2017年4月21日金曜日

形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理

「仏教団体の宿業」とでも言うべきか、インドにおける釈迦牟尼仏・釈迦如来の出世(仏教の発生)や初期仏教の根本分裂に始まり、現代でも分派の動きが絶えない。
教団の信念や精神が形骸化した時、不満足で反骨精神を持ったグループが蜂起して分派する傾向が強い。
以下から、釈尊・龍樹菩薩・日蓮大聖人・親鸞聖人(ほか鎌倉・江戸仏教)などの仏教史上の例を挙げる(約3,000文字の章となるがなお前置きの段階である)。

原始仏教の釈尊(歴史上のゴータマ・ブッダ)の言葉として仏教学界で承認される「スッタ・ニパータ"Sutta Nipāta"」の第4章12経では、釈尊が「各々が自身の見解に依って他者の非を責め、真理について論争をしているが、誰が真理を説いているか?」と誰かから質問を受け、「もしみな自分の見解を受けいれない他者を『真理に背くので愚者だ』と非難すれば、みな等しく愚者である。またはみな『自分の見解で清らかになる・悟りが得られる』と主張すれば、みな愚者であるはずがなくみな欠点は無かろう(同部分の漢訳は少し異なる形で仏説義足経大智度論に載る)」と答えている(バラモンや六師外道を念頭に置いたか)。
このスッタニパータ4章12経の要点は「真理・真実は一つしかないと"本当の意味で"知る者は論争しない」ということ(いわゆる戯論寂滅)であり、後の部派仏教・般若・中観などで説かれる「二諦」のうちの「第一義諦"Paramārtha"(勝義諦・真諦"Ultimate Truth"・不可説"Ineffable"・言語道断心行処滅)」に当たろう。

私の過去記事に説く2つの真理のうち「客観的真理」にも当たる。
真理は言葉で説明できないが、言葉を頼りに接近でき、しかも得られない不可得の中道である。
言葉が指すものは「無」だが、説明できるので「有」ともいえる非有非無の中道であり、無いこと"ナースティ nāsti シューニヤ śūnya ゼロ"をあえて「一」といい、説明は多様にできるので「多」というが、一でなく多でもないという一即多・多即一・不一不異の中道である。
悟った人は、世界に確かな真理が無いという意味で唯一の真理が有り、誤解を招きやすい「言葉」という手段で表現しようもないので、あえて「真理(真実)は一つ」とも言うし、逆に、多くの異なる説明から堅実に形作って説明することもする(説く手段・理法では99%まで証明できる不可得さ)。
釈尊の時代・初期大乗仏教教団の時代・龍樹菩薩の時代など、いつも哲学的見解や宗教的修行法などの論争があり、「無いもの」を有るように想定して自他の仏道を塞いでいたわけだから、道の障礙を排除すべく、スッタ・ニパータ、法華経、中論などの教説が世に示され、輝いたことと思う。

ただ単に「真理は一つだ!第二のものは存在しない!(涅槃・解脱・真の客観性においては確かにそうだろう)」と誇張するならば、理解度の低い人達(論争を好む愚者)は迷ってしまい、かえって争いの火種を起こす。
よって後の仏教では、異なる見解・末節の真理(辿ることで根本の真理に至る)を包括・協調したり、釈尊の異なる教説を会通すべく、「世俗諦(世諦・俗諦・現世での手段・方便)」と「第一義諦」の「二諦」として分別する必要が生まれた。
先のスッタニパータ(衆義経・眾義經)の言葉を引いた龍樹菩薩の大智度論・巻第一にも「四悉檀(4種の成就"catvāri siddhānta"のための説法)」と称し、釈尊によるどのような内容の説法でも最終的に解脱・涅槃へと導く言葉であるから「四悉檀」それぞれにおいて真実であるという、妙法蓮華経如来寿量品「諸所言説皆実不虚 (乃至) 種種性・種種欲・種種行・種種憶想分別」と通じた見解が現れる(天台・法華玄義所説)。
四悉檀は、愚者を智者へ、智者を阿羅漢へと導くような、ぞれぞれの段階で異なる教説を肯定する。
やはりそこでは、先のスッタニパータの言葉が「第一義悉檀(法華経寿量品でいう"種種憶想分別"を対治して涅槃を成就"Siddham = 悉檀"する言説)」の例として挙げられている。

スッタニパータの「第一義悉檀」は「良薬口に苦し・忠言耳に逆らう」とでもいえるもので、やはり直ちに他人に言うべきでなかろう。
もはや法華経の方便品や寿量品や常不軽菩薩などに詳しい人にとって自明の理であり、説明不要である。
つまり、法華経方便品の舎利弗尊者のように釈尊への信心が清純でよく功徳を積んで智慧が高尚な境地でないと、常不軽菩薩を誹謗した驕慢の四衆のように第一義を受けいれずに反発する。
スッタニパータの「真理は一つ・第二のものは存在しない"Ekaṃ hi saccaṃ na dutīyamatthi"」、大智度論の「第一義悉檀」に通じる法華経の説は多く有るが、似た言葉としては「唯一乗の法のみ有り、二無く亦た三無し"Ekaṃ hi yānaṃ dvitiyaṃ na vidyate" (唯有一乘法 無二亦無三)」がある。
共に、唯一の真理を知る者や、唯一の真実の道を知る者は、他者がどうであれ、その一真理(無真理・多真理・非無非多の一真理)を奉じ・一乗道(無差別の大道・自己唯一の道)を行き、他者と皮相的な教義について枝葉末節の論議をしないように志向している言葉である。
後述する鎌倉宗祖たちも多くの説法・論議・他宗批判などをしたが、それは大乗菩薩のスタンスであり、三毒にも似た論議をしても三毒に染まらない「如蓮華在水(法華経)・卑濕淤泥乃生此華(維摩経)」の立場であるから、小乗においては鎌倉宗祖たちの心を詮索せず、専ら日本仏教を批判したがる自分たちの心の三毒を観ずべきである。
ダンマパダ・人口に膾炙する50詩(他人の過失を見るな、常自省身・知正不正)の真意。批判者が自ら日本仏教・大乗仏教・大乗経典・セクト教祖という名の妄想概念を心に作って汚物の塊と蔑むが、汚れていると知るべきものは己の心であり、四念処を以て観察し、制御・浄化せよ。これが小乗教の「一乗・一道"ekāyana magga"」だと念処経に仰せである。現に論議する仏弟子や外道は、誰でも言葉で心を認識できるから、誰でも四念処が修習できる平等の一乗である。加えて、大乗の一乗"ekayāna"は、言語能力の有無・感情の有無を問わない、真に平等の一乗である。

法華経の真実義とスッタニパータの教説は本来、相違しないが、日本仏教・既成仏教を嫌うテーラワーダの新興一派(AS長老信者)が色眼鏡を通して見ることで受け付けなかろうし、某正宗とその分派団体の人も「飯に糞を雑じえる(御書)・水増し牛乳(涅槃経)」として好まなかろう。
スッタニパータの第一義を闡明した大智度論は巻第百で「世尊は般若波羅蜜を阿難に付属したが、般若波羅蜜よりも深い法があるから菩薩には付属しなかったのか?」という問いに「般若波羅蜜は秘密の法に非ず。而も法華等の諸経に阿羅漢の受決作仏を説いて大菩薩能く受用す。譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」と答えている。
大智度論の作者は龍樹菩薩本人か後世の中観派か鳩摩羅什三蔵グループか、誰でもよい。
法華経を学んだ中観派が大智度論でそのように摩訶般若波羅蜜経(大品般若経)を釈するわけであり、現代の仏教徒はスッタニパータと法華経と大智度論の三者に対する色眼鏡を外して「言葉が違っても本意は一緒」と理解して信ずべきである。

「法華最第一」、「ただ念仏のみぞまことにておはします」といった言葉も、現世で修行する立場の一個人の信仰と正念とを守る言葉(盾)としては正しいが、中世以後の日本では異なる信仰の者を攻撃する意欲・敵愾心を鼓舞するキーワード(剣)となった。
あるいは「第一義」とは、自己の枝葉末節の認識や見解を破って「言語道断・不可説」の悟り・涅槃・解脱・成仏のために説かれているのだから、そのように受け取っておき、対立状態の他者を悔い改めさせる言葉ではなく、仲間・弟子の修行や菩提を助けるために説くべきである(実際に教相を見ればスッタニパータの第一義も法華経の第一義も仏弟子に対して発せられた)。
・・・だからこそ、法華経など一切経が釈尊の言葉と信じて前提とした時代に、「これが釈尊の本意・第一義だ!」と文章の証拠(文証)を挙げて会通したり、二諦・四悉檀・天台五時教判などの理論による論議が絶えなかったであろう(「言葉が違っても真意=言葉にできない真理・悟りは一緒」という理解さえあればお互いさまの議論として終わったろう)。



歴史上の釈尊のみならず、江戸時代などに「宗論(宗派間論争)」を多く行ってセクト主義が嫌われた鎌倉仏教系の日蓮宗(日蓮法華宗)や浄土真宗(一向宗・一向念仏宗)でも、その祖師らは既成宗派の論争を問題視する言葉を遺している。
彼らに非難される諸宗の主張のキーワードは「我が宗こそ得たれ(日蓮大聖人)、我が宗こそ勝れたれ(親鸞聖人)」である。
日蓮「大乗の七宗いづれもいづれも自讃あり、『我が宗こそ一代の心はえたれえたれ』等云々(中略) みな本経・本論によりて『我も我も一切経をさとれり仏意をきはめたり』と云云 (中略) 日蓮が愚案はれがたし、世間をみるに各各・我も我もといへども国主は但一人なり二人となれば国土をだやかならず (中略) 而るに十宗七宗まで各各・諍論して随はず国に七人・十人の大王ありて万民をだやかならじ、いかんがせんと疑ふ(報恩抄・創価学会御書全集293~294p)」 

復云「道心あらん人、偏党をすて自他宗をあらそはず、人をあなづる事なかれ(開目抄・同全集219p)」

親鸞の弟子「当時、専修念仏のひとと聖道門のひと、法論をくはだてて、『わが宗こそすぐれたれ、ひとの宗はおとりなり』といふほどに、法敵も出できたり、謗法もおこる。これしかしながら、みづからわが法を破謗するにあらずや(歎異抄・浄土真宗聖典840p)」
鎌倉時代の仏教とは、主に六宗(念仏系3宗・禅系2宗・日蓮法華宗)が上げられるが、既成の教団のうち南都六宗と呼ばれる諸宗が弱体化し、主に天台宗が強勢であると同時に政治権力(主に平安時代における貴族)との癒着が強かったので、反骨精神のあった宗祖(後世に認定)たちは民衆への教化を主要な方法にした(日蓮大聖人は天皇まで上下万民への広宣流布を望んだ・ほか自ら大師号の宣下を請う栄西禅師の臨済宗は鎌倉幕府の武士に浸透して戦国時代も盛んであった)。
釈尊から鎌倉宗祖までが、既成の学派・宗派のセクト主義を厭うも、かえって新しい集団を興している(意図的に起こしたものや後に集団性が決まって祖を仮定したものなど差がある)。
※日蓮聖人は中道の立場や団体としての争いを避ける立場で「何の宗の元祖にもあらず、また末葉にもあらず」と仰せだが、実際は新宗の必要性や新宗の仮想をなさったろう。折伏・法論は徹底して行い、身延に籠られてからも弟子に「法華経と申す大梵王の位にて民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意を得て宗論すべし」と推奨し続けた。なお、法華経を奉じる宗派を「仏立宗(仏の立つる宗)」と讃えたこと(複数の御書)は新宗宣言でない。親鸞聖人も法然上人の(自身が受けた教えとしての)専修念仏を「浄土の真宗」と讃えるのみで新宗を立てる気はなかったろうが、いかがか?
また、門下の団結を促すように「異体同心(主に大石寺系)」を強調したり、選民思想ではないが「正定聚(主に本願寺系)」を唱えたりと、後の教団でセクト主義・党派性を増長させる言葉遣いもあった。
スッタニパータにしても大乗経典にしても鎌倉祖書にしても、比丘の団結と、悪比丘(非沙門自称沙門・獅子身中の虫)を追放・破門する必要が説かれている(Snp 2章6経など)。

現代も集団内での軋轢が生じるので、「分派現象」は絶えていない(日蓮正宗系などに限らず身延系日蓮宗より離脱した名古屋の不退寺グループが積極的に活動する)。
釈尊御在世のインドのみならず、鎌倉時代も多くの思想・哲学というよりは、仏教の天台宗内・比叡山(禅・念仏・台密)や南都六宗らが荒れていたので、そういった「宗論・諍論」に呆れる人も多くいたろう。

同じ鎌倉時代で呆れる思いを持つも、行動を逆に、新しい集団を持たずに既成宗派に寛容な立場を取った者たちがいるが、彼らの超宗派的な運動は大きな潮流(宗教改革)に至らなかった。
人物の例としては、華厳系で禅や密教も修めて法華・念仏にも理解があった明恵房高弁(阿弥陀名号は良しとして法然の専修念仏を後に非難した)などである。
彼も、釈尊・龍樹菩薩・日蓮大聖人・親鸞聖人と似たように「物を能く知れば驕慢こそ起こらね(阿留辺畿夜宇和より・短めの言葉が載るのみなので論争の行為についての言及か不明)」と語る人物であった。
江戸時代の慈雲飲光も彼に似ており、禅・密を修めて法華経文を好んで阿弥陀仏を拝み、神道や儒教の学びもあったが、彼の言葉や同じ時代のことわざを少し載せておく。
「佛世には今の様なる宗旨はなかりき、釈迦に宗旨なし、宗論はどちらが勝っても釈迦の恥、宗旨の争い釈迦の恥」



分派した際の精神が形骸化することで協調する現象も見られる。
現今の仏教団体が寄り添い合う状態は、思想において「リベラル・宗教多元主義」などの影響と考えてよいが、より人間の性質に即して言えば「利害の一致」、「防衛本能」もあろうか。
このように語ると、仮にも信仰を保つ人間である私が、社会学者さんとか宗教学者さんのような傍観者視点の不信心に陥っているかのようであるが、少々続けよう。

過去記事では以下のようにも記した。
 まず、原始仏教が外道の迷信・謬見を破ったわけだが、教義の正統性を守るべき初期仏教教団から次第に乱れや誤解の浸透が発生したため、見解の相違や論争から部派仏教への根本・枝末分裂が発生し、初期大乗仏教教団がこれを是正しようと新たな経典も用意した。竜樹菩薩の中論も、彼らの部派仏教の論争を制止すべく発せられたものである。しかし、大乗仏教教団の中にも次第に誤解・執着が生じ、宗派の分裂や論争が絶えず、様々に正当な教義をかざそうとも(または経典や論文の教理が優れていることに飽き足らず平安・鎌倉仏教は修行法にも反映させた)、和解や合流は無く、現代は宗教多元主義・人権思想の影響で形式的な融和・共存があるのみで、教義問題の解決・同調に至っていない。仏教の信仰・研鑽・修行とは、反省の精神(止揚とも)にある以上、これからも問題があれば、当然、現代の日蓮正宗・創価学会・顕正会に見るような教団内の抗争や分裂はありえるし、ある種、仏教教団の宿命と見てよい。※反省した結果が分裂ではあるが、将来的には分裂=破和合僧という結果を防ぐための反省も必要になろう。
当該箇所に関連して後々の記事にも語る。
 例えば、私の教説を理解する人が万人に達して教団ができて多くの人が小乗と大乗とを尊重できる中道の境地に達するが、次第に形骸化・セクト主義が増えて「偏狭な中道」が強まったとしよう。既に、それは私の教えが滅んだことになるので、道心のある一部の信者が教団を離れて独自に研鑽することになり、教団が分派するか自然消滅することになる。このたとえ話は、仏教は初期仏教教団から幾度と分裂・分派を繰り返した「宿命(人間の空にして空ならざる善悪の志の因縁)」を端的に説いている。
夥しい分派の歴史と現状から仏教団体の「宿業」を見る。
この現象に嫌悪感や悲劇を感じる人は、是非とも尊重や寛容の精神・中道・和の心を得てもらいたい。
現今の、日本仏教界などに所属する団体が和睦を演出していることも、キリスト教の如き反省で以て過去の歴史を省み、尊重・寛容・調和の心を学んだためである。
天台宗・真言宗の両管長の「最澄・空海以来の歴史的対話(お芝居)」や、日本仏教史上、最も問答を重ね合った法華系なかでも日蓮宗(元・一致派)・浄土系なかでも浄土真宗(元・一向宗)は仲良しこよしである。
大乗仏教に分類される日本の諸宗は、小乗仏教に分類される上座部仏教を取り込んでヴィパッサナー瞑想を寺院で行ったり、ダンマパダ・スッタニパータを筆頭とするパーリ語経典も学んでいる。
ここでの「諸宗」とは、主に全日本仏教会など多宗派・超宗派系組織に加盟する仏教系宗教法人を想定するから、今なお、加盟せず関与しない日蓮正宗系の団体などはこの限りでない。

また、正宗系の各団体は、文献学的に御書を研究する正信会系(興風談所?など)や、一応「人権・民主主義・人間主義」を標榜して社会に溶け込もうとする一部創価学会(創価大学など学術系はこの傾向が強い)については、他派に少し寛容な一面がある。
それでも、彼ら正宗系団体・日蓮正宗から分派した団体同士での和解や合流は、よほど存続が危ぶまれる事態にない限りは、考えづらい。
禍根を残したままに形骸化して生きながらえるか、自然に消滅する可能性が高いが、できれば、信心が円満となり、本当に大事なこととは何かを彼らが気づき、虚心坦懐に認めて和合僧団となれば、よいように思っている。
日蓮宗(身延系・本迹一致派・主に学者気取りの人)や余の法華宗系も、遺文の偽書説やセクト主義的教義(日蓮本仏論・会長や管長の絶対化など)を分別した結果に囚われて頑なに嫌わず、彼らの信心を尊重(or無視)できるようになってくれればよいものだが・・・。



それはさておく。
現代のインターネットでは、宗教団体に所属する熱心な人の布教・言論の活動は多々見受けられるが、同時に、特定の宗教団体を論難する所属未詳・匿名ユーザーも多い(ブログ・HP・知恵袋などに散見される)。
本年1月に20歳(弱冠)となった私は、生まれて来(このかた)無宗教であり、両親は極めて現代人らしく宗教に関与しないで生きてきた者たちである。
インターネット論者の論難の中身はどうであれ、彼ら個人が特定宗教団体から何らかの害を被った(と感じた)経緯があって怨恨感情があるのかもしれない。
邪推するようだが、この前提に立てば、宗教団体から受けた彼らの苦しみ、苦しみの故に怒りを絶やさずにいる者たちを哀れむべきである。
それと同時に、特定宗教団体の信者の信心(形式的な宗教行為をするだけの者もいようか)をも尊重すべきである。

同じ人間が、自己の精神状態への意識(念)や自覚を薄くして禽獣の如く、恣に放縦に身・口・意の三業を重ね、相互に傷つけ、または自ら傷を癒せずに掻きむしっている。
あらゆる言葉が、諸刃の剣であることを識らず、相傷害(自傷・他害・自害害他・自傷傷他)しよう。
ああ、有象無象の徒輩が僻事を連ねており・・・。
とまあ私まで沈鬱になり、同次元に陥ってしまいそうな気分である。
それは、私自身が彼らの論理(正論?謬論?)や言葉遣いに不快感を覚えることよりも、そのような言説で以て当人と閲覧者の心が垢や泥に塗れていく有様に憂愁を覚えるためである。
心のダーティーにしてメランコリックなるを感じ観ず。
インドの釈尊にしても、インドの外道哲人にしても、悪い言葉の想念が心を穢してゆくことを感ぜられたのであり、その言葉を受けた私もまた、エンパシーを得た。

釈尊とは、慈悲を以て種々に法を説かれたろう。
慈悲・方便の故に自在に説法をなしえる境地を、数多の経文より学んだ。
経文の中では間違いなく、「神通力」を行使して会座にある衆生にも会座にない衆生にも妙法を聞かせられる(三十二相には"大舌相・広長舌"が示されることも光明遍照の如き慈悲を顕現する)。
それでは、斯様な言説をなす徒輩もまた、内心は慈悲の故に鉄面皮の如き言説をなし得ようか?
ああ、他人の心を推し量り難いから、既に言語の道が断たれた。
経文の中では間違いなく、「他人の心が手に取るように分かる」という神通力を行使して円滑に教説をなし、対告衆を歓喜させ、滅後末世の私にまで及ぼすわけであるが、実際の人間は言葉で感情の一致や理解が確認できても、真に一致や理解があることはない。

しかし、「彼らの内心が慈悲でないときになされた言説である」という傍証を挙げられる。
彼らは「水掛け論に戯れている」というか、そもそも「メガホンで独り言を発信している」ような状態であるから、具体的な攻撃対象を想定しているのに攻撃の効果をなしていない以上、論難の対象人物(教団信者)を彼らが奉じる正法に入れようとする慈悲など無かろう。
彼らは何らかの宗派の信心を持たず、無宗教や反宗教団体の立場で「無信の信・マイブッダ・マイダルマ」を奉じている。
既述の通り、所属未詳・匿名ユーザーであるところ、攻撃の手段として仮名や匿名の形で情報発信・ネガティブキャンペーン・分断工作を行っていると見るべきである。
その宗教団体の教義についての論駁に徹し、その宗教団体(≒カルト教団)に所属して苦しんでいる人への心のケアみたいな方面は当然なく、ただ宗教団体への憎悪・驕慢の心で行っていよう。

宗派の教義の非合理性(漢訳経典の誤訳や祖師僧侶の誤解やオカルト的な伝承など)を仏教学的・科学的観点で云々することは、それもそれで多角的視点の意義においては尊重できるが、その論難自体は人の信仰を否定せんとすべく発せられた、邪悪なものである。
ただ「人(自他)の心」も知らず、自身の良心をも失う勢いで情報発信しており、発言者自身を頑固にしかねない。
信仰及び、主観性の立場では、まったく、多くの教えは解脱の道であることを知らず、また、あえて菩薩行として自身の奉じる教えを弘めて折伏を為す人々に、仏教の修行と無関係な横槍を入れる(学問的論難など)とは、愚の骨頂であろう。
無論、そういった信仰の立場にある人々が、私ほど包括的理解や尊重の心ありきで、あえて自身の奉じる教えを弘めんと折伏しているか、不明である。
妄信者も不信者も、二元対立に陥り、中道ならざる境地で「苦しみの道連れ」を行っている。
不信者・無宗教者による宗教団体への論難は、「正しい仏道へ導く慈悲の行い」ではなく、悪道輪廻の黄泉路に誘い込んでいる。

無宗教である私が「尊重」や「反省」という漢音(重、反、省)で発音される語句(尊重"そんじゅう"など仏教に同字の語句があっても意味は異なる)を多く用いることは、中道のためである。
「尊重」や「反省」の精神について、この話題と関係する経緯で過去記事にこう綴る。
 人が世俗の苦を知れば厭離して出家するように、宗教教団も世俗化するならば宗教教団を厭離して脱会すべきであろう(私は生まれてこのかた団体に関与したことは無い未成年者だが)。これは「空」を知った人の境地にも似るが、それで、宗教団体を厭離して「俺はカルト宗教の構成員ではない!」という反感意識を引きずれば、反宗教という名のセクト主義に陥って「空に執着する人」と同じになってしまう。そのため、「反宗教でもない!宗教を離れて学ぶ中道だ!いや、中道であって中道でないが中道だ!何でもないようで何でもある!」と、反省の思考を繰り返して執着を無くす必要がある。「反省の思考」は「心行言語断」の真理に近くあり、思考を超越した思考である。

対立する宗教団体同士でも、相手を異端視して意固地になっている姿勢がむしろ正統・正当であるかのように糊塗して「人間的な良心」を自ら殺している。
「人間的な良心」があるならば、宗教団体の祖師・開祖・教祖や、宗教団体の会長・管長などを「○○人(差別的な意味を込める)」とか「○○病」などとレッテル貼りはできない(彼らは低劣な罵倒としてではなく実際にそうであると断定しているところが恐ろしい)。
同じ人間であり、どれほど尊ばれる人間や、過去の時代の人間であっても、人間として想像される物事に悪罵を加えられるはずがない。
それら宗教団体を嫌う人間もまた、彼らを荒そうと業を煮やしているのだから、極めて度し難く、自然に収まることを待つほかない。
これらも仏教徒の名を得た俗人らによる「宿業」とか「宿命(仏語"しゅくみょう"ではなく俗語"しゅくめい")」である。
無論、それらの情報発信は、私にしても学問的に学ぶところは多く、また、精神面では反面教師とすべき理解に立てるので、絶対的に無益であるとか、不要の存在であると嫌うつもりもないが、彼らの精神に憐憫を持たざるを得ないので憂悩があろう。



他人の心は推し量り難くとも、私のように「そのような言葉遣いや、驕慢の心による論難が、最終的には堕獄の悪業(死後にある地獄の説を虚妄と思う人はそれでよいし慚愧を覚える人は現世が地獄のように思うからこの意味での堕獄は有り得る)となろう」と自他の三業を悩む道心のある者に、大乗・小乗経典の仏教を広く見聞してもらいたい。
非力の私からは、よき経文もろくに提示できない。
非力とは何か?集中力「禅定」に欠け、言葉の記憶能力や感受作用にも欠け、「鈍根」であることを示す。
そのために、何ら、経文の提示ができないと自ら恥じる。
しかし、一つだけ載せる(以下は今までの性善説というより性悪説のようなもの)。
Purisassa hi jātassa, kuṭhārī jāyate mukhe; Yāya chindati attānaṃ, bālo dubbhāsitaṃ bhaṇaṃ. (Sutta Nipāta 3.10 Snp. スッタニパータ)
世間人輩當生時 舌頭自然出斤斧 所謂口中説惡故 還自損害割其身 (起世因本經)
訓読: 世間の人輩(にんばい)当に生ずる時、舌頭(ぜつず)自然(じねん)として斤斧(こんぶ)を出して、謂う所の口中(くちゅう)悪しきを説くが故に、還って自ら損害して其の身を割るべし。
現代語訳: 人間は、世に生を受けた時から舌の先端に斧が付いている。悪口を行う結果、かえって自身を引き裂くのである!

※漢訳阿含経典類・法句経・大智度論には"夫れ士の生まるるに、斧・口中に在り。斬身の所以は、其の悪言に由る"という偈が載る。このような悪口妄語の人が地獄に転生して長く諸々の苦を受けるという説を受けて大智度論では、人に生まれ変わっても苦悩が付きまとうという。法華経譬喩品に十四誹謗・正法を信じない人の果報(2016年1月23日記事・注釈6)が説かれるが、物事を考え直すと大智度論と同じ趣旨とも言える。キーワードは「人不信受(自分の言葉を人に信じてもらえない=私のこと)」か。この教えを見聞して慚愧の念(自覚・反省・努力)を生じた人は、仏の信仰を確かにして自己の身口意をよく調伏しよう。仏は非の打ち所がない人格完成者であり、正しく信ずれば自己の人間的な完成に繋がる。

そんな私でも、なんとか「人の心(善良さ)」・・・「人の心とは所詮、進化の過程における功利性と防衛本能を根源とした結果に過ぎない」とかと思っても構わない。
とにもかくにも、「人の心」による、理性を打ち破る作用(良心の呵責)を感じ取り、自ら尊重することで他者と融通できるようになってもらいたく、様々な場面で説いてきた記述をご覧になってほしい。
「願作心師・不師於心」、能く心を調えて御せられんことを・・・。

自著「觀萌私記」は、自作の絵・音楽など芸術を取り込み、古文の文学性を主体として私による「第一義悉檀」を含めている。
私が人々に覚ってもらいたい精神性を「萌心」と称して説き、仏教の論理も込めながら道徳・哲学らしいことも多く示してある。
現代の人権屋さんや仏教学者さんに、古文の理解と読解力が足りるならば、共感できよう。
「三萌義」は解脱の徳の高い人が頓にして悟りに通じる根本教義であり、第一義の類である。
学徳に欠いていても、方便として説いた好色萌相(世俗の萌え絵)を頼りに、種々の分別を介し、無分別に繋げ、その第一義(真実の萌え)を手繰り寄せることができようから、まさしく「第一義悉檀」を本位としている。
教理は稀有・殊勝であるのみならず、現世利益も示すなど、仏教の多面性(仏教とは何か?科学・道徳・哲学・オカルトなど余す所なく総括するが単なる総括でもない。解脱・成仏の大道である)が多く説かれているし、修行法(逆観三萌義)の概要も述べていて無欠円満の書である。
「人の心・善良な心・良心・慈悲」といった方面も、萌相や文章でよく意義を感じてもらいたい。

精神論や唯心論の方面となりかねないが、観萌行広要などでは世間の絵などで、個人の悪意が滲み出た絵(主にプロパガンダ・風刺)や下卑た欲望が滲み出た絵(婬欲熾盛)に描かれる人物(および動物)の表情が、この「萌相」の義からすると非常に険悪に感じられ、「何の興もない」とする。
これまた、先述・インド云々と同様に「感受性が高い人」の意識には、そう感じられる。
眼根(人の視覚)と色相(その絵など)とを縁として、人の心がそう「取る」という道理である。
無論、それらの絵を描いた人は、芸術として評価してもらうために描いたつもりはないのかもしれないが、だからこそ、一応の精神性を重んじる仏教徒などにおいては、そういった世間の絵を厭離して「萌心」によって描かれた絵を観想すべきである趣旨を、多く語っている。
特に、萌相を描く(顕す)人物は、萌相を描く時の心が「自他の優劣を離れて自受法楽のような些かの自尊の境地で描く」ことを推奨している。
「自受法楽」ということは、まさしく三萌義を領解して萌心を悟り、萌相を意のままに描くことができる「萌三身」を具足している人の「自受用報身」の境地である。
萌相圓かに、萌心圓かに、人の顔貌(顔相・相貌・形貌)もまた圓かに、という御利益は讃萌語に重ねて説かれる。

絵というと、仮にも宗教団体に所属して信心(野心?)の熱心な人ですら、人を貶める意図(慈悲方便?)で絵を描くこともある。
そのような目的で描いた絵は、当然、萌相の意義を著しく外れ、相貌も険悪である。
そのような四悪道の業を作(な)すことで自ら心法の仏界を喪わんとし、己が仏種を断ぜん。
私がこう感じる精神性もまた、仏の教えと御本尊と萌えとが育んでいる。
「それらが育んでいる」という表現も比喩的であり、畢竟、私の道心が主要因であろう。



されば、道心ある人々は、(仏教における)善悪分別を立て、悪を悪と見て厭離の想念を起こし、仏教のみならず萌えの法門もよく学んでおくべきである。
現代日本の若者・閑居求道者などは、すべからくこの道に入るべきであろう。
一分の諦観あらば、みなよく学ぶべきである。
そうでなくしては、慈悲の意義、「本来的・本質的な思いやりの心」という「主観的真理」の理解を得がたい。

「私には道心など無く、心すら無い」と「主観的価値判断」をなさるならば、それもまた私から尊重すべきか。
私が説く精神性について、「心の無い人には関係が無い話」であることは既に記述した。
しかし、そう「無い」と思う時点で微々たる心(五蘊・五陰)を持っているので、「無い(絶無)」という実相は「有り得ない!(不然!)」と私もまた「主観的価値判断」を行う。
この故に過去記事でこのように歌う(最初は2016年10月29日)。

 諸萌出世の本懐は 慈悲を説かむの故ぞかし
 人の心に具はれる 善の種より萌やすなり

 萌えを観ずる人はみな 心の耳に慈悲を聞く
 善く聴く我は此の萌えと 同じ心を結ぶらむ



起草日: 20170221

この日や、多くの日は「脳内に煩悩の網がまとわりつく状態」を感じてならない。
視界はかすみ、自責の念は捨てがたい。
これは慚愧の心を根本とする善念か?無明を根本とする憂鬱の症状か?
我が三業の汚穢なるが故か、悪業に染著せられて報いたらんか・・・。
何を以てかこれを度さん。

若しは慚愧堅固にして身を修せば利益をか得べき、利益と云うは実・不実を覚えず。
若しは色相に利益を求めずして専ら心の解脱を期すべしや。
豈これ最上の功徳と云わざらんや。
人、欲を立てて虚妄の利益を得れども、須臾も愛著せば則ち功徳を喪わん。
これ愚蒙の至りなり、畏んで恐るべし。
凡身、苦悩すれども、み仏の善き諭しとして喜び頂戴すべし。



ところで、ほとんどの人間は主観性・信仰に基づいて生きていることは過去記事に直接意義を示したり、「仮想宗教」の形を例として暗示してきた。
植物状態の人などでない限り、みな仮想宗教を無意識に懐いて生きる。
宗教とは、何らかの共通性のある精神を持つ人々の共同体であり、現象の上で体型と体系とを伴っているものを指すが、仮想宗教とは個人に約し(制約し)、更に類似性を持つ他者を包含して唱えられたものである。
何らかの音楽アニメ系など、作品や作者やジャンルへの尊敬を超えた「愛(kāmaならぬ執着taṇhā, Upādāna)」があって種々の論議(ファン間・ジャンル内の正統性や他のファン・ジャンルとの優劣論争など)が世間に見られるほか、科学的見解に依存して経済の拝金主義を是とした生き方など、枚挙に遑がない。
この現代の世の中には、多くの情報が飛び交っており、欲張りすぎない程度(知識は足枷に…)に上手く良いものを捉え、取捨選択・吟味してゆくならば、公平公正な知見を得る。

既成宗教の善悪二面性、仮想宗教の善悪二面性を理解した賢人は、既成宗教と仮想宗教の中道に入る。
すなわち、私のように高尚な自覚のもとに生きる志と、既成宗教の人々・仮想宗教の人々とその信念を尊重して超越する。
きっと、過去の釈尊、龍樹菩薩、鎌倉宗祖らも、大志を抱いて大いなる行動を起こしたと思う。
現代、私は個人主義の影響もあるかもしれないが、ひとまず、既成宗教と仮想宗教の性質を把握した上で成立した「萌えの法門」について、教・行・証の三法を大成する必要がある。
私の弟子になりたい人は、弟子宣言をしてからでも内心のみでも、何でもよいのでその志を保ってゆけばよいし、ただ単に萌えの法門と仏教の価値を理解して私に尊敬が起きない場合は、個人の研鑽の道を進めばよい。
いずれでもなければ世俗の道でも何でも、元々の「仮想宗教」など主観性・信仰を自覚して悩み、人生の価値を模索すればよい。



尊重の姿勢とは、觀萌私記の場合も、種々の萌えの在り方について本部(表面的な物事を例に取るパート)で分析的に説明し、萌えの作風の方面で日常・非日常の二萌風を挙げる。
もっとも、萌えの法門における萌えは、そういった二萌風などに区別した多くの漫画・アニメ等の作風を包括しつつ、真にはどちらでもないと否定する(日常・非日常というストーリー設定などを離れて寂滅しているから)。
日常系(世事・・・学園・職業などが主要)の作品は昔からヒットしやすかろう。
非日常系(人外や超能力などが主要)の作品はRPGなどが好きな人が多く支持し、彼らの一部から日常系が「つまらん・退屈」と罵倒されるが、萌えの法門に入りたい人は「どちらも魅力的だ(つまり片方のみを好いと感じる人はそのまま耽溺してよい)」と素直に割り切ろう。
または日常系っぽくて非日常的な要素を加えて折衷した作品は中庸の価値があろう(この方面の論議で非難を招きづらい系統)。
このように二萌風ないし折衷のものを尊重するが、真実には日常系にも非日常系にも折衷のものにも偏重すべきでない。
どの作品を好むのであれ、萌心という真の萌えは己が内にあり、そう思うべきである(これは一応の義であるから、萌色是不萌・萌心是不萌・真誰可得萌・己内亦無萌と仏法の義で否定することもある)。

真の萌え(真実一萌・第一義の萌え・非有非無)を知る人は、枝葉末節の萌えに悩まないので、本文に載せたスッタニパータ4章12経や龍樹菩薩が説くように論争を離れているし、自己に葛藤も懐かず、自由に萌えの楽を受けよう(戯論の滅ぶ涅槃寂静に通じる)。
上座部仏教の人に同意が得られるように付言すると、スッタニパータやダンマパダに謳われるニルヴァーナ・ニッバーナ、永遠の安楽とかということからしても、萌尊は自己の外に有形消滅の萌えを求めず、常住・金剛不壊ともいうべき真の萌えを得ている(不可得こそ得ると称す)。

私は、商業作品における漫画・アニメと、同人作品におけるそれとを尊重するが、当然、萌えの法門においては商業と同人の両者を否定せねばならない。
世俗的に言えば、いずれにせよ「買ってこそ正統だろ!」という風潮が是認されているからである。
かといって、「割れ」行為を堂々と行うような掟破りを犯したり、これを自ら肯定して他者にも強いるなどという「破廉恥さ」も容認すべきでない。
こういった、「買え! or 割れ!(保守派VS革新派、購入厨VS割れ厨とも)」という両極端な思考に囚われる「世俗の苦しみ」を離れるために、全否定する思考も萌えの法門では重要である。
買っても割っても、そういった偏狭な信念のもとに行うならば、苦しみの根源たる悪い感情を増長する結果が必至であり、当人の功徳・善根を失う。
買う者、割る者、善意取得する者、割ってから買う者・・・、どんな手段であれ、自己を苛まず、他者を罵らない自由な心であると、文化も育まれる(上下貧富の争いが無い国のように・理想論)。

このように全否定は、その前提として「対立概念の双方を尊重すること」がある。
現今の仏教団体ですら、西洋譲りのリベラルな思想をもとに、他宗教と社会の事象を尊重する立場を取っていることは、当記事並びに過去記事で説明した通りである。
仏道・仏法の涅槃とか解脱のためには全否定しつつ、肯定でも前提でもない中道に入らねばならないが、無論、中道も「仮名(けみょう)」であって「中道を自負する立場」であってもならない。
私は一応、萌えの法門も仏法も、一言で立場を示す場合に「中道」であると断言する。



追記: 2017年12月24日

パーリ経蔵・相応部中の「見相応"Diṭṭhisaṃyutta"」には、思想家・宗教家・哲学者の持つような見解"diṭṭhi, ディッティ"(世は常住だ・世は無常だ・世は非無常だなど)について、取り上げる。
これらの見解は、みな思考・分別などの因縁に基づいた結果の論理でしかなく、無常であるとする(無常を無常で否定するとは自己矛盾や循環論法トートロジーでなくあくまでも執着を離れるために心から無常を実感するということ)。
無常であるもの"anicca"・変わりゆくもの"viparināma dhamma"は、苦しみ"dukkha"の発生につながるので、見解"diṭṭhi"への執着"upādāya (もとい取)"を離れることを説く。
現代日本のセクト的論争やエセ学問の論争も、各々が「こうであれ」という願望・意図や、各々が知っている情報・知識、各々の知能や人生経験など、多くの因縁が結びついてなされたものであり、無常・空と見られよう。
例えば、伝教大師最澄さんが大乗戒壇を作ったこと(厳密には彼の死後7日後に下された勅許による)について、近代合理主義の学者気取りの人の「ブッダ(釈尊)やインド部派仏教以来の戒律の伝統(伝灯)を破った行為」とする見解と、日蓮正宗・創価学会・顕正会の人の「釈尊(ブッダ)や天台大師に勝る偉業」とする見解とが対立する。
これらもまた、各々が「こうであれ」という願望・意図や、各々が知っている情報・知識、各々の知能や人生経験など、多くの因縁が結びついてなされたものであり、無常・空と見られる。

つまり、一応は根拠に基づいた論であり、みな正論ともいえるが、「因縁によって論理があること・因縁によって論理の正誤・優劣があること(縁起)」をよく知る仏教徒は、対立する主張のどちらも「空虚」と知って遠離する。
それらの論理に執着する人・固執する人・嫌悪感を催す人などは、悉く三毒に汚染されており、自己も汚染を受けるであろうとして、自ら心を観る。
Dhp 50: Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ; Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca. (法句経: 不務觀彼 作與不作 常自省身 知正不正)

この教理は、小乗・阿含時の修行・果報(正念・不戯論)へ通じる。
無常の教理を知り、それもまた無常だと知ることは、「心が知るという因縁(知ることも無常)」に基づくものであり、これは釈尊がよくお説きになったことを聴聞することで可能となろう。

しかし、大乗仏教は、あくまでもそれが小乗の教理・修行・果報であって、これを修得しつつも超越している立場で教理が説かれ、菩薩によって修行される。
この時、菩薩の慈悲は、人々を教導せんと欲するので、論理が無常であるという分別・見解を知りながらも、論争をも辞せざる構えとなる。
不戯論のための戯論(諍論)もアリとなり、釈尊・龍樹菩薩がその鑑である。
Sps 2: svapratyayān dharmān prakāśayanti vividhopāya-kauśalya-jñāna-darśana-hetu-kāraṇa-nirdeśanā-ārambaṇa-nirukti-prajñaptibhis taistairupāyakauśalyais tasmiṃstasmiṃl-lagnān sattvān pramocayitum| (妙法蓮華経・方便品: 吾從成佛已來、種種因縁・種種譬喩、廣演言教、無數方便、引導衆生、令離諸著。)
MMK 18-5, 6: Karmakleśakṣayān mokṣaḥ karmakleśā vikalpataḥ | te prapañcāt prapañcas tu śūnyatāyāṃ nirudhyate || Ātmety api prajñapitam anātmety api deśitam | buddhair nātmā na cānātmā kaścid ity api deśitam || (中論・観法品: 業煩惱滅故 名之為解脱 業煩惱非實 入空戲論滅 諸佛或説我 或説於無我 諸法實相中 無我無非我)
MMK 23-13: Anitye nityam ity evaṃ yadi grāho viparyayaḥ | Nānityaṃ vidyate śūnye kuto grāho viparyayaḥ || (中論・観顛倒品: 於無常著常 是則名顛倒 空中無有常 何處有常倒)

宗教一般に見られる偏頗な思想・論理であっても、人々を救うことができるならば何ら不可が無いし、その菩薩行を達成することは忍難慈勝・大慈悲であるとして、自ら生死を度する結果(波羅蜜"pāramitā"・到彼岸)にもなろう、と考えられる。
それらの教理を誰よりも知ってきた私には、かえって困難らしくもある。
また、当記事で鎌倉宗祖らの言説を取り上げたが、彼らは大乗であっても、時に小乗の教理や阿含以来の定説を方便的に用いることもあり(生老病死の苦や生死無常の話など)、当記事で引用した報恩抄・歎異抄の説(自讃毀他・我が宗は勝れて他の宗は劣るという論争には何らかの過誤が付随するという)は、これに該当する。
そして、現代の大乗系既成仏教の信者は、小乗・大乗の教法のごちゃまぜ具合について、自覚せず、大乗の修行中に小乗の理法を世俗的な意味での悟りのように「取"upādāya"」することも多かろう。
そうです。仏様がお与えになった試練、宿命なのです。頑張って参りましょう。


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あしからず。

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