2017年1月25日水曜日

考証戯論「お経(経文)・題目・名号などは意味を理解してから唱えるべきか?」

いきなり答え→仏教を信仰する者、"いつかは"経文などを理解せねばならないが、最初の段階から求められることではない。
誰もが最初から経文の意味を知らず、仮に表面的な意味を知っても真意を知ること(後述)と異なる。
また、人によって意欲や成長の度合いも異なる。
場合により、方便(対機説法・世界悉檀)として「唱えるだけで功徳がある」と、例えば科学的な利益・現世利益を訴えてもよい。
「毎日の健康習慣!」とか、「脳の活性化!」とか、「美容にもいい!」とかと主張してもよい。
相手の人格・機根に合わせて訴える。

そうして人が読経などの信仰行為を形式的にも行うならば、自ずと経文・教義の理解もついてくる。
信仰する者の信心(菩提心または少し異なるが好奇心や知的欲求でもよい)が真(誠・まこと)であれば、遅かれ早かれ、唱えるところの題目・名号や経文は理解できよう。
もっと端的に言えば、「理解と行動のどっちが先であるか」という問い自体、愚問であって戯論である。
相互の共生で影響し合う道理を知るべきである。
意味を理解して唱える、唱えて意味を理解する。
または、意味を理解していながら唱え続けて再確認をし、忘れずに思う(反面・形骸化しやすいという二面性もあるが)。
どうであれ、理解と行動とは共生してこそ円満であると思わねばならない。
理解と行動とは相互に価値を高めゆくものである。
また、理解と行動のどちらかが著しく欠けている状態であっても、自ずと補われるのであろう(本題の例はこの範疇である)から、今はどちらかが著しく欠けている者も案じずに精進してほしい(失敗して死ぬことは恐らく無いのだから。否、無いのだと思って励みなさい)。



さて、合理主義的・懐疑的な現代において仏教の信仰を持ちづらい人が、信仰する者に対して「意味も分からずにお経を唱えて何になるの?」と有無を言わさず横槍を入れるケースが散見される。
それは「(発言者にとって難しいお経を読むなんて)下らないことだ」という結論ありきで発せられた、純粋な疑問とは言いづらいものが多いと看取する。
そういう魂胆によって横槍を入れる者は、心が佞悪であり、素直でなかったりする。
過去記事にもあげつらった、新興宗教の妄信者と、反宗教的な合理主義者(懐疑論者)の二元対立構造が非常に分かりやすい。
こういった低劣な(と蔑んでもならないが)論争が巷間に於いてされることは、痛快ではなく、むしろ不快に思う。

仏教系新興宗教および伝統仏教であっても、唱えることに意味があるとする教義は多くある。
法華系・日蓮系であれば、法華経の中に経文の受持読誦の功徳が多く記され、宗祖とされる日蓮大聖人の御妙判・御書と呼ばれる書物にも、如来寿量品長行に説かれた良医の譬喩にならって「お題目・南無妙法蓮華経を信じて唱えることは、母親が乳飲み子に与える母乳の栄養や医者が患者に与える薬の効能が分からずとも、与えられる者が信頼して飲むから作用するように、経文の意義を知らずとも功徳を信じて読めば功徳がある」という趣旨の言葉がある(ネット所載・創価学会御書全集のp341p499p1,058など)。
同じ趣旨の例えでは「愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も・愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり(同全集1382p)」といって、「金(こがね)・火」そのものは、正しく使えば「愚者」でも「智者」でも等しく機能することを挙げている。
ほか、「南無妙法蓮華経」のお題目の一篇を唱える功徳が法華経一部八巻(経の全体)を読む功徳に相当するという教説(同全集411pなど)も、様々な日蓮大聖人の教説と結びついているものである。
お題目とは、ただでさえ「無量無辺の功徳を具えた聖文・妙文と崇められる法華経(随喜功徳品などが根拠)」の真実性を、「妙法蓮華経(鳩摩羅什・訳)」という五字の経題に凝縮し、しかもそれに「南無(帰命)」するのだから、法華経と等しいか勝るほど功徳が具わっている、と教わろう。
そういった教説について、お経を唱える個人・当事者らが必ずしも理解しているとは言えないが、そういった教義に基づいて宗教団体が奨励している事実はある。
ほか、宗教信者の中にも、布教の方法として「最初から経文の意義を示してゆくことが現代に適う!子供騙しの古い手法は布教を妨げる!」と高論を発する者がいる。

私は、宗教信者・反宗教合理主義者の各々に言い分があるから、大いに尊重できる。
同時に、そういった「一理ある」主張はごく一面的であり、それのみを主張の要となして対立する者たちを侮蔑し、かつ憐愍しているのである。
一辺倒の主張であって広い理解や協調性に欠いている者たちではなかろうか。
中3の時にネット右翼とネット左翼(および横槍を入れる第三者)の終わりを見せない低劣な論争に嫌気がさしたことも、私の達観による。
仏教を学ぶ前から仏教の機根が僅かばかりあった例証である。
人々は人々の理想が多かれ少なかれ意識されるもとに諸々の言論をなしており、大いに尊重できると同時に侮蔑し、厭離すべきではなかろうか。
全て仏・菩薩の憐愍すべき対象である。

仏・菩薩は、一応、説法したり、論理的な説明もするし、大乗仏教で菩薩と尊敬される論師たちも論争に交わったが、同時に、みな論争を超越した存在である。
どんな言葉を発しても、心では常に泰然自若としている(人間の心の奥はみな愛憎も善悪も無い"無記である"と理解する。菩薩は理の無記のみならず事実に体得している。また菩薩は大悲を以て成仏せず衆生済度をされるから同様に論争についても戯論とお分かりで戯論を用いられる)。
現世で我が身の存在する以上は慈悲の心に随い、種々に説法して教化する。
論理的な説明が必要な仏弟子に論理的な説明を行うし、論争に交わって教義を示すならば当事者および当事者の取り巻きなどにも教化が適うということは、内証の悟り・慈悲が泰然として堅固であるからこそ現世の身は柔軟な立場でいる。



それはそうとして、読経の行為について私はどのようであったか?
2015年4月、家に複製の御本尊(ミニ掛け軸)があることを知った経緯(茨城・母方の祖母に関連)で初めて勤行を行い、5月中に動画も上げており、同月中に勤行の習慣を止めた経緯もあったが、2015年12月下旬からぼちぼち再開し、2016年2月以降は毎日に朝夕の略式勤行を挙げている。
「経文」という話題を中心にして話す。

「自我偈(妙法蓮華経・如来寿量品の偈)」の名は2011年・中3の時にたまたま知ったものであり、読経の音声自体は2009年4月・中1の時の祖父葬式で2泊した千葉鴨川の祖父母宅であったろうか。
それらの経緯の影響は仏法に於いてごく薄いが、日蓮系との縁を自覚する要因ではある。
個人的な動機で2014年6月から日蓮系新興宗教(主に創価学会・顕正会)を学び始め、信仰の方は行わないまま(個人の独学・合理主義・好奇心による部分が強いため信仰は難しかった)時間が経つにつれて自我偈の内容は、現代語訳を通じて理解された(部分的には講義・解説など)。
つまり、インターネットなり書籍なりで経文の意味の大要は、理解される。

しかし、それは「現代語訳の文章を理解した」とか「読み下し文・訓読文を理解した」とか「漢文を理解した」とか「梵語の文章・梵文を理解した」という程度であり、経文の心に通じたとは言えない。
信仰する者ならば「我、経の意を得たり!」などと諸手を挙げて喜べたものではない。
百歩譲って言えば、「一応の理解」に過ぎない。
この私であっても、先の「法華教学の再確認」記事の中で自我偈の真意の一部分を説いたつもりだが、今なおも新たに学び得ることや、知識不足の実感がある。

※仏教に「無学」という概念・名称があり、「学が無いもの(新たに学ぶ必要が無い者)」と意味するが、それは「既に学びつくしたからもう新たに学ぶことが残っていない」という意味ではなく「既に解脱したから新たに解脱に役立つ知識は学ぶ必要が無い」という意味である。学びつくさずとも解脱する者は解脱する。後述の周利槃特尊者はこれである。釈尊の言葉を常に聞き続けた「多聞第一」の阿難尊者ですら、ほかの仏弟子に遅れて解脱に至った方である。

文章の暗記をして誇りたければ、いくらでも本を買いあさり、血眼になって読んでもらいたい。
そうして暗記しても、コンピューターの記憶力に適う者はいない(中3のころ単に円周率10桁以上を暗記したがる者を軽蔑する際に発した常套句に似ている。つまらないことに限界を求める人々・二の累乗を暗記した方が楽しく実用的であると弁駁していた。円周率の暗記であっても別に意義があるならば行う価値はあろうが。意義や自覚は宗教の神髄である。心が微塵も無いと信仰も無い)。
誰かが暗記したことを「人の才能の一種」として賞賛できても、当人の人格の向上を認めはしないし、ましてや仏教の徳とは全くならない。
「多聞(であるだけの者)は生死を度せず」ということである。
信仰の価値・意義と仏道修行に関する話は、過去記事の説明に任す。
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/09/theravada-saddha.html
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/09/blog-post-20.html

※起草日・2016年12月18日と翌19日にたまたま2日連続で「周利槃特(しゅりはんどく・チューダパンタカ・チューラパンタカ"Skt: Cūḍapanthaka Pali: Cūḷapanthaka")」の故事を見かけた(1, 2)。その故事の要旨を取る。「周利槃特は兄の摩訶槃特の誘いで仏門に入った。釈尊の話に集中できず簡単な言葉(いわゆる経文・偈・教説)も覚えられない(言外の意:持戒・禅定・智慧などの修行が不能)ながらに信仰心や菩提心が強かった。兄に比べられたり、周囲に突き放されて悲しむ中、釈尊から最も簡単なフレーズと共に掃除の雑用(増一阿含経では掃き掃除という説・大智度論では履き物の清掃という説)を任され、これを愚直に懸命に行った。長い時間、そのフレーズを念じて日々に掃除を続け(言外の意:持戒・禅定・智慧が修まり)、阿羅漢果の悟りを得た」と。現代のネットや書籍に見るものは多少の脚色がある(人間の感情によって詭弁的になりやすい)。増一阿含経巻第十一の表現はシンプルであるほか、兄・摩訶槃特が「持戒ができないなら還俗してくれ」と発しているようである。数日かけて漢字では2文字の経文"掃㨹"を記憶し、これを唱えながら掃き掃除をして言葉の意味を徐々に理解し、五盛陰(五蘊)などへの思惟・観想をし、阿羅漢と成ったという。いずれにせよ、この故事は後世にどう脚色されていようと要点をつまみ、理を学んでもらう必要がある。そういうための故事・逸話・譬喩というもの(伝承の中の脚色や誇張も含む)である。持戒が困難で学習がままならなかったらしい周利槃特が清掃作業に没頭できたことは、深い悲しみと釈尊の励ましを受けた経緯によるのかもしれない。なお、パーリ語経典の小部・テーラガーター557-566に同名の人物が登場しており、同じ経緯で仏が、掃き掃除のホウキではなく「足を拭く布を与えた」という話がある。同ウダーナの場合は同名の人物に仏が瞑想に関して助言しているようであった[各邦訳]。ジャータカ(4番め"Cullaka-seṭṭhi Jātaka")に拭き掃除として詳細な話が見られた[邦訳]。法華経では「周陀(CūḍaやKṣudra説は日中のものだがある梵本ではcundaḥとあり漢・梵の英訳ではCundaとかKundaとして純陀を指している)」の名で成仏の授記に列している。

とりあえず、経文の概要などは知ったとしても、経文および経を説いた人物と同じ悟りを得た境地ではないわけであり、仏教において自慢になることはない(悟りも自慢すべきでないが称賛はされてよい)。
そもそも現代の軽薄な合理主義者(日本社会でダラダラと生きる中に自然と身に付いた程度の凡庸な合理主義)の主張は、信仰のある人およびその行為への軽侮である。
そういった主張は、仏教・仏法の中では取り合う価値すらないわけである。
そんな発言をする行為自体が、仏智なく信解なく、求道心もない合理主義的無宗教者(懐疑論者・外道)と看破される。

もっとも、彼らが仮に知的欲求などで経文を理解し、その微々たる功徳から菩提心が起こるのであれば、救いのある話だと思う。
斯く言う私も、似たように合理主義的な者であったが、浅い仏縁でも深いところに通じるわけで、その人々の自覚と行動が大事になってくる。
だから、軽薄で不純な動機や煩悩や三毒に因る動機でも、菩提心に繋がることはある。
煩悩即菩提・変毒為薬の類例である。

しかし、仏教の義のみを知って我が心を観ない者は、三毒を残したまま獅子身中の虫・悪魔となって(悪鬼入其身)仏法を破りかねない。
先の周利槃特(御書では修利・須利)に関連して日蓮大聖人は、提婆達多が多聞で多く教えを記憶していながら、悪業を積み続けて無間地獄に堕ちたことを例に取っており、末法の現在はかえって物質的に豊かとなり、人の機根を愚鈍にさせ、心も毒を強めていよう。
仏教を学んでどうなるか、一括りに言えはしない。
人の価値観や機根が異なる、といつも言っている。
今、言い換えるならば、自覚・反省の心(慙愧)が真っ当な者は最初こそ不純な心でも仏道を成ずることができよう。
諸行無常・空だからこそ、煩悩の宿痾も対治できるものと自覚し、一生成仏への道を勧めたい。



合理性・学術性・学問性と、信仰心の大切さを共に理解している私の活動は、当・学術的メモ帳ブログの過去記事にその精神を大きく看取できよう。
仏教の理論にも出ており、觀萌私記の「萌」字音・音義に関する記述も同様である。
仏教自体、そういった両面を原始仏教・初期仏教、部派仏教と続いて上座部仏教なりインド・中国の大乗仏教なりと、包括できていたわけであるが、言語など学問部分を別物に扱って存在する状態が現代の仏教界・仏教学界である。
近現代の合理主義・資本主義的な分業体制の一例と言ってもよい。
不二(二ならず!)・一如(一の如し!)の義を以てしても、学問と信仰の両者がバラバラのままであり、仏教(ひいてはキリスト教などほとんどの宗教)は現代文明から滅んでもおかしくない。

世間においては、人の心・人権・人道を政治経済と両立させる上流階級がいながらに、下層民衆は合理主義にばかり心を奪われている。
また、上下万民は仏教を「一宗教」なるものとして、あるいは尊重し、あるいは無視している(いわゆる傍観者・冷笑主義)。
この世間でも、最後まではユネスコ(UNESCO)みたいな人権屋が、絶滅せぬようにと「無形文化遺産」の如くに保護してくれるであろう。
私が演繹する理論はこの通りだからこそ、事実にならぬよう、私が行えることがあり、今までも、今現在も続けており、今後とも続けてゆく所存である。



起草日: 20161217
本題に関しては、過去記事で取り上げることのない話題であるが、説明の記述については過去記事の所説や記録と重なる部分が多い。
また、そういった記述をせねばならない時、気だるく思っている。
ああ、何たる怠慢であろうか。
毎度、説明を倦むことなく、新鮮な気持ちで、人を思いやる心で全ての文章を書きたいものであるが、思いやるべき他人などどこにいようか。
どんなツラをしているかもわからない他人が無感情で見るか、スパムロボットしかアクセスしないであろうから、と最初から諦め気味に書いている。

その虚脱感・倦怠感というものが、書きたい、伝えたい、という心と同居している。
いかにして対治すべきであろうか。
理性が横槍を入れてくる私の道心には、障礙が幾重も連なっている。
今後も、同じ気持ちでケツ書きをする際、「前にも書いたことだ」と価値判断をして手抜きを犯してしまおうか、と悩ましい。
とはいえ、記事自体は手抜きとなっていないので、安心して熟読されたい。
まだ、慈悲の心(と虚栄心)が、虚脱感や倦怠感に勝っているようである。

どうせ虚脱感や倦怠感の波に逆らえないならば、枯れつつある性欲(2016年10月3日からオナニー射精を自然に行わない記録を起草日も更新中)と共に食欲も削がれてほしい。
起草の月・2016年12月は暫定2度(同月1日・14日)も夢精した経緯があり、夢精もしなくなってほしいものだが。

3 件のコメント:

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    1. どなたが食欲や医学や心理学の話題をし、貴殿はそうコメントを投じられるのでしょうか?
      へーそうですか、参考にします。何の参考になるかは存じ上げませんが。
      医学や心理学に興味のあるかたは「真の健康」について語った記事をご覧ください。
      http://lesbophilia.blogspot.com/2016/07/the-way-of-true-health-is-within-us.html

      「既成の健康知識に飽きた現代人へ」というスタンスで語る記事ですから、私は医学や心理学を専門的に学んだり論じる気は毛頭ございません。
      現世利益的な断食に関しても否定的に論ってあります。
      釈尊や大徳は適度な食事などの「少欲知足」を弟子たちに勧められたのです。

      最後に、コメントを投じられたり、学問をなさる前に、小学生レベルの読解能力と一般教養を身につけてくださるよう、心よりお願い申し上げます。
      お読みになるとは期待しませんが、個人的な記録行為の一環として返信を行いました。

      削除
  2. 後年にこのコメント欄を見直す機会があったので、ついでに記録しよう。
    2017年1月29日にfoxという名のユーザーによって当記事に投稿されたコメントは、その人物自身によって削除されている。
    同じ人物は、2016年6月に「横野さんは肉食(にくじき)をどう思いますか?」のように当ブログの一記事にコメントしたが、そのコメントがその人物自身によって削除されている。
    跡地→https://lesbophilia.blogspot.com/2016/05/plus-april-2016.html#comments

    foxという名のユーザーによって当記事に投稿されたコメントに、書かれていた語句は「食欲・断食・心理学・医学」といったものだった。
    当日に私が返信した際、「個人的な記録行為の一環として返信」と記されているが、それならば、この時にしっかりとコメント内容の補完をすべきことを反省する。

    彼の「肉食(にくじき)」についての言及は、2016年7月8日の投稿動画「仏教と政治思想①」においても見られた。
    「賢者に恐怖などない、宗教など必要ない」とも彼はコメントしていますが、やはり話題を把握する能力に欠陥があると見受けられる。
    彼にとっての哲学に自ら酔いしれているようである。
    無論、彼に限らず、その動画にコメントした人々は「仏教と政治思想」についての言及を誰もしていなくて2ch, Twitter, 知恵袋にも及ばない無秩序さを示している。
    この時、オトナ・大人・シャカイジン・社会人に著しい失望を感じたのであった。
    https://www.youtube.com/watch?v=TIXBzgculzM

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当ブログのコメント欄は、読者から、当ブログ記事の誤字・脱字の報告や、記事の話題に関する建設的な提案がされる、との期待で解放されていました。
しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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