2016年9月21日水曜日

生活と仏道 ~ 禅定と智慧が生きる精進の日々

日常生活と仏道修行は「不二」と考えてよいが、「而二」の見解もある。
我々の生活における所作・一挙一動も、正しく行う努力を心掛ければ、仏道の修行にも通じることを「不二」と呼ぶ。
PCに向き合う時にも姿勢を意識して背筋を伸ばし、PCで作業中の不具合や不手際や失敗にも怒らず焦らず、冷静に対処するよう自律すればよい。

しかし、そうと言っても、それが出来るだけでは解脱(成仏や往生や涅槃など)は叶わない。
それが出来ることを、四威儀に渡る「念」が保たれた「禅定」の境地として喜ぶことはできるが、解脱のためには、解脱への志と同時に仏教の法の理解も兼ね備えている必要がある(むしろ先に教法を知る前提によって念が保たれるようになると言うべきか)。
それを生活と仏道とにおける「而二」と呼び、「世法即仏法(および仏法即世法)」の「而二不二」である(2016年6月20日記事の注釈1で詳述)。
仏教の理解に裏打ちされて「四種三昧」の「非行非坐三昧」というものの実現となろう。
もし、生活における所作が端正な人がいて仏法に値い、学び、慢心を起こさないならば、彼の解脱は近いと考えてよい。



例えば、一心不乱に勉強(学業)や労働(仕事)をすれば徳が積めるであろうか?
実際には、何ら思考や精神を伴わない作業は機械に任せても変わらない。
私は時折、社会を高度に機械化し、最後には機械が人間に取って代わって速やかに文明が滅んでしまってよいとすら思うことがあるが、これは私の慈悲が却って暗転した極論である。
本心ではいつも、人々が仏教に関心を持ってほしく思っている。

無心に勉強や労働を続ける意義は何であろうか?
世俗の欲望に塗れて勉強や労働に向き合っても、世俗の中の成功が有り得る程度に過ぎない。
もしくは世俗の欲望さえも欠け、楽しみも感じずに無機質な勉強や労働を行うならば、人間として大いに欠陥があろう(私の両親がその典型例・しかも今や父は抜け殻同然で母は勉強も労働もままならなく趣味も無い)。
一心不乱な勉強(詰め込み)は、知性に向いても、理性を排除するという知性への貪欲さに陥る。
このような状態では解脱に至るよりも、ただ無明の闇に堕ちてしまう。
※ただし、そういった機械的に勤めて(勤勉・勤労して)世間の欲望や野心などを持たない剛毅木訥・少欲知足の人がいるならば、仏法とは別の観点で尊敬できなくはないと思う。

さあ、仏法の道理を心得ずして世事や俗事に取り組んで、仏教の解脱が叶うと言えようか?
故に日本の大乗仏教から仏教全般が、仏道の基本的な修行(戒律を持つ・瞑想する)のみならず、信仰(尊敬・帰依・祈願)したり、広く学んで智慧を得たりと、精神性を重んじる一面も強い。
こういった諸々の仏事の調和によって修行に精進し、功徳を積み、悟りを得て仏道を完遂する道理を知らねばならない。
何事も一辺倒のままでは錯乱する結末を推して知るべし。
人間は人間であるからであり、機械のようにはゆかないからである。
世俗の望みにも欠け、その時の苦楽に翻弄されて物事を深く考えない反面、心身や他人との煩いが多いまま年を取る人は畜生に似て認知症となりやすかろうが、ご僧侶(宗教家全般)は正気・正念が据わっていて寿命が延び、臨終までの生涯に渡って破られがたい仏道が進められている(たとえ葬式仏教・形骸化仏教でも一般人よりこの傾向が強い)。

繰り返すが、もし世事・俗事に打ち込める人がいるとし、仏法に値って学ぶ身となるならば、彼の解脱は近いものと考えてよい。
仏道修行を抜きに労働・農務を真面目に行ってよいと見誤った中世の禅僧(鈴木正三)および禅宗全般について「而二不二を知らない」・「謂己均仏」という批判を過去に加えてある(額面通りには増上慢そのものの教説だが、もしかしたら達観した方便の教説と言えなくもない。その禅僧は在家信者を相手に説いたろうが、一応そうして世俗の労働を無心に続けていずれは仏道修行に関心を持つと見込んだ前提であろうか。これ以上に詮索の余地はない)。



生活に活きる(?)仏教の心


私は食事の際に「いただきます」と声に出して手を合わせる習慣がなく、言葉も浮かばない。
しかし、食物への「畏れ」は感じている。
これは美味しい・不味い(食べやすい・食べづらい・健康的・不健康という価値判断など)とは思っても、それ以上の執着を起こさず、心の中で嫌い続けたり食べずに捨てるなど、食物としての価値を蔑ろにすることはしない(スッタニパータ1.4章≒雑阿含経98経に釈尊が説法直後に施された食物を受け取らず施主に捨てさせた逸話もあるが方便の振る舞いである)。
食物への執着は、「私の中の仏様・マイブッダ」がお叱りになる。
食欲に随って食べ続ける自己の姿は、心の中の鏡が明らかに映し続ける。
仏様・如来はまさしく常住しているというのに、食物を貪ってなどいられようか。
仏教では「口が臭い」という表現を経典に見る(例は法華経譬喩品"口氣常臭")ことができるが、そのように五欲を貪っている我が身の口は臭く、貪るほどに臭くなることを感じてしまう。

仏教徒は、食事に喜びも悲しみも感じている。
自分がもったいなくも食事にありつける喜びと、自分が欲望のために食事に手を出す悲しみとが、心の中でせめぎ合う(苦楽一如・悲喜こもごも)。
世間の人が食事に感じる喜びとは、専らウマイ飯や大食いの欲求満足にあり、悲しみがあるならば、その欲求満足の対価として生じる経済苦や不摂生の弊害にある(凡夫の苦の縁起を現す)。

仏教徒は、現世で得られる最低限の食事に感謝して満足しつつ、臨終まで慚愧・反省の念を精進し、もう食事によって生命を繋ぐような境界に生を受けなくなる(解脱する・成仏する)ように願う。
こういった精神性も真の健康の在り方であり、実際に少欲知足によって経済苦や不摂生の弊害も発生しづらくあろう。
形式的に「いただきます・ごちそうさまでした」と声に出して手を合わせる美しい習慣や文化性も大事であろうが、その後からでもよいのでこういった精神性も踏まえてほしいと思う。
「思い」と「行い」の一致によって道が進むものである。



食事について話をしたが、私が通常の意味の健康を確立しているかと言えば、全く自信は無い。
私にも、体の悩みというものがある。
単に、小食であることと、食中や食後に起きる諸々の肉体的苦痛がどう関係してどちらが先であるかは、もはや顧みる余地もない。
とりあえず、食虫や食後の肉体的苦痛について列挙すると、デンプン系・糖類(ご飯・大概のシリアル・大概の菓子類・糖類が基本の甘い飲み物)などの糖質を口に含むと口内に酸が増えて気持ち悪く、こういうプロセスの酸は胸やけなどの原因となるから私は胸焼けが多く発生する(口内に残る酸は歯にも悪いから飲み水で流す・歯磨きは頻繁にやらない・これらは過去記事の通り)。

体の悩みについて最も大きい問題は、便秘であるが、その変遷は以下の通りである。
2010年末(埼玉県内居住末期)あたりから下痢になりやすくなったり(牛乳を原因とする乳糖不耐症らしい時期でもあったが2014年までに解決)、そう思えば2011年末(家出先の豊橋以降)には母親のインスタントコーヒーを多めに飲む習慣を始めて大量下血が発生したり(その後3年以上はコーヒーをあまり飲まないで過ごす)、2012年からは便秘が始まって母親のコーラック(とビューラックという同じ系統の下剤)を飲んでみるなど、大腸の問題に関しては変遷が著しい。
2013年以降にも便秘と下痢を繰り返すような変化があったが、記録は過去記事に見る通りである。
2014年以降においては下剤を伴わない下痢が滅多に起きなくなっており、下痢は外す。

無論、2012年からコーラックの初使用の手前に懐疑し、その系統の下剤の依存性や中毒性は十分に心得ているため、当時から節度を保って使用を続けているため、今でも一度の服用は1錠のみで十分に効果が得られている。
「効果・作用の老化現象(鈍化・減衰・減退・適応とも言える)」は仏教的な思考で理解が深まる。
2015年5月13日の日記メモなどでも常々書くが、こういった身体・肉体・人体の法則・現象に関して名前が無く、類似した情報のページが無いかネットで検索しても関係ある検索結果が一つもヒットしないことを「徒労検索」と称している。誰も自分の体について自覚がないのであろう。

大量下血で飲むことを恐れるようになったインスタントコーヒーについては2015年以降に「カフェインパワー」を期待しつつ、これも節度を保って飲用し続けている。
コーヒー及び同様の力が期待される紅茶・緑茶などのカフェイン飲料にしても「効果・作用の老化現象」があるから、カフェイン節制は重要である。
更に、その日に1杯のコーヒーを飲んで排便がされたとしても、同じようにもっと排便したくて2杯・3杯と飲めばまた排便ができることはあまりない。
こうした事実も仏教的な思考で受け入れられ、緩やかにでも便秘の改善が期待される。
物事は、綺麗に足し算や掛け算の答えとなるような結果ばかりでないという事実を。
算数の理論・数学的な思考ばかりの現代に生きてそこから脱することは稀有である。
また、便秘の改善が期待外れの結果となろうとも、後悔はあまりなかろうし、未だその状態でない時は憂える必要もない。

ここまでに2度も「あまりない」とか「あまりなかろう」と書いた点も、仏教的な思考に依る。
「全然ない」、「全くない」とは書かない(それも少し考え方を変えると使用が許される表現だが)。
私は物事の予測や判断についてよほど客観的に立証されないものに「絶対」とは考えない。
俗諦の上ですらもそう考え、真諦においては「空」の意義から「絶対・永遠・完璧」などもないと考えているが、真諦については現世に生きていて一旦、差し置いてもよい。
話が難しくなっているようだが、この部分に限っては用語に深い理解がある人が読んだ状態を想定して書いている。
これでどうにか書きたい趣旨を書けたこととなる。

※最後になるが、どこに書くべきか判断が付かなかった「排便法」に関して載せておく。「サマタ・パヴァナ」と2015年10月8日から呼び、時には「無為自然」のやり方(日記メモ2016年5月24日)とも表現している。





起草日: 2016年7月10~18日のいずれか
起草した日から1か月以内は大した加筆が無かった。
それ以後には漸次内容を増やし、9月以降は記事として投稿できるように執筆を進めた。



追記: 2016年12月20日

この記事に語った私の心境・・・例えば食事の時に湧き出る「感謝の念」と「背徳感」などは、およそ仏教徒を自負する立場に依る。
仏教徒を自負する立場に依った結果としてそういった想念が起こるわけだが、想念の種類や中身そのものは仏教徒ごとに異なったり、強さの程度も異なる。
私の場合は、既述の通りである。

仏教徒を自負する立場とは、仏道の義務と使命を自覚する立場である。
八万四千の法門と言うならば、無数億(むしゅおく)の仏教徒が各々の自覚に立っており、みな同じようであって同じようでもない部分が多かろう。
とはいえ、同じようである部分とは、現世で「仏道を行く我」を根本としていることである。

つまり、仏道の志には、「仮に設けた仏のエッセンス」がある(漢字4文字で假立佛我と名付ける。菩提心や天台六即でいう名字即の仏性や天台十界でいう仏界とも似る)。
仮の我が身に於いて仮に設けたので、仮の範疇では常に仏の顔や言葉(主観的に選別・解釈されたもの)などが常に付きまとう。
「エッセンス」や「常に」という表現は、アートマン・我見・常見などを連想させる語弊があろうが、仮の範疇なので咎を恐れずに用いた。
このエッセンスは思考や判断に作用するから、その思考や判断に基づいた行動があるので、生活に活きると言える。
本文中「生活に活きる(?)仏教の心」という見出しが設けられているが、非常にこの理解と通じたものである。

仮の範疇に於いて我を立て(仮設エッセンス)、生活の中に念じることがある。
念じる事柄とは、小乗仏教以来、4つに総括して四念処(四念住)と呼び、中身は「身・受・心・法」の4つの事柄と、それに対応する「不浄・苦・無常・無我」である。
つまり、「①自他の身は不浄である、②心身に受けることは苦ばかりである、③心は思いを生んで消すことを繰り返して無常である、(①~③まで仮の自我意識に依る)④諸法(全ての存在)は実体がない無我である(よって他の物事を自分が所有する・されるという関係も成立せず我が苦も我が苦でないし我が心も我が心と言えない)」と念じる。
この4つの念は、言葉で律儀に念ぜずとも、仏教の教理が何となく頭に入っている人が日々の生活に注意深く振る舞う中で意識される。
つまり、生活の中の現象・物事について、五感を通して心に受けるという「縁」によって念が作用する(縁起の法理)。
毒を食らって毒を知らねば「苦集滅道の四諦」も言葉だけの概念となるから、一応は様々な行為を通して縁起を感じ、四念処を成就すべきである。

そうして、食事に対する憶念は善悪に及ぶ。
その中身は、「自覚・反省」であり、努力の道となる。
仏教で自覚すべきことは善悪に及ぶ、という趣旨は過去記事の通りである。
また、性善説・性悪説とも取れる教説が多岐に渡っていることも仏教の特徴であり、まさしく善・悪および無記の三者を包括した真の中道である。
こうして私は何度も同じ趣旨を説いてゆく。

このような自覚・反省の日々は、決して「流転・輪廻」の境地ではなく、「還滅」の境地であり、「解脱」の道である。
流転と還滅、輪廻と解脱。
言葉を仏教用語に置き換えてみると、人によって通じやすくなろう。
十二因縁・十二支縁起という教理は難しそうであるが、輪廻は流転門、解脱は還滅門であり、仏教徒の生活は還滅の如く「苦しみの原因・縁起」を破る。
その方法が「自覚・反省」の思考に支えられている。

日々に自覚と反省を繰り返し、しらみつぶし(モグラ叩き・たまねぎの皮を剥く・堅実に)でも悪い境地を知って無くす努力をするならば、一歩一歩と地に足が付いており、足取りも定まり、手探りでも確かな手ごたえを得た仏道となる。
悪い境地を知らず=自覚が無く、故に反省もせず、努力ができず、その場その時の感情に任せて一喜一憂する人生が「流転」の境地・「輪廻」の道である。
自覚が無いならば、何を反省するか?
自覚と反省が無いならば、どう努力ができようか?
そうして努力が無いならば、いかに進歩して解脱が叶おうか?
還滅・解脱の道は「自覚・反省・努力の生活」であり、後述する「波羅提木叉の異名」でもある。



全ての閑居求道者(無戒在俗)のための戒律信仰

「仮に設けた仏のエッセンス説」にしたがえば、戒律における懺悔の行為も説明がつく。
戒律における懺悔の行為は、比丘の集団(僧団・僧伽)でされ、持律比丘は衷心より懺悔する。
自身が仏道の精神に背く行為・背徳行為を日々に重ねているという自覚が常に付きまとい、その度に反省・懺悔の念を免れない。
この現世での「常」・・・程度の差はあるが、これこそ「仮に設けた仏のエッセンス」である。

涅槃に臨む仏の言葉の一つには「我(仏)の滅後に汝等比丘は波羅提木叉を我(仏)と恭敬せよ」とある。
仏所行讃(佛所行讚)仏遺教経(佛遺教經)に見られるが、共に同じ教説である。
この仏所行讃と仏遺教経から言葉を借りると、波羅提木叉(梵: プラーティモークシャ "Prātimokṣa"、解脱へ向かうの意)が「巨夜の明燈(巨夜之明燈)」であり、「闇において明かりに遇うようなもの(如闇遇明)」であるということは、空・諸行無常・諸法無我の現世に我・アートマンを得たようなものと言い換えられなくはない。
闇に対して明かり有り、無我(闇)に対して我(明)を説く、このことである。
※ここで私が唱えるエッセンス・我・アートマンとは、仮設・自覚的なものをいうのであり、真理・実体論・形而上学的なものとして唱えられた小乗部派や外道のプドガラ・法有我・アートマンではない。

波羅提木叉というと「戒本」であるが、いわゆる五戒・十善戒・二百五十戒などの戒律でなくとも、一般人・在家信者の場合は仏の言葉・誡めであるとか、仏に繋がるものでよい。
自分がイメージする仏の御尊顔とか仏像の相貌でもよい。
私のような自責の念もまた、戒律そのものでなくとも「持戒に類する自覚」である。
そのように「波羅提木叉=(主観的・信仰的な)仏」を思い続けることが、「仮に設けた仏のエッセンス」の一例でもある。
こうして、仏道の自覚に基づいた背徳行為があるならば、仏法に基づいて反省できるようになる。
仏教徒は、このような「仮に設けた仏のエッセンス」によって自覚と反省の日々を送っている。
僧伽において戒律を持つ比丘が軽い罪を犯した時、大衆の面前で懺悔するように。

仮に設けた仏のエッセンス、または道心・道念とは、あたかも航海にはコンパス(方位磁石・方位磁針・羅針盤)が必要であり、コンパスがどうあっても、その針は常に北を指しているようなものである(仏道の意志にもコンパスの針にも例外はあるが例外も包括した上でコンパスに譬えた。全ての物事に例外は有り得るから)。
「仮に設けた仏のエッセンス」により、何をしても仏=応身における仏=御尊顔・御金言などが潜在意識に現れる境地となろう。
ああ、それであっても背徳行為を認めたがる放縦・放逸な私である。
私の日々の想念は徒労・本末転倒とならぬよう・・・。

私などは反省すべき背徳行為がありすぎるため、とても反省しきれない。
解脱した人の生涯に対して「波羅提木叉"towards liberation"の人生」とも「自覚・反省のできた人の足跡」とも名付けられるが、程度が低い自覚・反省の人生では、解脱に遠いようである。
こういう具体的な「遠い」という表現で断定する論理は仏教的でないが、あえてこう述べる。



仏教における「反省」に関して私が実感することは、教義・教理・法理・法義の方面も同様である。
私の信奉は日蓮大聖人の仏法と御本尊・御題目であるが、まだ理解が浅い時にそのまま決定する=頓悟・速疾頓成の人(日蓮正宗・創価学会信者など)もよかろうが、私はそうでないので、迷いも多かった。
なまじ、日本の大乗仏教・中国の大乗仏教の諸宗派の教義や、古典的な大乗仏教や上座部仏教や、大乗非仏説論なども摘まんだ程度に知っていたから「決定無有疑」が難しかった。

自分の理解の浅さを反省し、上座部・小乗仏教の方面も2016年1月から学びだした。
その間も、実大乗・文底の信奉はそのままである。
小乗仏教・パーリ語経典とか、そちらの方面に多少の理解がつき、小乗の法を反省し、続いて権大乗・・・竜樹菩薩の中論を基本的に学んだ。
これらの経典や論文は過去記事でも多く引用している。
権大乗も反省してから再度、法華経の理解に戻ると、霧のかかった景色が晴れたように様々な語句の真意が見えてきた。
天台三大部の所説も、真意に通じる補助となった。
この大乗仏教について完全に理解・把握したとは言わないし、今も不明瞭に感じる部分は多い。
ただ、法華経の実大乗たる所以はおよそ理解したと思う。
その理解により、「文底義」にも通じてゆく(日蓮正宗・創価学会の信仰と少し合わないが)。
こういった反省に基づく研鑽の成果が、2016年11月23日起草の「法華教学の再確認(諸法実相・第一義・文底義の視座で)」にまとまっている。


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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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