2018年1月21日日曜日

道心あるニート・引きこもりの修行における障壁

世間には「ニート」や「引きこもり(ひきこもり)」という概念に「クズ」等と悪い印象の属性を付属させたり、事象に「自分を省みず他人を鑑みず意志が無い」と悪い印象の原因を想定した種々の説がある。
世俗の人から一部の宗教家まで、口をそろえ、「直ちに悪いもの」と説く。
漫画・アニメ・ドラマ・大衆音楽の歌詞なども、そういった思考を前提として作られたものであることが、2018年現在もおおよそ変わりなくあろう。
「直ちに悪いもの」と説くにも、社会・世俗や哲学・宗教の各々が異なる理由を述べつつ、見解を異にし、時には主張が対立して枘鑿(ぜいさく)の相容れざるが如しと言え、ただ正しい仏道修行者のみ、これを達観してゆく。
修行者は「所詮、世間とはそういうもので彼らの思考を変えさせる必要は無い」と了知して他者への執着や憎悪を捨て去り、速やかに修行に戻ろう。
同じく、彼ら他人たちもまた、彼らが想定する「社会悪」云々を排除できる道理が無い(当事者に憎悪の心があるうちは社会悪も消えず・世界平和も実現されず・真の幸福も無い)。

世間の人は、そういった概念の名称に、副次的に様々な属性を付属させる。
結果的に、同じ概念の名称(ニートや引きこもりなど)も十人十色に彩られてしまった。
それらはみな、条件に依存して付けられた「虚構・戯論」である。
その、世間の人の言説・心理は、十二因縁などの因縁・縁起を見れば、解明される。
※世間に生きるならば他人の主張を尊重することは重要だが、私は当事者と話したことも無いので、最初から関係が無い。あるいは同じく世間で主張する者は、同次元の因縁によって反論をなす権利もある。しかし、修行者は以下の通り、厭離(えんり)・遠離(おんり)・不戯論(ふけろん)・無諍(むじょう、怒りによる主張が無いこと、喧嘩が無いこと)である。

世間の見解の根拠・条件=各々に認知された情報・知識や、各々の知能や人生経験、各々が「こうであれ(真実はこうに違いない・相手を納得させたい等)」という願望・意図・感情や、など、多くの因縁を見る必要がある。
あらゆる見解・論理・主張とは、因縁によって構成された「虚構」である。
そして、「虚構、虚妄の構成物、有為法"saṃskṛta dharma"、たったそれだけのこと」と達観し、厭離すべきである。
世間に、客観的正当性がある論理は多いが、真に客観的な正論は無い(客観的正当性がある判断基準も皆無)ので、どんな論難や非難でもあれ、みだりに悩まなくてよい(悩む心は執着・煩悩の心であり地獄に転生する原因)。
なおかつ、その仏教的見解や立場にも執着せず、自分のすべき修行を黙々と淡々と実直に質実剛健にすればよい。
これが不戯論の八正道・中道の仏道である。
阿含時の教説であり、小乗仏教における一乗"ekāyana"に通じる。

パーリ経蔵・相応部・悪魔相応"Rajja Sutta" (漢訳の雑阿含1098経)
釈尊が独りで坐り「非法(殺す・人間の勝ち負けなど)を行わず・民や臣下へ行わせず、法で王国を統治できるか?(世界平和は実現できるか)」と思った時、「あなた(釈尊は王族の出身)が還俗して王宮へ戻って国を統治すればよい。あなたの力があれば石も金に変わる」と勧める声が聴こえ、釈尊は悪魔のささやきと見抜いてこれを呵責せられた。加えて「世俗の幸福は無常であり、人々が欲求満足を得ても苦の根本的な解決とならない。たとえヒマラヤ山脈を黄金の山に変えても、足ることを知らず・更に求めさえするし、失われる恐怖もある。そのことを知る者は、国王として人々を欲求満足させる手段を願わない。私は人々に苦の因縁と苦の滅とを知ってもらって欲や執着の制御を願う」と説明せられた。悪魔は意気消沈して消え失せた。

パーリ経蔵・小部・スッタ・ニパータ3章2経"Padhāna Sutta"
釈尊が未だ成道しない頃、真面目に苦行をしている時、「痩せこけてしまう醜い修行よりも世間の善行をしなさい。今のあなたの努力は無駄だ」と唆す声が聴こえ、釈尊は天魔の所行と見抜いてこれを呵責せられた。魔軍について「第一に欲望"kāma"、第二に嫌悪"arati"…(8つ以上に挙げて) この魔軍には、世間におけるどの人も天に生じた者"deva"も、気付けず・打ち破ることもできないが、智慧"paññā"であればできる」と説明せられた。悪魔は意気消沈して消え失せた。

→自己反省をしている時、自分の道を見失わせるような思考・踏み外させるような思考が起これば、それを「悪魔のささやき」と了知して(知って・見抜いて viditvā)自ら振り払うようにせよ、という技が示される。自分の中にも「世俗的良心」があるが、それよりも、まず悟ることが、道行く自覚のある者の優先事項である。他者は修行の道において無知であり、既に見つけた自分の道・自分の人生に関しないし、単に音声や言葉が脳に入ったのであり、それ以上でもそれ以下でもないと了知すればよい。これらも自己が仏教に基づいて了知するという因縁(因と縁)の結果であり、その立場にも執着すべきでなく、心に迷いがあれば戯論があると反省思考(止揚)を繰り返す。戯論は輪廻であり、自己が苦しみの世界に転生する道である。その戯論を逃れて解脱することを思い、執着の心を自覚しないまま持ち続けるべきでない。とにかく!執着を離れる。一時的な不快感や憂鬱に浮き足立ってはならない!自ら心を欺かず、正直・正々堂々とする。

維摩経・仏国土品「(舍利弗言わく)我、この土を見るに、丘陵(くりょう)・坑坎(こうごん)・荊棘(ぎょうごく)・沙礫(しゃりゃく)・土石・諸山・穢悪(えあく)充満せり。」
法華経・如来寿量品「我が浄土は毀(やぶ)れざるに 而も衆は『焼け尽きて 憂怖・諸の苦悩 是の如き悉く充満せり』と見る」(五字偈の形式に基づくスペースを挿入)

※実に世間は針の山のようである。一歩踏み外せば傷を受ける、煩悩・業・苦の娑婆である。趣味の事物は我々の興味を引くが、音楽の歌詞や漫画・アニメ・ドラマのセリフなどには苦が満ちており、食べ物一つさえも心身の患いを生むと観ずべし!苦のたとえが「イバラ・トゲ・悪臭・大火災」のように示され、実に世俗の事物は「イバラ・トゲ・悪臭・大火災」のように恐れて厭うべきである。世俗の事物は欲求の対象であると同時に、我が心身を苦に至らせる因縁を持つ。「華麗なバラにトゲがあることを恐れるように、欲望に注意を持とう」と。未だ悟っていない修行者の立場では、まずこのように世間を厭離すべきである。後述する「菩薩(平等の心)」の立場では別の話である。

そう、自分の心と違って他人の心を動かすことは、十二因縁の法において不可能である。
他人の心とは、色"rūpa"の一種として、自分の心の作用=受・想・行・識の外にしかなく、他の色"rūpa"が受"vedanā, pratyakṣa"の因縁によって把握されるように、推量の因縁によってのみ看取される。
自分の心の外の物事は「幻」であり、他人の思想も「幻」である。
「幻"māyā (マーヤー)"」とは「①自分の心をたぶらかすもの ②有って無いような幻影 ③心が生み出す象徴・幻想」とインド思想や般若・空思想に示されている(般若・空の教理では自分の心も当然、幻のようで無に等しいがそれは進んだ理法であり今は差し置く)。
修行者は、まず、自分の心の悪を自覚し、反省し、速やかに取り去るべきである。

「言葉で心を粉飾する『気休めの教え』」ではなく、自ら体得してゆくことは、自分の心を思いやることであり、他者にもまた体得してもらいたいと願う。



大乗仏教においてはどうであろうか?

インターネットで私が活動する際は、「仮名(けみょう)」としての「中卒・無職・ニート・引きこもり」である。
「仮名・仮設(けせつ)・仮施設(けせせつ)」"Prajñaptir upādāya (またはUpādāya prajñaptiḥ)"である。
世間で定義された意味の側面で、そのように名乗ることができる。
例えば「ニート」とは"NEET; Not in Education, Employment or Training"ということであり、世間の教育機関に属しておらず・職歴も無いという点で、私は該当する。
ただし、人間はいかなる概念に属せず、名称が当てはまらず、人間という概念自体が空虚であることは科学・哲学において論を俟たない。

科学・哲学においてすら、人間・人類"Man, मनु Manu, Human"の概念・定義は一定でなく、ある定義(法律的・感性的なものやヒト属ヒト種"Homo Sapiens"という生物学的なものなど)で一般的な名称を付したに過ぎない前提で、「『人間』という概念の名称」を用いる。
あなたはあなたであり、他の何者でなく、私も私であり、他の何者でなく、更にあなた・私という相対性を無我によって否定するならば、言語道断・心行処滅であるが、やはり私は「中卒・無職・ニート・引きこもりたる横野真史」と名乗り得る。
過去記事(2014年11月)に、以下の如く示した。
(謙遜と嫌味を区別すること・自己紹介する者の弁えについて) 例えば筆者、横野真史は「17歳・B型埼玉生まれニート(あとハゲあり)」である。ここからストレートに表現する。「17歳の若造ですが~若輩ですが~」あたりはよくあるへりくだり方だとしても、「17歳中卒のバカで~す」とか「B型だからだらしない奴です」とか「埼玉生まれでダサくてゴメンね」とか「ニートでどうしようもないんです」などと自ら口に出すことなどは考えもしない。このような自己紹介の仕方は、へりくだることで自分への評価を上げるどころか、頭の悪さを露見させ、かえって評価を素で落としかねない。また、B型以外の血液型の人が自分の非を並べて「B型っぽい○型」等と言うことも、学生やフリーターなどニートでない人がニートを自称して「ニートのような怠け者」だとかと自己紹介することも同様に、見識ある人間からは嫌悪を蒙るのみである。単に発言者自身が背負っている汚点を、別の概念に転嫁しないでほしい。

「17歳=若い≒未熟」、ということはよくある口上で通るとしても、それ以後の肩書き群がそのまま諸々のマイナス評価に繋がるなら、偏狭な感情に起因するものであろう。
上記のような「○○=××」も「非○○=××」という等号不等号の図式は必ずしも成立しない。風評の一元で物事を捉える人が特にその状況に置かれて、そういう自己紹介をするということが多いようであるから、それらのサイト(SNSなど)に入り込む気は起きないものである。ただ、たまたま虎穴に入って虎の子を得たように、こういった記事を作られる。

更に過去記事(2016年10月)に、「世俗の中観法」として以下の如く語った。
インターネットで二元対立・二項対立の構造を見て、智者はみな、「どちらにも与したくない」と飽き飽き(倦厭)するに違いない。中3の時(2011・12年)の私が、まさしくそういったイデオロギーの対立、ネット右翼とネット左翼と彼らを煽動する第三者などの醜い議論の場を見て「みな一理あるがみな狂っていてみな哀れ」と感じられた。 (中略、来歴など) 中道とは「空」と同じで、中論24-18偈所説の如く「仮名(けみょう)」である。状態や性質に対して「仮に名付けた概念」に過ぎない (中略) ここで、中道を理解する者は、自分たちが議論の席にいない時であっても、そういった煽動的・煽情的な発言について心で対処すべきことを示したい。レッテル貼りが詭弁であり、性急な感情より生じている現象は、仏教の縁起観を知ることで鮮明となる。レッテル貼りとは、主に相手のコンプレックスとなりそうな要素(傾向だけをみて一括的に称した浅はかなものも多い 例:左翼は低学歴、右翼は無職、黙れハゲなど)を持ち出して議論の本題を逸する詭弁の中の詭弁であり、智者が用いてはならない論法の第一位である。一般論でいっても、レッテル貼りとは「自分を誤魔化し議論をはぐらかす欺瞞」であって「思考停止の所業」と非難される稚拙な言動である。文系だと何で理系だと何、といった区分の概念を持ち出して賢愚を区別する人は、既に賢明でなく、さながら当たらない占い師のようである。ちなみに中道の私はハゲ有り超ロン毛ゆとり世代B型中卒ニート引きこもりであり、既に清々しいほどに対立概念を離れている。 (中略、世俗の因果について) つまり、その肩書きだけで「(実際に現実に)バカだ!」というように演繹されることは、あまりにも早計であり、論理学に長けている人間は最初から用いもしない論法である。それら詭弁は度外視できるくらいの、世間でいう「スルースキル」が必要ではないか。「スルースキル」とは、掲示板でのレスポンス(レス)やTwitterでのリプライ(リプ)をしない、という行動に限らず、「身・口・意の三業」に渡って行うべきだから、心にもスルーし、口にも出さない方が、己の中道観を養い、三毒を抑制できる。これこそ仏道修行に通じているではないか。中3の頃から、こういった異常性に気付き、ネット掲示板やSNSすらも自分の居場所でないと気付いた「真の旅人」ともいえる私は、この回想で法悦を覚えた。多くのネットユーザーは、それらの交流サイトに入り浸って他の居場所を見出さない傾向があり、執着を強めて苦楽を流転輪廻している。その執着を早々に薄めて可能な限り放擲した (中略) 多くの人間はどう生きても感情に動かされるわけであり、そう理解はしていても彼らと似たような言動を取る時もあろう。それは揺るぎない事実であるからこそ、どうにかして漸進的でも努力の継続(忍辱・精進)が必要である道理を銘記すべし。

世間の人による「皮相的な思考」という迷妄の事相を知りながらも、横野真史は、偽りなく「中卒・無職・ニート・引きこもり」を称している。
そのようにインターネットで標榜すれば、その類の人が筆者を見るであろうから、と考える(類は友を呼ぶというもので釈尊が人間界に出現せられたことは「但以仮名字・引導於衆生」と法華経に説かれる・・・しかし私には今までにまともな理解者も反論者も現れず期待外れか)。
因縁によって概念・名称があるが、それは仮名と見られる。
私は「中卒・無職・ニート・引きこもり」とも名乗るし、釈尊は「釈迦族の人・瞿曇・ゴータマ"Gotama, Gautama"・聖者(牟尼・ムニ"Muni")・覚者(仏陀・ブッダ"Buddha")・応供(阿羅漢・アラハント"Arahant, Arhat")」という名を用いる。
私は自ら、言語学者とも名乗り、閑居求道者(げんごぐどうしゃ)とも名乗るが、人間という存在は、それらの肩書きに収まる存在であり、なおかつ肩書きに制約された存在でもない。
「仮名(仮に名付けられたこと)」に執着があるべきでない。

その因縁の理法に加え、「他者は先述のような迷妄に陥っている」と見て憐れんでいる。
「人間の本当の心はそういった迷妄も無く清浄である」と慈悲を以て思えば、他者はみな愚かな子供のようであり、親のような立場で慈悲を持ち、なおかつ他者を見下さなくなる。
菩薩にとって、他人・一切衆生は幼稚な子供のようであり、我が子のように哀れむべきだが、なおかつ、そんな菩薩としての自分を育てた者もまた、他人・一切衆生であり、みな親のような存在であるとも知る。
これらも理由づけ=因縁により、他人はみな子であり、他人はみな親である、と了知した結果であるが、どちらにしても自分の心が苦しみを持たない、慈悲(抜苦与楽)の思考である。
大乗仏教を志す人は、同じく、因縁の理法のうちではあるが、このように他人を軽んじず、なおかつ特定の他人に依存しない「自由な心・解放された感情」を求める。
ただ仏法を尊重(そんじゅう)すること、法に依って人を見る(≒見ない)。

今は、仏教の教義のままに見れば、この世は不浄・険悪な場所であり、他人はみな愚鈍・愚昧・愚癡・迷妄の存在でしかないが、自分の心が仏のように清浄となれば、他人の心にもまた不浄な概念(自分が不浄と思う・不快に思う・偏見らしい概念)は無く、この世も浄土となる。
仏教の教義に依れば、まず他人は「不浄の悪」だが、それを見て自己反省して修行をする者にとっては、かえって「善知識(よい仲間)」とすら見える。
それら、他人の心の善悪や是非を詮索・邪推せず、「自他の心は不染不浄という真の清浄である」という教理が観萌行広要清浄萌土抄に詳述されている。
内蔵萌心(讃萌語: 内に藏したる萌心)と肯定的に呼ぶこともある(>自性清浄心・阿摩羅識)。
自分も他人も、本当は、そんな悪い因縁に囚われねば、みな清らかである。
ただし、この娑婆世界にあって人間は三毒強盛で、清浄・解脱は修行による果報しかない。



上の説明に関連する教説を、大乗仏典より引用する。
一切衆生は如来・菩薩にとって我が子
妙法蓮華経・譬喩品より
如來已離 三界火宅 寂然閑居 安處林野 
今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 
而今此処 多諸患難 唯我一人 能爲救護
 如来はすでに三界の火宅を離れて、寂然として閑居して林野に安処せり。今この三界はみなこれ我が有なり。その中の衆生は悉くこれ吾が子なり。而も今この処は諸の患難(げんなん)多し。ただ我一人(いちにん)のみよく救護(くご)を為す。

一切衆生は如来・菩薩にとって我が親
大智度論巻十四より
(前略 耐え忍ぶこと=忍辱の修行を説く際に慈悲の心構えが必要だとする…「他者への慈悲は自己の為にもなる。他人は煩悩の自覚すら無いが自分には有るならば自分から忍辱をなさねばならない。もし他人が私の悩ませなければ、私の忍辱の修行が成立しないので、他人は師匠でさえある」と菩薩は思惟する。そして) 衆生無始世界無際。往來五道輪轉無量。我亦曾爲、衆生父母・兄弟。衆生亦皆曾爲、我父母・兄弟。當來亦爾。以是推之、不應惡心而懷瞋害。
 衆生は無始にして世界は無際なり。五道に往来して輪転すること無量なり。我もまた曽て、衆生の父母・兄弟と為れり。衆生もまた、みな曽て我が父母・兄弟と為れり。当来もまた爾り。是を以って之を推すに、応に悪心にして、瞋害を懐くべからず。

ほか維摩詰所説経・仏道品より
何等爲如來種。 (中略) 有身爲種。無明有愛爲種。 (中略) 以要言之。六十二見及一切煩惱皆是佛種。
 何等を以てか如来の種と為す? (中略) 身有る(原文: satkāyaḥ (-dṛṣṭi)→有身見とも)は、これ種なり。無明・有愛(三愛の一つ"原文: bhavatṛṣṇā")は、これ種なり。 (中略) 要を以ってこれを言わば、六十二見および一切の煩悩は、これ種なり。

他人を我が子や我が親のように見ることは妄語・妄想(もうぞう)でない
大智度論巻八より
(般若波羅蜜の説法がされるに当たって一切衆生が等心を得て他人を家族のように見たという事象についての問答) 答曰。一切衆生無量世中、無非父母・兄弟・姉妹・親親者。復次、實法相中無父母・兄弟。人著吾我顛倒計故、名爲父母・兄弟。今以善心力故、相視如父如母非妄語也。
 答えて曰く、一切の衆生は無量世中に、父母・兄弟・姉妹・親親に非ざる者無し。復た次ぎに、実の法相中には、父母・兄弟無く、人の吾我に著し、顛倒して計するが故に、名づけて父母・兄弟と為す。今、善心の力を以っての故に、相視ること父の如く・母の如くなるも、妄語には非ざるなり。

悪しき他人も善知識(よい仲間・師匠)となる
妙法蓮華経・提婆達多品より
由提婆達多、善知識故、令我具足、六波羅蜜・慈悲喜捨・三十二相・八十種好・紫磨金色・十力四無所畏・四攝法・十八不共・神通道力。
 提婆達多が(連体助詞"の"=という)善知識に由るが故に、我をして六波羅蜜・慈悲喜捨・三十二相・八十種好・紫磨金色・十力・四無所畏・四摂法・十八不共・神通道力を具足せしめたり。
※提婆達多とは、仏となられて以後の釈尊に様々な法難を与えた人物であり、様々な経典(パーリ仏典・北伝部派経典・中国日本仏教書など)で悪人の典型例として示された。いわゆる阿鼻地獄に堕ちる大罪、五逆罪のうち「破和合僧・殺阿羅漢・出仏身血」の3つを犯した。大乗の教理によれば、そのような悪人こそが、理由づけ=因縁によって善人の親・師匠となる、と換言できる。

もし自分が清いならば他人も清くて世界も清い
維摩詰所説経・仏国土品より
若菩薩欲得淨土當淨其心。隨其心淨則佛土淨。
 もし菩薩、浄土を得んと欲せば、まさにその心を浄むべし。その心の浄きに随って、すなわち仏土浄し。
同経・弟子品より
如佛所説「心垢故衆生垢、心淨故衆生淨。」(パーリ経蔵・相応部22.100経に同じ) 心亦不在内、不在外不在中間。如其心然、罪垢亦然、諸法亦然。不出於如。 (中略) 妄想是垢、無妄想是淨。 (中略) 諸法皆妄見、如夢・如炎・如水中月・如鏡中像、以妄想生。其知此者是名奉律。
 (戒律の師・優破離が弟子の破戒の罪を誡める時に維摩詰が彼らへ説く) 仏の所説の如きは「心垢つくが故に衆生垢つく。心浄きが故に衆生浄し。」となり。心もまた内に在らず、外に在らず、中間にも在らざるなり。その心の然るが如く、罪の垢もまた然り。諸法もまた然り。如(にょ、真如)を出でず。 (中略、優破離が解脱して垢が無いように諸法も垢が無い) 妄想(もうぞう)はこれ垢なり、妄想なきはこれ浄なり。 (中略) 諸法はみな妄見なり。夢の如く、炎(かげろう)の如く、水中の月の如く、鏡中の像の如く、妄想を以って生ず。それ、これを知ればこれ律を奉ずと名づく。

※自分の心が世俗の因縁=概念・理由・条件・思考に囚われていれば、世俗に相応した果報=喜怒哀楽など感情に関わる結果がある。それらの世俗の因縁を離れた心は非有非無で不染不浄である。その心を、仏教の仮名の因縁によって説明し直せば、最も清浄である。その心が見る物事もまた、みな清浄である。どれほどキチガイな他人であっても、清浄に見える。ゴキブリが100匹以上いて付近を悪臭・騒音・暴走バイクが行き交う6畳間の自室も清浄である(悪臭は悪臭でなく騒音は騒音でなくただ臭いや音がするような感覚があるのみ)。しかし、ゴキブリや排気ガスとされる事物のみを清潔だと考えることではない。真理にはゴキブリという我・自性も無く、不浄という属性も無いという理解がある。特定の何かが不浄だとか清浄だとかと考えないことが却って一切の清浄となる。そのように自分・他人・居場所といったもの(正報・依報)が、世俗の因縁においては不浄であったり、心の清浄において清浄であることは、「依正不二(えしょうふに)」とも言われる。これも仏教の真理の見解であり、仮想体験に過ぎないので、死ぬまで淡々と修行してゆく姿勢が肝要である。見解への執着で気を抜いていると、欲望や他者の言葉に打たれ弱くなる時がいつか来るので、仏教を讃嘆しながらも、心で教理=言葉の認識に依存し続けると、知らぬ間にドブに落ちたり、スキを見た泥棒が侵入するような「報い」がある。

心と仏と衆生の関係は多とも一とも無ともいえて融通・寂滅
旧訳華厳経・夜摩天宮菩薩説偈品より
如心佛亦爾 如佛衆生然 心佛及衆生 是三無差別
 心の如く仏もまた爾(しか)り 仏の如く衆生もまた然り 心と仏と及び衆生と 是の三・差別無し

もし自分の苦しみが絶えたらば
妙法蓮華経・化城喩品より
願以此功德 普及於一切 我等與衆生 皆共成佛道
 願わくは此の功徳を以て 普く一切に及ぼす 我等と衆生と みな共に仏道を成ぜん
※偉大なる仏教の教理を聞解(聞いて理解)し、修行して心が解脱したという私は幸いである。その喜ばしい福徳・功徳を、未だに迷い苦しむ他人にも伝え、みな同じ解脱を得させたい。そのように慈悲を念じてゆくことは、まだ私にとって性急なことである。仏教の教理や言語学的知識は喜ばしいが、私の心を一時的にごまかすだけであった。しっかりと修行に活かし、実際の果報としての解脱を求めてゆこう。ひとまずは、緩まず、弛まず、撓まず、間断なく、修行に精進しよう。
asmākamanukampārthaṃ paribhuñja vināyaka|
vayaṃ ca sarvasattvāśca agrāṃ bodhiṃ spṛśemahi||



起草日: 20180101
※当記事の内容は2018年1月2日に本家ブログで先行公開された。

いくらか分かりやすく・通俗的になるように説明し、文言の引用における訓読文にも、ひらがなが占める割合が増えるように直した。
原文ソースのリンクについても、学術的な海外サイトより、日本人に馴染みやすいサイトを選んだ。
訓読文(読み下し文)や現代語訳などがある(言語学的解釈や教義的解釈の相違もあるが気にしない)。

当記事のタイトルに「障壁」という言葉がある。
仏教の漢語・梵語といった言語学的理解を、過去記事に詳述した
心の中の障害・障碍・障礙、見えない壁・・・。 Antarāya, Prākāra
人生すら行き詰る人々、いかに況や仏道をや。
それも「因縁」によるものと、当記事および当該記事所説のように了知されたい。
そうして、仏道の果報に於いては、障壁が皆無となる。

「道心あるニート・引きこもり」とは、閑居求道者とも呼び得る。
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_29.html
ほかネイティブニート→http://masashi.doorblog.jp/archives/40633597.html

「引きこもり」という概念に関して言及した過去記事の例
http://lesbophilia.blogspot.com/2015/08/blog-post_17.html

人間の思考・精神・知能・認識・人生経験などから、種々の概念があり、語句を関連付け、その語句に継ぎ接ぎの概念や属性がある。
それらは複雑に作られた空虚なものであり、畢竟、無に帰(き)す。
ただし、世俗の中では尊重すべきである…、といった反省思考・止揚を繰り返す。

今では、一語多義=一語無義=一切語無義が当然の帰結となっている。
それを、思考のみならず、修行によって心で体得できるように精進したい。

・・・、2017年の新年記事の前半パートと似たような内容になった気がする。



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しかし、当ブログ開設以来5年間に一度もそのような利用がされませんでした (e.g. article-20170125, article-20170315, article-20190406)。
よって、2019年5月12日からコメントを受け付けなくしました。
あしからず。

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