2017年3月8日水曜日

物質的自然法則と「念」の在り方の一考

観萌行広要に「人間の性質として悪の側面もあり、いくら善良な念を保とうとも諸行無常の故に薄れてしまい、対比して煩悩や愚癡の(心の)悪魔が顕在化するため、仏教的理解の利剣・破邪の剣を片手に携えねばならない」と書いた。
そもそも仏教用語の「念"smṛti, sati"」とは、簡単に言えば、何らかの意識を保持して忘れないようにしたり、注意すること・気を付けること(気が付くこと・気づきではない)を意味する言葉である。
ここでは、観萌行大要の原文に示されている何らかの「善良な念(萌相や萌義に対する喜びなど)」を指している。
念という精神の状態と作用の完璧な維持は不可能であることを前提に、その精神の状態と作用が崩れつつある時は智慧によっていくらか元に戻す手段を説明している。

科学ではエントロピー増大則があり、自然現象としては刻々と変化してゆくという法則を免れられないから、人間が手を加えることで修正ができることを説明する。
無論、分子レベルで100%同一のものに戻すことなどは不可能であろう。
数字・理論で構成されたコンピューターの世界であれば、情報を擬似的に変化させつつ、擬似的に戻すことができ、理論上は100%同一のものに戻せる。
例えば、ある人がモニタ画面・ディスプレイにR = 255, G = 255, B = 255の真っ白画面を表示させ、それをR =0, G = 0, B = 0の真っ黒画面に変化させ、再びR = 255, G = 255, B = 255に戻すことは、それで理論上、100%白の画面を100%黒の画面に変えて戻すことが成立している。
しかし、モニタ画面に出力されたものとしては、液晶・ブラウン管の構成物質や発された光などの条件が微細に異なっているため、この観点で100%同一のものでない。
ましてや、そのようなものを人間の目を通して捉えたものとしては100%になることはない。

物事に「100%」を言う場合、ある一面についてを指すものでしかないと思ったほうがよい(アルコール度数0%ビールとか果汁100%ジュースという製品の表示も"許可表示"であって実質的数値とは言いづらい)。
100%云々については「理と事」について語った記事の通りである。
90%や、99%や、99.999...%の再現ができても、物質の分子レベルの在り方や時間上の同一性を問うた時、どうしても100%になることはないという。
基本的に「100%」という表現は、そういった厳密な定義や微細な条件を排除した便宜上のものであるが、大概の場合は、そういった観点での100%か否かを気にしないであろう。
物事の予知(予測)において「確率は0%だ、100%だ」といった断定も、ある特異な条件(人の死・地球崩壊など)を排除した場合に言われる推量・推断の域を出ないと留意すべきである。

コンピューターの世界の中(理論上)では永遠に変化なく存在させられる情報も、本体が変質したり壊れたり、情報を利用する人間が脳内で捉えた情報や人間自身が死ねば存在は無も同然であるから、永遠に変化なく存在することは無い(半永久的であるという)。
昔のゲームはシンプルであるから理論の要素が極めて高かったわけだが、2Dのドット絵にせよ3DのCGにせよ、「止まらない噴水」があるとし、その水は理論(プログラム)から生じてモニタに出力された「幻」なわけだから、水源無くしてひたすら幻が生じ続けている。
この水の形をした幻は、ゲーム内に「停止スイッチ」などが存在しない限りは止められず、噴水の部分が破壊可能なオブジェクトでなければ破壊されることもなく、永遠に水が流れ続ける。
噴水の部分が破壊されても、ゲームによっては、破壊されたところからも何らかの設定で水が湧き続けることとなる(この場合は水のグラフィックを別に設けて破壊に応じて消えないようにしている例と噴水の下に水源を想定している例とがある)。
ゲームの世界では、滾々と幻の水が生じ、延々と流れ続ける(有始無終?)。
私がゲームの世界の住人ならば、固定的な実体「我・自性・アートマン」か絶対的な法則が有るとみなすであろう。
それはまさにコンピューター理論がその「実体・法則」となろうが、それすらも本体となるソフトウェアやハードウェアのどちらかに問題があれば成立しなくなり、ある意味では「人有我・法無我」のようである。



話を戻す。
仏教でも諸行無常(行=心行を含む)を説き、心の念は壊れやすく、どうあっても保ちがたいもので、世間の実相に顕在的な法則であるものだが、仏教の理解で半永久的(生命が維持される範囲内)に持続させられる利益が説かれる。
非常に難しいことではあるが、仏教を学んだり実践する努力で、その崇高な境地を目指してよい。
霊長類が現生人類(猿人・原人・ヒト属ヒト種)へ進化することによって知識や欲望や感情を得て意思から種々の行動を比較的自由に行える能力を得たように、個人も仏教の理解によって自由な心の境地が得られるとよい。
そこで、「仮設エッセンス」の価値も成り立つ。
努力の継続=修行の精進とは、仏教知識のみならず、仮設エッセンスも重要である。
観萌の行・萌えの法門においては仏教の理解と、「内蔵萌心の自覚・持続(仮設エッセンスに相当)」を要している。

平等の心が泰然として据わった時、仮設エッセンスも忘却されて泰然自若の姿が出来ているのかもしれないが、それは仙人もどきであり、大乗仏教ではあまり理想的でないかもしれない。
人間として生きている間の悟りは、たとえ終生揺れない悟りであるとしても絶対的とは言えず、「仮」の域を出ない(先ほどの100%の考察と類義)。
仏・菩薩のように、力の限りに法を説き続けてゆこう。
よくよく慢心を制御しながら。

心に誓ったことも保ちづらく、仏教の知識というもののありがたみさえも損なわれやすい自分は、常に恐ろしく感じる。
せっかく感動した・歓喜した教えにも、「自分が記憶・認識し続けるもの」としては誤解・顛倒が伴っているのではないか、という悪い「疑い」が起こってしまうときがある。
正念を失っている状態であろうか。
それが一過性であり、すぐに智慧の心を目覚めさせたい。



起草日: 20170111

仮設エッセンスが念として作用し、念が日常生活の中に生きることを説明した過去記事がある。
およそ、仏教徒の生活・仏道は、各々異なりがあるとしても、そのような念が活きており、八正道を行くための杖となろう。
諸々の所作、一挙一動、五感に捉えた物事の全てが仏を意識させ、四念処と呼ばれるような想起がある。
http://lesbophilia.blogspot.jp/2016/09/blog-post-20.html

2 件のコメント:

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    1. 同年代から自然と良い潮流が起こることは望んでいます。
      厭世的な運動みたいになることは望みません。
      過去記事にもいくらか似たような考えを綴ったことはありますが、例は以下です。
      2014年10月10日 『ニートの新世代「ネイティブニート」を提唱!』
      http://masashi.doorblog.jp/archives/40633597.html

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