何らかの発言・行動は、それが五感(五官・感覚器官)で認知される限りに「された事実」があり、その客観性がある。
その範疇で物質的な証拠によって客観的事実であり、科学的な道理がある。
思考についても、間接的に=発言・行動などから五感で認知できるし、直接的には他者が五感で認知することのできないもののようだが、現代に限って言えば脳波・脳の電気信号の観測・検出(ただし機器の誤作動や改竄を除く)などによる客観性がある。
人の発言・行動・思考・精神は、その範疇で物質的な証拠による客観的事実(論理学でいう真 true)であり、科学的な道理がある。
今の話は量的な"quantitative"研究を意味し、科学の一つの特徴である。
これらの科学的な道理が研究された結果に、人文科学や社会科学の科学性を提示できる。
他には、研究対象の間に本質的な優劣が無いと理性的に意識する研究方法や、本質的な優劣が有るように説明することの無い理論も、科学の一つの特徴である。
研究対象の間の優劣は、個人で自由に想像する・決定することが可能であるのみと思う。
任意の物体(石材など)・物質(分子など)の物性 (physical property, quality) はもちろん、任意の都市の人口・面積・人口密度 (population density) や、任意の人物の功績・業績などは、その数量や事実というものが同カテゴリと人々がみなす事物の間で異なる(大小・多少=多寡など)ことが当然である。
数量を統計にする・事実を提示することはできても、そこから優劣をみなすことは科学の題材に含まれない。
社会科学などで、民衆などが何らかの事物に優劣の感情を抱いているということは、当然、社会科学の題材に含まれよう。
科学の実行者が持つ精神と方法論にも、人文科学や社会科学の科学性を見いだせる。
科学の実行者は、「学者 scholar ・哲学者 philosopher・科学者 scientist・研究者 researcher」と呼びえる。
客観性に関する疑問、自己反省、好奇心・探究心といった精神性がある。
それが時には時代の趨勢に抗うような・左翼的な姿勢に見られることも有り得るが、もしその人の感情や衝動が起こす所であれば、疑問の解決などの行動・探究がある。
他人によって曲げられること・他の事象によって風見鶏のように左右されること、それらが無いように一所懸命の努力もあろう。
そこに、相応の紆余曲折・内心の苦労・葛藤を伴う。
これはメンタリティの話であって人による差異が大きいが、概ねこう見える事績は科学史や技術史から探してみるとよい。
近世以前に古典的なキリスト教神学の観点で望まれない傾向にあった人(管見の限りでは地動説で有名なコペルニクスさんやガリレオ・ガリレイさん)、近世以後に学校教育の通念から外れるように思われた人など、色々といる。
科学者とその共同体がキリスト教神学などから離れていった後であっても、時代ごとに主流の見解と相違する見解が起こり得るが、この例を示すとかなり些末に思われそうである。
科学前史=自然哲学 (natural philosophy, philosophia naturalis) は何か?
現代文明の人は、科学史を見ても見なくても、常に科学理論や技術が進歩し続けていると考えるであろう。
しかし、「人の努力がされてきた」という観点では、昔から変わらないし、どの時代における研究成果も等しいと言える。
ピタゴラス(ピュタゴラス 紀元前6世紀に活躍)やアリストテレス(アリストテレース 紀元前4世紀に活躍)の時代には、その時代に相応の価値観と方法論とで自然哲学・自然学が行われ、彼らの成果が当時であれ後世であれ評価され、それにならった研究が人々に継続される。
以後も人間の学問・研究の行為は、その人々の間の意識が異なっても、その時代に相応の価値観と方法論とで行われた場合に相応の成果が評価されている。
自然哲学という用語は、アイザック・ニュートン(17-18世紀に活躍。近代的な科学への過渡期を代表する人物)の著作の題"Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica"に、なおも見られていた。
たとえ自然哲学から即物的な性質・客観的考証を専らにする自然科学として独立するようになっても、人間(人々 homines, ヒト Homo sapiens sapiens )が行う限りに人間(ヒトで構成される世間)で評価する。
cf. 科学的方法 https://en.wikipedia.org/wiki/Scientific_method
科学のヒエラルキー(階層)と関連事項 https://en.wikipedia.org/wiki/Hierarchy_of_the_sciences
科学理論 一往の「再現性 reproducibility」 再往の「反証可能性 falsifiability, disprovability, refutability(その提唱者カール・ポパー 1902-1994は科学哲学の第一人者であって自然科学の実務者でないがそういった立場からの研究で科学自体へ見解が示されることも大事であると留意されたい)」 i.e. 「不確定性 uncertainty」 (研究対象についての性質を意味した概念名称・科学哲学の概念名称などが混在するが参考までに記した)
メタ科学(メタ研究、科学を科学する) https://en.wikipedia.org/wiki/Metascience_(research) (およびメタ理論 https://en.wikipedia.org/wiki/Metatheory)
科学に大事な疑問精神は、仏道における菩提心 (bodhicitta) に比するものと私は思う(信心 śraddhā, saddhā よりも)。
このようなことは科学哲学であって人文科学・社会科学同然であるため、私が語ってよい。
アドホックな仮説 (ad hoc hypothesis) といった「その人の信じる見解・学説を自ら擁護する・保存を試みるための仮説」は、「先に何かを肯定しようとする立場や意図でなされるもの」である。
その精神は、科学の発展を支えてきた疑問精神と異なるものと考えられている。
もちろん、私はアドホックな仮説とされる方法や研究についても結果的な研究の進展に繋がることもあろうし、全否定すべきだと思わないが、科学者の精神論としては、基本的に有り得べからざることとなろう。
仏道における菩提心や宗教の信仰全般に例えると、一部の科学者は不愉快に思うかもしれないが、人(命あるものたち)が自ら行くべき道を行くときは、何の分野でも根本的で大事な精神性が有ろうと思う。
それも、具体的な成果を上げた後の結果論だと言われようか。
何かヒューマニズムの目線で捉えるならば、疑問精神の他に、科学は、文明の発展へ貢献する心とか医学での人々に対する愛情・慈しみ・哀れみのような心が必要であると言う人もいると思う。
これも仏教でいえば、慈悲や利他の精神であろうが、それも修行者個人の福徳のための手段として必要であるということが上座部仏教でのスタンスであり、大乗仏教ではもっと高次の=仏の目的としての次元で重要視される(現代の仏教で在家信者が功徳やプンを積むと言って行うことは現世利益が望まれる傾向にあることに注意)。
科学の発展と「文明の発展へ貢献する心や医学での人々に対する愛情・慈しみ・哀れみのような心」の関連性は、もっと限定的であるし、科学哲学というよりも倫理観の話に近いと考えてもらいたい。
方法論が科学的であれば、宗教も人文科学・社会科学のうちの宗教学として、科学である。
キリスト教などの一神教には「この世(万物・人類・動植物)は神が作った」という起源説・創造神話があることは聖書(旧約聖書 Old Testament・タナハ Tanakh)に赫赫明明である。
たとえ教義が一つでも、そのような創造論にはいろいろな信じ方があろう。
神の存在と世界の起源とは、多くの信者が各々の人生経験などから導かれた範疇での「素直さ」のままに信じる。
賢い人には賢い人の検証によって一神教の創造論を信じることができ、そう信じる限りには科学的手法の有無によらず宗教的である。
ただし、「創造科学 creation science」の主要な説を私は、聖書の言葉に対して自然科学の説を牽強付会に用いる疑似科学であるとみなし、神学としても聖書が書かれた意図やモーセ・イエスらの精神に背く異端とみなし、宗教・信仰の補助知識としても気休めであって即物的な証拠が説の妥当性を左右する点で不安定とみなし、否定的である(この詳細については当ブログ2018年4月20日記事にある)。
このように手段に科学性が求められ、個人の決定意思に宗教性が求められ、科学・宗教が取り扱う事物は、それが神であれ宇宙であれ生命であれ、科学や宗教で一括りできない而もどちらも尊ぶ概念である「自然 (しぜん・じねん) "nature, natura"」ということになる。
様態論ではあるが、取り扱う事物や研究対象は何であれ「どのように人が用いるか」により、科学の題材にも宗教の題材にもなるという場合があると知られたい。
多方面への科学性の伝導
自然科学の系統の分野から、人文科学と社会科学へ、その科学性の伝導がある。
科学性の伝導により、合理主義的な人文研究がその度合いを高められてゆく。
キリスト教神学では高等批評・本文批評 (historical criticism, textual criticism) などが発生して普及するし、アジア各地の仏教学門(学問ではない)では近代的な仏教学が西洋から導入された。
みな、文献があるという事実とその作者がいるという事実を前提とした文献学的な立場 (philology) を重んじているであろう。
キリスト教も仏教も、もともと、そういった傾向が伝統的な学問・学門のうちにあったが(例えば仏教では大乗荘厳経論で有名な般若経=大乗非仏説について西暦6世紀以前からインドなどで議論されていた。中国では11世紀以前に天台宗などが像法決疑経・提謂波利経などの偽経説を議論していた。日本では13世紀以前に日蓮聖人などが大梵天王問仏決疑経などの偽経説を主張する際に中国の古い経蔵=貞元録・開元録にそれらが無いことを示していた)、西洋はルネサンス期に・日本は江戸時代に不干渉で合理主義的な人文研究をし始め、西洋は17世紀以後に・日本は19世紀以後(近代)には明らかに文献学が行われる。
伝統的な宗教には、その伝統的な学問・学門と並行して近代的な人文科学の手法を行う者たちがいる。
近代以後の日本の国語学は多かれ少なかれ西洋から影響を受けた面はあるが、日本語のためにローカルな用語の使用・造語などがある。
国語学に先駆ける江戸時代の国学は、日本の言語に神道の神秘性を見出していた。
江戸時代の国学の初期の人物である本居宣長さんの複数の著作に見られる発言を要約しよう。
彼は「日本語は本来に濁音(現代の音声学でいえば阻害音系 obstruent の有声音に加えて半濁音と言われる /p/ 唇系の無声破裂音)・促音(阻害音系の長子音 /Q/)・撥音(鼻音の長子音/N/)などが無く清音(阻害音系の無声音に加え有声音では流音など)のみを発していた。リズムが規則的で優雅であった。これが和語(やまとことば)であり、人間が話すにふさわしいことで唯一の存在であった」といい、美的価値や民族主義的思想が大いに表れていた点を注目すべきである。
彼であっても漢語・梵語など外国のもの(彼の師にあたる賀茂真淵も「国意考 c. 1765」で「天竺=インド・をらんだ=オランダ・北国=日本」の文字が漢字と比べて著しく少ない字数に少ない画数の字が占める文字体系であり天竺は五十字で多くの仏説を伝えたという話をしていた)を可能な限り比較して検討したうえでその話をしていたが、現代の人文科学から見ると多くの問題点を見つけることができる(言語学・宗教学における一例としては先のリンク先記事の本論や余談を参照)。
江戸時代は日本版ルネサンス(ルネッサンス)のごとくに、医学・数学・文学に相当する学問が進んだと同時に、人文系学問でも国学・仏教学門(大乗各派が小乗とされる律 vinaya などに関心を向けた。阿含経・大乗経の文献整理や梵語悉曇の研究)・漢学(筆者は詳しくないが儒教・道教・朱子学などか)で合理主義的な研究が盛りつつあった。
西洋のルネサンスは14世紀ルネサンス(14-17世紀)が代表的であって語源的に"Renaissance"はフランス語で"rebirth"のような意味を持つ通り、中世キリスト教文化から古代ギリシャ文化への再生や回帰と形容される。
しかし、やはり分野ごとの恣意性(何かを批判・擁護するための無理な説明の多さ)は付随しがちであった。
科学における合理主義 (理性主義 rationalism) の目で見れば、他者批判はそれもそれでよいことだが、彼をはじめとする江戸時代の人文系学者らの批判精神が不十分であったことになる(批判 criticism 自己批判とは単なる否定・非難・あら探しや心理学・精神病理学でいう病理的で自他の加害につながる感情作用のことではなく学問のための内省の手段を意味する)。
仏教徒が他の仏教徒に向ける批判(浄土系VS日蓮系の宗論のみならず江戸中期真宗大谷派の僧侶とされる法幢さんが中国法相宗の慈恩大師基さんの説を批判・修正するなど色々と見られる)は仏教における自己批判の側面もあるが、やはり反面にそれら事跡の多くが仏教徒各自の宗派や個人の信念や理念に追従する結果の行動だ、と私は見る。
人文科学と社会科学に科学性が伝導されて合理主義的になっても、現代では人間の主観性に関する客観性が重んじられることも多くなる。
人文科学で言語や宗教の多様性を認める・差異を尊重する傾向はある。
言語学について考えると、比較言語学・歴史言語学の関係に対照言語学がある。
現代語は大小さまざまに分岐して方言も多くあり、一見些末なものがあるように思われるが、研究者個人の思いによって広く研究がされる。
個別言語とみなされる存在(および話者の集団)同士の個性はサピア=ウォーフの仮説に、全ての言語使用の刹那的な特性はソシュールさんがアイデアを与えたとする記号学(または記号論。日本語ではこの順にsemiology, semioticsの訳語として用いるがことが多い)に示され、おそらく言語学者の卵はそれらの仮説や理論を学んでいるであろう(余談だがこれらを学ぶ以前に私は仏教学で中論の二諦・大智度論の四悉檀・天台宗の三諦や釈道安の五失本・鳩摩羅什の伝記にいう翻訳論・玄奘の五種不翻を学んで同様の考え方を持った。Dominus Immensusラテン語歌詞と元ネタの自作宗教文学についても参照。それらは仏教の布教や自己の修行や哲学的な見解などの異なる目的のもとで言われているため言語学と同一視しないにしても広い理解の一つとして参考にしてもよい)。
大中小の異なる規模ごとに入れ子状態の主観性(i.e. 共通主観性"consubjectivity")が窺える。
言語学の語用論 (pragmatics) や認知言語学 (cognitive linguistics) や心理言語学 (psycholinguistics) は、現代語の発話やコーパスなどを考察の対象にできる。
様々な研究成果は、死語 (extinct languages) や原始の言語の推定にも繋げられよう。
宗教の教義の発生発展や勢力の離合集散を説明した私のブログ記事もあるので参照されたい。
無宗教の人や元宗教活動家・元信者の人が宗教を弁駁する行為についても触れている。
2017年4月21日投稿『形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理』
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/04/harmony-between-sects.html
言語集団も宗教勢力も、個別の差異はあるが、人間における普遍性に関連する。
社会科学でも、政治・法律・経済で扱われる任意の個人や集団における精神・心理についての科学的根拠(証拠・エビデンス)の類が有っても無くても、「発言や行動が存在する事実」に関する客観性から精神を尊重する傾向がある。
しかし、社会科学の分野には出版・言論における売文家や御用学者が多く、私はその恣意性(e.g. ある意見や声を多数派・少数派と学者各位の判断で前提を作って論じるようなこと)を見る。
他方、脳科学や心理学や精神医学などのさまざまな観点で証明されるべき精神・感情・心理現象があり、まだまでこの倫理道徳らしい方面での課題が多いといえる。
学問研究からの社会的運用として、立法・司法・行政などは実際に起きた犯罪の例=どのような経済層などの背景を持つ者がどのような状況から何の行為に至ったかなど、鑑みて法令や条例や社会保障の予算配分を決めたり、個々の刑罰を決めたりする。
応用分野は、社会科学系も自然科学系も極めて倫理道徳を重んじる必要がある (cf. ES細胞とiPS細胞)。
現代日本語の語彙「カガク kagaku」…科学と化学
「科学(サイエンス science)」と「化学(ケミストリー chemistry)」の紛らわしさが、その発音にある。
両単語は、示すまでもなく、「カガク kagaku」として現代日本語の発音で共通する。
そのことは、日本の人々に、科学が化学であるようなバイアスをかけている。
「科学」と「化学」を同音で把握する日本人が日本人に対して、ステレオタイプとして科学者の外見が「白衣(オプションでメガネなど)」であるように定着させてきたろう。
これは言語音声に関する主観的認知とそのバイアスに関する話であり、認知言語学に関した一見解になる。
言葉における科学性を示したいが、まず音韻論 (phonology) について話そう。
「科学」と「化学」とは、共に現代日本語の一般的な漢字発音で同音異義語 (homophones) となる。
これが歴史的にもそうであるか、他の言語でもそうであるか、検証してみたい。
以下に、両単語の字音仮名遣い(歴史的仮名遣い)と拼音(ピンイン Pinyin)とを示し、対応する音素 (phoneme) も表記する。
「科学 (科學) カガク・かがく」 /kagaku/
字音仮名遣いで「くわがく(くゎがく)」 /kwagaku/
拼音"kēxué (クーシェーまたはクーシュエー /kʰɤ ɕɥ̯œ/ トーンは第一声・第二声)"
「化学 (化學) カガク・かがく」 /kagaku/
字音仮名遣いで「くわがく(くゎがく)」 /kwagaku/
拼音で"huàxué (ファーシェーまたはフヮーシュエー /xu̯ä ɕɥ̯œ/ トーンは第四声・第二声)"
※参考までに、宇田川榕菴(宇田川榕庵)の「舎密開宗 (刊行年代は1837-1847)」は、「化学 chemistry」に相当する西洋の語句(一般にオランダ語 chemie とされ 現代の発音は /xemi/ ヘミに近い音)を「舎密(唐音: せいみ 参考までに拼音: shèmì シェーミー第四声・第四声)」または「舎密加」と音写している。明治時代の官庁に「舎密局」もある。「舎密」は今日の日本語で用いられていない。
このように、両単語が、日本語では現代発音でも字音仮名遣いによる古典発音でも、同じ音素を有している=同音異義語である。
しかし、両単語が、中国語ではそうならずに区別可能である。
「科学」も「化学」も、明治時代から学術・日常の範囲で日本語に取り込まれた語彙であろうし、けだしどちらも明治訳語であろう。
前者が仮に中国古典・漢籍に文字列があったとしても、英語"science"に相当する何らかの西洋の語句の訳語としては幕末~明治期の日本から用いられたろうし、後者は和製漢語(日本での造語)であったろうと私は推定する。
しかし、科学と化学が漢音読みで「カガク(クヮガク)」という同音になることが分かっていたらば、あえてどちらも採用する発想が不可解である(そこで調べなおすと化学の方は中国が先にchemistry相当の語彙として造ったという説を確認できた。もしそうならば中国に同調したか)。
興味のある方が各自で検証をするとよい。
現代日本語では、両単語の同音である状態を鑑みて、それぞれ「カガク・ばけガク(かがく・ばけがく)」と読むことが暫定的に求められる。
もしくは、明治~戦前期に「化学」の音読みが、「化」の呉音で「け(as in 化粧 けしょう keshō, 化身 けしん keshin)」の「けがく kegaku(字音仮名遣い: くゑがく kwegaku)」と作られていたらば、現代語で同音異義語とならず、その紛らわしさも無かったろう。
もし現代語発音で「化学 ケガク (クヱガク)」と読むような翻訳をすれば、「科学」と同音異義語にならないのみならずケミストリーの当て字(または音義対応 phono-semantic matching, jawp: 音義対応翻訳という語はWikipedia発祥の便宜的な翻訳語) に見える上手い訳でさえあったはずが、歴史的にそうならなかった(英語chemistryに当たる日本語を「舎密」と「化学」の決定的な動議が明治18年にあったとされるが化学フォロー側からこの読み方が提案されたか不明)。
「化学」を「ばけがく」と読むことは湯桶読み(ゆとうよみ・訓音の順)であり、「けがく」と読むことは明治訳語・和製漢語における呉音排除に悖る。
他方、湯桶読みのような訓音ハイブリッド読みも、呉音読みも、明治訳語・和製漢語には多く見られる(e.g. 病 呉音: ビョウ 漢音: ヘイ 病理ビョウリ⇔疾病シッペイ)ので、許容されてもよいはずである。
明治以降、果たして漢音・呉音といった漢字音の系統区分が、どれほど活かされたか?
その上で慣習的な表記を選択する柔軟さが、どれほど行使されたか?
同一概念の英語・ドイツ語など西洋言語での名称が同音異義語でないのに和製漢語でのみ同音異義語になる問題性が、どれほど鑑みられたか?
日本語の語彙論 (lexicology)・音韻論 (phonology) に限っても、その科学性を重んじるべき事項が多い。
大多数の日本人は、言語における科学性(知識の宝庫である性質・知的に用いられる性質, scientiaからscientificityのような英語の意味を筆者が恣意的に定義する)・合理性(歴史的な正統性・社会的な実用性)を顧みない。
「言霊・ことだま kotodama」と言っても言わなくても、歴史的に日本語族 (Japonic languages) の人々はそのようであったし、別に構わない。
※たとえナショナリズム・保守主義などが民間レベルに適用されても、朝鮮・ベトナム・インド・旧ソ連の国々が自国の言語改革をしたレベルのようなことを日本上下万民は全然できなかった。正書法 (authography) である「当用漢字=当面用いる漢字」はユーラシア諸国のハングル・チョソングル・クオックグー・アルメニア文字・ジョージア文字などと比べて酷い改変である。現代中国の簡体字でさえも一部に古形へ回帰した例がある(e.g. 「云」は元々「雲 cloud」を象った字であったが「言 to say」の意味の仮借字となり、簡体字で再び雲を意味する。「从」は日本新字体で「従 繁体字・旧字体:從」だが簡体字で古形に戻された。ともに甲骨文字=3,000年以上前からある)キリル文字からラテン文字に変えた国はアゼルバイジャンなどあり。言語改革にはヒンディー語などが古典語・サンスクリットから借用するなどあり。科学的な話だと思われなくなりそうだが、これは自ら言語の歴史を軽んじ、他の言語とも歩調の合わないようなことをし続ける日本国・日本民族の悪しき宿命によるものと私は思っている。和製英語・各種スラング類も既成事実の文化として肯定的に見ることができるが、言語の科学性を重んじた場合は最も日本語に根深い悪習と思う。それで社会的には小学生の教科として英語必修化をしても、グローバリズムに適わないばかりか、自他の言語の尊重といった精神性に寄与しない。精神文化や自他民族伝統などに無頓着であったり、無節操である民族のうちから、自然科学分野で割と優れた成果を上げる人がいることも私は知っている。これは言語・宗教を高度に研究してきたヨーロッパの人々が近代科学を生んだり発展させたことと似ない例として考えることも可能である。無論、当記事で既述の通り、江戸時代の国学・仏教学門などはヨーロッパの近世~近代に行われた文献学・言語学・神学・インド学・仏教学の研究に如(し)くと思う。その無節操な民族のうちから西洋的な人文科学に繋がる研究で傑出した者が現れる。私はプロパガンダのみを書くための理論を作る気ではないため、雑駁だと思われそうでも知る限りの情報を示しつくす所存である。
用語「科学」についての他の考察
語用論 (pragmatics) の観点で「科学」および「サイエンス science」を考えると、一般に生物の写真や生態に関する話題や宇宙と天体の写真や3Dイメージなどを「科学 science」の象徴のように用いる例に重なる。
こういった用法は、「科学 science」が取りも直さず「自然科学 natural science・理科系学問」である意味を明示する。
そうなると、これは語用論というよりも意味論的 (semantic, semantics) である。
事実、英語の辞書(e.g. En. Wiktionary, 他にOED類やCALD・ケンブリッジの英英辞典類もそうなのかといえば検証しづらい)には、そういった意味も"science"のうちに定義されている。
一般通念や常識のうちで、「科学」即「自然科学」という見方は承認されている。
単語の語源論 (etymology) については古文献の例示をしない間は私が話すことを好まないでおり、ラテン語の"scientia"が自然哲学に限られない広範の知識や学問 (knowledge, discipline) を16世紀以前に指すことが多かったという感性に随う。
しかし、今は専門的な言い方や詳細な説明を避けることはできない。
英語の"science"は動詞 scire の現在能動分詞 sciens の中性・複数・主格 = scientia, その古フランス語やアングロ・ノルマン語のような古いロマンス諸語の言語を経由して英語に借用されたものである。ラテン語の動詞 scire (語形変化の例: scio 能動態・直説法・現在時制・一人称・単数) は、何かを「知る・理解する・それに対する知識を持つ状態を得る」という意味である。
今の英語であっても"omniscience"(omni- + science) といえば全知全能の「全知」に当たる意味である(形容詞に omniscient もある)。
ラテン語訳聖書でいくらか用例を探してみると、"scientia"は多めに見られるが"omniscientia"はほぼ無い(分けられて文法的な表現が多い。数少ない用例に見えたローマ書15:14は"omni scientia"である他はヨハネ書18:4の"sciens omnia"のような表現も多く、文脈も予想しやすい神への称賛としての用法が見られづらい。"misericordia"のように存在するものと思っていた)。
ちなみに、日本で「物理学」というと、英語の"physics"(フィジックス, 原音よりでフィズィクス 学問の名称は-ics不可算名詞。physic フィジックと区別される。物理的なことの一般的な形容詞はphysical フィジカル) であるが、この英単語はラテン語・古代ギリシャ語に辿り着く。
その英単語に見られる学問名称の語源を見ると、「全体で部分を表す比喩(日本の論文で換喩・メトニミーや提喩と言っているがはっきりしない)」のような現代的な意味が感じられる。
英語に継承される以前のラテン語"physicus, physica"や古代ギリシャ語"φυσικός"(ピュシコス・形容詞のみ。φυσικήは古代ギリシャ語でその女性形だが現代ギリシャ語で物理学を意味する名詞であって英語からの意味借用"semantic loan"か。古代ギリシャ語の名詞ではφύσιςもある) は、自然に関する意味合い (形容詞: natural 名詞: nature) が主要である。
※単語の使用例はどうか?古代ローマの古典ラテンで書かれたキケロー著 De fato に"Non ita loquimur, ut physici"というフレーズがあることが、当ブログの2018年8月8日の記事に示される。この"physici"は、英訳の一つ(by H. Rackham)において「自然哲学者たち"the natural philosophers"」と翻訳されている。また、古代ギリシャのアリストテレースの著書「自然学」の英題・英語名称が Physics (原題も同様にΦυσικὴ ἀκρόασις) である。
しかし、英単語の場合は、一般的に「物理的なこと・物理学」の意味に限定されるのである。
早くても西暦14世紀以降にヨーロッパのどこかで、"physicus"系統の語彙にその意味が強く与えられて用いられるようになったろうか。
他の比較できる例には"physica"の派生として英単語の"physician"(フィジシャン、フィズィシャン。医者・医師または内科医) がある。
他には「科学技術」という言葉の存在も考えてみたい。
政治・経済などの文脈で「科学技術」という言葉は多く見られるし、ニュースなど世間一般でもそう言いつつ、簡単に「サイエンス(cf. カルチャー、スポーツ)」ともいう。
この言葉はもともと英語の"Science and Technology (Science & Technology)"という表現から借用したものと考えられる。
日本語では「科学技術」として四字熟語のように取れる形で用いられるが、英語に"and (&)"が用いられるように、「科学」と「技術」とで別概念の並列複合語"enumerative compound"である。
並列複合語を解して「科学と技術」、「科学・技術」となる。
別概念が並び称される際、このような用法からは、次第に「科学=技術」という同位(同格・等位)の概念や「科学的な技術"scientific technology"、科学による技術"technology with science"」という修飾関係に感じられるようになるし、一般大衆の中にはそう思う傾向もありえる。
これも「科学=化学」のように、バイアスの例であろう。
標準的な日本語の高低アクセント (pitch accent) において、「科学↓技術(カガクが頭高)」は並列複合語のように聴こえたり、「科学→技術(カガクが平板)」は修飾関係の複合語のように聴こえたりする(前者の発音は一般に用いられないので区別したい者が意図的に用いることを期す)。
技術とは一般的に、工科・工学"engineering"系統の分野であり、大衆の日常生活はそこから多く恩恵を受け、いわば科学研究の応用"application, applied"であるので後発的である(科学と違って技術開発には「物性などから目的に適う優劣を人間が判断する作業」が含まれる。構造的には技術も現代の科学も倫理に縛られやすいが)。
なまじ近現代においては科学研究の手段に工学的な技術の道具があるから、双方向・相互依存関係でもあるとも考えられる。
両者の境界が曖昧である現状(統一される?)に、「科学技術"Science and Technology"」という呼称は便利である。
ただし、技術という工学系統の話題を除いても、結局、「カガク、サイエンス」といえば「自然科学」の意味・用法が強く残ると思う。
言うまでもなく、「科学」の領域は広くも狭くもあり、その用語には細心の注意を払いたい。
大学の人文系・文科系の学部「文学部"Faculty of Arts"」
漢字「文」(the letter 文 bun, wén) の一用法
文学部という名称の「文」は、もともと英語の"arts (アーツ、複数形)", ラテン語の"ars (アルス、単数形)"に当たる言葉を指したろう。
英語の"arts"は、視覚芸術・美術"fine art"に限る必要性が無い。
トリヴィウム(trivium トリヴィアムとも)、リベラル・アーツ"liberal arts"ともいえる文章的な技術・技能 (writing skills; grammar, logic, and rhetoric) を指すことが"arts, ars"の原義に近かろう。
英語での名称の幅を拡大すれば、"humanity, humanities"も含まれよう。
「文学部"Faculty of Arts (and Humanities)"」は、"arts, ars"の学部"faculty"ということになる。
決して「文学"literature"」や「文化"culture"」の学部ではない。
このように英語など西洋言語での名称を介して考えると、人文科学の手法に近づく(それでさえ誤った前提や概念認識によって行われれば疑似科学・疑似人文科学になる側面も否定できない)。
先述の通り、「文学部」や「人文」という「文」の字の用法は、英語の"arts"に当たる言葉とその概念に由来するであろうが、これは明治以降の日本人が和製漢語・明治訳語のように用いたことが起源であろう。
その用法は中国の古典・漢籍 (Chinese classic texts) に見られないので、由来することも無い。
ところで、2014・15年に私(当時17・18歳)が日蓮正宗系の学問をしていて「明者は其の理(り・ことわり)を貴び、闇者は其の文(もん・ふみ)を守る(依義判文抄より)」という大石寺26世・日寛上人の言葉を見たとき、「理系・文系」の人を連想してしまった。
これは江戸時代の仏教徒・僧侶の言葉であって「文・理」は仏・釈尊や日蓮大聖人の教説の額面的な意味と真意(文底秘沈)とを区別したものであり、現代日本の「文系・理系」の区分と関係ない。
※原典の依義判文抄には「理」の字が「釈尊や日蓮大聖人の教説の真意」の意味で用いられた箇所が無いようでもある。更に「文・理」は三証のうちの「文証(もんしょう)・理証(りしょう)」のことでもなかろう。「依義判文」という題号の語彙における「文」に対比した「義」を、その「理」の同義語とみなすことも不自然である。論理学的にいうと「文底秘沈を知ってから文を判ずること」が「文と文の真意との従属関係」を不明瞭にしているので、循環論法や「鳥と卵」のようなパラドックスになり得る(文学の読解であれば人の人生経験とその価値判断が関わるのでそうとも限らないが)。古い文献・文学はフラグ回収(伏線回収)のようなことが必ずしもされないので、直ちに一文の意味を決定することは困難である。
卓越した先人たちの学問・芸術研究
学問領域の分化は、合理化された分業体制の一種であろう。
個別の学問の専門性が漸次に高められ、学者の知識が高度であらねばならず、現代では自然科学がそのように成り立つ。
※科学哲学者であるトーマス・クーンのパラダイム論(Kuhn 1962「科学革命の構造」)によれば、既存の学問のもとで未解決の問題が解決されるという新しい科学的業績=パラダイム(それは同時に新たな課題を作るもの)にベテランや若手の様々な研究者・科学者たちが賛同するなどして共通のテーマのもとで学問領域が分化する例が多いともいう。新しいパラダイムに移行するという「パラダイム・シフト paradigm shift」もある。それは著作でいうとアリストテレス「自然学」→ニュートン「プリンキピア」などであり、またニュートンらの古典力学からアインシュタインらの現代物理学のような例もあるという。彼は自然科学についてのみパラダイム論が適用されるべきであると概念・用語の制限をしている。パラダイム論は後に彼自身が放棄したものであるが、科学史と分野のアイデンティティを考える一つの基準ではあろう。
西暦1900年以前は、現代の学問から見て複数の分野とみなされる研究を一研究者の行動範囲に含むことが多かった。
それだと、一般的な科学者というよりは、哲学者・思想家・芸術家のようでもある。
博学の人"polymath"と称すべきか。
中世ヨーロッパの科学者たちは、一般教養としてキリスト教神学の造詣もあったし、彼らによる神学への言及もされた(多くの場合はキリスト教神学の範疇で科学的・自然哲学的な研究をしたとも考えられる)。
そのほか、人文系の研究に貢献する者が医者を生業にしていた例も多かろう(e.g. 記紀の研究者Motoori Norinaga 本居宣長や フィンランド伝承Kalevalaカレワラ編纂者Elias Lönnrot リョンロートや Esperantoの考案者で聖書翻訳者L. L. Zamenhof ザメンホフ)。
私が知る西暦1900年以前の博学な人物の具体的な例は、直ちに挙げづらいが、レオナルド・ダ・ヴィンチが典型例かと思う。
近代以後では、言語学で功績をあげた人に数学者・物理学者がいた。
例えば、ヘルマン・グラスマン (Hermann Grassmann, 1809-1877)とトマス・ヤング (Thomas Young, 1773-1829)である。
前者は「グラスマンの法則 (Grassman's law)」と呼ばれる法則を言語学(印欧語研究)にも物理学(色彩・色覚関連)にも与えた(他にグラスマン代数とも呼ばれる外積代数がある)。
後者は「ヤング率 (Young's modulus)・ヤングの実験 (Young's interference experiment)」というエポニムが物理学で知られており、印欧語研究やエジプト学(ヒエログリフ研究)も行い、2006年出版の伝記の題"The Last Man Who Knew Everything"が彼の博学ぶりを表している。
両者は一括りに言えば「古典言語と光に関して通暁していたし先進的な研究をした」ことになる。
当記事の執筆に際して知った類似の人物に、チャールズ・サンダース・パース (Charles Sanders Peirce, 1839-1914) がおり、彼も数学などに長けていた・光に関する研究(天体の測光やメートル単位の基準に光の波長を用いる提案)をしていた・論理学や哲学に大きな影響を与えた(実用主義の英語名称2つpragmaticism, pragmatismはいずれも彼の造語。先述の記号学・記号論の一大潮流でありしばしばソシュールに対比してsemioticsという学問名称を用いる人物として挙げられる。2つの同様の名称を造ったことはそれこそが言語や記号のプラグマティックな側面を重んじることの現れであろう。言語学の語用論pragmaticsに似るが無関係)。
※余談だが、パラダイム論に関してこの例も挙げよう。光の本性(人々がそう思いたい本質・正体)とされるものは粒子か・波動かという議論があった。17世紀にニュートンさんが「光の粒子」説に当たる見解を示した。その前にホイヘンスという学者が「光の波動」説に当たる見解を示しており、先述のヤングさんは「光の波動」説が支持される実験をした人物である。後者の時代から光の波動説(数十年後にはフレネルという学者がホイヘンスさんの説を補強する)が物理学などで広く支持されるようになっても、19世紀後半から終盤までに「光電効果」に関する実験などが示され、光の波動説に危機が訪れた。粒子・波動の両者の性質が見いだされる光の作用が証明されている状況で、20世紀からはアインシュタインさんが「光量子・光子(フォトン photon)」説が支持される光電効果についての研究によって1921年ノーベル物理学賞を受賞した。光の本性とされるものを簡単に言えば、粒子でも波動でもなくどちらの性質も観測される「量子」であるということ (wave–particle duality) が結論であり、今日の科学で承認される。光学は今も光の波動としての性質に関するパラダイムに則る波動光学 (physical optics) と、光が量子であるとするパラダイムに則る量子光学 (quantum optics) とで異なる分野が並存し、研究されている。目的性によっては幾何光学 (geometrical optics) も研究される。
※パラダイム論や科学哲学に関してまだ思うことがある。現代日本のファンタジーのRPG (Role-Playing Game) 作品などには、そのゲーム内の魔法理論や錬金術理論などがある。一例として、魔法の属性は、それを示す図がシステマティックであるし、ゲーム内の世界で厳然とした事実である。ビデオゲームならば属性間の相性(火と水または火と氷が対称的)がプログラムで計算・処理・反映されて有意である。現代日本のファンタジーのRPG作品内の魔法理論や錬金術理論の淵源は定かでないが、やはり中東やヨーロッパにあったと思しき中世・近世の本格的な魔術・錬金術の学問や近代・現代のファンタジーの文学などに求められる要素は多いと思う。それらを骨組みに、世界各地の神話・伝承などで肉付けされてもいると思う。現代のファンタジー作品に限ればMP (Mana Points, Magic Points) のために「マナ mana」というポリネシア系言語(マオリ語など)由来の言葉が用いられるようになった経緯が分かるように、多少の要素の淵源を求めることができる。大局的に私は認知しない。何が現代日本のファンタジーのRPG作品の祖先に当たるかは断定的でなくも、いくらかパラダイムや規範となるような理論やそれを含む作品があることは考えられる。よくできた魔法・錬金術の理論は、科学と見紛うものである。しかし、現代日本のファンタジーのRPG作品は既に古典力学・物理学などよりも後の科学知識を知っているような人たちが築き上げた産物・所産ならば、詮ずる所、現代的な疑似科学またはSF (science fiction) であって最も精巧なモデルである。
先人たち彼ら個人の研究領域が幅広いことについて、その成果を知るのみでは、教養知識として「画竜点睛を欠く (an idiom in Japanese, it lacks a Chinese classic source)」ようなことである。
彼らの成果から感じ取れる彼らの探究心や知的好奇心の強さ(人間性)を、感じてもらいたい。
もちろん、学者個人の哲学や理念ということには、専門分野で直向きな努力をする人たちからも感じられることは多い。
現代の合理化された学術分野のうちで学者たちの精神が失われていない限りには、彼らの姿勢に精神性を求めることができ、彼らの精神性を良いものとも悪いものとも多面的に見てみると、自身の努力の糧になろう。
いわゆる文系・理系の学際性とペア関係
ここから、「文系・理系」という、現代で学術はもとより教育方針としても意味をなさない区分(二項概念)の名称を用いる。
反例として東京大学の文科一~三類・理科一~三類などがあるように、一部では機能している(ただし東大合格者は文理不問で入学後の4年制前期課程=2年間みな教養学部に所属してリベラルアーツ教育を受けることになっている)。
口語的用法では、今も多少の日本人が学問とその研究者の人格に対して区分に用い続けていると見られる。
ただし、高等教育(大学)に関してこの区分が的確な側面もあろう。
ひとまず、文系・理系の学際性とペア関係について考えてみよう。
他に、社会学・言語学と情報技術・情報科学(技術というとエンジニアリング、プログラミングとか。理学部・工学部など)を示そうと思ったが、雑駁になりそうなので控える(古形としての情報学は社会や文献などの情報全般を扱う文系領域であろう)。
上記の例らは、私がペア関係だとみなす理由を詳述していないので、各自で想像するとよい。
実際に異分野間の研究者がどのくらい協力し合うことがあるかは、私が決定的に論ずることもできないし、上記の例らも、それぞれに程度の差が考えられる。
「心理学と精神医学」の相関性は想像に難くないが、「分子人類学と分子生物学」の相関性は考えづらくて「何となく似てる(口語)」という程度の感覚に思われよう(分子人類学の研究対象を身近な親戚・民族など家系レベルから拡げて現生人類のみならず比較のためにヒト属Homoないし霊長類Primates全般にするならば生物学と大きく重複する。任意の学問分野の研究は現生人類とショウジョウバエ特にDrosophila melanogasterなど非脊椎動物まで比較することもある)。
学際性ということに、多分野の研究者との緊密性 (transdisciplinarity, pluridisciplinarity) とか、異分野との方法論の共通性 (interdisciplinarity) とか、研究対象の共通性とかが言われるならば(multidisciplinarityを含めた4つの用語はいずれも1つずつ別個に定義することができても1つあたりに別の説明がされることもあり興味のある者が各自で調べればよい1, 2)、これらは区別されたほうがよかろう。
ともすると、学際性の考察ではなく「個の没個性・曖昧性(曖昧さ ambiguity)」というべき考察になる。
また、学際性の高低を量っても、やはり、それが学問分野の優劣を示すわけでもないと知るべきでもある。
研究者が、必要性に応じて便宜的に異分野の知見を用いることになる。
それで、一応の学問名称による分野の区分と、その無分別の側面もあろうが、一応、基本的に私は分野の細やかな差異を認識する。
私が自然科学・人文科学・芸術を融合させた研究をすることもある。
今まで挙げた名前以外では、認知科学やメディア研究(メディア・スタディーズ)、メディア芸術(メディア・アート)が私に関係している。
2016年2月15日『二次元・三次元の相貌の相対的な互換性に関する理論の体得』(後年の追記①・②を含む。自然科学の要素は少なくて形式科学や認知科学に近い)
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/02/2ji-3ji-gokan.html
2019年4月6日投稿『母音の広狭と音高の上下に関する実験の意図で作詞した ~ 楽語共調理論 入門』(音響学・音声学・音楽、他に形式科学という数学の考え方が適用される。以下の画像の周波数解析は音声学のうちの実験音声学に一般的な手法であって数字利用でしかないが他に母音チャートを3Dの立体図形として考えるなど)
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/04/symphonedy-vowel-pitch.html
学際性というよりも、その学問の基本的な知識に2つ以上の学問の知見が大事になるものが、言語学に関連した「音声学 phonetics」である。
音声学の現代までの過渡期には、他の学問の知見や方法を導入する学者がいたこと(言語の音韻研究は古代インドのシクシャーからして解剖学的だったので近代~現代のみならず伝統的にも同様の傾向あり)が明らかであろうが、今はその方法論が既成事実化しているので、学際性ではなく単一学問が持つ特徴に収斂する、と私はみなす。
音声学には、"interdiscipline"と呼ばれる、単一学問に対する分類名称が適用できる。
続いて、科学史や数学史の研究領域などはどうであろうか?
一学問分野それ自体の社会的地位や歴史的経緯(科学者個人ないし共同体・小社会)などを研究することは、学際というよりもその分野の社会科学の側面を研究していることになる。
論文・文献の整理や学説発表の順序など、自然科学系・理系ではこの行為が必要である(学問は人の手でなされてきたしこれからも人道的・人権的な見地とともにそうあらねばならないという倫理規範がある)。
各研究者個人で必要最低限に(彼らが論文を書く際に出典を示すために必要)そうするし、科学史(数学・化学・物理学・医学ほか自然科学系の歴史)の専門家は少ない人数でも必要になろう。
科学史などがもし社会科学の範疇にみなされるとしても、多かれ少なかれその分野の専門知識が要求されることになる(数学史であれば数学的知識と技能とが人物・学説を把握するレベルで必要か)。
※私は一学問分野それ自体を学問研究の対象とすることについて「メタ〇学"metascholarship"」と呼びたい。いわゆるメタ認知 (metacognition) は認知主体がそれ自身を客体=対象にして認知すること(心自ら心を知る。この用語の意味は脳科学や神経学の見地で反論されそうだが慣用的にそう言える)を意味するように、メタ meta- という接頭辞に再帰的な (reflexive) 意味があるが、メタ〇〇学はそれに加えて学問領域の範囲外に超越している状態を指す。しかし、メタ認知がそうであるように、メタ数学・超数学 (metamathematics) が数学の方法で数学を研究することから考えると、私の「メタ〇学」名称には問題があるので、この「呼びたい話」を気にしないでよい。
日本人が好きな「文系・理系の分別と、それによる言論」
の学問における空虚さ
日本人は「文系・理系」として後天的アイデンティティを分別して用いることが好きであろう。
ここでいう「日本人」とは無標複数形(日本語では複数形のための標示 marker が無い語形・無標 unmarked で用いることが多く日本人の不特定多数を指す場合に「日本人たち」とはあまり言わない)であり、社会についての思考能力がある年代(例えば15~64歳)を想定する。
日本人はこの日本列島内に生まれ育つ過程で民族的差異(肌の色のみならず宗教や言語の多様性)と対立とを身近に経験しづらい分、同じ日本人のうちに後天的なアイデンティティを自己や他者に仮想したがると思う。
それはともかくとして、日本人は学問的な目的性や教育現場での便宜的な区分の前提を等閑視して「文系・理系」の分別(客観的基準さえ乏しいままのそれ)に依存した思考と発言とを行いやすい事実はある。
多くの恣意性を孕み、既に結論ありきの議論がなされることもあろう。
人により、そこから文系・理系に本質的な異なり・絶対的な隔たりが感じられよう。
日本語版Wikipedia - 文系と理系あたりを参照すればよい。
中国語圏だと、日本のような用例で「文系・理系」とは言わなかろう。
中国語版Wikipedia - 文理分科は、中国大陸や香港での高等教育に関する話題が書かれる。
文科は政治・法律・経済・リテラチャーとしての文学といった社会科学や人文科学の科目を指し、理科は自然科学全般(精密科学や生命科学など)の科目を指し、いずれも国語・外国語・数学などは必修のように見える。
文理分科および必修科目とは、学校ごとの程度の差があって基本的に自由の上で結果的に傾向が似たものか、それとも社会主義国家らしく国家的カリキュラムがあってそれに基づいたか?
中国語版Wikipedia記事は一般論が書いてあるとしても無出典の記述が多いので、大学の科目などに興味のある者が北京大学とか精華大学とかを調査すればよい。
それとWiki間リンク (wikidata) の付けられた英語版Wikipedia - Hard and soft science は、科学分野の特徴に関する区分としてそれらの名称が稀に用いられていることが提示されているようである。
口語的な用語 (colloquial terms) ではあるので、大まかに言うと"hard science"は理科系, "soft science"は文科系を意味する。
歴史的には、1960年代に初出のワードである(cf. Yngve 1961, Storer 1967 哲学や社会科学の系統の人による思考の産物でもある)。
詳細な分野ごとの"hardness"、質・量の測定は不明確である(一応Storer, 1967に例示されている様子)。
学問的・哲学的な観点で"criticism (批判)"も多く考えることができるし、英語圏で一般的な分別概念・名称とは思えない。
Wikipediaのうち日本語版と中国語版と英語版とでは、全く別の概念が、wikidataで相互リンクを付与されているという、極めて稀な現象が示された。
文系でも理系でも、語学(国語・外国語)と数学(算数・幾何学)は学問の基本であると考えられるし、各々が要求される程度に随って習得すべきであろう(小学校の科目でいう”こくご”と”さんすう”を連想)。
日本人が好きな「文系・理系の分別と、それによる言論」について、一般的に何の観点で行われるか?
ほとんど経済的な利益や、就職・就業・世間体で有利か不利かという観点が基本であると見てよい。
cf. 東洋経済「本当に強い大学ランキング」および島野清志「危ない大学・消える大学」と彼の他著書 (英語版Wikipediaに2011年に日本語版から翻訳された記事があるが日本語版Wikipediaでは2012年に削除されている) 東洋経済もとい大学通信による「大企業(有名企業400社)就職率」などという調査もある
高等教育機関としての大学(入試・受験)に関する話題や就職活動に関する話題では、特に文系・理系の分別が世間で好まれよう。
※早慶とかMARCHとかFランク大学とかといった区分も、その世間での用法について、似たように見てよい(cf. 川上, 2017. 大学の“くくり”はどのように生まれたのか?)。「高等教育機関」のうちでは、東大・京大・早慶・MARCHといった学校が、22歳・学士・新卒としての典型的な現代人・社会人・労働者の量産を行っていると考えられる(第26代東京大学総長・蓮實重彦さんは平成10年度入学式における式辞でそれを望んでいないように語った)。「学術機関」としては、そう見られるべきでない。何の大学であれ、各々の使命感と目的性とによって学究研鑽をする者がいるからである(Fランク大学がそう呼ばれる所以はそれがいないからだと反論されそうだが)。学校の個性は、所在地が代表することもあり、北海道大学は北海道大学の価値があり、琉球大学は琉球大学の価値があると考えたい。フィールドワークのある学問研究では地方ごとの「地の利・ローカル性」が活かされる。こう話しても、個性的な学校以外を切り捨てるようであるから、あまり望ましくないかもしれない。「良い人材と出身校」は結果論のようだが、しかしまた、「この学校の出身者には良い人材が多い」という傾向が見出されることは、排除できない。効率主義の現代日本では、特にそういった「~だろう、~に違いない」の見解がマニュアル的になされることも妥当である。個人では解決できない社会的な課題である。
当事者の自負としてのアイデンティティは尊重されるべきだが、他者がそのまた他者へと一方的にみなすことは悪用と感じる。
自虐的な自己紹介・謙遜表現で用いる場合は悪用のグレーゾーンと感じる。
「文系・理系(および体育会系)」以外にも「草食系・肉食系(および雑食系)」や「右脳派・左脳派(一般に通俗的二項概念として用いられる。脳・神経科学では"ブロードマン脳地図44野はブローカ野の一部分であり、言語の発話に関係する"と語るように脳の詳細な部位を想定して思考や感傷などの機能を説明することが多いので単純に左右という二分法・二元論は通じない。そもそもこういった即物的な語彙を用いる一般人が即物的な実験を行っていないし専門家の説明や文献を参照しない。単に仮説として理性や感性を意味するならばそれでよいと思うが)」や「A型・B型など血液型」は、そういう用いられ方がされやすい。
アイデンティティの有無は、人間の精神性(感情・欲望)から分別の必要が相応にされるものの、日本人が行うものはかなり前時代的な人種論(18世紀~20世紀前半ヨーロッパなど)と似る。
それよりも更に悪い側面として、日本人は学問的な知見・方法論に疎遠である。
インターネットの二面性として、文化的な意識の向上と、小規模共同体の拡大とが見られ、高速な文化の消耗と生産とが起こるであろうが、どうにも学問的な知見・方法論は定着するよりも、遮蔽されて一般化しづらくある。
巷間の「文系には分からない・理系には分からない」などという論調が、実に一方が他方への秘密主義を持っていて学問的態度に反している。
何よりも人間 Homo sapiens sapiens の知的な可能性(sapience, sapientia. 分かることは結果論なので直観"intuition"か無感情知性"intellect"かはここで不問)を限定しているようで、人道的でない。
もし自他を文系・理系と分別して本質的に能力の異なる生まれを持つ価値観に固執するならば、人間の知的な可能性 (sapience, sapientia) を自ら放棄することに繋がりかねない。
その人間を限定する「文系・理系」という語彙は、その学問の専門性か、その高等教育を経ることか、通俗的二項概念としての「右脳・左脳」に託したものか、俗語での用法が判然としない。
先述の東京大学の文科・理科のような現代日本で稀な教科区分(ただし東大合格者は文理不問で入学後の4年制前期課程=2年間みな教養学部に所属してリベラルアーツ教育を受けることになっている)とも似つかない、曖昧模糊の俗語用法であろう。
現代の個人主義は科学を支えるものと考えられるが、多くの日本人は未だにその語感に惑わされて意味を正しく把握せず、理系・文系、血液型などを妥当な目的なしに用いている。
「誰には分からない・分かる」ということから、かえってその人間の性質を世俗に生きる者たちの間で新たに定義したいのかもしれない。
「文系・理系の分別と、それによる言論」は、社会の経済・大衆の価値観のうちで利益もあろうが、学問のうちで害悪なるのみであり、真面目・真摯・実直な科学者たちにこの種の話がされるならば、彼らの機運を損じると私は思う。
ましてや、各科学の第一線に立つ者たちがそれを話したり論じることは、有り得べからざることである(有り得ることが望ましくない)。
もし、文系分野の人に、科学的姿勢が欠如していたらば(e.g. 経済学・政治学の大衆的な著者は売文家であってプロパガンダや偏向的な論調が多い)、彼らに理系の方法論を与えるのもよかろう。
しかし、文系であれ理系であれ、数学的な技能を使う分野もある。
数学的な技能がハードに用いられる分野であっても、それによる高慢さが、当記事に語られたような科学的態度を失わせることも有り得る。
参考までに、90年代の欧米(ここで主にアメリカ・イギリス・フランス)には、自然科学・数学などの知識をでたらめに援用する一部の人文・社会科学の行為を皮肉にした論文が発表されて1997年には著者アラン・ソーカル Alan Sokal らが"Impostures intellectuelles"(邦題: 「知」の欺瞞...)を出版して皮肉ではなく批判を行っている、「ソーカル事件 Sokal affair (およびthe science wars)」がある。
次の事実は恐るべきである。
学問の外で世間一般の人々が、いわゆる科学知識を借りて偏向的な主張をすることも多い(医学知識・健康法などの情報にこの傾向が有る e.g. 健康食品・運動器具の宣伝 cf. 私が19歳で提唱した真の健康法の理論的説明箇所)。
生命科学(生理学・医学・薬学など)は、応用分野であるし、応用できる知識や実生活に馴染む知識が多いので、疑似科学だと証明し得るか科学的根拠が確立しづらい偏向的な主張が混ざることを注意したい。
説明をする人の主観的な経験と客観的な法則とを混同して説明する人がいることにも注意したい。
これらの問題性には、歴史学・宗教学などの知見(cf. 戦争 セクト主義 同一宗教内の対立・分派)が有効なことも多いと思うので、是非、学んでほしい。
学者・専門家・権威の説であってもWikipedia上の説であっても匿名の説であっても、興味のある者が彼自身による検証で情報の取捨選択がされねばならない。
この要点は、「自洲・法洲・不住他洲 (DN 16: attadīpā viharatha attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā. )」といえる。
先のような仏教(特にパーリ・阿含の類)における仏道修行のスタンスを、また科学に援用することもできる。
この点で、科学研究も仏道修行も、その人の真に拠り所とすべきは知能・精神・五感の対象である現象(物事)であり、これについての説明を過去記事より引用しよう(仏道の場合でいう現象・物事・法"dhamma, dharma"はあくまでも以下に説明されるように科学的な範疇と異なる点に注意)。
引用源:『仏道修行のための論理、不戯論のための戯論』
および『法華経方便品の偈とスッタ・ニパータ4.12経の偈、および大乗と小乗の「一乗」の不一不異義』
他の参考:『仏教はなぜ仏教か?宗教・科学・哲学・倫理・道徳との類似点・相違点、中道と解脱』
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/07/What-Buddhism-is-not.html
とりあえず、多くの学問・研鑽を行う者たちにおいて、科学性・科学的態度と科学分野の多様性に関する話題は現代の日本国を生きる上で、頭の片隅に置かれる。
少しでも、私からこの話題に対する見解を示し、学問の方向性を闡明したかった。
いつのどこでも真摯・実直な人は誰もが五里霧中にある状態を自覚すると思うが、各々の心にコンパス(方位磁石・方位磁針・羅針盤)を携え、それを1日3回でも1月1回でも見直すようにすればよい。
少し社会・世俗の話題
最後に、日本国の科学分野(世間の人が思う対象の自然科学・医学・工学・技術全般)の現況についても少しだけ考えよう。
研究費用と国家予算の配分の問題や、自然科学・工学などでの女性の少なさなど、色々ときかれる。
前者は様々な科学者たちの意見が既に示されており、これから文部科学省(cf. 科学研究費助成事業)などの関係省庁・機関で何かしら改善が進められると思う。
当時民主党・台湾二重国籍報道で有名な蓮某議員のかつての発言「二位じゃダメか」とは、「国家的な科学技術の水準や地位を維持する目的のもとでの悪い例」として顧みられよう。
自然科学系の人たちは「多くの分野で被引用率・被引用数(一国中の機関の論文が一定期間内に国内外で引用された回数)は日本が中国に追い抜かれている。その主要な原因は科学技術に対する予算の少なさだ」と警鐘を鳴らす(10年以上は鳴らし続けている。早ければ先の蓮實さん式辞を加味して90年代からか。ここ5年は日本人ノーベル賞受賞者の発言も世間で報道されやすい。当記事執筆中の2019年5月上旬にも国立・科学技術振興機構 JSTが最近の調査情報を発表していると毎日新聞やNHK, k10011913021000.htmlで見た)。
費用に関する話は行政府などに限らず、民間・企業レベルでも世間で明るみに出る話題があり、2018年ノーベル医学・生理学賞を受けた本庶佑(ほんじょ・たすく Honjo Tasuku)さんが、彼の研究 (PD-1) に関連する医薬品オプジーボの特許に関する件で受賞以前からその製造・販売を行う小野薬品工業と対立する(本庶さんは基礎研究の促進や若手の育成を目的にして金銭を多く得ようとする)など(彼の研究に関連する特許問題は国外にも案件がある)、研究開発には色々な社会的な課題が伴うようである。
予算以外にも制度改正・法整備が、今までの技術の進歩や今の研究者の意欲(研究の発展)に対応して柔軟に進められる必要があるとも言われる。
例えば、2018年(法令・平成30年)中にはAI(Artificial Intelligence 人工知能)による学習行為において著作物が広く利用できるような著作権法の改正があった。
2015年ころに私は、司法解剖(検死・検視)の質や量を改善するための法改正が必要だと聞いた(科学技術と直接の関係はない話題だったと思う)。
生命科学の分野に関しては、法整備のための立法府に対する主張に加えて一般人・民間人レベルで理解を浸透させる必要もあろう。
人々があまり即物的になれば、倫理観を失い、別の弊害もあることは一種の悲観であろうか。
後者は日本の女性たち自身が何かと「科学でも政治でも誰かしら女性が目立つとその女性自身が恥をかく」ことを自覚していて弱腰になっているかもしれない(e.g. リケジョ小保方さん論文・第二次安倍改造内閣女性閣僚2名同日辞任・豊田真由子議員による暴言・稲田さん防衛大臣期に数度の失言)。
2018・19年には東京の某医大をはじめとする複数の大学医学部が女性受験生・男女不問浪人生が不利に扱われる問題の報道もあったが、何らかのアンケート・意識調査によれば、医学部生か医学部OBか誰か女性たちの過半数が「仕方のないこと」のように回答していたようでもある(なぜ彼女たちがそう思ったか理由は不詳)。
これらの話題は私の脳内ソースにも依るため、興味のある者が別途、検証すればよい。
私の現住・愛知県豊橋市で当地に唯一の国立大学である「豊橋技術科学大学 (TUT)」は、THE世界大学ランキング (Times Higher Education World University Rankings) 2019で801-1000位に入っており、そこに載る「女男比 Female:Male Ratio」を見ると、豊橋技科大が9:91という驚異の女性の少なさであった。
これは1,000位以内に入った日本国内の大学51校のうちで最も低い比の値である(cf. 東京工業大学 14:86, 東京医科大学 50:50)し、他の世界全体で1,001+のランクを含めて探しても女性が値10以下である学校は男子校などを除いて2校のみである (Indian Institute of Technology Roorkee 10:90, Muroran Institute of Technology 9:91 いずれも工科系)。
※「比の値」なのかは正確にどうか不明である。9:91を数学での「比 (ratio)」として見るならば、女性は百分率の比率における9%ではなく、9 割る 91 の答えから 9.89%となるためである。このあたりが数学での「比」なのか、通俗的な「比」(足して任意の数になるもの、ここでは 100 なのですでに百分率、パーセンテージである数値を並べてある)なのかは定かでない。
当地にも何か影響が及ぶかは不確定であるし、及ぶならば未知数である。
男女平等に関する事柄に限れば、先述の通り、日本の女性たち自身の意思や意識による部分も多い。
女性たちが望まない範囲の男女平等の状態(学術以外にも労働や雇用も同様)を、権力ある女性男性諸氏が作り上げることは、文字通り心ある人々にとって望ましくない。
※蛇足の肉球を書こう→『国連 UNをはじめとする世界的機関の多くは「表現の自由=報道の自由」のように扱っても、大衆娯楽・大衆美術・大衆文化を対象とする傾向が少なく、世界で一定の地位を得た日本の漫画やAVなどを彼らがあまり尊重しないばかりかユニセフ UNICEF的に規制対象としていようこと』は、やはり『日本の漫画やAVなどが、性差別を根幹に抱えている(しかし日本で特殊な点は例えば作者・出演者が男性でも女性でも「一方の性・特に女性が弱者のように表現される漫画やAV」に嫌悪感を持たずに表現を追求している)・同性愛をその異性の性的興奮を誘うように表現する・小児性愛のような側面を持つ』と見る彼らが好意的に日本の漫画やAVなどを表現の自由の対象としない要因となっているように、私は感じる。表現(言論に限らず芸術的な創造を含むspeech, expression全般)によって不特定多数の他者の人権が侵害されることを思い合わせるにも、大衆の娯楽・美術・文化を交えると、表現の自由のために恣意的な二重規範・ダブルスタンダードは現状に強く残っているように、私は感じる。個人の思考や思想の自由に繋がる以上は基本的に放任されているとはいえ、私的な範疇でさえ小児性愛のポルノグラフィー所持に対しては風当たりが強いように、私は感じる。本題と関係ないばかりか漫ろに私感を示したという蛇足肉球であるため、この記述は考証の対象にしなくてよい。
金銭や性の話題(男女やLGBTや性的嗜好)などはセンシティブでヒステリックであるから、あまり触れたくはなかったが、少し社会性の側面で示しておいた。
日本国では西暦2019年5月1日、平成31年をもって明仁天皇陛下が退位して上皇となり、新しい天皇陛下(徳仁)が即位したことで「新しい時代・令和」になった・改元されたと話題があることに便乗した形である。
日本国の学術領域がどうなるか、多角的な見地で観察し続けることは一興であろうと思う。
当記事の言いたかったことは社会性の話でないわけで、筆者としては「科学と化学 The terms in Japanese "kagaku and kagaku" ~ 言語における科学性もとい合理性と実用性」の話が最も重要であった。
表題の「科学的なこと」とは、客体 (object) それ自体は素粒子・分子・生物・惑星・宇宙、光・音・言語・神仏の何であれ、方法論によって何でも科学の研究対象になることである。
または研究対象が定量的な (quantitative) 方法に堪えられると判断されるともいう。
19世紀以前の科学史で確かに、言語や神仏など定量化しづらい事物・社会的な特性が人々において持たれた事物は科学の研究対象にならなかった(神学や国学などがザ・科学に似ても信仰に基づく側面が強い)と分かるが、過去のことである。
また、見解によって何でも哲学の考察対象になるし、宗教でいう真理"veritas, satya"に包含されることを忘れないでほしい。
これを帰一のもの・ユニバース"one, unus, universe"というが、万物"all things"であって無量の多さでもあり、客体の如何も自由に考えることが可能である。
改めて科学の語源である"science, scientia"ということを考えてもらおう。
起草日: 20190426
2019年4月上旬から、私は学問に関する別の文章を書いていた。
(2019年4月26日時点の文章内容を以下に引用する)
それはYouTubeに投稿する動画説明文の案であったが、社会科学の話題に関する主張が長きに過ぎるために、独立記事にする案が従来あった。
2019年4月26日に当記事を起草することで決行された。
上の引用に「萌えの典籍」について一度言及される。
その件は、興味のある者が各自で調べればよいとしよう。
ここでは科学に関して言及した萌えの漢詩・偈を抜粋する。
「地球偈 (ぢぐげ Sino-xenic: *digu-gat Sanskrit: *medinī-gāthā)」と称され@、萌類(みょうるい)たちのアンソロジー形式で詠まれている。
以下には多多嚩(たたば)と阿若(あにゃ)のみを載せる。
科学の教育・社会・世俗の話題と関連する記事↓
2015年4月24日投稿『両親の学歴・職歴についての調査と記録』
https://lesbophilia.blogspot.com/2015/04/blog-post_31.html
この両親(父: 駒澤大学不明部 母: 帝京大学薬学部 離婚済み)からは、科学性(人間の科学的態度)も文化性も協調性も看取されづらいことが、過去の膨大な記録文書のうちに示されている。
それが時には時代の趨勢に抗うような・左翼的な姿勢に見られることも有り得るが、もしその人の感情や衝動が起こす所であれば、疑問の解決などの行動・探究がある。
他人によって曲げられること・他の事象によって風見鶏のように左右されること、それらが無いように一所懸命の努力もあろう。
そこに、相応の紆余曲折・内心の苦労・葛藤を伴う。
これはメンタリティの話であって人による差異が大きいが、概ねこう見える事績は科学史や技術史から探してみるとよい。
近世以前に古典的なキリスト教神学の観点で望まれない傾向にあった人(管見の限りでは地動説で有名なコペルニクスさんやガリレオ・ガリレイさん)、近世以後に学校教育の通念から外れるように思われた人など、色々といる。
科学者とその共同体がキリスト教神学などから離れていった後であっても、時代ごとに主流の見解と相違する見解が起こり得るが、この例を示すとかなり些末に思われそうである。
科学前史=自然哲学 (natural philosophy, philosophia naturalis) は何か?
現代文明の人は、科学史を見ても見なくても、常に科学理論や技術が進歩し続けていると考えるであろう。
しかし、「人の努力がされてきた」という観点では、昔から変わらないし、どの時代における研究成果も等しいと言える。
ピタゴラス(ピュタゴラス 紀元前6世紀に活躍)やアリストテレス(アリストテレース 紀元前4世紀に活躍)の時代には、その時代に相応の価値観と方法論とで自然哲学・自然学が行われ、彼らの成果が当時であれ後世であれ評価され、それにならった研究が人々に継続される。
以後も人間の学問・研究の行為は、その人々の間の意識が異なっても、その時代に相応の価値観と方法論とで行われた場合に相応の成果が評価されている。
自然哲学という用語は、アイザック・ニュートン(17-18世紀に活躍。近代的な科学への過渡期を代表する人物)の著作の題"Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica"に、なおも見られていた。
たとえ自然哲学から即物的な性質・客観的考証を専らにする自然科学として独立するようになっても、人間(人々 homines, ヒト Homo sapiens sapiens )が行う限りに人間(ヒトで構成される世間)で評価する。
cf. 科学的方法 https://en.wikipedia.org/wiki/Scientific_method
科学のヒエラルキー(階層)と関連事項 https://en.wikipedia.org/wiki/Hierarchy_of_the_sciences
科学理論 一往の「再現性 reproducibility」 再往の「反証可能性 falsifiability, disprovability, refutability(その提唱者カール・ポパー 1902-1994は科学哲学の第一人者であって自然科学の実務者でないがそういった立場からの研究で科学自体へ見解が示されることも大事であると留意されたい)」 i.e. 「不確定性 uncertainty」 (研究対象についての性質を意味した概念名称・科学哲学の概念名称などが混在するが参考までに記した)
メタ科学(メタ研究、科学を科学する) https://en.wikipedia.org/wiki/Metascience_(research) (およびメタ理論 https://en.wikipedia.org/wiki/Metatheory)
科学に大事な疑問精神は、仏道における菩提心 (bodhicitta) に比するものと私は思う(信心 śraddhā, saddhā よりも)。
このようなことは科学哲学であって人文科学・社会科学同然であるため、私が語ってよい。
アドホックな仮説 (ad hoc hypothesis) といった「その人の信じる見解・学説を自ら擁護する・保存を試みるための仮説」は、「先に何かを肯定しようとする立場や意図でなされるもの」である。
その精神は、科学の発展を支えてきた疑問精神と異なるものと考えられている。
もちろん、私はアドホックな仮説とされる方法や研究についても結果的な研究の進展に繋がることもあろうし、全否定すべきだと思わないが、科学者の精神論としては、基本的に有り得べからざることとなろう。
仏道における菩提心や宗教の信仰全般に例えると、一部の科学者は不愉快に思うかもしれないが、人(命あるものたち)が自ら行くべき道を行くときは、何の分野でも根本的で大事な精神性が有ろうと思う。
それも、具体的な成果を上げた後の結果論だと言われようか。
何かヒューマニズムの目線で捉えるならば、疑問精神の他に、科学は、文明の発展へ貢献する心とか医学での人々に対する愛情・慈しみ・哀れみのような心が必要であると言う人もいると思う。
これも仏教でいえば、慈悲や利他の精神であろうが、それも修行者個人の福徳のための手段として必要であるということが上座部仏教でのスタンスであり、大乗仏教ではもっと高次の=仏の目的としての次元で重要視される(現代の仏教で在家信者が功徳やプンを積むと言って行うことは現世利益が望まれる傾向にあることに注意)。
科学の発展と「文明の発展へ貢献する心や医学での人々に対する愛情・慈しみ・哀れみのような心」の関連性は、もっと限定的であるし、科学哲学というよりも倫理観の話に近いと考えてもらいたい。
方法論が科学的であれば、宗教も人文科学・社会科学のうちの宗教学として、科学である。
キリスト教などの一神教には「この世(万物・人類・動植物)は神が作った」という起源説・創造神話があることは聖書(旧約聖書 Old Testament・タナハ Tanakh)に赫赫明明である。
たとえ教義が一つでも、そのような創造論にはいろいろな信じ方があろう。
神の存在と世界の起源とは、多くの信者が各々の人生経験などから導かれた範疇での「素直さ」のままに信じる。
賢い人には賢い人の検証によって一神教の創造論を信じることができ、そう信じる限りには科学的手法の有無によらず宗教的である。
ただし、「創造科学 creation science」の主要な説を私は、聖書の言葉に対して自然科学の説を牽強付会に用いる疑似科学であるとみなし、神学としても聖書が書かれた意図やモーセ・イエスらの精神に背く異端とみなし、宗教・信仰の補助知識としても気休めであって即物的な証拠が説の妥当性を左右する点で不安定とみなし、否定的である(この詳細については当ブログ2018年4月20日記事にある)。
このように手段に科学性が求められ、個人の決定意思に宗教性が求められ、科学・宗教が取り扱う事物は、それが神であれ宇宙であれ生命であれ、科学や宗教で一括りできない而もどちらも尊ぶ概念である「自然 (しぜん・じねん) "nature, natura"」ということになる。
様態論ではあるが、取り扱う事物や研究対象は何であれ「どのように人が用いるか」により、科学の題材にも宗教の題材にもなるという場合があると知られたい。
多方面への科学性の伝導
自然科学の系統の分野から、人文科学と社会科学へ、その科学性の伝導がある。
科学性の伝導により、合理主義的な人文研究がその度合いを高められてゆく。
キリスト教神学では高等批評・本文批評 (historical criticism, textual criticism) などが発生して普及するし、アジア各地の仏教学門(学問ではない)では近代的な仏教学が西洋から導入された。
みな、文献があるという事実とその作者がいるという事実を前提とした文献学的な立場 (philology) を重んじているであろう。
キリスト教も仏教も、もともと、そういった傾向が伝統的な学問・学門のうちにあったが(例えば仏教では大乗荘厳経論で有名な般若経=大乗非仏説について西暦6世紀以前からインドなどで議論されていた。中国では11世紀以前に天台宗などが像法決疑経・提謂波利経などの偽経説を議論していた。日本では13世紀以前に日蓮聖人などが大梵天王問仏決疑経などの偽経説を主張する際に中国の古い経蔵=貞元録・開元録にそれらが無いことを示していた)、西洋はルネサンス期に・日本は江戸時代に不干渉で合理主義的な人文研究をし始め、西洋は17世紀以後に・日本は19世紀以後(近代)には明らかに文献学が行われる。
伝統的な宗教には、その伝統的な学問・学門と並行して近代的な人文科学の手法を行う者たちがいる。
近代以後の日本の国語学は多かれ少なかれ西洋から影響を受けた面はあるが、日本語のためにローカルな用語の使用・造語などがある。
国語学に先駆ける江戸時代の国学は、日本の言語に神道の神秘性を見出していた。
江戸時代の国学の初期の人物である本居宣長さんの複数の著作に見られる発言を要約しよう。
彼は「日本語は本来に濁音(現代の音声学でいえば阻害音系 obstruent の有声音に加えて半濁音と言われる /p/ 唇系の無声破裂音)・促音(阻害音系の長子音 /Q/)・撥音(鼻音の長子音/N/)などが無く清音(阻害音系の無声音に加え有声音では流音など)のみを発していた。リズムが規則的で優雅であった。これが和語(やまとことば)であり、人間が話すにふさわしいことで唯一の存在であった」といい、美的価値や民族主義的思想が大いに表れていた点を注目すべきである。
彼であっても漢語・梵語など外国のもの(彼の師にあたる賀茂真淵も「国意考 c. 1765」で「天竺=インド・をらんだ=オランダ・北国=日本」の文字が漢字と比べて著しく少ない字数に少ない画数の字が占める文字体系であり天竺は五十字で多くの仏説を伝えたという話をしていた)を可能な限り比較して検討したうえでその話をしていたが、現代の人文科学から見ると多くの問題点を見つけることができる(言語学・宗教学における一例としては先のリンク先記事の本論や余談を参照)。
江戸時代は日本版ルネサンス(ルネッサンス)のごとくに、医学・数学・文学に相当する学問が進んだと同時に、人文系学問でも国学・仏教学門(大乗各派が小乗とされる律 vinaya などに関心を向けた。阿含経・大乗経の文献整理や梵語悉曇の研究)・漢学(筆者は詳しくないが儒教・道教・朱子学などか)で合理主義的な研究が盛りつつあった。
西洋のルネサンスは14世紀ルネサンス(14-17世紀)が代表的であって語源的に"Renaissance"はフランス語で"rebirth"のような意味を持つ通り、中世キリスト教文化から古代ギリシャ文化への再生や回帰と形容される。
しかし、やはり分野ごとの恣意性(何かを批判・擁護するための無理な説明の多さ)は付随しがちであった。
科学における合理主義 (理性主義 rationalism) の目で見れば、他者批判はそれもそれでよいことだが、彼をはじめとする江戸時代の人文系学者らの批判精神が不十分であったことになる(批判 criticism 自己批判とは単なる否定・非難・あら探しや心理学・精神病理学でいう病理的で自他の加害につながる感情作用のことではなく学問のための内省の手段を意味する)。
仏教徒が他の仏教徒に向ける批判(浄土系VS日蓮系の宗論のみならず江戸中期真宗大谷派の僧侶とされる法幢さんが中国法相宗の慈恩大師基さんの説を批判・修正するなど色々と見られる)は仏教における自己批判の側面もあるが、やはり反面にそれら事跡の多くが仏教徒各自の宗派や個人の信念や理念に追従する結果の行動だ、と私は見る。
人文科学と社会科学に科学性が伝導されて合理主義的になっても、現代では人間の主観性に関する客観性が重んじられることも多くなる。
人文科学で言語や宗教の多様性を認める・差異を尊重する傾向はある。
言語学について考えると、比較言語学・歴史言語学の関係に対照言語学がある。
現代語は大小さまざまに分岐して方言も多くあり、一見些末なものがあるように思われるが、研究者個人の思いによって広く研究がされる。
個別言語とみなされる存在(および話者の集団)同士の個性はサピア=ウォーフの仮説に、全ての言語使用の刹那的な特性はソシュールさんがアイデアを与えたとする記号学(または記号論。日本語ではこの順にsemiology, semioticsの訳語として用いるがことが多い)に示され、おそらく言語学者の卵はそれらの仮説や理論を学んでいるであろう(余談だがこれらを学ぶ以前に私は仏教学で中論の二諦・大智度論の四悉檀・天台宗の三諦や釈道安の五失本・鳩摩羅什の伝記にいう翻訳論・玄奘の五種不翻を学んで同様の考え方を持った。Dominus Immensusラテン語歌詞と元ネタの自作宗教文学についても参照。それらは仏教の布教や自己の修行や哲学的な見解などの異なる目的のもとで言われているため言語学と同一視しないにしても広い理解の一つとして参考にしてもよい)。
大中小の異なる規模ごとに入れ子状態の主観性(i.e. 共通主観性"consubjectivity")が窺える。
言語学の語用論 (pragmatics) や認知言語学 (cognitive linguistics) や心理言語学 (psycholinguistics) は、現代語の発話やコーパスなどを考察の対象にできる。
様々な研究成果は、死語 (extinct languages) や原始の言語の推定にも繋げられよう。
宗教の教義の発生発展や勢力の離合集散を説明した私のブログ記事もあるので参照されたい。
無宗教の人や元宗教活動家・元信者の人が宗教を弁駁する行為についても触れている。
2017年4月21日投稿『形骸化した団体は内側から乱れて分派し、ほとぼりが冷めると寄り添う離合集散の道理』
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/04/harmony-between-sects.html
言語集団も宗教勢力も、個別の差異はあるが、人間における普遍性に関連する。
社会科学でも、政治・法律・経済で扱われる任意の個人や集団における精神・心理についての科学的根拠(証拠・エビデンス)の類が有っても無くても、「発言や行動が存在する事実」に関する客観性から精神を尊重する傾向がある。
しかし、社会科学の分野には出版・言論における売文家や御用学者が多く、私はその恣意性(e.g. ある意見や声を多数派・少数派と学者各位の判断で前提を作って論じるようなこと)を見る。
他方、脳科学や心理学や精神医学などのさまざまな観点で証明されるべき精神・感情・心理現象があり、まだまでこの倫理道徳らしい方面での課題が多いといえる。
学問研究からの社会的運用として、立法・司法・行政などは実際に起きた犯罪の例=どのような経済層などの背景を持つ者がどのような状況から何の行為に至ったかなど、鑑みて法令や条例や社会保障の予算配分を決めたり、個々の刑罰を決めたりする。
応用分野は、社会科学系も自然科学系も極めて倫理道徳を重んじる必要がある (cf. ES細胞とiPS細胞)。
「科学(サイエンス science)」と「化学(ケミストリー chemistry)」の紛らわしさが、その発音にある。
両単語は、示すまでもなく、「カガク kagaku」として現代日本語の発音で共通する。
そのことは、日本の人々に、科学が化学であるようなバイアスをかけている。
「科学」と「化学」を同音で把握する日本人が日本人に対して、ステレオタイプとして科学者の外見が「白衣(オプションでメガネなど)」であるように定着させてきたろう。
これは言語音声に関する主観的認知とそのバイアスに関する話であり、認知言語学に関した一見解になる。
▽ これはどんな科学かな? 大学生と化した女児Sによる 科学者コスプレの絵+発音の図 |
言葉における科学性を示したいが、まず音韻論 (phonology) について話そう。
「科学」と「化学」とは、共に現代日本語の一般的な漢字発音で同音異義語 (homophones) となる。
これが歴史的にもそうであるか、他の言語でもそうであるか、検証してみたい。
以下に、両単語の字音仮名遣い(歴史的仮名遣い)と拼音(ピンイン Pinyin)とを示し、対応する音素 (phoneme) も表記する。
「科学 (科學) カガク・かがく」 /kagaku/
字音仮名遣いで「くわがく(くゎがく)」 /kwagaku/
拼音"kēxué (クーシェーまたはクーシュエー /kʰɤ ɕɥ̯œ/ トーンは第一声・第二声)"
「化学 (化學) カガク・かがく」 /kagaku/
字音仮名遣いで「くわがく(くゎがく)」 /kwagaku/
拼音で"huàxué (ファーシェーまたはフヮーシュエー /xu̯ä ɕɥ̯œ/ トーンは第四声・第二声)"
※参考までに、宇田川榕菴(宇田川榕庵)の「舎密開宗 (刊行年代は1837-1847)」は、「化学 chemistry」に相当する西洋の語句(一般にオランダ語 chemie とされ 現代の発音は /xemi/ ヘミに近い音)を「舎密(唐音: せいみ 参考までに拼音: shèmì シェーミー第四声・第四声)」または「舎密加」と音写している。明治時代の官庁に「舎密局」もある。「舎密」は今日の日本語で用いられていない。
このように、両単語が、日本語では現代発音でも字音仮名遣いによる古典発音でも、同じ音素を有している=同音異義語である。
しかし、両単語が、中国語ではそうならずに区別可能である。
「科学」も「化学」も、明治時代から学術・日常の範囲で日本語に取り込まれた語彙であろうし、けだしどちらも明治訳語であろう。
前者が仮に中国古典・漢籍に文字列があったとしても、英語"science"に相当する何らかの西洋の語句の訳語としては幕末~明治期の日本から用いられたろうし、後者は和製漢語(日本での造語)であったろうと私は推定する。
しかし、科学と化学が漢音読みで「カガク(クヮガク)」という同音になることが分かっていたらば、あえてどちらも採用する発想が不可解である(そこで調べなおすと化学の方は中国が先にchemistry相当の語彙として造ったという説を確認できた。もしそうならば中国に同調したか)。
興味のある方が各自で検証をするとよい。
現代日本語では、両単語の同音である状態を鑑みて、それぞれ「カガク・ばけガク(かがく・ばけがく)」と読むことが暫定的に求められる。
もしくは、明治~戦前期に「化学」の音読みが、「化」の呉音で「け(as in 化粧 けしょう keshō, 化身 けしん keshin)」の「けがく kegaku(字音仮名遣い: くゑがく kwegaku)」と作られていたらば、現代語で同音異義語とならず、その紛らわしさも無かったろう。
もし現代語発音で「化学 ケガク (クヱガク)」と読むような翻訳をすれば、「科学」と同音異義語にならないのみならずケミストリーの当て字(または音義対応 phono-semantic matching, jawp: 音義対応翻訳という語はWikipedia発祥の便宜的な翻訳語) に見える上手い訳でさえあったはずが、歴史的にそうならなかった(英語chemistryに当たる日本語を「舎密」と「化学」の決定的な動議が明治18年にあったとされるが化学フォロー側からこの読み方が提案されたか不明)。
「化学」を「ばけがく」と読むことは湯桶読み(ゆとうよみ・訓音の順)であり、「けがく」と読むことは明治訳語・和製漢語における呉音排除に悖る。
他方、湯桶読みのような訓音ハイブリッド読みも、呉音読みも、明治訳語・和製漢語には多く見られる(e.g. 病 呉音: ビョウ 漢音: ヘイ 病理ビョウリ⇔疾病シッペイ)ので、許容されてもよいはずである。
明治以降、果たして漢音・呉音といった漢字音の系統区分が、どれほど活かされたか?
その上で慣習的な表記を選択する柔軟さが、どれほど行使されたか?
同一概念の英語・ドイツ語など西洋言語での名称が同音異義語でないのに和製漢語でのみ同音異義語になる問題性が、どれほど鑑みられたか?
日本語の語彙論 (lexicology)・音韻論 (phonology) に限っても、その科学性を重んじるべき事項が多い。
大多数の日本人は、言語における科学性(知識の宝庫である性質・知的に用いられる性質, scientiaからscientificityのような英語の意味を筆者が恣意的に定義する)・合理性(歴史的な正統性・社会的な実用性)を顧みない。
「言霊・ことだま kotodama」と言っても言わなくても、歴史的に日本語族 (Japonic languages) の人々はそのようであったし、別に構わない。
※たとえナショナリズム・保守主義などが民間レベルに適用されても、朝鮮・ベトナム・インド・旧ソ連の国々が自国の言語改革をしたレベルのようなことを日本上下万民は全然できなかった。正書法 (authography) である「当用漢字=当面用いる漢字」はユーラシア諸国のハングル・チョソングル・クオックグー・アルメニア文字・ジョージア文字などと比べて酷い改変である。現代中国の簡体字でさえも一部に古形へ回帰した例がある(e.g. 「云」は元々「雲 cloud」を象った字であったが「言 to say」の意味の仮借字となり、簡体字で再び雲を意味する。「从」は日本新字体で「従 繁体字・旧字体:從」だが簡体字で古形に戻された。ともに甲骨文字=3,000年以上前からある)キリル文字からラテン文字に変えた国はアゼルバイジャンなどあり。言語改革にはヒンディー語などが古典語・サンスクリットから借用するなどあり。科学的な話だと思われなくなりそうだが、これは自ら言語の歴史を軽んじ、他の言語とも歩調の合わないようなことをし続ける日本国・日本民族の悪しき宿命によるものと私は思っている。和製英語・各種スラング類も既成事実の文化として肯定的に見ることができるが、言語の科学性を重んじた場合は最も日本語に根深い悪習と思う。それで社会的には小学生の教科として英語必修化をしても、グローバリズムに適わないばかりか、自他の言語の尊重といった精神性に寄与しない。精神文化や自他民族伝統などに無頓着であったり、無節操である民族のうちから、自然科学分野で割と優れた成果を上げる人がいることも私は知っている。これは言語・宗教を高度に研究してきたヨーロッパの人々が近代科学を生んだり発展させたことと似ない例として考えることも可能である。無論、当記事で既述の通り、江戸時代の国学・仏教学門などはヨーロッパの近世~近代に行われた文献学・言語学・神学・インド学・仏教学の研究に如(し)くと思う。その無節操な民族のうちから西洋的な人文科学に繋がる研究で傑出した者が現れる。私はプロパガンダのみを書くための理論を作る気ではないため、雑駁だと思われそうでも知る限りの情報を示しつくす所存である。
用語「科学」についての他の考察
語用論 (pragmatics) の観点で「科学」および「サイエンス science」を考えると、一般に生物の写真や生態に関する話題や宇宙と天体の写真や3Dイメージなどを「科学 science」の象徴のように用いる例に重なる。
こういった用法は、「科学 science」が取りも直さず「自然科学 natural science・理科系学問」である意味を明示する。
そうなると、これは語用論というよりも意味論的 (semantic, semantics) である。
事実、英語の辞書(e.g. En. Wiktionary, 他にOED類やCALD・ケンブリッジの英英辞典類もそうなのかといえば検証しづらい)には、そういった意味も"science"のうちに定義されている。
一般通念や常識のうちで、「科学」即「自然科学」という見方は承認されている。
単語の語源論 (etymology) については古文献の例示をしない間は私が話すことを好まないでおり、ラテン語の"scientia"が自然哲学に限られない広範の知識や学問 (knowledge, discipline) を16世紀以前に指すことが多かったという感性に随う。
しかし、今は専門的な言い方や詳細な説明を避けることはできない。
英語の"science"は動詞 scire の現在能動分詞 sciens の中性・複数・主格 = scientia, その古フランス語やアングロ・ノルマン語のような古いロマンス諸語の言語を経由して英語に借用されたものである。ラテン語の動詞 scire (語形変化の例: scio 能動態・直説法・現在時制・一人称・単数) は、何かを「知る・理解する・それに対する知識を持つ状態を得る」という意味である。
今の英語であっても"omniscience"(omni- + science) といえば全知全能の「全知」に当たる意味である(形容詞に omniscient もある)。
ラテン語訳聖書でいくらか用例を探してみると、"scientia"は多めに見られるが"omniscientia"はほぼ無い(分けられて文法的な表現が多い。数少ない用例に見えたローマ書15:14は"omni scientia"である他はヨハネ書18:4の"sciens omnia"のような表現も多く、文脈も予想しやすい神への称賛としての用法が見られづらい。"misericordia"のように存在するものと思っていた)。
ちなみに、日本で「物理学」というと、英語の"physics"(フィジックス, 原音よりでフィズィクス 学問の名称は-ics不可算名詞。physic フィジックと区別される。物理的なことの一般的な形容詞はphysical フィジカル) であるが、この英単語はラテン語・古代ギリシャ語に辿り着く。
その英単語に見られる学問名称の語源を見ると、「全体で部分を表す比喩(日本の論文で換喩・メトニミーや提喩と言っているがはっきりしない)」のような現代的な意味が感じられる。
英語に継承される以前のラテン語"physicus, physica"や古代ギリシャ語"φυσικός"(ピュシコス・形容詞のみ。φυσικήは古代ギリシャ語でその女性形だが現代ギリシャ語で物理学を意味する名詞であって英語からの意味借用"semantic loan"か。古代ギリシャ語の名詞ではφύσιςもある) は、自然に関する意味合い (形容詞: natural 名詞: nature) が主要である。
※単語の使用例はどうか?古代ローマの古典ラテンで書かれたキケロー著 De fato に"Non ita loquimur, ut physici"というフレーズがあることが、当ブログの2018年8月8日の記事に示される。この"physici"は、英訳の一つ(by H. Rackham)において「自然哲学者たち"the natural philosophers"」と翻訳されている。また、古代ギリシャのアリストテレースの著書「自然学」の英題・英語名称が Physics (原題も同様にΦυσικὴ ἀκρόασις) である。
しかし、英単語の場合は、一般的に「物理的なこと・物理学」の意味に限定されるのである。
早くても西暦14世紀以降にヨーロッパのどこかで、"physicus"系統の語彙にその意味が強く与えられて用いられるようになったろうか。
他の比較できる例には"physica"の派生として英単語の"physician"(フィジシャン、フィズィシャン。医者・医師または内科医) がある。
他には「科学技術」という言葉の存在も考えてみたい。
政治・経済などの文脈で「科学技術」という言葉は多く見られるし、ニュースなど世間一般でもそう言いつつ、簡単に「サイエンス(cf. カルチャー、スポーツ)」ともいう。
この言葉はもともと英語の"Science and Technology (Science & Technology)"という表現から借用したものと考えられる。
日本語では「科学技術」として四字熟語のように取れる形で用いられるが、英語に"and (&)"が用いられるように、「科学」と「技術」とで別概念の並列複合語"enumerative compound"である。
並列複合語を解して「科学と技術」、「科学・技術」となる。
別概念が並び称される際、このような用法からは、次第に「科学=技術」という同位(同格・等位)の概念や「科学的な技術"scientific technology"、科学による技術"technology with science"」という修飾関係に感じられるようになるし、一般大衆の中にはそう思う傾向もありえる。
これも「科学=化学」のように、バイアスの例であろう。
標準的な日本語の高低アクセント (pitch accent) において、「科学↓技術(カガクが頭高)」は並列複合語のように聴こえたり、「科学→技術(カガクが平板)」は修飾関係の複合語のように聴こえたりする(前者の発音は一般に用いられないので区別したい者が意図的に用いることを期す)。
技術とは一般的に、工科・工学"engineering"系統の分野であり、大衆の日常生活はそこから多く恩恵を受け、いわば科学研究の応用"application, applied"であるので後発的である(科学と違って技術開発には「物性などから目的に適う優劣を人間が判断する作業」が含まれる。構造的には技術も現代の科学も倫理に縛られやすいが)。
なまじ近現代においては科学研究の手段に工学的な技術の道具があるから、双方向・相互依存関係でもあるとも考えられる。
両者の境界が曖昧である現状(統一される?)に、「科学技術"Science and Technology"」という呼称は便利である。
ただし、技術という工学系統の話題を除いても、結局、「カガク、サイエンス」といえば「自然科学」の意味・用法が強く残ると思う。
言うまでもなく、「科学」の領域は広くも狭くもあり、その用語には細心の注意を払いたい。
大学の人文系・文科系の学部「文学部"Faculty of Arts"」
漢字「文」(the letter 文 bun, wén) の一用法
文学部という名称の「文」は、もともと英語の"arts (アーツ、複数形)", ラテン語の"ars (アルス、単数形)"に当たる言葉を指したろう。
英語の"arts"は、視覚芸術・美術"fine art"に限る必要性が無い。
トリヴィウム(trivium トリヴィアムとも)、リベラル・アーツ"liberal arts"ともいえる文章的な技術・技能 (writing skills; grammar, logic, and rhetoric) を指すことが"arts, ars"の原義に近かろう。
英語での名称の幅を拡大すれば、"humanity, humanities"も含まれよう。
「文学部"Faculty of Arts (and Humanities)"」は、"arts, ars"の学部"faculty"ということになる。
決して「文学"literature"」や「文化"culture"」の学部ではない。
このように英語など西洋言語での名称を介して考えると、人文科学の手法に近づく(それでさえ誤った前提や概念認識によって行われれば疑似科学・疑似人文科学になる側面も否定できない)。
先述の通り、「文学部」や「人文」という「文」の字の用法は、英語の"arts"に当たる言葉とその概念に由来するであろうが、これは明治以降の日本人が和製漢語・明治訳語のように用いたことが起源であろう。
その用法は中国の古典・漢籍 (Chinese classic texts) に見られないので、由来することも無い。
ところで、2014・15年に私(当時17・18歳)が日蓮正宗系の学問をしていて「明者は其の理(り・ことわり)を貴び、闇者は其の文(もん・ふみ)を守る(依義判文抄より)」という大石寺26世・日寛上人の言葉を見たとき、「理系・文系」の人を連想してしまった。
これは江戸時代の仏教徒・僧侶の言葉であって「文・理」は仏・釈尊や日蓮大聖人の教説の額面的な意味と真意(文底秘沈)とを区別したものであり、現代日本の「文系・理系」の区分と関係ない。
※原典の依義判文抄には「理」の字が「釈尊や日蓮大聖人の教説の真意」の意味で用いられた箇所が無いようでもある。更に「文・理」は三証のうちの「文証(もんしょう)・理証(りしょう)」のことでもなかろう。「依義判文」という題号の語彙における「文」に対比した「義」を、その「理」の同義語とみなすことも不自然である。論理学的にいうと「文底秘沈を知ってから文を判ずること」が「文と文の真意との従属関係」を不明瞭にしているので、循環論法や「鳥と卵」のようなパラドックスになり得る(文学の読解であれば人の人生経験とその価値判断が関わるのでそうとも限らないが)。古い文献・文学はフラグ回収(伏線回収)のようなことが必ずしもされないので、直ちに一文の意味を決定することは困難である。
学問領域の分化は、合理化された分業体制の一種であろう。
個別の学問の専門性が漸次に高められ、学者の知識が高度であらねばならず、現代では自然科学がそのように成り立つ。
※科学哲学者であるトーマス・クーンのパラダイム論(Kuhn 1962「科学革命の構造」)によれば、既存の学問のもとで未解決の問題が解決されるという新しい科学的業績=パラダイム(それは同時に新たな課題を作るもの)にベテランや若手の様々な研究者・科学者たちが賛同するなどして共通のテーマのもとで学問領域が分化する例が多いともいう。新しいパラダイムに移行するという「パラダイム・シフト paradigm shift」もある。それは著作でいうとアリストテレス「自然学」→ニュートン「プリンキピア」などであり、またニュートンらの古典力学からアインシュタインらの現代物理学のような例もあるという。彼は自然科学についてのみパラダイム論が適用されるべきであると概念・用語の制限をしている。パラダイム論は後に彼自身が放棄したものであるが、科学史と分野のアイデンティティを考える一つの基準ではあろう。
西暦1900年以前は、現代の学問から見て複数の分野とみなされる研究を一研究者の行動範囲に含むことが多かった。
それだと、一般的な科学者というよりは、哲学者・思想家・芸術家のようでもある。
博学の人"polymath"と称すべきか。
中世ヨーロッパの科学者たちは、一般教養としてキリスト教神学の造詣もあったし、彼らによる神学への言及もされた(多くの場合はキリスト教神学の範疇で科学的・自然哲学的な研究をしたとも考えられる)。
そのほか、人文系の研究に貢献する者が医者を生業にしていた例も多かろう(e.g. 記紀の研究者Motoori Norinaga 本居宣長や フィンランド伝承Kalevalaカレワラ編纂者Elias Lönnrot リョンロートや Esperantoの考案者で聖書翻訳者L. L. Zamenhof ザメンホフ)。
私が知る西暦1900年以前の博学な人物の具体的な例は、直ちに挙げづらいが、レオナルド・ダ・ヴィンチが典型例かと思う。
近代以後では、言語学で功績をあげた人に数学者・物理学者がいた。
例えば、ヘルマン・グラスマン (Hermann Grassmann, 1809-1877)とトマス・ヤング (Thomas Young, 1773-1829)である。
前者は「グラスマンの法則 (Grassman's law)」と呼ばれる法則を言語学(印欧語研究)にも物理学(色彩・色覚関連)にも与えた(他にグラスマン代数とも呼ばれる外積代数がある)。
後者は「ヤング率 (Young's modulus)・ヤングの実験 (Young's interference experiment)」というエポニムが物理学で知られており、印欧語研究やエジプト学(ヒエログリフ研究)も行い、2006年出版の伝記の題"The Last Man Who Knew Everything"が彼の博学ぶりを表している。
両者は一括りに言えば「古典言語と光に関して通暁していたし先進的な研究をした」ことになる。
当記事の執筆に際して知った類似の人物に、チャールズ・サンダース・パース (Charles Sanders Peirce, 1839-1914) がおり、彼も数学などに長けていた・光に関する研究(天体の測光やメートル単位の基準に光の波長を用いる提案)をしていた・論理学や哲学に大きな影響を与えた(実用主義の英語名称2つpragmaticism, pragmatismはいずれも彼の造語。先述の記号学・記号論の一大潮流でありしばしばソシュールに対比してsemioticsという学問名称を用いる人物として挙げられる。2つの同様の名称を造ったことはそれこそが言語や記号のプラグマティックな側面を重んじることの現れであろう。言語学の語用論pragmaticsに似るが無関係)。
※余談だが、パラダイム論に関してこの例も挙げよう。光の本性(人々がそう思いたい本質・正体)とされるものは粒子か・波動かという議論があった。17世紀にニュートンさんが「光の粒子」説に当たる見解を示した。その前にホイヘンスという学者が「光の波動」説に当たる見解を示しており、先述のヤングさんは「光の波動」説が支持される実験をした人物である。後者の時代から光の波動説(数十年後にはフレネルという学者がホイヘンスさんの説を補強する)が物理学などで広く支持されるようになっても、19世紀後半から終盤までに「光電効果」に関する実験などが示され、光の波動説に危機が訪れた。粒子・波動の両者の性質が見いだされる光の作用が証明されている状況で、20世紀からはアインシュタインさんが「光量子・光子(フォトン photon)」説が支持される光電効果についての研究によって1921年ノーベル物理学賞を受賞した。光の本性とされるものを簡単に言えば、粒子でも波動でもなくどちらの性質も観測される「量子」であるということ (wave–particle duality) が結論であり、今日の科学で承認される。光学は今も光の波動としての性質に関するパラダイムに則る波動光学 (physical optics) と、光が量子であるとするパラダイムに則る量子光学 (quantum optics) とで異なる分野が並存し、研究されている。目的性によっては幾何光学 (geometrical optics) も研究される。
※パラダイム論や科学哲学に関してまだ思うことがある。現代日本のファンタジーのRPG (Role-Playing Game) 作品などには、そのゲーム内の魔法理論や錬金術理論などがある。一例として、魔法の属性は、それを示す図がシステマティックであるし、ゲーム内の世界で厳然とした事実である。ビデオゲームならば属性間の相性(火と水または火と氷が対称的)がプログラムで計算・処理・反映されて有意である。現代日本のファンタジーのRPG作品内の魔法理論や錬金術理論の淵源は定かでないが、やはり中東やヨーロッパにあったと思しき中世・近世の本格的な魔術・錬金術の学問や近代・現代のファンタジーの文学などに求められる要素は多いと思う。それらを骨組みに、世界各地の神話・伝承などで肉付けされてもいると思う。現代のファンタジー作品に限ればMP (Mana Points, Magic Points) のために「マナ mana」というポリネシア系言語(マオリ語など)由来の言葉が用いられるようになった経緯が分かるように、多少の要素の淵源を求めることができる。大局的に私は認知しない。何が現代日本のファンタジーのRPG作品の祖先に当たるかは断定的でなくも、いくらかパラダイムや規範となるような理論やそれを含む作品があることは考えられる。よくできた魔法・錬金術の理論は、科学と見紛うものである。しかし、現代日本のファンタジーのRPG作品は既に古典力学・物理学などよりも後の科学知識を知っているような人たちが築き上げた産物・所産ならば、詮ずる所、現代的な疑似科学またはSF (science fiction) であって最も精巧なモデルである。
先人たち彼ら個人の研究領域が幅広いことについて、その成果を知るのみでは、教養知識として「画竜点睛を欠く (an idiom in Japanese, it lacks a Chinese classic source)」ようなことである。
彼らの成果から感じ取れる彼らの探究心や知的好奇心の強さ(人間性)を、感じてもらいたい。
もちろん、学者個人の哲学や理念ということには、専門分野で直向きな努力をする人たちからも感じられることは多い。
現代の合理化された学術分野のうちで学者たちの精神が失われていない限りには、彼らの姿勢に精神性を求めることができ、彼らの精神性を良いものとも悪いものとも多面的に見てみると、自身の努力の糧になろう。
いわゆる文系・理系の学際性とペア関係
ここから、「文系・理系」という、現代で学術はもとより教育方針としても意味をなさない区分(二項概念)の名称を用いる。
反例として東京大学の文科一~三類・理科一~三類などがあるように、一部では機能している(ただし東大合格者は文理不問で入学後の4年制前期課程=2年間みな教養学部に所属してリベラルアーツ教育を受けることになっている)。
口語的用法では、今も多少の日本人が学問とその研究者の人格に対して区分に用い続けていると見られる。
ただし、高等教育(大学)に関してこの区分が的確な側面もあろう。
ひとまず、文系・理系の学際性とペア関係について考えてみよう。
- 心理学(学部でいえば文学部)と精神医学(学部でいえば医学部 alt. 精神病理学)
- 地理学(学部でいえば文学部)と地球科学(学部でいえば理学部 abbr. 地学)
- 分子人類学(学部不明。系譜学を物質的に証明する。人類学は言語学・考古学・民俗学に関連する)と分子生物学(学部でいえば理学部。生物学は主に生態学と形態学と分類学を含んで自然科学)
他に、社会学・言語学と情報技術・情報科学(技術というとエンジニアリング、プログラミングとか。理学部・工学部など)を示そうと思ったが、雑駁になりそうなので控える(古形としての情報学は社会や文献などの情報全般を扱う文系領域であろう)。
上記の例らは、私がペア関係だとみなす理由を詳述していないので、各自で想像するとよい。
実際に異分野間の研究者がどのくらい協力し合うことがあるかは、私が決定的に論ずることもできないし、上記の例らも、それぞれに程度の差が考えられる。
「心理学と精神医学」の相関性は想像に難くないが、「分子人類学と分子生物学」の相関性は考えづらくて「何となく似てる(口語)」という程度の感覚に思われよう(分子人類学の研究対象を身近な親戚・民族など家系レベルから拡げて現生人類のみならず比較のためにヒト属Homoないし霊長類Primates全般にするならば生物学と大きく重複する。任意の学問分野の研究は現生人類とショウジョウバエ特にDrosophila melanogasterなど非脊椎動物まで比較することもある)。
学際性ということに、多分野の研究者との緊密性 (transdisciplinarity, pluridisciplinarity) とか、異分野との方法論の共通性 (interdisciplinarity) とか、研究対象の共通性とかが言われるならば(multidisciplinarityを含めた4つの用語はいずれも1つずつ別個に定義することができても1つあたりに別の説明がされることもあり興味のある者が各自で調べればよい1, 2)、これらは区別されたほうがよかろう。
ともすると、学際性の考察ではなく「個の没個性・曖昧性(曖昧さ ambiguity)」というべき考察になる。
また、学際性の高低を量っても、やはり、それが学問分野の優劣を示すわけでもないと知るべきでもある。
研究者が、必要性に応じて便宜的に異分野の知見を用いることになる。
それで、一応の学問名称による分野の区分と、その無分別の側面もあろうが、一応、基本的に私は分野の細やかな差異を認識する。
私が自然科学・人文科学・芸術を融合させた研究をすることもある。
今まで挙げた名前以外では、認知科学やメディア研究(メディア・スタディーズ)、メディア芸術(メディア・アート)が私に関係している。
2016年2月15日『二次元・三次元の相貌の相対的な互換性に関する理論の体得』(後年の追記①・②を含む。自然科学の要素は少なくて形式科学や認知科学に近い)
https://lesbophilia.blogspot.com/2016/02/2ji-3ji-gokan.html
2019年4月6日投稿『母音の広狭と音高の上下に関する実験の意図で作詞した ~ 楽語共調理論 入門』(音響学・音声学・音楽、他に形式科学という数学の考え方が適用される。以下の画像の周波数解析は音声学のうちの実験音声学に一般的な手法であって数字利用でしかないが他に母音チャートを3Dの立体図形として考えるなど)
https://lesbophilia.blogspot.com/2019/04/symphonedy-vowel-pitch.html
学際性というよりも、その学問の基本的な知識に2つ以上の学問の知見が大事になるものが、言語学に関連した「音声学 phonetics」である。
- 言語発音の調音位置とその位置での調音方法について解剖学的な (anatomical, anatomy) 理解(実験におけるMRIの利用も稀にある)を要する。 i.e. 調音音声学 articulatory phonetics
- 言語音声の解析にはスペクトログラムなどを用いて音響学的な (acoustical, acoustics) 方法をする。 i.e. 音響音声学 acoustic phonetics
- 疑問→調音方法には力学的な (mechanical, mechanics) 分析もできるが、現今の音声学で数学の方法はハードに用いられていない(言語音声の生成に数理を用いる例はソース・フィルタモデル source-filter model, theory があり音響学・音声合成技術などで有名)。
- 疑問→音声の知覚には神経科学的な (neuroscientific, neuroscience)・心理学的な (psychological, psychology) 考察(e.g. 音象徴)もできるが、現今の音声学の領域よりも認知言語学的である(聴覚音声学 auditory phonetics が包括するかも)。
- 応用→音声処理技術に役立てることが可能。
- 応用→歯列・骨格・筋肉の障害などによって発話が困難な人・言語障害者の補助のためなど、音声合成技術に役立てることが可能(2019年もアメリカの研究機関UCSF Chang LabのチームがAIに言語発音とその発話の脳の電気信号の関係性を学習させて音声合成を行う技術の報告をした。彼らに音声学の専門家が関与せずとも音声学の知見が用いられた)。
- 応用→乳幼児言語教育や外国語教育や音声認知の研究の進展に役立てることが可能。
音声学の現代までの過渡期には、他の学問の知見や方法を導入する学者がいたこと(言語の音韻研究は古代インドのシクシャーからして解剖学的だったので近代~現代のみならず伝統的にも同様の傾向あり)が明らかであろうが、今はその方法論が既成事実化しているので、学際性ではなく単一学問が持つ特徴に収斂する、と私はみなす。
音声学には、"interdiscipline"と呼ばれる、単一学問に対する分類名称が適用できる。
続いて、科学史や数学史の研究領域などはどうであろうか?
一学問分野それ自体の社会的地位や歴史的経緯(科学者個人ないし共同体・小社会)などを研究することは、学際というよりもその分野の社会科学の側面を研究していることになる。
論文・文献の整理や学説発表の順序など、自然科学系・理系ではこの行為が必要である(学問は人の手でなされてきたしこれからも人道的・人権的な見地とともにそうあらねばならないという倫理規範がある)。
各研究者個人で必要最低限に(彼らが論文を書く際に出典を示すために必要)そうするし、科学史(数学・化学・物理学・医学ほか自然科学系の歴史)の専門家は少ない人数でも必要になろう。
科学史などがもし社会科学の範疇にみなされるとしても、多かれ少なかれその分野の専門知識が要求されることになる(数学史であれば数学的知識と技能とが人物・学説を把握するレベルで必要か)。
※私は一学問分野それ自体を学問研究の対象とすることについて「メタ〇学"metascholarship"」と呼びたい。いわゆるメタ認知 (metacognition) は認知主体がそれ自身を客体=対象にして認知すること(心自ら心を知る。この用語の意味は脳科学や神経学の見地で反論されそうだが慣用的にそう言える)を意味するように、メタ meta- という接頭辞に再帰的な (reflexive) 意味があるが、メタ〇〇学はそれに加えて学問領域の範囲外に超越している状態を指す。しかし、メタ認知がそうであるように、メタ数学・超数学 (metamathematics) が数学の方法で数学を研究することから考えると、私の「メタ〇学」名称には問題があるので、この「呼びたい話」を気にしないでよい。
日本人が好きな「文系・理系の分別と、それによる言論」
の学問における空虚さ
日本人は「文系・理系」として後天的アイデンティティを分別して用いることが好きであろう。
ここでいう「日本人」とは無標複数形(日本語では複数形のための標示 marker が無い語形・無標 unmarked で用いることが多く日本人の不特定多数を指す場合に「日本人たち」とはあまり言わない)であり、社会についての思考能力がある年代(例えば15~64歳)を想定する。
日本人はこの日本列島内に生まれ育つ過程で民族的差異(肌の色のみならず宗教や言語の多様性)と対立とを身近に経験しづらい分、同じ日本人のうちに後天的なアイデンティティを自己や他者に仮想したがると思う。
それはともかくとして、日本人は学問的な目的性や教育現場での便宜的な区分の前提を等閑視して「文系・理系」の分別(客観的基準さえ乏しいままのそれ)に依存した思考と発言とを行いやすい事実はある。
多くの恣意性を孕み、既に結論ありきの議論がなされることもあろう。
人により、そこから文系・理系に本質的な異なり・絶対的な隔たりが感じられよう。
日本語版Wikipedia - 文系と理系あたりを参照すればよい。
中国語圏だと、日本のような用例で「文系・理系」とは言わなかろう。
中国語版Wikipedia - 文理分科は、中国大陸や香港での高等教育に関する話題が書かれる。
文科は政治・法律・経済・リテラチャーとしての文学といった社会科学や人文科学の科目を指し、理科は自然科学全般(精密科学や生命科学など)の科目を指し、いずれも国語・外国語・数学などは必修のように見える。
文理分科および必修科目とは、学校ごとの程度の差があって基本的に自由の上で結果的に傾向が似たものか、それとも社会主義国家らしく国家的カリキュラムがあってそれに基づいたか?
中国語版Wikipedia記事は一般論が書いてあるとしても無出典の記述が多いので、大学の科目などに興味のある者が北京大学とか精華大学とかを調査すればよい。
それとWiki間リンク (wikidata) の付けられた英語版Wikipedia - Hard and soft science は、科学分野の特徴に関する区分としてそれらの名称が稀に用いられていることが提示されているようである。
口語的な用語 (colloquial terms) ではあるので、大まかに言うと"hard science"は理科系, "soft science"は文科系を意味する。
歴史的には、1960年代に初出のワードである(cf. Yngve 1961, Storer 1967 哲学や社会科学の系統の人による思考の産物でもある)。
詳細な分野ごとの"hardness"、質・量の測定は不明確である(一応Storer, 1967に例示されている様子)。
学問的・哲学的な観点で"criticism (批判)"も多く考えることができるし、英語圏で一般的な分別概念・名称とは思えない。
Wikipediaのうち日本語版と中国語版と英語版とでは、全く別の概念が、wikidataで相互リンクを付与されているという、極めて稀な現象が示された。
文系でも理系でも、語学(国語・外国語)と数学(算数・幾何学)は学問の基本であると考えられるし、各々が要求される程度に随って習得すべきであろう(小学校の科目でいう”こくご”と”さんすう”を連想)。
日本人が好きな「文系・理系の分別と、それによる言論」について、一般的に何の観点で行われるか?
ほとんど経済的な利益や、就職・就業・世間体で有利か不利かという観点が基本であると見てよい。
cf. 東洋経済「本当に強い大学ランキング」および島野清志「危ない大学・消える大学」と彼の他著書 (英語版Wikipediaに2011年に日本語版から翻訳された記事があるが日本語版Wikipediaでは2012年に削除されている) 東洋経済もとい大学通信による「大企業(有名企業400社)就職率」などという調査もある
高等教育機関としての大学(入試・受験)に関する話題や就職活動に関する話題では、特に文系・理系の分別が世間で好まれよう。
※早慶とかMARCHとかFランク大学とかといった区分も、その世間での用法について、似たように見てよい(cf. 川上, 2017. 大学の“くくり”はどのように生まれたのか?)。「高等教育機関」のうちでは、東大・京大・早慶・MARCHといった学校が、22歳・学士・新卒としての典型的な現代人・社会人・労働者の量産を行っていると考えられる(第26代東京大学総長・蓮實重彦さんは平成10年度入学式における式辞でそれを望んでいないように語った)。「学術機関」としては、そう見られるべきでない。何の大学であれ、各々の使命感と目的性とによって学究研鑽をする者がいるからである(Fランク大学がそう呼ばれる所以はそれがいないからだと反論されそうだが)。学校の個性は、所在地が代表することもあり、北海道大学は北海道大学の価値があり、琉球大学は琉球大学の価値があると考えたい。フィールドワークのある学問研究では地方ごとの「地の利・ローカル性」が活かされる。こう話しても、個性的な学校以外を切り捨てるようであるから、あまり望ましくないかもしれない。「良い人材と出身校」は結果論のようだが、しかしまた、「この学校の出身者には良い人材が多い」という傾向が見出されることは、排除できない。効率主義の現代日本では、特にそういった「~だろう、~に違いない」の見解がマニュアル的になされることも妥当である。個人では解決できない社会的な課題である。
当事者の自負としてのアイデンティティは尊重されるべきだが、他者がそのまた他者へと一方的にみなすことは悪用と感じる。
自虐的な自己紹介・謙遜表現で用いる場合は悪用のグレーゾーンと感じる。
「文系・理系(および体育会系)」以外にも「草食系・肉食系(および雑食系)」や「右脳派・左脳派(一般に通俗的二項概念として用いられる。脳・神経科学では"ブロードマン脳地図44野はブローカ野の一部分であり、言語の発話に関係する"と語るように脳の詳細な部位を想定して思考や感傷などの機能を説明することが多いので単純に左右という二分法・二元論は通じない。そもそもこういった即物的な語彙を用いる一般人が即物的な実験を行っていないし専門家の説明や文献を参照しない。単に仮説として理性や感性を意味するならばそれでよいと思うが)」や「A型・B型など血液型」は、そういう用いられ方がされやすい。
アイデンティティの有無は、人間の精神性(感情・欲望)から分別の必要が相応にされるものの、日本人が行うものはかなり前時代的な人種論(18世紀~20世紀前半ヨーロッパなど)と似る。
それよりも更に悪い側面として、日本人は学問的な知見・方法論に疎遠である。
インターネットの二面性として、文化的な意識の向上と、小規模共同体の拡大とが見られ、高速な文化の消耗と生産とが起こるであろうが、どうにも学問的な知見・方法論は定着するよりも、遮蔽されて一般化しづらくある。
巷間の「文系には分からない・理系には分からない」などという論調が、実に一方が他方への秘密主義を持っていて学問的態度に反している。
何よりも人間 Homo sapiens sapiens の知的な可能性(sapience, sapientia. 分かることは結果論なので直観"intuition"か無感情知性"intellect"かはここで不問)を限定しているようで、人道的でない。
もし自他を文系・理系と分別して本質的に能力の異なる生まれを持つ価値観に固執するならば、人間の知的な可能性 (sapience, sapientia) を自ら放棄することに繋がりかねない。
19世紀以前の博学な者たち(人文学を行う医者たち・言語学を行う数学者たちなど)を私は先に示したように、個人の意思が尊重される限りは学問に「文系・理系」ごときの可能性の隔絶は無いと感じてもらいたい。
隔絶があると思うならば、専門分野に慣れた人たちが確かに他の分野になじみづらいということが尊重されてもよい(例えば物理学と生物学の生態学とでは理系同士でも著しく趣向が違うように専門分野に慣れた人たちが他の分野になじみづらい現象はもっと専門性に約すべき cf. 科学哲学でいう通約不可能性"incommensurability")。
そうでもない大概の一般人は「文系・理系」という便利な区分名称によって思考放棄や知的怠慢でいるに過ぎない。
それは社会人が社会人として役割分担の中で生きるには便利だと思うが、自他の能力を限定させる言葉の用い方は現代の個人主義 (indivisualism) ・自由主義 (liberalism) の理念に遠い。
そうでもない大概の一般人は「文系・理系」という便利な区分名称によって思考放棄や知的怠慢でいるに過ぎない。
それは社会人が社会人として役割分担の中で生きるには便利だと思うが、自他の能力を限定させる言葉の用い方は現代の個人主義 (indivisualism) ・自由主義 (liberalism) の理念に遠い。
私は、任意の専門でも学際でも研鑽・研究意欲のある姿勢を応援する立場であるが、あらゆる系統の学問の中で人間(i.e. 全人類)を区分して人間(i.e. 研究者個人)を限定するために「文系・理系」の分別を濫りに用いるべきでない。
※日本語の「人間 ningen」は多義的であり、文脈によっては英語で全く異なる色々な概念・名称となる点に注意されたい。日本語がもし英語やフランス語のようであればどうか?"ningen"という単語は無冠詞・不定冠詞・定冠詞、可算・不可算を問わず、色々と文法的な位置づけができる。文系の人も理系の人も、外国語で論文を書く場合に注意されたい。
その人間を限定する「文系・理系」という語彙は、その学問の専門性か、その高等教育を経ることか、通俗的二項概念としての「右脳・左脳」に託したものか、俗語での用法が判然としない。
先述の東京大学の文科・理科のような現代日本で稀な教科区分(ただし東大合格者は文理不問で入学後の4年制前期課程=2年間みな教養学部に所属してリベラルアーツ教育を受けることになっている)とも似つかない、曖昧模糊の俗語用法であろう。
現代の個人主義は科学を支えるものと考えられるが、多くの日本人は未だにその語感に惑わされて意味を正しく把握せず、理系・文系、血液型などを妥当な目的なしに用いている。
「誰には分からない・分かる」ということから、かえってその人間の性質を世俗に生きる者たちの間で新たに定義したいのかもしれない。
「文系・理系の分別と、それによる言論」は、社会の経済・大衆の価値観のうちで利益もあろうが、学問のうちで害悪なるのみであり、真面目・真摯・実直な科学者たちにこの種の話がされるならば、彼らの機運を損じると私は思う。
ましてや、各科学の第一線に立つ者たちがそれを話したり論じることは、有り得べからざることである(有り得ることが望ましくない)。
もし、文系分野の人に、科学的姿勢が欠如していたらば(e.g. 経済学・政治学の大衆的な著者は売文家であってプロパガンダや偏向的な論調が多い)、彼らに理系の方法論を与えるのもよかろう。
しかし、文系であれ理系であれ、数学的な技能を使う分野もある。
数学的な技能がハードに用いられる分野であっても、それによる高慢さが、当記事に語られたような科学的態度を失わせることも有り得る。
参考までに、90年代の欧米(ここで主にアメリカ・イギリス・フランス)には、自然科学・数学などの知識をでたらめに援用する一部の人文・社会科学の行為を皮肉にした論文が発表されて1997年には著者アラン・ソーカル Alan Sokal らが"Impostures intellectuelles"(邦題: 「知」の欺瞞...)を出版して皮肉ではなく批判を行っている、「ソーカル事件 Sokal affair (およびthe science wars)」がある。
次の事実は恐るべきである。
学問の外で世間一般の人々が、いわゆる科学知識を借りて偏向的な主張をすることも多い(医学知識・健康法などの情報にこの傾向が有る e.g. 健康食品・運動器具の宣伝 cf. 私が19歳で提唱した真の健康法の理論的説明箇所)。
生命科学(生理学・医学・薬学など)は、応用分野であるし、応用できる知識や実生活に馴染む知識が多いので、疑似科学だと証明し得るか科学的根拠が確立しづらい偏向的な主張が混ざることを注意したい。
説明をする人の主観的な経験と客観的な法則とを混同して説明する人がいることにも注意したい。
これらの問題性には、歴史学・宗教学などの知見(cf. 戦争 セクト主義 同一宗教内の対立・分派)が有効なことも多いと思うので、是非、学んでほしい。
学者・専門家・権威の説であってもWikipedia上の説であっても匿名の説であっても、興味のある者が彼自身による検証で情報の取捨選択がされねばならない。
この要点は、「自洲・法洲・不住他洲 (DN 16: attadīpā viharatha attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā. )」といえる。
先のような仏教(特にパーリ・阿含の類)における仏道修行のスタンスを、また科学に援用することもできる。
この点で、科学研究も仏道修行も、その人の真に拠り所とすべきは知能・精神・五感の対象である現象(物事)であり、これについての説明を過去記事より引用しよう(仏道の場合でいう現象・物事・法"dhamma, dharma"はあくまでも以下に説明されるように科学的な範疇と異なる点に注意)。
同時に、各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの「因縁」が結びついてなされたものであり、無常・空と見られる。
つまり、一応は根拠に基づいた論がみな正論と言えるが、仏教徒は「因縁によって論理があること・因縁によって論理の正誤・優劣があること(縁起)」をよく学んでいるので、対立する主張のどちらも「空虚(真の意味で正論でない)」と知って遠離する。
それら特定の見解に執着して主張する人・特定の見解を持つことで異論へ嫌悪感を催す人などは、悉く三毒に汚染されており、自己も汚染を受けるであろうとして、自ら心を観る。
Dhp 50: Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ; Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca. (ダンマパダ"Dhammapada" 花の章"Pupphavagga"より)
法句経: 不務觀彼 作與不作 常自省身 知正不正 (彼の作すと作さざるとを観るに務めざれ 常に自ら身を省みて正しきと正しからざるとを知れ)
※当記事の話題に寄せて言えば、論争や論議に関して自己の三毒を見て自己や他者の論理に耽らないようにする。論議における三毒とは「①論への貪=快感 ②論への瞋=不快感 ③それらを自覚しない癡=愚昧さ」となる。この三毒について自覚・反省をして修行と無関係な論理・見解に固執しないように努力することが、八正道にも通じる仏道修行。八正道の修行者による積極的な論争は推奨されないが、仮に自ら論議に加わった・他者の論議を見てしまったならば、その時はその時で過失を自ら知って省みる。また、パーリ経蔵・増支部3にある"Kesamutti Sutta(通称: カーラーマ経)"は、様々な哲学・宗教・学問・社会などの思想"vāda"や常識や見解や理論や教義について、やはり仏道修行者は「三毒によって"具格: lobhena, dosena, mohena"諸々の悪行を為すという苦"dukkha"が無く、自分の心の安楽やそのための修行に資するかどうか」という点に基づいて用捨を判断せよ、と釈尊が教示していた。自分が三毒の無い状態"alobha, adosa, amoha"となりえるならば、いかなる見解や理論や教義でも用いてよい善法"kusala"であると。大乗経典の依法不依人(依於法不依人)を想起させる。縁起の理法では、人が釈尊の教えを眼や耳で認識して釈尊の教えだと信じることも「因縁による思い込み」のうちである。法性を知る智慧・衆生の苦を除く慈悲によって説かれた釈尊の教えは尊いが、結果的に「己がどのように用いるか」が重要となる。教義の用い方(前提・目的)については中阿含経の阿梨吒経とパーリ経蔵・中部22経の蛇のたとえや、中論24:11偈の蛇のたとえや、大智度論巻第十八・塩のたとえを参照。
この教理は、小乗・阿含時の修行・果報(正念・不戯論)へ通じる。
「苦集滅道(くじゅうめつどう)」の四諦に依拠すれば、修行とは苦諦(くたい)・集諦(じったい)・道諦(どうたい)に当たり、果報とは滅諦(めったい)に当たる(苦のもとは渇愛"taṇhā, tṛṣṇā (trishna), 同語源英語: thirst"として渇愛ある物事に渇愛があること=集諦、そこに渇愛が滅すること=滅諦を示す)。
過去記事では「四念処」を例に挙げて詳説した(住於自洲・住於法洲や一入道)。
(その参照)
改めて言えば、四念処の修習が、現代日本で人口に膾炙する「自灯明・法灯明(自燈明・法燈明)」、もとい「自洲・法洲・不住他洲(雑阿含36経: 住於自洲・住於自依。住於法洲・住於法依。不異洲・不異依。 長阿含2経: 云何、自熾燃・熾燃於法・勿他熾燃、當自歸依・歸依於法・勿他歸依。阿難。比丘觀内身精勤無懈…=身念処ないし四念処の説明 パーリ長部16経: Kathañcānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo? Idhānanda, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati atāpī sampajāno satimā...)」ということである。
したがって、やはりダンマパダ・人口に膾炙する50詩(他人の過失を見るな、常自省身・知正不正)の真意にも通じることとなる。
この「自洲・法洲・不住他洲」、「己を見よ・法を知れ・他を見るな」ということが、小乗のエーカーヤナと同じく四念処を指している。
不戯論のままに自己の修行を為すこととなる。
引用源:『仏道修行のための論理、不戯論のための戯論』
および『法華経方便品の偈とスッタ・ニパータ4.12経の偈、および大乗と小乗の「一乗」の不一不異義』
他の参考:『仏教はなぜ仏教か?宗教・科学・哲学・倫理・道徳との類似点・相違点、中道と解脱』
https://lesbophilia.blogspot.com/2017/07/What-Buddhism-is-not.html
とりあえず、多くの学問・研鑽を行う者たちにおいて、科学性・科学的態度と科学分野の多様性に関する話題は現代の日本国を生きる上で、頭の片隅に置かれる。
少しでも、私からこの話題に対する見解を示し、学問の方向性を闡明したかった。
いつのどこでも真摯・実直な人は誰もが五里霧中にある状態を自覚すると思うが、各々の心にコンパス(方位磁石・方位磁針・羅針盤)を携え、それを1日3回でも1月1回でも見直すようにすればよい。
少し社会・世俗の話題
最後に、日本国の科学分野(世間の人が思う対象の自然科学・医学・工学・技術全般)の現況についても少しだけ考えよう。
研究費用と国家予算の配分の問題や、自然科学・工学などでの女性の少なさなど、色々ときかれる。
前者は様々な科学者たちの意見が既に示されており、これから文部科学省(cf. 科学研究費助成事業)などの関係省庁・機関で何かしら改善が進められると思う。
当時民主党・台湾二重国籍報道で有名な蓮某議員のかつての発言「二位じゃダメか」とは、「国家的な科学技術の水準や地位を維持する目的のもとでの悪い例」として顧みられよう。
自然科学系の人たちは「多くの分野で被引用率・被引用数(一国中の機関の論文が一定期間内に国内外で引用された回数)は日本が中国に追い抜かれている。その主要な原因は科学技術に対する予算の少なさだ」と警鐘を鳴らす(10年以上は鳴らし続けている。早ければ先の蓮實さん式辞を加味して90年代からか。ここ5年は日本人ノーベル賞受賞者の発言も世間で報道されやすい。当記事執筆中の2019年5月上旬にも国立・科学技術振興機構 JSTが最近の調査情報を発表していると毎日新聞やNHK, k10011913021000.htmlで見た)。
費用に関する話は行政府などに限らず、民間・企業レベルでも世間で明るみに出る話題があり、2018年ノーベル医学・生理学賞を受けた本庶佑(ほんじょ・たすく Honjo Tasuku)さんが、彼の研究 (PD-1) に関連する医薬品オプジーボの特許に関する件で受賞以前からその製造・販売を行う小野薬品工業と対立する(本庶さんは基礎研究の促進や若手の育成を目的にして金銭を多く得ようとする)など(彼の研究に関連する特許問題は国外にも案件がある)、研究開発には色々な社会的な課題が伴うようである。
予算以外にも制度改正・法整備が、今までの技術の進歩や今の研究者の意欲(研究の発展)に対応して柔軟に進められる必要があるとも言われる。
例えば、2018年(法令・平成30年)中にはAI(Artificial Intelligence 人工知能)による学習行為において著作物が広く利用できるような著作権法の改正があった。
2015年ころに私は、司法解剖(検死・検視)の質や量を改善するための法改正が必要だと聞いた(科学技術と直接の関係はない話題だったと思う)。
生命科学の分野に関しては、法整備のための立法府に対する主張に加えて一般人・民間人レベルで理解を浸透させる必要もあろう。
人々があまり即物的になれば、倫理観を失い、別の弊害もあることは一種の悲観であろうか。
後者は日本の女性たち自身が何かと「科学でも政治でも誰かしら女性が目立つとその女性自身が恥をかく」ことを自覚していて弱腰になっているかもしれない(e.g. リケジョ小保方さん論文・第二次安倍改造内閣女性閣僚2名同日辞任・豊田真由子議員による暴言・稲田さん防衛大臣期に数度の失言)。
2018・19年には東京の某医大をはじめとする複数の大学医学部が女性受験生・男女不問浪人生が不利に扱われる問題の報道もあったが、何らかのアンケート・意識調査によれば、医学部生か医学部OBか誰か女性たちの過半数が「仕方のないこと」のように回答していたようでもある(なぜ彼女たちがそう思ったか理由は不詳)。
これらの話題は私の脳内ソースにも依るため、興味のある者が別途、検証すればよい。
私の現住・愛知県豊橋市で当地に唯一の国立大学である「豊橋技術科学大学 (TUT)」は、THE世界大学ランキング (Times Higher Education World University Rankings) 2019で801-1000位に入っており、そこに載る「女男比 Female:Male Ratio」を見ると、豊橋技科大が9:91という驚異の女性の少なさであった。
これは1,000位以内に入った日本国内の大学51校のうちで最も低い比の値である(cf. 東京工業大学 14:86, 東京医科大学 50:50)し、他の世界全体で1,001+のランクを含めて探しても女性が値10以下である学校は男子校などを除いて2校のみである (Indian Institute of Technology Roorkee 10:90, Muroran Institute of Technology 9:91 いずれも工科系)。
※「比の値」なのかは正確にどうか不明である。9:91を数学での「比 (ratio)」として見るならば、女性は百分率の比率における9%ではなく、9 割る 91 の答えから 9.89%となるためである。このあたりが数学での「比」なのか、通俗的な「比」(足して任意の数になるもの、ここでは 100 なのですでに百分率、パーセンテージである数値を並べてある)なのかは定かでない。
当地にも何か影響が及ぶかは不確定であるし、及ぶならば未知数である。
男女平等に関する事柄に限れば、先述の通り、日本の女性たち自身の意思や意識による部分も多い。
女性たちが望まない範囲の男女平等の状態(学術以外にも労働や雇用も同様)を、権力ある女性男性諸氏が作り上げることは、文字通り心ある人々にとって望ましくない。
※蛇足の肉球を書こう→『国連 UNをはじめとする世界的機関の多くは「表現の自由=報道の自由」のように扱っても、大衆娯楽・大衆美術・大衆文化を対象とする傾向が少なく、世界で一定の地位を得た日本の漫画やAVなどを彼らがあまり尊重しないばかりかユニセフ UNICEF的に規制対象としていようこと』は、やはり『日本の漫画やAVなどが、性差別を根幹に抱えている(しかし日本で特殊な点は例えば作者・出演者が男性でも女性でも「一方の性・特に女性が弱者のように表現される漫画やAV」に嫌悪感を持たずに表現を追求している)・同性愛をその異性の性的興奮を誘うように表現する・小児性愛のような側面を持つ』と見る彼らが好意的に日本の漫画やAVなどを表現の自由の対象としない要因となっているように、私は感じる。表現(言論に限らず芸術的な創造を含むspeech, expression全般)によって不特定多数の他者の人権が侵害されることを思い合わせるにも、大衆の娯楽・美術・文化を交えると、表現の自由のために恣意的な二重規範・ダブルスタンダードは現状に強く残っているように、私は感じる。個人の思考や思想の自由に繋がる以上は基本的に放任されているとはいえ、私的な範疇でさえ小児性愛のポルノグラフィー所持に対しては風当たりが強いように、私は感じる。本題と関係ないばかりか漫ろに私感を示したという蛇足肉球であるため、この記述は考証の対象にしなくてよい。
金銭や性の話題(男女やLGBTや性的嗜好)などはセンシティブでヒステリックであるから、あまり触れたくはなかったが、少し社会性の側面で示しておいた。
日本国では西暦2019年5月1日、平成31年をもって明仁天皇陛下が退位して上皇となり、新しい天皇陛下(徳仁)が即位したことで「新しい時代・令和」になった・改元されたと話題があることに便乗した形である。
日本国の学術領域がどうなるか、多角的な見地で観察し続けることは一興であろうと思う。
当記事の言いたかったことは社会性の話でないわけで、筆者としては「科学と化学 The terms in Japanese "kagaku and kagaku" ~ 言語における科学性もとい合理性と実用性」の話が最も重要であった。
表題の「科学的なこと」とは、客体 (object) それ自体は素粒子・分子・生物・惑星・宇宙、光・音・言語・神仏の何であれ、方法論によって何でも科学の研究対象になることである。
または研究対象が定量的な (quantitative) 方法に堪えられると判断されるともいう。
19世紀以前の科学史で確かに、言語や神仏など定量化しづらい事物・社会的な特性が人々において持たれた事物は科学の研究対象にならなかった(神学や国学などがザ・科学に似ても信仰に基づく側面が強い)と分かるが、過去のことである。
また、見解によって何でも哲学の考察対象になるし、宗教でいう真理"veritas, satya"に包含されることを忘れないでほしい。
これを帰一のもの・ユニバース"one, unus, universe"というが、万物"all things"であって無量の多さでもあり、客体の如何も自由に考えることが可能である。
改めて科学の語源である"science, scientia"ということを考えてもらおう。
起草日: 20190426
2019年4月上旬から、私は学問に関する別の文章を書いていた。
(2019年4月26日時点の文章内容を以下に引用する)
(前略) 少し社会科学に近い話をしよう。
学問において今も一般の日本人が「文系・理系」、「右翼・左翼」、「中卒ないし大卒」の観念にとらわれている傾向がある。
Twitterや2chでそういった思考や価値観を披瀝する者は多く存在するようであるし、インターネットのニュースサイトもその種の記事を発し続けている。
私はそれを、14・15歳のころから、センシティブでヒステリックである異常事態だと忌避していた(cf. 2016年10月21日メモ帳記事)。
今に平成が終わろうとも、きっと多かろう。
これらは単なる即物的で功利的な者たちによって学問に非ざる世俗性が示されたに過ぎない、と私は考える。
「知能が優れている基準を挙げれば知能は物質的集合体でしかないという即物性で否定し得る」し、「作文能力は…」、「計算能力は…」、「社会的効能は…」、という文系でも理系でも分野とその人々の優劣を言おうとすれば、みな論理破綻・自己矛盾の側面が見えてくる。
目的によって優劣や効能が問えるというのに、自分の人生経験や精神性から得られた目的を鑑みることなく、各々の物差し・尺度で物事の客観性を決定することは、独裁国家の首脳と何も変わらない。
返す刀で己を斬るか、木登りで赤き尻を曝すサルか(私が活動し続ける分には私自身も同じようなものだが)。
「各々の物差し・尺度」とは、個人の人生経験・精神性から形成された疑似客観性"pseudo-objectivity"であり、誰でも我が身の五感・心とで価値判断ができる。
あたかも地球上の物質の状態と運動(e.g. 動物の歩行, 音の振動による伝播, 水の沸騰)が地球の重力"gravity"(拡大して外部の天体の引力いわゆる万有引力なども)や気圧などの条件下で通用するように、疑似客観性が過去・現在・未来の万事万物を発生・維持する。
人間や動物が重力などによる相対性"relativity"を自覚しなかったように、Homo sapiens sapiensの者たちが疑似客観性"pseudo-objectivity"を自覚しないでいる。
ある日本人は「権力を持つ政治家が要らない」と言うし、ある日本人は「大衆を惑わすアイドルグループやビデオゲームが要らない」と言う。
真面目な活動家や研究者を「暇人だ」とも言う。
これらの言葉を用いる者が多い日本語は、醜い言語となる。
日本人が言うところの文系・理系の人が日本人の尺度で社会に役立つかどうかという基準も、毛沢東思想には通用せず、「学者や知識人は多く要らない・糞の如き存在」とみなされて肉体的に抹殺されることになる(e.g. 臭老九"stinking old ninth"というが毛沢東主義の有力者による典拠は不明。過去の元朝"Yuan dynasty"でカースト制度があった際に10のうちの9番目が儒学者とされていて売春婦と乞食の間に位置付けられたことに由来し、知識人=知識分子に対する蔑称として毛沢東主義者が用いたそう)。
「文系・理系」分別などは今の俗な用法によって学問全体の支障・停滞にさえなり得ると思うし、そう用いる者たちが何か学問とその研究者について公然と発言することは望ましくない。
私が中卒ニートひきこもりとして、一人で多分野(即ち無分野・空虚な分別概念)に取り組む姿勢を示し・人々に見てもらうことで、もっと多くの分野(専門分野)の研究者が相互に尊重できるようになることを念願している。
誰であれ、世のためになることをしているはずであり、それが人の意志によるならば、これを蔑ろにするような思考と言論とは平成時代のうちに終えられるべきである。
私は何の専門家でもなく、普遍性への探究者であるが、まじめ・実直な専門家に対しては尊重しようと思う。
大学などで没個性的であっても師匠・弟子の形式で学問を行う人々がいれば、私にできないことをしているので、それとして尊敬に値する。
音楽のうちの演奏者も歌手も、美術のうちの画家も彫刻家も、師匠・弟子の関係のそれはよい。
特に意思がある場合に各々、そのままに目的を掲げ、邁進すればよい。
内心の自由を許すが、学問の人は自己に対しても他者に対しても無自覚の尺度(個人の人生経験・精神性から形成された疑似客観性"pseudo-objectivity")で優劣の判断が生む利益は無いと知るべし。
無自覚の尺度で優劣の判断をしたならばすぐに自覚・反省してまた目的を顧みて努力すればよい。
萌えの典籍などで散々、私が記したことをまた書いてしまった。
ネット弁慶ならぬ「ネトナカノ・ダ・ヴィンチ(ネットの中のレオナルド・ダ・ヴィンチ。音変化はベンケイ→ヴェンケイ→ヴィンキ→ヴィンチ)」が誕生することを願っている。
それはYouTubeに投稿する動画説明文の案であったが、社会科学の話題に関する主張が長きに過ぎるために、独立記事にする案が従来あった。
2019年4月26日に当記事を起草することで決行された。
上の引用に「萌えの典籍」について一度言及される。
その件は、興味のある者が各自で調べればよいとしよう。
ここでは科学に関して言及した萌えの漢詩・偈を抜粋する。
「地球偈 (ぢぐげ Sino-xenic: *digu-gat Sanskrit: *medinī-gāthā)」と称され@、萌類(みょうるい)たちのアンソロジー形式で詠まれている。
以下には多多嚩(たたば)と阿若(あにゃ)のみを載せる。
(多多嚩誦曰)
地球如舞臺 有悲喜怒愛 人類踊其上 永苦後死來
他口舌爲聲 是諸法螺貝 聞歌作亂動 終受堕獄罪
(阿若誦曰)
地球中所有 咸從重力性 雖心法最重 隨時宜學之
佛法與物理 是等倶大事 若不依重性 原萌不應生
須觀諸物理 甜果從樹離 不得浮而落 是重性使爾
若原萌不生 無人形萌名 如是知物理 則欲去苦境
科学の教育・社会・世俗の話題と関連する記事↓
2015年4月24日投稿『両親の学歴・職歴についての調査と記録』
https://lesbophilia.blogspot.com/2015/04/blog-post_31.html
この両親(父: 駒澤大学不明部 母: 帝京大学薬学部 離婚済み)からは、科学性(人間の科学的態度)も文化性も協調性も看取されづらいことが、過去の膨大な記録文書のうちに示されている。
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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。
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