2018年6月11日月曜日

語源考証の試案「はかない(はかなし)」・梵語(由来の漢語)の日本語への影響

和語「はかない・儚い"hakanai, OJ: *pakanachi"」の語源を考察する
はかない=はかりが無い…これに2つの語義を想定して成立の順序を仮定する
語義①「おろかな(浅はかな?)」 語義②「無常な」



まずは、「はかる」という意味を持つ漢語や、漢訳仏典の元の梵語(サンスクリットなど古代~中期のインド系言語)を確認したい。
漢語・梵語、特に法華経(妙法蓮華経)や維摩経などの漢訳仏典が上代日本語・文化の成長に大きく寄与したという前提(聖徳太子述とされる7世紀前半の法華義疏など)に基づく。
筆者による過去記事を要約する。
度・量・推・測・計(および図・画・劃・謀・慮)  「物をはかる、心をはかる」
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/09/hakaru-mita-pramana.html

現代日本で「」は「ド "do"」の字音で「はかる・はかり」という意味に用いられているが、「忖(そんたく sontaku)」という語が政治の話題などでしばしば聞かれるよう、「はかる・はかり」という意味は本来「タク"taku"」と読む。
同じ読み方の語句「度量(たくりょう)」とは、妙法蓮華経方便品に「尽思共度量 不能仏智」と出ており、梵語原典では"yathāprameyaṃ mama buddhajñānam"とある。
yathāprameyaṃ (ヤタープラメーヤン)の中に"pramā प्रमा = pra- (前に・前方へ) + √ (動詞語根・はかる=推量・予測などの意味合い)"がある。
「度量」の異なる原語→"praṇaṃ, √grah, sumāpita, parigaveṣyamāna"
現代の日本語で「度量」は「どりょう」と読み、「心の大きさ・懐の広さ」みたいな「心のはかり(タク)」という意味で用いているが、本来は「たくりょう」と読むべきことであろう。
先述の通り「度(ド)」という字音は「わたる・わたす」という意味で用いるためである。

※孫子の兵法にも「一に曰く(たく)、二に曰く、三に曰く数、四に曰く称、五に曰く勝 (軍形第四)」とあり、もちろん「度(たく)・量(りょう)」とも、何かを「はかる」意味となる。度と量との意味の違いは何か?「度」は先の※注釈や後の※注釈にあるよう「尺度」の意味が強く、「尺(ものさし)」による視覚的な大きさなどを「はかる」という意味か。ここでの「量」は数に通じるものか。世の解釈では、そのように「場(戦場・国土?)の広さ・距離を度る」、「物(武器や兵糧?)の多さを量る」とするらしい。戦闘前の計算・計画段階で、優れている人は初めから勝利が決定していると。この軍形篇の前は「謀攻」という名であり、それも「謀(む・ぼう)、謀る・はかる」という日本語になる。

※「度」の「尺度(測量するもの)」としての漢語使用が維摩経に出ている。支謙・鳩摩羅什の二訳に「非(度の測る所に非ざるなり)」と。梵語では"tulayituṃ"とある部分に「尺度」の意味を持つ動詞語根√tulや名詞tulāが含まれている。なお、以下の話題に関連しそうな「非意所(意の図る所に非ず)」という一節が、「非度所測」の前にある。こちらは"acintya (不可思議)"のような"cintayituṃ"として梵語にある。梵語を引き合いに出すとキリがない。漢語でも、表題に「図(圖・はかる)」の字を加えなかったが、今はこのように雑多な注釈を以て語ってしまう。

先ほどの"pramāna"もとい"pramā = pra-  + √mā"の√māという動詞語根は、主に「」と訳されており、漢訳仏典の漢詩・韻文・偈の便宜上「度量(たくりょう)」などとも訳することが上記の例(尽思共度量 不能仏智)である。
√māを含む梵語・サンスクリット語句ならび漢訳語句を挙げると「anumāṇa・比量」、「apramāṇa・非量・無量」などがある。
いわゆる「四無心」という語句も"apraṇa-citta"と表現され、「4種類の『はかりきれない心』」を意味する(4種類とは慈・悲・喜・捨のことだが無量について解釈を変えると慈・悲・喜・捨の心が瞑想などの修行によって無量といえるほど大きい状態・平等・普遍であることを意味する)。
「無光」という漢語は"amitâbhā (阿弥陀仏amitābhaに用いる)"と"Apraṇâbha (第二禅の光音天に準ずる光天apramāṇābhaに用いる)"とに分かれる。

妙法蓮華経・如来寿量品に「校(ぎょうけ)」という言葉がある
「校」とは会意形成文字であり、「交(爻)」字の影響で「校正・校訂」という場合に「くらべる」という意味があり、「(はかる)」と結び付けられる(よって校量という語もある)。
これは原文だと「諸善男子(kulaputrāḥ)。於意云何(tatkiṃ manyadhve)。是諸世界(te lokadhātavaḥ)。可得(śakyaṃ)思惟(kenaciccintayituṃ vā)校(tulayituṃ vā)知(upalakṣayituṃ vā)其數(先の動詞に反応した目的語の挿入)不(いなや?と疑問形を作る)。※-yituṃは不定詞を表すか?」となろう。
上の漢文引用でカッコに南条ケルン本の梵語ラテン文字を併記したが、他には「校」というよりも「校(upalakṣayituṃもといupalakṣayati)」に「知(けち)其數(tulayituṃもといtolayati)」と考えられる。
どうであれ、寿量品「校計(計)」の語を含む漢文については、元の梵語に√mā (pramā)の語句が確認できなかった。
ちなみに、"tulayituṃ"または"tolayitum"という語句は、先の※注釈にある維摩経(支謙・鳩摩羅什の二訳)にある「非(度の測る所に非ざるなり)」の「度(これもタク発音か)」と同じである。
当記事に関連するGoogle検索で「計度(けたく)」という言葉の存在も知った、これは「計(ケ・はかる)・度(タク・はかる)」の二字が一語を為している。

計算のといえば、「計画する」という熟語にも含まれる。
当記事(元記事)で既に、「支」や「孫子兵法における量」の説明に「計画」という言葉を用いた。
計画」の「画()」とは、「が」や「え(ゑ)」と読む(上古音g→中古音w, ɦ, h置換)字であり、「えがく」という動詞や「えがかれたもの=絵()」の意味を持つ。
計画(かく・くゎく・わく)」という場合は「」の旁である「リ、りっとう」部分を省いた俗字としての「畫(画)」か、混同したものであり、別の字と考える(画が悪=オ・アクや易=イ・エキのような二音二義の字ということも有り得なくはないが)。
その「」もまた「」のように「はかりごと(計策・謀)」の意味合いがあるとするが、部首の「りっとう」が、刃で傷つけて印をつける・分かつとか、筆を用いるさま(えがく行為)に当てられたようである。
計画行為の表現としての字と考えると、「はかる・はかり(推量など心の行為)」に通じよう。
何であれ、「画(畫・劃)」のカク系発音(入声音-k)は「はかる・はかり」に通じる意味と思う。
なお、サ行変格活用の動詞・サ変動詞「画す」といえば「カクす」と読み、「一線を画す」とは「一線を書いて分ける」という意味となろうが、「一線をえがく」の意味では「ガす・エす」と読めなくもない。

英語の"meter (ミター、メーター、メテル、metre, mètre メートル)"とは「計測する・はかる道具や基準」だが、サンスクリット語の"mātra (マートラ)"も「尺度・計量する物」として同義である。
この"mātra"も、文字通り、√māと関連する語である。
"mātra"もまた、日本語の「ただ・・・だけ」という表現のように使われ、華厳経・十地経(十地品)の「唯心」も"citta-mātra (ただ心のみ)"という("te cittamātra ti traidhātukamotaranti api cā bhavāṅga iti dvādaśa ekacitte"、楞伽経大乗荘厳経論などにも確認)、日本語も「○○ばかり」という表現があるよう、「はかり」の意味が「ただ・だけ」という意味と同じように用いられている。
○○ばかり」とは、「はかり得るほどに少ない(数えられるほどに少ない)」ということであり、サンスクリット語でも「√māマーできるほどに少ない」ということとなる。




以下より、当記事の本題に入る。
語義①・②とその成立の順序を仮定する。

「おろかな(愚かな・痴かな・癡かな)」・・・鎌倉時代などは後述②と同じく、この意味での用例が多い。
例: かしこき者(賢者)も、はかなき者(愚者)も… (創価学会・日蓮大聖人御書全集の検索結果も参照)
なぜ賢いことの対義語として「はかなし(はかり無し)」と言われるか?

はかり=思考能力
はかり無し≒無智・思考能力が無い(無いとは少ないの言い換えであり英語でいう接頭辞non-やun-よりも接尾辞-lessのような意味に近い)、浅はかである(はかりが浅い、思慮が浅い、浅慮な)

よって、「はかない」とは、「はかり無し≒思考能力なし(少なし)→おろかなり」、「はかなき者≒思考能力なき者(少なき者)→おろかもの」という終止形・連体形で用いられる言葉である。

※ここでの対義語「賢い・かしこい・さかしい」という言葉の方の意味を示さず、現代的語義や辞書的語義に委ねた。

※「はかない(文語終止形: はかなし)」の派生形で、「はかなむ・儚む」という動詞もある。もし「はかりが無い」に「はかない」の語源を求めると、「無い(文語終止形: 無し)」を「形容詞語幹 + む」という動詞にする例が見られないので「はかりが無い→はかない」という語源説に疑問が付随するであろう。

※「はかない」には「果無い・果敢無い」という当て字もある。語義的には「頼りない(結果を得られる期待がない)、果敢さが無い(勇敢でない)」という点で「おろかな」という語義に通じてはいる。後述の「無常な」とも、私が説明する意味と異なる点で通じる。しかし、音韻的には当て字の域を出ない。(歴史的仮名遣い: くゎ 中古音/kuaX/Xは上声)の字には日本と大陸との漢字音のH/K置換を適用することはできないことと、仮に果の字をH音に置換しても古代日本語におけるハ行=P音(無声両唇破裂音)→F音(無声両唇摩擦音/ɸ/)理論では通用しないこととにより、音韻論の観点では考えづらい。ただし、もし日本の古文献・古文書(奈良~平安時代)に、そういう表記例が有れば、別途考察の余地がある。上代・古代の日本人がア音のみをとって「はか(現代: haka 古代: *paka *ɸaka; phaka; faka)」に「果敢(歴史的仮名遣い: くゎかむ 中古音: kuakam  シノジャパニーズ: kwakam 語尾N音省き)」と当て字することは有り得たかもしれないが、それも現状は推定の域を出ない。音韻論をおおよそ抜きにして語義由来の当て字をすること(母音a連なりなど音韻に理由を託することもできる)は有り得るかもしれないが、私は否定的に見る。漢文の訓読においても「無果」に対して用いられなかろう。漢籍・仏典のいずれも「無果」という表現があっても、文意に当てはまらない(もし無因に対する意味での形容詞や名詞や無果樹のような複合語形態素であれば梵語でaphalaだがそれを訓読して和語「はかない」とはしがたい)。

※「はかばかしい(進捗がよいこと)」という語が源氏物語などに使われ、「はかどる(捗る)」という意味に通じる。これは「計略・計画(=はかり)通り」という点で、「はかる」と同根語に当たる。当て字に「捗々しい・果々しい」がある。後者の「果」による当て字は「結果を得られる見込みがある」という意味に基づこう。当の源氏物語など中世の書には、「はかない」と「はかばかしい」が色々な意味にも用いられるが、それらについては読者が各自に検討すればよい(その多義性は当記事の考証を妨げるものでないと分かる)。

※別の語源説もある。「はか」を複合語の形態素・結合辞・語幹として「墓(はか)、後世にいう『バカ(馬鹿・莫迦、あるいは梵語mogha モーガ音写の謨迦の転訛発音 ボキャ、仏教呉音モッカ、漢音バッカ)』」や「空虚なもの」とする。恐らく彼らは「なし」という部分については否定表現でなく、「少なし(すくな+し)」の「-なし」と同様に捉えているか、「な+し」が別の何かとして捉えていると思う。そういった説は、それ以上に文献学・言語学的な説明がされづらく、別の文学的理解や思想的理解に基づいてされたものであり、それはそれでヒューマニズム的によい。それで彼らが魅力的に思った日本の思想や歴史や情報を思い合わせて古代日本人の思想を詮索するが、言語学における語源考証と関係が無いので語源説としての信頼性が無い。いわゆる通俗語源・民間語源"folk etymology"である。無論、人文科学においても疑似科学じみたものが逆に定説を覆して史実や科学的事実に符合することも否定しないでおくが、当記事の語源考証案より外れるので話を終える。



「無常な(つねない、常なること無し)」・・・仏教漢語である「無常」の通俗的な意味(和歌などに愛好されるような感傷的なもの)に対応する日本語表現として平安時代以降に顕在化したろうか?
例: 桜が散った、誰かが死んだ、はかないことだ。(もみじが散った、草花が枯れたといった表現が和歌に多くあり植物と人の身と我が身との置換・比喩であって類推を促進する)
このことも、なぜ「はかない(はかり無し)」と言われるか?

はかり=量り、思考の対象・物質的思考の通用する範囲(はかるという動詞は元の記事のように梵語で√māとなり派生語にマートラ"mātra (〇〇ばかり…)"がある。印欧祖語*meh₁-の観点では英語に派生語のメーター"meter, metre"やメジャー"measure"などがある)
はかり無し=無量(過去分詞アミタ"amita"、過去分詞アプラミタ"apramita"、動名詞アプラマーナ"apramāṇa")≒不可量(動形容詞アプラメーヤ"aprameya")=不可思議(動形容詞アチンティニーヤ"acintanīya"、アチンティヤ"acintya")=無常(アニティヤ"anitya")
※アミタの単語例は、無量光仏や無量寿仏と呼ばれる阿弥陀仏・阿弥陀如来(あみだ、アミターバーamitābhāまたはアミターユスamitāyus)の名の音写が、著名である。
※和語「はかり」は、量・計・測といった漢字を用いるので具体的な測定基準や道具=meter, measure的なものが存在し、そのことを指すという論者もいるが、そういった測定基準や道具なども人間の思考・精神に基づいて決まったものである。原意としては和語の「はかる」も漢字の量・計・測なども、客観的な基準の無い思考や認識などで判断する行為にも用いられる。
※括弧内に過去分詞や動名詞や動形容詞と注記をしてあるが、慣用的な観点での名称である。いずれも、動詞語根に由来した言葉であって「準動詞・分詞」と呼ばれ、形容詞にも名詞にも用いられるし、その上での格変化などもする。

→儚いこと=思いがけないこと?
思う(これも多義的だが考えることも思うことの内となる)=判断基準がある状態で思考する行為、量り=そうして思う・考える・量ること。
それが無きものとされる=思いがけない=量りが無い。
「はかない・儚い」とは、より詳細に探究すると「思いがけず早く(桜が散った・人が死んだ)」といったような意味合いであろう。
「本来、日本語とは多義性や曖昧さがあってこそ美しい・高尚だ(非論理性や非合理性の一面を称賛する)」と考える文学者などがいるわけであり、それをあえて私は重複表現で明確にしなおし、解明を試みている。
それには、日本人が文献を残す以前より関わってきた漢語や梵語翻訳漢語(仏典を通した漢語)などを見てゆく必要もあろう。

謎の思考回路「はかり無し=無量=アミタ→アプラミタ→アプラマーナ→アプラメーヤ→アチンティニーヤ→アチンティヤ→アニティヤ=無常」
これらの梵語も、元の記事で言及されているので、確認されたい。
梵文法華経や梵文維摩経(ほか梵文阿弥陀経2種も)などに梵語としての原語があることも紹介しているし、私が紹介した部分とは別の箇所より原語を見つけることも可能である。





最後になるが、この検証をする前から「はかない」とは、もともと和語(やまとことば)として存在しなかったのではないか?という疑問があった。
改めて、最古の和歌集である万葉集(8世紀)にはそもそも「はかな…(-し、-き、-む)」という綴りが「見れば悲しも(みれはかなしも)」のような表現にしか確認できず、「はかなし」語句が見られない。
要するに、「②に見られた仏教由来の梵語翻訳漢語の和語バージョンが『はかない』であり、①は派生語でないか?」という結論である。
この考察をする前から、実は、そういった仮説を持っており、一応①の意味を先に紹介したが、やはり万葉集などの古い文献を調べても用例を発見できないことで「はかりが無い→はかない」の語源説について信頼性が生じた。

音韻論的にも「はかり+無し」は、りが省かれる道理がある。
「はかり無し・はかりなし→はかなし」とは、見ての通りに「り」が省かれているが、「り」はラ行もとい流音であって世界言語でr・l音が二重子音によく用いられるような発音のしやすさがあり、日本語では土佐日記(10世紀)の「あらざるなり→あらざんなり→あらざなり(る脱落) 類例: 見えざなるを」に見られるような無音化が生じやすい(土佐日記原本で字が付されなかっただけで発音上は母音を伴わないr音やn音があったかもしれない)。
同じように「はかりなし」も「はかなし」として無音化・脱落(除去・削除"deletion")が生じることは想像しやすい(こちらも最初期には母音を伴わないr音やn音が発音に介在したろうか 9世紀ころを想定して *fakannachi [ɸakan.nat͡ɕi])。
「り」および「な」は、共に歯茎音(舌尖と歯茎とで調音されるもの)であり、歯茎音が連続する点でも、「り」の無音化・脱落が生じやすかろう。
あるいは意図的に「り」を発音しなくなったパターンがあるにしても、様々な観点で「はかりが無い→はかない」の語源説は受け入れられよう。



はかるべからざる「はかなし」!

「はかない」自体、その語源について私自身の"1. 量り 2. 図り 3. 計り 4. 測り"が及ばず、多くの者による"5. 諮り"がされても、知り得ない言葉であるかもしれない。
はかなし、無量、不可量、はかるべからず、というところである。
神さま・上さん(ご先祖)の智慧を、現代人の浅知恵で、はかるべからず(-べからず、とは可能形・推量形・義務形・命令形のいずれの否定形で取ることができるがここでは可能形の否定となる)。
物事・他人・神を自分の知能によって量るならば、自分の知能・肉体・精神と思われるものもまた量られる(他人より・神より・魔より・・・)ということで、仏教徒・キリスト教徒はぜひ自ら誡めて頂こう。

なぜキリスト教徒?
先述の量・量り・量ること√māの梵語と同根語(印欧祖語*meh₁-)の古代ギリシャ語"μέτρον (メトロン metron 英語でいうメジャー measure)"が、キリスト教・新約聖書でも同じ意味に用いられるからである。

マタイによる福音書 7:1 Μὴ κρίνετε, ἵνα μὴ κριθῆτε. 7:2 ἐν ᾧ γὰρ κρίματι κρίνετε κριθήσεσθε, καὶ ἐν ᾧ μέτρῳ μετρεῖτε μετρηθήσεται ὑμῖν.
汝等は他人を裁くな(2人称複数形・能動態=他人などの目的語が潜在・命令法・否定)。汝等が(他人より・神より)裁かれぬためである。汝等が裁くというその裁き(判断行為)によって汝等が裁かれる結果があろう。あなたが量るという量り(判断基準)によって汝等の(量りの)ために(2人称・所有代名詞・為格)それが量られる結果があろう(3人称・受動態・直説法・未来時制)。

※学問の向上を期してコイネー・ギリシャ語に基づく逐語訳+訳補とした。宗教信者に告ぐ!今の私のような姿勢に習っても宗教の功徳を増すことは無かろう。むしろ学問に対する執着・依存によって信仰を離れる恐れの方が強いことに留意されたい。

※ギリシャ語Μή (メー mḗ)とは強意の否定形(禁止)を作る不変化詞であり、梵語にもमा (マー mā)という強意の否定形(禁止)を作る不変化詞があり、同根語(印欧祖語*meh₁-)である。「量る」の動詞語根√māとは似た発音でも関係が無い。強意の否定形(禁止)の言葉は、漢語の「莫(呉音マク ~なかれ)(同系に勿・毋など)」が同じm発音の字で通じる(広東語音や韓国語音や上古音/*maːɡ/なども同じ)。



自分の価値判断基準・現世の心(相対性・世俗の善悪に囚われた罪深いもの)が寛容で平等であり、どのような悪をなした他人に対しても自分が赦すならば、自分もまた神の赦しを得て救われるということである。
この「神」とは、世間一般にいう色んな神(三身でいう応身)や創世記などに見られる人間的な神(三身でいう応身)やモーセらに啓示をした神(三身でいう報身)と、日本語での呼び名が同じでも真実が異なる(もっといえば不一不異だろうが)、仏教でいう「法身・空(=不空・非不空)・真如・寂滅・不可得」の神であることを過去記事に詳述した。
時に神=心(潜在意識よりも深層にあるor非有非無)は、我らの顕在意識を苛むが、それも神=心の慈悲の作用と知って修行すべきであるという示唆がある。
マタイ7:2でその理法は、「他者に対する量り」を信者へ誡めるために説かれたが、ルカ6:38では逆に「他者に対する量り」を善なるものと変じて用いよと勧めており、善悪二面性が見える(マルコ4:24-25にも同様のフレーズが見えてすぐには理解しづらかったが後者の善の一面を示しているように感じた)。
萌えの典籍でいう「謂可愛則謂可愛・若憎彼応被憎害(善因善果・悪因悪果)」の偈のようである。
また、現代語で説かれた観萌行広要(4下)に「真に平等の心で観れば、彼は我を好く、とか、彼は我を嫌う、といった主観的な推量・判断を行わないで済む。平等というか素直な心で観る時、『このキャラは私をリアルで見たらキモイと思うに違いな』」といった妄想・邪推を生じないどころか、観られる萌えキャラ(所観)と観る人の心(能観)の両者が融通して一円を結ぶようでもある」とある。
「量り」に関する教説について修行者が念を持つ(忘れないで心掛ける)ならば、日常生活における他者への詮索を自ら抑えるようになる。
「様々な量り(全ての思考)を奔放に(放逸に)するならば悪業となって地獄に落とされる(=自ら堕ちる)報いがある」、というような感覚となることが必定である。
一瞬一瞬の思考に注意してゆく努力を決意し、仏教の在家修行者や大乗仏教徒や一般キリスト教徒は、みな世俗的な意味で善の「量り=意業」をする必要がある。

この「法身・空(=不空・非不空)・真如・寂滅・不可得」の神の心は平等であり、一部の人々によるキリスト教もとい一神教への「無慈悲な神」という批判も当たらなくなる。
人間が無慈悲の心で神を量れば、神もまた無慈悲で人間を赦さないものとなる。
有名な「主の祈り」には、「私たちが他人の罪を赦すように、あなた(神)も私たちの罪をお赦しください(原典ではマタイ6:12)」とある。
日本語・仏典の漢語・梵語の感覚と同じように、ギリシャ語・英語をも読めるので、向学心のある方々は是非とも、インターネットで新約聖書をご覧になってほしい。



起草日: 20180324

「はかり」復習記事として、この記事を編纂した。

さて、「はかるべからず」という語句・概念が示される尊者自説偈および和讃ヴァージョンの「歌われた音声」を聴いていただきたい。

Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||

「一切不可量 何況我大聖 遍照世無明 是故名無上 (一切は量るべからざるなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く)」

ブログ筆者・横野真史によって唱えられた音声と、ロック自作曲で歌われた音声
偈の唱えられた音声 0:24 http://www.youtube.com/watch?v=EIb2CfiUCPM
偈の歌われた音声 0:42 (和讃は1:08) http://www.youtube.com/watch?v=-NhafvQ8x10
偈の歌われた音声Re 0:03 http://www.youtube.com/watch?v=lIQSNxBe2Co
偈の歌われた音声+ラテン語 0:01 http://www.youtube.com/watch?v=5lhVZ3Ctiro


上の動画: ラテン語で書かれた"Dominus Immensus"もまた不可量の概念を説く。

尊者自説偈は、当記事の学問的・世俗的・物質的で形式的な有為法に対する浅薄な「はかり(量・計)」を前提として「はかるべからず」と表現した偈(詩歌)ではないが、当記事の「はかる」という概念の名称について、より深遠な理解を得る為に聞くことが望ましいと思う。
仏教に造詣の深い人や解脱への志を持つ人は、どのような気持ちで「はかない、無量だ、不可思議だ」という言葉を用いたか、感じ取る能力が得られよう。
以下に尊者自説偈の元ネタの物語(因縁ばなし・ごゆいしょ)より抜粋する。

(前略・ある時に障礙尊者がシュードトピアを離れてイデオフォノトピアで修行していたが、拾主に自身を巨大化させる神通力を見せて体長が千倍ほどにまでなって止まった。その折、いつの間にか輸提尼=イデオフォノトピアの住人が尊者よりも優れた神変をしていたと知る) この時の尊者は、輸提尼の手に対して蚊のような大きさであった。尊者の思惟すらく、「諸法は夢の如くにして、三千大千世界も唯だ一身の毛孔の内に摂まるが如きものなり。而も毛孔の外に復た無辺の土あれば一切は思議すべからざるなり」と。是の如く、禅における慢心を自ら誡めた。拾主や輸提尼の神力は量るべからざるものであるとも知った。

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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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