2016年2月15日月曜日

二次元・三次元の相貌の相対的な互換性に関する理論の体得

二次元の人物と三次元の人物の相貌を対比する上で、踏襲すべき理論がある(英語2 dimensionsや3 dimensionsという原義が無くなって俗語化した「二次元・三次元」の意味で当記事を執筆)。
表題にある「相対的な互換性」とは、難しく思うかもしれないが、直感的なことである。
三次元の人物の顔が二次元の少女漫画や萌えイラストさながらの大きさの目を持っていることは反対の例・「絶対的な相似」であり、二次元側に比較するならば違和感ばかりを覚えてしまう。
2011年頃に話題になった中国人女性の巨大な目を、「相対的」に二次元イラストで再現すれば、ブラックホール的な巨大さとなり、見る側は「目を奪われる」気持ちとなろう。
輪郭にしても、萌えな美少女イラストの丸い輪郭を、三次元でマネしてエラを張らせるようだと、これまた同様のことである。
ここに「絶対的な相似」と「相対的な相似」を踏まえないことによる、異常な顔面整形をする者(ジョセリン・ウィルデンシュタイン)がこの世界に稀に存在するものだが、そこまでしない一般人にしても、この相対的互換性理論を知らないか覚れないままでは、二次イラストへの偏見と違和感が拭えないでいることとなる。

既に挙げた例のとおり、二次さながらの輪郭や目つきを、三次元の人物がそのままそのパーツだけ似せるようでは、かえって違和感と奇怪さが強まってしまう。
二次元の萌え系はそのパーツ同士の調和による美しさがあり、三次元の美人の顔もまたそのパーツ同士の調和による美しさがあり、異なりを認める必要があるから、一方がもう一方の一部分を真似れば「不調和」に陥る。
三次元の人物にも、萌えの印象を持つ顔の人もいよう(特に幼女)。
それはなぜか?言い換えれば「萌え系二次絵がそれら三次元の良い顔に則して成立した」ことにほかならないからである。

ただし、萌え系イラストの源流をいえば、ディズニーの動物キャラやムーミンなどの海外人外アニメーションなどがそれに当たるようにも見える(詳しくないが80年代頃からか?)ので、一概には言い切れない。
思えば、小学生の時に「某甲さんの顔(男子同級生や男性俳優など)」は「ライオンっぽい。リアル動物のライオンとはあまり似ないのに」と疑問を持ったが、「~っぽい」というと、リアル動物とは別に偶像化・抽象化された特徴の表象かもしれない(某漫画・某球団ロゴなど)。
当記事ではあくまでも「二次元の人物・三次元の人物」の顔のパーツなどが相対的に相似していることが中心である。
以下より、三次元人物との相対的な相似の性質を詳述する。
不十分の謗りを免れないことを覚悟しつつ、恐縮ながら私の写真とイラストで例を挙げる。





これは、私が2015年6月上旬に描いた絵(中央)と似ていそうな自分の写真(左から2016年1枚・2010年下半期2枚)を並べただけの画像である。
あるいは顔つき(左・中右)、あるいは服装(右)が似ているようであろう(イラストの服装=緩めたナロータイなどの元ネタは別の写真となる)。
まあ、このオリキャラ絵は可愛く描こうとしたらたまたま私の顔に似た程度の結果と思われるが、それこそ「内証の理」が顕現したということで、私が体得している理論ありきで描かれたと言える。
これだけでは説得力に欠いてしまうが、深くマインドで捉えてくれれば私の内なる論理に通じていくのではなかろうか。

ところで仏教には、曼荼羅(絵の掛け軸など)を見て観想(かんぞう)する修行法がある。
「何をどんな曼荼羅で観想するか」といえば、美女が死んで肉体が朽ちる様子(九相図)や、仏界や浄土や悟りの世界観を表現した曼荼羅を、目で見ながら観想すること(視覚的に概念を認識し観想の際は見ない場合もある)によってこの世への執着を無くそうとしたり、禅定を得ようとする。
そこでもし論理未得の人が、私の画像や同じような趣旨の「顕・理論画像」を見て思索を巡らせるならば、何かマインドに訴えて高次の論理に至る可能性はある。

ここで一偈「若有未得人 見如是画像 顕理論画像 速到高次理 (若し未だ得ざる人有って是の如き画像・理論を顕せる画像を見るに、速やかに高次の理に到らん)」

2月1日 かたきしとねメモ アオムケジ、ムネニテヲアテテカンソウスルトキモチガヨイ ココデオモウコトハ、ミジメナルオサナキジブンヘノレンビン、ドコマデモイトオシキショウネン アノジョジニテイルトシタオリキャラエモ、チュウ2ノジブンニニル




こちらは2013年9月に描いた絵("今の私がいう萌え"とはやや異なる)と2013年8月4日撮影の自分の顔写真を並べて比較した2013年9月作成の画像であり、2013年9月25日投稿の本家ブログ記事に掲載している。
2013年という事実に念を押すよう、内なる論理はまだ熟しきっておらず、技法も定まっていないころであるから、参考の度合いとしてはやや欠けている。




ほか、萌えとは異なる男性キャラの場合も、過去記事に自分の顔写真を加工して再現をした。
広く相対的な互換性を感じる上で、これもまた一つ参考となろう。
同じく、絵に「内証の理」が顕現していることに、当該記事では写真との対比を以て説明してある。
この2つの男性キャラの絵は、私の顎を含む輪郭・鼻・口を扁平にし(縦幅を狭めること)、目・眉だけそのままの形状で残せば位置が相対的に低く感じられ、類似した特徴を実現すると思う。
言うまでもなく、美化された特徴に関しては、絵を描く方法のうちなので、別の話である。

ところで、リアル人物の顔を見たとき、何らかのアニメキャラや漫画のキャラに顔が似ているように思ったり、印象が重なる、逆もまた然りという経験は誰しもあるのではないか(アニメに親しみある若い世代に限るが)。
このような現象(類似性疑問)は、音楽に対しても言える。
アニメ・漫画などにおいては当記事にいう二次・三次相対互換の理論(および"内証の理")が適用されようが、音楽の場合は、例えば「楽器やジャンルが異なるあの曲とこの曲が似ている・私の作った曲がとある曲に似ている」といった感覚も、いわゆる「音楽理論」、つまりコード進行やテンポなど、言語や数字に表せる理論を曖昧ながら体得しているからそういった感覚が発生するのである。
具体的な音楽理論を学び知るか、作曲する過程で比較・知覚した時、どうして「この曲似てる!似ている!」という感覚が発生するか、深く納得することとなろう。



よく美幼女の三次写真と萌え系の二次イラストを眺めてほしい
他の自分の写真・イラストの例で2015111013210002など
↑まで記述未整理、煩雑の謗りを免れたい。

私の思う「萌え・美少女」と少し離れる話ではあるが、2012年中、とある1枚の画像と出会った際の衝撃は大きかった。
元々アジア人だとか白人だとか、モンゴロイドだとかコーカソイドだとか、日本人だとか朝鮮人だとかという「疑似科学にも似た人種論争を気にかけることがあった中3ネット右翼期」を経ていたので、顔のどういった特徴が美と醜を分かつ要素たり得るものか考えることが多い中で、「可愛いとされる絵は白人の特徴を持つ」という画像は一つの決定的判断材料となった。
二次の顔貌を観想する上で、この画像に目を通すことは大きなインスピレーションとなろう。
よって、二次・三次相対互換の理論を体得するには良い教材となるので、各自参照されたい。
ただし、現在の私の二次・三次相対互換の目線から見直すと、引き合いに出された「アニメ化けいおん!唯ちゃん」は西洋・東洋の中性的な顔つきであり、あのアニメの画風の相対性の範疇でより写真人物のような西洋人の顔にできると思われる(単なる例示について難癖をつけるつもりはない)。



相対性という概念は、数値化すれば分かりやすい。
目を例に取ると、三次元における誰か普通の人というか標準顔の「デカ目度」を100とし、冒頭にいう「2011年頃に話題になった中国人女性の巨大な目」の「デカ目度」を200とする。
同じく二次元・萌え美少女版の「デカ目度」を設けて考えるが、まず「萌え系の美少女」を何でもいいから思い浮かべるか、浮かばないなら私の先のオリジナル少女キャラ絵でもよいので、その1.2~1.5倍(縦横比はご自由に)の大きさの目を想像する。
粗略な定義ではあるが、その「ブラックホール」的な目がデカ目度200に当たる(私の先の絵なら100~120ほどか)、そう思っておこう。
この各デカ目度を厳密に定義することがあれば、二次でも三次でも150以上が違和感の強い大きさとなろうか、美少女漫画ではなく少女漫画のような目は150前後に当たりそうである。

ただ、どう極めても、世間で言う"IQ"だとか知能指数だとか偏差値だとかと同様、絶対完全という正確性は持ち得ないので、あくまでも参考の範疇に留意したい。
萌え絵を編み出した諸々の絵師らは、私のような言語化をすることあるいは言語化された理論を見ることは無かったろうが、実に相対的互換性を体得していたのであろう。
これも一種の「理と事(理論と事実)」の差である。
私の披瀝する理論や理論的数値(e.g. デカ目度)が的確に言語化できてそれを大衆が見るとしても、体得者らが事実に表す内なる理論(経験)には敵わない。



上掲画像は2016年5月30日以降の作で、当記事に後から追加される。
瞳に白目領域は上下左右にできていても、萌え絵の相対性においては四白眼というべきでない。
目を見開いた表情は、もっと極端に表情筋といわれるものに力が込められていよう。
私が同じ表情をした際、絶対性の観点では四白眼といえるほど白目が上部に作られないだけであり、
萌え絵は萌え絵で白目が上部にできて構わない。
二次元・萌え絵における鼻の特徴は、多くの場合に簡略的であり、一つの点で描かれる場合は三次元における鼻尖の下・鼻腔のある領域全体の影の位置に当たる。
鼻尖の位置やそれよりも上と考えられそうな高い位置の場合もある(最初のオリキャラ絵など)。
古くは鼻梁の特徴も、線・拡げて影で多く表されていた。
また、極端に思われるかもしれないが、点すら描かずとも相対的相似は保たれる。
鼻に関して言えば、80年代頃のアニメ動物キャラは然るところであるが、人間キャラであっても鼻の特徴を抑えて髪も複雑には描かない、可愛らしい少年キャラがいる。
既述に海外としたが、国内アニメとその漫画原作にも充分ある。
例えば、80・90年代の漫画・アニメである「ドラゴンボール」の主人公「孫悟空」がそれであるとみなされ(超サイヤ人1~3の容姿はどうなのかと言われそうだがギャップとして魅力がある・・・というかここでは少年期ないし通常時に限るべきか)、作品単位では日本ないし欧米など世界中の人気を獲得した。
これは人物であれ人外であれ、DBよりも古いもので手塚治虫作品、DBよりも新しいものでポケモンのゲームやアニメシリーズにも共通すると思ってよい(それらもまた人物・人外キャラは各々個性的な鼻の形状を持っているか鼻の無いキャラもいるのでそれも参考にすべき)。
時代ごとの相対な範疇でキャラクタリスティックな特徴が世間にヒットして生存適性があるまま、世代ごとに継承され、強まってゆくならば「一種の進化論の応用」でもある。

鼻の点や線というものは、あくまでも顔全体に対するバランス保持の基準点(囲碁で序盤に打たれる四つの星のようなもの)に過ぎないので、「有って無いような存在」となる。
したがって、先述のように「点すら描かずとも相対的相似は保たれる」。
鼻の特徴や輪郭の特徴を違えると、少女漫画チックに様変わりする。
無理に三次元の人間の鼻の特徴を二次元で誇張すると、典型的な萌え系イラストの印象とはかけ離れてしまうか、どうしても描きたい場合は私の異流儀系を真似ればよい。
一方、横顔を描く際には鼻の形状があらわとなるが、これはフィギュアにしても同様となる(ただし私はフィギュア未所持である)。

ちなみに、二次元キャラは往々にして首が長くされるが、これは顎の形状変化が一因の絶対的要素として作用する面もあれば、わざと首が長めに描かれている場合もあり、何とも言えない。

「二次元の萌え系はそのパーツ同士の調和による美しさ」があるということを冒頭に書いたように、ここまで、個別のパーツの外見を形質人類学的に示した。
パーツごとの距離・間隔なども相対的にどうあるべきか、考えてもらいたい。



髪型についても相対的に相似する

二次元における髪のボリュームは、爆発したような少年キャラの髪はもちろん、例えシンプルなロングヘアであっても、よく考えると非現実的に思うかもしれない。
どの程度かは、描かれよう次第であるけれど、ここでは私がよく描く種類のイラストを基準として考証したく思う。
この濃密なボリュームを私の髪で「絶対的」に再現した(風呂上りの濡れた髪)。
一定の長さの髪がほぼ全部、一つに集まっても、二次元少女の髪の一部分までしか再現できない。

漫画キャラの髪のボリュームに関して疑問を取り上げた本を、小学生の時に読んだ。
それは漫画・アニメ・特撮などフィクション作品の描写を科学的に検証した本であり、2000年代から学校図書で定番となっているから、私の世代では多くの人が知っていると思う(同趣旨のものに法律検証あり)。
内容は1・2巻などがおっさん世代に向いた作品のネタばかりであったものの、以降のナンバーでは私らの世代の少年に向いたものを取り上げる傾向があることを記憶している。
それで、恐らく1・2巻あたりで、漫画「あしたのジョー」の主人公(男性)の髪型を例にとって検証していたが、そこでは、剛毛の人の髪の毛を更に太さ3倍にしないとそのキャラの髪型を再現できない、とした見解を示していた(私の記憶に基づく)。

私は、より人体の構造から言えば、1つの毛穴から複数本生えるか、1つの毛が都合のいい場所で枝分かれしながら途中で太さを帯びるなどした上で、いずれも適切な長さを保持していることで再現性が高まる、と卑見を述べよう。
私が描かないであろう某女児アニメほか、何かのゲームにある超特大モコモコもふもふヘアーの類(塊みたいな)は、アフロヘアーで再現してもよいが、必要な長さの問題(普通の髪質で2m以上)に加え、完成させてもそのビジュアルは乱反射により悲惨であろう。

私の髪質をいえば、毛によって太さのバラつきがあるが、髪が抜けるまでの時間の長さも決まってしまっており、ここら辺のどうしても生じる差別なども一定埋まらねばならないのであろう。
それを思えば、やはり三次の人物で充分に二次美少女らしく見えてしまう現象には、絶対性よりも相対性を重視する必要があると言えよう。
髪型にしても同じように、相対的な相似があることは、更に諸君の研究や思索などで自ずと覚るところがあればよいと思う。



「相対的な相似」とは関係ない話となるが、顔の輪郭にしても目のパーツにしても、90年代後半~00年代前半などの深夜アニメには古臭さが残る(当時のアニメは子供向けの方が可愛らしく、深夜アニメは見苦しくて趣味が悪いものがほとんど)。
目の場合、睫毛や瞼の特徴・瞳の輝きなどがあんまり複雑なために、その印象を持つ。
昨今では、よほどそういう画風の原作や原案でもない限り、ほとんどそれらの特徴が淘汰された。
前髪の特徴についても、目と同様に「簡略化」は重要である。
随分と複雑に繊細に毛先を描くことは、90年代後半~00年代前半らしさがあるばかりか、エロゲ系などは今なおもこの流儀が強く残されていると思う。
それらエロゲ系は萌えと少し異なるジャンルであると私はしみじみと感じる次第である。
なお、「簡略化」とすら関係ない余談だが、古いアニメ系画風だと前髪は中央部をそり上げて額露出したり、左右とかが兜みたいな派手さに・・・

思えば、萌え系イラストが明白に完成されたのは、私の知識に依ると2000年代前半となる。
2001年ころに著作権的な方向でネット上の論争が起こった某同人ソフトあたりは顕著である(イラスト絵師はのちに商業誌で4コマ漫画を連載しだす)。
2005年までに、同じく「深夜アニメ」ではなく、「同人」界隈あるいはアニメ無き商業においても色々と進歩があった(否、深夜アニメでも2002年ころに有名なアレがあってだね・・・)。
2005年以降は、萌え系の細分化が際立ち、その当時の深夜アニメを2つ(原作の漫画については説明を省く)2011年に鑑賞したのだが、あの当時の萌え系ではこれらが優れているものと見た。
その2つのアニメは広く萌え系に当たるとしても、それぞれはかなり流儀というか画風が異なっている、これをその当時の細分化という(多様化ともいうか)。

それで、何が言いたいかといえば、このうちの2001年頃の某同人ソフトのイラストなどは、当時のオタク系に稀な「前髪の簡略化」が著しくされており、先進的な印象を覚えた。先駆者である。
他の情報についても実際の画像を貼っておきたいが、当ブログでは遠慮する。
当該ソフトの後継(2002年に出た、絵を描いた人物は開発者本人)では、やはり前髪にせよ輪郭にせよ目・鼻のパーツにせよ、前身ソフト期の先進的な萌えよりも一つ前の時代の印象を受ける。
寧ろ、2002年当時であればそれが時期相応にして、当時の人々には親しみやすいくらいか?



ほか、2008・9年ころか私は、とある著作権に関する書籍(2006年)で、親しみある食品などの同人界隈(?)における擬人化だったかを取り上げている項目を見た。
これがいつの萌え系となるか不明だが、このように私が雑多な昔話をしたがる感情は、ネット環境に乏しくネットコンテンツを渇望していた2008・9年(小6・中1)当時の個人的な記録のためである。
当ブログ初見の方には不親切となろうが、煩を厭わずこんな記事を残しておいた。

あ~誰か、「萌え文化と著作権」っていうテーマで論文かいてくんないかね?
2000年代後半から萌えが市民権を得てきて市場に台頭していったわけだけど、本当はアングラ気味な文化であるばかりか、こうもいわく因縁つきな側面が強いんだよね。。。
何度もばかばかしい思いが沸きながら、必死でこんな文章を捻り出し続けた。
すでに本題と逸れているが、「前髪の簡略化」を始め、それら二次萌えの特徴は様々な例から一見簡素なデフォルメだったり大胆な誇張ようでも、明文化し得る相対的な互換性が備わることを重ねて述べてきたので留意されたい。






起草20151228
根幹となる約3,000文字の記述は最初の3日ほどに書かれた(むしろ発想が強く芽生えた即日でないと言語化にあたる意識は保てない)。
途中途中は、少しずつ加筆される。
投稿予定日たる2月15日においても加筆事項はところどころにあるほか、画像も急ごしらえに。



後年の追記①
二次元・三次元における「可愛い・可愛くない」などの美醜の価値観についても、この世に生を受けて以来、漸次に得てきた物事の認識によって決まると思われる。
「可愛い・可愛くない」などの美醜の価値観が、因縁によって生じたもの(原因の結果)であり、無始無終の輪廻を繋ぐ一要因でもあろう。
最終的に、仏教の真理に繋がりゆくことも考えられる。
※美醜の価値観は人文科学の観点で後天性が強いが、自然科学の観点で遺伝に基づく先天性も言える。しかし、ここでは現世の認識・経験といった因縁=現世における後天性の側面を強調する。美醜もとい外見情報に関する先天的知識・経験が遺伝性であっても、結局は数千年~数百年単位で人間文明に生きた者たちの経験が、遺伝情報として遺伝子にインプットされたに過ぎないと思われる。色々な例を挙げてみたいが、煩瑣なので記さず。

ひとまず、私の絵によって、現代日本の二次元における美的センスは、三次元という名の実在人物の外見に基づく場合が有ることを感じ取ってほしい。
無論、一般の美的センスとかけ離れている人に、どれほど同じ理論が適用できるかは、未知数である。
その他にも、さまざまな可愛いことと可愛くないこと・美醜を決める要素(冒頭にいう人外アニメなど)はあろうが、それもみな各人の現世の経験(視覚的情報に対する臭いの有無や快感と不快感など様々な情報の結びつけ)のうちである。各々が過去の記憶・経験といった因縁や、それに対比して現在の想念を観察できると、自ずと答えが出るはずなので、是非とも当記事の所説を理解されたい。
 二次三次相対互換理論(絶対的な相似と相対的な相似を区別しつつ相似性を考察する)および内証の理(現世生来の因縁を観る)



後年の追記②
絵画のような美術も、小説のような文芸も、これらは主観性が表された分野であるが、そこに視覚的客観性や言語的客観性を設けて分析するものが、人文科学である。
例えば、中世であれ上代であれ和歌に何らかの細かい文章表現=品詞(完了形の助動詞だとか過去形の助動詞だとか現代日本人には直ちに理解しづらい区別)がある・枕詞がある・修辞法があるといって共通の意味を見出すことがあるが、それらの和歌の細かい文章表現も、その時代のその個人の言語知識や読んだ時の感情などが表された結果であろう。
※人文科学では、様々な考察対象の事物(人間が作った文物)における主観性と客観性がはっきりと区別されないまま、考察を行うこともあるように思われる。学者自身がそれにとらわれたままであると問題だが、単純に人々の「主観性」とされるものにまた客観的な性質があることを解明する作業は、現代だと認知科学の系統がそれを担っている。当記事の論調は認知科学に近かった。

当記事の話題にある二次元の絵・イラストということについては、その主観性と客観性とが相互に関与する・相関性のあるものとして分析できる。
それが二次三次相対互換理論の提唱であるが、現状はその証明が十分に行われていない。
当記事では、証明のための私の考え方の例示として、「相対性という概念は、数値化すれば分かりやすい。」と記して「三次元(=そう認識された実在人物・写真・イラスト類)におけるデカ目度・二次元(=そう認識された絵・CG類)におけるデカ目度」を説明した。

これは、まだ直感的な・簡潔な説明がされたに過ぎず、実際にはより詳細な分析による証明方法が想定できる。
例えば、一般的に「顔が美しいor醜い」と価値判断される「三次元人物の写真・二次元人物の絵」を任意の枚数で用意し、それら客体の数値・理論値をX軸・Y軸の二次元(2D; 2 dimensions)で示す。
これは、主に正面向きのもの同士である必要がある。
それら客体を数値・理論値で比較すればよい。
更には、BlenderとかMMDとかの3D系コンピューターグラフィックス(3 dimensions, 3D Computer graphics)のソフトウェアで「その美しいか醜いかと価値判断される同一人物」のモデルを用意し(modeling)、正面向き・斜め・横顔などの多角的な分析を行い、それら客体を数値・理論値で比較すればよい。

これらには、数学や理工分野だとかの知見が必要になるので、私自身(および後世の読者ら)に対する「課題・宿題」ということになる。
二次三次相対互換理論についても、世間の学問における様々な理論・仮説と同様に、多くの証明や反証ができることになる。
それらは基本的に客観性・即物的な立場での解明であり、その後に一般的な五感を有する人間が、これらを認識・認知するプロセス(何かを遠くから見た時・近くで見た時の視覚的な差異や印象の変化など)という主観性に接近してゆく。
この場合は、臨床的な手法や心理学的な知識も関与する場合がある。
二次三次相対互換理論が、より明確なものとして示されると思われる。

↑の内容を書いた数日後に「人体比率」ということに関して西洋美術史の中でも数値・理論値云々と似たような過程があったことについて知った。有名な「レオナルドダヴィンチの全裸男性の図」とかも関係する(先行研究の確認ということでここにそれを記す)。

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