2016年9月11日日曜日

上座部仏教圏の信仰・神々と、日本のテーラワーダ信者による幻想・誤解

まず、釈尊が「信仰」や「神」を否定されたかどうか、話しておきたいが、その前に仏教徒として物事に必要な理解の仕方を説明する。
「信仰"Saddhā"」という言葉がパーリ仏典やその日本語訳にあったとしても、一義的ではない。
パーリ語・サンスクリット語などに詳しい人はご存知の通り、一つの言葉に多くの意味が混ざっている語彙(Dharma, Dhammaが好例)が多く、日本語で「信仰」と翻訳された場合も、所説ごとに異なる意味を持っている(漢字の"信"とか"法"という文字も仏教での意味と世間での意味とで違いがあるばかりか字の原義は一見全然違いそこから意味が枝分かれするように同音同字意義は生じやすい)。
言葉の上面のみではなく、こういった背景を理解して吟味し、検分しないと、とんだ誤読を犯して誤解に繋がってしまう。
特にパーリ語・サンスクリット語および、その漢訳や日本語訳の経典では、そういった姿勢が最も重要である。
日本人ならば、表面や表層や形式ばかりを眺めるのではなく、心を見極めねばならない(大乗仏教では"依法不依人"や"依義不依語"という)。

さて、日本のテーラワーダ信者(主に個人ブログやウィキペディアや知恵袋などに一部見られる)はオカルト否定をしたがる合理主義(理性主義)から「ゴータマ・ブッダ(釈尊)は信仰を否定された!」、「大乗仏教ばかりが雑に神を取り入れて外道となった」と、信仰の否定を叫んでいる様子が度々見られる。
実に、彼らは「論語読みの論語知らず」という愚を犯している。
また、高尚にして清浄なるテーラワーダ・テーラヴァーダを宣揚したいがために、事実を確認しきれておらず、ご都合主義的な視野狭窄を露呈させている。
上座部仏教の「信仰」と、上座部仏教圏で信仰される神々について説明しよう。



テーラワーダで第一の聖典、「スッタニパータ (日本語訳は中村元センセー訳を参照)」では1.4章(田を耕すバーラドヴァージャ)に「信仰が種である(Snp 77)」といった言葉が見受けられる。
この信仰とは、パーリ語で"Saddhā" (サッダー)とあり、この一節は"Saddhā bījaṃ tapo vuṭṭhi,"とある(ちなみにサッダーは梵語でシュラッダー"śraddhā"という)。
漢訳だと雑阿含経(98経・耕田婆羅豆婆遮)で「信心爲種子(信心を種子と為し…)」とある。
同じく「スッタニパータ(3.2章)」に「私には信念があり(Snp 432)」とあり、原文ではその"Saddhā"を用いて"Atthi saddhā tathā viriyaṃ,"と書かれる。
思うに、先ほどの「信仰が種である」とは、正しくは「信念」の方の"Saddhā"であって自分が解脱している・出来るという信念の確信なのか、あるいは釈尊御自身に対する信仰なのか、あるいは過去の"Buddha (覚者)"への信仰なのか、といえば、少し判断しがたい。
「『自分が解脱出来るという信念』が種である」で取れば、大乗仏教の「発菩提心」にも通じている。
※スッタニパータと並ぶ聖典「ダンマパダ」にも"saddham, saddhaya"といった"信"が、"sīlam, sīlena"といった"戒"と一緒に説かれ(144, 333など)ているが、細かい意味の判断は諸君に任す。中村訳と原文提示で満足がいかない方は英訳版も参照されたし。"Faith, Conviction, Confidence"等。

無論、同じ「スッタニパータ」では「そのように汝もまた信仰を捨て去れ(Snp 11461151)」、 "Evamevaṃ tvampi pamuñcassu saddhaṃ,"とあるが、しっかりと前後の文脈や5.19章全体を読み直すと、どのような意義であるかは自ずと読み解けよう。
この"saddhaṃ"の前にある"pamuñcassu (梵語漢訳で)"という単語は、少し理解に難があるようで、単純に「解き放て」という意味に直訳する(中村センセーは「捨て去れ」と解釈した)。
伝統的解釈などでは「信を寄せよ」という注釈(ブッダゴーサAṭṭhakathāやサーリプッタCūḷa niddesaなどにおけるadhimuccanto, adhimuñcassuの和訳?典拠不明)もあるそうで、また現代の中国(古い文・文言文に擬したもの)では文字通りに「賓祇耶信解(もし信を解き放ての意味ならば解信と綴るが一般的な信解"しんげ"と同義か不明瞭)」と訳している(漢譯南傳大藏經・經集5.18、舎利弗尊者のチューラニッデーサ・小義釈に注釈がある)。
この後のバラモンのピンギヤさんは"pasīdāmi"の方の信仰心が増えた、という旨を述懐する。
※「信」に関連する用語を羅列する→サンスクリット語śraddhā, prasāda, adhimukti, bhakti (シュラッダー・・・現代に英語クリードcreedの語源ラテン語クレードーcredoと同語源。 プラサーダ アディムクティ バクティ・・・ギリシャ語根phagパグ・古代ギリシャ語ἔφαγονエパゴン、世間でいうマクロファージのファージと同語源で原意は「分割する or 食べる」だがいつの間にか献身・神への服従などを意味するようになる) パーリ語 saddhā, pasāda, adhimutta (サッダー パサーダ・・・sdという文字列は似るが動詞語根は前者が√dhā=置く 後者が√sad=坐る で異なる。本文中Pasīdāmiパシーダミーに同じ。 次アディムッタ)

一部の日本のテーラワーダ信者は、そういった理解も無く、言葉の上面だけを見て利己的な判断をし、「信仰しない己が尊い信仰」にとらわれ、邪義を生じ、他者に伝える。
信仰とは、正しい基準に基づいて取捨選択されるものと理解すべし。
私の信奉である日蓮大聖人の法門では、その基準を「文証・理証・現証」の「三証」として説いており、その結果、釈尊の経典では「法華経(および法華三部経と涅槃経?)」を信ずべきで、それ以外の小乗・而前権経といった類の経典を信じてはならないと決まっている。
その「法華経」を色読・体読して事実に現された「法華経の行者」であらせられる日蓮大聖人もまた大いに尊敬すべきである。
※ここでは日蓮大聖人の法門でいう「大小相対」として小乗仏教を非難しない。なぜならば、日本のテーラワーダ信者の思考が、そもそも仏教に適わないから、まず「内外相対(内道・外道の論点)」として糺す。外道の思想でいえば、順世派アジタ・ケーサカンバリンに対するようである。

こう言えば、「法華経など大乗経典は後世の偽作だ」と反発を招くため、私から一つ言えば、キリスト教の新約聖書にせよ、パーリ仏典・三蔵にせよ、またヴェーダやウパニシャッドといったものも、みな先進的な文献学者から「後世に何らかの加筆・創作が混ぜられている」と看做される。
彼ら文献学者や書誌学者は、セクト主義を排し、ドグマを滅した、学問研究家の鑑である(合理主義を極めると虚無主義者や懐疑論者になって宗教・仏教・修行が不要という外道に落ちぶれるが自分の欲求ばかりは肯定して貪欲になるか学者なら知的探求を進める)。
程度の差はあれ、そもそもそういった経典・聖典・教説は、より原理主義的に言ってみな「方便・空」であって一つを極度に重視してはならない、といった立場を取りたいならば、パーリ語の経典が真説であろうとなかろうと、これも偏重する対象ではない(修行の原理主義であれば)。

結局、「あなた方、修行者が、そういった経典・聖典などの教説を、どう受け止め、どう己の修行に反映するか」が大事である。
そう思うならば、修行の原理主義者としては最も健全であろう。
例えば、輪廻転生が事実だとか事実でないとか、ブッダが説いていないとか、そういった議論(教義論争)は修行とほぼ関係がなく、大事なことは輪廻転生の思想を通して「善業を積んで悪業を止める意識」が生まれる勧善懲悪であろう(子供に"良いことをすれば天国に行けて悪いことをすると地獄に堕ちる"といった教育を方便として用いることと同列のようではあるが)。
つまり、釈尊の多くの説法が人の機根に対応したものであり、大概の人は一応の理解・信頼をせねばならない(文献学的にも証明されている原始仏典や基本教義にいくらでも輪廻思想は見える)。
無論、輪廻転生を信じなくとも修行が維持できる機根の高い人には関係ない話だが、そもそも輪廻転生が非仏説であるという見解に執着して議論をする人が、機根の高い人とは言えず、実践的な修行すらろくに行っていなかろう(彼らの実態について断定はしない)。

こういった議論に執着して迷ったり怒れば本末転倒であり、それらが「戯論」と言われ、原始仏教ではむしろ、それが正しい・正しくない、真理だ妄語だと主張する精神が否定される(無論Snp 907-などの話は大体の修行が成っている賢者の境地を説いていて私ら愚者が及ばない話)。
そこで修行が止まるならば、やはり教説への執着は捨てねばならない(そうでなければ一つの教説でもいいから胸に刻んでそれを指針として真面目に修行する・江戸時代某僧侶の正法観)。
だから、どこかの誰かが、信仰自体をやみくもに否定したり、輪廻説を弁駁して否定しても、それは修行者でない外道の所業であるから私の関知しない問題だが、一応、私の見解は書きたい。
信仰が要らない・輪廻転生を信じない、それで修行が成るならばそれでもよいが、私はそう思わない、というだけのことであろう。
信仰にせよ、輪廻説の信受にせよ、私のような未成年教団無所属・無師の者の中途半端な捉え方は、一斑全豹ほどでもないが「群盲象を撫づ」のたとえにも似ていて語るには畏れ多い。



釈尊自身を、一神教のゴッドや浄土教の阿弥陀仏のレベルで崇めることは、確かにこういった原始仏典だとか原始仏教の立場では否定されるに違いないが、健やかな信仰は、むしろ修行者に寄与する面が多いと考えてよい。
何か、信仰や信心自体を、イスラム過激派や、近現代のオカルト的新興宗教や、カルト教団の類を目にして悪いイメージに覆われた者たちが毛嫌いしているのではないか。
そういった偏見に執着しては、それこそ仏教徒としてあるまじき無明・迷妄・愚癡の姿である。
すべからく、そういった偏見の類を払拭されたい。
これについて「不条理だ!」と思うならば、それこそ既に修行の妨げである。
様々な教説に対する広い理解ができず、迷ったままでは、解脱は到底かなわない。
「中道」あるのみであろう。

私は、パーリ語の経典や上座部仏教圏で当然唱えられる「三帰依」に見られるよう、まず「仏"Buddha"・法"Dharma, Dhamma"・僧"Samgha"の三宝への帰依」仏教の三宝に対する帰依・信仰を促しておく。
大乗仏教諸宗では、その仏法僧の定義が変わりもするが、ひとまずテーラワーダにはテーラワーダにおける三宝の定義がある。
これを私から明示する必要はない。
三宝を尊敬・信仰する意義は、仏ましまし、その仏が法を説き、その法を伝え弘める僧(サンガ・僧侶の集団)がいる、そういった教法の時空に渡る布教と維持への祈念にある。

私は、「三宝一体」と呼んでいる。
三宝のうちの一つが欠けては、私やあなた方を救済するもの(解脱への道しるべ)が今は何もない・・・という悲惨な状況となっていたであろう。
こういった慈悲心・信心を起こさなければ、あなたの救い(修行・解脱)もなく、あなたと同じ時代やその後の時代にも救い(修行・解脱)がなくなってしまう。
悲しいことであろう、故に、仏教徒、とりわけ在家信者・在家修行者は三宝を敬うべきである(現代人がそう思えなくてもこういった理解は伝統的に受け止められた経緯がある)。

あなたは解脱するために仏教を学んで修行をしている。
その解脱の法を説いて自ら解脱している「仏」とその「法」を信じ、その仏法をあなたの時代・国家にまで伝えてきた「僧」を信じる。
「仏」は解脱し、仏の所説の「法」は解脱への道を示し、それらを「僧」は現代までに伝えてきたので、あなたが解脱を目指すならば、三宝の一つでも疑ってはならない(あなたが定義した三宝、テーラワーダならシャーキャムニブッダとパーリ仏典と上座部の僧伽・出家僧侶とを信ず)。
こう理解すれば、様式や程度の違いはともかく、修行する仏教徒に「信仰」があって当然である。
また、自分が解脱できるとの確信を持ってようやく信仰は盤石となる。
その意味での信仰すら無く、一様に「捨てよ」というならば、まさしく仏教が無意味となってしまうし、人々が仏教を学ぶ意味も無い(反宗教ならば合理主義・啓蒙主義などの西洋哲学で十分)。



上座部仏教圏でも、イスラム教で禁止される偶像崇拝が普通に行われている。
イスラム教では、神という創造主が人間と同じくして生み出した単なる「被造物」に対する礼拝など、無益であるばかりか、勝手な偶像で神を印象付ければ神の高尚さを損なうからといって禁止され、キリスト教でも神=ヤハウェ(エホバ)を描いた絵画などはほとんどない。
イスラム教の聖典であるコーラン(クルアーン)には、そのように偶像崇拝を禁じ(7章191以降)、そもそも神=アッラーには姿や形などがないと明記されている(要出典)。

一方の上座部仏教圏では、寺院に仏像や置き、絵画を掲げる。(オウム真理教のラオス巡礼動画・34分以降などに紹介されるほか儀式の映像もあり参考までに・ほかインターネットで)
これらを見てブッダと阿羅漢の弟子などへの尊敬を生じ、自分で教えを守り、時空に渡って残そうという道心や慈悲が起こるものである。
一神教における、神を極度に畏れて崇拝する信仰とは異なるのだから、ブッダ・弟子の姿などは、よほどおかしくない限り、個々人が尊いと感じられれば自由なイメージで良い(ただし多くの場合に三十二相といった外見の定義が求められるし特に上座部圏の仏像は金ピカが好まれる)。
ちなみに、ミャンマーには日本でされる仏像の開眼供養と似た、仏像を安置する際の儀式があるそうである(持戒清浄の比丘が5人以上集まって読経するなど)。

私自身は、偶像を好んで入手したり参ったり眺める必要は感じていないが、実際に偶像崇拝は多くの人に支持されている。
「ブッダは『自分の像を作ってを拝め』なんて言ってないぞ!」と鼻息を荒くする教条主義者には理解しがたいであろうが、修行は凡夫の機根に合って多種多様あって然る。
偶像崇拝が万人に必ず有益と言わないが、全否定されるべきでもないと思う。
事実、伝統的にこのような信仰が上座部仏教圏で連綿と続けられている。
伝統的な信仰は、その三宝に帰依する言葉やパリッタを日常的に唱えるとか、托鉢の比丘に恭しく布施するといった行動も含む。
パリッタを唱えることについては、例えば題目や念仏がよく現代人の中で一種の洗脳・催眠・自己暗示と言われているが、こういったことは自分に教えを刻み込む行為として有益であろう。
※後述するが、スリランカではピリット("パリッタ"の転訛)を儀式で唱えて護身を祈願している。



また、「神」自体の存在についても、釈尊はあながちに否定されてはいない。
むしろ、実在を感じられない神についてやみくもに否定することを、釈尊がされようか?
人々の間では、「捨て去れ」と求道者へ命ぜられたような信仰が横行していたから、「摂受」の立場で教説にしっかりと梵天(ブラフマー)や帝釈(インドラ、シャクラ、カウシカ、パーリ経でサッカ、コーシヤ)を取り入れられた。
これは大乗仏教で撰述されたとする経典に限らず、パーリ語の経典にも多く見られ、釈尊が法輪を転じられたきっかけである「梵天勧請」くらいは、日本のテーラワーダ信者もみな知るところである(相応部サンユッタ・ニカーヤ梵天相応1や長部ディーガ・ニカーヤ大本経・毘婆尸仏の話など)。
釈尊の弟子の御一人である難陀尊者が釈尊に弟子入りした経緯の逸話にも、帝釈天の忉利天が登場しているなど、これも広く知られるところである(パーリ経蔵・小部・自説経Nandasuttaṃ)。
原文などは、もはや逐一出そうと思わないし、もし読者の学びが広ければ、十分に思い当たる教説が見つかる事と思う。
そもそも、適当に眺めていても、頭に残るものであろう(その人の心があれば)。

無論、釈尊は、そういった神々そのものを信仰しろとはお説きでない。
しかし現実に、テーラワーダ・上座部仏教圏の寺院にはインド思想の神・・・ブラフマーやインドラが祀られる時もある(タイのワット・アルンが有名)。
神話上の生物(神鳥ガルーダ・蛇ナーガなど)を模したオブジェを随所に配置する、道教建築っぽい装飾も多い。
合祀というか、こういった神や土着信仰などの習合がないと教団も維持しづらかったであろう(そう書くと仏教学者・歴史学者・文献学者のような合理的思考のようで気が引ける)。
日本の大乗仏教・密教が行う邪命養身・邪命自活(護摩焚きなど祈祷・呪術・祭祀・儀礼)などほどでないにせよ、上座部仏教も教団の中に多少、"異物"の受容はあった。

特にタイの首都バンコクの街中では、ブラフマーやインドラをはじめ、ヒンドゥー教・バラモン的なシヴァやガネーシャやヴィシュヌなどが祀られた宗教施設も多い。
仏教寺院ではなく、ヒンドゥー教寺院や華僑系のものも多いであろうし、バンコクのみを語っては偏っていて仏教とは関係がないように思われそうだが、一つ、再確認していただきたい。
カンボジアもよく知らないが、統計上は国民の9割がたが上座部仏教の信者とされ、まあポル・ポト時代に僧侶の凄惨なる大量虐殺や僧団破壊などもあったが、今では上座部仏教が憲法で国教として定められ、実際に人々の生活と仏教が密接に関わっているであろうに、一番有名な観光地は由緒正しきヒンドゥー教寺院「アンコールワット」である(仏教徒の出入りも多い)。
カンボジアでも、民間の仏教信仰にヒンドゥー教の神や生物などが含まれていると考えてよい。
国ごとにヒンドゥー教との習合のレベルに差はありそうだが、いずれにせよ、日本のテーラワーダ信者が声高に唱える「ブッダの教えをそのまま守って継承した純粋仏教」といった趣旨は、一知半解に基づく。

仏教徒ならば「諸行無常」を知っているから、多くの人間の手で長い時間にわたって守られてきたものが、全くの変化もなく続くとは思わない。
北伝仏教・日本の教団や信仰が日本なりの変容を遂げたよう、南伝仏教・彼ら東南アジアやスリランカなどの僧伽・僧団・部派にも彼らなりの変容がある。
そこには、教義的な矛盾・誤謬や、修行・儀式の追加・変更も含まれて当然である。
この事実は、自称・ミャンマーに遊学して分別説部で得度したという真言宗お比丘さま(2000年代まで在家)がインターネットで色々と書いたところに学び取る要素は多い。

その真言宗お比丘さまは、スリランカの教団を酷評していた。
スリランカの仏教については、伝統的に法灯が断たれた経緯があり、今はシャム派という部派(名前の通りタイ・旧シャムから再度伝来した分別説部系の部派)が勢力として最大であるが、スリランカの仏教が一番古来の伝統を残していて正真正銘の仏舎利・仏歯があると謳いつつ、シンハラ人の伝統的カースト制度における高い階級"Govigama (ゴイガマ、内にラダラなど氏族がある)"の者しか出家できず、しかも多くの比丘が托鉢をしない、などが見られるという。
寺院での行事にしても、儀礼などでは密教のようにヒンドゥー教の影響を受けた作法を厳守し、先に言うパリッタならぬピリット(守護利益あり)を唱えて厄除けや魔除け、病気平癒などを願う(最近では交通安全祈願も始めた様子)。
これはこれで尊重したいが、仮にも日本のテーラワーダ信者は、そういった南伝仏教が伝統的で非オカルトの純粋な仏教であると頑なに主張しているため、その点では愚昧な話である。
いくら譲歩しても、彼らが原始仏教・純粋仏教などを標榜している教団の在り方には見えないし、少なくとも日本のテーラワーダ信者が抱える幻想(高尚で非オカルト)とはかけ離れている。
※お比丘さまとは別に、スリランカの寺院には必ずヒンドゥー教の神を祀っているといった情報もあり、著名な寺院も同様であるが、仏の歯が奉納される寺院の場合は不明である。

こういった情報は私が実際に見たというわけではないし、私も完全な鵜呑みにしてはいないが、それは幻想を抱えた日本のテーラワーダ信者であっても私と同じように上座部仏教圏の信仰の実情を実際には見ていない点で等しい(単なる観光で確認したという程度も同様)。
故に合理主義なら合理主義らしく、教理や歴史的経緯など、世間の情報を吟味して正しい理解に目覚めるべきではないか。
反宗教・反オカルト・反外道という名のセクト主義が実に強情である、その迷妄を自ら破れ。

"Apārutā tesaṃ amatassa dvārā, Ye sotavanto pamuñcantu saddhaṃ!!"





ここまで、教説の「理」と古代から現代までに至る教団の「事」という、「理・事」両面より説明した。
合理主義に基づき、学問的な見方を是とする日本のテーラワーダ信者が、実は随分と偏狭であり、彼らの合理主義に適った一説ばかりを見て正しい教えと思っている。
その一方で、日蓮系や浄土系などについてを「一つの経典や一つの修行に偏った邪教」であると主張する姿も見られる。
実際は、中村センセーを中興の祖として仰いだ新興宗教の狂信者が、日本のテーラワーダ信者である。
中村センセーですら、ずっと公平公正な視野があるが、彼の狂信者らがご都合主義の愚人であるとは、見るに堪えない悲劇である。
釈尊のみならず、教祖・中村センセーのお眼鏡にも適わないであろう(開祖・スマナサーラ長老については言及しない)。

既成宗教のオカルト性などを嫌った反骨精神で、「合理的・理知的・科学的で思弁哲学的(なように見える)仏教」をたまたま見つけ、あるいは仏教(特にテーラワーダ)を見つけずとも、何らかの思想に傾倒してその思想が正しいとみなし、宗教を非難する。
これまた、「反宗教VS宗教」の対立であり、実に愚かしい構図である。
そういった二元対立・二項対立を離れてこその仏教ではないか。
それは「中道」であり、「右」でも「左」でもないが、右も左もなくした「無」でもない。
また、仏教の教義は、確かに科学にも適う面は多くあるが、それのみを唱えては「画竜点睛を欠く」というものであり、仏教として十分ではない。

彼らが嫌う日本大乗仏教の一部宗派に限らず、彼らも偏狭であって十分にセクト主義が強い。
だから、自分たちの信念である合理主義に適った(ように見える)教説ばかりを金科玉条のように振り回しており、それこそ不平等で狂信的である。
日蓮正宗系の教団では、そういった釈尊や日蓮大聖人の教説の一部分を、文脈も考慮せずみだりに用いる愚行を「切り文」と呼んでいる。
正しい信仰を持てなかった者たちが、「自燈明・法燈明」を誤解して自分の偏狭な思想こそが法に適ったものと思い込み、これを妄信して已まない。

「中道」の立場から言えば、ただ信仰の良し悪しを吟味し、あなたの徳に資する信仰を取り入れて心の土壌を耕し、かといって狂信的になってしまうといった本末転倒を起こさないように用心すれば、それこそが仏教徒ととして好ましい姿勢であろう。
合理主義に毒された日本のテーラワーダ信者にとり、俄かには理解できないことと思う。
私は、そういった現代的な合理思想を一時は強く主張していたが、まさに毒が回らない10代のうちに仏法に値えて研鑽を進められ、そのために「中道」といった偏りのない広い視野が持てた。

テーラワーダ信者は、テーラワーダとしての正しい信仰、いや、個々人にとって心の土壌を耕してくれる信仰や精神の持ち方を、どうにか「自燈明・法燈明」の立場で探ってもらいたい。
「純粋な仏教・本来の仏教」を標榜するにも、それで他宗・他派を攻撃するのではなく、自分たちの矜持として清楚な修行と伝統の守護を日々に心掛けるための合言葉として念じてほしい。
そのようなテーラワーダ信者がいるならば、大いに尊敬したいと心から感じている私である。





起草日: 20160815

数日以内はだらだらと絵や音楽に手を付ける時間が続いていながら、この日は俄かに当記事を起草し、同日中に7,000文字近くを書いた。
元々から思っていたことや知っていた情報などを、吐き出してまとめた内容である。
改めて、短期間中の極端な変化に自ら恐れるばかりである、そう翌日8月16日に思った。
修行・研鑽も、絵や音楽という世俗の趣味も、順調に形を成せる取り組みが大事である。



日本のテーラワーダ信者の愚昧さについて、過去記事でも少々書いてある。
私はあくまでも、テーラワーダの教義自体は尊重していて一部信者の愚昧さを責めている。
http://lesbophilia.blogspot.com/2016/05/idol-and-idea.html#theravada

インターネット上に仏教を語る様々な人がいる中、原始仏典にどこまでも忠実な立場を持ちつつ、様々な思想を論じている人物がいた(当記事関連調査中の8月19日に知る)。
知識量はかなり膨大で、並みの日本のテーラワーダ信者よりも見識が広いようであるが、「原始仏典にどこまでも忠実な立場」であるから、例えばスッタニパータの4章・5章が釈尊真説としつつ、「信仰が種である(中村元センセー訳、Snp 77)」とある部分を含む1章は全体的に後世の仏教徒による創作・追加である、と見ている(ただし1-3犀の角の章のみ1章の中で真説とする学説も強い)。
信仰を頑として否定する魂胆には、この人物の主な批判ターゲットである新興宗教・信仰宗教のオウム真理教・幸福の科学、キリスト教の聖書などの影響があろう(彼はキリスト棄教者)。
本文中に私が綴るよう、信仰をどう論駁して否定しても構わないが、そこまで純粋な釈尊真説にこだわって"信仰"自体を否定する者も、その執着・信仰を持っている(信仰しない己が尊い信仰)。

しかし、仏教の信仰(三宝帰依・自信)を否定するならば、解脱を願った修行も無い。
何となれば、信仰を否定する者は往々にして「発菩提心」を欠かしている。
専ら理知的に学んでいれば悟りがある、などとでも思っていようか?
私は「行動だ!実践だ!」とかまびすしく言うつもりもないし、本当に「智目行足到清涼池」というよう、行動には知識が伴う必要(不二)もあるが、結局は実践を欠いていながらに実践を嫌って「日本人の好きな説教」と屁理屈を垂れるところ、実にものぐさの学者に過ぎない。
現代日本で原始仏教の復古をするにも、仏教の心構えが欠けてしまったところ、信仰一辺倒・修行懈怠・形骸化の既成宗教にせよ、どちらに転んでも日本の仏教は致命的な欠陥を残したまま(両極端)であると思う。

インターネット上にこういった、高説に高説を極めた「仏教学者」サマがいても、大概は現代的合理主義・物質文明のシャカイを謳歌した者であり、この者も様々な食品なり芸能なり世俗の執着が強く、自ら実践など何もないわけであるから、こういった者は「仏教学者・思想研究家」として尊重できても、熱心な「仏教徒」としての尊敬をしてはならない。
「科学的で合理的な教説のみをされたブッダ」という観念偶像を成立させても、結局、彼らは最後まで修行することは無い。
あの大阪のお比丘さまも、そういった学問一辺倒の在り方を示して「仏教学者と仏教徒は違う」、「学説の信者・仏教学信者」という批判を加えている。
また「観念遊戯」といい、これを譬えて「地図を眺めて空想に耽って現地へ実際に足を運ばない机上の人(あくまでも譬えであるから旅行など道楽・物見遊山を推奨する言葉ではない)」と表した。
無論、私も大阪のお比丘さまも、未だ悟っていない、未熟な凡夫であるから、多少は自説を持って言論を行うし、その姿勢が絶対に善いと言わないが、今の段階では修行の糧となろう。



以下は一部本文に対する脚注みたいなものとなる。
起草日の提示の段落から、ここまでの文章よりも、先に書いた。

本文中で少々触れたが、私の信奉である法華経ほか、日本の仏教教団で重用される経典の多くは大乗経典であるが、それらの所説のほとんどが偽作・創作(偽撰)である、といった主張が、よく日本のテーラワーダ信者の中で主張される。
「大乗非仏説論」といい、日本では早く江戸時代の国学者の富永仲基や平田篤胤が唱えた、外道による既成の仏教教団への非難である。
背景には、日本の既成の仏教教団・僧侶の堕落といった状態があった。
どの宗派も重用しない「阿含経(小乗の教えとして多少用いられる程度)」こそが仏説を残している経典とみなした。
後に西洋人が仏教全般を研究するにあたっても、パーリ仏典・経蔵(漢訳では阿含経と対応する)は最も釈尊の言葉を残していて大乗・漢訳経典は偽作・創作が多いとみなされたように、やはり歴史的に外道による非難である。
私としては、そういった学説も、仏教の修行とは別に一理あると思っているが、やはり修行者がこれを鵜呑みにする姿勢であってはならない。
大事なことは、その教理や教説が「三証」・・・特に現証に適い、自身の修行を助け、徳に資する教えであるか、といった判断である。
現代までに仏説として伝えられており、仏教の基本的教理である「縁起(因縁で生じる)」に適っていれば、それ以上に非難する余地が修行者にはあるべくもない。

※パーリ経蔵は増支部にある「カーラーマ経(Kesamutti sutta, Kālāma sutta)」というものを参照して正しく理解されたい。ブッダ様の説であってもあなた自身の仏教的な目的性(自身の苦を除くこと・その意味で如法であること)を通して正邪を確かめてほしいが、エセ学者の立場を抜け出せない日本のテーラワーダ信者の場合はいつまでも困難なままか。なお、カーラーマ経の当該箇所は、漢訳版である中阿含経・業相応品・伽藍経に載っていない。

仏説「筏のたとえ」である(またの名を"月を指す指"、"鰯の頭も信心から")。
たとえ釈尊・仏陀の真説であったとしても自身の修行に反映されないならば荘厳ながらに無用の筏(無用の長物)となってしまうが、ちゃんと因縁に適った教説でありながらに人々から「非仏説」とされるボロボロの筏でも、生死の大河を渡るに問題などなく、筏として機能する。
ここで、大乗仏教の一部宗派だと、「死後もずっと付き添うものとしての信仰」が見られるため、大乗の信者である私が言うには空々しいが、信仰についても「生死の大河を渡る」筏であり、一応はどんな仏・三宝でも、信じることで修行の助けとなれば、みな有益である。
私の場合「如渡得船(渡りに船を得たるが如し)」の法華経・日蓮大聖人の法門を信奉している。
法華経という大きな乗り物・大乗は、私と私の説を聞く人々を倶に彼岸へと渡らせるであろう。



文中の「依法不依人...」や、「切り文」といった語句については、曇無讖による漢訳・大乗の大般涅槃経(パーリ語のマハーパリニッバーナスッタではない)に詳しい。
「依法不依人...」は経文通りとして、「切り文」の意義を含めた経文は、日蓮大聖人の御書にも引かれる「是の如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除して世間荘厳の文を安置し無義の語を飾り前を抄て後に著け後を抄て前に著け前後を中に著け中を前後に著けん」という部分である。
端的に言えば、ある人が素晴らしい経典を読むとしても、いい加減な解釈をしていい加減に文章を取り出して用いる、といった具合に、経文を乱すと説かれる。

そのような態度で自分の都合のために前後の文脈などを無視して「経文を切り取る」ように用いると、これは日蓮正宗系の教団では「切り文」といって非難される。
私のような原典主義者は、特に、こういった「切り文」の非難を蒙らない努力が重要である。
このような大般涅槃経は、大乗仏教の論理性がよく現れた教説が多く、これを受け止めて折伏を行う。
折伏には、勧持品(忍従)といい常不軽菩薩(尊重)といった精神面の教説と、大般涅槃経に見る論理面の教説とがあり、いずれも折伏の基礎となる。
これら全てが、日蓮大聖人の折伏や一代の布教に現れているものと拝察する。



追記: 2018年3月9日

本記事中に"SuttaCentral"へのリンクが複数あるが、同サイトが日本時間2018年3月8日にリニューアルされたことに伴い、一部のページURLが変わったため、新しくリンクした。
リニューアル概要の動画→https://vimeo.com/257038431

ついでに、ここで一つ、読者に何か宿題を書いておく。
以下の言葉(パーリ原文・日本語訳)は、主題の一つである「信"saddhā"」の原形の動詞"sad √dhā"二人称・複数形・命令法で用いられており、関連する「信解"adhimukti"」の原形の動詞"adhi √muc"も同じように用いられている。
これは、どういう趣旨の教説であろうか?
検索などの手段を用いて原文の経典を探し、自ら問うて答えられたい。

Saddahatha me taṃ, bhikkhave, adhimuccatha, nikkaṅkhā ettha hotha nibbicikicchā. Esevanto dukkhassā
訳: 比丘たちよ、あなたがたは「私のそれを"me taṃ"」信じ・信解しなさい。("me taṃ"について)疑惑なく・疑いなき者たちとなりなさい。「これ"esa"」こそが苦の終焉である。


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