2017年7月10日月曜日

仏教はなぜ仏教か?宗教・科学・哲学・倫理・道徳との類似点・相違点、中道と解脱

仏教について、世間では「科学的・合理的だ!」とも、「宗教・オカルトだ!」とも聞かれる。
話を聞けば、的を射ているものから、当ての外れたものまであり、諸説に断定的な肯定も否定もしない私が、肯定と否定とを駆使して仏教が何であるか、中立的な立場で「宗教・科学・哲学・倫理・道徳」と仏教の類似点・相違点を慎重に検証し、続いて修行者の立場で積極的に述べてみたい。



目次 (テンプレートの元)


●概説

仏教とは、宗教・科学・哲学・倫理・道徳、いずれでもあり、いずれでもなく、いずれでなくもない。
教主釈尊・仏がたまたま、これらの良い点を摂取・折衷した教えを説いて仏教と称するのでもない。
端的に仏教を仏教たらしめるものを問えば、四諦の法輪による「苦が滅びる道」が定義できる。
たとえ、仏教がどんな色でどんな味つけをされても、「苦が滅びる道」の目的意識と、その教義理念「中道"middle way, madhyamā"」を外れることはない。

真理はどこまでも説明可能だが、一言では足りず、一億の言葉を尽くしても説明されきることはないように、どのような分野の学問や思想をいくら混ぜても仏教とはならないが、逆に仏教はどのような学問や思想、職業や芸術などをも包括できる。
「仏教」という区別・認識もまた、何らかの定義で説かれた概念に過ぎず、実際は「真理そのもの」とも「真理に至る道」とも、何とでも言い換えられるので、本来は言葉という手段に制限されず、どう表現のしようもない。
「仏教"Buddhism, Bukkyo"」という言葉を言語学的に解釈するならば、2つの意義がある。
1. 「仏 बुद्ध"Buddha" = 覚者 … 覚める बोधति"bodhati"の過去分詞」=そう認識される「釈迦牟尼仏」に説かれた「教え・教義"Doctrine, Dharma, Vacana"」
2. その仏(釈迦牟尼仏)とその所説を「信じる主義・宗教"Religion, Śāsana"」
以上の2つとなるが、それでは「仏の教え"1. Buddha's doctrine"が何であり、どのように信じること"2. Religion of Buddha"が成立するか」を、よくよく考察しておきたい。

当記事では、まず宗教・科学などの分野を個別に論じて仏教との類似点・相違点を示し、続く本論に於いて様々な譬喩で説明し、「中道」の理念を釈尊のスッタ・ニパータと、龍樹菩薩の大智度論などの記述から説明したい。
私は日蓮大聖人の法門を奉じているが、今回のテーマは五重相対でいう「内外相対(内道と外道の対比)」であるから、「阿含時」以来の伝統的な見解を折衷する。
私自身も、日蓮大聖人の甚深の法門を正しく理解するための前方便(下準備)として、よく学んでおきたく思う。


●例を取って弁駁す


【科学・数学など
例えば、鏡やディスプレイの画面は平坦に見えるものであっても複数の材質の層があり、その表面は分子の集まりだとすれば微細な凹凸がある(20170308投稿記事・類似の説あり)。
眼球には複数の構造があって角膜や水晶体(レンズ)が立体的である。
視覚の像(網膜から得られた信号)や鏡の像などはみな平面的な二次元であり、視覚の構造や鏡の構造などは立体的な三次元であるから、絶対的に二次元・三次元という認定ができなくなり、二次元・三次元とは、ある場合の仮定のための概念に過ぎないと知る。
こういった見解は「空の悟り」に近い。
※仮定のための概念でしかないならば会話も不要になって思考が空虚になる。当然、修行者は思考や言語を捨てるべきでない。仏など大慈悲の人も悟りの世界から「離れずに離れて」思考や言語を用いて教化する。思考や言語が空虚ながらにも重要であるという中道・中庸である。

また、人間を一つの生命というが、空気中・水中などのウイルス・雑菌などの微生物は体内に取り込まれて生存しているし、胎児の時から多くの菌が主に大腸にあるなど、一つの身に多くの生命が取り込まれている(寄生虫やシラミがいることもある)。
それを排除しても、「生命活動の主体」は皮膚・体液・臓器・脳などのどこにも無く、ただ先天性も後天性も無く知能・精神が自己の生存や他者の生存を知って生命の概念を認定するのみである。
これは空のみならず、無我・不浄・苦の悟りにも通じるが、それらの思考のみで慈悲などの心が生じたり、冷静な判断力を得る効果や悪い感情を抑制する効果があるとは言えない。
無常の悟りも、高度な科学的分析の果てに有り得るが、同様に精神への影響はさほどでもないばかりか、無我・無常の見解への執着を生じる恐れもある。

科学も数学も、物事を数字に換算するが、それは、どこまでも「言葉と言葉に定義された物事とを知る者自身や、理解が共通する他者」が意思疎通をすることのために行う。
例えば、1つと想定されたコップがあり、それと同じ形・絵柄のコップもう1つを隣に置けば、2つと想定でき、これが"1 + 1 = 2"という数式となり、道理として肯定できる。
しかし、そのコップがどうして「同じだ」と言えようか?
部分的に傷が付いていると気付けば同一性を見失う人がいる。
例えば、キズやシミが付いていると認識された商品を販売しない店がある(つまり商品価値としてキズやシミが付いている商品は他の商品と「見栄えや安全性が等価でない」という点で販売者にとっての同一性が失われたことになる。無論単に販売しないことには別の感情に基づく要因など種々に想定できるが与えられた命題と関係ない話)。
しかも、工業的に大量生産されたコップでも、分子レベルで分析すれば多くの微細な差異が有ろう。
実生活での計算とは、「おおよそ・テキトー」な感覚で、「これは同じだ」と「仮想」しているに過ぎないが、このように仮想した範疇では、どう傷が付いていても、サイズや絵柄が異なっていても「同じコップだ」と想定することができる(基準が曖昧な子供などは同一性と相違性が混沌としているし見た目の話をすると視覚障害者に不親切でもある)。
その延長が科学や数学だが、高尚な学問理解・知識に対する執着を起こした際の道徳的な矯正が存在しないので、仏教と異なる(科学者や数学者は真面目で冷静な印象があるが)。

次に、コップの中に水が入っているとしよう、世間では80mlとか80ccとか80gとかと単位を付けて数値化するが、普通のリットル換算では80mlも80ccも80gも"0.08L"である。
単位が変わっても数値が同じままのこと(80ml = 80cc)があるし、単位が変わったことで数値も変わること(80ml = 0.08L)があるし、単位を置き換えることが通じないこと(ml ≠ Wなど)もある。
その水の体積や質量や重量をどのように表現しても、コップの中の水は無数のH2O(天然水・水道水などに混ざるミネラル分などの不純物を考慮しない)が集まっており、体積は温度によって変化しやすいし、常温に置けば瞬間ごとに気体・水蒸気として遊離する。
真理においてコップごとに同一性は無いが、もし同一性を言いたいならばコップと名付けるものはみな同一のコップであるし、コップの中の水をどう数値化して複数個用意したところで同一性は無いが、数値化した範疇=想定の範疇で同一性が認められる。
定義をして名称を付ける行為は、水の入ったコップに「80mlの水」とか「2017年1月1日0時に汲んだ水道水」とか「この水、飲まないで!」と多種多様にラベルが付けられるよう、人の都合・人の目的・人の便宜のために行われるのみであり、真実には空虚である。
このように「想定・概念・名称・数値」の世界に生きている分野が科学や数学であり、その世界では計算や実験を成功させるための厳密な定義が重要となる。

科学・数学は、何らかの理屈が仏教に共通しても、真理において「算数(さんじゅ)」などの法を否定する仏教の理に適っていない。
いくつか私が例示した事柄を、科学者や数学者の誰かが覚っても、彼らの分野において無関係な見解であるから、素直に受け入れられないか、頭の片隅に置き去りにされよう。
また、そう覚って「想定・概念・名称・数値」の世界を区別し、そこから離れようとする人々が哲学の界隈にいるが、哲学も後述する理由で仏教と異なる。
科学も数学も哲学も、大事な「修行と証果」に欠いているので、仏教と異なる。


※近頃、仏教と、物理学・量子力学などの科学が「同じ一元論である」とする見解が蔓延っている。恐らくは華厳経など一部の大乗経典の説(華厳なら一即多・多即一・事事無礙法界・因陀羅網などとE=mc2や超弦理論)の影響が大きい。一元論を、方便とすれば「言語道断心行処滅」の真理に至るかもしれないが、言葉や理論として執着すれば悟りから離れる。釈尊も龍樹菩薩も「空・シューニヤ"Śūnya"(インド数字のゼロに同じ)」を説いており、中論で「不一不異(または不一不多)」と形容する。同一でも別異でもないというのに、一元性を殊更に強調すると陥穽を伴う。見解への執着で慢心を起こす危険性を孕むし、聞いた人々も満足感に耽溺する。もし教説・見解への執着を自覚できた人は、中論1824章大智度論巻第一、スッタ・ニパータ4章(主に9経12経)などをよく読み、「第一義諦・第一義悉檀」の意義をよく留意して念ずべきである。ある意味で真理は一つだが、上っ面の認識ではその真理を見なくなる。中論・大智度論を深くお読みであった南岳大師・天台大師の一心三観(萌え和讃5首目の脚注で説明)を行えば、なおよし。多元を一元とも称し、真実は一元でも多元でもないが、どちらかのようにも見える。多くの科学者にとっても、何らかの科学分野の定説か学説か何かが仏教教義に牽強付会で用いられることは「そのような見解の学者がいるか、そのような仮説を吹聴しているか」と捉えるであろう。

※酸素は人の生存に必要だが、多いと過呼吸になって死なせ、燃焼すれば人を殺す。物事は、置かれた状況や価値判断など挙げきれない多くの因縁の結果にのみ、必ず善悪が分かれる。こう言っても龍樹菩薩の第一義にとって語弊がある。物事自体に浄・不浄、苦・楽の原因などが無いと説く(中論23:8-9偈)。酸素や水は、善か悪か無記か?いずれでもあり、いずれでもない。水の認識すら、物質H2O(水素と酸素の化合物)という人や、無味無臭無色透明の液体という人や、泥まじりのものしか見ないという人(一部のアフリカなど)もいる。水の用い方は千差万別になる。水中で呼吸できない生物に対する拷問にも使える。つまり、水は億の善と億の悪を有するが、それは無い。一色一香無非中道。中道を空と説き、十二因縁など「無明・価値判断の因縁」を空と説く(中論24:18偈)。物も心も人も、それらの関係性も、「是皆寂滅相(中論23:15偈)」であることを知る必要があると思う。

※「我が身並びに一切は『四大 mahābhūta・四界 dhātu』と称されるものの集まり(四大所成)」であるように四念処の身念処(界方便観・界分別観)で教えるが、それは科学よりも古代ギリシャ以来の自然哲学と似た見解であろう。そこから、「欲界を離れる」こと(いわゆる煩悩から離れること)を志すならば、それはエピクロス主義のような哲学(快楽主義)であるし、体系的な教義と三宝帰依があれば仏教の修行法である。科学的と思われそうな知識が瞑想などの修行に援用されても、単に援用である。それでさえ、部派仏教も龍樹菩薩も「修行者は異なる悪業を持つ者たちであり、みな形式的に同じ修行をすれば一部の者はかえって悪業を強める(異なる病気を持つ者たちが同じ薬を飲めば一部の患者には強い副作用がある)」と説く(対治悉檀などの説)ように、必ずしも科学的である必要は無い。カガク・カガクと言う一部の仏教徒は、古代ギリシャの自然哲学などを学んだ方がよいかもしれない。

【思想・哲学
言葉というものを、言葉が通用する基準の中で種々に思索をしている分野が、哲学や思想である。
物事をばらばらに分けて見る・分別をし、理論や概念を多く生み出す。
その理論や概念で支えた見解は、時として心の苦しみを和らげるかもしれないが、かえって悩みを多く生む。
「これが正しい!これが真理だ!」と、概念に概念を固めることが倒錯・顛倒であると、仏教は真諦(勝義諦・第一義諦)の上で説く。
なぜ人が作り出した概念を組み合わせて真実を計ろうとするか?
尤も、それで満足し、事実に於いて諸々の執着を離れて涅槃に入るならば、一つの仏道の目的の成就ではあろう。

しかし、実際は釈尊が在世より予知せられた通り、現代までの仏教教団の歴史が論争・諍論の本源となっていて涅槃の道を絶やしてしまうことを体現し、龍樹菩薩が中道の意義を以て破折せられた。
故に、釈尊のスッタ・ニパータと、その所説に影響を受けたと考えられる龍樹菩薩の中論・大智度論などでは、特定の概念などについて肯定的に取り上げなかった。
大智度論は建前として摩訶般若波羅蜜経の注釈書なので、大概は「般若波羅蜜(六波羅蜜のうち般若=智慧に関するもの、智慧の完成を意味するとされるが単語の用法としては限定的)」の法を称賛するが、それは「無諍法」として機能している状態にのみ表れる。
更に進み、巻第百(大智度論の最後の巻)では「般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而も法華等の諸経に阿羅漢の受決作仏を説いて大菩薩能く受用す。譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」として「般若波羅蜜が秘密(真理の法を示していて小乗の人が知らないこと)・最勝(最も優れていること)」という主張を自ら抑制している。
釈尊も龍樹菩薩も、どういう立場でどう説法せられても、様々な衆生に種々の方便・譬喩などを用い、種々の修行法を示された。
究極としては、偏狭に一説を奉じた原理主義・セクト主義を助長しないように自ら過去の所説を否定するような言い回しもある。
後に詳述するスッタニパータ4章9経と大智度論巻第一では「仏様はどのような見解"Diṭṭhi"戒律"sīla"生活"jīva"や、それによる転生(例: 天界に生まれる、解脱する)があると説くのか?仏様が『これを説く(断言する形で何かを説く)』ということはない」とする。

何であれ、多くの哲学は、言葉・概念の構築によって思考・論議を行うなどしてその結論に真理があると考える(その哲学を疎ましく感じて龍樹菩薩のような卓見を示す哲学者もいるようだが→ヴィトゲンシュタインとかハイデッガーなど?ともに1889年生まれのドイツ語名の人)。
言葉は、言語の形ですら文化・習慣・宗教が反映された限定的なものであり、普遍的な意義のあるものとしても、相対的な物事を示す道具に過ぎず、99%以上の説明を尽くすことができても100%や0%を実現することがない。
思考の結果として発した言葉は、みな正論であるが、何らかの定義・道理を前提(命題)としている場合に限る。
そのように「一理ある」からこそ全体に適うことはないと推して知るべきで、その智慧こそが最も真理に近く、仏教が目指さんとする真理も、「論争」を主題とした場合、このようである。
哲学や、多くの宗教など、みな往々にして異なる真理を奉じてしまうならば、既に真理を自ら絶やしたことになる(異なっている現象をそのまま如実に見れば真実でもあろう・私が真実を限定すると真理から離れる)。
これもスッタニパータ4章の随所に説かれ、龍樹菩薩も大智度論巻第一に引用していることは過去記事に私が紹介する通りである。
※究極的にはどんな主張も、主張の中身を言語の法として理解するのではなく、主張が発せられた縁起を見れば、それで真理に通じるのかもしれない。これをまた「人の世の常」と端的に表現する、真理の一端である。

「形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理」
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/04/harmony-between-sects.html

【倫理・道徳(政治)など
仏教を標榜する教説といえば、法句経(ダンマパダ)の「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教(七仏通戒偈と天台大師が名付け一般認知される)」であろう。
そのように悪をなさず、善を行うことで、自然と心が清まることが諸仏の教えであると説く。
これを現代の価値観で額面通りに取ると、一般的な道徳(勧善懲悪)そのものとなる(もちろん偈としての意味はそうでない)。
道徳といえば、恐らく学校教育でも、国語や道徳の教科書に「雨ニモマケズ」や「蜘蛛の糸」などが載っており、どちらも仏教から影響を受けた作品である(前者: 常不軽菩薩、後者: 謎のお釈迦様)。
教科書に載っていないとしても、仏教の道徳性ということを考える際、世間一般に伝える場合はこの2作品を例に取るかと思う。
後述するよう、他者への寛容・親切心という消極性のみならず、能動的に自己犠牲というような利他主義・奉仕精神の積極性が求められてもいる(大乗仏教との親和性が見られる)。

倫理、道徳。その目指すところは、健全な人間関係・社会の実現というものか。
現代文明の大勢は、民主主義・人権尊重・人道主義・自由主義、そして多様文化や宗教多元主義である。
既にいくらか健全さがあるからこそ、より良い健全さを願って倫理や道徳を重んじようとする人もいる(あるいは利益や保身のために振る舞う偽善もあろうが)。
仏教団体の維持も、共産主義者(例: ポル・ポト、中共、ほか社会主義・国家主義)や異教徒からの迫害がよほど強くなく、民衆の信心が保たれる時代と場所において有り得ている。

理想的に健全な社会とか文明とか、世界平和は、多くの修行者の成長(解脱など)と仏教の流布の結果にありえるかもしれないが、仏教の流布で必ずしもそうなるとは、誰も断定できない。
仏教徒はなおも論争を好んで派閥内の分裂を多々起こしてきたように、人間関係ですらギクシャクしてしまうことが歴史的経緯・現代の教団(ただし大勢としてリベラル思想・ヒューマニズムを重んじて仲直りをしようとする)に明らかである。
しかし、教団同士の問題はどうであれ、個人レベルで解脱した人は別の方面でいたろう。
仏の在世にすら自殺で死を目前にするも自殺意思を別問題にして涅槃に入ったゴーディカ(相応部"SN, Saṃyutta Nikāya"4-23経)・ヴァッカリ(同22-87経)尊者などがいる。
仏教と、倫理・道徳とは、教えも目的も似ているが、明らかに異なっている一面がある。
理想的に健全な社会とか文明とか、世界平和は、副次的な結果として有り得ても、仏教が目指すところではない(あえて言えば維摩経や法華経でいうように元から平和な世界=悟りの教理として娑婆がそのまま仏国土・浄土・常寂光土と呼ばれる)。

修行について、菩薩の布施行や四摂法などを見ると、慈善事業や社会奉仕活動のように思われる一面もあるが、あくまでも自身の解脱や他者を仏道へ導く方便・一手段に過ぎず、それ自体は美徳と言われない(通俗的に見て尊い行為かもしれないし心が清らかであれば功徳かもしれないが)。
布施といえば、六波羅蜜では一番初めにあり(パーリ語経典で10挙げられているものも同様)、まず自分の無駄なものを捨てるとか、物質的な執着を最低限まで減らすこと(俗世からの出離とも)に意義があり、そうして「持戒(戒の原語"śīla, sīla"は道徳的な習慣という意味がある)」などで自身を守り、忍辱・精進・禅定というように修行を積むものである(布施には法施といって物質的なものに限らない側面もある・化他行の一種)。
道徳の理論や思考などにおいては、「公平無私」といっても、自他の我・アートマンを排除しない上でのみ成立しているし、その範疇を出ることがないので、「無我」を説く仏教の教理とも異なる。
何度も繰り返すよう、仏教とは目的が異なっているので、教義にもその結果として類似点と相違点が表れる。

菩薩や仏の慈悲とは、教理にあるような無我や空の悟りによって偉大であり(過去記事)、そのように自己の仏教的な悟り("仏教的な"とは語弊がある・この悟りはそのまま世俗に通用して哲学・科学にも相違しない)や、最低限の理解が求められている(三縁の慈悲の説など)。
これを言い換えて「忘己利他・慈悲之極 (伝教大師の山家学生式)」とも言うが、「空の悟り」から一旦離れ、悟りの心のまま「仮の世間」に出た立場「自他の我・アートマン」が前提である。
絶妙に「空・仮」を使い分ける仏・菩薩の「中道」の智慧による慈悲は、堅固であって絶大である。

【宗教】
仏教とは、当記事の冒頭に説明するよう、現代人の一般認識は西洋の"Buddhism"に対応する訳語として用いられている。
"Buddhism"としては「仏 बुद्ध"Buddha" = 覚者 … 覚める बोधति"bodhati"の過去分詞」=そう認識される「釈迦牟尼仏」に説かれた「教え"Doctrine, Dharma"」というよりも、その仏・所説を「信じる主義・宗教"Religion"」という意味合いの方が強い。
「宗教"Religion"」とは、西洋の概念であり、その目線から様々な部派・宗派を包括する名称として「仏教"Buddhism"」が提唱されたと考えてよい。
ブッダ बुद्ध"Buddha"が梵語である場合、バウッダ बौद्ध"Bauddha"は梵語のヴリッディという規則に従って仏教徒の名詞や仏教に関するものの形容詞(英語のBuddhistと同じ)になる。

「宗教」全般は、説いても説けない・認知しても認知できないはずの客観的真理・絶対的真理・存在(形而上学的云々)が有ることを信じ、その補助となる教説および教祖を信じる場合が多い。
その真理・存在や、教説と教祖とを信じること=信仰は、一般の信徒から施される金銭として表れ、宗教団体の維持や宗教家の修道(修行)を補助している。
戒律の厳しい仏教団体(サンガなど)はその場しのぎの衣食を乞い、所属者(僧侶)は金銭を持たない(触れていけない決まりがある)はずだが、現代にはほぼ存在しない(東南アジア・スリランカの上座部仏教の大勢も同様)。
この形態は広範な布教に現れているので、宗教は日本古来の神道など家系や土着性を重んじている「祭祀(おまつり)・崇拝」の方面と区別されることもある(祭祀を朝鮮語でチェサ"jesa"とも呼んで似たような文化性が見られる)。

※神道などの「祭祀」は、自己・家族・村落などが本意であり、よそのものには融通が利かないから、「宗教」と異なって広範な布教が出来ないが、神道に限っては明治以後の近代化によって既成宗教の影響で海外への流布を目論んだ経緯もある(日本書紀「掩八紘而爲宇」を根拠とする近代の八紘一宇思想で天照・天皇の御稜威が日本国に限らず世界に普く及ぶという理解に基づく)。宗教の道徳性・勧善懲悪は、高尚なる教祖とその教説への信仰において成立するわけだが、神道の場合は具体的な聖典に欠いており、教祖も存在しないが、ある程度の時代は日本書紀・古事記に基づいて神武天皇の実在を前提とし、戦時中は天皇陛下を現人神として崇めていたので、宗教性がある(世界宗教や土着信仰の中間とも言えようか・一国型宗教)。明治以後に泡沫の如く発生した新興宗教の中には、仏教やキリスト教などから影響を受けた「超宗教・諸教同根」の団体も多く、これらは紛れもなく「祭祀」ではなく「宗教」と分類する(実際に本来の神道にある氏子という発想が薄れていて俄かに発生した神秘的な教祖やその家族などに利益が集まって本来の神道と異なる)。なお、インドの祭祀と思われる婆羅門・ブラーフマナ・バラモン教と呼ばれるものは、アーリア人(印欧祖語から派生したと推定されるヴェーダ語・サンスクリット語を用いたインド・アーリア人)のセンスが効いたヴェーダの教えであって「宗教」である(ヴェーダ以前の祭祀は不詳)。

仏教団体のスタンスも、そういった一般的に宗教と呼ばれるものの形態によって布教があり、維持があるし、多くの教団は現代国家の「宗教法人格」を取得している以上、自ら宗教の立場を肯定し、国法を順守していることになる。
さて、当然、このような教団の形態や、信仰の性質は、紛れもなく宗教そのものであるが、だからこそ「教団の形態・信仰の性質」の観点での宗教性を確認するのみであり、教義の方面まで他の宗教との共通性があるかは断定できない。
ひとまず、一般認知される「仏教」は宗教であり、信奉のある集団もまた多くの例が宗教団体であることは確定した。

教理についていうと、先に「説いても説けない・認知しても認知できないはずの客観的真理・絶対的真理・存在(形而上学的云々)が有ることを信じる」という話をしたが、一般的にその例は「世界の発生・自己の前世・死後の世界」などである。
人々を導く上でモーセにせよイエス・キリストにせよ、釈尊にせよ、みな説明の必要があったろう。
キリスト教など一神教・啓典の宗教と、仏教がどう異なるかといえば、因果応報による六道輪廻(または五道)の話がよく引き合いに出されるが、説明を略す。
そのような因果応報とか善悪業報とか、輪廻転生とか、実在としての六道といったものは、相手を選んで随時、釈尊が説くことはあったろう(いわゆる対機説法)。
人の心の状態としての六道(喜びは天界のようだ・人々は地獄のように苦しむ)という表現もあるが、どのような意義の教説であれ、様々に説き、ある時は肯定し、ある時は否定する。
この性質がパーリ語経典(スッタ)・阿含経典(アーガマ)にせよ、大乗仏教にせよ、よく現れている。
後述のスッタ・ニパータ4章9経と大智度論巻第一の教説や、過去記事にも説明した「四悉檀」の意義や、部派仏教の論蔵・大乗の般若経典・中論にある「二諦」の意義をよく考慮すべきである。

各人の立場で取るべき信仰・教義があり、これを(生死の大海・三途の川の)洲"dīpa, dvīpa"とも筏"kulla, kola"ともいう。
「取る」ということは「捨てる」場合もある。
それは、「能動的に捨てるもの」として「筏のたとえ"Kullūpamaṃ, 中部経蔵・マッジマニカーヤの22経など、中阿含経では阿梨吒経に載る"」が著名である。
※同中部22経や阿梨吒経は先に「毒蛇のたとえ」が説かれる。毒蛇を捕まえるために中腹を掴んだが蛇の頭が手に噛みいてきて苦しみを受ける者Aと、毒蛇に対して道具で制して頭を上手く掴んで噛みつかれずに済んだ者Bがいる。仏の教説を聞く場合も、表面的な理解のせいで論争したがって苦しむ者Aと、正しく理解して自他の解脱の役に立たせる者Bの二者がいることを説く=どんな教義でもその人が迷うことも悟ることもあるという。善悪の二面性=一如=無(不一不異)にも通じる。どんな教義にも善悪の二面性があることを言えば、どの宗派の教義・修行でも正しく理解して実行すれば解脱(涅槃・成仏・往生)を得られるということになる。しかし、この高尚な道理ですら「修行せずとも成仏できる」とか「仏教じゃなくても悟りを得られる」などと気が変わる恐れがある。どの宗派でもよいと理解するからこそ、既に信心を決めた人々は、当然、自分の宗派が自分に最適だと信ずべきであり、無宗教の人・困っている人に勧めよう。まさに正法。

能動的に捨てずとも、修行して解脱の徳の高い者は、無意識に執着を離れているかもしれない。
このように、スッタ・ニパータ・阿含など小乗仏教・上座部仏教系の諸経から、大乗仏教の経・論まで、「客観的真理(真諦・勝義諦・第一義諦とも)」に近い方面では基本的に一貫した見解のようである(この一面を現代人が仏教は合理的だとか他の宗教と異なるとかドグマが無いとかと称賛する)。
「中道」の立場で言い直せば、「真理に通達した見解がある=それは見解と言えない=見解と言えなくもない」となる。
教義や教祖(教団における目上の人・法蠟の高い僧侶・在家信者に対する僧侶などを含む)に対する信仰が、あくまでも「目的のための手段」というスタンスを説明し、解脱などの目的を成さんとする時にはブッダ様とそのダルマ(ダンマ)にも執着してはいけないとする(複数の宗派の信仰においては仏様への信仰と関係のない雑念や未練を断って成仏や往生を念じよと説く)。

当然、私を始めとした多くの現代人は未熟者であり、心も脆弱であろうから、釈尊やあらゆる所説、並びに諸々の大徳や現代の宗教指導者を信仰・尊敬すべきである(ブッダ・ダルマ・サンガの三宝の一体性を考える)。
先の六道輪廻などの教理についても吟味し、信仰とまでいかない哲学的合理性でも何でもいいから、肯定的に見ておくべきである。
今までに論じてきた内容を総括して言えば、他宗教に無い仏教ならではの教義の特徴が中道の理解である。
本論からも深く「中道」について考証するが、興味のある方は「論争・アートマン(本質・エッセンス)」をテーマにした過去記事も参照されたい。
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/10/heretical-dogmas.html

※なお、仏教における「説いても説けない・認知しても認知できないはずの客観的真理・絶対的真理・存在」とは、そういった「世界の発生・自己の前世・死後の世界」という大層なテーマを設けずとも、般若経典や中論や、多くの大乗経典では、万物自体が万物であって万物でない、認識できて認識できないような「中道・真如実相・言語道断心行処滅・不可説・不可得」のものとして説明する。どのような存在・非存在・想定された事物であれ(自己・他者・仏・我が心・行為…)、みな寂滅の相であるという教理(中論23:15偈)であり、特別なテーマを要しない。



●総括・本論


仏教とは、宗教・科学・哲学・倫理・道徳(ほかのカテゴリーとして医療・健康・文学・芸術・音楽・スポーツなども挙げられる)、いずれでもあり、いずれでもなく、いずれでなくもない。
唯物論でも唯心論でもあってなく、どちらでなくもない。
性善説でも性悪説でもあってなく、どちらでなくもない。
教主釈尊・仏がたまたま、これらの良い点を摂取・折衷した教えを説いて仏教と称するのでもない。
※唯物・心論については、仏教でも物を物として分析し、心を心として分析する二元性を見るが、更に物心一如(または色心不二)といい、物と心の元々が一如とも言えない無・無相という。性善・悪説については、菩提の性善・煩悩の性悪のいずれも説く中道である。二論二説みな空虚な定義で議論を促進するに過ぎず、机上に留まる。

ある道理や基準に則って物事を見たとき、現代でいう宗教的な見解・科学的な見解・哲学的な見解や、唯物論・唯心論などという区分に当てはめるが、仏教はただ真如を説こうとする(真諦)か、真如が何であるかを理解させるまでの方便を説いた(世諦)に過ぎない。
むしろ、余(ほか)の宗教・科学・哲学などがたまたま仏教の教説に似たというべきであるが、互いに模倣した・影響を受けたなどとも考えるべきでない(邪見を持つべきでない)。
釈尊は、悟りの内容を智慧と慈悲とによって明示せられた、と私は信じており、その結果として宗教・科学・哲学・倫理・道徳や、唯物論と唯心論や、性善説や性悪説に類似する点も含まれたのみである。
更に私は、この意義を「中道」と説く。
たとえ、仏教がどんな色づけ・どんな味つけをされても、中道を外れることはない。

つまり、仏はお一人であり、お一人でなく、お一人でなくもない。
真実の法は唯一であり、唯一でなく、唯一でなくもない。
この「そうである、そうでない、そうでなくもない」という三者は、常に「ある道理において」という理解が前提にある。
例を挙げれば、「(ある道理において)仏はお一人であり(歴史上の釈尊)、(ある道理において)お一人でなく(信仰上の諸仏や一切衆生悉有仏性)、(ある道理において)お一人でなくもない(釈尊も諸仏も実在と言えない・真実には仮名ケミョウあるのみ)…」、あらゆる物事"sarvadharma"についても同様に考察できる。
仏と、仏に説かれた法とは甚深微妙であり、稀有殊勝であり、帰依すべきである。

目の見えない人(盲人)たち(群盲・衆盲)に大きい象を触らせる例え話・譬喩がある。
彼らは当然、象の姿を見たことが無い上で、「象」がどのようなものかと考える。
鼻を触った者は「象は立派な大蛇のようだ」と言い、しっぽを触った者は「ぞうさんって細いね」と言い、脚を触った者は「象は樹の幹のようだ」と言い、脇腹を触った者は「ゾウとは岩なのか?」と言い、牙を触った者は「象牙そのものだ(象と象牙は同一だ)」と言う。
目が見える者ですら、象は人間やほかの動物と比べてとても大きいと言ったり、世界に比べれば同じちっぽけな存在だという。
みな、一面的な道理とその思考の中では正しいが、そのために、普遍的真理・ありのままの真実を曇らせる言い方に陥っている。

龍樹菩薩の論法は、全て空の雲が水の粒の集まりが見えるのみであって「雲そのもの」という実体がないようなものと打ち破り、雲のあるがままに燦然たる太陽を明かすものである。
地球に我らが生存する限り、雲を払って太陽を明かしても、水の粒の層(大気圏)は晴れきることがない。
地球とは心が捉えた外界、我らとは心そのもの、雲とは貪瞋癡という三毒の煩悩であり、太陽は悟りである、人は呼吸をするから常に水蒸気が発されるが、これに譬えた。
人が世に生きていれば煩悩・業・苦があり、悟ったとされる仏や菩薩もまた凡夫を教導するにあたって意識・言語・修行などの三業を用いているが、仏・菩薩は速やかに涅槃に入られる。
凡夫もまた、本来は無我であれば、煩悩・業・苦と呼ぶべきものも無であり(中論23:3偈「無我諸煩惱・有無亦不成」)、仏・菩薩と凡夫とは「毫釐の差別も無し(中論25:20偈)」である。
これも中道の要義である。

真実の仏法は円満であり、我々の見る教理はいびつな円のようである。
円とは不思議なもので、数学の円周率をどこまで計算しても求められないように、円満の中道を実現したくとも円周率のように100%を求めきれない。
完璧な円・完全無欠の円は存在せず、円周率は無理数(むりすう"Irrational number")の代表例(万物自体当記事で詳述のように一杯の水=無数の分子で構成されるように無理数だがこれはメタ数学的な話である)となるが、世間の事物ならびに仏法もまた不可数(ふかしゅ"innumerable, uncountable"、華厳経入法界品や大智度論など)である。
だからこそ、円周率は"3.14"という、ほどほどの慣用的なものを算数の授業に用いるわけで、仏教徒も借り物の真理(主観的真理)を現世に活かさねばならない。
※より簡略的なものにはπ(パイ)がある。仏教では「南無」の言葉などがこれに当たる。

宗教と思ったらば宗教、科学と思ったらば科学、哲学と思ったらば哲学、倫理・道徳と思ったらば倫理・道徳、それらのイートコドリと思ったらばそれらのイートコドリと思う。
思い込まない・執着しないことを目的に、そう思って意業を慎むということである。
迷妄はそのまま真実であることが大乗の極理となるが、迷いと悟りという仮の区別さえつけづらなくなった私は、狂乱してすでに正気でないかもしれない。
さらっと邪説を唱えているかもしれない。

今、端的に仏教を仏教たらしめるもの(エッセンスといえば語弊があるが)を言えば、まず小乗以来、四諦(苦あり・苦の因縁あり・苦は滅ぶ・苦を滅ぼす手段あり)の初転法輪による「苦が滅びる道」が定義できる。
苦を滅ぼす・輪廻からの解脱という目的を掲げた仏道があるが、この「道」の認識こそが仏教を仏教たらしめるものである。
その「道」に資する教えは、みな仏教、覚者"Buddha"の教えである。
人々は、その教えの中の一つや二つを見て、宗教・哲学・科学・倫理・道徳のいずれかに似ていると主観的価値判断を種々になしている。
先に言う、目の見えない人々・目の見える人々が、大きな象を種々に形容したように。

象 可愛い 怖い 可愛 可恐
拾主「於汝意云何?象者…可愛耶?可怖耶?」 尊者「二倶不然!」

もし、この象という概念が「暴れるもの」と認識されていれば、「象」の名を聞くだけで人々は怖じ恐れる(概念を頭に思い浮かべるだけでも同様)。
暴れ象でなく、「可愛い象さん」という甘美な思い出のみあれば、象が暴れる可能性を考えずに安心しきってしまう。
「象」は、怖いものか?愛らしいものか?
どんな判断であれ、恣意的な認識・感情が伴うものであれば、みな虚妄であり、真実ではない。
小賢しさも愚かさも迷妄であり、結果的に苦を結実する。
「象」が、幸せの根源だとか不幸の根源であるはずがないように、どんな物事にも「浄・不浄」「愉快さや不快さ」の根源が存在しないと悟ることは大乗の理想でもある。

ちなみに私は、小さな虫すら、部屋で見ると恐怖を覚える。
「人間の住み処にいてはならない存在が自室にいることは怪異(けい)である」という恣意的な価値判断がある(人間の住み処という想定も世俗的な妄想)。
暗闇で蛇のような影を見て恐れることも、影の正体が単なる縄であると知って恐れを消すことも、蛇(怖いもの)や縄(怖くないもの)の価値判断(妄想・顛倒)に基づいているから迷妄である、と説かれる仏教において、修行者を自負する私が不埒の極みである。

※唯識・瑜伽や法相宗などを中心に「蛇縄麻(だじょうま)の喩え」として有名であるが、これは摂大乗論(漢訳2種どちらも)に出ているものであり、麻に言及しないものとして楞伽経(漢訳2種どちらも)がある。「蛇縄麻の喩え」は唯識・瑜伽・法相宗の方面で「三性"trisvabhāva"=遍計所執性(縄を見間違えて蛇と思い込む状態)・依他起性(縄と知って縄を真実だと執着する状態)・円成実性(縄は真実の存在でなく麻糸の集まりで造形されたものを縄と知って全ての執着を無くした状態)」の説明に用いられる譬喩である。仏教も、宗教・科学・哲学・倫理・道徳など何らかの分野に似るが、いずれかであるとか、いずれかの良さを持ったする何かだとする見解に執着すべきでなく、仏教をどう説明しても仏教とならない「円成実性"pariniṣpanna"」の立場(中道)を知らねばならない。縄は麻糸の集まり・我が身並びに一切は四大と称されるものの集まりであり、五蘊のプロセスで縄とか麻糸とか肉体とか四大とかという概念・物事を見聞き・認識・分別していること・・・みな円成実性=都無・実有・中道ではないか!!一色一香無非中道!と、こういった主張にも拘泥・執着すべきでない。例えば、折角手に入れた宝珠・水晶玉=中道真如仏教が、曇って最後には砕けてしまうであろう。



さて、仏教らしい研鑽をする者でも、例えば仏教学者は、「名(名目)」としてのみ仏教である。
仏教学という学問は、これまた学問の範疇にあり、仏教そのものではない。
先述の「道」、つまり、苦を滅ぼすことや解脱することを目的とした「道」の意識が無く仏教を学ぶならば、仏道修行者でも仏教徒でもなく、単なる「学者さん」になる。
学位の取得などを目的としていることもある、学問の人である。
一方、僧侶の姿をしていても、「社会!シャカイガー!」とばかり「法話」をする人もいる。
世界平和を夢想する倫理・道徳の人である。

日蓮大聖人の御書から言葉を借りると、辛口ではあるが「但だ名のみ之を仮りて心中に染まざる信心薄き者」や「法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども法師となる義は一もなし。法師と云う名字をぬすめる盗人なり」であろう。
「道」の自覚の有無で、仏教か否かは明確に決まる。
※そういった学者さんやお坊さんが実際に解脱を目的とした「道」における一手段・方便として学問なり社会貢献なりをしているつもりならば、もはや私は容喙できない。そもそも他人の心をみだりに推し量るべきでないが、説明のために記した。

無論、「道」というからには、自覚と教えに加え、修行すること(行)、果報を得ること(証)が重要になる。
些細なことからでも行動し、その結果を確認してゆくように、反省と努力を絶やさない。

なお、解脱という目的についても、どのような修行などが有効であるかといえば、一般に「戒・定・慧」の「三学」が重要であるとする。
しかし、それら三学とその中身(五戒や止観など)や、六波羅蜜などに拡げて考えても、その経典の中では強く奨励することもあろうが、教理の究極においては、必ず解脱を成すとは説かない。
これは、スッタニパータ4章9経に説かれ、大智度論巻第一に「阿他婆耆経(摩犍提の偈)」の名で説明がある。
スッタニパータの当該箇所では、釈尊が、娘を嫁がせに来たマーガンディヤ(大智度論では摩犍提)という在家の人から「(あなた釈尊は)あらゆる王が愛して求めた美女(彼の娘を指すか不明)を求めずに、どのような見解"Diṭṭhi"戒律"sīla"生活"jīva"や、それによる転生があると説くのか?」と問われ、「『これを説く(断言する形で何かを説く)』ということが彼(Tassa, 有って無い自己と諸の覚者を仮想した=釈尊ご自身)にはない」として説明した。
つまり、そういった「見解・戒律・生活(=教義や修行法)」の形式が「必ずこうであれば解脱する(suddhiṃ・清らかになる)」と説くことがない、という意味である。

多くの宗派の教義では、その宗派の修行法を、「解脱=涅槃・成仏・往生などの目的を達成する有効な手段」として主張し、唯一の大道と宣言することもあるが、それは主観的真理の確信において肯定される。
実際の中道の立場では、どのようなものでも、言葉にするならば肯定的な断定ができない。
釈尊と龍樹菩薩は、中道の立場に於いて説く場合、「それ(上述の教義や修行法)・それでないこと」を提示しながら、更に「それ・それでないこと」をも全否定せられた。

龍樹菩薩は、大智度論巻第一において、その説(厳密には少し異なる)を、多くの経典の最初にあって阿難尊者の発言と信じられる「如是我聞"evaṃ mayā śrutam (パーリ語: evaṃ me sutaṃ)" (このように私は聞いた)」の「如是(このように…)」に関連付けている。
つまり、「如是我聞(別の訳に我聞如是や聞如是もあるが)」とは、阿難尊者が「このように聞いた」ということであり、「私はこう聞いた(我聞之)、私が"このようなこと"を聞いた(我聞如是)」という断定が伴わない微妙なニュアンスを持っている。
阿難尊者など阿羅漢が「こうだ!絶対こうなんだ!」という断定の表現を使うはずはなく、梵語でいう"evam"、漢語でいう「如是」という語は極めて重要であることを、龍樹菩薩が示されている。
解脱は、物事の束縛から解放・脱出した境地であり、何ものにも制約(束縛)されないことをあえて言葉の制約下に表現した単語であるが、実際について、学問・見解・戒律・修行法などに制約されてはいけないし、そもそも制約されるはずがない。

確かに千ないし千二百五十ないし無数の阿羅漢は、仏の教導のもとに解脱したか、そうであると信じられてはいるが、現今の仏教団体に解脱の可能性が制約されることは、本当に「解脱」と考えるべきか?
それでも、修行者たる私は、釈尊という仏を尊敬し、諸仏の教えと自己の仏性とを信じねばならない。
これもまた、「(修行者の目線にとっての)仏教(の一面)」であるから。

※解脱は不可思議であろう。仏教学者の見解を受けた人々はしばしば「形而上学的な輪廻・解脱・涅槃のことについて釈尊は説明をやめて沈黙したんだ!(十四無記の説)」とばかり強調する。あえて中道の意義によって説明するならば、龍樹菩薩の中論「自・他・共・無因」の区別法に則った天台宗の「四性計」がある。解脱の成就とは、理論・教義・絶対神などの他力によるものでなければ、修行などの自力によるものでもなく、その両方の調和・折衷(他の教えを聞いて自分で考えて修行)という共力によるものでもなく、何もせずに成就する(そもそも最初からしている)無因力によるものでもない。何らかの原因は解脱の結果からいくらでも求められるが、自力・他力・共力・無因力のどれかに限定などできないし、安易に推量してもならない。これを「不可思議」というので、秘密主義というものでもない。いずれでもあり、いずれでもない、円満・中道である。私の所説を素直に理解できれば解脱の土壌を耕せている。

スッタニパータ・般若経典・中論・大智度論など、釈尊・龍樹菩薩は、悟りの立場で「否定的な中道」と「あえて仮名(けみょう・仮に名付けること)する」という論理を示してきたが、更に深まった大乗経典=法華経・維摩経・華厳経・涅槃経などでは不染不浄の娑婆世界をあえて「浄土(法華経・維摩経の"Buddhakṣetra"を鳩摩羅什三蔵がしばしば浄土と訳した)」と名付け、天台宗などで依正不二・常寂光土とも説くようになり、萌えの法門で清浄萌土の譬喩に援用する。
このように「仮名」の意義から、「積極的・肯定的な中道」となった(悟りの人・信心の深い人以外が見ると誤解を招く危険性があるので大乗が秘密の法門であるともいう)。



本題に関して仏教を真実の立場で説明するならば、やはり相手の「仏教はこうだな」と思うところ(宗教・科学・哲学・倫理・道徳のいずれかを想像)を推量して粉砕することに始まる。
それが龍樹菩薩らしい「中道(否定的なもの)」の論法である。
相手の「仏教はこうだな」と思うことを許容したいならば、それ以外のことについても例示して肯定すると、それも「中道(肯定的なもの)」の一類である。
その際は先述の「如是我聞」のごとく、「(ある場合は)宗教のようだ・(ある場合は)科学のようだ」といった、断定的でない表現(推量表現)を用いると、より良い。

何よりも、修行者であれば「苦集滅道(声聞・小乗の場合)」や「皆成仏道(菩薩・大乗の場合)」に則った教えを奉じることが、修行者の「主観的真理」に適った「仏教」ではなかろうか。
パーリ経蔵において相応部(サンユッタ・ニカーヤ)56-31の経"Sīsa­pāvana­sutta"は、仏自身が説いた教えは「苦・集・滅・道」の四諦に則ったものであってそれ以外の何物でもないことを、「手に取った葉っぱ数枚(四諦に則った教え)」と、「背後の林の樹々の葉っぱ(それ以外のこと)」に譬えている。
これは、仏自身が「仏教"Buddha's doctrine, Dharma, Teachings"とは何か?仏教はなぜ仏教か?」を示した教説と拝す。







起草日: 20170428

原案は起草日の前日就寝時に録った音声である。
動画として投稿し、以下に埋め込みプレーヤーとリンクとを掲載する。


http://www.youtube.com/watch?v=ACOa22TWnXo

上掲動画の説明文には、本題にある四句分別のような表現について注釈している。

注釈: 「①これである、②これでない、③これであってこれでない、④これでなくもない」という類の論理は「四句分別」の一種かと思われる。その前提で音声ファイルを添付したメールにはこのような一文を添えた「(半角カナ打ちのものを校正→)このような四句分別をし、さらに言語を離れたものが仏教だが、そうともいえない。客観性に近づいて言えば、それこそ仏教の真理に通じるが、修行者の主観性も尊重すべきである。つまり、『いずれか一つである(仏教はカガクテキだ! or サイコーのテツガクだ!等)』と仮に信じてもよい。それが菩提の道の灯火となるならば(菩提の道の灯火=三途の川の洲"dīpa"とも筏"kulla, kola"ともいう)。」

最も仏教の「妙」といえるものは、何か?
無執着とされる境地もまた「不可得」であり、常に反省(止揚)を続けて「形式的教義"Doctrine"」に囚われて囚われない境地がそれである。
形式的教義を超越すること、その手段=方便が形式的教義であり、このような境地は「最妙」であり、「醍醐味」ともいう。

私はあくまでも「内外相対」を明確にすべく「四諦・四仏知見」に基づいた全ての教えを仏教とし、「中道」の論理を用いたが、仏教の「醍醐味」は、常に正念を保って善悪を自覚し、反省の努力を続ける人から学ばれよう。
改めてそれは「無執着・不可得・中道」の「事実相(五感で認知・世俗的価値判断できること)」といえる。
仏教はその「事実相」を示す教えを含み、仏はその教えを説いた事実相の本人である、と信仰をしてやまない私である。



上掲動画の音声は、携帯電話のバッテリーが切れそうな警告を携帯電話が強制表示したために、録音が途切れた。
携帯電話・バッテリー切れの現象は2016年以後に顕著な現象であり、ときどき日記メモ(16/01/0116/03/12後半など)に記録する。
充電器・充電コードの半壊状態は2014年からであろうが、最初の記録は2015年11月「日記メモ啓発月間中の本家ブログ」の記事のうち、11月17日分のもの(前日メモとして載る)であろう。
この現象は、2016年末より某サイト・携帯電話アプリ作曲を控えるようになった経緯に大きな影響を与えた(2016年末まで2ヶ月間・適度に携帯作曲をしていたが当時も不便さを多く感じていた)。
ちなみに2016年末から、某サイトにかわってYouTube音楽チャンネルの動画投稿を本格化した。

上掲動画の説明文には、動画中にも確認できる充電切れ現象について説明している。
携帯電話のバッテリー劣化・充電器の不安などは過去の日記メモで幾度と説明しており、この音声が途中で切れている状態も、バッテリー劣化・充電器の不安によって電池残量が不十分であるためである。
それでも、この日の独り言の概要は、音声の中でまとまった。
途切れた箇所も、上手く要旨を留めた。

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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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