① 問題点を露出させる、
② 解剖学ないしスポーツ科学のような知識で詳細に分析する、
③ ②の手段を兼ねて具体的に舞踊・武術を考案する、
④ エビデンスを得る、
概要・抽出 (abstract) としてこのように考えられる。
「開発 development」では、②~④が無制限の繰り返しになると思う。
定義の起点がどこか曖昧になりそう(循環論法になりそう)だが、あくまでも「舞踊・武術」と私が想定する運動の行為が開発結果である。
科学的な方法論 (scientific method) に則る場合、形式的にこれが妥当であるが、もちろん、形式的な範疇である。
もっとも、ここでは最初に目的や目標を明確に定め、その世俗的な実用性を制約している点で科学史にある偶然性の側面と対をなす位置にある。
何らかの物質や現象の発見について、それはそう実証される限り、相互の善悪や差別は無い。
発明 invention という点でも、ここで限定的な実利を定義していることから、未知の可能性は切除されていて、過去の「偉大な発明・発明品および発明家 inventor」として称えられる事績・事物および人物に及ぶことは有り得ない。
次は、具体例である。
2019年10月22日に、私の生活における身体的な問題点や衰弱・老化現象に関する思考の中で、にわかに思いついた/ひらめいた運動または舞踊・武術の一種がある。
①と②を含むように、2018年から続く右足小指の問題と、デスクワークなどで使われづらい筋肉がある問題などを、問題視した。
③のように、にわかに思いついた/ひらめいた運動または舞踊・武術の一種は:
・股から足首までの脚を開き、上半身はそのうちの一方に向き、その状態での後ろにあるつま先が直角の方を向いているように、立つ(何かしらの有酸素運動というかエアロビクスやエクササイズやダンスなどで基本的な姿勢の一種だが名称不明)。
・両脚の小指に、普段よりもバランスの重点を置いて/力を加えて立つようにする。
・腰を動かしながら手の指先をビロビロと動かす。
という動作が反復されるものである。
④のためであってもなくても自分で試す場合に、短時間でやりすぎないように注意しておきたい。
どれほどの期間に1度行い、1度にどれほどの回数で行うかを研究する過程などは、③と④の相互作用になろう。
1度とは一定の時間のまとまりを表現したものである。
動作は光や音のような波 (wave) ・振動 (oscillation) という周期的なものとして考えるとき、秒間の反復の回数=周波数 (frequency) がいくらかということも数量化することができる。
回数の基準は、その周波数のように + 側のピーク peak から - 側のピークを介してもう一度 + 側のピークに戻ることで1回とする。
この動作の場合、1秒あたり2回=2/s (秒間2回)が速い部類になる。
もし1秒以上に及ぶ動作の場合は10秒あたりn回=n/Ds (デカ秒間n回) で数量化する。
回数または速度として 2/s (2 Hzとも) でこの動作をする場合、私については10分ほど続けると身体的な害に達すると見込まれる。
参考:最も大きい振れ幅の動作は4秒に1度の反復をしているアニメーション。その間、もっと小さい振れ幅の動作が速く反復する。ここで「大きいものは腰の動き、小さいものは手の指の動き」として当てはめて考える。 from Wikimedia commons (CC0, PD) |
固定的な運動または舞踊・武術のワザとするにしても、これはやはり問題点に相対する限りで有効であることが立証されればよいものであり、何か崇高な体術とすることにはならない。
流派の開創を意図するものでもない。
目的に対応した手段、対症療法ということが、表題に書かれるような前提にある。
個々人の自覚的な問題点のための、自発的な解決方法として、筋道①~④が理解されればよい。
考え直すと、仏道修行の基本的な姿勢(e.g. 過去記事に幾度も示されるカーラーマ経の要旨『パーリ経蔵・増支部3にある"Kesamutti Sutta(通称: カーラーマ経)"は、様々な哲学・宗教・学問・社会などの思想"vāda"や常識や見解や理論や教義について、やはり仏道修行者は「三毒によって"具格: lobhena, dosena, mohena"諸々の悪行を為すという苦"dukkha"が無く、自分の心の安楽やそのための修行に資するかどうか」という点に基づいて用捨を判断せよ、と釈尊が教示していた。自分が三毒の無い状態"alobha, adosa, amoha"となりえるならば、いかなる見解や理論や教義でも用いてよい善法"kusala"であると。』や大智度論の四悉檀など)に近いようである。
哲学だと、道具主義とも実用主義とも言われるプラグマティズム (pragmatism, 個々の哲学者でいう誰の思想に近いかは詳しくないので不明) のようでもある。
これは科学的な方法論である以上に、合理的に冷めた印象のある技術開発の理念 (philosophyの一義) を説いたものと思うべきか。
当記事の「舞踊・武術」の実演動画 (2019年11月8日撮影) https://youtu.be/kueKZEj-HJ0
総論と注意点
固定的な運動または舞踊・武術のワザとして開発が完了されても、問題点に対する意識を失わないことが人間的である。
「任意の現象が問題点である」としての自覚と治療と予防も、人間の一心から願われて保持されるものである(自覚・反省・努力に同じ)。
その心があるときに、生活習慣の見直しなどが伴うはずである。
私が「ひきこもり」である立場では、当記事が「ひきこもり科学(引きこもり科学)」の技術開発部門を示していると考える。
④の方法は、私に協力者がいないし協力を募ることもしないので、自分で行い続ける限りの方法のみがあることになる。
一般的な技術開発では複数の被験者・サンプルが必要になる。
ところで、それで単独でも複数人でも、「偽薬、プラセボ、プラシーボ効果 (placebo, placebo effect)」ということは一つの注意点になることも忘れてはならない。
「何かをし続けること」が、幾らか自尊心のある人にとって「自分が行うこと=自分が信じること」というそれ自体の目的性と帰属意識に繋がり、その尊さが形成されるならば、その分に良い効果がありうるものである。
場合によっては、実際の効果を問わずに認知バイアス (cognitive bias) を起こす場合もある。
④については、可能な限りに実験的な調査をすべきであるとしても、調査の経緯や調査結果に対して非常に慎重である必要がある。
仮に④で、①の問題解決という期待された結果・エビデンスを得たとしても、その舞踊・武術のワザが原因の性質を持っていることの証明はされない。
科学的思考には、反証も付きまとう。
任意の運動行為は、先述の通り、やりすぎると悪影響・副作用(adverse effect 先述:身体的な害)がありうる。
野球のピッチャーによる投球の多さと肘・肩の損傷の関係(投球数制限が少年野球と高校野球の脈絡で挙げられる)が著名の例として知られ、現代の人権的な観点で「やりすぎないように」すること(関係ないが類例には熱中症の危惧がある炎天下での練習や後遺症の危険を伴う運動会の組体操の大技などもある)は日本国内で進められている。
これは単に、社会的な話(議論が多いために一般人が議論に貢献できないもの)の例示である。
運動による治療法の良し悪しを確定させる際には、その条件や反対の要因の排除が明示されている必要がある。
起草日: 20191022
私に「舞踊(alt. 舞踏)・武術(martial arts, alt. 武芸・武闘・武道 ※道については思想上の意味が付加されやすい)」が関係する要素は、2012年以降、動画投稿活動の一環で出現している。
一人物からの影響であるが、一般的に舞踊・武術が動画の見栄えとしてはよくなりうるので、しばしば動画の題材にしていた。
表向きの投稿において:
2012年の投稿例に『いじめてくる不良を明日から撃退できる武術』(本家チャンネル)がある。
https://www.youtube.com/watch?v=H8NrYe1PEZg
最後である2017年の投稿に『長髪のお兄さんが半裸で動きまくる (資料映像3)』(日記チャンネル)がある。
https://www.youtube.com/watch?v=d39t9EoTMsc
これら投稿物における演出は、記事末尾である場所における個人的な身辺の事情の説明なので、記事本文の論旨と関係ないことが明白である。
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あしからず。
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