2017年4月10日月曜日

三宝の次第と一体性について

当記事の前提・・・↓記事の後書きの内容を受けている。
http://masashi.doorblog.jp/archives/49097230.html#links

当記事の目的・・・当該記事の記述通りであり、これを改変して示す。

仏教関係では、偉い学者さんが熱心なほどに書物を通読して膨大な著作(辞書や注釈書)も出したりするが、いつかは私の論文・日記・雑記・動画・音楽・イラスト類を研究する人が出てくることを期している。
私自身、過去の仏教大徳と智慧・内証が通じている過去萌尊を瞻仰し、その詔を奉戴して自著・觀萌私記などの萌えの法門を宣説してきているし、自らお絵描き・音楽制作を絶やさないでいる。
萌えの法門が現代人の一部(通称・ネイティブニート閑居求道者)において善き救いの道となる。
この私の努力と同時に、これを二次的に弘める人がいないことには、人々を広く済度する教えも有名無実となるし、これは萌えのみならず仏教でも同じ道理が言える。
過去に「仏法僧三宝は一体であって相互に補完する役割があること」を説いたが、未公開である。
よって、当・メモ帳ブログで当該記事の内容を受けた記事として公開する。

経緯は以上である。
以下より、2016年5月18日以前に書いたと推定される文章を引用する。

三宝一体 三寶一體

※2016年5月18日以前に書いたと推定される文章
三宝が「仏法僧」という順番である理由は何でしょうか?
上座部仏教・パーリ語であっても"saraṇaṃ (saranam、帰依)"する言葉を唱える対象が"Buddhaṃ, Dhammaṃ, Saṅghaṃ (SaraṇatayaかTisaraṇaを参照・いずれも中性名詞対格か・サンスクリット語ではBuddha, Dharma, Saṃgha or samgha)"の順です。
このように、「仏法僧」の順番は古来・初期仏教から古今東西南北・全仏教の伝統でございます。
いずれの尊い「宝」も、正しい仏道の信仰すべき対象であり、欠かしてはなりません。

順番はこのようですが、必ずしも優劣(勝劣)を表す順番ではないと思います。
それでも、私の卑見では、一つを主として残りを客とし、「能・所(のう・しょ、のうじょ)」の意義を立てて順番を仮定します。

仏→法は「能説」、法→仏は「所説」です(別に能証・所証ともいう)。
仏が初めて正しく衆生に法を説き、法は仏によって初めて正しく衆生に説かれます。
仏→僧は「能与」、僧→仏は「所与」です。
仏が所説の法を僧に与え、僧は仏によって所説の法を与えられます。
僧→法は「能伝」、法→僧は「所伝」です。
僧(僧伽)が仏の所説の法を世に弘めて後世に守り伝え、法は僧(僧伽)によって仏の所説の法を世に弘められて後世に守り伝えられます。

三角関係の図に表すと分かりやすくなります。
この「能所」は決して優劣や支配関係を言う表現ではありません。
まとめると、仏は「法を能く説き僧へ能く与える」、法は「仏によって説かれて僧によって伝えられる」、僧は「仏によって(法を)与えられて法を能く伝える」となります。
※究極的に言えば仏が僧や法を定義しますし、僧は法も仏も伝えますし、法が無ければ仏も僧も概念や名称になりませんので真には平等で順番がありませんが、言葉にするために順番をお決めになる必要はありましょう。

こう見た場合、「法・仏・僧」か「仏・僧・法」の順番でないと連続性が足りないようにも思います。
大乗でも小乗でも、仏(仏陀・如来・釈尊)は真理の法から娑婆世界に応現した旨の教説がありますので、法は中間にあると流れが途切れそう(不適切な言い方)です。
また、何を法の宝とするかによっては、仏宝や僧宝も宗派によって変わる既成事実があります。
それは周知のとおり、浄土真宗や日蓮正宗系教団が顕著です。
同じ仏宝が「釈尊」に相当する名であっても、娑婆世界インド成道のゴータマ・ブッダ、久遠成道の釈迦牟尼仏など、ニュアンスが異なるか「名同体異」となる例もあります。

色々と長くなりましたが、三宝である「仏法僧」の順番をどう思いますか?
教義的に云々すべきではないようにも思いますが、実際はどうでしょうか?
順序の成立過程で、やはり、重要度などの意思は介在したものでしょうか?



私論・三宝への信仰の重要性
今、私は仏法に遭遇し、見聞ができている。
もし三宝が無ければ過去にも現在にも(釈尊による)仏教はない。
「法」があり、「仏」が法を説き、「僧」が法を時空に渡り、伝えて弘める。
私たちの現在の仏道は、まさに三宝のおかげであると知り、信仰や尊敬を持って当然である。
古今東西南北、全仏教の共通認識でもある(普遍的教義)。

私論・仏教用語における順序の重要性
仏教用語では「三○」などといった漢数字が接頭辞となる語句(名数)があり、その内には漢数字に相当する用語が並ぶ。
それらの用語は無造作な順序ということは有り得ない。
特に「戒・定・慧」の三学の深義をお考えになったことはあろうか?

世の人、常にいわく「知れば知るほど慢心する」と。
これは半分正解であり半分誤りである。
なぜ釈尊は「戒・定・慧」の三学をお示しになったか、よく考えていただきたい。
戒の行、定の行を修することで慢心はほとんど制御される。
そして智慧を得ることで、何をどれほど学ぼうと「我、悟りを得たり!(仏意を知れり!)」といった慢心を起こすこともなくなる。
真に「よく知る」ことは、単なる知識の吸収のみならず、「三学」の全てに渡って知ることである。

大慢心を起こした宗教家らを思えば、或る者は仏法の教学に精通し、或る者は霊験あらたかな修行(断食ウン百日など)によって名を馳せたが、その前に、補完すべき理解や修行を抜かした。
元から機根が高い人(釈尊・聖人たち)でもない限りは、諸仏の「如説修行」を心掛けるべき(完璧でなくとも)であり、一つの修行(修行を欠いた学問なども)に拘泥したり、飛び飛びで修行をしてゆくと、必ず顛倒してしまう。
戒定慧・三学のように多くの仏教用語は、並び称されるもの全てが重要な構成要素であり、それらは順序にさえ深い意義が込められているものと、私は拝察する(四諦・十二因縁は好例)。

あえて理屈によって順序・次第が決まる場合、「仏法僧(漢語・梵語問わずこの順)」という並びが妥当かどうかについて直接見解を示そう。
まず法ありきでも、仏がいなければ法が説かれないという第一の前提により「人即法」の意義から仏・法の順を決め、二次的に弘める点で僧を次に置くことは妥当となる。
仏教であるし、尊き仏を第一に立てることが目標(解脱・涅槃・成仏・往生)の宣揚となり、信仰の立場では真っ当であろうし、これ以上の愚生による多言を要しない。
"Buddha, Dhamma, Sangha"の頭文字は、偶然にもアルファベットABC順になっている、という点を付記する。

「決三寶次第 立能所義 佛は法の能説なり。法は佛自り所説なり。復た説の字は證にも代ふ・・・」



引用は以上であるが、引用文の中には「一体」という語句が無い。
「一体」とまで言わず、「平等」の意義は示されている。

>いずれの尊い「宝」も、正しい仏道の信仰すべき対象であり、欠かしてはなりません。
>もし三宝が無ければ過去にも現在にも(釈尊による)仏教はない。「法」があり、「仏」が法を説き、「僧」が法を時空に渡り、伝えて弘める。

円満・不可欠な三宝への信は、仏道において常に携えていよう。
つまり「一体」とは、現在の理解の感覚で、この意義を説明し直した表現である。
大乗仏教で詳細に説明される、仏の「三身=法身・報身・応身」にしても、悟りを得るであろう智慧(報身)と、智慧に悟られる法(法身)とが一体不可分の「境智冥合」を示し、仏宝・法宝のようである。
また、現世・人界での精神・肉体(名色)という応身(化身)が無いことには他者に示されないので、応身も補助として不可欠であり、三宝でいえば僧宝もまた引用文にある通り、二次的に縦横(時空)への弘教を担っていて不可欠である。
本来、仏は仏という完成形だが、その性質・力・作用には差異が確認されるので、仮に法身を想定することがパーリ語経蔵に伝わる教説(Sn22-87Snp5-19など)から既にあったが、大乗仏教では仏の現世の姿(応身または化身)と法身に限らず、智慧の性質などを考慮して詳細に語った経緯がある。
生ける仏のお姿(応身)を見て、人は「世尊だ・沙門だ・乞食だ」と見るであろうが、それはそうとして、よく仏がそこにいる事実を思惟するならば、真如の法や縁起などが見られるのではないか。
いずれにしても、元々、仏は仏であるので、一つとか、一つより多いものとすら言うべきではない。

冒頭に述べた觀萌私記に関する教説も、仏教との習合が進むにつれて「萌えの三身」を説き、その一体性を説明した。
最初期の萌えの教えである萌義條には、萌えの理解の肝心である「三萌義」が説かれているが、これもまた「皆な萌えの類」としている。
「三即一」のようにも捉えられる。
萌えの三身や三萌義に関する仏教的な解説は「注三萌義 (仮の公開ページ)」に預ける。



起草日: 20170131 (個別の引用文は別記された通り)

この記事は、人々の救いの道となる教えを有名無実にしないため、二次的(時間・空間とも)に弘める人が必要であるという意義を示すため、上の通りに引用した。
特に、私が説いている萌えの法門は、現代の若者の中でも世俗の分野の商業性を嫌いながらに芸術性を尊ぶ一類の人に対して救いの道となることを確信している。
仏教自体、時代を問わず、法門が開かれていて万人済度の道となってはいるが、その下準備として萌道を説く心は、常に清浄萌土抄の「夫れ萌道は、未だ仏道に入らざる人をして向かわしめんが故に大萌尊の説きたまうところぞ。仏道は即ち是れ路にして萌道は一方通行の径なり。人、萌道に入ることを得れば、何ぞ仏道を離れん」という一節を引く通りである。

これからの時代を乗り切る術は、まさに仏教あるのみである。
健全な方面で科学技術が進歩することは大いに称賛できるが、改造人間のようなものが増えてはならない。
どれほど技術が進歩しても乗り越えられない危難は、天文学的災害・戦争などの人災・地理的な災害である。
文明・国家規模で蓋然的に直面するのみならず、個人には死が必ず訪れるから、仏法の理解を求めている。
どれほどの時代を経ても、人の脳内に工学的な「チップ」を埋め込むことは世俗の倫理においても許容されるべきでない。
仏教の「チップ」、つまり私がいう「仮設エッセンス」や「念」によって智慧が養われ、正しい思考に基づく生活が送れるようになるべきであろう(正しいこととは仏教の信念によるしその正しさが苦しむ人々を救うとみなすから慈悲によって仏教を布教したくなる道理がある)。
これならば「チップ」の施術行為も費用も、維持・管理も必要が無い。

仏教の「チップ」を埋め込む者は、僧俗(道俗・緇素・出家在家)仏教徒である。
仏像の開眼供養で「魂」を吹き込むように、仏教徒が執刀医となって人々の脳内に「仏教のチップ」を埋め込むべきである。
各個人は、「仏教のチップ」を喜んで受けてほしい。
仏教では「魂・霊魂・魂魄・エッセンス(本質)・アートマン」などが「無い」というが、私の「仮設エッセンス」という名称の通り、仮に「有る」とも言える。
「チップ」といえば物体を想定するものだが、物体としては「無い」としても、物体と同等の作用がある状態を物体になぞらえて言えば、そのチップは「有る」とする。
神秘的なエッセンスにせよ、物質的なチップにせよ、議論を気にせず、自ら心に思い描いて「仮想」すればよい。
物事は心が判断するならば、事物もみな心に映った「仮想現実"Vertual Reality"」に過ぎない。
神秘的存在も物質的存在も、心を介すれば「無」であり、同じ「無」ならば心に思い描いたものでも無の範疇で成立する(世間ではこれを詭弁と言うが)。
仏教徒は、このスタンスで修行・信仰・布教をしてゆく。
ただし、そのようにできない場合は、物質に頼る必要性も出てくるかもしれない。


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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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