2018年9月9日日曜日

日本語「いかにいわんや(何況)・ましてや」と梵語・ラテン語・英語の共通点

尊者自説偈(萌集記)の2句目に見られるフレーズ"kaḥ punarvādo"および異版の"kimaṅga punaḥ"と、その訳語「いかにいわんや(何況)」に関する考察を行う記事。

"kaḥ punarvādo (元kaḥ punarvādaḥ)" कः पुनर्वादो は、疑問文であり、主に反語表現として用いられるフレーズである。
このフレーズで一つの副詞句"adverbial phrase"を形成していよう。
尊者自説偈では、このフレーズが、後続の"me muniḥ (我が牟尼である)"に掛かっている。
そこでは「我が聖(牟尼)が~について劣るであろうか?(疑問文・反語表現)」=「いわんや(前句の一切"sarvadharmā"よりも・増して)我が聖(牟尼)の〔前句の不可量"aprameya"〕なることをや」または「言うまでも無く(前句の一切"sarvadharmā"よりも・増して)我が聖(牟尼)は〔前句の不可量"aprameya"〕について尚更である」と意味する。

※語の原形を用いて詳細に説明すると、kas 疑問代名詞・男性単数主格、punar 不変化詞、vādas 名詞・男性単数主格=先行vādasに一致させられている。直訳で「何か・復た・言うこと」。日本語の「…言えば更なり(ただし世間では"言わずもがな"がその用法で定着した)」と似る。ほか、後述の"kimaṅga punaḥ"は、同様にkim 疑問代名詞・中性単数主格、aṅga 名詞中性主格=先行kimに一致させられている、punar 不変化詞。直訳で「何か・支え(一応の意味だが詳細を後述)・復た」。こういった語句の構成で、特定の意味としての用例がある。後述の古代ギリシャ語など西洋言語とも似るので、その詳細を本記事で考える。



尊者自説偈の元の漢文に、当該箇所は「何況我大聖」とある。
これを訓読すると「何に況や我が大聖をや」となるが、更に現代語で直訳すると「どうして(なぜorどのように)言うべきであろうか・我が大聖のことを」となろう。
※「何に→いかにorいかにぞ→どのように→どうして」、「況や→いわんや・言わんや(言おうか)→言う+助動詞「ん・む」推量形≒義務形→言うべきであろうか(言う必要があろうか)」という意味論的"semantic"な解釈がある。稀に「何をか況や」という訓読も見られるが、それは別の慣用句「何をか言わんや(何を言おうか?何を言いたいか?=あなたが言いたいことは何なのか?)」と混同した近現代の誤訓読であり、原文の漢語・梵語の意味に合わない。
※「いわんや」の「や」は疑問の係助詞であるから、「いかに況や~を」で終える方が合理的(形式的理論に則っている)だが、況フレーズ訓読に限って「いかに況や~をや」として疑問の終助詞「や」を付けるという疑問助詞「や」の重複がされる。もし日本語の語順に合わせたならば「いかに~を況や」とされたろう。なお、無関係の慣用句「何をか言わんや」も疑問助詞「か」と「や」との重複がされる。言語を用いる者の語感に任せて重複が好まれたと思われる。

"kaḥ punarvādo (元kaḥ punarvādaḥ)" कः पुनर्वादो は、サンスクリットの仏典に見られる。
それは、漢訳経典で「何況(かきょう、かこう Pinyin: hé kuàng, ZZ式上古音: /*ɡaːl hmaŋs/)」と訳されることが多い。
Saddharmapuṇḍarīka Sūtra と二つある漢訳(1. 竺法護 2. 鳩摩羅什)、法華経譬喩品"Aupamyaparivarta"
Saddhp_3: anenāpi bhagavan paryāyeṇa tasya puruṣasya na mṛṣāvādo bhavet | kaḥ punarvādo yattena puruṣeṇa prabhūtakośakoṣṭhāgāramastīti kṛtvā putrapriyatāmeva manyamānena ślāghamānenaikavarṇānyekayānāni dattāni, yaduta mahāyānāni
1. 隨其所樂許而賜之。適出之後各與大乘。以故長者不爲虚妄。究竟諸子志操所趣。故以方便令免患禍。況復貯畜無量寶藏。以一色類平等大乘賜子不虚。
2. 世尊。若是長者。乃至不與最小一車。猶不虚妄。何以故。是長者先作是意。我以方便令子得出。以是因縁無虚妄也。何況長者。自知財富無量。欲饒益諸子等與大車。

同じく法華経法師品"Dharmabhāṇakaparivarta"
Saddhp_10: bahujanapratikṣipto 'yaṃ bhaiṣajyarāja dharmaparyāyastiṣṭhato 'pi tathāgatasya, kaḥ punarvādaḥ parinirvṛtasya ||
1. 如來現在有聞斯典。多有誹謗。何況如來滅度之後。
2. 而此經者。如來現在。猶多怨嫉。滅度後。
※「猶、況」の虚辞"Syntactic expletive"・相関"correlative"似の構文は、現代中国語でも「尚且、何況(簡体字→何况)」の形で継承される。日本語でも形式的に「~でさえ○○(だから・なのに)、~はなおさらだ」という言い方で用いられる。

Vimalakīrtinirdeśa Sūtra と三つある漢訳(1. 支謙 2. 鳩摩羅什 3. 玄奘)、維摩経見阿閦仏品"Abhiratilokadhātvānayanākṣobhyatathāgatadarśanaparivarta"
Vkn 11.8: teṣam api satvānāṃ sulabdhā lābhā bhaviṣyanti, ya etarhi tathāgatasya tiṣṭhato vā parinirvṛtasya vemaṃ dharmaparyāyam antaśaḥ śroṣyanti | kaḥ punar vādaḥ, ye śrutvādhimokṣyante pratyeṣyanty udgrahīṣyanti dhārayiṣyanti vācayiṣyanti paryavāpsyanty adhimokṣyanti pravartayiṣyanti parebhyaś ca vistareṇa saṃprakāśayiṣyanti bhāvanāyogam anuyuktāś ca bhaviṣyanti |
1. 在在人人聞是法者快得善利。聞是語不好信。 (支謙による古訳なので参照された原典が後世のものとかけ離れた内容だったか彼の訳の特徴が出たかと考慮すべし)
2. 其諸衆生若今現在若佛滅後。聞此經者亦得善利。況復聞已信解受持讀誦解説如法修行。
3. 其諸有情若但聞此殊勝法門。當知猶名善獲勝利。何況聞已信解受持讀誦通利廣爲他説。況復方便精進修行。 (最後の"況復"は"ca"を意訳したものと見られる)

Kāśyapaparivarta (-sūtra) と四つある漢訳(1. 支婁迦讖or支謙 2. 失訳者名 3. 失訳者名 4. 施護)
KPV.125: dharmato 'pi tathāgataṃ na samanupaśyati kaḥ punarvāda rūpakāyena
1. 於佛法亦不著。何況常著色。(訓:仏法に於いて亦た著せず。何に況や常に色に著するをや)
2. 如法者。不見如來有色身。(訓:如法とは如来を見ざるなり。況や色身あるをや)
3. 以正法身尚不見佛。何況形色。(訓:正法身を以て尚お仏を見ず。何に況や形色をや)
4. 於彼法身如來明了通達。無其見取。亦不言論色身離欲。(訓:彼の法身に於いて如来は明了に通達して其の見取無し。亦た色身を言論せず欲を離る)
※漢訳の4(漢文の区切りは大正蔵のままにして掲載・訓読)について2点、気になる。まず、梵文や他の訳3つと意味が異なる。次に、恐らくpuna訳語と思しき箇所が「亦=また・api; ca系」であって「復=また・puna系」でないことである。例のフレーズ訳語は亦不言論に加えて亦不論量亦不議論ともされていて一定でないが、「亦」がpunaに対応した用い方は一貫する。
※チベット語で"ལྟ་ཅི་སྨོས (lta ci smos)"という「何況」は後で説明するが、上掲文のチベット版は"de de bźin gśegs pa la chos ñid du yaṅ mi lta na gzugs kyi skur lta ci smos"とある。



例のフレーズは、ヴェーダ・バラモン系の聖典には見られない。
類義フレーズ"kimaṅga punaḥ" किमङ्ग पुनः の方は、ヴェーダ・バラモン系の聖典にも見られる。
このうちの"kimaṅga"は、サンスクリットの辞書にも紹介される
アプテ説"(aṅga अङ्ग is) used with kim किम् in the sense of 'how much less', or 'how much more;' śaktirasti kasyacidvideharājasya chāyāmapyavaskandituṃ kimaṅga jāmātaram ṃv.3; tṛṇena kāryaṃ bhavataśvirāṇāṃ kimaṅga vāghastavatā nareṇa" モニエル=ウィリアムズ説"aṅga अङ्ग ind. kim aṅga, how much rather!" シャブダサーガラ?説"aṅga अङ्ग (-कत)¦ r. 10th cl. (aṅgayati अङ्गयति)  1. To mark. 2. To count. See aṅka अङ्क"
※以上3説において、IASTとデーヴァナーガリーとを筆者が便宜的に併記した。太字boldも一部に筆者が便宜的に付与した。
※"kimaṅga"における"aṅga"の意味は、いまいち掴めなかったので、中性疑問代名詞"kim"と結びつけられて慣用句・イディオム化したものかと解釈してきた。そこで、より強引に解釈したい。もしaṅgaがaṅka(数"number"など)に関連する単語ならば、kimaṅgaは後述ラテン語"quanto magis" 英語"how much more"のように数・数える行為・多寡・増減・分量・量性"quantity"に関する意味である。ただし、未だにkimaṅgaは2語のサンディ形なのか不変化複合語・隣近釈(avyāyībhāva)なのかも判然としないことや、aṅgaをaṅkaに関連させるならば「aṅkaはパーリ語で数に関する用例が無かろうこと・印欧語の同根語=古代ギリシャ語ὄγκος, ラテン語uncusにも数に関する意味が無かろうこと」から、疑問が残る。加えて、aṅka, ὄγκος, uncusは幾何学的かもしれない曲線"curve", 線"line"の意味を含むとされるが、ユークリッド原論の3言語版(IAST込みラテン文字やギリシャ文字の計1,000,000字以上が対象)にも全く現れない。

"kimaṅga punaḥ"を用いた仏教以外の文献を示す。
ラーマーヤナ 5巻60章3節 (同書は全体でも他に4巻26章13節のみ)
avaśyaṃ kṛtakāryasya vākyaṃ hanumato mayā |
akāryam api kartavyaṃ kim aṅga punar īdṛśam ||
英訳の例: The words, though improper of Hanuma who had accomplished his task, are to be obliged certainly by me. Wherefore then, moreover, on such an occasion? (件の何況や英語"how much more"とはかなり意味が違う)

他に用例だけ確認できるページを示す。
Bhāmatī (P.73, Wikisource) "kimaṅga punaḥ kartumityarthaḥ"
Tantravārtikam (P.233, Wikisource) "kimaṅga punaḥ satyavacāṃ"
※前者はVācaspati Miśraの作で、後者はKumārila Bhaṭṭaの作で、いずれも7世紀以後のヒンドゥー教界隈の作である。後者は特に、仏教に言語・文法的な批判をした人物である(英語版Wikipediaによる)とされるので、この"kimaṅga punaḥ"が何況の意味で用いられているならば仏典から影響を受けて用いたものと考えることができる。

aṅgaやvādaを欠いた文(婆羅門系聖典~仏典などサンスクリット全般)も示す。
pravadyāmanā suvṛtā rathena dasrāv imaṃ śṛṇutaṃ ślokam adreḥ |
kim aṅga vām praty avartiṃ gamiṣṭhāhur viprāso aśvinā purājāḥ || - リグ・ヴェーダ1巻118章3節
英訳の例: With your well-rolling car, descending swiftly, hear this the press-stone's song, ye Wonder-Workers. How then have ancient sages said, O Aśvins, that ye most swiftly come to stay affliction?
※4ヴェーダを全て調べても僅かにkim aṅgaが見られるのみ。古ウパニシャッド類には見当たらない。

svabhāvato vidyamānaṃ kiṃ punaḥ samudeṣyate - 中論24:22偈(頌)A句 (偈・8音節にすべく虚辞的にpunaḥを加えたろうと思ったが三枝訳では「自性(固有の実体)として現に存在しているどのようなものが,さらに再び生起するであろうか」と意味を取る)
若苦有定性 何故從集生 - 鳩摩羅什による漢訳 (この什訳中論に何況という語が4回出るが例の梵語フレーズに基づく訳ではなかった)

sūkṣmo hi cittacaittānāṃ viśeṣaḥ |  sa eva duḥparicchedaḥ pravāheṣv api tāvat kiṃ punaḥ kṣaṇeṣu | - 倶舎論2:24頌に対する注釈の一部分
心法差別最細難可分別。於相續尚難知。何況刹那中。 - 真諦による漢訳
諸心心所異相微細。一一相續分別尚難。一刹那倶時而有。 - 玄奘による漢訳 (梵語にはkiṃ punaḥ, kaḥ punaḥおよび-punar形など複数見られたが、その漢訳は他の疑問詞である場合が多かった)

※チベット語で"kaḥ punarvādaḥ"や"kimaṅga punaḥ"の訳語はལྟ་སྨོས་ཀྱང་ཅི་དགོས (ワイリー式: lta smos kyaṅ ci dgos)だという(何らかのサイト説)。シナ・チベット語族なので中国語の疑問詞「何"ka"」などに類似する発音の語句が有るかと期待したが、無かろう。語順も日本語や漢語とかなり異なる。用例は根本説一切有部毘奈耶雜事"'dul-ba phran-tshegs-kyi-gshi"にある→rnam par shes pa dang bcas pa'i lus la lta smos kyang ci dgos (豈況其餘含識之類) このほかལྟ་ཅི་སྨོས (lta ci smos)という類例もあり、用例は寶篋經"dkon mchog ca ma tog"にある→chos kyi rnam grangs gzing dang ʼdra bar shes pa rnams kyis chos nyid kyang spang bar bya na chos ma yin pa lta ci smos. (世尊説譬喩經言。當除所欲法於非法耶 別の訳:能知我法如筏喩者。法尚應捨況復非法)



サンスクリットの仏典とは、詳細に言って「仏教混交サンスクリット"Buddhist Hybrid Sanskrit, BHS"」を用いた仏典である。
件の"kaḥ punarvādo "は、サンディ(連音)の特定条件で語尾-aḥが-oとなった結果に有り得る形であり、より元の形は"kaḥ punarvādaḥ"となる。
仏教混交サンスクリットでは、多くの場合に-oで現れる。

釈尊在世より何らかのプラークリット(アルダマーガディーのような)で用いられたと思われる。
パーリ語(プラークリットの一種)の仏典には訛り発音で"ko pana vādō"とある(パーリ語にはpanaとpunaとが混在しているが何況フレーズにはpanaのみを用いている。pana, punaは共にサンスクリットpunaḥと同源であると見られる)。
Rūpaṃ, bhikkhave, aniccaṃ atītānāgataṃ; ko pana vādo paccuppannassa. - 相応部22.9経"Kālattayaanicca sutta"
諸比丘、過去・未來色尚無常。況復現在色! - 雑阿含経・第79経

※参考までに漢訳阿含経典を引用する。それらの原典はスリランカ系上座部仏教が伝承するパーリ語仏典ではなく、別の上座部仏教が伝承するガンダーラ語(ガーンダーリー)や他のプラークリットや仏教混交サンスクリットの経典であったと推定されるが、それら非パーリ語仏典に同様のフレーズがあることを漢訳から想像できる。

ye kira, bho, pāpakāni kammāni karonti te diṭṭheva dhamme evarūpā vividhā kammakāraṇā karīyanti, kimaṅgaṃ pana parattha. Handāhaṃ kalyāṇaṃ karomi kāyena vācāya manasā. - 中部130経"Devadūta sutta"
確認可能な漢訳経典の全てに当該フレーズの対応箇所が見当たらなかった。ここで意訳すると「ああ、犯罪者(criminal=罪人sinner)は現世でさえ刑罰を受ける。いかに況や来世をや(況してや来世は尚更だ)?私は三業の善をなそう」(paratthaは「来世に(他の場所に"in another place; elsewhere"・後の時に"hereafter")」という副詞なので「来世においてをや」と訳したほうがよいかも)。

Imehi nāma, bhante, aññatitthiyā ācariyassa ācariyadhanaṃ pariyesissanti, kimaṅgaṃ panāhaṃ āyasmato ānandassa pūjaṃ na karissāmī. - 中部52経"Aṭṭhakanāgara sutta"
尊者阿難。梵志法律中説不善法律尚供養師。況復我不供養大師尊者阿難耶。 - 中阿含経・第217経



「況」を「ましてや・まして」と読むこと・西洋言語について

仏典に見られるこのフレーズ"kaḥ punarvādo"と、その漢訳「何況」の日本語・訓読「何に況や(いかにいわんや 旧仮名:-いはむや -いはんや)」と"kaḥ punarvādo"とは、疑問文・反語表現・動詞「言う(√vadに由来するvāda)」の3点が共通する。

「況(状況を意味する)」単体では、日本語で「況してや(ましてや)」と読まれる場合もある。
管見の限りでは、古代から近代にかけて(19世紀までの1500年以上もの間)、この語は日本でほとんど用いられなかったろう。
「いわんや」の「や」は、元々「何に況や」のように「何に・いかに」と対応した疑問の助詞「や」が連なった形式であるが、疑問文・反語表現でない現代に副詞として用いる「ましてや・況してや」は、疑問の助詞「や」が形骸化していよう。
恐らく、古語には有り得ない形式か用法である。
現代語における普通の肯定文では「adv. ましてや」よりも「adv. まして」とした方が妥当となろう。
文語体では「何に況や」と書いて「いかにましてや」と読めなくもない。

「ましてや・まして~」はサンスクリット"kaḥ punarvādaḥ / kimaṅga punaḥ"と同様に用いられるラテン語"quanto magis; quantus"と「まして(増して・量が増える・多くなる・大きくなること)」という「分量・量性"quantity"」に関する意味合いが共通する。
"magis (後述の英文にある"more"という単語と同じで形容詞の比較級を作るためにも用いる)"に対しては「ますます」という相対性の表現が、より似る。
「ましてや"magis, more"」系は、「いわんや"-vāda √vad"」系と明らかに異なっている。
※なお、「いわんや"-vāda √vad"」系の英語には"to say nothing of" (他にラテン語mens, menito由来の英語イディオム接続詞"not to mention"も同義語)というフレーズがあるが、疑問文・反語表現でない(逆説的であり"apophasis"とされる)。それは否定表現なので日本語「~は言うまでもない」、「~はもちろん=勿論(論ずる勿れ)」が似る。類義語"let alone (~はおろか)"は「いわんや」と「ましてや」のどちらの系統でもない。

そのラテン語のフレーズがウルガータ・聖書類にある場合、元の七十人訳=ギリシャ語(コイネー、古代ギリシア語)は"πόσῳ μᾶλλον (他アリ)"、英訳では"how much more"となる。
※古来、和語(やまとことば)として「まして~」という副詞的な表現が有ったろうか?漢字「況(さんずい+兄)(辞書12 簡体字:况 古くは𡶢?)」の原義は「寒水也(寒水"cold water"、説文解字より)」または「水が流れる様子・水が増えてゆく様子」を示すそうであり(123)、「まして~」の「増す」という意義は漢字・字義の解釈から来ていると考える方が妥当である。その場合は、漢語=梵語からの漢訳「何況」の方に"quanto magis, πόσῳ μᾶλλον, how much more"と共通する意味論的考察を加えたほうがよいかもしれない。余談だが、「」といった字も「況」のように「いわんや」と読み下すそうである(漢籍での用例"在物尚然,矧於臣子。")。
ルカ11:13(la) εἰ οὖν ὑμεῖς πονηροὶ ὑπάρχοντες οἴδατε δόματα ἀγαθὰ διδόναι τοῖς τέκνοις ὑμῶν, πόσῳ μᾶλλον ὁ πατὴρ ὁ ἐξ οὐρανοῦ δώσει πνεῦμα ἅγιον τοῖς αἰτοῦσιν αὐτόν. (マタイ7:11とほぼ同内容)
KJV Luke 11:13 If ye then, being evil, know how to give good gifts unto your children: how much more shall [your heavenly] Father give the Holy Spirit to them that ask him? ( [ ] 内は原語に無い訳補)
※現代中国語の和合本 CUV 路加福音では「你們雖然不好、尚且知道拿好東西給兒女。何况天父、豈不更將聖靈給求他的人麼。」と、同義語反復がされる。新標點和合本 CUVNP 路加福音では「你們的天父豈不更…」と、「CUV: 何况」が省かれる。

ピレモン1:16(la) οὐκέτι ὡς δοῦλον ἀλλὰ ὑπὲρ δοῦλον, ἀδελφὸν ἀγαπητόν, μάλιστα ἐμοί, πόσῳ δὲ μᾶλλον σοὶ καὶ ἐν σαρκὶ καὶ ἐν κυρίῳ. (両語の間にδὲ とある例)
KJV Philemon 1:16 Not now as a servant, but above a servant, a brother beloved, specially to me, but how much more unto thee, both in the flesh, and in the Lord?

申命記31:27(la) כִּ֣י אָנֹכִ֤י יָדַ֙עְתִּי֙ אֶֽת־מֶרְיְךָ֔ וְאֶֽת־עָרְפְּךָ֖ הַקָּשֶׁ֑ה הֵ֣ן בְּעֹודֶנִּי֩ חַ֨י עִמָּכֶ֜ם הַיֹּ֗ום מַמְרִ֤ים הֱיִתֶם֙ עִם־יְהֹוָ֔ה וְאַ֖ף כִּי־אַחֲרֵ֥י מֹותִֽי׃
 (旧約聖書を参照したくてこれを見つけた。当該箇所 וְאַ֖ף כִּי 翻字例wə-’ap̄kî。このほか箴言11-31一サミュエル23-3などに見られたものの、三者みなギリシャ語七十人訳(Δευτερονόμιον, ΠαροιμίαιΒασιλειών Α')では例のフレーズが見られない)
KJV Deuteronomy 31:27 For I know thy rebellion, and thy stiff neck: behold, while I am yet alive with you this day, ye have been rebellious against the LORD; and how much more after my death?

マタイ6:30(la) εἰ δὲ τὸν χόρτον τοῦ ἀγροῦ σήμερον ὄντα καὶ αὔριον εἰς κλίβανον βαλλόμενον ὁ θεὸς οὕτως ἀμφιέννυσιν, οὐ πολλῷ μᾶλλον ὑμᾶς, ὀλιγόπιστοι; (πολλῷはπόσῳと違って"how"の意味を持たないが疑問文・反語表現のままである)
KJV matthew 6:30 Wherefore, if God so clothe the grass of the field, which to day is, and to morrow is cast into the oven, [shall he] not much more [clothe] you, O ye of little faith?

他の参考:複数の日本語訳聖書 (日本語版Wikisource所載。戦前のもの・文語体に「いわんや」形の訳例が少し有り。書・章・節に基づいて比較せよ)
https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%81%96%E6%9B%B8
英語版Wiktionary - Appendix:Ancient Greek correlatives (古代ギリシャ語の相関代名詞)
https://en.wiktionary.org/w/index.php?oldid=42376143



当然、話題にある言葉(日本語・漢語・英語・ラテン語・ギリシャ語、特に日本語)は慣用句・イディオム化していたり、翻訳・訓読の便宜上に翻訳借用"calque"がされたか、造語がされたものであり、それ以上に歴史を深読みできない。
疑問点を示そう。
「いかにいわんや・まして~」は漢文訓読以前から日本語に似た言い回しが有って翻訳借用がされたか?
上代に漢訳経典の原語・梵語(いかにいわんや 言うこと・vāda一致)や、近代に英語・ラテン語などの西洋言語(「まして~」 ますます・magis一致)を見て日本語で造られたか?(「まして~」は※注釈されたように漢字「況」の原義に由来する可能性もある)

また、以下のように、比較言語学や歴史言語学の観点でより多くの研究が望まれる。
印欧語と異なる中国や日本はもちろんセム系諸語など世界中の言語に固有の表現で同様の言い回しは有るか?
そうでない場合は(特定言語のみに固有だったとして)、いつ翻訳借用や造語がされたか?

日本語における漢文訓読には、どれほど梵語の知見が含まれたか?
そうならば、訓読の決定版成立(早くて10世紀ころ、遅くて江戸時代)までに影響を及ぼしたか?
また、そうならば、梵語の知見は在日中国人・中央アジア人・インド人(例は法道菩提僊那)などによってもたらされたか、最澄・空海・円仁など(彼ら以前の遣隋使や彼ら以後の安然・円覚など)によってもたらされたか?
誰が?いつ?どのように?どのくらい?…。




起草日: 20180708 (原案: 20180625)

当記事の要点については、漢語「況」には恐らく無い意味の「言う・増す」という和語が、「いわんや・ましてや」という形で訓読語・訓読みに現れる点で、訓読を行った古代日本人が梵語"kaḥ punarvādaḥ, kimaṅga punaḥ"の意味を何らかの経緯で知っていたか、偶然に原語の道理を心得たか(その場合はラテン語"quanto magis"を含む)、という仮説である。
ただし、「増す」の意味は調査中に「水が増える様子」という原義を確認できたので、漢語における翻訳行為・旧来の用法の再検証の余地がある。
その上で、より明確に検証されるべく、「印欧語と異なる世界中の言語に固有の表現で同様の言い回しは有るか?そうでない場合は、いつ翻訳借用や造語がされたか?」といった比較言語学や歴史言語学の観点による研究が進められる将来性(今から私たちが実現するもの)を示した。
インターネットには膨大な文献があるので、解読能力や解読意欲のある人は、日本語の比較言語学的な・歴史言語学的な研究のために用いて可である。

※漢語「何況・況復」が二字漢語(シナ・チベット祖語に時期が比較的近い古代漢語にあった2音節語)だと推定する学者もいるようだが、既述の梵語関連の理由で私は否定する。一方で「固有の表現で同様の言い回しは有るか?」という観点で肯定できる。ついでに気になって「何況」が古い漢籍に出るか調べたところ「何況一國之事 (楚辞・九弁、楚辭・九辨)」に見られた。なお、中期朝鮮語・ハングルの古い資料である「諺解」系に、漢語経典の重訳が載っているようである。当方で確認できた例は大佛頂如來密因修證了義諸菩薩萬行首楞嚴經・卷第四「欲何因縁取夢中物 況復無因本無所有」→능엄경언해 (楞嚴經諺解)4巻 (https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=111304&page=122および123)である。古ハングルは当方で表記困難なので示さないが、似た文字で「하물며 ᄯᅩ (翻字: hamulmyeo sto 前3文字は先に挙げられた聖書の文に対する朝鮮語訳でも使われる)」がある。この楞嚴經諺解による「○復」の解釈について学者某は「それら文献は当の2字漢語を1語化したものとみなさずに逐字的に読んでいる」とする。

もし漢訳仏典の訓読において梵語に基づき作られた語句であると証明できれば、いわば「仏教和語・仏教風日本語"Buddhist Hybrid Japanese"」が存在することになる。
その概念・名称を用いる時に注意すべきことは、一部の仏教徒が仏典の訓読文を知って教団の中で「まさに知るべし!(漢語"当知"に由来)・豈~んや」といったフレーズを用いたりすることについてまで適用すべきでないことである。
ちなみに、私がラテン語で作詞した際、その歌詞の日本語訳に「今昔混交日本語(英語にするとModern-Classic Hybrid Japaneseか)」という名称を用いたことがある。
その文面が難解のようでも、印欧語や訓読語の道理を得ている時に読めば、おそらく原語を想像しやすい一面がある。
ただし、私が作った歌詞の本来のイメージを詳細に伝える目的もあるので、結果的に色々な言語表現が混雑しただけであるともいえる(複数言語や宗教教義を若年にして短期間で学んだ結果)。



当記事の話題の言葉の起源に関して、上記の後書きも加味しながら、結論をまとめよう。

日本語の「いかにいわんや~をや・まして~」は翻訳借用"calque"起源である。
中国語の「何況」は彼らの中で発生した言葉であり、尚且つ翻訳にも用いられた。
梵語(古~中期インド・アーリア語≠サンスクリット)の"kaḥ punarvādo" および"kimaṅga punaḥ"は彼らの中で発生した言葉である。
英語の"how much more"は翻訳借用"calque"起源である。
ラテン語の"quanto magis"は翻訳借用"calque"起源である。
コイネー・ギリシャ語(Koine Greek)の"πόσῳ μᾶλλον"は不明であるが、ヘブライ語からの翻訳に用いられた。
聖書ヘブライ語(Biblical Hebrew) の וְאַ֖ף כִּי は彼らの中で発生した言葉である(もしくはヘブライ語と同じアフロ・アジア語族セム語派のより古い言語から存在する)。
チベット語の"ལྟ་ཅི་སྨོས"は不明であるが、サンスクリットからの翻訳に用いられた。
中期~現代朝鮮語(Modern, Middle Korean; 韓国語) の"하물며"は不明であるが、漢語とキリスト聖書一言語からの翻訳に用いられた。
これらは意味の共通点と相違点とが検証され、類似の派生語と比較・対照され、詳細に区別されよう。



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