2017年8月10日木曜日

仏教と著作権・・・「同一性」とは相似性の便宜上の呼称である(法学・法律学)

小6・中1のころ(特に2009年1月以後)は、法律に興味を持っていて著作権"Copyright"に関心が強く、これを少し学んだ。
当時は小5(2007年6月)にして2ch初利用という経緯もあり、ひろゆき氏(当時2ch管理人)が関わった共著「2ちゃんねるで学ぶ著作権(西村博之・牧野和夫、2006年)」を教材としたほか、当時に住んでいた家(埼玉県)に有る母親(兵庫県→愛知県在住)の遺品に「司法書士(行政書士)の資格に関する本」が大量にあったので、そちらも参考にしていた。
当時の印象に残った事柄は、翻案権の許容範囲(パロディ云々)や著作人格権(著作者人格権)や同一性保持権であった(オーサーズライト"Authors' rights"などという英単語も覚えた、著作権における固定的な性質と流動的な性質の二分法を覚えた)。

以上は個人的な来歴であり、現在の学習行為全般とは関係が無い。
以下から本題に入る。



【「自己・他者・同一性」について法律と仏教】

西洋から輸入された法律制度や法律学は、概念としての「自己」や、自己に関する「他者」や、著作者・著作行為・著作物などを定義している。
世俗上の「同一性」に暗黙の了解がある(同一性とはIdentityのことだが著作権法20条にいう同一性保持権Integrityも対象を人person; authorでなく物produciton; workに当てたもの)。

仏教の無我(アナートマン)といった教理からすると、「自身の同一性(自性・スヴァバーヴァ)」というものを、肉体と精神の一致(生存)にも、肉体そのもの(器)にも精神そのもの(魂)にも求められない。
また、行為(呼吸する・歩く・思う・言う・文字を書く・仏教では「作=なす」という)も、その対象(仏教では「所作=なされるもの」という)も、みな「因縁によってそう認識されただけの存在・諸法実相・空・都無」であり、誰がどう認識しても同一の行為・存在(絶対的な物事)とならない。
諸行無常であって諸法無我であって、自己はもちろん、万物、ましてや「著作物」と法律で定義されるものに「同一性(抽象的概念・仮想概念)」のあるはずがない。
著作者というものも、仏教でいえば「作者(さしゃ)=なす人物」に当たり、同じく、その無自己・無我が「作(さ)」をするわけもなく、「著作者」たりえない。

一歩譲って言えば、「同一性・我・自性」といったものは、言葉と想定の範疇において「仮名(けみょう)・仮施設(けせせつ)"nominally establish または dependently designate"」のみが有る。
後述するよう、倫理・道徳とか、自他の欲望(生存欲求・我が身を愛する心・命より愛おしい物を守る欲望)を守るため、仏教でも政治でも「仮の自己」を定義する。

※Wikipediaにも載っている説は「ミリンダ王の問い」の記事にある(本記事末に漢訳版の訓読もした)。いくつかの例え話が引かれる。それらはあくまでも「業(カルマ)の報いを受けるもの・輪廻をするものは何か?」という命題に基づいた「例え話」に過ぎないが、紹介する。果樹の苗木は人物Aが植えたものであり、苗木から生長した樹に「果実」が成った。苗木と生長した樹は似ないし、後から成った「果実」が人物Aの所有物とも考えづらいが、人物Bがその果実をもぎ取って盗んだらば、人物Aの所有物を盗んだ罪が認められ、彼らの国の法律によって裁かれるということである。現代の法律では「不法侵入(人物Aが苗木を植えた敷地へ人物Bが侵入した)」などといった罪科が窃盗罪を補完する。かの時代のインド・ギリシャでは不文律・慣習法が主流で、恣意的な裁判(いわゆるザル法)も有り得るかもしれない。このほか、購入された牛乳がヨーグルトに変質した状態での牛乳の同一性など、様々な例が説かれるが、全て物事が変化するという前提(諸行無常)で同一性を見る。世俗においては言葉にしづらい時間的同一性・相関性があり、仏教でもこの「現世の人間に通用する同一性の認識=我見(アートマンが有るという見解)」は肯定されているようである。このような「我見」が肯定されないと、倫理・道徳が成立しないから、国の治安が乱れる。もちろん、新たに利益を得たくて或る主張をする者もいれば、既得権益を守りたくて正反対の主張をする者もいて、一方の主張の理論のみを取れば、常に不調和が生じるから、バランスは大事である。「パクリ・剽窃・非合法の複製・頒布」を行いたくて他の著作物の同一性を無とする理屈を述べる者、「パクリ・剽窃・非合法の複製・頒布」を禁じたくて自分の著作物を守る理屈を述べる者、どちらも理論として正当であり、どちらも欲望に基づいた邪説である。公平公正の真理には、いかなる論理に正も邪も存在しない。仏教でも、倫理・道徳を支える「我見」は、世俗の中で肯定する場合もある。言い換えると、みな「善良な我見」を持たずとも互いの苦しみとなる行為をしない(そもそも自他がみな燃え尽きても植物のように苦しみを感じない)「平和な世界」であれば、仏教が「我見」を肯定する必要も無かろう。先述の「仮名・仮施設」ということも、「由仮説我法」と言うように、世俗の認識・言語・習慣に基づく仏教のスタンスである。「常識的な因縁(合理性)」から言うと、世俗の認識・言語・習慣が無くては仏教の説示も無い。説法とは手段=方便(ウパーヤ)であり、その特徴は仮名(ウパーダーヤ・プラジュニャプティ)である。

※文中の「作・作者・所作(可作)」ということは、「行為・行為の主体・行為の客体」ということ全般を指すものであり、中論の観作作者品や観燃可燃品などに詳しい。同じく中論の観如来品に「著すべきもの・著する者・著すること、及び用いらるる著の法、これみな寂滅の相なり。いかんが而も著あらん(可著著者著 及所用著法 是皆寂滅相 云何而有著)」とある。「著(じゃく)」とは、「著述(あらわすこと)」を意味するのでなく「執着(執著)」を意味する。執着の行為(著)も執着する者(著者)も執着を受ける物(可著)も執着する手段(所用著法)もみな、「寂滅=真には言葉にできない・定義できないこと」とする。本来は言葉にすべきでないから、前に注釈するような「説示手段=方便・仮名・仮施設」という立場での説明が仏教では重要視される。



自己の身体すら、食事・呼吸・排泄・皮膚や毛の再生などで日々刻々と変化があると見られ、現代の科学(俗説アリ)では血液が4ヶ月で循環するとか、全身の多くの細胞が一定期間(皮膚は数ヶ月ほど・骨は2年などとされる)で生まれ変わりきっているといった分析・考察・理論・仮説・定説を唱えている。
感情は「猿が木の枝を飛び回る」ように著しく変化する(記事末に引用した経文を参照)。
肉体も精神も、仏教では須臾・弾指・刹那・微塵・・・、説ききれないほど細かい時間で変化があり、十二因縁も一瞬とすら言うべきでない短時間に繰り返されている(輪廻という言葉の真義)。
自己や他人の記憶・容姿・精神などに連続性が看取されたものを都合よく「これと同一だ」と主張しており、これが「根本の無明・愚癡・我見」による「貪欲・瞋恚」といった三毒の縁起に説かれる。
もし何らかの基準で物事の同一性を言うならば、自分が認識した事物はみな同一だと思うようにすると、道徳的に優れている。

法学の歴史はまさにこれであり、人間界の一部である王侯貴族・知識人・宗教家・支配階級から、戸籍のある人民へ、奴隷など科学的なヒト属ヒトの個体すべて、心がありそうな哺乳類などの動物などへ徐々に人権・権利が拡大した(道徳的な人はミミズ・オケラ・アメンボなどの虫けら、植物・機械にも思いやりを持って権利を与えるか)。
仏教でも、部派仏教(いわゆるセクト主義・保守派)などの見解では出家修行者に解脱の可能性が限られ、あるいは法理上人間が平等に解脱できても事実上出家せねば解脱が不可能であるとしていたところが、「生滅滅已・寂滅為楽=全ての存在は本来、不生不滅で寂滅だ」といった平等の教理を重視して在家で布施・供養や仏を尊敬するだけでも解脱・成仏する(皆已成仏道で仏道が現在進行でなされている"bodhāya abhūṣi lābhinaḥ"とも)という大乗仏教の姿勢が強まり、しまいには「一切衆生悉有仏性・山川草木悉皆成仏」として「生きとし生ける者(動物・植物)はみな成仏できる・そもそも成仏している」といった教説も広く認知されていった。
言語障害の人々や赤ちゃんや動植物は、人権の概念も仏性の概念も持たず、自覚も無いようだが、概念を持って自覚する人ならば、人権も仏性も他人や全ての生命や単なる物に認めることができる。
仏教徒であれば、世俗にあっても自己の権利を過度に主張することはなかろうし、自己の命や権利を重んじる人は、他者へも同様に尊重できるはずである。
そういった理論・実践の結果として、自己も他者も、寂滅の真理に存在せず、「権利が『愛おしい』とか『棄てるべきだ』とかとも思うべきでない」と実感すること(実感でない実感・言葉通りに理解しても難しいこと)が大事である。



少し考えれば小学生でも分かるよう、「同一性が無い」という話題は詭弁じみているかもしれない(分かっても事実を素直に認めることは子供でも大人でも難しい)。
例えば、ある日本の古い文学作品の成立時に「旧かな・旧字」が用いられていたが、作者没後の人によって現代のかな遣いや新字体に置き換えられても同じ作品だと呼ばれる。
これは、何らかの「相似性」を、便宜上に「同一性」と呼称しているに過ぎない。
スペリングや字体の問題を差し置く。
文学作品をチラシの裏などに肉筆で書き写せば、文字の意義や発音が同一と想定されても作者の原稿や、製本の初版と似ることも無い。
もっと言えば、原稿は鉛筆の鉛が損じる・紙の変異が生じるなど時間的に同一性が無く(無常)、出版物も本の個体同士で科学的に分子の配列が異なる。
文字の意義や発音が同一と想定されても、実際に言葉の意味は「浅い読み方・深読み」など解釈が多様であり、文字の発音も例として子供は「さ行(歯茎摩擦音)」発音が苦手で「しゃ行(歯茎硬口蓋摩擦音)」や「ちゃ行・つぁ行(歯茎硬口蓋破擦音歯茎破擦音)」となる場合があり、時代や地域でも「し」の発音が「本来のし"si"・後のし"shi"」といった差異が生じるなどするので、同一性は無い。
0.001%ないし99.999%以上の「相似性」しかない。

・・・小学生や中学生レベルの詭弁だと思うでしょ?
このように具体的な説明をすれば、「複雑な物事の粗探し」となり、聞く者に「簡素な物事(路上の石ころなど)には同一性がある」と反対の発想が生まれかねない。
仏教でも、後述するように「戯論」という。
詭弁は詭弁だが、私の詭弁・戯論を以て言いたいことは「誰も認められない事実」である。
どれほど私が「かくかくしかじかで同一性は無い」という根拠を説明しても、完全に証明することができない(仏教では不可得という)。
「物事そのまんま」だもの、言語道断心行処滅、推して知るべし!
真の同一性は、「仮想の無」のみであり、万物である。

絵や音楽を例に取っても同様である。
有名マンガのイラストを子供が模写してもトレースしても、J-POPの音楽を子供がピアニカやリコーダーで演奏しても、100%の同一性が存在せず、「辛うじて似ているから同一だ!or子供本人が同一性を意識して行ったから同一だ!」と主張するに過ぎない。
絵ならば色彩や濃淡や線画(線が無くても線と看取できる特徴・色彩の境界がある)、音楽ならば使用楽器やメロディ(旋律)やコード(和音)やコード進行やテンポなど、これらの「類似性、わずかな共通点」から「同一」を主張する。
このような事物の比較ですら、同一性が存在しないのに、仮に同一性を法律で定義しても、人間の認識の相違性(機能疾患・障害の有無や価値観の相違など)を加味すれば、すでに説明しきれないし、論理学上の「詭弁」を極めてしまう。
しかし、これが「ありのままの事実」を見るための第一歩である。

仏教徒にとって、法律は「人間の概念・認識・妄想の所産である道徳・哲学の文明・世界観を支えるもの」であって「戯論」となる。
どうして単なる「相似性」を、無理に「同一だ」と主張するかといえば、我見・我欲の故であり、法律は、その我欲を肯定した人々に争いが生じないよう、何とか権力で抑えつけるためにある。
これで、我欲と全ての欲望が肯定される文明が、欺瞞の平和のもとに生き続け、戦争に入るという悪循環を繰り返すことになる。
仏教徒は、このことを憂え、愧じ、恐れねばならない。
人の悪を悲しまねばならない。



しかし、仏教徒は、世俗の倫理・習慣に則らねば教化できないし、むしろそういった「戯論・迷妄」ありきで「四諦(苦集滅道)」や「中道」などの仏道がある。
世俗と仏道の真理については、私が常に龍樹菩薩の中論24:10偈などを引く通りである。
「諸仏は二諦に依りて、衆生の為に法を説きたもう、一には世俗諦を以て、二には第一義諦なり。若し俗諦に依らずんば、第一義を得ず、第一義を得ずんば、則ち涅槃を得ず。(諸佛依二諦 為衆生説法 一以世俗諦 二第一義諦 若不依俗諦 不得第一義 不得第一義 則不得涅槃)」

世俗の立場につけば、他者が犯罪しないよう気遣う「慈悲」を念頭に置くために、あえて自己の著作権を主張すべきである。
もし「慈悲」を念頭に置かないで著作権を主張するならば、所有欲や名誉欲の関連性が強い。
「他者に犯されたくない自己の著作物(心の宝、財産に準ずる物)」を頑なに守ろうとする。
そのような人は、出版物ならば出版物として利益を得て著者として名誉を得るであろうし、サイトHPなどであればアフィリエイト・アドセンスなどを付ける(実情として仏教の寺院HP在家の勉強HPなどでも著書を紹介してAmazonアソシエイトのリンクを付ける者がいる)。



【斯く言う私の「著作物」は・・・】

著作権・著作物といえば、私はブログ記事の執筆・投稿のみならず、絵を描き、楽曲を作り、写真などを撮り、ブログや動画の形で公開している。
これらのブログ記事・動画(文章・画像・音声のコンテンツを包括するもの)などは著作物であるが、インターネットでは二次的な利用について寛容であらねばならない。
仏教徒であってもなくても、二次元の同人界隈・二次創作界隈や、様々な分野の無料ツール・ソフトウェア開発などでも、法律で定義された範囲で著作権を放棄する宣言をする者がいる。
アフィリエイト収入を得ない者や匿名の者も多く、彼らの菩薩にも似た行為に私は感服する(行為として尊いと感心する)。

著作権侵害の罪は親告罪(被害者の精神的苦痛が重要)であるし、著作権を放棄する宣言に法的根拠が付随せずとも、彼らの精神が本物であれば立件しないので、どのように彼らの「元(?)著作物」を改変などしても、法律上は罪とならない。
だが、例えば仏教で「飲酒」が別の罪を犯すきっかけとなりかねない(酒に酔った勢いによる殺人・女犯など)から禁じられるように、彼らの「元(?)著作物」を改変などして罪にならずとも、その積み重ねによって感覚が麻痺する恐れがあるため、自制すべきである。
つまり、彼ら以外の者の著作物にまで手を出してしまう「箍が外れる現象・犯罪行為の助長・悪い心の増長」で罪悪と認定される行為を犯す末路も有り得るので、ほどほどにしよう。

文章・絵・音楽という3種のコンテンツ、および動画は、みな萌えの法門に摂取されている
萌えの法門において、「我=自己」と「我の作=著作行為」と「我の所作=著作物」と、それらの「同一性(もとい相似性)」をどう見るか?

当メモ帳ブログ「觀萌私記」記事の最後尾に付した「蛇足」に、著作権に関する言及がある。
この文章の著作権が私に有るかというと、日本国の法令に則れば有りと言える。引用・転載については自由でよい。しかし、觀萌(観萌または萌觀・萌観)の理解が有る人・觀萌の志が有る人・仏教の理解がある人・仏道の志がある人以外は不可能である。これは私が課する制約ではない。人間の心の奥底にある良心・善意による。觀萌私記の所説に則れば、「人の内に蔵する萌心」が理性に及んで行動意欲を呵責するためであろう。もし、その観萌や仏道の志の無い人が自己呵責なくして悪しく引用・転載が行えるならば、彼は既に観萌の機も仏道の縁も無い四悪道の衆生と言えよう。仏は血を流しても心が泰然自若であるように萌文・萌相は悪用されても萌心は不動である。出仏身血の罪を犯した提婆達多が生きながら地獄に堕ちたように、悪用した人が自ら萌心を無くす。もし、読んだ人が萌心の存在を喜ぶならば、私は法華経随喜功徳品の「随力演説・五十展転(ごじってんでん)」を思い合わせて広く説くことを勧める。なお、外国語への翻訳(一部翻案)も自由の範疇とするが、個人的に全文を漢文(現代中国では文言文)にする案がある。

仏教徒は、先述の通り「我(自己)・我所(自己に属する物・所有物)」の心(我見・我所見)を把握し、それを断たんとしているか、すでに断った者である。
無我などの教理より著作権ということを分析し、フリーな・解放された立場にあろう。
著作物を以て利他の行為をも、なし得る。
觀萌私記の公開から半年以上を経て執筆した「本萌譚・異伝②」には、「萌尊の御所持の法門・萌相は御所持であって御所持でない」という教理が示される。
或る過去萌尊の一人が菩薩行をせられた時、広く萌相を施していた。同時代の或る者、己が萌心に背いて萌尊への嫉妬を懐く。萌相を冷やかそうと、萌尊の絵を印刷し、自身や飼い犬の放尿の的とした。また、萌相のキャラクター・萌類が悲惨な目に遭っているような絵を描き、これを衆目に曝した。大衆の中に、これを喜悦する者もいて真似をしだした。あたかも、寄ってたかって道端の草花をボロボロに踏みつける悪童のように。または植栽を斬り荒らす狂人のように。この事実をお知りになった過去萌尊のお悲しみは、いかばかりか?ご自身の萌相や行為を、対外的に穢されたという怒りはない。何となれば、萌尊の内証において萌えも人も万物もみな不染不浄"amalā na vimalā"もとい無垢"amala"にして清浄"śubha"なるが故である。萌えの価値は金剛不壊であろう。何となれば、己が心における色心の融合に真価があり、よく領解せられるためである。その智慧は、風を受け流して元に戻る竹のように柔軟である。しかも萌えは萌尊の御所持であって御所持でない。つまり、『無我の身と無我の萌えとに所持や所有の関係は無い』とも領解せられるためである。所持でないこと・持ち得ないことを領解せられるが故に真に所持であると称するが、御所持でない意義からすれば、萌尊の執着すべき萌相も存在しない。萌相のキャラクター・萌類も非有非無"na bhāvo nābhāvo"で、悲惨に描かれたものと萌尊がお描きのものとは不一不異"anekārtham anānārtham"である。萌尊のお悲しみは、そのような者自身および同調する者たちが、自ら心の善根を絶やした故である。仏道に入らせんとの慈悲の故に好色萌相と深遠な意義とを世に示しているのに、慈悲と意義とを知らずに萌相(我所)が萌尊(我)の所持と見る邪見から、好色萌相を観ることを縁として起こる歓喜の萌心を素直に見ず、萌相と萌尊とを毀辱(きにく=侮辱)し、彼らが自ら心の善根を絶やしてしまった。須臾にして、彼らの主観的世界の萌えの三身は消滅したろう。もとい、行動する以前から善の種を欠かしているようでもある。そのように言えば、人を差別する私の慢心が増えてしまうが、真には私の慢心が不増不減"anūna na paripūrna"である。もし善の種も萌えの三身も彼らの主観的世界に本来無いならば、私たちの主観的世界にも本来無い。物事、真に有無などを言えないが、今は仮に想定して彼らの主観的世界に善の種も萌えの三身も本来無いと説く。また、仮にこれを、『みな地獄に堕つ』とも、『本来一定(いちじょう)地獄』とも説く。萌道の人は所説の如く信解すべきである。

無我などの教理からして言えば、このような立場となる。
ただし、利他の行為ということは、必ずしも無我の教理による上述の立場に依存しない。
自己の著作物は、世俗の法律が定義する範囲内で実在し、他者が濫りに(ほしいまま・放縦・放恣・恣意的に)悪い改変をして悪業を積む(欲望に放逸な人間になる)恐れもあるから、それを制すべく、自己の著作権を主張する必要もある。
そういった世俗への「同事(事を同じくする)・方便(随方毘尼)」により、利他や化他行が実現するので、「無我の立場に固執するという我執」を破る(止揚する)ことは真に無我の行為といえよう。
大乗の心で小乗の四念処(身=不浄・受=苦・心=無常・身=無我を思う)などを説いた釈尊・お釈迦様は、その「真に無我」であり、即ち真の我でもあり、大乗を行じるお方なのである。



起草日: 20170531

【文献・言語関係の付録みたいな?】

漢語動詞「作(する・なす・作す・為す・作為する・行為する)」 梵語の動詞語根 √kṛ
「作(行為、なすこと)」 "karaṇa; kāraṇa; kriyā (カラナ、カーラナ、クリヤー)"
「作者(行為者、なすひと)」 "kartṛka (カルトリカ)"
「所作(行為の対象、なされるもの)」 "kriyate (クリヤテー…動詞受動態+名詞化?)"
「所用作法(行為の手段、なすにもちいるもの)」 "karaṇa (カラナ…未確定)"
「業(行為、なしたこと・わざ)」 "karma (カルマ)"
ほか 「なすべきこと(推断・可能形)」"kartavya (カルタヴィヤ)、 「なすべき(命令形?)・なすこと(行為)」"karaṇīya (カラニーヤ、前とともに未来受動分詞→形容詞)"、 「なされるべきこと(果として想定される何か、)」"kārya (カーリヤ、未来受動分詞→名詞化)"
主な典拠: 中論"mūlamadhyamakakārikā"

※十二因縁にある"saṃskāra pl: saṅkhāra"サンスカーラ・サンカーラという業=行も語根√kṛに基づく。サンスクリット"sanskrit"の語源"saṃskṛta (サンスクリタ)"もまた同様に語根√kṛに基づく(サンスクリタは過去分詞および名詞なので仏教では行・サンスカーラの所産=有為を意味する)。「法"dharma"」でさえも語根√dhṛより名詞化したものとなることが推定でき、実際にそのようである。語根√dhṛは「支える・維持する」という意味を持つ。古代インド人は世界の根底原理を見ようとし、"DHARMA"と名付けた。「縁の下の力持ち」とは何であろうか?現代に法律とは、世界や集団を維持するもの、秩序を守るもの。人の概念による構築物・人類の英知・宝玉が「法律」であり、「法の支配」とまで讃えられる。言語分析から、歴史や宗教や社会が理解できる一面もある。



「那先比丘経」漢訳2種のうち大正蔵所収のB・下巻より引いて訓読

王、復た那先(nāgasena)に問う「審らかに智有りと為すや無しや」。那先、言く「智有ること無し」。那先、言わく「譬えば人、他人の果蓏を盗むが如し。盜者、寧んぞ過(とが)有りや無しや。王、言わく「過有り」。那先、言く「初めに栽(なえぎ)を種(う)うる時、上に果蓏無し。何に緣りてか盜者當に過有らん。王、言く「設(たと)い栽を種えずんば何に緣りてか果有らん。是の故に盜者に狀無し(弁明の余地が無いことか?)」。那先、言く「人も亦た是(か)くの如し。今世の善惡を作すを用い、後世に生まれて更に新たなる身を受く」。王、言く「人、是を用いるが故に身に行じて善惡を作す。更に新たなる善惡の在る所なり。那先、言く「人の諸の作す所の善惡、人に隨う。影の、身に隨うが如し。人、死して但だ其の身を亡くするも、其の行を亡くさず。譬えば・・・。」

※なお、輪廻(生死)や転生の主体について、「ミリンダ王の問い - Milindapañha 3.2.6(もとい國譯彌蘭陀王問經・七五頁)」ではまず「名色"nāma-rūpa"」の名を挙げつつ、名色自体が再生するのではなく、名色が作る善悪の業によって名色の輪廻があると説く。既に名色が輪廻していると善悪の業がつきまとう。つまり、「因縁・縁起」で輪廻を分析する。樹の同一性やヨーグルトの同一性など5種のたとえ話が展開され、何らかの観点で変化があっても、果報を受けるものは決定(けつじょう)しているという意味であろう。漢訳ではそのように記述していない。・・・と思って同B・中巻を見ると「復問那先『人以死後誰於後世生者。』那先言『名與身於後世生。』 (乃至) 那先言『譬如人盜他人果蓏。其主得(捕まえる)盜果者。將至王前白言"是人盜我果"。其盜者言"我不盜是人果、是人所種小栽耳本不種果也。我自取果、我何用為盜。我不盜是人果、我不應有罪過"。』」といった部分があり、パーリ語の訳文と酷似していた。この部分については訓読せず、例示に留める。転生の話についても個人的見解を示さないでおく(先の國譯彌蘭陀王問經・一一八頁 Milindapañha 3.5.5が「輪廻(原語saṅkamati?)」と「再生(原語paṭisandahati?)」の相違点を話していて不審)。



「人の心は猿が木の枝を飛び回るようなもの"Mind is like a monkey"」についての引用文

雑阿含経289経: 心(*citta)・意(*mana)・識(*vijñāna)は日夜の時刻に須臾に転変し、異って生じ異って滅す。猶お獼猴(にこう・サル)の林の樹の間に遊びて、須臾に処処(ところどころ)に攀(のぼ)りて枝条を捉え、一を放ち一を取るが如し。彼の心・意・識も亦た復た是の如し(心意識日夜時尅須臾轉變異生異滅。猶如獼猴遊林樹間。須臾處處攀捉枝條。放一取一。彼心意識亦復如是。)

パーリ語経蔵・相応部12-61経: Yañca kho etaṃ, bhikkhave, vuccati cittaṃ itipi, mano itipi, viññāṇaṃ itipi, taṃ rattiyā ca divasassa ca aññadeva uppajjati aññaṃ nirujjhati. Seyyathāpi, bhikkhave, makkaṭo araññe pavane caramāno sākhaṃ gaṇhati, taṃ muñcitvā aññaṃ gaṇhati, taṃ muñcitvā aññaṃ gaṇhati. Evameva kho, bhikkhave, yamidaṃ vuccati cittaṃ itipi, mano itipi, viññāṇaṃ itipi... (後略)

上掲パーリ文の英訳: But that which is called "mind" and "mentality" and "consciousness" arises as one thing and ceases as another by day and by night. Just as a monkey roaming through a forest grabs hold of one branch, lets that go and grabs another, then lets that go and grabs still another, so too that which is called "mind" and "mentality" and "consciousness" arises as... (後略)


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