2017年12月20日水曜日

法華経方便品の偈とスッタ・ニパータ4.12経の偈、および大乗と小乗の「一乗」の不一不異義

法華経の方便品のサンスクリット文と、スッタ・ニパータの4章12経"Cūḷabyūhasutta"のパーリ文には類似フレーズがあり、また、後者にごく近い部分が龍樹(竜樹 ナーガールジュナ)菩薩の大智度論に載る。
法華経や大智度論を漢訳した鳩摩羅什三蔵(または龍樹菩薩ご本人か後世の中観派)は、両者の梵語テキストをご覧になっていると推定できる。
この大智度論により、スッタニパータの不戯論(唯一の真理)、大乗の一仏乗、四悉檀の第一義悉檀、法華最第一を確認でき、中国や日本の大乗仏教における論争の真相(俗諦による方便とその真意)も垣間見える。
そのことは過去記事で詳述した。
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/04/harmony-between-sects.html

以下に該当する類似フレーズをパーリ文→サンスクリット文(漢訳)の順で載せる。
類似フレーズよりも先に、スッタニパータと大智度論の対応を示す。

Sutta Nipāta 884-885 (4.12 Cūḷabyūha Sutta 通称: 小集積経) (VRI版)
Sakaṃsa­kaṃ­diṭṭhi­parib­basānā,
Viggayha nānā kusalā vadanti;
Yo evaṃ jānāti sa vedi dhammaṃ,
Idaṃ paṭik­kosa­ma­kevalī so.
Evampi viggayha vivādayanti,
Bālo paro akkusaloti cāhu;
Sacco nu vādo katamo imesaṃ,
Sabbeva hīme kusalāvadānā.
要約: 各々が自身の見解に依って他者の非を責め、真理について論争をしているが、誰が真理を説いているか?

大智度論・巻第一(訳は鳩摩羅什)
「各各自依見 戲論起諍競 若能知彼非 是為知正見 (この後に続く二偈はSNP 886-887に対応)」
訓読: 各各自ら見に依り、戯論して諍競を起こす。若し能く彼れの非を知らば、是れを正見を知ると為す。 (衆義経中所説偈としての引用、衆義経≒経集スッタ・ニパータ
、日本語訳に興味あらばこちらのページへ)

SNP 890
"Ekañhi saccaṃ na dutīyamatthi" (まさしく真理は一つであって第二のものは存在しないと… 後略)

Saddharmapuṇḍarīka Sūtra, 2nd Upāyakauśalya Parivarta (一般的な校訂本)
"Ekaṃ hi yānaṃ dvitiyaṃ na vidyate" (まさしく乗は一つであって第二のものは存在せず… 後略)

妙法蓮華経・方便品第二(訳は鳩摩羅什)
「唯有一乘法 無二(亦無三)」

大智度論・巻第十八(訳は鳩摩羅什) ※執筆中の調査で新発見した
「佛言。一究竟道、無衆多也。 (この後に続く五偈は義品偈の名で引用されており、SNP 4.8経・パスーラ経"Pasūra Sutta"全体と部分的に対応する)」
訓読: 仏言く、一究竟道にして、衆多(しゅた)無きなり。 (しかし諸々の外道師は各々が自ら究竟道だと主張してやまないのだ、という話の脈絡でスッタニパータ4章8経に当たる偈が説かれたとして龍樹が語る、日本語訳に興味あらばこちらのページへ)



この両フレーズ(法華偈・SNP890偈)は共に仏説であり、真意は同じであると拝すべきである。
ストレートに言い直せば「(自分の道や真理が唯一で正しいと真に思うならば)自分の目的のための行動に専念せよ!(それが真の大乗菩薩道や小乗解脱法だ!)」ということである。
※真とは「諸々の思想家・行者のような顛倒・迷妄」が無い境地だから、仏が指して指さない非有非無・非実非非実のこと。

共に、唯一の真理を知る者や、唯一の真実の道を知る者は、他者がどうであれ、その一真理(無真理・多真理・非無非多の一真理)を奉じ・一乗道(無差別の大道・自己唯一の道)を行き、他者と皮相的な教義について枝葉末節の論議をしないように志向している言葉である。
それでも、釈尊や龍樹菩薩や多くの高名な大乗僧侶たちは、他者との論議を倦まないつもりで布教したわけであり、そのことが多くの大乗経典に説かれていることを、合わせて知ると良い。
そのことも上掲の過去記事に詳述してある。
悟っているという自覚の有無、客観的な悟りの有無など、元より論ずべくもないとのことであろう。
不戯論のために戯論を用い、不戯論の教理を知らない他者(外道・部派仏教徒・思想家・哲学者)が行う戯論を打ち破るという、「毒を以て毒を制す・毒を変じて薬と為す」である。

※両偈は音節数が11のトリシュトゥブとなっている点も共通する…、と思ったが、方便品"ekaṃ hi yānaṃ dvitiyaṃ na vidyate"句ないし以下3句は、12音節だった (e, kaṃ, hi, yā, naṃ, dvi, ti, yaṃ, na, vi, dya, te = 12)。

※類似表現ついては「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド(チャーンドーギヨーパニシャド "Chāndogyopaniṣad")」にも見られる。6章2節1句(および2句) 有名な一節「〈ブラフマンこそが〉唯一であり第二のものは存在しない"Ekamevādvitīyam (英訳: ..is one only, without a second)"」と。「ウパニシャッドの語と似るくらいならば、法華経とスッタニパータの偈もたまたま似ただけだ」と言う者がいるであろうが、先にも後にも会通するように、法華経とスッタニパータの偈の真意は同じである。また、文献学的な経典編纂の観点・合理主義の視点からしても、法華経の方便品は法華経もといサッダルマプンダリーカの最初期に編纂され(仏教文献学が唱える通説では西暦1・2世紀ころとし口伝時代を想定するとそれ以前より有る)、教説も菩薩・声聞・縁覚(独覚)の三乗を和する教説が主要であるように、阿含系の教説との融和が図られる。パーリ語で伝わったスッタニパータに相当する教説を法華経編纂者が見ていたと学者が見解を持つことは必然的である。なお、古ウパニシャッドと仏教の関連性は、絶大権威の中村元氏ほか多くの日本学者の見解が世に多く見られており、これも合理主義の学問で肯定される。パーリ語経典に直接の言及は無くも、パーリ三明経に載る婆羅門の派閥名に「チャンドーカ」・「ティッティリヤ」といったウパニシャッドの名称とそっくりなものがあり、派閥名とヴェーダとの関連をパーリ経の注釈書ティーカーが述べていてウパニシャッドとヴェーダの関連と一致することは過去に説明した。つまり、釈尊在世でも修行者界隈にウパニシャッドの教説が広く知られていたと考えられるが、その類似表現のある法華経とスッタニパータの偈が直接影響を受けたとは断定しない。



大小・一乗・不一不異義


大乗の教説と小乗の教説とに「一乗(+道)」の言葉がある。
それは、先述の法華経方便品および後述のパーリ語・漢訳の念処経である。
「エーカヤーナ"ekayāna"とエーカーヤナ"ekāyana" (エーカーヤナマッガ ekāyanamagga)の文字列・字義は似て非なるものだ!」と賢しらに分別する人々もいよう。
俗諦たる言語学・文献学の話に加え、仏意に関しても推量してみたい。
まず、萌えの典籍より、輸提尼(ソ○○○ニーちゃん)が応現する話(草案)を暫く引用する。

 悪い心の人には見えないはずの輸提尼(報身)だが、多くの人の前に応身"nirmāṇakāya"として現出するという。ある時、拾主の弘める萌えの法門を、小乗の徒が知った。小乗の徒のグループは、大乗を誹謗し、「広く仏・菩薩の像・遺跡に礼拝する在家の信男信女(民間信仰的な仏教徒)」を愚弄していた。何らかの経緯で拾主らとその小乗の徒のグループが接触する。拾主が輸提尼の絵を提示して「当に萌心を出だすべし!人心もとより清浄なり!」と叫び続ける。かの小乗の徒は「そんなのブッダの教えじゃない!」と反発し、僧団の威儀に反して高慢な態度で場を辞せんとする時、その場に倒れ込んだ。しばらく気絶するようだが、心の中では・・・。
 「あなたも仏の慈悲を聞いているのだから、もう大乗への誹謗はやめようね。論争に業を煮やすこと・戯論・諍論はやめようね。お花の蜜を取る蜂さんはお花を傷つけないんだよ(元ネタはダンマパダ・遺教経)。みんな仏様を信じているのに、みんなの心を壊さないでね。倶伽離"kokālikaまたはkokāliya"さんのように地獄に自ら堕ちちゃうのは、いやだよ。もしあなたが全てを知っているなら、その道を進んでいれば、いいんだよ。自分の道、道じゃない道、どの道、大慧大乗"mahājñāna-mahāyāna"。一諦一乗(元ネタはスッタニパータの"Ekañhi saccaṃ"偈と法華経の"Ekaṃ hi yānaṃ"偈)。」

→畢竟、これもその小乗の徒が大乗仏教と萌えの法門とを一分でも見聞していたので、彼の心の中に自ら生じた相であり、心の化"nirmāṇa"である。一分の慈心だに有らば、則ち相応じて須臾も(一時でも)萌えを見よう。人の善心を壊さずに悪を呵すべし。「どこにでもいてどこにもいない輸提尼・諸萌(如来如去)」の力用、是の如し。是の如く、拾主によって蒔かれた輸提尼の種(因子)が小乗の徒の地に着いて発芽したが、どこまで生長するかは未知数である。
 小乗の徒は小乗の徒のままでよい。大小の別なき一乗は真に大乗であり、小乗とは何らかの理由に依存した仮設概念に過ぎない。二乗(声聞・縁覚)も三乗(菩薩)も、一乗と別に存在するものでない。みな不一不異の仏道から後に分かれた仮設概念である。仮設概念としての小乗の道も釈尊が一乗道のうちにお引きであるから、正しい仏道である。彼の心が慚愧を懐くならば、彼は正しい仏道に入るであろう。釈尊は言い争いの道を小乗・阿含時に説いていない。小乗の徒もとい上座部仏教の人は、阿羅漢の道・二乗を行くべきである。大乗の般若経・維摩経などにあるような、非道(三毒)を行じても無漏の故に三毒の煩悩が無い「菩薩」や、論争の業に染まらずに説法ができる「菩薩」でなかろう。阿羅漢の道にあるべき彼は、原始仏教を標榜しながら現代性に便乗し(古代即現代の教理も無いのに)、世俗に媚びながら売文活動をして名利を受ける菩薩の真似事をしていた。彼が(彼にとっての)正しい仏道に入るか、三悪道に堕ちるかどうかは読者の想像による。いかがか?

 後日談?「〇〇(拾主の俗名)さま、私たちはとてつもない悪業を積み、互いに積ませて参りました。その業で地獄への道連れになったろうと悔やんでおります!あなたとその教えと大乗の法とを謗った罪を、ここに懺悔いたします!今後、私は大乗を大乗という認識による妄想を以て論うことなく、弟子どもにも大乗に関する妄想をさせぬよう、正しく教えて参ります!」
 「sādhu, sādhu, よろしい、仏性に適う改悔である。生死の道は元より独り行き独り到るものだが、相待の観点ではみな道連れにもなる。辛苦も快楽も、それは独り受けるものだが、相待の観点では自他に及ぶ。なぜならば誹謗の語を誹謗の語として聞く者がいるからである。誹謗の語を発する者と聞く者とが共に怒り、誹謗の語を発する者と聞く者とが共に喜ぶ。このように、瞋恚・驕慢の因果が先にも後にも見えると覚る。須らく自ら悪口・悪意を止(と)むべし。これが八正道の要旨である。共に在ること=サンガは、その実行者であろうに、三業の悪業をあなたがたは行ってしまった。僧団ではなく魔軍となろう。萌えの聖霊によって一乗の法を聞き、解したならば、あなたがたの道を見て進むのみである。私たちの一乗はエーカヤーナであるが、あなたがたの信ずる所のブッダ様がお示しの一乗法がエーカーヤナであり、いわゆる四念処である。念処経・サティパッターナスッタに仰せの一入道、観身如身・観受如受・観心如心・観法如法、四念処の正念を以て三毒を自覚し、三業を清浄にし、八正道を弛まずに進みなさい。大乗と小乗とで別々に説かれた二つの一乗は何ら相違しない。もし仏道に於いて迷いあらば萌道をご覧なさい」 
 何となく漢詩→生死重昏獨行道。忘前失後無侶到。佛子照見如是事。我等已依大乘高。-au韻・七言絶句 「我等」とは天・人・畜を含む一切衆生のこと。中論24-15偈「如人乘馬者 自忘於所乘"aśvam evābhirūḍhaḥ sann aśvam evāsi vismṛtaḥ"」に倣った表現でもある。中論・真諦の観点では大乗および一乗の体(たい、当体・正体・本体)は「空」という。法華経においても仏子はみな悉く一乗(エーカヤーナの方)に在り。

上掲の文章は、大乗のエーカヤーナ"ekayāna"と小乗のエーカーヤナ"ekāyana"とは、「文字列も字義も異なるが釈尊の真意としては同じである」という教示である(ましてや空・仮名の観点では論を俟たないがそれはさておく)。
大乗のエーカヤーナを分解すると「エーカ eka + ヤーナ yāna (√yā + 接尾辞ana)」であり、「一つの乗り物(乗, 乘)」と直訳できる。
小乗のエーカーヤナを分解すると「エーカ eka + アーヤナ āyana (接頭辞ā + √i + 接尾辞ana 他にアヤナayana説あり)」であり、「唯一〇〇へ至らせる[+道 "pl: magga, skt: mārga"]」という意味である。
※何らかの目的へ至らせる唯一の道であるが故に念処経・大念処経の冒頭では漢: 衆生を浄む・淨衆生や、巴: 衆生の清浄へ"sattānaṃ visuddhiyā"などなど四念処の果報を釈尊が示された。しかし、「一人で行く道"ekattaṃ gacchanti"」という解釈もあり、この点についても上掲の文章「生死の道は元より独り行き独り到るもの・・・(漢詩で生死重昏獨行道・・・)」に通じる。いわゆる「自洲・法洲=四念処」と同様である。そういった「独り行く道=生死」より解脱して涅槃に至る道もまた、エーカーヤナか。
前者のヤーナと後者のアーヤナとは、共に 、「行く」という動詞語根√yā √iを含んでいる。
Ekāyano ayaṃ, bhikkhave, maggo sattānaṃ visuddhiyā, sokaparidevānaṃ samatikkamāya dukkhadomanassānaṃ atthaṅgamāya ñāyassa adhigamāya nibbānassa sacchikiriyāya, yadidaṃ cattāro satipaṭṭhānā. (パーリ経蔵の長部22経中部10経相応部47.1経など)

世尊告諸比丘「有一乘道、淨諸眾生、令越憂悲、滅惱苦、得如實法、所謂四念處。」(雑阿含経にいくらかあるうちの相応部47.1経に対応する607経=巻第二十四より、上掲パーリ文に相当するアーガマの異訳は中阿含経98経増一阿含経12.1経など)

こういった大乗のエーカヤーナ"ekayāna"と小乗のエーカーヤナ"ekāyana"とを、共に「一乗」と訳することについて考えてみたい。
漢訳で、法華経などのエーカヤーナ"ekayāna (一つの乗り物)"を一乗と訳することは良かろう。
マハーヤーナ"mahāyāna"を大乗とし、ヒーナヤーナ"hīnayāna"を小乗とし、時代の下ったヴァジュラヤーナ"vajrayāna"を金剛乗と称するような系統にある。
しかし、四念処・四念住を指した"ekāyana"を一乗とすることは、雑阿含経の訳者「求那跋陀羅」三蔵が大乗経典も多く翻訳するなど、大乗の人であるために、敢えて大乗のエーカヤーナと似た「一乗道」と訳語を当てたろう。
求那跋陀羅三蔵は、「一道(中阿含経98経)」や「一入道(増一阿含経12.1経)」といった「乗(乗り物, vehicle)」の意味を含まないものとせず、大乗との会通(えつう)を図ったろう。
つまり、彼は「乗 ヤーナ"yāna"」と「道(入道) アーヤナāyana"」の両者の意味を取った。

その、彼の会通を、より明確に示した記述が、上掲の引用文にある。
「四念処の正念を以て三毒を自覚し、三業を清浄にし、八正道を弛まずに進みなさい。大乗と小乗とで別々に説かれた二つの一乗は何ら相違しない」と。
そのように心を清浄にすることで衆生を浄め(相応部22.100経維摩経弟子品の共通フレーズ)、仏国土を浄めてゆくことは、維摩経の浄仏国土説に通じている(→清浄萌土抄・観萌行広要)。
形としての大乗は、現世の即物的なものにも通用させる必要があるとはいえ、法華経の円満の一乗義においては、このように大小不二である。
このことは妙法蓮華経の五百弟子授記品に「内に菩薩の行を秘し 外に声聞の形を現ず 少欲にして生死を厭えども 実には自ら仏土を浄む 衆に三毒ありと示し 又邪見の相を現ず 我が弟子是の如く 方便して衆生を度す (内祕菩薩行 外現聲聞形 少欲厭生死 實自淨佛土 示衆有三毒 又現邪見相 我弟子如是 方便度衆生)」とある通りである。
こうして釈尊は懇切丁寧に小乗・声聞乗の人も菩薩と異なり無きことを説かれ、しかも成仏の記"vyākaraṇa"を授けられた。

以上、大乗と小乗の一乗について、不一不異義を「俗諦・言語学・文献学」においても示した。
これらはみな仏説を私が拝見して述べるところであり、真には「仏意量り難し」と付言す。
中道・言語道断心行処滅・不可量・不可説・不可得の不一不異である。
なお、上掲の引用文で大慧大乗"mahājñāna-mahāyāna"とあることは、過去記事に詳しい(仏法の説明に加えて言語学・文献学の見解もある)。





起草日: 20171218

過去記事の焼き直しとして、簡易なものとしたく発案したが、結果的に説明を多く増やすこととなった。

大乗仏教, 小乗仏教, 原始仏教, 初期仏教, 上座部仏教, 法華時, 阿含時, Mahayana, Theravada, Early Buddhism, Lotus Sutra, Agamas, Nikaya, Suttanipata, Prajnaparamitasastra, Da Zhi Du Lun Nagarjuna (Nāgārjuna) Kumarajiva (kumārajīva), Gunabhadra (Guṇabhadra), Sanskrit, Pali, Synonyms, Homonyms, Is -yana a vehicle or a path?

Saddharmapuṇḍarīkasūtra, Upāyakauśalyaparivartaは語幹表記であり、別にはSaddharmapuṇḍarīkasūtram, Upāyakauśalyaparivartaḥと-m(ṃアヌスヴァーラの場合も)や-ḥ (ヴィサルガ)が付く。
前者はsūtraにm = 中性名詞の主格を作る語尾m (ṃ)が付随した形であり、後者はparivarta (varta)に付随する男性名詞の主格を作るḥが付随した形である。



冒頭にあるリンク先の記事には、日本仏教の宗祖による論議・問答・諍論という事跡と、スッタ・ニパータに通じた大智度論との関連性が書いてあるが、その前に四念処を指したエーカーヤナに関する説明をした。
以下である。
ダンマパダ・人口に膾炙する50詩(他人の過失を見るな、常自省身・知正不正)の真意。批判者が自ら「日本仏教・大乗仏教・大乗経典・セクト教祖という名の妄想概念」を心に作って汚物の塊と蔑むが、汚れていると知るべきものは己の心であり、四念処を以て観察し、制御・浄化せよ。これが小乗教の「一乗・一道"ekāyana magga"」だと念処経に仰せである。現に論議する仏弟子や外道は、誰でも言葉で心を認識できるから、誰でも四念処が修習できる平等の一乗である。加えて、大乗の一乗"ekayāna"は、言語能力の有無・感情の有無を問わない、真に平等の一乗である。

※以下は当記事による引用※
そのダンマパダ・花の章"Dhammapada Pupphavagga"にある詩・偈
50 Pāvey­ya­ājīva­ka­vatthu
Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ;
Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca.

漢訳の法句経・華香品
「不務觀彼 作與不作 常自省身 知正不正 (彼れの作すと作さざるとを観ずることに務めず、常に自ら身を省みて正しきと正しからざるとを知る)」

Puppha Vagga = 「花の章」、漢訳「華香品」。そこになぜ「己を見よ」という釈尊の教説が載るか?疑問解消のために萌えの典籍(本萌譚・異伝④)より引用↓
 (拾主いわく)「跋聖(当記事注: 過去萌尊の一人)が後世を懸念した故に命ぜられた遺誡(ゆいかい)を少し示そう。一に (中略) 二に (中略) 三に『萌相や萌道を弘めるにあたって他者や自己に障害を感じても無理な行動で解決すべきでなく萌えを念ずべきだ。この萌えは、日照りにも負けず暴風雨にも負けず踏みつけにも負けることなく、勝つこともなく、ただ生きて死ぬる運命だが、常にその小さい身で大いなる果実を結ぼうと懸命に生きているものである。萌えは中道"madhya"・柔和"mārdava"である(当記事注: 觀萌私記>萌相條と共通する表現)。果実を結ぶ意志は無いが果実を結ぶべく懸命に生きる。懸命に生きる思いは無いが悩みも無く、どのような障害も有るようで無し。このような萌えの正念ある者には障害が有るようで無し。ただ目的へと邁進するのみだ』。跋聖の遺誡を今は略して三つに挙げた。他の萌尊にしても、弟子をお持ちであれば同じような遺誡を下されたろう」と。 続いて、以前尊者に説いた萌え和讃の一首を再びお詠みになって語ります。
 「群れてまします芽なりとも 互ひの根と葉きらひなし 我の萌ゆるは先になく 誰かほかにも萌えをらむ・・・、萌えの萌えたることは萌義によるわけで、その萌義の雨が萌えを生長させる。萌尊が萌義を開示せねば、慈悲の用(ゆう)のある可愛い絵も萌相と呼ぶべきでなくなり、萌道も存在しなくなる。萌義の雨を受けた芽は、生長して必ず花を咲かせ、実を結ぶとも説く。花や実にも各々の異なりはあろう。花の色・香、実の色・香・味、人は良し悪しや価値の善悪を分けるが、植物にとって花は、生長の証・しるしである。虚仮の花弁(シュードフォリア)でなければ生殖機能も有す。果実は次の生命の種となるし、生きた跡ともいえる。人間の品種改良がされていない自然界の植物は、よほどの異常も無ければみな花と実を成す。これらの事項も、植物は思いもせず、今そうあるだけのことであるから、私が説くことは誤りであろうが、一応例示した。どのように行じ、どのような花たる好色萌相(二萌風の属性・五萌類の相貌など)を成すとも、萌心に依るものはみな萌道に違わない。今、仏家の法華経・一乗・草喩のようである。当世の風俗にも、似たような歌謡曲の詞があるそうだが・・・。 (後略)」

改めて言えば、四念処の修習が、現代日本で人口に膾炙する「自灯明・法灯明(自燈明・法燈明)」、もとい「自洲・法洲・不住他洲(雑阿含36経: 住於自洲・住於自依。住於法洲・住於法依。不異洲・不異依。 長阿含2経: 云何、自熾燃・熾燃於法・勿他熾燃、當自歸依・歸依於法・勿他歸依。阿難。比丘觀内身精勤無懈…=身念処ないし四念処の説明 パーリ長部16経: Kathañcānanda, bhikkhu attadīpo viharati attasaraṇo anaññasaraṇo, dhammadīpo dhammasaraṇo anaññasaraṇo? Idhānanda, bhikkhu kāye kāyānupassī viharati atāpī sampajāno satimā...)」ということである。
したがって、やはりダンマパダ・人口に膾炙する50詩(他人の過失を見るな、常自省身・知正不正)の真意にも通じることとなる。
この「自洲・法洲・不住他洲」、「己を見よ・法を知れ・他を見るな」ということが、小乗のエーカーヤナと同じく四念処を指している。
不戯論のままに自己の修行を為すこととなる。

そして、大乗のエーカヤーナは、四念処が行える人間的な能力(知能・精神・言語など)・煩悩即菩提の性質が無くてもすでにエーカヤーナである。
いわゆる不二・絶対の理において、仏の智慧・報身が一切諸法を対境として自他共に仏・中道・真如、法身を知り、応身と為す。
それは大乗の高度な教理となり、ある種の空"emptiness"・無義(無意味"meaninglessness")と言われかねないが、それまた、意に介すべきでない。
その空理空論・仮名(けみょう)と自ら知るならば、大乗でも、自ずと不戯論・寂滅となる。
心の浄化とは、己の三毒・煩悩を自覚してから三毒・煩悩の元となる物事=境(色・声・香・味・触・法、特に他者の論理・文言・記憶)を厭離(えんり)する・遠離(おんり)することである。

しかし、諍論を厭いつつも現世であえて論を構えることが自行化他(中道)の菩薩である、とも多くの日本・中国の僧侶は知っていた(況や末法をや)。
釈尊・龍樹菩薩・大乗仏教の僧侶たち、彼ら聖人たちは忍辱ある慈悲を以て人々に仏法を弘めたく、苦を以て苦を制すべく、伝道教化なさったろう。
非力の私には到底真似できないが、大乗の人であれ、小乗の人であれ、仏・菩薩を渇仰し、各々の手段"upāya"で忍辱と慈悲とを得てゆけるとよい。

これらを学んで念じて智慧・般若波羅蜜を成就することで、忍辱や慈悲も波羅蜜となるという(完璧"Perfect"になる・彼岸"Pāra"に至るという二義の問題を解決)。
龍樹菩薩の大智度論で有名な「過去世の舎利弗尊者と乞眼婆羅門(こつげんばらもん)」の説話は、般若波羅蜜を成就しない菩薩が布施波羅蜜をも成就しなかったという意味である。
菩薩行をする舎利弗尊者の過去世の人は、婆羅門の人から肉体の眼を求められ、「利用価値の無い眼を求めて何がしたいのか」と憂慮しながらも眼を自ら剔出し、その眼を与えた。
すると、相手に「臭い眼などいらない!(臭い=尊者の憂慮ある心を掛けている隠喩でもある)」と激怒されてしまい、相手がその眼球に唾を吐いて踏みつぶした様子を見て「利用価値の無いものを求めて剰え逆切れするとは!こんな狂人どものために布施の修行などできない!小乗の修行と果報の方がマシだ!」として菩薩を退転したという話である(大智度論巻第十二)。
見返りを求める「有漏善心」や他者を見下す心では、菩薩を退転するので慈悲が必要ともなる。

このように、布施の修行を退転したくなければ、布施波羅蜜(檀波羅蜜)を成就したければ、般若波羅蜜を修習しなさい、と龍樹菩薩が説明せられた。
同じく、大乗の智慧によって小乗の修行が成就できるであろう・・・世諦においても、真諦においても、というスタンスは有る。
世諦においては、世俗的な意味の「実際・ゲンジツ」に則った自己の修行の成就であり、困難は伴うが、大智度論のスタンスでは同じことと思われる。
真諦に近いものは、布施の修行者(無)が一切衆生とされる対象(無)に何らかのもの(無)を布施をすること(無)=心に布施・主客の関係性を思わない無分別の布施行がまた布施波羅蜜だと言われており、そうでない=顛倒ある布施行が波羅蜜(彼岸に到ること)でない此岸の布施だとする。
布施波羅蜜を布施波羅蜜たらしめる理法も究極的には般若波羅蜜(智慧波羅蜜・智度)であるので、このように菩薩は聴聞・修習をする。

荒く・粗く記述したが、興味あらば、是非とも大智度論の全巻か少なくとも一~二十を通読せられたし(英訳はÉttienne Lamotte エティエンヌ・ラモット氏のVol. 1~5がありVol. 1なら巻第十の最後まで、Vol. 2なら巻第十八の最後までとなる)。
私にとって量り難い仏・菩薩の智慧は、決して道を退転しない正念となり、その智慧の正念は何事をも成就させてゆくので、やはり一乗となろうことを思う。
以上、思想の偏向ある解説を交え、私の意思に基づいて仏説・菩薩論文などを抄った。
改めて「仏説の言語(釈尊も凡夫が理解できるように配慮した言葉を用いたろう)を明かしても、真には仏意量り難し!一切の心行もまた不可量・不可知・不可説・不可得」、南無南無南無南無…



輸提尼 一乘 一乗 一諦 ekayāna ekāyana ekasacca ekasatya
一乘 一諦 एक‍यान‍ (ekayāna) एक‍स‍‍ (ekasacca, skt: ekasatya)…2017年9月12日に描いた絵。
その話で「応現」した輸提尼(ソ○○○ニーちゃん)の一つ(話の想定上は同時に3体以上出現している)。

以後、別の絵を追加する予定



追記: 2018年1月9日
法華経の一乗は、智慧第一の舎利弗尊者を首とした会座の聴衆によって聞かれた教説である。彼らはみな因縁法(小乗)・般若空(大乗)を御存知であるから、一乗とは「具体的に何物だ」と考えられない(不可得)と、彼らによって理解される。パーリ語で伝わるスッタ・ニパータの「一諦(Ekaṃ saccaṃ)」は、舎利弗(パーリ語でサーリプッタ)尊者が説いたとされるマハー・ニッデーサ"Mahāniddesa"(大義釈)で「一諦とは苦滅(苦集滅道の四諦)・涅槃を言う"Ekaṃ saccaṃ vuccati dukkhanirodho nibbānaṃ"」と具体的に説かれてある。法華経の「一乗(Ekaṃ yānaṃ)」は、もはや「言語道断・心行処滅」と思われる。それはなぜか?如来は愛憎の心を離れていて涅槃の如くにあるが、衆生は愛憎に因って自ら苦や分別を起こす。憶想・分別の心(妄想)によって仏道が二乗にも三乗にもなるが、無分別の自由な心においては「更に余乗なし」であり、真の一乗を説き得る。一乗は因縁観によっても理解し得た。言語表現へ皮相的に執着して分別をする凡夫には、一乗が見えない。説法せられる如来は、その苦・顛倒・執着を除こうという慈悲をお持ちであった。

マハー・ニッデーサの説明に「苦滅・涅槃」とあるが、これはまさしく、法華経の意趣にたがわない。スッタ・ニパータ原文は「無二の真理・諦"sacca"を知る者は論争を起こさない(形式上の不戯論)」という趣旨あり、専ら自己の修行・実践に向けられる。その「苦滅・涅槃」の実践とは、マハー・ニッデーサに同じく、先の物語で「拾主」がおっしゃる「八正道(および正念の行に摂せられる四念処)」である。マハー・ニッデーサの説明は、法華経の一乗・諸法実相なる修行・果報と相違しない。依義不依語の大智慧・大乗教"mahājñāna mahāyāna"によれば、一乗即一諦・法華経即スッタニパータといっても過言ではない。俗諦・言語・文字通りの解釈は而二だが、真諦・仏心によれば不二という大乗の理解である(仏心によるが故に仏心また量り難し)。

「薬草喩品: (如来は)無有彼此・愛憎之心"na kaści vidveṣu na rāgu vidyate |"」「如来寿量品: (如来は)以諸衆生有種種 (中略) 憶想分別故、欲令生諸善根 "api tu khalu punaḥ sattvānāṃ nānācaritānāṃ nānābhiprāyāṇāṃ saṃjñāvikalpacaritānāṃ"」「中論観法品: 諸法實相者 心行言語斷 無生亦無滅 寂滅如涅槃"nivṛttam abhidhātavyaṃ nivṛttaś cittagocaraḥ | anutpannāniruddhā hi nirvāṇam iva dharmatā ||"」

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