助動詞)+ば(既定助詞)」という構造であり、同様に「唱うれば」は、「唱う(動詞終止形)+る(連体助動詞)+ば(仮定助詞)」と品詞分解(?)できる。
※「ば」という助詞の前に付く「れ」というのは、連体助動詞「る」が已然形に変化したものである。

↑この部分の下書きメモが5月5日頃で、十日も経つと何を書きたいメモだったか私自身がわからなくなったので軽く無視してもらいたい。

続いて御書より紹介する表現は「滅ぼさるべし」、「建立せらるべきなり」だ。
前者は、「滅ぼす」を受動態にして「滅ぼさる」としたものに「べし」を付けて文を終えている。
後者は、名詞サ変動詞「建立する」を尊敬語にして「べし」の連用形「べき」に「なり」を付けている。
「滅ぼす・建立する」をそれぞれの形にするプロセスにおいて、実は共に助動詞「る」を付けているが、これは連体形を作る目的の「る」ではなく、別個の助動詞として「る」が付けられている。
片や受動、片や尊敬という形である。
「建立せらる」の「せらる」は、現代文で用いるとして「せられる」程度が見かけられるライン。
「せられる」ではなく「せらる」が文脈から正しい用法と言える理由は何か?

当記事でここまで書いた情報でお分かりになることと思うが、「せらる」と「せられる」なら、終止形と連体形の差がある。
助動詞「べし」には、終止形語句が前に付くきまりがあり、受動の「さる」も、尊敬の「せらる」も、終止形。
「される」、「せられる」と書けば連体形であり、現代の人には聞きやすい形でもある。
似たような現代の動詞に「せしめる(使役に尊敬を含む)」というものがあるが、これも「せしむ」の連体形だから、古い時代に文末で用いる=終止形の用例は無い。
仮に連体形でも"eru"形にせず、「さるる・せらるる・せしむる」が用いられるようだ。

思えば、半年前では「せしめる・せしむの差は何だろうか」という不鮮明に浮かべて、取るに足らないとばかりに捨てていたわけだから、研鑽による文法への意識の変革は歴然としている。
嘗てわからぬことも、勉強の過程で答えを得て、今わからぬことも弛まぬ研鑽でいつかは。
また、上掲の御書における表現を見直して、本来の文法に則ったものであると実感できる。
大聖人の御書では、仏法も文法も正しく学べるのだ。
同時にいつも思うのは、訓読する人の力量でこの表現が変わるものかね、って。

サ変動詞の受動態変遷
さる(サ変受身)→さるる→される(現代的、尊敬の意も)
さる(サ変受身)→さるる→さるれば→されれば(現代的、尊敬の意も)
されば・さらばの存在も留意されたし。

サ変動詞といえば、音読みした漢字一文字に「する」を付随してサ変動詞とすることもある。
「課する・達する・服する」などがあるが、これらは「課す・達す・服す」と、「る」を省いて用いられることも多い。
当記事で書いてきたことから諸君も想像が付くとおり、この「る」もまた連体形として「課す・達す・服す」に後続したことになる。
では、「感じる・生じる」という"じる"形は何かといえば、「感ず・生ず」の連用形「感じ・生じ」に連体形「る」を後続させて「感じる・生じる」という活用形が現代までに浸透した。
「される」等の"eru"形=連体形があたかも終止形のごとく浸透したように、漢字一文字サ変においても、"iru"形=連体形が終止形同様の浸透を見せた。



続いて冒頭にて「多義的と称する所以」を示したが、その一つに「継続・現在進行助動詞『り』の連体形」を挙げた。
これについても、御書での用例を挙げたい。
そもそも、御書や多くの古文献で現在進行形や過去形を表す「している・した」等表現が存在せず、それに取って代わる表現が何か疑問を持つ時期もあった。
ことに継続・現在進行形においてはそれらしいものが判然とせず。

それも今や氷解しているが、まず御書から好例といえる一文を載せよう。
「湿れる木より火を出(だ)し、乾ける土より水を儲けん」の中の「湿れる・乾ける」こそが継続・現在進行形である。
この「湿れる・乾ける」は連体形であるが、終止形に戻すと「湿れり・乾けり」となり、「助動詞『り』の連体形」と示した理由も見られよう。
この助動詞「り」は、過去記事でも語ったことがあるが、それは去年12月のことで、未だ日本語における「助動詞」という概念も不明瞭に思えていた頃であった。
ましてや、その最中で無理やり意味を理解しようとしても、諸々の助動詞の意味を深く感覚的に掴むのは至難の業である。
今となれば、実際に多くの書から用法を感じ取ったため、各々解説するにも知っている用例をすぐさま引き合いに出せる。

※古い継続の表現の一つに、助動詞「たり」があり、連体形だと化石的に「秘めたる~」等の表現が残るが、この「たる」の「る」も省かれて今日では普通の過去形に用いている。



最後に、近現代の例も挙げたい。
現代ではあまり聞かれなくなった敬語表現に「であります」というものがあるが、これにも連体形をなす場合「る」が送られることも多い。
「でありますが」などは、「でありまするが」となる。
これは更に古い世代=今でも元気な80歳超の人の語りにはこの口調が出る傾向がある。
言い換えると、「ありまする」という表現が文末・語尾などに付くことは文法上ありえず、それがある場合はおよそ現代の作品などで、そういう口調のキャラとして存在するだけであろう。
試しに"でありまするが"と、ダブルクォで括って完全一致検索すると、その時代=戦前あたりの文章もあれば、普通に現代の人のアホっぽいページなどの二極化された検索結果が見られる。
他に「敬語表現+る」で連体形をなす例は、「しますると(動詞+ます+る+と)」なども挙げられる。

この「まする」という表現は現在でも「そういう口調のキャラ」というようなノリで使われる場合もあることについて触れたが、上述のようにその世代の人は「ありまする・しまする」を連体形として用いている。
現代のキャラ作りのように、終止形として「ありまする・しまする」を用いることはない。
これで分かるとおり、「る」を「ます」の後に送る法則を感覚的にでも弁えた上で用いているのだから、当時の言語感覚の片鱗が窺える。
今日では連体形と連用形の差など、数ヶ月前の私のように分かりようもない。
嘗ての日本語表現をつぶさに"拝しますると"、実に日本語の道理があるとも窺える。
それを"極むれば"「感覚的に」弁えるどころか、私のように文面で正確に表せる。

そしてこの敬語表現の実例についてだが、戦後においても9割方「であります」で文末が綴られ、「しますると」も多用された論文があるので載せておこう。
http://homepage3.nifty.com/hougyokudou/newpage133.htm
この論文では「でありまするが」などは無く、「る」が抜けている点に留意されたい。
著者の「堀米日淳」上人の日号は、能化になられた1949年に与えられ乃至、自身の御遷化(死没)はその10年後であるため、最低でも戦後に本文が認められたと拝察している。
日蓮正宗100年の歴史における法主上人の中では教学関連でとても秀で懸命だった。

一方、「です」というものに「る」を送るかというと、戦後以降に普及した敬語であり、これは「であります」の冗長性が嫌われたことが要因であるから、「でする」という連体形は見られない。
したがって、余分な「りま」が省かるれば、連体形を為すに「る」も必要でなくなった。

非敬語の「である」という表現においても、「だ」に変わられつつある。
「であるから」という表現自体が古めかしいようで、「だから」が一般的。
「であるからして」という慣用句的な用法はまだ、そのニュアンスで以て今日でもネタ的に使われる傾向があるが、私のように普段から固めの文章を書いている人以外は、「して」を除いた「であるから」という表現を常用することはない。
なお、「である」の「る」は連体助動詞ではないことをついでに念を押しておく。






中間地点のボツ・別ルート(小文字化した)

先ほどの「法に過ぐれば~」に加え、「この法を立てらるれば」という御文も借用する。
「過ぐれば」は、「過ぐ+る(連体助動詞)+ば(既定助詞)」という構造であり、同様に「立てらるれば」は、「立つ+る(自発助動詞?)+る(連体助動詞)+ば(仮定助詞)」と品詞分解(?)できる。

「ば」という助詞の前に付く「れ」=「る」というのは、助動詞「る」が已然形に変化したものである。

後者の構造解明には、「立てる」の「る」が厄介となり思考が混乱し、曖昧なまま終えるのもまた読者の混乱を招くので、必死に考え抜いて「立てる」の「る」が自発助動詞であるとみなした。
こんにち、この「立てる」など"eru"形動詞が、単一の動詞であるようにされているもの、「立てる」でさえも「立つ」の已然形に自発助動詞「る」が付いたものと見ているが、また思考が混乱した。
自発・可能・受動・尊敬の助動詞「る」とは、普通なら未然形にしか付かず、"eru"形と似たような亜種"iru"形(上一段活用
)なら満ちる・伸びる(満つ・伸ぶ連用形)、"oru"なら起こるって「起く」の何だ!?
この他"eru"形の亜種の存在は枚挙に遑がないものと見ている。
「ら抜き」についても、大方この"eru"形とその亜種の動詞のみが本来問題であり、例は"出れる"、"得れる"、"起きれる"、"食べれる"等。

"iru"形は満たす・伸ばすなどの"asu"という使役形をも生む(「悔やす・恥ざす」は聞かない)。
そういえば一般的な使役形の動詞「させる」も、連体助動詞の「る」を除けば「さす」であり、「立つ→立たす」の用例は「立たしめる(立たせる)」などがあるが、「立たしめる」も連体助動詞の「る」を除けば「立たしむ(立たす)」となる。
経文でポピュラーな例「令入於仏道」も「仏道に入らしむ」も「入らしめる」と文を終えないことも、この「しむ」が終止形で「しめる」が連体形であることを弁えた上で訓読したのだと言えよう。
数ヶ月前に連用形と連体形の区別が曖昧だった私のような読者の為に改めて付け加えると、「入らしむ」を連用形にするならば「入らしめ」となるように、ここでは「る」を加えず「む」の音だけ「め」に変えればよい。




どこに書くべきか迷ったメモ「『得る』自体がeru形 "eru"の音が『できる・可能』の意味で助動詞的な性質となった末に動詞の子音に付けるようになった 『得る』の読みは古くは『うる』であることも御書の他、古文献の声に出した朗読に聞かれる 例えば現在『挟みえる・挟みうる・挟める・挟むる』という表現が可能形として用いられるとして、この内の『挟むる』に古くは『できる・可能』の意味は無い また、『得る(うる)』自体が更に連体形であり、古くは『する』と共に"る"が省かれ、『得・す・見』のみで一つの動詞をなすこともあるが、現代でも知れる好例が『すべき』等で、『得』は御書だと『仏法を得べき便(たより)・心うべし(訳:心得るべきだ)』という表現もある」



後年の追記
2017年5月10日に投稿した記事に、当記事の話題と関連した考察が載る。
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/05/blog-post_10.html
動詞の連体形「ある」と、形容詞の連体形「ない」は、現代文において「~です(~である)」に接続すると正当でない用法としてみなされるが、古文や文語体では「~なり」に接続できる。
そして、その言語学的に正当な根拠も説明される。
すなわち、「の・もの・こと・とき」といった準体助詞や準体言の省略(または∅ ゼロ化)に拠る。
「あるです・ないです・あるなり・なきなり(ある〔ということ=∅ ゼロ化〕です…)」、これらは言語学的に正しい表現となる。
また2017年9月には、連体形+ですについて梵語や漢語に寄せて重説した(?)。


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