2018年1月10日水曜日

仏道修行のための論理、不戯論のための戯論

大乗と小乗との論争・融和

パーリ経蔵・相応部中の「見相応"Diṭṭhisaṃyutta"」には、思想家・宗教家・哲学者の持つような見解"diṭṭhi ディッティ (梵語: dṛṣṭi ドリシュティ)"が取り上げられる。
そのような見解の例としては「世は常住だ」、「世は無常だ」、「肉体と精神は同一だ」、「肉体と精神は別異だ」、「如来は存在する」、「如来は存在しない」、「如来は存在するともしないとも言える」、「如来は存在しないとも存在しないわけでもないと考えるべきだ」といった、偏頗なもの(極端)から中立的らしいもの(中庸)まで含む(いわゆる十四難・十四無記)。
釈尊の仰せに、これらの見解(ひいては世間のあらゆる見解)は、みな思考・分別などの因縁に基づいた結果の論理でしかなく、無常"anicca (skt: anitya)"であるとする。
見相応の中では、「世は無常だ(一般的なaniccaでなくasassata)」という見解をも釈尊が例に挙げられており、無常"asassata"を無常"anicca"で否定することは自己矛盾や二律背反や循環論法やトートロジーでなく、あくまでも執着を離れるために心から無常を実感するということである(反仏教論者などが論理矛盾だ自家撞着だと排斥してもよいがそのような排斥する意思について自省できなければ外道論師のように堕獄すると釈尊は仰せになろう・論理とは理想への便宜的手段"upāyakauśalya"に過ぎないために)。
論理よりも、論理の元となった理由・根拠・条件=各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ(真実はこうに違いない・相手を納得させたい等)」という願望・意図・感情など、多くの因縁を見る必要がある。
その結果として客観的正当性がある論理は多いが、真に客観的な正論は無い(客観的正当性がある判断基準も皆無)。

因縁によって成立するものは、悉く無常・空である。
無常であるもの"anicca"・変わりゆくもの"vipariṇāma dhamma"への執着"upādāna (もとい取)"は、苦しみ"dukkha"の発生に繋がるので、見解"diṭṭhi"への執着を離れることを説く。
仏教における論理とは、見相応によれば、「無常・空虚」と知りながらも悟り"sambodhi "への道において重宝する程度のものである、と読解しえる。

※見=無常 執着=無常 見(無常)+執着(無常)=苦 無常=苦 四諦は「苦・集・滅・道」であり、ここに苦の原因(集)を明かして苦を離れる手段(道)を説き、苦が滅びる結果(滅)ともなる、という教理。苦・集・滅・道の「道」とは八正道であり、このように苦を離れることは八正道のうちの正見に当たる。後述の中論でも「正見とは有・無といった見解を離れることだ」という「迦旃延への教え(パーリ相応部12.15経Kaccānagotta Sutta)」を15-7偈に引用するように、あらゆる対立的見解(両極端でありそれに対する折衷的な中庸もまた固着論理であるときは非中庸との対立を為して新たな両極端となる)を離れること(中道の意義の一例)は八正道および四諦に通じている。



現代日本のセクト的論争や擬似学問の対宗教論争も、各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの因縁が結びついてなされたものであり、無常・空と見られよう。
例えば、伝教大師最澄さんが大乗戒壇を作ったこと(厳密には彼の死後7日後に下された勅許による)について、近代合理主義の学者気取りの人は「ブッダやインド部派仏教以来の戒律の伝統(伝灯)を破った行為」とする見解を持ち、日蓮正宗・創価学会・顕正会の人は「釈尊や天台大師に勝る偉業」とする見解を持ち、対立する。
他にも、釈尊の故郷の人(釈迦族)がコーサラ国の毘瑠璃王に虐殺される話で「釈尊が毘瑠璃王の進軍を3度停めつつ、なぜ4度目を行わなかったか」という故事にも仏教徒と反仏教者が見解を対立させられるし、キリスト教の教祖イエスさんが処刑されたのは「慈悲方便の故」とも「無慈悲弱小の故」とも解釈できるし、イスラム教の教祖ムハンマドさんが戦争の指揮を執った事跡にも信者のスタンスや謗者のスタンスで様々な解釈ができる(キリスト教・イスラム教の話は過去記事に)。
これらは根拠(皮相的合理性)に基づいた論であり、その範疇でみな正論と言える
主張する者の立場・スタンスにおいては、彼らの理由・根拠・条件に正しく基づいた、紛れもない正論である。
同時に、各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの「因縁」が結びついてなされたものであり、無常・空と見られる。

つまり、一応は根拠に基づいた論がみな正論と言えるが、仏教徒は「因縁によって論理があること・因縁によって論理の正誤・優劣があること(縁起)」をよく学んでいるので、対立する主張のどちらも「空虚(真の意味で正論でない)」と知って遠離する。
それら特定の見解に執着して主張する人・特定の見解を持つことで異論へ嫌悪感を催す人などは、悉く三毒に汚染されており、自己も汚染を受けるであろうとして、自ら心を観る。
Dhp 50: Na paresaṃ vilomāni, na paresaṃ katākataṃ; Attanova avekkheyya, katāni akatāni ca. (ダンマパダ"Dhammapada" 花の章"Pupphavagga"より)
法句経: 不務觀彼 作與不作 常自省身 知正不正 (彼の作すと作さざるとを観るに務めざれ 常に自ら身を省みて正しきと正しからざるとを知れ)

※当記事の話題に寄せて言えば、論争や論議に関して自己の三毒を見て自己や他者の論理に耽らないようにする。論議における三毒とは「①論への貪=快感 ②論への瞋=不快感 ③それらを自覚しない癡=愚昧さ」となる。この三毒について自覚・反省をして修行と無関係な論理・見解に固執しないように努力することが、八正道にも通じる仏道修行。八正道の修行者による積極的な論争は推奨されないが、仮に自ら論議に加わった・他者の論議を見てしまったならば、その時はその時で過失を自ら知って省みる。また、パーリ経蔵・増支部3にある"Kesamutti Sutta(通称: カーラーマ経)"は、様々な哲学・宗教・学問・社会などの思想"vāda"や常識や見解や理論や教義について、やはり仏道修行者は「三毒によって"具格: lobhena, dosena, mohena"諸々の悪行を為すという苦"dukkha"が無く、自分の心の安楽やそのための修行に資するかどうか」という点に基づいて用捨を判断するせよ、と釈尊が教示していた。自分が三毒の無い状態"alobha, adosa, amoha"となりえるならば、いかなる見解や理論や教義でも用いてよい善法"kusala"であると。大乗経典の依法不依人(依於法不依人)を想起させる。縁起の理法では、人が釈尊の教えを眼や耳で認識して釈尊の教えだと信じることも「因縁による思い込み」のうちである。法性を知る智慧・衆生の苦を除く慈悲によって説かれた釈尊の教えは尊いが、結果的に「己がどのように用いるか」が重要となる。
教義の用い方(前提・目的)については中阿含経の阿梨吒経パーリ経蔵・中部22経の蛇のたとえや、中論24:11偈の蛇のたとえや、大智度論巻第十八・塩のたとえを参照。

この教理は、小乗・阿含時の修行・果報(正念・不戯論)へ通じる。
「苦集滅道(くじゅうめつどう)」の四諦に依拠すれば、修行とは苦諦(くたい)・集諦(じったい)・道諦(どうたい)に当たり、果報とは滅諦(めったい)に当たる(苦のもとは渇愛"taṇhā, tṛṣṇā (trishna), 同語源英語: thirst"として渇愛ある物事に渇愛があること=集諦、そこに渇愛が滅すること=滅諦を示す)。
過去記事では「四念処」を例に挙げて詳説した(住於自洲・住於法洲や一入道)。
無常の教理を知り、それもまた無常だと知ることは、「心が知るという因縁(知ることも無常)」に基づくものであり、これは釈尊がよくお説きになったことを聴聞することで可能となろう。



しかし、大乗仏教は、あくまでもそれが小乗の教理・修行・果報であって、これを修得しつつも超越している立場で教理が説かれ、菩薩によって修行される。
この時、菩薩の慈悲は、人々を教導せんと欲するので、論理が無常である(即ち苦である)という分別・見解を知りながらも、論争を辞せざる構えとなる。
論理への執着を離れること・不戯論"niṣprapañca pl: nippapañca"のための戯論"prapañca pl: papañca"(諍論)もアリとなり、釈尊・龍樹菩薩がその鑑である。
Sps 2: svapratyayān dharmān prakāśayanti vividhopāyakauśalya-jñāna-darśana-hetu-kāraṇa-nirdeśanā-ārambaṇa-nirukti-prajñaptibhis taistairupāyakauśalyais tasmiṃstasmiṃl-lagnān sattvān pramocayitum| (妙法蓮華経・方便品: 吾從成佛已來、種種因縁・種種譬喩、廣演言教、無數方便、引導衆生、令離諸著。)  「諸著を離れしむ=色々な執着のある人々を解放する"tasmiṃstasmiṃl-lagnān sattvān pramocayitum"ために、無数方便=様々な手段"vividha upāyakauśalya"を用いる」。よって、本文の如く論理・論議への執着を離れさせるための論理・論議がある。
MMK 18-5, 6: Karmakleśakṣayān mokṣaḥ karmakleśā vikalpataḥ | te prapañcāt prapañcas tu śūnyatāyāṃ nirudhyate || Ātmetyapi prajñapitam anātmetyapi deśitam | buddhair nātmā na cānātmā kaścid ityapi deśitam || (中論・観法品: 業煩惱滅故 名之為解脱 業煩惱非實 入空戲論滅 諸佛或説我 或説於無我 諸法實相中 無我無非我)
MMK 23-13: Anitye nityam ityevaṃ yadi grāho viparyayaḥ | Nānityaṃ vidyate śūnye kuto grāho viparyayaḥ || (中論・観顛倒品: 於無常著常 是則名顛倒 空中無有常 何處有常倒)
※法華文・中論頌の関連フレーズはまだ多くあるが終える。ほか、牽強付会になりそうだが、一部で龍樹造と伝えられる「方便心論 *upāya-kauśalya-hṛdaya śāstra」の冒頭部分を紹介→「問: 論を造る者は瞋恚と驕慢とにより自讃毀他をする。もし自他を利したければ、論争の法を捨て去るべきだが?(小乗的スタンス) 答: 私は勝ち負けや名利のためでなく、仏法の善悪を明らかにしたくて論を造るだけだ。論理が無ければ、世の人々は互いを惑わせて不善をなして悪趣(三ないし四悪道)を輪廻し、真実の利益を失ってしまう。人々が論理に通達すれば、自ら善悪や空が判断できるようになる。また、正法を世に弘める目的もある。甘い果実の樹を(鳥や獣や盗人などから)防ぐために網を張る果樹園があるように、正法を護って他に名利を求めない。私を諍論者とみなすことは誤りだ。護法のために論を造る(大乗的スタンス)」と、「論(論理学)」という方便・便宜的手段"upāya-kauśalya"を用いることが示される。

たとえ宗教一般に見られる偏頗な思想・論理であっても、人々を救うことができるならば何ら不可が無いし、その菩薩行を達成することは忍難慈勝・大慈悲であるとして、自ら生死を度する結果(波羅蜜"pāramitā"・到彼岸)にもなろう、と考えられる。
それらの教理・事相を誰よりも知ってきた私には、かえって実行が困難らしくもある。

2017年4月21日投稿の記事で鎌倉宗祖らの言説を取り上げたが、彼らは大乗であっても、時に小乗の教理や阿含以来の定説を方便的に用いることもあり(例えば生老病死の苦や生死無常の話など)、当記事で引用した報恩抄・歎異抄の説(我が宗は勝れて他の宗は劣るという自讃毀他の論争には何らかの過誤が付随するという説)は、これに該当する。
彼らがご覧になったろう大智度論(当該記事での引用文・スッタニパータ4章と共通する教説がある)などの影響も出ていよう。
そして、現代の大乗系既成仏教の信者は、小乗・大乗の教法のごちゃまぜ具合について、自覚せず、大乗の修行中に小乗の理法を世俗的な意味での悟りのように「取"upādāya"」することも多かろう。

そうです。仏様がお与えになった試練、宿命なのです。頑張って参りましょう。
法華経と中論の第一義諦・スッタニパータと大智度論の第一義悉檀には、三乗としての大乗も二乗としての小乗も無い「究極の大乗・円満の一乗」が示されます!!!
http://lesbophilia.blogspot.com/2017/12/ekayana-ekasacca-ekasatya.html

あけましておめでとうございます。
南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。



起草日: 20171224

以下に示された「キャラクター理法」と、当記事に示された「論理縁起」とは、よく似る。
当世でいう英語のキャラクター"character"は、「特徴づけるもの・性質」を意味する言葉である。古代ギリシャ語でカラクテール χαρακτήρ といい、語源の異なる梵語カラナ"karaṇa"(作ること)と同じく文字を意味する単語でもある。古代ギリシャ語で文字を意味する場合もあることは、「刻み込む」という原義に基づこう。あたかも彫刻師が精巧に像を刻むように、諸々の作品は、多く人物設定を作って複雑に絡ませる。人の心の分別"vikalpa"・思い込み"vitarka"が、何かを「特徴づけ」て心に形成した。即ちキャラクターとは、人が精神や知能や言葉で作り出すものである。つくる"OJ: tukuru", 作"OC: tsak",  कृ √kṛ, create... それによって有為法・サンスクリタ"saṃskṛta (よく作られたもの)"がある。有為法はまた、さながら種々に彩られた絵画や、柱や梁の多い壮麗な楼閣であるが故に虚妄である。心は創造神・クレアートル"creator"であり、一切の有為法は一心=神"god"による被造物である。心への偽り(相対的な悪)が堕地獄の業となることは世界宗教の通説である。一神教の真意は当世の人の知らざる所であり、信者も謗者も神を「神の名」の下に置き、虚妄の無形被造物と為している。心もまた心の被造物であり、真の心=神(じん 精神 ṛddhi, or deva deity god)=我(アートマン ātman)は無とも非有非無ともいい、不可得・寂滅である。現世の苦を知悉して解脱した者は、善巧に心をキャラクターと為して道徳を示すことがある。跋聖はそれを望まれる。聖者もまた、我々凡夫によって聖者の名でキャラクター化をされており、我々は自覚すべきである。
 - http://lesbophilia.blogspot.com/2017/06/moetry.html#hmi4

よく作られた思想・論理は「有為法・サンスクリタ"saṃskṛta"」であり、よく作られたものだから無常・虚妄という。
しかし、それを見て知ること(受)で起こる自己の想念・思考・精神的反応(想・行・識)についても省みる(無常であり即ち苦だと知ること)ならば、阿含教(阿含時の教義)の修行に資するであろう。
慈悲の釈尊・龍樹菩薩らは、それ(阿含教の基礎=仏教の基本中の基本)をまず知ってもらいたいと志向せられたのではなかろうか?
こう経文・論文より詮索する私もまた、他者の心を推量することはできないし、仮に推量できたところで意業・意触の因縁で得た結果に過ぎず、無常・虚妄となり、執着してはならない。
神通力・他心智は、無漏の人によって行われるので、最初から執着されようもない。
私が釈尊・龍樹菩薩および人物を語る際、どのような証拠に依っても、『元となった理由・根拠・条件=認知された情報・知識や、知能や人生経験、「こうであれ」という願望・意図・感情など、多くの因縁』があり、同じく無常である。

拾主に仕える障礙尊者のウダーナに曰く
「一切不可量 何況我大聖 遍照世無明 是故名無上(一切は量るべからざるなり・何に況や我が大聖をや・遍く世の無明なるを照らしたまう・是の故に無上なりと名く)」と。
Aprameyā sarvadharmāḥ, kimaṅga punaḥ me muniḥ |
lokāvidyāṃ hi rājati, tasmād anuttara nāmaḥ ||

※サンスクリット偈を、ブログ筆者・横野真史が①唱えた・②ロック自作曲で歌った音声がある。
①唱えた http://www.youtube.com/watch?v=EIb2CfiUCPM
②歌った http://www.youtube.com/watch?v=-NhafvQ8x10


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よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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