2018年4月20日金曜日

キリスト教の縁起観 (一神教聖書と仏教経典の創造論・起源説を中心に)

当記事は2018年2月10日に投稿された記事の一部分を基に、再構成して投稿する。

まず、簡潔に「縁起」の語義釈…。
「縁起」とも「因縁生」とも表現される概念の名称は、梵語: pratītya-samutpādaの漢訳表現である。
pratītyaについて、「縁」とも「因縁」ともいうが、漢訳経典における新訳と旧訳(くやく)との差である。
旧訳経典では、因縁という漢訳語が、単に"pratītya"部分を指すのみならず、別の用語である"hetu-pratyaya (因と縁=異なる概念どうしの並列複合語)"を指すこともある。
そのため、新訳経典では、混同を避ける意図もあって"pratītiya"を、単に「縁」と表現するようになったろう。
samutpādaについて、これはsam-ut-√padという3つの形態素を示し得るような「生じること=発生・生起」という意味があり、「縁"pratītya"」に接続して名詞-動詞由来名詞の複合語(従属複合語・格限定複合語・依士釈 tatpurusha)を形成するので、「縁起」とも「因縁生」ともいう。

ともあれ、筆者の方針では、「縁起・因縁生」という2種類の表現を、同義語として用いる。
「十二支縁起(支"aṅga"込みの表現)・十二因縁(旧訳の表現)」も同義語として用いるが、「縁起・因縁生」に対する「因縁」は別概念として、明確に使い分ける。

「縁起・因縁生」ということは、本文を読む中で次第に理解されると思うが、別途、詳しく知りたい人は、Googleで検索したり、Wikipediaや辞書系サイトをご覧になるとよかろう。
または、パーリ語経典や中論の翻訳・解説などが、確かな聖典を頼りにする手段としてよかろう。
ページ「リンク集・智慧の聖典」に、良質・適切なサイトが載る。
http://lesbophilia.blogspot.com/p/blog-page_6.html

以下から、当該過去記事の文章を、本記事の為に改良して掲載する。
当該過去記事においては、引用領域"quotation"内の注釈が長いものでも徹底して載せられていたが、ここでは主要な説明文として扱う。





キリスト教の神"the God"は、「形式的な多神=心の所造・所変(心によって作られた・変えられた)=被造物"creature"(仏教でいう有為法 saṃskṛta)」ではなく、「創造神・絶対的な創造主・造物主"creator (作者 kartṛ)"」である。
換言すれば、心そのもの=能造・能変なるものこそ、永遠不滅・絶対なるものとして示される。
※つまり、能造・能変なるものは心・神であり、大乗仏教でいう三身の「報身」や、唯識派でいう「三ある能変の識=意識・末那識・阿頼耶識」となる。心・神が永遠不滅・絶対なるものとして、大乗仏教でいう三身の「法身」や、中国・日本宗派(主に天台宗・日蓮正宗系)でいう「第九識・阿摩羅識(唯識派の流れを汲む法相宗では阿頼耶識が清浄になった大円鏡智を指す)」である。三身でいえば、法身・報身の意義を兼ねて「境智冥合」でもある。三身のうちの応身は、所造・所変なる心の外境(げきょう)・神の被造物となる。三身一体の教義では外境・虚妄の有為法が真理の具現として仏に等しく、三位一体のキリスト教(主に西方系)でも人の子イエス・キリストの出現によって被造物たる人間の原罪(後述)が無くなったとする。
中論の観四諦品・華厳経の唯心偈などのように「因縁生・縁起・空・唯心(物心一如・融通としての唯心義)」の意義に通じる。

以下に、聖書および仏典の該当する記述をまとめて載せよう。

まずは聖書!!
ヨハネによる福音書"John"1章1-3節 (latin): 1 Ἐν ἀρχῇ ἦν ὁ Λόγος, καὶ ὁ Λόγος ἦν πρὸς τὸν Θεόν, καὶ Θεὸς ἦν ὁ Λόγος. 2 Οὗτος ἦν ἐν ἀρχῇ πρὸς τὸν Θεόν. 3 πάντα δι' αὐτοῦ ἐγένετο, καὶ χωρὶς αὐτοῦ ἐγένετο οὐδὲ ἕν ὃ γέγονεν. 「1 原初において言(ことば・ことだま)"the word"があった。言は神"God"と共にあった。言は神であった"la: Deus erat Verbum"。 2 これ(=言 男性代名詞Λόγοςに対応 la: hoc中性代名詞)は原初において神と共にあった。 3 万事万物万象は"All things, la: omnia"それ(=言)によって"by him, la: per ipsum"造られたもの"la: facta (omniaと同じく中性複数形主格)"である。それ無きところでは被造物も何一つとして造られなかった"la: factum est nihil quod factum est"。」
※ラテン語で、3節の「被造物」は"facta, factum"とあるが、ギリシャ語では"γέ = ge"の文字列の語彙となっており、創世記"γένεσις, genesis"に関連付けられる。gen, 生命ということはすなわち神の所行であるから、所行=所生=所造=被造物とラテン語訳者が理解したろう。

ローマ人へのパウロ書"Romans"1章20-25節 (latin): 20 τὰ γὰρ ἀόρατα αὐτοῦ ἀπὸ κτίσεως κόσμου τοῖς ποιήμασι νοούμενα καθορᾶται, ἥ τε ἀΐδιος αὐτοῦ δύναμις καὶ θειότης, εἰς τὸ εἶναι αὐτοὺς ἀναπολογήτους... 「不可視なるもの"invisible"すなわち永遠の力"eternal power"と神性"divinity"とは、天地創造"creation la: creatura"以来、被造物"creature, things that are made, la: facta"において知られる。(それを否定したがる)彼らは弁解し得ない…」 (後略・21-25節)
※ラテン語で、20節の「被造物」は"facta"とあるが、25節や8:19-22節などのものは"creaturae"系(格変化を伴う)であった。"creātūra (教会: クレアトゥラ 古典: クレアートゥーラ)"は「創造すること」という行為そのものと「創造された物」という受動的なものといった、どちらの意味にもなる。精神作用とその対象とを包含する「三萌義」に似る。主な見分けは、単数形"singular"と複数形"plural"との差に見出せる。ちなみに、古代ギリシャ語で「kから始まる創造者・被造物にあたる語」は、同ローマ書より復元すると"κτίστης, κτίσις"である。

しばし注釈

原初とか天地創造とかといった表現は、仏教の因縁法・十二因縁(十二支縁起)だと無始無終に当たろう。
その場合、神・テオス"Θεὸς"は無明・行・識に当たり、言・ロゴス"Λόγος"は以後の有(概念や言語表現)までに当たる(残る生・老死は一切の被造物か)。
より踏み込むと、能造の神と所造の言とが融通しているといえる。
キリスト教の一神論は、仏教の十二因縁と比べて説明不足であるが、要旨は仏教のように「一切は因縁によって生じる」ということとなる(定冠詞を伴った"ὁ Λόγος, the Word"は別に検証の余地があるが、それは記事の話題を外れる)。


Γένεσις (Genesis - chapter 1)
1:24 Καὶ εἶπεν ὁ Θεός· ἐξαγαγέτω ἡ γῆ ψυχὴν ζῶσαν κατὰ γένος, τετράποδα καὶ ἑρπετὰ καὶ θηρία τῆς γῆς κατὰ γένος. καὶ ἐγένετο οὕτως. 1:25 καὶ ἐποίησεν ὁ Θεὸς τὰ θηρία τῆς γῆς κατὰ γένος, καὶ τὰ κτήνη κατὰ γένος αὐτῶν καὶ πάντα τὰ ἑρπετὰ τῆς γῆς κατὰ γένος αὐτῶν. καὶ εἶδεν ὁ Θεός, ὅτι καλά. 1:26 καὶ εἶπεν ὁ Θεός· ποιήσωμεν ἄνθρωπον κατ᾿ εἰκόνα ἡμετέραν καὶ καθ᾿ ὁμοίωσιν, καὶ ἀρχέτωσαν τῶν ἰχθύων τῆς θαλάσσης καὶ τῶν πετεινῶν τοῦ οὐρανοῦ καὶ τῶν κτηνῶν καὶ πάσης τῆς γῆς καὶ πάντων τῶν ἑρπετῶν τῶν ἑρπόντων ἐπὶ γῆς γῆς. 1:27 καὶ ἐποίησεν ὁ Θεὸς τὸν ἄνθρωπον, κατ᾿ εἰκόνα Θεοῦ ἐποίησεν αὐτόν, ἄρσεν καὶ θῆλυ ἐποίησεν αὐτούς.


Aggaññasutta (パーリ仏典。某・英訳は"A Book of Genesis"と銘打つ)
2. Rasapa­tha­vi­pātu­bhāva - Ekodakībhūtaṃ kho pana, vāseṭṭha, tena samayena hoti andhakāro andha­kā­ra­timisā. Na candimasūriyā paññāyanti, na nakkhattāni tārakarūpāni paññāyanti, na rattindivā paññāyanti, na māsaḍḍhamāsā paññāyanti, na utusaṃvaccharā paññāyanti, na itthipumā paññāyanti, sattā sattātveva saṅkhyaṃ gacchanti.

「ヨハネ1:2 言は神と共にあった」という元ネタは旧約聖書の創世記"Genesis"に看取される(言・ロゴスは文字通りに載らないが要旨は看取されるということ)。
創世記1~3章の創造神話も、概念・事物の認識に基づく心の作用という描写として解釈し得る。
例として天地や植物などを次第に造るが、これは創世記が説かれる対象の人々の納得しやすいものを挙げた結果と思われる。
人間は物心のついた時から既に認識されない万物が有って後に名前も付随し、それらを知った時には全て名前ある事物が想起され得るから、創世記の説は科学的原因や人類史における言語の発生や個人の人生における五蘊のプロセスといった実質的なものを飛ばした上での縁起が示されている。
普通に読解すると、肉体ある人間よりも先に家畜という属性を持つ動物"κτήνη (複数形クテーネー 単クテーノス)"が生じる (1:25, ヘブライ語ではהַבְּהֵמָה֙) など荒唐無稽・眉唾話のようだが、だからこそ心の真実を示そうとした譬喩と解釈し得る。
パーリ仏典アッガンニャ経"Aggañña Sutta"(漢訳は長阿含の小縁経など4つあり梵文はAgrajña Sūtra)では、無始以来の生滅を繰り返す世の起源ごとに光音天より来た"sattā (複数形)"=人々・衆生がいて「"sattā"という唯一の名称"saṅkhya"(名・呼称は事物の認識の概念より生ずるもの)があった」と説かれるが、これも個人の一生・因縁観(縁起観)に基づいている側面を見受ける。
後の話も、どちらも神や衆生が名によって事物を分別したことが明示されるという共通点がある。



Γένεσις (Genesis - chapter 3)
3:5 ᾔδει γὰρ ὁ Θεός, ὅτι ᾗ ἂν ἡμέρᾳ φάγητε ἀπ᾿ αὐτοῦ, διανοιχθήσονται ὑμῶν οἱ ὀφθαλμοὶ καὶ ἔσεσθε ὡς θεοί, γινώσκοντες καλὸν καὶ πονηρόν. (中略、καὶ εἶπε Κύριος ὁ Θεὸς τῷ...) 3:16 καὶ τῇ γυναικὶ εἶπε· πληθύνων πληθυνῶ τὰς λύπας σου καὶ τὸν στεναγμόν σου· ἐν λύπαις τέξῃ τέκνα, καὶ πρὸς τὸν ἄνδρα σου ἡ ἀποστροφή σου, καὶ αὐτός σου κυριεύσει. 3:17 τῷ δὲ Ἀδὰμ εἶπεν· ὅτι ἤκουσας τῆς φωνῆς τῆς γυναικός σου καὶ ἔφαγες ἀπὸ τοῦ ξύλου, οὗ ἐνετειλάμην σοι τούτου μόνου μὴ φαγεῖν, ἀπ᾿ αὐτοῦ ἔφαγες, ἐπικατάρατος ἡ γῆ ἐν τοῖς ἔργοις σου· ἐν λύπαις φαγῇ αὐτὴν πάσας τὰς ἡμέρας τῆς ζωῆς σου·

Aggaññasutta (2. Rasapathavipātubhāva - 3. Candimasūriyādipātubhāva)
Atha kho, vāseṭṭha, aññataro satto lolajātiko: ‘ambho, kimevidaṃ bhavissatī’ti rasapathaviṃ aṅguliyā sāyi. Tassa rasapathaviṃ aṅguliyā sāyato acchādesi, taṇhā cassa okkami. Aññepi kho, vāseṭṭha, sattā tassa sattassa diṭṭhānugatiṃ āpajjamānā rasapathaviṃ aṅguliyā sāyiṃsu. Tesaṃ rasapathaviṃ aṅguliyā sāyataṃ acchādesi, taṇhā ca tesaṃ okkami. Atha kho te, vāseṭṭha, sattā rasapathaviṃ hatthehi āluppakārakaṃ upakkamiṃsu paribhuñjituṃ. Yato kho te, vāseṭṭha, sattā rasapathaviṃ hatthehi āluppakārakaṃ upakkamiṃsu paribhuñjituṃ. Atha tesaṃ sattānaṃ sayaṃpabhā antaradhāyi. 

苦の因縁の始まり(縁起)は、共に説かれる。
前者で神の作った男女人が「神より食べるなと命じられた樹の実」を食べて目が見え・善悪(καλὸν καὶ πονηρόν he: טֹ֥וב וָרָֽע׃)の分別が生じたとする(その後は男女人や女を唆したヘビが神の裁きを受けて現世のように不自由な身となる=原罪が与えられる)。
後者で衆生が「"rasapathavī"(現代訳に味土、漢訳経に地味、梵文にpṛthivīrasa、注釈書アッタカターではrasāという神話的な事物の女性名詞と扱って"ラサーという名の大地"とし学者某はrasāがrasaラサ=味・汁という一般名詞の語源であるという趣旨の説と見る。たしかにリグ・ヴェーダでもラサー川というものが出てくるのでそういった民族史の観点でも根拠がある)という色・味・香あるもの」を指で食べて渇愛が生じたとする(その後はrasapathaviを貪って食べ続けると光音天からの性質が失われる)。
いわゆる性悪説のように見えるが、信仰・修行によれば、現世で原罪が赦される・罪業が消滅する。
これらは仮設原罪・仮設罪業であり、一歩進んだ教理で本来は寂滅(本不生)といい、本覚・性善説ともなる(無善無悪・無記・中道、参考: 中論17章・観業品)。
原罪有り・赦し有り、と知ることは人間の特権らしい。
昇天も堕獄も「(ごう・わざ・すること)"karma, opera, work"」に基づくので、一神教は神が人間を作って人間に世界を統治させたとして業の重みを持たせた。
人が自ら堕獄してはならぬように道徳的な教え・戒"pl: sīla"・律法"gr: νόμος"や「愛の実践(隣人愛)」を説いた。

「ヨハネ1:3 彼無きところでは被造物が一つも造られなかった」とは、動物や他人の心の因縁が自身には感受されない・量りようもないという意義を示す。
動物や他人の肉体に心の因縁が無ければ、彼らにとっての心の被造物=概念や感情などが造られるといえない。
例えば、「他人が自分を恨んでいるor好いている」とかという詮索は実証されず(もし科学的に脳波を分析してデータに出しても信用するかは当人次第)、たまたま世俗においてそう看取し得るのみ。
因縁の法を知るならば、畢竟、自己の信仰や修行が大事であろうという。
同時に、現世の方便として他者との論議や他者への尊重がある。
更に、仏・菩薩や宗教家は、自己の信仰や修行を超えて他者へ積極的な教化をするので、他者から見て尊い。
他者の心=神性は量りようもないが、しかも心=神性を尊重して自他ともに神の救いを得させる者がイエス・キリストであり、自他ともに心の因縁や多神教の神・梵天や色界禅などを超越した悟りを得させる者が釈迦牟尼仏である。

心=神性"divinitas, divinitās"、心=無明即法性"dharmatā"・仏性"buddhatā"。
個人の心の神性・因縁法を過去のキリスト教団・正統派の中で説けば異端視されてしまう。
部派仏教に対する大乗仏教のように「秘密の教え・内証の理」となる。
みだりに説けば多くの人の信仰を破る恐れがあるし、自己の心が解脱しないうちは言葉に心が蔽われて自ら解脱や昇天を妨げる。
古代・旧約聖書の時代から、あえて説かれない心の真実は、賢人たちの内に知られていたろうが、みな釈尊の悟り(無上覚)には及ばなかったろうか。



次に仏典!!
中論・(24章)観四諦品18-19偈「もろもろの因縁の(=が・主語の助詞)法を生ずれば(生じるので)、我(龍樹菩薩)は『即ちこれ無(空性"śūnyatā")なり』と説く。また『これ仮名なり』と為し、またこれ中道の義なり。未だ曽て一法として因縁より生ぜざるは有らず。是の故に一切法は、是の空ならざる者無し。(衆因縁生法 我説即是無 亦爲是假名 亦是中道義 未曾有一法 不從因縁生 是故一切法 無不是空者 yaḥ pratītyasamutpādaḥ śūnyatāṃ tāṃ pracakṣmahe | sā prajñaptir upādāya pratipat saiva madhyamā || apratītya samutpanno dharmaḥ kaścin na vidyate | yasmāt tasmād aśūnyo hi dharmaḥ kaścin na vidyate ||)」 
※一神教における神とは、空・心の因縁の異名であって仮名(けみょう)であり、創世記などでは人格があるように描かれているが、それも仮説的・比喩的なものと解釈し得る。実際、心の業(意業)ということは擬人化できるので、仮に人格を与えられるが、信仰の究極において真実はそうでないと知られよう。

十地経・第六・現前地(or十住経、のち華厳経に十地品として収められる)「三界に有らゆるは唯だこれ一心のみなり。如来ここに於いて分別して十二有支を演説したまうも、みな一心に依る。(三界所有、唯是一心。如來、於此、分別演説十二有支(十二因縁)、皆依一心。 tasyaivaṃ bhavanti| cittamātram idaṃ yad idaṃ traidhātukaṃ | yāny api imāni dvādaśabhavāṅgāni tathāgatena prabhedaśo vyākhyātāni tāny api sarvāṇy ekacittasamāśritāni |)」

六十華厳経・夜摩天宮菩薩説偈品「心は工みなる画師の、種々の五陰を画くが如く、一切の世界の中に、法として造らざるは無し。心の如く仏も亦た爾り。仏の如く衆生も然り。心と仏と及び衆生と、是の三に差別無し。…(心如工畫師 畫種種五陰 一切世界中 無法而不造 如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別 諸佛悉了知 一切從心轉 若能如是解 彼人見眞佛 心亦非是身 身亦非是心 作一切佛事 自在未曾有 若人欲求知 三世一切佛 應當如是觀 心造諸如來)」
※心"citta"を絵師"citta-kāraka"に譬える元ネタはパーリ相応部22-100経や雑阿含267経にあって俱舎論にも"skt: citrakṛtyavat (真諦訳: 譬如畫色與壁 玄奘訳: 如壁持畫)"と紹介される。漢訳経典にある心の原語はcittaだが、類義語に意"manas (パーリ語主格でmano)"があり、そちらが原語の時もある。例えばパーリ語ダンマパダは冒頭の偈に"Manopubbaṅgamā dhammā, manoseṭṭhā manomayā(漢訳法句経・出曜経: 心為法本心尊心使)"等とあり、心(意"manas")による善因善果・悪因悪果(善悪なんらかの意思・想念によって発言・行動=業があって心が善悪の結果・苦楽を自ら得る)を説く。後の「chāyāva anapāyinī (漢訳法句経・出曜経: 如影隨形)"」という喩えを見ると、心こそが本体であって物質的な物事は本体に従う影でしかないともいえる。一神教は一切法・現象の大局的な本源を神=心に求めても、神は涅槃の如くに苦の報いを受けない点で、因果関係は仏教と似ない。やはり法身・応身としての神が渾然一体らしい。

注釈・妄心と真心との区別

因縁法として心は神と呼べる。
修行の果報としても心は神と呼べる。
因果倶時となろう。
しかし、現世に苦を受ける状態として心は「被造物に付随した抽象的性質に過ぎないもの」となり、聖書で「心"kokoro, cor, καρδία, heart"」というと、ネガティブな文脈に現れる(一例は先のローマ書1:21 ἀσύνετος αὐτῶν καρδία = 無理解な・彼らの・心。"主のみこころ"などという場合の"こころ"は"意思"を意味して原語が"voluntas, θέλημα, will"となる)。
しかも悪魔・サタンの温床とすらなりえる。
「裏切り者のユダ」もまたサタン"Satan, Satanas, σατανᾶς"に入られたと聖書に扱われている(ルカ22:3ヨハネ13:26)。
心は神とするにも、心の在り方や視点によることとなろう。

当の華厳経唯心偈や「心是仏(般舟三昧経)・是心作仏(観無量寿経)」といった言葉の多い大乗仏教でも、やはり「願作心師・不師於心(大乗涅槃経)」や「謂己均仏(摩訶止観)」として心の悪の一面を誡める。
十地経の「唯一心」も、「真心」でなく「妄心(十二因縁の無明に関連するもの)」を示した言葉であり、妄心だからこそ一切の事物が欲望によって不浄に顕現するという誡めを説く。
聖書だとエレミヤ書17:9に心が万事において最も邪悪・欺瞞であって詩編53:1-3に無神論と罪(sin)の関係が言及がされ、マタイ15:19に具体的に「殺人ないし偽証・冒涜といった悪行の根源は心だ(精神"mind"でなく解剖学的な心臓"cardia"を意味するとも当時の科学的見解より考えられる)」とイエスさんが説く。
心には一元性も多面性もあり(しつこく言うが一即多・多即一・無一無多、摩訶止観所説の一心三観の意義に通じる)、十界互具(仏の一界と他の九界の互具、先述の因果倶時)といった呼び方もできる。



以上のように、仏典・聖書の記述より、共通点を示した。
とはいえ、仏教とキリスト教の相違点もまた、数多くある。

教義上、能造たる神(=唯心偈での心など)が、被造物(所造・つくられたもの・有為法)に対して「絶対的相対」となっている点であり、唯識派の教義でも、そういった「能・所を分けること"grāhyagrāhakavikalpa"=能執・所執を分別す」を虚妄分別"abhūtaparikalpa"と呼んでいる(弥勒による頌への世親菩薩による注釈書・中辺分別論"madhyāntavibhāgakārikābhāṣya")。
「能執・所執」とは、執着を行う心(唯識教義では意識・末那識・阿頼耶識という能変3つ)と、執着を受ける事物のことを指すが、ひいては「行為者とその受動的なもの全般=主体・客体」を指すと解釈し得るし、心を観る修行者が修行の過程で「能執たる心を過度に嫌う(または能造たる心を過度に尊ぶ)」といった見解に陥りやすいことを牽制している。
大乗仏教の真理に近い立場では、そういった「能所(=主体・客体=行為者・受者)」に関する分別・差別が許されない。
空の教理に寄せても、「非空・非不空」と何重にも否定して「是名中道義」と、中立性を示す(中論22章・観如来品では空も非空も不可説で青目釈には非空非不空すら「不応説・説くことができない」とする)。
無論、方便"upāyakauśalya"・仮名"prajñaptir upādāya"として、物事における一応の差別・前提的な差別・仮説的な差別を示すことは、釈尊・諸仏の教化において有り得る。



キリスト教の神・唯一神についても、固着した概念・名称としての神を否定せねば、当然、神の真実を見失い、「神という名の無形被造物(虚妄・虚構の神)」を心で拝んでしまう。
それにより、日常生活や宗教行為の多くで顛倒・障碍を生むこととなろう。
その末に、キリスト教の修道の目的を見失う恐れもあり、神・主のみこころに背いて終わる。
無論、方便としては、信仰修道におけるある段階まで、その姿勢でも問題が無かろうが、くれぐれもその姿勢のままに一生を終えてしまわないようにすべきである。

やはり、キリスト教は方便・仮名の意義に欠いてセクト主義的な差別性が強いところに注意すべきである。
それが、日本の文化系学者たち(一部)が「二元論・二項対立(唯物論・唯心論のようなもの)」として忌み嫌うキリスト教の教説で、随所に現れたろう。
キリスト教や同じく一神教のイスラム教の歴史で、顕著に発露し、禍根を残した。
※日本の文化系学者たち(一部)の見解は、彼らの思想に基づいてキリスト教を蔑む意図の主張をしたか、単なる浅学に基づいた偏見だと看取される(彼らもまた二元論者ではないか?真如・空において二元論者は無だが。仏教精神で大事なことは自分の思考や言動を注意して自覚すること)。キリスト教でも、「正しい信心のある人(仏教でいう真面目な修行者・八正道の人)は他者を蔑まない」という一元的立場があり、ルカ18章に譬喩(アヴァダーナ的なもの)を以てイエス・キリストさんが説示する。キリスト教における不戯論・無諍とは、正しい信仰修道の果報であろうから、教祖イエス・キリストは方便において差別的教義を多く用いた。志向された真実は、仏教の教理と同じく無差別平等であろう。「因縁(阿含)・空(般若)・唯心(十地・華厳)」を引き合いに出して先述した。言葉が異なるものの、もし真実を唯一のものとすれば果報もまた同一である。方便・法門は一ならず。aneka, anāna, advaya...

歴史上、キリスト教団・教派は、小乗仏教・説一切有部に対する大乗仏教のような無差別・平等の教理を強調するということが無かった。
イエス・キリストさんも、大乗の目線で見るならば、聖書に伝わるどんな教説・所行であれ、方便であって本当は心が平等のようだったかもしれないが、他人および諸法は憶測・推量に限られる。
※今でこそ、ローマ法王・教皇・フランシスコ1世さんなどが融和的に説教をなさるものの、自分たちの教義は「臭いものに蓋」という扱いをしているような違和感を覚える(和平・平和について積極性があっても"無セクトという名のセクト主義"や"積極的融和姿勢に基づく分離対立"が伴いそう)。異教徒・多神教徒・無神論者・同性愛者などが主にキリスト教では救われないと扱われるが、それは形式的なものから蓋然的に精神性が推定されるのみであると同時に、自分たち信者が現世で信仰を守る方便となる。もし心が正直であれば、異教徒・多神教徒・無神論者・同性愛者も確かに神性=心の真実に通じて救いもあろう、といえる。フランシスコ1世さんはそのことを知ってか知らずか、誰でも救われるという旨を説く。しかし、キリスト教が積極的に、そのヒューマニズム・宗教多元主義的な主張をし続けると、自ら修道の足元を崩す恐れもある。今のカトリック教会に温かい目を向けよう。

私がキリスト教の神やイエス・キリストさんのお振舞を語っても、推量の域を出ない。
誰がどう、聖書の記述に則っても、言葉・言語表現・想像の域を出ない。
いずれも、心の因縁による副産物・所産=被造物・有為法としての神やイエスであり、真実の神やイエスを説くことはできない。
仏教でも、心は実に「不可得・不可説」である、と私が過去記事および「萌えの典籍」に多く綴ってきた。
真実は、信仰や修行が専心された結果に智慧があって柔軟・正直・清浄な心において見られるもの(自我偈・般舟三昧経など)であろう。
しかも、何であれ世俗の事象は「因縁において自分のもの」でしかない(真実においては無我・無我所、無非我・無非我所…だが)。
その点で、他者に説き示すことは、実に困難である。
※先に引用されたローマ1:20節に「不可視なるもの(性質・形容詞→抽象名詞)"ἀόρατα en: invisible la:invisibilia "」とあることも、その「不可得・不可取・不可思議・不可説、言語道断心行処滅」のことを指すかもしれない。「不可視ないし不可得・不可説(=真実)」とは、単に電波やX線のような不可視の物理的存在でもなく、心・精神のような五感(五官)を通して認識されない性質・作用の実体(行動や脳波検査などで推定できることは別問題)でもない。それが一神教の法身的な神性"divinity θειότης (divinitas 法性dharmatā)"や報身的な力(作用)"power δύναμις"である。応身的な神や現世の報いは、創世記などの聖書文面や、現世に顕れた縁起・虚妄(個人の認識を前提とする形而下のもの)となることになるが、法身の神を知る手掛かりとして、信者は尊ぶ必要がある。私による理解は大乗仏教に基づく。なお、ローマ書に偏ってもよくないので、神性という言葉を他に探した。コロサイ書2:9に少し異なるギリシャ語形で"Θεότητος"とあり、神性がキリストの身に充満して宿っており、信者も彼のもとで(ἐν αὐτῷ 所有代名詞・対格)神性が満たされているとし、人間の伝統(世俗の習慣)"παράδοσιν"に基づいた空虚な哲学"φιλοσοφίας"に依るべきでないという。依憑仏説莫信口伝(法華秀句の説だが増支部カーラーマ経はより徹底的で教祖・師匠の説についても形式的な信用を推奨しない)・依法不依人・依義不依語のように。固着化したユダヤ教・バラモン教(祭祀)や、ギリシャ哲学・六師外道といった思想哲学を排斥してキリスト教・仏教の立場が明確に示された。そういった教説は、行者・信者の解脱や昇天のような宗教的目的を達成するために用いられるという前提条件において正論だが、それを知らない人からは「上座部仏教も大乗仏教もキリスト教も教祖権威主義だ」と誤解される。



言語表現への拘泥により、衆生の心の顛倒が直らず、誤解や執着を生じさせて「神という名の無形被造物」・「悟りという名の迷い」が起こる恐れがある。
いわゆる虚無主義や極端な本覚思想が、現代的に槍玉に挙げられる。それも、中論など大乗の進んだ教義の目線からすれば、みな寂滅であって顛倒も執着も真如の無・空となるが、同じく中論(24:11偈・蛇のたとえなど)や大智度論(巻第十八・塩のたとえなど)に説かれるよう、空相を妄取すべきでない。
上座部系の仏教であれ大乗仏教であれキリスト教であれイスラム教であれヒンドゥー教であれ神道であれ、現世の苦の自覚があるか、宗教的な行為(修行・信仰・祭祀・儀礼などの行為全般)に義務感がある場合、自分たちが知り得る教説の如くに行ってゆくことが第一となろう。

奉ぜられるものが「一神・神性」であれ、「真心・仏性」であれ、無常の"anitya"有為法"saṃskṛta"・朽ちる"corruptible la: corruptibilis"被造物"creature la: creatura; factus中性単数factum"に執着すると、苦"duḥkha, angustia"の報い"vipāka; phala, merces"を受け、神や心の真実を見失うという教説は一致する。
各々の教説を信ずれば、各々の教説に相応する果報がある。
その意義を、キリスト教徒も仏教徒も他の宗教信者も無神論者も無宗教・現代日本の一般人も、理解し、各々の目的とする物事を見つめ、見失わず、一生懸命に生きてゆくことが肝要である。



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仏教徒におなじみの用語をサンスクリット版・新約聖書で確認



起草日: 20180110
上記の日付は、元の記事に基づく。
当記事は、その「復習記事」として2018年4月を期して投稿される。

元の記事の末尾では、一神教の神と仏教の縁起観に関する真理の側面を学ぶことができる自作の文章を多く引用して載せてあるので、それについても参照されたい。



さて、今更になるが、当記事や元記事はご覧のように、宗教的目的(昇天・往生・解脱・涅槃・成仏など)を全面に押し出した前提で論が展開されている。
故に、創造神話などを語るにしても、現代の科学的見解や進化論や社会科学的事実をほとんど交えないでおいた。
一神教教義や創造神話を、自然科学的知識や社会科学的事実(=科学的見解全般)に結びつけることを「創造科学"Creation science"」と呼ぶそうである(より原理主義であれば科学的見解を否定して創造神話やモーセやイエスの事跡を実話として強調する場合もある)。

創造科学の説は、現代人の中でも一神教に興味ある人や一神教に理解を持ちたい人を速やかに納得させるための便宜的説明によかろうが、それ以上の価値を私は感じない。
私も、小中学生のころは神話や民間伝承やフィクション作品について事象を科学的見解との融通を図る思考回路があったものの、今はほとんど顧みなくなった。
一神教聖書(タナハ・セプトゥアギンタ・ウルガータ、新旧テスタメント)が「なぜ永く信じられ、なぜ世界に流布したか」という背景からしても、近現代の科学的見解との融通を図るようでは、信仰と布教との時空的根拠の答えが得られない。
ましてや、モーセやダビデやイエスや使徒などに帰せられる一神教聖書の編纂者や説教者の意図よりかけ離れてしまう。

一神教教義や創造神話には、自然科学的知識や社会科学的事実と符合するものとそうでないものとが混在している。
しかし、それも、自然科学的知識や社会科学的事実を知る現代人の知能が結びつけようと試みた結果に過ぎない。
※人間がこの一生で得てきた知識は「畢竟、神のものであり神の思し召しである」という見解によれば、宗教と科学との辻褄を合わせることも、必然的な流れとなるかもしれない。英語"Earth"は元々「地(地の性質)・地面・大地・大陸(ラテン語"terra"は渇いたものという意味に由来する)」を指していたが、現代は"The Earth"として定冠詞を付けられるべきものとして「地球(青と緑の球体・太陽を周る惑星の一つ。ラテン語"terra"は天動説の時代にもThe Worldの意味があったが地球の意味はない)」を指す。定冠詞の無い"Earth"は単なる「地」とも現代の「地球」とも意味が取れるが、古典の英訳などでは当然前者の意味であるが、後者で解釈する人がいる。現代人のアイデンティティや世界観は、自然科学の通説に乗じており、宗教信者もほとんど同じ環境で育ったならば古い言葉にも現代と同じ意味で解釈することがある。
また、創造神話に科学的見解に近似するもの(例1: 神は天地・地における陸と海・植物・動物・人を次第に造った=地球誕生~生物の進化 例2: アダム・エバよりノア・セムに至るまで人類の言語には差別が無く発音も語彙も等しかった=歴史言語学)があったところで牽強付会である。
創造神話と科学的見解との近似があることは、仏典でいう「虫が木材を食い破ってたまたま字になるようなこと(如虫食木偶得成字)」である。
その「木材を食べる虫」は字を書きたかった意図が無いように、モーセやダビデやイエスや十二使徒などに帰せられる一神教聖書の説教者や編纂者は ―私が推し量るべきでないが― 科学的な説教をしたい意図は無かろう(もちろん世の起源を知りたい人へ物質的事実認識に通じそうな便宜的説明をすることで理解を促す意図は有り得る)。
聖書での創造説も仏典での起源説・輪廻転生も、物質的な科学と何ら関係が無いとすれば、それらが進化論・大陸移動説・地動説を否定することも無いし、信者はその信仰と現世的な思考とが相容れないことも無い。

そもそも、どの学問や議論にも言えることとしては、どこにどういう事実があると見出せば論者たちは一喜一憂したり、その事実認識を証拠として論議が繰り返されるのである。
少なくとも、宗教(特に個人の修道の立場)ではそういった世俗的な対立を離れるよう説くと、当記事の本文にも明白に示されていよう(過去記事も参照)。
創造科学などの論議や主張は、どこまで煎じ詰めても「科学における迷信・宗教における迷妄」であり、イエス・キリストさんが有名な「主の祈り」にあたる発言の直後に「盗まれやすい地上よりも天国に財を蓄えよ。2人の主を持つことは誰にもできない、なぜならば心で一方を愛して一方を憎み、行動では一方に親しんで一方を軽んじねばならないから(マタイ6章19-24節より要約、持つこと=心で執着することと解釈し得る。マルコ10章21-25節ルカ18章22-25節には財産に執着する人物を見た上でイエスが金持ちは神の王国に行き難いと説く)」と譬えたように、科学的見解によって宗教説話を神の意思(本文中の"みこころ voluntas, θέλημα, will")に適った実話として信じることはできないし、信仰もまたそのようである。
実話の実話たる所以は、話を聞く者の明かし切れない種々の因縁(本文を参照)による。
信仰者の智慧が浅いとき、二つの理解(二股をするような不純な心)は二重苦として彼を悩ます。
しかし、それは聖者たちが神を知る智慧に依って真に融通することができるし(マルコ10:27ルカ18:27"人にできないことも神にとってはできることだ Τὰ ἀδύνατα παρὰ ἀνθρώποις δυνατὰ παρὰ τῷ Θεῷ ἐστιν."という意味にも通じる)、私であっても聖者たちを通じて「文字上の理解」をし得た。
二つの理解(仏教でいう二諦四悉檀も同様)を兼ね備えながら、二つの心(世俗的理解を妄信する心と世俗的執着を厭離する心)とはならず、そうして聖者は「一意に一心に」現世をお行きになるものである。

創造科学などの論議や主張は無益のようであるが、さすがに現代人に対して一神教教義を納得させる一手段とはなろうから、そういう観点で論議を進めて布教に用いたい人は用いればよい。
人の用いよう(目的性・価値判断)によって「ゴミの山(と既成概念や多数決によって認識されていたもの)も宝の山に変わる道理(新しい価値観や特殊な人物によって逆転すること、真理においては物事の価値は最初から存在しないし最初という点すら存在しない)」はあるから、是非とも、各々が金科玉条のように論や説を用いてほしい。
そういう化他の目的性により、智慧の高い仏・菩薩は論争をしても悪業を積まない(真理においては誰彼が何をする・何をされるといった能動性も受動性も表現されない)。
ただし、世俗に心が繋がれたままの私は常に悪業を積む(悪魔崇拝者のように)。

宗教・科学・哲学(など)の特徴および仏教との共通点・相違点について、過去記事に語ったことがあり、そちらも参考までに読まれたい。
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/07/What-Buddhism-is-not.html

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