2017年9月11日月曜日

新しい諸法(縁生)の喩「壁=障害物・障礙・障碍"Antarāya, Pratibandha, Sambādha"」

今回は、2017年の作品「尊者名義談(そんじゃみょうぎだん)」の注釈文を、記事の話題としたい。

「壁」とは、物質的存在としての「壁"wall"」がさまざまに有り、抽象的存在としての「障壁」が有る(例えばベルリンの壁は双方の意味を兼ねていよう)。
精神的存在として「(彼らの間を)壁が隔てている・(それを行うには)壁が高い(ハードルが高いとも)・(行動する彼の前に)壁が立ちはだかる・壁を乗り越える・壁をすり抜ける・壁をぶち破る」といった表現などがさまざまに有る。
後者は、要するに「壁」と想定される「邪魔なもの」が前提に有ってこそ「ぶち破る・打ち破る・打破する・打ち壊す・打ち砕く(摧く)」と表現が続けられているわけだから、最初に「壁ありき」である。
悟りの人の世界(主観的世界であるが同時に客観的世界でもある)では、理論において「壁のようなもの・邪魔なもの」は無いし、「壁のようなもの・邪魔なものは無い」とさえ表現すべきでもない。

それはどういうことか?
さしずめ、仏典でいえば「無有障礙(障礙あること無し=壁は最初から無いようなもの)」となろう。
「無有(有ること無し=無いようなもの)」という表現は、まさに悟りの人が「言葉という仮の道具」を用いる際の「中道(絶妙なこと・その手段)」である。
ここに、件の「尊者名義談」注釈文(自筆)を引用しよう。



(前略) 「障礙が有って無いようなこと」とはどのようなことか?ある小説の主人公は、ほとんどの物事に無感情であり、彼が本能的に「敵」とみなす怪物のみをターゲットに入れて殺戮を行う。「障害・障礙というもの」は、それが「邪魔になる」という価値判断から、「障害・障礙のようだ」と認識され、「障害・障礙のような名称」が生まれ、名称による概念の定着がある。つまり、個々人の善悪の価値判断に因って「障害・障礙」が有る。外界に「障礙という事物」そのもの"bhāva"は無い。実体として壁は存在しない。彼には、善悪や快不快といった価値判断がほぼ存在しないので、その認識による感情の動きも最小限であり、他者からは「無感情な人」と見られる。その彼の発言は「善悪?くだらない」や「敵(と本能的に彼がみなす怪物)は殺す。それだけだ」である。およそ、彼は縁起の理法を覚っていると考えられる。そのような場合、どのように過酷な物理的な障害・障礙があっても、そのように「邪魔になる」という価値判断がなく、ただ冷静に感情を介入せず「現実・ゲンジツ」を見て状況に対処する。たとえ「物理的な壁」が四面楚歌のように自分を空高く囲っても、解脱の人にとって「壁」たりえず、「単にそこに有るモノ」とも判断されない「存在ならざる存在(非有非無・非非有非非無…)」である。つまり、「自分に立ちはだかる壁・障害物」という名の「不快な存在」と感じないようである。客観的世界の物質的存在は壁のようでも、心に壁の文字と定義とが無いので、主観的世界の精神的存在は壁でなく壁でないとも称すべきでない(非壁・非非壁)。彼の辞書には「欲望が求めるところの快楽」も「感情が嫌うところの障害」も存在しないようであるが、実際に仏教の悟りを得ているわけでない。よって、時折、怒りの感情が強く発現することもあり、その時は「邪魔だ!」と取り乱したりする。煩悩・感情がある時、「存在ならざる存在(非有非無)」が善悪の価値判断を介した「邪魔なもの・欲しいもの」などへと認識が変化する縁起である。山の向こうに新天地があると知って行きたいと思う人は、山が単なる山でなく「行く手を阻む障礙(障害物)・邪魔なもの」と認識する。

私たちはPCなど道具の扱いや他者との交流で時折、不快感を得て怒りを起こし、手を上げる場合もあろう。どのように制御するか、と悩む者は、必ず縁起の理法を知らねばならない。十二因縁など縁起の説は、難しいものであろうか?十二支の全てが「実感しづらい我が心の出来事」であり、仏様が理路整然とお示しになったのみである。感情・思考の強い人間は、誰でも例外なく「縁起の主役」である。「実感しづらい我が心の出来事」を、教えられることで実感できるようになり、その出来事の結果にある煩悩(欲望や怒り)をも自覚して防げるようになる。その利益を成就するには、教えを念じて(肝に銘じて)忘れない努力が肝要である。縁起の理法と合わせて、因果応報(善悪業報・自業自得)や慈悲のことについても、信仰を持って学んでおいて頂きたい。



結論としては、表題の通りである。
般若経典なかでも摩訶般若波羅蜜経など大品般若経には「十喩(じゅうゆ)」が説かれる。
それら十は「因縁によって生まれるもの」を代表するものとして説かれた。
因縁によって生まれることを因縁生や縁起といい、そのようなものは空であり、空を象徴する十種類のものを選り抜いて「十喩」とも「十縁生句(縁生=縁が生むもの)」とも総括する。
大品般若経の注釈である大智度論・巻第六には、十喩の詳細な説明・解釈が載る。

十喩 daśa upamāḥ *daśopama (十のたとえ)
"10 examples of illusory nature" (幻のような存在の例を十に示す)


1. 幻 (幻事) - māyā - an illusion
2. 炎 (陽炎・陽焔) - marīci - a mirage; a hallucination
3. 水中月 (水月) - jalacandra; udakacandra - a reflection of the moon in the water
4. 虚空 - ākāśa - sky
5. 響 - pratiśabda - an echo
6. 犍闥婆城 (尋香城) - gandharvanagara - city of Smell-eaters
7. 夢 (夢境) - svapna - a dream (梵語と同源の英単語: sweven)
8. 影 (光影) - darpaṇabiṃba - shadow
9. 鏡中像 (像・鏡像・映像) - pratibiṃba - a reflection in a mirror
10. 化 (變化事) - nirmāṇa; indrajāla - a magic play; Indra's net

※虚空"ākāśa"を、空花"kha-puṣpa; ākāśa-puṣpa (a sky-flower)"とするものもある。

※大日経(大毘盧遮那成仏神変加持経)所説の十縁生句では、幻と化や、影と鏡像を統合するなどして替わりに「浮泡」と「旋火輪(縄や棒を旋回すると輪に見えること)」を加えている。「泡"a bubble"」と「旋火輪"a whirling firebrand"」は大智度論における十喩の説明でも、引き合いに出される。

※大智度論における十喩の説明で、最初と最後を飾る「幻」と「化」とは、意味合いが似ているし、「幻化(げんけ・げんげ)」という複合語も諸経にあるが、どう異なるか?「幻」とは視覚的なものであり、梵語"māyā माया"として「たぶらかし」を意味することもある。「化」とは、ただ何かが別の何かに化けた・変化した状態などを指す。梵語"indrajāla"としてヨーガ方面の人は、「たぶらかし」の意味も兼ねて同一視することもある(ドイツ語"Yogawiki"のMayaIndrajalaを参照)。大智度論が化を説明するには、明らかに、「視覚的な化たる幻(上記英訳の"a magic play"を含む)」と異なるものとなっている。つまり、心に生じた像そのものらしい。十喩の言わんとすることは、幻・炎・水月ないし化の、十種類すべてが同義であって自己・他者・万物など「諸法」もまた同様であるということである。大智度論などにとって、「三界唯心所作・一切唯心造」のように、諸法が「心の化」であることを最後に念を押したかったと思われる。



こういった十喩に対し、「壁"wall, prākāra (pra- 前に -ākāra に作る・名詞化 = 前に作られたもの・前を阻むものとしての壁)"」が尊者名義談の説明によって同種となった。
もしも、現代文化より十喩を設けるならば、「壁」を加えてよいと考えるに至った。
現代の十喩というものを想定する際、他に加えるべきものは、萌えの法門での説明が十全となった「萌相"myoso, śubharūpa" (萌え絵・可愛相)」に他ならない。
世間はなお、「萌え」の語句と意義とに迷い、広義の萌え系(可愛い人物などの絵)が好きな人ですら「萌え」の芳名を軽んじているわけだから、改まった説明を必要にされた経緯がある。

この尊者名義談が、萌えの法門・萌えの典籍の内にある。
萌相の空なることは、觀萌私記の萌義條脚注ならびに讃萌語脚注など本末に渡って示されており、萌え和讃では直に説いている。
萌相とは、萌えの二法のうち色法・萌色という外見的なものの総称であるが、それに人名や性格などを関連付けたものが人形萌類、いわゆる「萌えキャラ」となる。
萌えキャラについては、萌え話記事における本萌譚・異伝④で過去萌尊が詳細に語る。

そのような萌えキャラ(人間の思考の産物の典型例=諸法の代表者)とは、仏・菩薩に類する萌尊の智慧・慈悲の作用・応現であり、一種の「化作"nirmita"・幻化人"māyā-puruṣa"」である。
般若経典のうち、大品般若経の類には、幻人と菩薩に異なりが無い教理を示す。
要点は「(佛問)五受蔭假名是菩薩不。 (須菩提答)如是世尊。 (乃至) 五蔭即是幻人。幻人即是五蔭。(摩訶般若波羅蜜経・巻第四・幻学品)」である。
大智度論における注釈も兼ねて考えると、ちょうど幻の人が実在する人のように修行して功徳を積み、悟りを得るような姿を見せても、実際の功徳や悟りは無いが、この世の人も同じように功徳や悟りは有るようで無いであろう、ということである。
幻をビデオゲーム作品(数字0, 1の組み合わせである世界を電気で運用して液晶画面などで仮に反映して見せたもの)に置き換えれば、ゲームキャラがゲームの世界で経験値を積んでラスボスを撃破しても、それは、実在人物が肉体を現実世界で鍛えて目標を実現することと変わりがないようである。
生まれ死ぬ無常の世・物質の集まりである無我の身・無常無我の世界も自己も、みな心の妄想=唯心所作・一切唯心造であるならば、心の仮想も電子空間の情報も物質的肉体も幻に等しい。
幻人と萌えキャラは、どう似るか?

維摩経の天女は、女性の外見をしていても女性"strībhāva"という概念・認識が幻"māyā"のようなものであり、女性とか男性という性質が無であることを舎利弗尊者に語っていた(参照: 維摩詰所説経・観衆生品Vimalakīrtinirdeśa 梵・漢・蔵・英)。
諸法も幻のようで自己は無所得であるという見解からして、天女が自ら菩薩・阿羅漢に等しいと説く(天女は先に自ら増上慢でないと断った上で我爲聲聞・我爲辟支佛・我爲大乘と説いた)。
萌えキャラもまた、どんな外見やどんな設定があろうと、みな名称の実体(女性・男性・人間・ケモノなど)は無い。
法華経の龍女(長寿の龍族の8歳の娘)は、女性や非人の立場でありながら成仏できることを、幻のようなもの(變成男子具菩薩行ないし普爲十方一切衆生演説妙法ないし龍女成佛)を多くの人に見せ、先に疑義を示していた舎利弗尊者・智積菩薩に信じさせていた(参照: 妙法蓮華経・提婆達多品)。
萌えキャラも成仏できることは、般若経・維摩経・法華経の説からして天女・龍女と異ならない。
十喩・幻にしても萌えにしても一切のキャラクターにしても、その例から知ってもらいたいことは、その理解のように諸法(ありとあらゆる物事)が空・仏と等しいことである。
※「壁」にしても「萌相」にしても、文字面や英単語を見たところで「幻・炎…」ほどピンと来ないという難点があり、「現代の十喩」構想は、つまるところ私のメモ替わりに役立つ程度となろう。

そもそも、「萌え(𢡗)」自体が萌義條の三つの萌えの意義にあるよう、「生(心に生じる・芽生える)」の置き換えであって因縁生・空・縁起の象徴でもある。
一切の法が摂取される教理がすでに明白であるので、大乗においては元より疑いが無い。
話題の「尊者名義談」にしても、その「障礙"obstacle; obstruction; antarāya; pratibandha; sambādha"」と名のあるキャラクターが、修行者に対して蚊をはじめとした「ウザイもの」に化けて「障礙する"obstract"作用」があるという考え方(平等の慈悲を支える修行にもなる)を脚注に記してある。
普く一切に通じている法、その象徴を萌えキャラ・菩薩として説く。
大乗仏教、方広の道・方等の義・方便の儀において、二千有余年ないし無量劫、続いていることと思う。
有漏の心・我が身にとって、ありがたい麁法(粗末な教え)とも妙法(微細な教え)とも言える。



改めて、この自作の偈(漢詩)を載せる。
「菩薩爲度衆生故 寧兼麁業示甘露 從萌道廻向佛道 當持萌相明大路」
呉音読み: ぼーさつゐーどーしゅーじょーこー、にょうげんそーごうじーかんろー、じゅうみょうどうゑーこうぶつどう、とうじーみょうそうみょうだいろー
訓読: 菩薩は衆生を度せんが為の故に、寧ろ麁業を兼ねて甘露を示す、萌道より仏道に回向するに、当に萌相を持(たも)ちて大路を明らかにすべし

萌え話記事における萌集記・イデオフォノトピア三会には、十喩に通じた箇所がある。
時に天、威力を現す。虚空に雲を集めて文字と為し、列ねたまわく
「こだまですか いいえ こころです かがみですか いいえ こころです」と。
十喩において、「こだま」とは響であり、「かがみ」とは鏡・映像であり、「こころ」に通じさせる。
心は物事を自由に映す。
これは先の「唯心所作・一切唯心造」とか、唯心偈の「心如工畫師・畫種種五陰」と同様でもある。

ほか、「現代の十喩」という構想には「円周率、π(過去記事説明)」を加える案もある。



起草日: 20170716

壁のサンスクリット語・パーリ語…当記事中で「阻むもの(物質・精神ともに)」"prākāra pl: pākāra"、「塀」の意味合いがある形としての"kuḍya pl: kuṭṭa"があり、両者がパーリ経蔵に"tirokuṭṭaṃ tiropākāraṃ (後述引用の石壁皆過という漢文に相当)"と散見され、"bhitti (bhittiyā)"はパーリ相応部・22蘊相応100経で"suparimaṭṭhe phalake vā bhittiyā vā dussapaṭṭe"として「絵画"pl: citta"をよく磨かれた板や壁や白い布(キャンバス)に描く」とある。これに関連すると思われる梵文俱舎論には"citrakṛtyavat (真諦訳: 譬如畫色與壁 玄奘訳: 如壁持畫)"とある。

「壁」に関する表現(慣用句)の一例として「壁が立ちはだかる(阻む)」というものを挙げた。
ちょうど、「障害となるもの・障害をなすもの(障碍・障礙)」を意味する"obstacle"の語源はラテン語の動詞"obsto (obstō オブストー)"であり、接頭辞ob-、一人称動詞stoである。
つまり、「obsto = 何者かの前に立つ(obsto形よりもobstare形の意味合い)」であるから、「壁が立ちはだかる」という時の「壁」は「何者かの前に立つ」という状態である。
それが転じて、「妨害する」という意味にもなり、現在の英語の名詞"obstacle"も同様に「前で立って"sto, stand"邪魔をする・妨害するもの」というニュアンスで用いられる。
日本で用いられる表現と、ラテン語由来の英単語の共通性について述べた。

この"obstacle"や"obstruction (ちなみにラテン語一人称動詞はstoでなくstruo)"を「障害となるもの・障害をなすもの・障碍・障礙」という意味で捉える際、梵語系統の語句を求めると、記事タイトルと本文中に挙げてある"antarāya, pratibandha, sambādha"がある。
このうち、"pratibandha (梵語経典より)"と"sambādha (パーリ語経蔵より)"とは、件の尊者名義談の注釈文に「語根の梵√bandhや巴√bādhとして、connectionの意味がある」と綴ってある。
"connection (接続・繋ぐこと)"という意味では「縛(ばく)」とか「繋縛(けばく)」という漢語があるが、その語根√bandhといえば、bandhantiとかbandhana (बन्धन)とも言う。
bandhana...、まさしくバンダナである。
頭を「縛(ばく)」する物「バンダナ"bandana"」、語源はヒンディー語もといサンスクリット語(ヴェーダ系)であった(軽くググると世間の説でバンドゥヌ"bandhnu"とあった)。

似たようなもので「バンド"band" (リストバンドとかバンドエイドとか)」といった外来語もあるが、これの語源が梵語・サンスクリット語・パーリ語と通じ、印欧祖語 (語根*bʰendʰ-)が共通するかは不明である。
印欧祖語の解釈では、接着剤の「ボンド"bond"」も、バンドやバンダナと同語源となろう。
ボンドは「(物同士を)接着する」という機能を期待して名付けられ、接着(接ける・着ける)とは、文字通り、「繋ぐ・接続する"connect"」という梵√bandhや巴√bādhの語根と同じ意味を兼ねる。
"bandhana"の漢訳語句と思しき「繋縛」とも通じている。
「繋縛」の動詞「繋縛する」とは、英語圏で"to bind up"と訳せられるが、この"bind (バインド・ビンド)"も同語源であろう。
何にせよ、漢語の「繋縛」と「障礙」とは、英語でも梵語でも語源が同じと考えてよい。
日本人の知らないうちに、バンド・バンダナ・ボンドといった語句で、微妙な浸透があった。

※なお、antarāyaは「中間の~」を意味する形容詞"antara"で、何物か両者に介在するものを指して「障礙」を意味し得るので名詞化して「障礙」と用いられる。このほか、語根√vṛに通じた「覆う・覆い隠す・囲む・遮る」という意味から「障礙」と用いられる"āvaraṇa, nivṛta (後者は接頭辞の解釈により無覆と反対の意味にもなる)"もある。語源不明のものでは"kiñcana"も障礙を意味する。



後半で萌えの法門に寄せても語った。
こちらについても言語学的に解釈する。
萌えとは"moe, moye (Historical Kana)"であり、幻(ja: maboroshi) "skt: maya, māyā"と似る。
当記事で、十喩にもある「幻"māyā (マーヤー)"」と萌えとの関連性を説明し終えた。
幻 māyāは 魔法 magic (マジック)といえる。
萌えキャラ"moe-chara, character"は萌えの人"moe person"である。
幻の人・幻人は"skt: māyā-puruṣa"というが、purusa, puruṣa (プルシャ)とは英語のperson (パーソン)と似る(古代ギリシャ語のπρόσωπονも参照。英語のpersonはラテン語でpersona ペルソナだが非印欧語のエトルリア語源説あり)。
英語(ラテン語)・サンスクリット、子音p, r, s (細かい発音の差異はともかく)が一致する。
日本語の人(ひと・hito)もまた、古くは"fito←phito←pito"という発音であり、印欧系言語と意味や韻頭pが一致する。
つまり、萌えの人"moye pito, maborosi pito (Historical Kana, Ancient Japanese)"とは、 "magical person (la: persona magi, persōna magī)"であり"maya purusa"である。
日本語・英語(ラテン語)・サンスクリット語・・・、みな頭文字がm, pで一致している事実に驚いた。
この話はダジャレ・牽強付会・荒唐無稽のようでもあるので、無視してよい。



後の記事(2017年7月28日起草のもの)の加筆段階にある8月11日の調査中、大品般若経の「十喩」にある「化」に関して梵語分析を行った。
当該記事に加筆した箇所を引用する(このうち梵語分析は後半にある)。
※当該記事のテーマは 、「物をはかる"mita (ミタ)"」と「心をはかる"pramāna (プラマーナ)"」と認知した2つのサンスクリット語句の相違点と共通点とを調べることである。

 「化(け)」とは、「何かが化けたこと」・・・、幻のようなものであるが、十喩を注釈した大智度論(巻第六)によれば心が変化(へんげ)したもの(所変)らしい。心が、現実性に則った想像をすることも、非現実的な想像をすることも、「心如工画師」というように自由自在であるから、三つ目の人や四つ腕の人(視覚的事物に無し)も生まれる。その「化・変化心」ということの結果(所変)を、大智度論が「一身能作多身、多身能作一。石壁皆過、履水、蹈虛、手捫日月。(水が火に変わる・石が金に変わる=魔法も錬金術もある)」と説明している(類似の教説は長阿含経の自歓喜経・阿摩昼経・堅固経パーリ長部の沙門果経など)。大智度論では「十四変化心」として、四禅の初禅に二つの変化心があって第四禅までに一つずつ増える(2 + 3 + 4 + 5 = 14)というものを説明するが、仏教で梵天(単一の神ブラフマー・梵王でなく住処と住む者全般の名であり住む者を梵天衆とも呼ぶ)などが禅の天であるように、仏教の神様たちは四禅に代表される心の中に住んでいるようである(神道で物や人が神となる、応神天皇に合せられた八幡神やナニナニ権現なども心の変化の一種であろうから仏教の護法善神信仰になじむ)。いわゆる仏教経典で原始仏典でも大乗経典でも登場する「神通力・神変」ということの根拠と成り得る(子供騙し・おとぎ話ではなくそういった心の因縁の理法を踏まえている)。有名なオウム真理教の尊師・麻原彰晃が、坐禅しながら空中浮遊(例の写真)・幽体離脱(アニメ、サティアンにいながら外の信者を監視)することも、似たようなシーンや神通力(神足通・他心通など)が仏教経典に登場するわけだが、それらも、心の因縁の法から説かれる(オウムの場合は信者の心を掴む手段による創作の意図が強いか)。

 少し煩雑な説明をしたが、その「化」とは、梵語で"nirmāṇa, nirmita"となるように見ている。おおお!!!接頭辞nir-を省けば、ミタちゃん√mitとマーナちゃん√māに変化するぞ!接頭辞nir-は、否定を意味する場合と、離れること(vi-と似る?)や外へ(upa-に似る?)を意味する"nis"の音変化(両唇音vやmの前にあることが条件か?)の場合があるようで、"nir- + √mā"から成る単語は「作る」という意味を持つ。√māとは、「心をはかる」として心の内で思うことだから、接頭辞は後者の"nis- 変化nir-(心の外へ・心を離れて)"で、「心の外に作って他人に見せる」という意味を持つと思われる。それが「化(け)」や「化作(けさ)」という漢語にも成り得よう。

当該記事の後の説明にあるよう、√mitという動詞語根は無い。"mita"は√māの過去分詞である。勉強の途上であるという意思を示す記述となる。

つまり、いわゆる「三身(法身・報身・応身 "trikāya、トリカーヤ")」のうち、応身や化身や応化身とよばれる"nirmāṇakāya (nirmanakaya、ニルマーナカーヤ)"ということも、「真理一法・一念(刹那 "kṣana")心・一心"ekacitta"」という過去・現在・未来に不可得"nopalabhyate"で言語道断心行処滅の心に、映えた諸法を意味しよう。
諸法は、そんな「一心(非有非無)」の化"nirmāṇa"である。
不可得だが仮想できる真理一法に結びつく、応身"nirmāṇakāya"である。

大智度論所説の般舟三昧経「三界所有皆心所作。(賢護経では今此三界唯是心有)」
六十華厳経・十地品の「三界虚妄但是心作。十二縁分是皆依心。"skt: te cittamātra ti traidhātukamotaranti api cā bhavāṅga iti dvādaśa ekacitte"」
以上は「萌え和讃・解句抄」の記事でも引用済みである。
般舟三昧で見られた仏も、十地の現前地に示された十二因縁も、心における応身のようであり、それは心が生んだ虚妄であり、そうして虚妄の側面を知るので真実の側面を知るということとなる。

龍樹菩薩の求めた「第一義"paramārtha" (第一義諦・勝義諦・第一義悉檀)」や、世親菩薩の求めた「阿頼耶識"ālayavijñāna"・・・善悪二面的、阿摩羅識"再構: amalavijñāna" (八識・九識)」は、まさしく一心の無明を法性(仏性)に転じたものである。
例えば、コインの表・裏は有るが、表裏という区別は仮想概念に過ぎず、真実のコインは裏表が無くてコイン自体も存在しないようである。
一心(コイン)には無明(表)も法性(裏)も無く、一心すら別概念の構築・依存(因縁・空)による仮想概念で無存在だが、それを知りながらも、あえて言葉にする(中道)智慧が仏のようである。

日蓮宗系(特に日興門流)では、法身たるべき一法(不可得の心)を「南無妙法蓮華経」と呼び、それを知った報身たるべき智慧を「久遠実成釈迦如来(久遠元初の自受報身)」といい、応身たるべき一切を「法華経のあらわれ」というようである。
総勘文抄「此の心の一法(筆者: 法身)より国土世間(筆者: 応身)も出来する事なり (乃至) 然れば八万四千の法蔵(筆者: 応身)は我身一人(筆者: 報身、経に出現する仏を知って尊ぶのも嫌うのも人の智慧の所作)の日記文書なり」
日女御前御返事(建治三年?弘安二年?)「此の御本尊、全く余所に求る事なかれ。只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり。十界具足とは十界一界もか(欠)けず一界にあるなり。之に依つて曼陀羅とは申すなり」
※上述御書二篇の偽書説はともかく、鎌倉時代以後に素晴らしい道理に目覚めた聖人がいることは確かである(文献学でいう最古経典スッタニパータ4章・法華経・大乗涅槃経・根本分裂・中論・三一論争・鎌倉仏教・日蓮門下など思想対立や迫害の歴史は釈尊の往古インドより東遷して繰り返される。不戯論・無諍法をみな求めていた)。

ちょうど、真言宗の人が法身たる大日如来に「法身説法」などという報身属性や「遍満している・大日如来のあらわれ」という応身属性を付けていることや、浄土教で応身たる阿弥陀仏に「法身の弥陀・報身の弥陀・インドに応現した釈尊」などといった三身観を立てていることも、心(行為の主体・智)と法(対象の物事・境)を言い換えたものである。
本来の大日如来(毘盧遮那仏、真理を擬人化したような譬喩・有名無実の仏)や阿弥陀仏(東方善徳・西方弥陀というように応身諸仏の一端であり釈尊の仮説分身)の在り方を、後世の「精巧な三身"trikāya"教義(三身即一・不一不異の義の成立)」に結びつけて自宗の正義を顕揚したいので、彼らはそう(法身説法遍満大日・法身弥陀久遠実成阿弥陀如来)主張するが、実には「仮名(けみょう)」があるのみで、他宗への説得性に欠いてしまう。

※法身説法(実は報身・応身)=仮名仏非仏の仮名法身大日如来にある仮名ニセ三身。法身・報身の弥陀=釈尊分身のような仮名応身阿弥陀仏の仮名ニセ三身。実際に成道せられた釈尊にのみ三身即一を見ねばならないが、それもあえて釈尊"śākyamuni"の仮名を付する必要が無いと思う一面もあり、無三無一(不一不異)、無仏無非仏として中道の戯論寂滅となる。釈尊滅後どうしても教義の違和感を持ったニカーヤ仏教徒が議論をしたため、大乗教団ならびに龍樹菩薩や世親菩薩など大徳は「(本来不要な)正論」を唱えた。世智弁聡の人の不満を解消するための「方広・増広」が大乗の義である。小乗たるテーラワーダの人は十無記に従って如来の身"kāya"を詮索せずに修行し、大乗の極みである浄土真宗の人は本願を信じて法論せず愚直に念仏すればよい。

一という「法身」、一切という「応身」、との見方については仮定である。
別の仮定をしてみると、法身は無来無去のようであって一即多・非一非一切ともいえ、報身は作用ある「一心」であり、それを観察対象とすれば不可得の法身となる一面もあろう。
そんな鏡のような「一心」に映された諸法はまた幻のようで、仏さえもそうであれば、まさしく諸法も仏も萌えも「化(ニルマーナ)」の応身(ニルマーナカーヤ)となる。


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