2018年8月8日水曜日

英語・ラテン語・梵語に見られる関係代名詞の構文(虚辞・相関)

表題のインド・ヨーロッパ諸語=印欧語に見られる「関係代名詞"relative pronoun"と他の代名詞系語句とを用いた構文(相関型)」や、その類型らしいもの(接続詞"conjunction"や副詞"adverb"による類似の用法)を個人的に看取した。
そのように用いられる言葉を、言語学(稀に語学)においては、総称して「関係詞」とし、文中の関係詞による構成要素を「関係節」とするそうである。
以下より、その構文を、個人的に理解度の高い梵語→ラテン語→英語の順に挙げる。



●梵語の例 Examples in classical Indic languages
当記事でいう「梵語」は、インド系の古典語全般=サンスクリット(サンスクリット語)・ヴェーダ・パーリ語(中期~古インド・アーリア語)である。その主要な文献は、本来的なサンスクリット"saṃskṛta"を定義した人物「パーニニ」さんの出現前後900年(逐一年代を示さないが文献学で概ね承認されるものを念頭に置く)になる。パーリ語の仏教経典にはサンスクリット文献と大差の無い文章表現が見られるため、参考のために用いる。サンスクリットとの著しい違いは、音韻変化の差ぐらいである。

☆"yas A, sas B" यस्, सस् (両代名詞は共に男性単数主格。他へも可変)
直訳: Aする者は、その者はBである。
音変化の原型として"yas, sas"と記したが、別の形で"yo, so"や"yaḥ, saḥ"などがある。また、単数形を複数形に変えれば"ye, te"となる。ほか、人物以外が話題であれば両代名詞を中性にするなど、適宜に語形変化(inflection)、曲用(declension)をすべし。

例文1: eṣa tu vā ativadati yaḥ satyenātivadati | (チャーンドーギヤ・ウパニシャッド7巻より)
逐語訳1: 真実によって(satyena)言い負かす者は、〔虚辞: その者は〕実に言い負かす。
例文1は後述の英語☆"that A, it B"にもあるように、これは2つの節が反転した型(倒置とも)である。また、"sas"は語頭にあって"eṣa"と変化しているが、同じく3人称・男性単数主格である。当然、yas類は関係代名詞の男性単数主格であって3人称代名詞の男性単数主格とは言わない。

例文2: Ye kho te, sāriputta, sattā aṇḍakosaṃ abhinibbhijja jāyanti. (パーリ中部12経より)
逐語訳2: 〔仏いわく〕サーリプッタよ、卵の殻を破って生まれる者たち、〔虚辞: それらの〕有情たち(衆生)がある。
例文2は語順が変則的に思われるものとなる。場合によっては英語やラテン語のように反転することもある。日本人の感性に合う語順にすれば"Sāriputta, kho ye aṇḍakosaṃ abhinibbhijja jāyanti, te sattā(後文ayamに従って省略も可能か?)."となるが、語順については非日本語の立場を日本語を母語とする学習者は了承する必要がある。

例文3: yadrūpaṃ śūnyatā, śūnyatā tadrūpam|| (般若心経小本より。大本も同様)
逐語訳3: およそ空であるもの、〔虚辞: それは〕色である。およそ色であるもの、〔虚辞: それは〕空である。
漢訳例: 色即是空、空即是色。 (鳩摩羅什玄奘らによる。この文字列だけならば他の般若経類にも見られる)
例文3は関係節(relative clause, 2 relative clauses)中に述語・動詞が無いが、サンスクリットやパーリ語などの梵語はそれらを用いなくてよい場合がある。ここでは両代名詞が包括する語句として主格の名詞のみが書かれているので、「~がある・~である」という存在動詞・コピュラ動詞の類が想定される。また、関係代名詞に対して指示代名詞の語形が異なることは、包括される語句の性(gender)が異なるためである。rūpaは中性、śūnyatāは女性であるため、両代名詞による節は、同文中でも相互に性による語形が異なる。これらは「~する者」という人物の性質を示さず、単純に名詞の性に呼応・一致する。当記事の途中で引用する他者の文に「呼応」という文字列を含むが、ここでいう文法用語としての呼応(concordance) = 一致(agreement)ではなく、相関(correlative)の他者個人による呼び方である点に注意されたい。

☆"yena A, tena B" येन, तेन (両代名詞は共に男性か中性の単数具格。他へも可変)
直訳: Aにより、それによりBである。
yasやyenaを上に代表的なものとして挙げたが、何であれ"yas-, sas-"という原型の両代名詞に由来する。つまり、文意によって処格"yeṣu A, teṣu B"など、様々にアレンジできる。

例文1: āyāmānanda, yena kusinārā ten'upasaṅkamissāmā. (パーリ大般涅槃経より)
意訳1: 〔仏いわく〕さあアーナンダよ、我々はクシナーラーへ参ろう(関係代名詞を踏襲すれば「クシナーラーという名である場所へ参ろう」)。
例文2: Atha kho āyasmā rāhulo yena bhagavā ten'upasaṅkami. (パーリ相応部18.1経より)
意訳2: ときにラーフラ尊者が世尊のもと(漢訳経典: 仏所世尊所)へ詣でた。

-enaは具格を示すが、ここでは意味が限定的である。「によってされる(クシナーラーと人々によって呼ばれるところ・仏にいらっしゃることがされるところ)」という点では漢訳経典の「~所」という本来受動的表現のための字である「所」を用いていること(仏所など)が納得できる。日本漢字音で同音字の「処」は、あくまでも処格表現のようになるので、漢訳の訳経僧は区別して用いたろうか。これらパーリ仏典の用法がサンスクリットにあるかは判断しづらく、例文1と同系の涅槃経ギルナール写本には欠損部分の補完として"yena kuśinagarī"とあるのみであった。また、例文1中のāyāma(アーヤーマ、行く→さあ・いざ、間投詞のような用法)と例文2中のāyasmā(アーヤスマー、尊者)は綴りが似ているが、ここでは全く関係の無い言葉であることを留意されたい。述語部分は共にupa-saṃ √kramであるが、「参る」とか「詣でる」とかと訳し分けた。

☆"yatra A, tatra (またはtad) B" यत्र, तत्र
直訳: Aのところでは(の時に・ならば)、そのところで(その時に・そうならば)Bである。 (英語でいうwhere, when)
例文: Yatra hi dvaitam iva bhavati tad itara itaraṃ jighrati tad itara itaraṃ paśyati tad itara itaraṃ śṛṇoti tad itara itaram abhivadati tad itara itaraṃ manute tad itara itaraṃ vijānāti | (ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド2巻より)
意訳: 実に二元対立のあるようなところでは〔虚辞: そこにおいて〕一方の事物が他方の事物を嗅ぐ・見る・語る・思う・識るといった行為が成立する(後略: しかし万物一体のところではいかなる事物がいかなる事物を嗅ぐ・見る・聞く・語る・思う・識るといった行為が成立するだろうか?)。
英訳の例: For when there is as it were duality, then one sees the other, one smells the other, one hears the other, one salutes the other, one perceives the other, one knows the other, but...

唯一の自己・我(アートマン)の有ることを語ったインド哲学の言葉である。「俗世間の我・偽の我」より離れて得られる「真の我」であり、二元対立が無くて行為・事物の概念すら存在しない我の自在"īśvara"・平等"sāma"な世界観を語る。彼らインド哲学の人は、その我(真我)が解脱の存在だと言うが、仏教だと「その唯一の我または梵(ブラフマン)といったものを否定する」と伝統的に言われる(真我が解脱だという説を取り上げつつ真我は解脱でなく無我を目指すべきだ説いた仏典の例は仏所行讃12章がある)。

☆"yathā A, tathā B" यथा, तथा (接続詞と副詞らしい)
直訳: Aのように、そのようにBである。
例文: yathā pure tathā pacchā, yathā pacchā tathā pure. (パーリ相応部51.12経より)
意訳: 前のように後を〔想う〕。後のように前を〔想う〕。
英訳の例as before, so after; as after, so before; ...

☆"yasmāt A, tasmāt B" यस्मात्, तस्मात् (両代名詞は共に男性か中性の単数奪格由来)
直訳: Aなので、そうなのでBである。
tasmāt, tasmā, tasmādは漢語仏典で「是故(この故に)」と訳されることが多い。現代日本語の「なので・だから・のゆえに・それゆえ」は順接規定条件の表現であり、前後の節を分けてから「是故(この故に)」と置き換えることもできる。

例文: "kṛṣṇo varṇaś ca me yasmāt, tasmāt kṛṣṇo 'ham arjuna" (マハーバーラタ12章330章14節より)
逐語訳: 〔クリシュナからアルジュナへの発言〕肌色が黒いために、〔そのために〕私は「クリシュナ(黒い、梵語kṛṣṇa)」〔という名前〕なのだ、アルジュナよ。
梵語の自由な語順の範疇であるから"yasmāt"の位置が後ろへずれる。特にこの例文は「詩」であるため、詩の韻律に従った語順にする必要があったろう。意味は変わらないことを留意されたい。漢語仏典では中論24:19偈が、AとBとの間に"yasmā- tasmā-"がある。
A = "apratītya samutpanno dharmaḥ kaścinna vidyate"
"yasmāt tasmād" B ="aśūnyo hi dharmaḥ kaścinna vidyate"
漢訳: A「未曾有一法 不從因縁生」 是故"yasmāt tasmād" B「一切法 無不是空者」

梵語は以上であるが、インド・イラン語派の広い観点で他に興味があれば、イラン語派のアヴェスター語文献・アヴェスターも参照されたい。例えば、梵語☆"yatra A, tatra B"の系統にアヴェスター語☆"yathra A, hathra B"がある(Yasna 10-7とされる箇所、英訳などで比較した方がよい)。



●ラテン語の例 Examples in Latin

☆"quod A, id B" (両代名詞は共に中性単数主格か対格。他へも可変)
直訳: Aは、それはBである。
梵語"yas A, sas B"の構文と同じく適宜に別の曲用(性・数・格の語形変化)を用いることができる。

例文: et quod, ferē libenter hominēs id quod volunt, crēdunt. (ガリア戦記より)
意訳: それは、おおよそ、人間たちが(彼らが)欲すること(もの・ところ)を、〔虚辞: それを〕喜んで(彼らが)信じるからである。 (他の訳はwikibooks 1, 2)
先頭の"quod"は、順接既定の肯定表現「~だから」といった意味を作る接続詞なので(上の意訳では「それは~からである」として文頭や文末に表される)、関係代名詞の"quod"と関係なかろう。語順については、前掲の例"quod A, id B"およびその直訳文の意味に相違しないので問題が無い。梵語のように、ラテン語も語順は自由である。例のような語順にすれば"et quod, ferē quod volunt, id hominēs libenter crēdunt."と。

後で「他の訳wikibooks 1」を見直し、「先行詞」という概念について考え直すと、これは一般的な英語の関係代名詞使用にも同様に見られると分かった。その点、梵語の関係代名詞に指示代名詞・人称代名詞を対応させた相関構文とは同じように扱えないこともあろう。参考までにこの例文の英訳を探すと"and [also] because in most cases men willingly believe what they wish."であり、文面には関係詞に対応する形式上の先行詞が無い(もし加えればit that they wish)。ともあれ、crēdunt = believe (3人称・複数形の動詞)以外の語順はラテン語例文とその英訳とが同じであると分かったので、先行詞概念を念頭に置きたい。

☆"quod A, illud B" (両代名詞は共に中性単数主格か対格。他へも可変)
直訳: Aは、そのBは〇〇である。
例文: Quod apud mēnsōrem erat, illud verbum omnia mētītur. (自作の仮歌詞より)
意訳: 量る人物(量る行為)によって有るもの、その言葉(という概念)もまた全てを量る。
illudもといille, illaという代名詞(および限定詞)は、後のロマンス諸語=イタリア語(il, la)やフランス語(le, la)やスペイン語(el, la)などに見られる定冠詞の原形である。ゲルマン諸語の定冠詞(英: the, 独: der, die)とは語源が異なるものの、用法はほぼ同じとなる。
上の例文は自作の・且つ音楽のためのものであって正当性に疑問が持たれようか。そうであれば、"quod, illud"構文の例は別にインターネットで検索して探すとよい。先の「先行詞・関係詞」構造の文が多いと看取されるが、そうでないものに新約聖書ローマ書の7:16"Si autem quod nolo, illud facio (もし私が欲しないこと、それを私は行っているならば…)"が出る。自作歌詞例文では主格形、ローマ書7:16文では対格形であること(なおかつ前者は限定詞"determiner"の用法かも)に注意されたい。

☆"ubi A, ibi B" (関係副詞・副詞)
直訳: Aのところでは(の時に・ならば)、そのところで(その時に・そうならば)Bである。 (先の梵語でいうyatra 英語でいうwhere, when)
例文: Ubi tyrannus est, ibi plane est nulla res publica. (英語版Wiktionary - ubiより)
逐語訳: 絶対君主のあるところは、〔虚辞: そのところは〕明らかに共和制のあることが一つとして無い。 (他の訳はWiktionary日本語版 - ubi)
英訳の例: Where there is a tyrant, there is clearly no republic. (英語版Wiktionary - ubiより)
諸訳に倣って「あるところ・あるところ」としたが、別の言い方として「絶対君主のいる〔状態の〕とき・共和制の〔状態の〕ところ」も可となる(あくまでも動詞"est"を踏襲する)。君主としての統治者がいる=君主制ならば元々共和制と対立する概念であるため、「共和制のあるところ」でなくて当然である。またはラテン語の"tyrannus (テュランヌス)"は本来的にギリシャ語"τύραννος(テュランノス、君主)"という中立的な言葉であって必ずしも暴政を振るう強権者とは限らず、日本語の「暴君」とか英語の"tyrant (タイラント)"のネガティブな意味に限定する理由が無い(ただしラテン語文献でもネガティブな用例は多い)。単に民主的なものならば近現代には日本やイギリスが近代憲法に倣った民主国である。いずれにせよ、この例文は先の例文と違って典拠(当記事投稿以後に調べ直すと原典らしきもの=キケロー著"De re publica"が見られてこれを諺らしく短縮した形式に思われる)を見出せないので、いつの発言者によるどういう文脈の言葉か不明であり、いずれの解釈も可能となる。
反転型の例文"Ibi semper est victoria, ubi concordia est."および訳は右記のサイトに見られるので、興味があれば参照されたい。http://www.kitashirakawa.jp/taro/?p=1979 後掲の英語例☆"where A, there B"における例文・マタイ6:21も参照されたいが、いずれも関係節中の述語は「それがある"est" (三人称直説法能動態現在時制)」しか見当たらない。

☆"ita A, ut B"
直訳: Bのようなこと、そのようことはAだ。(他に「Bするとして、そのようにAする」など)
"ita, ut"は、辞書等によれば共に副詞"adverb"であるという。それを「関係副詞」と呼ぶか。上の例における"ut"は、辞書等によれば接続詞"conjunction"かもしれない。梵語でほぼ同義語の"yathā A, tathā B"は、接続詞・副詞の順とされる。
"ita"は、梵語にある"इति iti (という、って、直接話法の不変化詞。省略形 'ti)"と同根語であるとみなされる。ラテン語ita, 梵語itiはT発音であり、代名詞の表現に由来する派生語である。それらが究極的に印欧祖語*éy や* に由来する。前者Y発音は梵語の関係代名詞ye, yasやその派生語に見られる。英語のthat, theといった語もラテン語ita, 梵語itiのように印欧語T発音(印欧祖語では同じ歯茎音のSやDにもなる)代名詞の派生語である。後者S発音は梵語の代名詞sas, sā, tadのみならず古代ギリシャ語の代名詞かつホメーロスより後世に見られる定冠詞ὁ (ho), ἡ (hē), τό (tó)にも、SがH発音(共に摩擦音)の変化をして継承された。なお、英語のtheを"ye"と表記することがあるのは、かつて英語でルーン文字のソーン þ でth音を表した際に(the = þe) ソーン þ が y と似た字形であってソーンþに擬して古風に見せようと後世の人がした(参考画像"ye olde")ためであり、梵語関係代名詞のye, yasとは関係が無い。

例文1: ita audiō ut doctrīna est. (自作の仮歌詞より)
意訳1: (前節の歌詞を受けて)という(=そのような)教義があるものとして、〔虚辞: そのように〕私は聞いた。
先述の梵語"iti"による直接話法のようなもの・現代言語のカギ括弧や引用符のようなもの、それらを「ラテン語でどう表すべきか」と考えた時、この"ita"を知った。そして、自作歌詞では"ut"と対応した形に相関構文で表したこととなる。

例文2: Non ita loquimur, ut physicī. (英語版Wiktionary - ita中"Usage notes"より)
意訳2: 私たちはその科学者たち〔の言い方〕のような、〔虚辞: そのような〕言い方をしていない。
例文2がもし例文として作られたならば、その意図を私は掴みづらい。何らかの意図を推量するならば、英語版Wiktionaryにあるような英訳"We do not say so/thus, as the physics do."は意味が合わない気がする。そこで、本来は意味を捉えやすい原典があると私は思って探すと、それはキケロー著"De fato"であった。"De fato"英訳の一つ(by H. Rackham)には"we do not use the expression in the sense in which it is used by the natural philosophers"とあり、それに倣って訳した。



●英語の例 Examples in English

☆"that A, it B"
直訳: Aである(Aする)のは、それはBだ。 (準体助詞「の」=事物「こと・もの」人物「もの」に置換)
虚辞"it"消し: Aな(Aする)のはBだ(する)。
例文1: It is the roadway that a car passes.
意訳1:車が通るのは車道だ。 (別の解釈: 車が通るものという車道だ)
例文2: It was me who helped you.
意訳2: あなたを助けたのは私だった。(別の解釈: あなたを助けた人物という私だった)

意味の捉えようには"that"といった語句が接続詞"conjunction"として用いられ、文の前と後(前後の節)を接続する役割を果たす。関係代名詞や接続詞としての"that"のような語が果たす役割は、「複文・重文」を作ることである。なお、限定詞"determiner"「あの、かの」という意味の"that"を混同しないよう、学習途上の私は注意しておきたい。

例文2には"that"でなくて"who"を用いてある。同様に"when"や"where"なども用いられよう。

☆"what A, that B"
直訳: Aである(Aする)のは、それはBだ(Bする)。
虚辞"that"消し: Aな(Aする)のはBだ(する)。
例文: I saw that, what you did. (enwp: Correlativeより)
意訳: 私はあなたがした(既知の話題によって詳細な行為が想定される)のを見た。

口語表現"I saw what you did"としてthatを省くと、少しニュアンスが変わる。例えば、一人称代名詞さえも虚辞的な存在として薄まる。なお、言語学的には「関係詞を省く・関係詞が省かれた」とは考えずに「ゼロ化した・空に帰した・非有非無・形式上の無になった」とも言われ、その場合の「ゼロ関係詞"zero relative..."」を記号「∅ (Ø)」で示すことが多い。

例と例文とで、thatとAとの位置が変わってしまっている。英語はラテン語や梵語と違い、この語順だと例の説明が成立しない。そのため、語順を替えて文を補えば"That was seen by me, what you did.  = What you did, that is seen by me. (あなたがしたことは、〔虚辞: それは〕私によって見られた)"となる。例文通りには"What you did, that I saw. (私が見たことは、〔虚辞: それは〕あなたがしたことだ)"とできる。

当記事では梵語を初めに紹介したが、英語では上記の例や梵語のようなほどに虚辞の代名詞などを用いる必要が無い場合もある。それは、口語的省略であり、インフォーマルな言い方である。そういった現象は、口語的な場面で節ごとの主語が省かれることにも言える。それが英語のみならず、日本語にもある。enwp: Dummy pronounenwp: Null-subject languageを参照されたい。ただし、印欧語は本来、述語表現・動詞に人称を含めるので(梵語・ギリシャ語・ラテン語は典型的)「主語が省かれる」という表現が半ばに当たらない。例えば、主語として想定されるものが「わたし・一人称・話者自身」である場合、その主語による行為を動詞で示すときは一人称代名詞(梵語aham ラテン語egoなど)を用いない(有名なラテン語フレーズ"Cogito, ergo sum."や"Veni vidi vici."は話者自身の行為=一人称の動詞が書かれて一人称代名詞が無い)。印欧語における述語表現は「形としての主語を同じ節では用いない」と換言できる。

☆"where A, there B"
直訳: Aである(Aする)場所には、そこにはBがある。
虚辞"there"消し: Aである(Aする)場所にはBがある。
例文: For where your treasure is, there will your heart be also. (KJV 欽定訳聖書 マタイ6:21)
逐語訳: あなたたちの宝の有るところには、〔虚辞: そのところには〕あなたたちの心もまた有りましょうから。
例文中の"For"の意味が不明だったので、ギリシャ語原典ラテン語ウルガータを調べた。"gr: γάρ, la: enim"が対応するので、この"For"は前節6:20に対する「なぜならば」という意味(順接既定条件)の接続詞であろう。ギリシャ・ラテンの語句は「実に"truly, indeed"」の意味をも持つため、古いウィクリフ訳は"Forſoþe (= forsooth)"とする。なお、その相関構文は"wher þi treſour is, þere and þin herte is."と表れる。

例文"where, there"個所はギリシャ語で"ὅπου, ἐκεῖ (共に副詞)"、ラテン語で"ubi, ibi"、近代のサンスクリット聖書で"yasmāt yatra sthāne yuṣmāṃka dhanaṃ tatraiva khāne yuṣmākaṃ manāṃsi ||"となっていた。

ちなみに、定冠詞"the"は言語学的な語源が"there"と同じである。その説では印欧祖語*に根差すという。thereの変遷を示すと、印欧祖語* > to- > ゲルマン祖語*þar > 古英語þēr > 英語thereであり、theも同様の変遷があるという。ヨーロッパの諸語において定冠詞があり、それらは、日本語でいう「こそあど言葉」が派生した結果であり、日本語でも似たような語法が可能となる(既定のものを引き合いに出す際に「その」とか「あの・かの」とか「この」という)。梵語"tat"や漢語「彼」が英語theと似たように用いられることがある。

ほかの☆"where A, there B"例文はラテン語☆"ubi A, ibi B"において記される。そこでは虚辞としてのthereも含まれる。

☆"who A, he B" (前者は単数主格、後者は男性単数主格。他へも可変)
直訳: Aである(Aをする)者は、その者はBである。
例文: Who don't anger, he is Aryan. Who use mild words, he is Aryan. (自作の英詩より)
意訳: 瞋らざる者は、〔虚辞: 彼は〕アーリア人なり。用愛語の者は、〔虚辞: 彼は〕アーリア人なり。

関係代名詞が後続の述語の対象である場合に"whom"となる。"whom"は目的語とも呼べる。現代口語としては堅苦しい。その例文は、梵語・サンスクリット文法を語ったサイトより引用しよう(一部筆者が補う)「さて、サンスクリットの関係代名詞 yad- は、単独では用いられず、 tad- と呼応して用いられます。 つまり英語風にいえば、 The girl whom I married is a nurse. (私が結婚した少女は看護婦です)を、 Whom I married, she is a nurse. のような言い方で表現するのです。  - http://www.manduuka.net/sanskrit/ogi/index.cgi?doc=e2113」 そういった関係代名詞の用法に、いくらか学習されたい事項がある。"whom"用法は疑問代名詞としても"Whom did you ask? (英語版Wiktionary - whomより引用。意味: あなたが質問したのは誰ですか?=あなたが質問した相手は誰ですか?orあなたは誰に質問しましたか?)"となることを考慮できる。

☆"such A, as B"
直訳: Bである(Bをする)ような、そのようなA…

"such, as"の構文について検索すると、何らかのページで「擬似関係代名詞」などと呼称されていた。such, asは共に代名詞の類でないためである。その点はラテン語の"ita, ut"と似ているはずだが、そちらは印欧祖語で代名詞に当たる語が祖語であったことを、先に検証した。ちなみに、"such, as"の構文における"as"は、何らかの辞書等によれば代名詞とみなされる。"as, as a pronoun(代名詞としてのas)"とダジャレ的に表現する時の"as (2番目にある)"は、前置詞"preposition"である。
言語学においてsuch, so, as, alsoの四者は、いずれも語源関係が看取されるという。その関係としては印欧祖語*swē, *swō (英語self サンスクリット sva に相当)に端を発する英語soから、suchが派生したり、allと結合してalso (古英語: ealswā, eallswā)が成立したり、alsoから短縮されてasが成立したという。先述のT音代名詞も派生形にはS発音の語句(3人称代名詞男性単数主格 梵語sas ラテン語isなど)があり、TとSは共に歯茎"alveolar"の阻害音"obstruent"であるが、ここではあまり関連しないこととなる。もし印欧祖語のより原点を想定する場合、同根語になるかもしれない(現行の学問ではそれほどの往古を考察しない・考察できないし私も同様)。

例文: He spoke in such easy English as could be understood by everybody. (www.eibunpou.net下"28-8"より)
意味: 彼はだれにもわかるような易しい英語で話した。(元サイトの原文)

☆"so A, as B"
直訳: Bである(Bをする)ように、そのようにAである。
例文: You are not so tall as me. (Wiktionary日本語版より)
逐語訳: あなたは私のように〔虚辞: そのように〕背が高く(ある状態で)ない (意訳は同ソースに「君は僕ほど背が高くない(口語的表現)。」と載る)



既述の梵語の例において☆"as A, so B"や☆"when A, then B"を含めた「英訳の例」が挙がっているため、そちらも参照されたい。また、いずれも自作曲歌詞(2018年5月25日より作詞開始)にも"As you shall live hard, so I did."や"When a person lies, then his spirit cries."と出る。語順(関係節の位置関係)は現代英語(先行詞→関係詞)よりも、日本語や梵語(関係詞→指示詞)に寄ったものとなる。これは旧約聖書の比較的有名な英訳フレーズ"As a dog returns to his vomit, so a fool repeats his folly (Proverbs 26:11 和訳例)"にも見られた。






起草日: 20180515

ラテン語で音楽の作詞をする際、色々とラテン語のにわか仕込みをしたので、元々知っていた英語や梵語知識を思い合わせた故に気付いたことを、備忘録として書いた。
梵語・ラテン語・英語の順に比較したが、やはり梵語が最も論理的・弁別的かつヴァリエーションが豊富であると、私は思った。

英語で、ラテン語・ギリシャ語・梵語の典籍を翻訳する際は、現にそれらに見られる文法的特徴を反映するようである。
日本語でも、漢語や梵語の言い回しにならったような翻訳が、仏典の翻訳に見られることも多い。
日本語で、そのまま印欧語の真似をすると、新言語化してしまうように思うが、学術的にはそういった新言語的な表現が必要な場合もあろう。
思えば、中世日本語に由来する「文語体」が、そういった新言語・漢文の訓読の結果に精錬されたものである(その点によって訓読ピジンとも呼称される)。
言語を記号的に用いる・仮定的に用いる前提においては、なおさら柔軟に日本語を論理的・弁別的な言語に擬して用いることもできる。
とはいえ、それは、そういった理解の仕方ができる人(心を読める人、仏のような人)や、共通目的における承認がある場面にしか通用しないであろうし、私の活動では常用できない。



参考

jawp: 複文
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=55518096

jawp: 関係詞
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=67727351

enwikt: Appendix:Ancient Greek correlatives (古代ギリシャ語の相関代名詞)
https://en.wiktionary.org/w/index.php?oldid=42376143

ラテン語を独学しよう>New Latin Grammar 日本語訳 (PDFで閲覧、原文:英語リンク)
http://apostata.web.fc2.com/latin/newlatingrammar.html

Sanskrit Grammar »Nouns »Other Compounds »Relative Clauses
http://learnsanskrit.org/nouns/compounds/clauses

まんどぅーかのサンスクリット・ページ>文法概説>代名詞・補講
http://www.manduuka.net/sanskrit/ogi/index.cgi?doc=e2113

まんどぅーかのパーリ語ページ>パーリ語入門>代名詞 (具格の相関構文について軽く言及)
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以下は、2018年6月25日における雑考となる(2018年8月8日現在も未完成)

代名詞を用いて何らかの事物(前後の文脈に示される事物)を示すことは、日本語や中国語などをはじめとして世界中の言語に見られる(前に示される事物が対象なら前方照応"Anaphora"、後に示される事物が対象なら後方照応"Cataphora"という"Endophora")。
しかし、印欧古典語に見る相関構文は極めてシステマティックで機能的で論理的であり、メタ言語・HTMLなどに似ていると感じた。
当記事の梵語・ラテン語・英語の例たちを思い返せば、"ul, li"や"table, td, tr"が連想される。

相関構文は、そのように(そのように=「メタ言語・HTMLなど」のように)記述すると、以下のようである。
当記事で既出のラテン語"ubi, ibi"によって行おう。

既出の例文 Ubi tyrannus est, ibi plane est nulla res publica.

<ubi>tyrannus est
<ibi>plane est nulla res publica
</ibi>
</ubi>

HTML的な手法を例示したが、これではラテン語や梵語における「語順の自由度」が再現できないかもしれない。

既出の例文 Ibi semper est victoria, ubi concordia est.

<ubi>concordia est
<ibi>semper est victoria
</ibi>
</ubi>

そこで、ubiとibiとの従属関係を解いて双方向に可能な構文を思案した。
妥協案であろうか。HTMLについて普段は考えないでいる私には不相応の挑戦であろうか。

<ubi ibi="semper est victoria">concordia est
</ubi>

または

<ibi ubi="concordia est">semper est victoria
</ibi>

先のものはメタ言語であるから、それに基づいて表示・反映されるべき「結果」がある。
例えば、テキスト要素=文章としては日本語を用いることができる。

どの時?「」の時。その時はである。

また、HTML(HTML5)では、画像や動画を表現できるので、その表示・反映されるべき「結果」を、言語ではなく絵(イラスト)で表現してもよい。
どのように?…実行しないまま、記事投稿の頃合いにはその案を失うのかな。


後年の追記

関係代名詞と指示代名詞は先と同じ「要素 element」のままとして述語を「属性 property」にする方法もある。

<ubi est="concordia">
<ibi est="victoria; semper">
</ibi>
</ubi>

要素の中身は副詞や名詞など述部の形成に関するものを容れる。
否定辞がある場合はセミコロンと半角スペースの後に0を記すなどする。
そうすると、否定の不変化詞(negative article)の"non"はそれでよいが、Ubi tyrannus est, ibi plane est nulla res publica."の否定形容詞"nulla"も同じなのかと言われそうである。
これは10とすればよいかと思うが、かなり無理に思われるかもしれない。


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